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タイトルタイトル: 「兵士の鼻と口に湧いたウジ」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 西部ニューギニア 見捨てられた戦場 ~千葉県・佐倉歩兵第221連隊~
名前名前: 白石 忠さん(千葉県佐倉・歩兵第221連隊 戦地戦地: ニューギニア (ソロン、マノクワリ)  収録年月日収録年月日: 2007年7月19日

チャプター

[1]1 チャプター1 18歳で志願兵に  01:35
[2]2 チャプター2 中国戦線から南方へ  01:11
[3]3 チャプター3 海が燃えている  02:01
[4]4 チャプター4 海に投げ出される  02:28
[5]5 チャプター5 目的地はビアク島  03:09
[6]6 チャプター6 空襲    03:15
[7]7 チャプター7 重装備の行軍 動くものなら何でも食べた  03:35
[8]8 チャプター8 手がかりは「海岸線」  03:28
[9]9 チャプター9 自活  03:23
[10]10 チャプター10 奪い合った食料  02:44
[11]11 チャプター11 自決に追い込まれた兵士  03:45
[12]12 チャプター12 生きては帰れぬ「野戦病院」  02:24
[13]13 チャプター13 もはや弔う体力も残っていない  03:16
[14]14 チャプター14 目の前で消えゆく命のともし火  02:25
[15]15 チャプター15 死ぬまで酷使され続ける兵士たち  01:12
[16]16 チャプター16 見えてきた「戦況の悪化」  01:58
[17]17 チャプター17 2カ月遅れで知った終戦  02:09
[18]18 チャプター18 あの戦争は何だったのか  02:52

チャプター

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わたしはですね、戦争がたけなわになってきたときには、伯父さんが職業軍人だったんですよ、わたしの伯父さんがね。それで、わたしは六男なもんですから、「お前もうちにいてもあれだから、とにかく今大変なんだから軍隊へ行け」と言われてね、それで、その時に志願したんですね。
              
戦争中ですから、自分としてもね、これは国のために、みんなそのころの教育というものが全部、どうっていう、何ていうかね、まぁ国民全部がもう軍の仕事、それから戦争ということに対しても一致団結していたころですから、その軍に反対するなんていうことは非国民でね、そういうことで、軍隊へ行くのが当たり前のときだったんですね。ですからもう、何の、何ていうか、違和感もなく、伯父さんに言われて、言われてばかりじゃなく、自分の心からもね、「よし行ってやるぞ」という気持ちでまぁ出てきましたね。

南方に行くって、別に南方に行くっていうを知ったのがね、だいたい船に乗って、軍じゃ言いませんからね。どこ行くっていうことは絶対言わない。

ですから船で乗って、釜山から船に乗ったから、「あっ、これは内地、これはある程度、帰れるのかな、立ち寄るのかな」と思ったぐらいですから。それで、「あれ? 内地おかしいなぁ、だんだんあったかくなったなぁ」って。そうしたらば、「何か、いくらかあったかいぜ、内地じゃないぞ」というようなわけでね、南方へ行くなんてそういう話は一切極秘。全然誰も、そういう話はなかった。

えぇ、マニラに着いた時はね、大体台湾海峡ですか。あすこで夜中に船がボカチンくって、わたしは海が燃えるっていうのを初めて見たっていうかね。海が燃えるなんて本当にもう、結局、船から油が出て、それに火がついたよね。それが夜中だったからよけいすごく見えたんだろうと思う。

それで、そこからマニラに入って、マニラではだいたい船からね町へ出られない。ただ船から降りてシャワーね。船じゃできないから、船からおりて、何て言いますかね、防波堤に竹筒みたいなのを長くやって、それに穴開けてこう、シャワーみたいに上からザーッとそれをみんな並んで、こうシャワーしたって、そういう記憶がありますけどね。まあ、何人かはそれは町へ出た人もおるだろうけども、だいたいの99パーセントは全部外へ出さない。そこで、いっときちょっと何て言いますか、休んだっていうぐらいですよね。それがわたしが覚えているのは、ちょうどね4月29日の天長節だったからね、みんな記憶に残っているんですよね。

