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タイトルタイトル: 「飢えと熱病で戦病死者続々」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 西部ニューギニア 見捨てられた戦場 ~千葉県・佐倉歩兵第221連隊~
名前名前: 宮嵜 喜重さん(千葉県佐倉・歩兵第221連隊 戦地戦地: ニューギニア(ソロン、マノクワリ)  収録年月日収録年月日: 2007年6月24日

チャプター

[1]1 チャプター1 消えた満期除隊  05:02
[2]2 チャプター2 潜水艦の魚雷攻撃で沈む輸送船  02:56
[3]3 チャプター3 上陸直後 現れた米軍機  03:47
[4]4 チャプター4 すぐになくなった食糧  03:21
[5]5 チャプター5 拾った木の実で中毒死  05:35
[6]6 チャプター6 食糧不足とマラリア  05:11
[7]7 チャプター7 小指一本の遺骨  03:41
[8]8 チャプター8 逃げられなかった使役作業  02:44
[9]9 チャプター9 兵士を自決に追い込んだ食糧盗難事件  06:35
[10]10 チャプター10 終戦  07:12

チャプター

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3月に集合したんですから。2月にね、19年の2月に、初年兵教育を、わたし、やっておって。それで初年兵がねえ、入営する時に、いろんな私物っていうか、セーターを持ってたとか。それから靴下の、ね、変わったのをはいていたとか。そういう物がみんな持ってたんです。それを、そのね、「全部家へ送れ」と。それで、「これからどこへ行くかわからないけど移動があるんだから、髪の毛とかね、それから爪をはぎとって中へ入れて、万が一死んだ時にはね、それが自分のあれとして親に言っとけ」と。それで2月、だいたいね、わかってきたんですよね。

それで、2月はまだ、北支、北支じゃ寒かったからね。衣服がね、着る物が、洋服が夏服が渡ったんですよ。それで今まで持ってた冬服は脱いでね、洗濯して返還しろ、と。で、だから「南方へ行くんだなあ」っていうのはわかったんですよね。

まあわたしたちはもう4年兵だったからね、4年兵で、8月ごろになればね、満期。今までの先輩のあれを見ると8月ごろ満期してるんですよ。だから「満期で南方へ行くんじゃあ、帰れねえぜ」っていうわけ。

それでまあ、もう4年兵はずるいからね。なんか、219連隊と220連隊がね、みんな芝浦に寄って向こうへ行ったっていうんでね。じゃあ、うちの連隊もたぶん芝浦へ寄ってね、それで行くんだろうっていうあれでねえ。青島に集合した時にいろいろ、ヒソヒソね、同年兵同士で話したんですよ。それでしょうゆをねえ、こういう、いっぱいに飲むとね、熱が出るんですよ。だからずるい考えをしてね、「芝浦へ着いたらしょうゆを飲もう」と。「そうすれば熱が出て向こうへ行かないで済むよ」っていうあれでね。だから芝浦まで行ったらそういうことをしようっていうんで。だけど実際にねえ、青島へ集合して、青島で輸送船に乗れないで、釜山まで鉄道で行って釜山から乗ったんですからね。それで4月の16日はねえ、ちょうど釜山でね、桜が満開だった。だから「桜が満開じゃあ、もう生きて帰れないよ」っつったのよ、ね。だから「桜に送られるんじゃ、だめだでえ」って言って。で、朝になってみたら海が泥色してるんですよ。黄河から出た水がね、もう。だから、あそこ、黄海っていうんですよね。だから、「おい、だめだよ、もう。芝浦へ行かないよ、これは。黄海だから」っつってるうちに、揚子江沖、台湾沖を出てね。

