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タイトルタイトル: 「魚雷攻撃で沈んだ輸送船」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 西部ニューギニア 見捨てられた戦場 ~千葉県・佐倉歩兵第221連隊~
名前名前: 野口 大吉さん(千葉県佐倉・歩兵第221連隊 戦地戦地: ニューギニア (ソロン、マノクワリ)  収録年月日収録年月日: 2007年7月20日

チャプター

[1]1 チャプター1 ニューギニアへの転進  05:22
[2]2 チャプター2 西部ニューギニア  01:57
[3]3 チャプター3 北岸作戦  07:07
[4]4 チャプター4 負傷  07:05
[5]5 チャプター5 まぬがれた左足「切断」  04:49
[6]6 チャプター6 畑を開く  04:53
[7]7 チャプター7 ジャングルで「再会」した母親  04:01

チャプター

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マニラを出発して何日ぐらいたったか、ちょっとよくは覚えてないんですけれども。セレベス海にさしかかったときに、これはちょうどお昼どきだったと思うんです。「魚雷発見」という。わたしはね、そのときに対空監視っていいまして、大発がですね、その7000トンの船の上に積んであったんですよ。その上に機関銃を据えて、飛行機を監視していたわけ。敵の飛行機を。

それで対空監視っていうの、いちばん上にいたものですから。「雷跡発見」って言うときに見たら、もうその雷跡はですね、ざっとあれ40ノットで来るんだそうですけどね。

Q:雷跡というのは魚雷の。

魚雷の航跡みたいなものですね。それがその船に向かってきて。「危ないな」と思ううちに、どかんと食っちゃったんですね。

対空監視だからこういうふうにこう、高く伸ばして、上を射撃できるようになっているんですよ。飛行機を。そのあれがですね、こんな太い。脚のところがね、ぼしーんと折れて、海の中へ落ちちゃったんです、その衝撃で。ちゃんと下は脚がなっていたものですから。あれは怖かったですね。やっぱりね。銃身が折れちゃった。

そのあとはね、無我夢中ですよね。それで本当は船長が退避勧告をする。船長か部隊長がするんですけども、その命令がさっぱり届かないであやふやしちゃったんですね。そうしたら、あとで聞いた話ですけどね、船長は魚雷の衝撃で海の中に落ちちゃったんだそうですよ。それで部隊長っていうのは陸軍なものですから、その、そういうことに慣れてないので、命令も何も。変な話ですけども、あたふたしちゃってね。自分が命令を出すようじゃなかったんですね。たぶん副官が命令を出したと思うんですけども。退避命令を。

もうそのときには轟沈(ごうちん)ですから。2分30秒だったそうです、魚雷を受けてから。だからまあ、皆さんに、兵隊のものに「早く飛び込めよ」って言ったんですけども。飛び込んだ人もいるし、その衝撃で大発の縁(ふち)に頭をぶつけて、もうそのまま意識不明になっちゃった人もいるし。

わたしも最後になって「飛び込もうかな」って、思ったら、船がこう、もう沈む瞬間でですね。その、どうにもならなかったんですね。下見たら、もう兵隊たちがいっぱい、この泳いでいるわけですよ。その上に飛び込むなんていうことはとてもできなかったので、「しまった」と思って。そうしたらそのまんま、ぼかーんと沈んじゃったんですね。

これいいことに、司令室のそばにいたので。あれは10畳一間ぐらいあると思うんですよ、その部隊長のいた司令室は。そこの縁のほうにこうつかまって、沈んでいったんですね、ある程度。渦に巻き込まれて。そうするとこの司令塔が折れてですね、そのつかまったまんまぼーんと浮いてきちゃったんですよ。で、3人ぐらいつかまって。まわりに兵隊たちもいたんだろうけど、まわりはもういなかった。そのまんま沈んでいっちゃったんですね。それでまぁ、助かった。1回沈んで。結構、水飲みましたけどね。それで助かりましたね。

そんなまぁ、轟沈(ごうちん)のときの苦しみがありました。
約3000人乗っていたんですよ。昼間でしたから、割かた退避できたので。800人ぐらいが沈んだと思うんです。
要するに7階建てぐらいのビルのあれだから、船倉のほうにいた人はほとんど助からなかったと思うんですよ。われわれみたいに上のほうにいた人は比較的、助かったですね。
だから積んであったクレーンがですね、折れて。クレーンも落っこちてきちゃったりね。もう、めちゃくちゃな思いでした。