どこへ向かうか兵隊はわからないって。着いて初めてわかるんですから。それで、マニラを出航して、そうですね、向こう島々をね、それはきれいなもんですよ、南の島のね島の間をこう船団組んで行くんで、そのまだ敵に狙われていない時はね、はあもう、本当にきれいだったです、島々。

そうしているうちに、セレベス海を出て、昼間ちょうど、わたしは皆さんどう思っているか知んないけど、昼前後だと思ったんですけど、そのころ。「右舷30度敵潜水艦あらわるる」って艦内放送をやったんですよ。それで、「あっこれは」と思っていたら、ほかのね亜丁丸や、何かがみんな魚雷をくって。船は速いやつはもう数分間、まぁ2~3分のうちにもう走っていたやつがね、パーッとしゃちほこ立ちっていうかね、あんなふうになったと思ったら、バーッと入っていっちゃう。そういうのをそういうのと、それから今度、魚雷を食って、浮いているんですよ。前も後ろも行かない。ただプカップカップカッて浮いているんです。 そうすると、そこから兵隊がみんな雨のようにこうやって飛びおりるわけですよ。海に。要するに退艦の命、ね、号令の下に「退艦」ってそれで、みんな雨の、それでわたしら陽山丸から見ていると、船からみんなこう降りている。それが一大隊に乗っていた船がやられて、こうなんね、降りてってもわたしは陽山丸に遠くからね、見ていたわけじゃないけど、見えるけどね。それで陽山丸自体はもう、敵の潜水艦をくぐって、こうね、こういうふうに逃げに、何ていうか、かじを取りながら、こうしてハルマヘラ、ワシレ(ニューギニアの西にあるハルマヘラ島ワシレ湾)に入っていったんですね。

これはもうビアクに何としても早く。大隊長が行っているんですからもう。ですからビアクにもう何ていうのかね、一刻も早く行くということで行動を取ったわけですね。

Q:具体的にはどういうような?

今度具体的にはね、ソロンで、ソロンでね、武器弾薬をある程度の船が調達できたので。だいたい船の大きさとすれば、そうね500トンぐらいの船だったですかね。500トンたぶんそうだと思うんだな。わたしはどうも船ことよくわかんないけど、感じとしてね、わたしの感じとしてだいたい500 ~600トンの船に武器弾薬を積んで。それでソロンを出航して、わたしは、それからコール、コールに2日くらいかかってコールへ行った記憶をしているんですね。途中で入りながらね。それでコールへ行って、いったんコールの湾に入って。それでそれから日が暮れて。夜じゃないと行動できないですもんこのね。ですからまた日が暮れたら出航しようと思ったら、昼間のうちに爆撃にやられて、その船はもうおしゃかになっちゃったんですね。
ですからもう、武器弾薬はその場でもう、第2大隊の武器弾薬は全部おしまいになっちゃった。

Q:当時っていうのは、今もおっしゃったように夜じゃないと行動できない?

行動できない、昼間。

Q:敵の攻撃があるから?

そうですね。要するにね、昼間ですね、攻撃って飛行機が来るんですよね。ロッキードっていってね、双発双胴のロッキードだと思ったな。双発双胴のと、あと、グラマンか。あとはそれは2つじゃないけど、その飛行機がまず必ず1日に1回や2回は来るんですよ。ですから、昼間全然行動が、もうその時分から行動ができなくなったんです。それはなぜかというと、もう敵さんがビアクにもう入ったのがおそらく5月ごろじゃなかったと思うんですね。あとでわかったことだけど、するとそのころ、そこからもどんどん来たもんですから、もう昼間は全然行動の予定は立たないです。全部夜間。

それで、あぁもう時間だからじゃ何か食べなくちゃって、その時が船にいくら多少のものがあるから、背のうに入れ詰めるだけのを詰めておりていますから。そこで、携帯燃料に火を点けてね、飯ごうで飯を炊き始まったときに、アメリカの飛行機が3機編隊で飛んで来たんですよ。それでわたしのほうの頭の上へ通り過ぎていったから、「あっ、これは見つからなかったな」と思ったら、どっこい。わずか何分もたたないうち、その飛行機が帰ってきたと思ったら、ここ、ここがわたしらがいるところだとすると、3機ですから、1機がもうここ船に目がけてダッダダッダダッバーンってやっていくわけですね。それで片ほうがこう、あがろうとしている時はもう次が来ているわけです。それでいちばん最初のやつは今度後ろへ回ると、その前のやつが降りて。ですから、寸断なく3機で繰り返し繰り返し回るようにしていくの。攻撃されたんです船が。それで船もめっちゃくちゃやられちゃって。そのほか、まわりにねこの船があるということは近くに日本兵がいるぞと向こうは思うから、まわりのジャングルに徹底的に爆弾落っことしていった。