で、その辺から、もうねえ、夜、昼間から夜から爆雷がボカンボカンやってんのよ。「何だろう、あれは?」っていうのを。まだ経験がないからね。そしたら、それ、爆雷なんですって。海軍が爆雷を投下して潜水艦を追っ払っているっていうんですよ。そうするとねえ、輸送船のあれは壁が薄いからね。ベェーンベェーンと。こう、ね、響いてくるよ。そして、6、3月、4月の16日に釜山を出港してね。25~26日のころだろうかね。一緒に行った輸送船が、夜、撃沈されて、火災を起こして燃えてるのを、わたしは見なかったんですけど、ほかのが見て。「大変だなあ」っていうようなあれで。27日にね、マニラへ入ったの。それで29日の天長節をマニラでやって、それからすぐ出港して。

それで、海軍の舟艇(しゅうてい)、何隻だったか、ずいぶんいたんですよ。で、すっかり守られて行ったんだけど、セルベス海へ行った時には、うちのあれ、輸送船は、あれは陽山丸だったかねえ、たぶん。それが先頭でね、いちばんのろいんだそうですよ。だからせいぜい8ノットから10、うんと飛ばしても10ノットなんだっていうから。それで行ったところが、なんかねえ、見張りが「魚雷が来るよ」っていうあれで。で、すぐ船のあれがカーブを切ったんだそうです。そしたらうちの、最初の船に当たるべき弾がそれて、隣の、ね、2大隊の乗ってる船に当たったんですよね。だからあそこで3隻、1隻は轟沈(ごうちん)、2隻、3隻目はね、徐々に沈んでいくのは見えたんですけど。2隻も、そんなにね、何分とあれがないように沈んでいったんですよね。

どんなとこでもいいから早く陸にあがりたいっていうね。もうわれわれは本当にカナヅチですからね。誰ひとり陸軍は、もう泳げて、ねえ、いるっていう人はまず少ないからね。

だから、もうこれは、海岸線をなるたけ通るようにして行くんだけど、ジャングルが見えるでしょ。だからどこでもいいからあがりたいと思ってたらソロンまで行ってね。それでソロンでおりて、荷物を、半分以上降ろしたんじゃろうかなあ? なんでも輸送船が帰るときは、もう輸送船もまたやられたっていう話は聞いたんですけどね。なにしろ糧まつがなかったからねえ。で、わたしたちはソロンからマノクワリまで海軍の舟艇に乗せられてね。

それで、携帯食糧は4日分なんですよね。それを持って上陸して。上陸した日がねえ、大空襲だったんですよねえ。その時に、途中で魚雷艇に乗せてもらったんだけど、飛行機に爆撃されて。飛行機に、こう、積んであるボートが飛ばされてね。かろうじてマノクワリに着いたっていうような状態ですよね。本当なら暗いうちにマノクワリに着くのが、夜、じゃない、昼間の、7時ごろっていうと、6時に明るくなるから、それで1時間遅くって。駆け足でねえ、なんか、ニューギニアのジャングルのほうへね、駆けて行った覚えがあるんですよね。それで背嚢(はいのう)なんかはね、上陸した地点に置いといてね。で、1個分隊ですか、監視に残して。あとの者はねえ、もう銃と、背嚢なしですからね、それで山へ隠れたっていうか。

そして山へ着いて、ものすごく、時間はたたないにね、飛行機が、こう来たのよ。だからね、友軍の飛行機も来るっていう話があったからね、友軍の飛行機かなあと思っていたら、なんかねえ、胴体が2つで、「違う!違う!」っていう。それで高射砲部隊が一斉に撃ったんだけど。なんか次の日の回報では何機大破したとかっていったけど、見てたところでは、大破したっていうのは、ね、なかったよね。

何しろ、それで食べる物はねえ、5月、6月かな? 6月、7月、8月になったら、もう食べるもんがねえ、少なくなってきたんですかね。で、9、10、11、12と。で、9月になって、もうこれじゃだめだっていうんで、農耕しろっていうようなあれでね。中隊によっては早く始めた中隊もあったけどね。うちのあれは3大隊でまとめて農耕をしようっていうんで、3大隊。大隊長が先、先頭へ立って、北岸のねえ、アサヘン岬っていう所へね、大隊の農場をつくったんだ。