ソロンではもう、訓練も何もないですからね、ただ、頂いたその弾薬・食糧ですか。そういうものを管理しながらですね。一応まだそのときは食糧。あとでは食糧難になりましたけれども、そのときはまだ間に合っておりましたので。そのまんま警備についてわけですね。

他の部隊が、いっぱいちゃんとした部隊がありましたので。装備のちゃんとした。高射砲陣地もありましたしね。ですから比較的、わたしたちが上陸したときは、まぁ、安泰でした。

別にその、敵がそこにいたわけじゃないですから。上陸といっても、上陸作戦じゃなくて、別に敵陣の中にあがったわけではないですから。普通の部落のところへ上陸したわけですから。まぁ、敵を撃破してあがったという、そういうのじゃないんですね。

あの、空襲はあったです。P38っていう、胴体の2つある飛行機なんですけどね。P38その戦闘機が来て。われわれ機銃掃射なんか。それほどの激しいあれではなかったです。それほど激しい問題ではなかったんですね。
ですからそんなに、そのソロンにいるときは戦闘らしい戦闘はなかった、と思っております。

「北岸作戦(ほくがんさくせん)」っていうのは、ご存じかと思うんですけれども、東部のほうにいた部隊が退却で、ソロンのほうに、西部のほうに、昔は転進っていいましたけども、退却で逃げてきたんですね。部隊が。ところが途中で相当、その土着民らも、あるいは豪州の兵隊だったと思うんですけども、豪州軍にやられたので。その彼らを討伐すべくその師団から命令が出まして。そして北岸作戦という。何号とかっていう命令は・・・は中隊長でしたからよくわかっていたと思うんですけど。わたしたち下士官クラスはあまりね、記憶にないんですけれども。とにかくそのときにもう相当、その北岸作戦をやるというときにはもう、マラリアとか食糧難とか襲われてですね。まぁ、『作戦に参加するのも地獄、残るのも地獄』っていうような、そんな感じだったと思うんです。

ですからマラリアに比較的、冒されないで。みんなマラリアにはかかりました。全員が。でも、まずまずまぁ、その中でも割かた健康維持できた者が選ばれて。150~160名だったと思うんですけどね。でも機関銃隊でもあれを担いで。15キロあるんです。あの銃身は。

30キロあるんだ、銃身が。そういうものを担いでね。まったくジャングルなんですよ。出発するときに。ですから道なき道っていう。だってもう、ジャングルをこう切り開いて、シダや何かを切って進むような。もう海岸線は進むのはできるけど、飛行機に見つかるともういけないので。制空権は敵にありましたからね。日本の飛行機なんか、ほとんどないんですから。だからその道を何百キロも進んでいったわけですから。ちょっとむちゃくちゃな作戦だったと思うんですけどね。

それで一番最初に攻撃したのはムガという場所ですけどね。たぶんそこでマミヤさんっていう中隊長が亡くなっていると思うんですが。

ですからこの、日本の白兵戦というんですか。斬りこみ(きりこみ)隊というんですか。そういうものを敵はすごく恐れておったようで。要するに夜襲戦で、弾薬・食糧のないところを夜襲戦で敵を追い散らして。まぁ、糧まつなんかを、敵の糧まつをいただいたりしてね、命をつないでいるような形だったと思いますね。

ムガを占領したときにはそれなりの、マミヤ中隊。まぁ、過大なんですよ。日本の大本営などあとで聞きますとね。そんな立派な戦果じゃなかったと思うんですけども。まああの、過大なその報道で、それこそ1隻やれば何隻もやったみたいな。ただ、向こうも小さな船ですからね。海岸にあった船は。魚雷艇ですから。向こうの。それを。

敵だって別にそんな、大きな陣地っていったって、やっぱり天幕ですから。向こうの張ってあるのは、そのジャングルの浜辺に張ってあるわけですからね。

塹壕(ざんごう)を掘って。ジャングルに向かって敵が、われわれが攻めていくのを警備していた、というような形ですから。それほどその難しい戦いではなかった。こっちに装備さえあればね。
ジャングルというのは隠れやすい場所ですから、夜襲戦するにはすごく日本軍にとってはやりやすかった。敵は浜辺にいるんですから。そういう作戦であって、戦果というのは魚雷艇をやった、と。あるいは敵陣に斬りこんでいって、マミヤ隊長が壮烈な戦死をした、と。それでマミヤ隊長はあのときたぶん、2階級特進というのですから。中尉であったから少佐になったのかな。師団長から感状が出ましてね。そんなふうに聞いておりますが。