だけどわたしはあっ、それがわかったから、最初は300メートルぐらい先だったけど、それから全部、全部散れっていうんで、そこからまたその先みんな四方八方にそっから散ったんですね。逃れたんです。いたところはみんなもう爆弾でやられちゃって。いちばん大きな爆弾の破片はね、わたしが見たのはね、何て言いますかね、日本刀みたいにあれ、日本刀はスラッとなっているけど、ギザギザギザってこんなんなっている、こんな長いのがあったんですよ。だいたいこんな10センチぐらいの全然7~8センチの破片がここのところ通ったら、首飛ぶって言われているぐらいのその爆弾ね、それがこんな破片があるんですからあんなのやったら、象だって死んじゃうですよ。それほどね、もちろんその落とされたバナナ畑全部飛んじゃって。あと大きな枝なんかみんなまわり、みんな落とされてね。人間の隠れる場所がないほど爆弾を落とされた、船のまわり。それから、そこを、「ここにいたんじゃだめだから」とそこから始まったのが初めて陸行になったわけです。陸行っていうのは歩くことですね。                      

Q:その時はでも、ビアクというかマノクワリ方面に行くっていうことしかなかった?

そうですね。

Q:戻ってくる?

もうもうもう、戻る考えなんぞさらさらない。

Q:ただ当然、船もやられたんで食糧とかも少なく。

もう少ないんじゃない。ないんです。ゼロ。

Q:その陸行はずいぶん大変な?

これはね、これはもうみんなね、食い物持たずにね10日も20日も歩けって。それもね、鉄砲持って背のう背負ってですよ。ものも食わずに歩けっていったら歩けないでしょう? 何やったかっていうと、みんなそれこそ、カエルでもヘビでもね、とにかく動くものはみんなとっつかまえて食べたですよね。それから食べられるような野菜ね、野菜っていうことはない。何ていうんだ、雑草だね。ちょっとちぎって、かんでみる、じかに。ピチッとくるやつはだめだと。そしてね、何ていいますかね、それからあとわかっているものね。バナナのしんだとかね、バナナじゃないですよ。バナナの切り倒して中のしんとかね。あとやし。やしもあれも切り倒してね。やしのしん。もちろん何ていいますかね、小さなやつはおいしかったですよ。うーん。結構ね。何にもないからおいしかった。今じゃもうとてもね、おいしいとは思わないだろうけれどもね。そういう物を全部とにかく食べられそうな物は何でも食べました。

歩くんだってね、天気の良い日ばかりあるわけじゃないんですよね。雨の日もあればね、ほんななんても、そんな時に。こっちゃ若いもんだからいちばん先頭になってやらきゃね、どうしたってだめでしょう? だからいちばん若いから、もう雨が降ってくればすぐに全部天幕集めて、幕舎張ってね。それで雨をしのぎ。また雨がやんだらすぐ陸行となれば、またそれを全部5枚なら5枚を張った天幕をみんな分散してまたみんなに分けてね。みんな1枚1枚持ってそれがもう、こっちゃいちばん若いもんだからもう、常にもうやらせ、やらされるっていっちゃなんだけどもね。当然やらなくちゃならないんだけど。そうしながら、毎日来る日も来る日ももう、わたしはですから、今でも見せるけれども、わたしは毛が生えてないんですこういうところね。毛が生えていない、ほら。

これなぜかっていうとね、昔は巻き脚絆(まききゃはん)ってあった。ゲートルっていったんやね。軍靴を履いてゲートル巻いて。それでこう、雨の日、風の、天気もとにかく靴履いたまま、川を渡河せるわけだ。浅い所はね。それでそのまま、といて乾かしている暇なんてないんです。そんな。そのままどんどん行くから、足が腐っちゃうのね。足がこうして腐ってほら。熱帯かいようっていうのこれ。わたしはだからもう、それからわたし、はじめから毛がなかったわけじゃないんです。これ毛が生えなくなっちゃた。皮膚がやられちゃった。