それでわたしたちが行ってそれをやるんだけど、何しろ、ほら、道具がたいしてないでしょう。で、円匙(えんぴ・シャベル)だって、ねえ、歩兵が持ってるこんな小っちゃいんじゃね、あれだし。だからノコギリもねえ、やっと見つけてきて。大きいのは、もう、木は枝を落として、その程度であれですよね。まあ南方の木だから、案外ね、根っこは張ってないんだけど、畑の中に根っこがいっぱいね。

で、つくって。サツマイモを植えて、だから11月分ごろにはね、食べられる予定だったんですよね。まだ少し早いけどね。ところが、まわり、ねえ、豚除けの垣をつくったんだけど、太いこんな木を、こう、切って、こう組み合わせて垣根をつくるんだけど。豚のほうが利口でね。垣根をつくればね、下はスースー通られるからさあ。鼻で、こう、掘ってね、中へ入って。サツマだけ食べちゃって葉っぱは残ってるでしょ。でも、それは兵隊にはわかんないんで。ゴウゴウ掘ってるからさぞかしあるだろうと思って、なんか大隊で掘り返してみたら、1反か2反のうちで、やっと、こう、30キロかそこいらしかとれなかったんじゃないですか? 

それで畑へ行って。ヤマモト中尉と、当番兵のクリバラと、曹長のニシオ曹長っていう、ね、方と、4人で、こう、休憩のときなんか集まってね。クリバラもわたしが、2年、3年兵の時に教えた兵隊なんですよ。だからクリバラと、ニシオ曹長は10中隊出身の曹長だったんですけど、ヤマモト中尉はみんな顔見知りだったからね。それで4人で、まあお茶を飲むわけじゃないんだけど、休憩時間に、で、クリバラが木の実を拾ってきてね。で、「こういうの、落こってたんだけど、拾ってきた」って言うからさ、「じゃあ、焼いてみようじゃないか」っつって焼いて食べたのが猛毒のやつなんですよね。で、それ自体は全然知らないから、食べたらおいしいですよ。だって葉っぱばかり食べてたもんだからね、どんなもんでもおいしいんですよね。

そして、それを食べていて、だから当番のクリバラがいちばん食べたと思うんだけど。なんか、ね、様子が。「気持ちが悪くなった」って言ってるし。ニシオ曹長もね、「なんかおかしいなあ。気持ちがおれも悪くなったよ」って言うんで、ヤマモト中尉が「じゃあ、宮嵜、ニシオ曹長と、先、帰れよ」と。それでわたしとふたりで、ニシオ曹長とふたりでだいたい中隊までは40分ぐらいかかる道のりを帰ったんですけど。こう、坂を上がる途中ね、「なんか気持ち悪いよ」っつって、言いながらへどっぱきした。それを、わたし、見てもね、見て、おれもなんかそこでへどっぱき始まっちゃってさ。ふたりでへどっぱきして、やっと、まあ、中隊へ帰ったんです。

それで「ヤマモト中尉殿はどうしたかなあ?」と思ってたら、夜の何時ごろだったろうねえ? たぶん6時に暗くなるんですから8時ごろだったでしょうね、担架で運ばれて。それもよその部隊から連れてこられて。で、あとはもう意識不明ですよ、ふたりがね。それでヤマモト中尉は、翌日か、翌日、2日目ぐらいから、なんか意識が戻ったんだけど、脳をおかされちゃって。あわてて、どうしようもないんでね、担架の上に寝かせたまんまね、担架に結わえつけてさ。暴れないようにしてね。それで担架からおろされないまま、担架の上で亡くなったと思いますよね。