Q:皆さんはこう、進軍というか行軍していく中ではですね、攻撃を受けたりっていうことはあったんですか。

海岸線に出るとね、飛行機に見つかっちゃうんですよ。ただ、その海岸線に出なくちゃどうしても越せないようなそのシダが多くて。あるいは湿地帯でですね。そういうのはもう、海岸線を隠れるようにしてその走ってね。もうすごい山の中で、もう機関銃を担いでいくんですから。わたしなんか担いだことないんですけど。そういうジャングルを越していくっていうのは大変なその、難行軍なんですね。

「そんなに、どうしてこんなことやるのかな。大して戦果もないのに」という。ただ、早く言えばあだ討ちですか。われわれの戦友が転進中にやられた、と。その彼らを少しやっつけなければいけない、というような、そんな気持ちがあったと思うんです。それによってその「重要な拠点を維持する」という、そういう作戦じゃなかったんですね。

その、転進してくるわたしたちの仲間がですね、そこで斬り殺されたりだまされたりして、みんな悲惨な最期を遂げたわけですけども。そういう人たちの無念な思いをわたしたち晴らしてやろう、と。そういうふうな気持ちだったと思うんです。

サンサポール攻撃でもう、これ、失敗しちゃったんですよ。というのは、ジャングルの中から出ていって。将校斥候といって、部隊長みずから斥候に加わってですね。中隊長クラスの人を連れて、あと下士官兵隊を連れてですね。7~8人でたぶん敵情偵察に行って。それでもう、見て、「これならばもう、鎧袖(がいしゅう)一触(がいしゅういっしょく)だ」と。「こんな敵ぐらい、夜襲戦をやればお手のものだ」と。こういう情報で帰ってきて。それで「ジャングルの中で今晩、攻撃する。それで、敵の食糧・弾薬は、勝手に自分たちは食糧をかっぱらってはいけない。それで食糧は1か所へ集めろ。弾薬は1か所に集めろ」って。もう戦利品をですね、勝ったつもりでちゃんと集める場所まで指定されましてね。それで飲まず食わずで夜、夜襲戦に行ったわけですよ。

ところが、敵はそのもう、斥候が行った足あとで「日本軍が来たな」っていうことを察知したんでしょうね。ですからもう、わたしたちがその正面に立ったときには、明け方まだ3時か4時ごろだったと思うんですけれども。もう敵がピアノ線、こうジャングル歩いてね。何かこう、ピアノ線みたいな変なものがあるね。たぶんそれはもう、ちゃんと彼らは探知機を入れて、ピアノ線を敷いてですね。そこまでわれわれ全然、そういうものがどんなものなのか、一切わからなかったわけですよね。それをがやがやがやがや、いっちゃったものだから。もう敵前。そうだね。300メーターぐらいあったんでしょうかね。それで一斉射撃を食っちゃった。それでヤシの木に全部ね、照明灯をジャングルに向けて出していましてね。もうぱっとついたときにはもう、伏せたときには遅かったですね。

だから機関銃隊も、わたしは部隊長のその連絡下士官で、部隊長のそばにいたんですけれども。それで「野口、その機関銃隊をこの正面に持ってきて射撃させろ」と。「あの照明灯、照明を射撃して、あれをなくすようにしてくれ」と。それで伝令に行って、機関銃隊をこっちへ呼んできて。そうすると10発撃つとね、500発ぐらい返ってくるんですよ。だからとてもそのね、撃てる状況じゃなかったですね。ですからもう、みるみるうちにもう兵隊たちみんなやられましてね。それこそ惨敗です。

それで敵は魚雷艇か何か、海のほうからもですね、砲弾を撃ってきたんですね。ジャングルに向かって。その『瞬発信管』っていうのをご存じかと思うんですけど、砲弾を撃ってですね、それがヤシの葉っぱに触れても空中で破裂しちゃうんですよ。ぱしんと。それがもう、破片がばっとこう刺さってくるんですね。それでそのイワムラ部隊長もその破片で、直撃弾だったかよくわからないんですけれども、この両足がですね、かかとが吹っ飛んじゃった。でもね、しっかりしていましてね。「おれは担架に乗っても指揮をとる。ここを退くな」って、こうやっていたんですけれども。もう、ばたばたばたばた倒れていくし。ここにいるフクシマも、たぶん知っていると思うんですけども。もう本当にね、ジャングルの中でわたしの戦友でヌマグチっていうのは「天皇陛下万歳」って死んでいきましたね。負傷して。それはもうみじめなものでしたよ。