地図もなければ、わたしは時計をソロンでもって落としちゃってね。なくしてしまうし。船でみんな沈められるでしょう。そんな地図など、わたしそれこそ学校にいる時にね、ニューギニアの島から、オーストラリアの北にある、ってその程度っきり知らなかったですもんね。

Q:その部隊にもなかった。

部隊にもない。

Q:じゃあもう、ただ海岸。

早い話がね、こういう考えなんですよ。東京から大阪へ行くのにどういうふうに行ったらいいのかと。

ソロンからマノクワリへ行くのにどういうふうに行けばいいか。海岸づたいに行けば必ずマノクワリに行くってこれはわかってる。そうでしょ。東京出て大阪へ行くのに海岸づたいに行けば、必ず大阪行くんですよ。途中何があろうと。

ですから東京出発して伊豆半島でもなんでもね、下田のほうまで行くわけですよ。ずーっと行って。今度紀伊半島だってね、熊野のほうまでこう、ぐーっとね、行ってこういうふうに。要するに海外づたいに行けばね、行けると。それ以外の情報は何もない。ですからね、直線距離にするとわたしら歩いた距離は、およそまあ、200キロぐらいだろうと思うんですけどね。本当に歩いた距離はどれまであるんだからはかりしれないです。こうやって海岸づたいに行くんですから。どんな小さな半島だって全部海岸通ったんですから。だから何日も何日もかかっても、わずか200キロのところでも。

隊長の姿見てね、何ていうのか。こじきかね、ほんとの浮浪者、今で言えば浮浪者みたいな形になってやっとたどり着いたっていうようなね。とても日本のね、軍人とは思えないようなかっこうだったってこと、みんな言ってますけどね。そりゃあそうですよね。洗濯するわけじゃないしね。破けたところ繕うわけでもなし。汚れたってなんだって着の身着のままで。ただし銃と剣、そのほか軍の支給されたものは一切捨てませんでした。

Q:マノクワリに着いてみると、もう第2大隊は、行っちゃった。

第2大隊は、わたしらが着いたときは、大隊長以下、全員、ビアクに出航したあとなんですね。

船がないことと。敵がビアクに上陸して、平定までは行かないだろうけども。ほとんど制空権・制海権、全部押さえてるもんですから。こっちから行くにも行きようがない。船がない。よしんば小さな船がどっか、海軍や何か隠してたんだろうけどね。そういう乗って出るような状態ではなかった。もう、ですから、大本営のほうでも見捨てたんですから。

もう、だいいち応援に行くも行かないも、とにかくもう、体はみんな衰弱しきって。今度はマノクワリに着いたって食べ物がないんですから。それこそほかの部隊はともかくとして、わたしらの部隊はあとから行った部隊ですから。ものを持ってかないんです、糧まつを。ですから食べものは必ず自分たちがそこを耕して。ですからいちばん最初やった事は、ジャングル切り開くことから始まった。ジャングルを切り開いて木を切って、根を取って、畑を作って、それからサツマイモいちばん最初植えてね。それで食べたんだけど。ですからそういうことをやってるうちに、4か月たたないと、少なくとも3か月半たたないとサツマイモができないんですよ。その間に人間がものを食わずにやるもんですから。そのほか、ほかの部隊、陣地構築にもやらなくちゃならない。それから道路つくりもやらなくちゃならない。食べものはない。ですから毎日毎日そこで死んでいってしまったんですよね。