それでクリバラは意識が戻って、まあ何とか歩けるようになってわたしたちのいる所へ来たんだけど。3日も4日も食わないんだからねえ。だからもう衰弱し切ってて。それで、あれなんですよね。その時にかなあ? 珍しく乾パンがね、1袋ずつ配給されたの。それでわたしはもらっていったし、ほかの者ももらってぽつぽつ食べてたら、クリバラはまだその時にね、意識があって。戻ってきたっつっても寝ていたんですよ。そしたら「クリバラん所へは、乾パンはどうしたんだ?」って言ったら、「だって食えねえよぉ、やつは。だからやんないよ」って。「そんなばかな話あるもんか!」って、「やれっ!」っつったんだけど。配ったあれがねえ、軍曹の、サイトウ軍曹っていう軍曹がね、配ってた。とうとうやらなくて。でねえ、わたしと、もうひとり、誰だったかなあ。で「少し分けてやれよ」っつって分けてやったんだけど。いく粒が食べたんだろうけど、そのまんまね、もうまただめになって、息、引き取っちゃったんですけどね。だから木の実の被害っていうのは、2人犠牲になっちゃったんですよね。

わたし、こう、思い出すんだけどね。何でみんながいなくなっちゃったのかわかんなかった。そんなばかな話っていうのはないんだけどね。わたしは初年兵や2年兵の体の弱い者を集めた班を行っていたもんだから、自分の分隊のほうまでは行ってなかったんですよ。場所が、兵舎が違ったって。

兵舎っつったってねえ、よくああいう所へ寝られるもんだっていう。こう、このくらいの木を切ってね、並べて。くぎがないからつるでこう結わえてね。それで、それじゃあ背中が痛くって寝られたもんじゃないですよ。だから草を取ってきてね、乾かして、草の上へ毛布を敷いて寝たんですけどね。だから、その当時、靴下をはいて、蚊に食われないように帽子を、こう、鉄帽の上からかぶれるね、蚊帳みたいなのがあったんです。それをねえ、みんなこうやって寝たんだけど、やっぱり蚊がいなくなると取っちゃうでしょ。それで蚊に食われるとマラリアになったから。

畑のサツマイモが食べられればいいんですけどねえ。で、みんな栄養失調になっちゃうでしょ。栄養失調になってねえ、蚊に刺されるとマラリアでしょ。そうするとねえ、マラリアが起きてね、もう2日か3日ですよ、もう、ね、生きてんのが。だから食料があってね、食べていられれば体力があるからね、マラリアだって怖くないんですよ。 
  
それでわたしが、こう、保護班に行ってたときに、そこの班長でやってたときに非常演習っていうのがあったんですよ。で、わたしに付いた少年兵が、「班長殿、携帯食糧、食べていいですか?」って言うからね、「いや、携帯食糧は、万が一のときに命令があれば食べられるけどね、食べられないんだ。だめだよ」っつったんだけど。「はい」って言って、食べずにねえ、それで死んじゃったでしょ。

だから考えてみればねえ、どうして食べさせてやれなかったのかなあと思うとね、本当にかわいそうですよ。本当に。自分の教えた兵隊がねえ、きょうも、あすを待てずに死んでいく。死んで。かわいそうで。本当にねえ、食料がないってものは、つくづくね、こんなもんかと思いましたよ。

食べたい食料も食べられないでねえ。葉っぱや草々を取ったり。「バナナやパパイヤがあるだろう」って言われたけど、そんなのはね、ないんですよ。みんなちょっと大きくなるととっちゃってね。だからだいたい、11中隊でソロンに残っていた者もおったから、120~130人、150人ぐらいいたでしょうけどね。で、その1割、15~16人しかね、生きて帰れなかったんだから。食料っていうのは、実にね、食べ物は大変ですよ。

そうすると、中隊で死んだ人はね、中隊でどっか埋葬しなきゃなんないでしょう。そうするとね、こう、穴を掘りにね、せいぜい30センチか40センチで。さんご礁ですから、下はね、掘れないのよ。で、やっと1日がかりで掘って、1人埋けて2人埋けてっていうと大変だから、掘れるったけ掘ってね、順番に、こう、ね、毛布へ包んで埋葬したんですよ。