本当にね、まぁ、よくね、死ぬ間際に「お母さん」とか「お父さん」って言って死ぬ兵隊がいるっていうんですけども。彼は死を覚悟して。もう自爆用の手りゅう弾というのをみんなひとつずつ、みな持っていたんです。ですから、自分が負傷しちゃって動けなくなったら、それで死ね、ということでしたから。もうヌマグチも腹に入れてね。「天皇陛下万歳」って死んでいきましたね。

ですからもう、機関銃隊もそこでほとんど全滅的な打撃を受けました。わたしもそこで負傷しちゃって。もう何かこう、砲弾がね。敵がこう撃ってくる砲弾がヒュヒューヒューヒューっと来て。「頭を通り越したな」と思うと、ずっと後ろのほうに落ちてはねるんですね。頭の前のほうでそのヒューヒューっていうのが止まったな、と思うと、近くへどーんと落ちるんです。そうすると、そのすごい勢いが砂を巻き上げて破裂するんですね。それはもう、こうただ伏せて。もうあれ、運ですよね。誰をめがけて来るわけじゃないから。

そのうちにわたしも足が。何かばーんときたときに足がしびれてね。おかしいな、と思ったら、動かない。だけども足こう持ったらば、足はくっついているし。何かしびれちゃって。こう電気ショックを受けたみたいにね。でも何とか動きそう。こう、「足はついているんだな」って。そんな感じでしたけどね。そうしたらあの破片が、今でも傷がありますけどね。それで退却命令っていいますか。そのときも、どういう命令がどう出たのかわからないんですけれども。「引っ込め」って誰か言ったらしいんですね。それ伝令が「突っ込め」っていう、その「引っ込め」っていうあれはないだろう。「突っ込め」っていうふうに。そういうふうなことで、もうむちゃくちゃになっちゃったんですね。

惨めでしたよ、退却は。もうばらばらになっちゃって。もう、誰が誰だかわからなくて。わたしも歩けなくて。短剣で木を切って、それをつえにして、はうようにして。片足が動かないんですよ。左足ですけどね。ようやくその自分の陣営にたどり着いて。そこでガス壊疽(えそ)を起こしちゃったんですね。ですから40℃ぐらいの熱が出て、1週間ぐらい下がらなかった。それで、「野口のこんなに足がはれちゃって。あの足はもう、切断するよりほかないだろう」って、あとの話ですけどね。そういうまぁ、軍医がそう言っておったそうですけども。だからたまたまそこに、台湾の勤労隊がですね、血清を運んできてくれんですね。「じゃあ、野口にその血清を注射してみよう」といって注射したらば、それで熱が、40℃ぐらいの熱がぐっと下がったんで。「これじゃあ、大丈夫だろう。じゃあここの、はれている足を切ってみよう」って。麻酔も何もないんですよ。麻酔1本もないんですから。ただ「切る」っていったって。みんなしてこう、手と足を押さえられていてて。それでズブッとこう。

それ膿(うみ)がね、洗面器1杯ぐらい出たそうです。足から。すごい、いっちゃったんですね。それで助かったんですね。それでなければ切断。「切断する」と言ったときに、あとで聞いた話ですけど、「おれの足、どうやって切断するつもりだったんですか」って聞いたらば、「あのまき手ののこぎり(伐採用ののこぎり)でこう切る」と。それは残酷な話ですよ。そんなことしたら生きていられなかったと思うんですよ。それで麻酔っていうのがないんですから。

包帯したでしょう。包帯して、その膿がその包帯の上にこう、出ちゃうんですね、包帯しても。そこへハエがいっぱいたまっちゃってね、それこそ汚い話なんでけど、ウジがもにゃもにゃもにゃもにゃ。こうね、足をはいずりまわるわけですよ。だから誰かな、きょういないんですけど、一緒にいた兵隊がみんなね、箸を、手の箸をつくってね。それでこう、ウジ拾いしてくれた。それじゃないとこの包帯の間から今度は中へ、肉のほうへ入っていっちゃうんですね。それがもうすごく痛いのは痛い。その何ともいえないくさいにおいでね。たまらなかったですね。それは、自分でも。自分の足かと思うぐらい。

それでもまぁ、何とか命拾いしました。よく切断しないで。そのまんま。ヨードチンキ、マーキロとヨードチンキぐらいしかなかったんですけども、そのくらいでよく治ったと思います。足のあとね、あるんですよ。ここにもあるんですよ。