Q:食べものって今の感覚でいうと、上の人っていうんですかね、何とかしてくれるんじゃないかと思うんですけど、そういうわけでもない。

なんとかっていったって、第一。おそらくね、多少はもろちん連隊本部やね、師団司令部のもとあったところですから、要するに糧まつ倉庫ってのあるんですから。そこにあってもそれは『最後の最後に』ってみんな思って。ですからそういうところ管轄して、持ってる糧まつ、部隊はいいですよ。自分が持ってんだからそれはこうやってね、水じゃないけど、さあ食べられるだろうけれども。ほかの部隊はそうでない。わたしらみたいな戦闘部隊の人は糧まつないんですから。糧まつ倉庫もなければ何もないんですからね。全然そういうのは譲ってくれるなんてことはないんだ。軍隊は。自分のところも海軍は海軍でがっと押さえてるし。陸軍は陸軍でその部隊部隊で押さえてるから。よそには回してくれるなんてしなかった。

ですから全部切り開いてサツマイモなり、わたしら作ったのはサツマイモだとかね、それからナスだとか、スイカなんかもどこから持ってきた種かしれないけど、あとになっての事だけれども、それからトウモロコシね。そういうのを。
それからこういう事もありましたよ。うちの中隊じゃあね、サツマイモも作ったんですよね。全部。ところがね、オイカワ隊ではね、トウモロコシ作ったの。それでこういうふうにね、分かれっていってね、半分からこっちはオイカワ隊の農場。半分からこっちはウメダ隊の農場っていうのがあったんです。わたしはウメダ隊ですから、ウメダ隊サツマイモを作った。そうしてね、今度はやっとできてきたんだ。そしたらね、どうもね、サツマイモがね、ツルがはびこってんだけど、ほじられたあとがあるんですよね。見ると片隅のほうちょっと盗まれてんですよ。だから、やろうやったな。やろうやったって隣がほらね、オイカワ隊で。オイカワ隊やりやがったなってこう思うわけですよ。それじゃあこっちも行ってやろう。

ところがね、サツマイモ音なく盗まれちゃうんですよ。ところがトウモロコシは音なくね、とってくる事100パーセント無理なんです。それもね、最初のうちは、最初のうちはっていうことないけど、最初わたし行ったんですよね。オイカワ隊のトウモロコシ畑。それでとろうと思って、曲げてすわーって曲げて一番下げて、どこやってもそれからパキンと音すんです。音すると撃ってくる。ダダダーンっていって。ですからトウモロコシひとつで殺されたんじゃ、あわないからね。それであわてて、壕(ごう)が掘ってあるんです。トウモロコシ畑のまわり。それからサツマイモ畑のまわり。必ず壕が掘ってある。なんで壕を掘るかというと、野豚のようなのがきて食われるからね、豚に食われるのを防ぐため壕を掘って。あわてて撃たれたもんだから、壕へ飛び込んだっていうのを記憶してますけどね。サツマイモ、うちの中隊はいつもとられっぱなし。サツマイモね。そんな事がありましたね。

その時に、今まで言わなかったけれども、わたしの前の人は、衛兵司令がね、連隊本部にね、糧まつ。多少の糧まつ倉庫あるんですね。連隊本部の。そこから乾パン、ブリキに入ったあれ何袋入ってんだ乾パン。あれこれやってね。それで連隊本部の糧まつ倉庫から乾パンかっぱらってきて、衛兵所の床をはがして、床の下に入れてふたしちゃって。それやったんです。それはわたしの前ですよ。そうしたらそれをね、毎日兵隊がだめになっちゃうと、兵隊1人や2人はどうしても体動かなくなる人がいるから、そういうときに代わりでいる人がおるわけです。交代でね。全員交代じゃないけど。1人だけでもね。そうすると、そういう人に、うっかりしたんでしょう。やるほうもね。乾パンあげたわけですよ。そうしたらその人もらった人は、それは普通に支給された乾パンだと思うわけですよ。誰でも。衛兵司令からもらうんだから。それは食った乾パンの袋を、うっかり近くに投げたんだよね。それを連隊本部の人に見つかって。それで「この乾パンどうしたんだ」「どうした」って聞かれたときに、兵隊が「いや、衛兵司令からもらった」って事を言ったわけですよ。そしたらそれはもう今度は憲兵来てさっそくやられて、それで衛兵司令に聞かれて、「これは連隊本部の糧まつ倉庫からかっぱらってきてね。どうしてももう、自分ひとりで食うわけじゃない。兵隊もね、みんなもう動けないから、やむを得ずやったんだ」って言ったら、それだってだめですよね。