それではじめのうちは誰々の墓と書いてね、木を削って書いて。塔婆(とうば)をたててたんだけど、しまいはそんなことしちゃいけないっていうんでね。だからはじめのうちに亡くなった者はみんな、火葬しましたよ。そのうち火葬ができなくなったから、腕をねえ、肩から取ってね。それで、こう、包帯でこう巻いてね、これだけ焼いたんです。それが今度はできなくなったから、ここまでから外して焼いて。それもできなくなったんで、小指だけね、焼くようになったんで。だからはじめのうちのお骨はたくさんありましたけど、しまいは小指1本ですからね。だってそうしないじゃね、木も、ほら、だから腕だとかなんかやるには大変でしょ。小指1本ならねえ、その辺の枯れた枝を取ってきてもね、すぐ焼けますからね。

それではじめのうちはねえ、大きい遺骨の箱を作ったんだけど、だんだんだんだん小っちゃくなってね。で、遺骨の箱を作ると、どういうわけだかねえ、そのやつが死んじゃうのよね。だから遺骨の箱を作るのは、いやなね、仕事だったですよ。

だからわたしが栄養失調になって、あの時はきっと目方がねえ、60キロの上はあったと思うんですよ、水分でね。それでその水分がとれてたっていうのはねえ、同年兵のスズキっていう伍長がね、エビをとってきてね。それで飯ごうへ半分ぐらい。それとヤシの実の水を飲んだのが効いたんでしょうけど。それで水分がとれて。で、水分がとれてみたら、本当にねえ、もうがいこつですよね。がいこつにちょっと皮がついてるような、みんな、かっこうですよ。

いえ、そのはじめのうちはね、もういつ上陸してくるかっていうことは言われていたしね。それで上陸してね、1か月、2か月というのはほとんど、どの方面から来るかがね。そこへ爆雷を仕掛けたとか、それから塹壕(ざんごう)をつくったとかね、そういうことが多かったですよね。それでそれを過ぎると、今度は作戦道っていうんですか。自動車でぐっと行けるような広い道路をね、つくったのがまた、これがいちばんうちの連隊が死んだ原因のひとつですよね。
 
サツマイモ1本か2本の昼食でいって。ほかの部隊もきっといくらか手伝ったんだと思うんですけど。わたしは行かなかったからね、はっきりわからないんだけど。さんご礁を砕いて、結局じゃりの代わりにするんですよね。それをだいたい5メーターか6メーターぐらいの道路でね、ずっとつくったんだから。だからみんなその道路をつくるあれで特別にさ、糧まつでも出してくれてね、あれならどうかしんないけど、そうじゃないからね。何でもうちの連隊長の上官が支隊長で来たんで、連隊長が支隊長に対してどう、とかやってくれないか、ということは言えなかったっていうようなのちょっと聞いたけどね。だからその作戦道を作るのが結局、221連隊の兵隊の消耗につながったんですよね。

実際に、自分たちだけ兵隊だけ食べられないんじゃない。一緒になって中隊長もね、上の大隊長も食べられないんだから、もうあきらめるしかないですよね。だから友軍の輸送船が来るっていう話は聞いても、実際に来ないんだら。だから海軍さんはいいな。潜水艦で運ぶんだっていうって。

だから海軍さんの農場へ行くとね、サツマイモなんかはね、本当に、「もっと持っていきな」って言うぐらいでもってもらったものですよ。だけど海軍さんの農場もね、まわりに鉄条網を敷いてね、有刺鉄線っていうの、電流は流れないんだけど、立札でね、「やたらに農場内に入れば、ブタとみなして撃ち殺すことがあるから気をつけてください」と書いてあるのよね。だからやたらに中へ入れるわけにもいかないしね。