それで、それじゃあいよいよ憲兵隊行ってっていう前の晩、わたしら下士官室に、下士官は下士官だけの部屋があるわけですね。兵隊の部屋。下士官室の部屋、中隊長と。そうしたら朝になったらば出ていって、そこから農場でね、こんな太い木を切り倒した農場、サツマイモやなんか植えてるそのやけぼっくりの下でもって、自分で拳銃で頭撃って自殺した。それがね、名前は言えないけれども、そういう事もあってね。そりゃあもうみんな、おおよそどんな食べ物がなかったかっていうのは、そういうのでもわかる。もちろんほかでもそういうのはありますよ。それはわたしはあくまでも、それはうちの中隊の衛兵所の話だけですそれは。

だいたいね、野戦病院とは名ばかり。わたしも野戦病院に入ったんだけれども。「野戦病院に入ったらまあ、帰れないよ」って言われたんですよ、みんな。それでなんていいますかね、わたしは野戦病院は、このくらいの棒か、ジャングルに行って、このくらいの、直径そうね、3~4センチの丸太をそろえるんですよ。それで敷き詰めるわけ、ざーっとね。それでその上に毛布を敷いて、それだけで寝かすわけですよ、病院。だから上がこう山になってこうでこぼこ、でこぼこ。寝られたもんじゃないけど、それももう板にするところもないんですから。だからこのくらいの棒を並べてね。

ですから、その上に寝かされるから。ある程度。それでわたしが入って、野戦病院でもらった薬っていうのはなにかっていうと、日本で野戦病院の、馬の飼料、馬料として持っていった米ぬかっていうか。あれが野戦病院におそらく来たんだろうと思うんですよね。その米ぬか以外は、医療として、薬として飲んだ記憶がないですよ。米ぬか以外はないような野戦病院ですから、どんどん。それで死にそうになったら、病院に持ってくるわけですよ。すると毎日3人、4人入院するんだけど、毎日3人、4人死んでいっちゃうんですよ。だから病院がいっぱいにならない。どんどん死んで。それから部隊によっても、わたしは本当にまいったときはもう、野戦病院に入れられたから。野戦病院に入らなくても、部隊で亡くなった人もずいぶんおったんですよね。

いやあの、休みますね。それで朝になって眼が覚めたら、両端が冷たくなっていたってこと、何回もあった。「おい」って言ったら返事がない。見たら、触ったら冷たいの。両側がね。死んでいて。そういうのは、まあ中隊から来て、遺体を引き取りにくるところもあれば。遺体を病院からね、そのしたに、ワルコム川って川があって、川の手前にくぼ地や何かあるわけですよ。もうとても埋められなくて、そういうところに。なんていうの、丸太を転がすように、ほいっと捨てる。で、終わりっていうのもあったんですけどね。こんなよけいなことね。

だって埋葬しようとする人が、よたよたしているんですから。
わたしもね、あれですよ。いちばんひどいときには、10センチの、直径10センチの丸太が、こういうふうにしてまたげなかった。わずか10センチ高いところが越せなかった。そういうふうになってしまうんですよね。そうなってくると、この間話したように、トイレに行くんだってひとりじゃ行けない。必ず手を引っ張って、起こすものがいないかぎり、絶対もう。しゃがんだら、ひざを折ったら立ちあがれないんだもん。

かなり丈夫になってからでも。終戦後、ある程度丈夫になってから、進駐軍が入ってきて、「使役出せ」っていうんでね。それは戦後だけども。使役に行くときに、向こうから車が来るわけですよ。トラックが。そうすると、トラックに乗るのに、トラックに乗れないんですから。体力がなくて。それで上から引っ張るものに、下から押し上げるもんで、そうしてトラックに乗せて、進駐軍の建物に行って。何やらせたかっていうと、建物が壊れたところを修理させられたり。それから建物のまわりの草取りをさせられたりね、兵隊が。侮辱この上ないけれども。しょうがない、無条件降伏だからね。そういうことをやらされたこともあったけど。そういうね、もう本当にもう、まともに歩けないような状態だったですからね。わたし自体が。いいちばんやせたときで、おそらく今考えてみると、身長やなにか、今は65~66キロあるけれども、その当時はまず32~33キロになったんじゃないかと思う。いちばんやせたときはね。内地に帰ってきたとき、四十何キロだったから。復員したときだ。