だからわたしたちがね、よその部隊でサツマイモを早くから作っていたから、われわれっていうのは食べられないときにも食べていたでしょう。そうするとね、どうかして向こうのほら、兵舎っていったって仮のね、あれだから。ちょっとサツマイモまずいとほうり出すのよ。だからそれをね、拾いたいんだけど。みんなが行って端に寄せておいてね、けとばして寄せておいて、それで知らないときに戻って、拾って食べる。そういうようなね、あわれな食べ方もあったんですよね。

わたしのね、19隊のわたしの分隊の兵隊が不寝番のときにね、分隊の兵隊が大隊本部の炊事場へ行って、給与係曹長のね、あれをナイフでいくらか切ったんでしょうね。刺して殺すってまでにはいかなかったけどね。それで次の日にわかって、うちの分隊の兵隊はにわか作りのね、営倉に入れられたんですよ。営倉っていってもね、床がだいたい1メートル以上高い床だから、その下へこう丸太で囲って中へ入れられたっていうのがあったんですけどね。わたしはだからさっきも言ったけど、保護班のほうへわたしが行って、そっちの班長やっていたからわたしは免れたけど。不寝番した連中7~8人がね、営倉に入れられて。だけど大隊内のことだから、それはうやむやにしてもらったんですよね。

それで11中隊、12中隊がね、1個分隊でね、高射砲隊がみんな幕舎の中にね、食糧を囲っておくものだから、その不寝番がいるわけですよね。それで不寝番をね、何か毛布か何かでかぶせてしばっちゃってね、どこかへつるして連れていって置いたんだろうね。それで中の米とか乾パンとかをかっぱらってきて。それでまぁ、かっぱらってきたものだから、その晩に白米を食べて。で、きれいに飯ごうでも洗っておけば足がつかなかったんだけど。次の日、早速ほら、憲兵隊が、本当の憲兵隊だけでは人数がいないけど、各中隊からね、1名なり2名なりの補助憲兵っていうんですか、あれ。あれが行っていたものだから、そんなのがみんな歩いて、おかしいなっていうところを探したんですって。そうした12部隊でないはずのごはんの白米のね、あれが飯ごうが、食べたあとがあるっていうんで。まぁ、川越の向こうのね、われわれの同年兵のやっぱり優秀な伍長だったんだけど。と、その次の兵長とふたりがひっぱられて、調べられていて。コミネが先に調べられたんでしょうね。それで休けいとって片方が調べられるときに、「ああ、わかっちゃったな」っていうんで、帯剣で自決しちゃったんですよね。

 だからそれは全員がね、1個分隊だから10人ぐらい全員が逮捕されて、憲兵隊でみんな懲役の刑を受けて。だけどほら、そんなような状態で一般の兵舎がないんだから、あれですよね。刑はそうであっても、まぁ、憲兵隊の隅に入れられたりいたんでしょうよ。だからみんな亡くなっちゃってね、帰ってきたやつはひとりもいないんだそうです。

あの時はね、本当にまぁ、たいていの人がもう黙っちゃってね。本当にもう終わったっていうのはうれしいんだけど、ねえ。帰れるんだか帰れねえんだかわかんないし。おそらくオーストラリアの豪州へ連れていかれて、あそこで何年か働かされると思っておったんですよ。そしたら、何かね、あとで聞いた話だけど、ニューギニアのマノクワリの状況が非常に悪くって、今もって終戦後も死ぬ人が多いと。だから早くあそこを引き揚げてやらないと、なお死んじゃう、っていうような話で何か早まったというような話を聞きましたよ。

で、21年の5月の27日に名古屋へ着いたんですからね。まぁ、行くときには1か月もかかって行ったのが、1週間ぐらいでね、帰ってこられたから。

まぁ、生きて帰るっていうんだからね、うれしい反面に親しい友達が帰れないんだもの。自分でまあ、教えたっていえば教えたんだろうけど。そういう一緒に暮らした者がね、何人もいないんだもの。行くときには、「まぁまぁ、肩が弱い」とか何とかって「我慢しているんだよ」って言ってて。いざ、帰ってくるときには、その10分の1でしょう。だからね、何ていっても。ただ、うちで慰霊団に行くのを3度もやると、「ばかみたいだ」って子どもに言われたけどね。だけど、何回でも行って弔ってやりたいよ。遺骨は帰ってこないんだもの。本当にね、仲のいい友達がみんな死んじゃって。本当にね。