わたしらがいて、ほかに集まった人が、マノクワリで生活していたときに、農場にいたんだけれども、その人もどんどん死んでいったけれども。中にはね、わたしも一緒に農場にいたときなど、隣にいて、人間生きているんですよ、生きているんだけども、いちばん最初に来るのはアリなんですよ。で、アリが来て、アリをこうやってね、食われたところをこうやって払えるうちは、なんとか生きてるんです。そのうちね、口とか鼻とから、もうウジがわいてくるわけ。そのウジがわいてきたのから、払っているうちは、まだ生きているの。

でも、ウジやなにか、アリもウジも払えなくなると、体は少しは動かすんだけど、もうだめ。もうまわりの戦友は助けようがない、そうなったら。もうそうなったらば、もう1日2日でもう、あの世行きですけんね。だからそういうのを、もう何人も見ているわけですよね。そういうことはあんまり言いたくないんだけどもね。だけども、みんな死んでいったのは、言わなければならんし。そうして、戦争で亡くなったんじゃなくて、そういうふうにひもじい思いをして、そういうふうに亡くなっていった人が、たくさんおるわけですよね。栄養失調だけん。もう歩けなくなってね。ですから向こうにいても、今も言ったように、アリやウジが払えるうちは、なんとか助かっているんだけども、気の毒だけれども、戦友として助けることができない。薬もなければ、なにもない。そうかといって、そういう人を野戦病院にも連れていかない。ついていけないですものね。そういうふうにして、まあ1人、2人、3人、5人、10人、20人って。そうして亡くなっていったんです。

それは動けなくなったものは別ですよ。もうアリがたかるようになったら、「使役に出ろ」って言ったって、出られるわけないんですから。もう少しでも動けるうちは、結局、部隊名によって「使役を出せ」っていうことになる、本隊のほうからね、本部のほうから。たとえば、宮仕えっていったんじゃないけども、塹壕(ざんごう)堀りとか、陣地構築とか、道路工事とかっていうことは、どんなでも「出せ」って言われれば、出さざるを得ないんですよ、中隊長としてはね。ですから少しでも、それこそ車にひとりで乗れないような人間でもやっぱり、出さざるを得なかった。たとえ1メートルでも道路を工事する。塹壕だって、たとえひとつでも多く掘らせると、そういう状態だったのね。

敵がまあ、こない、こなくなりそうだっていうのがわかったのは、そうね、わたしが行ったのが、マノクワリに着いたのがとにかく7月の末ごろだったと思うんだけれども。それからしばらくたって。ただね、暦があるわけじゃなし。春夏秋冬があるわけじゃなし。暑さ寒さも365日同じ暑さなんですからね。季節感がまったくないんですね。

ですから、昭和20年の。もうお正月ごろかな、昭和20年のお正月ごろは、もう敵の部隊が。昭和20年だと思ったなあ、19年のあれだから、そうだな。20年に入ったら、もうニューギニアの北岸をアメリカの艦船が、フィリピンのほうへどんどんどんどん。要するに、おそらく沖縄のほうだと思うけれども。こっちはどこへ行くかわからないけどね。行くのを見たときに、「こっちはもう、マノクワリは天然の捕虜収容所だな」ってみんなで言ったくらいですからね。ですから、敵さんが相手をしなくなっちゃったわけですよ、こっちをね。

おそらくものを食べられるようになったのは、ほんとに5月か、今ごろからじゃなかったですか。やっと食べられるようになったらば。いちばん最初は、爆撃・飛行機が全然こなくなったからね。8月。まあ今考えてみればですよ。8月15日以降、敵の飛行機が飛んでこなくなったから、「あ、これは状況が良くなったぞ。日本良くなったのかな。これは」なんて、最初は思ったんですけどね。

それから、わたしらはほんとに「負けた」っていうのがわかったのは、10月へ入ってからの事ですからね。その前はわからなかった。師団司令部のほうから高官が来て、初めて。「日本は天皇陛下のね、終戦の詔勅で。それで初めて終戦になって。これからはみんな元気で内地に帰らなきゃいかん」ということを言われたわけですね。