だから今だって靖国神社に何かあればね、もうみんな集まって。まぁ、今年も来月の16日だけど、10時までに必ず行こうと思っていますよ。まぁ、仲のいい悪いはともかくね、自分の教えた兵隊がみんな行ったでしょう。それで帰ってきているっていうのは何人もいなかったからね。

一応玉砕になっているから、弾の下で戦死したんだと思うけど。食う物がなくなって死ぬ姿、あわれですよ。言うに言われない。本当にね、「ごはんいっぱい食べたら死にたい」って言ったんだから。みんなそのことばあるんですよ。だからどのくらいね、つらいか。若い兵隊から死んでいったからね。まぁ、われわれはいちばん年寄りの兵隊だったから、まだ知り合いも多いし。どこへ行っても4年兵だ、5年兵だっていうような気持ちでおったから、助かってきたんだろうけど。初年兵、2年兵はね、よその部隊へ行ったって、「何しに来たんだ」っていうと、もうおじけちまうようなあれでしょう。だから、かわいそうだったよね。

まぁ、いまで思えば本当にかわいそうだよね。20歳、21、22ぐらいの子どもがみんな死んじゃったんだからね。まぁ、わたしは涙っぽいからよけい涙が出るのかしんないけど。自分で一緒になってね、教育して、立派な兵隊になって、それで戦死したっていうんならまだね、わたしは喜べるけど。食い物がなくなってね、のたれ死にしたんだって言ったんじゃね、そこの家へ行って言えないもん。幾人か友達の家へね、行ったんだけど。「どこそこで爆撃で直撃弾で死んじゃったんですよ」って言う以外にないもんね。

だから、兵隊、何のために行ったんだろう、と親たちは思うでしょう。情けない戦争なのかもしれないけどね。

出来事の背景出来事の背景

【西部ニューギニア 見捨てられた戦場 ~千葉県・佐倉歩兵第221連隊~】

出来事の背景 写真昭和18年(1943年)、9月、日本は戦況の悪化にともない、絶対国防圏を設定し、西部ニューギニアがその要衝の一角に組み込まれた。重要な飛行場を有するビアク島防衛のため、第35師団歩兵第221連隊が派遣された。しかし、米軍に阻まれ、昭和19年5月、主力は西部ニューギニアのマノクワリに、その他の部隊はソロンに上陸した。その後、ビアク島に上陸した一部の部隊は米軍の攻撃で全滅した。マノクワリとソロンに上陸した部隊は、その後、上級司令部の指揮命令系統の崩壊によって、高温多湿と泥濘のジャングルを長距離にわたって行軍させられ、補給もないまま、飢えと病で多くの兵士が倒れていった。

また、ゲリラとなった現地住民の襲撃にも苦しめられた。

昭和20年1月になると、主戦場はフィリピンに移り、見捨てられた221連隊は、ジャングルに孤立させられた。ときには日本軍同士で食料を奪い合う事態も発生。加えて、マラリアが兵士たちの命を奪った。終戦後、現地で10か月にわたり自給自足の生活を余儀なくされ、連合軍の監視下、日本に生還できた兵士は3300人、わずか1割にすぎなかった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1920年
埼玉県入間郡名細村に生まれる
1940年
現役兵として歩兵第221連隊に入隊
1944年
西部ニューギニアの作戦に参加
1945年
西部ニューギニア・マノクワリで終戦を迎える
1946年
名古屋にて復員。復員後は自動車部品卸売業を営む

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ニューギニア(ソロン、マノクワリ)

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