なんていうかやっぱり、そこに長くいたんだから、「ああ、これで寂しいなって」いう気持ちと、それから「戦友を残してね、ああ、もうなんとか一体でも多く持って帰りたい」というのと、「これももうしょうがないな、ああ、これで内地へ帰れるんだな」って。そういうなんていうの、心の中が入り乱れて。ひとつにはなれなかったですね。うれしいとか悲しいとかばかりじゃ、うれしいばかりでもないし、悲しいばかりでもないし。もう複雑だったです。帰るときは。

いや、わたしらはね、単なる下のほうの兵隊でしょ、ね。もう部隊長だ将校のね、何だっていう将官だったというのと違いますからね。その当時はそういう軍の、国全体がひとつの戦争に対してね、「1億総火の玉だ」っていってやった教育でしょ。

ひとつも違和感なくそういうふうにして育っていったものなんですよ、その当時は。

ですからそれが「どうのこうの」っていうことは、戦後ですよ。「ああだの、こうだの」言って、「あぁ、そう言われればそうだな、ああだな」っていうのは。「あぁ、そうか」と思うけど。その当時はそんなの、そんなこと言ったら『非国民』ね。

場合によっちゃ憲兵隊でこれでしょ。あんなことをね、また、そういうふうに思うような教育をしないの、学校で。1億総火の玉でね、とにかくもう「やるんだ」っていうんでやっているから。

別に、わたしらはもう戦争が終わって帰ってきてこうなったけれども。まぁこれも「お国のためだ」と思ってやってきたんだから。自分の気持ちに、そうわたしは、ひとつも恥じることなく生きてきたと思うからね。今悔やみません。

「今後2度と戦争はするもんじゃない」これは声を大にしてね、これは言えます。あんな戦争はね、何だっていって、戦争というのは人を殺すのが戦争なんだからね。殺さない戦争なんてあり得ない。これはね、戦争なんてね、今後もう、わたしは孫子(まごこ)の代までね「こんなね、戦争なんてやるもんではない」と、もう声を大にして言いたい。

もうとにかく、うちの部隊だって、本当の北支から行った200人が、わずか9人か8人か、9人きり残らないんだから。200人のうち190人以上死んでしまったんだから。 それを思えばね、「ああだ、こうだ」言っても。わたしらむしろ、靖国神社にもう動けなくなって行けなくなるのが非常に残念だと思って。皆にいって、わたしら手を合わせてもらいたいよ。

出来事の背景出来事の背景

【西部ニューギニア 見捨てられた戦場 ~千葉県・佐倉歩兵第221連隊~】

出来事の背景 写真昭和18年(1943年)、9月、日本は戦況の悪化にともない、絶対国防圏を設定し、西部ニューギニアがその要衝の一角に組み込まれた。重要な飛行場を有するビアク島防衛のため、第35師団歩兵第221連隊が派遣された。しかし、米軍に阻まれ、昭和19年5月、主力は西部ニューギニアのマノクワリに、その他の部隊はソロンに上陸した。その後、ビアク島に上陸した一部の部隊は米軍の攻撃で全滅した。マノクワリとソロンに上陸した部隊は、その後、上級司令部の指揮命令系統の崩壊によって、高温多湿と泥濘のジャングルを長距離にわたって行軍させられ、補給もないまま、飢えと病で多くの兵士が倒れていった。

また、ゲリラとなった現地住民の襲撃にも苦しめられた。

昭和20年1月になると、主戦場はフィリピンに移り、見捨てられた221連隊は、ジャングルに孤立させられた。ときには日本軍同士で食料を奪い合う事態も発生。加えて、マラリアが兵士たちの命を奪った。終戦後、現地で10か月にわたり自給自足の生活を余儀なくされ、連合軍の監視下、日本に生還できた兵士は3300人、わずか1割にすぎなかった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1925年
埼玉県北足立郡加納村倉田(現・桶川市倉田)に生まれる
1943年
現役(志願)兵として歩兵第221連隊に入隊
1944年
西部ニューギニアの作戦に参加
1945年
西部ニューギニア・マノクワリで終戦を迎える、復員後は警視庁警察官を務める

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ニューギニア (ソロン、マノクワリ)

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