よくも助かりましたよね。ですからそういうサンサポール攻撃ではですね、わたしが負傷する前に、この、あんまり悲惨なあれでどんどん倒れていくから。軍医が来て「兵隊を、その負傷した兵隊をもっとこっちへ、後ろへ下げて。そして少し治療したい」と。で、集めたんですけども、集めたところへ砲弾、落っこっちゃったんですよ。集めたところへ。ですからもう悲惨な、もうむちゃくちゃな。もう、地獄ですよね、まさに。せっかくね、何とかまぁ、腕に負傷したとか、足に負傷した人を集めてきて。そこへ砲弾が一緒に落っこっちゃってね。もう自爆みたいな形になりましたね。

戦っていうのは勝っても負けてもやるべきじゃないです。むちゃくちゃな、あんな戦争なぜやったんだろう、って、今考えますよね。死なないでいいものがみんな死んじゃったんですから。悲惨でした。

連隊に戻りまして、あれは何ていったけな。まぁ、早くいえば現地ですね。もう食料生産ですよ。サツマイモ作り。みんなもう、中隊あげての。ともかく食べ物がないんですからね。

食料生産だの、バナナをあれしたり。タピオカイモか、現地にあったのは。それから日本のサツマイモも結構、ジャングルを切り開いてね。まぁ、その間も敵も空襲っていうのありました。農民に対しても。

Q:補給船なんていうのはもう入ってこないですか?

入ってこない。補給船はもう、わたしたちが最後だったんじゃないかと思います。行った船の。ですから補給船はなかったです。あとで考えると、補給船がくるような状況じゃなかったようですよね。とても。ですから今考えて、「なぜあんなところまでわれわれを送り込んだのかな」と思う。あんな南の果てまでね。

ずいぶん大本営もむちゃくちゃな作戦をしたもんだな、と。人間の命をずいぶん、考えたら、ずいぶんばかにされた話ですよね。むちゃくちゃにもう、人間の命を無駄に、無駄死にさせたわけですから。

「負けるとわかってたんじゃないかなぁ」と。今こう、いろいろ見てきてですね、「この作戦はもう負けるとわかってたんじゃないかな」と思うんですけども。どうしてその日本の大本営っていうのは、それを考えなかったのかなぁと思いますよね。残念ですわね、それはね。それが、1人、2人じゃなくて何十万ってですからね。

Q:221連隊も亡くなった割合というのは8割、9割ぐらいですよね。

8割以上ですものね。それも作戦に参加して、今のような作戦をして亡くなったというのはほんのわずかですね。大体マラリアと脚気(かっけ)です。ですから、かわいそうですよ、それは。あのう、戦史読んでおわかりだと思うんですけども。亡くなった兵隊のあとでね、わたしは帰ってきたから、割り方大丈夫だったんですが。留守部隊の人たちは、ここにおるかな、留守部隊の人たちは、マラリアで亡くなった兵隊の片づけようもないくらい、もうみんな疲労困ぱい。自分たちはマラリアで、いつあした倒れるか。あした点呼をとったらば、「あれがこないから、ちょっと行って見てこい」って行ったらば、「もう死んでました」と。そういう状況でしたからね。
ですからもう、ほんとうに、残留部隊もすごいもう、苦しい思いしたと思うんです。

Q:野口さんが戻られたころというのは、もうそんなにひどくなかったんですか?

だいぶ状況は好転してきたようです。わたしたちが軍隊に戻ってきたころは。もう食料、でまぁ、それだけ食べる人もいなくなっちゃったわけですよね。まぁいくらか作っておいたサツマイモはだいぶん実ってきたし。ですから、まぁまぁ、なんとか食いつなぎができる。それはネズミも食べたし、トカゲも食べたし。いろんなもの、ありとあらゆるものを食べましたよね。蛇もネズミも。

ジャングルっていってもね、湿地帯が多かったんですよ。ですから、ジャングルの中に食べられるというものは、まぁそれは、海岸に出ればバナナ。土着民が作っていたタピオカイモっていう、やはりイモがあるんですよね。それを土着民が作っていましたけれども。そんなイモを食べて。だから、食べるものって、あとはだって、人間の口に入るものは限られていますからね。毒のものもありますしね。あとはワニ。ワニはようおりましたよね。

わたしはね、作戦中にですね、途中でですね、あした攻撃に行くという前の日にですね。わたしたち、後始末のために少し残ったんですよ、何人か。で、「後続で来てくれ」というので、前に出て行った部隊があって。その間、じゃぁオウムがたくさん、ジャングルにいましたので。今晩はみんな、幹部連は行っちゃったから。もう鉄砲を借りてですね。「オウムとってくるから今晩の食料にしよう」なんてのんきなことを言って、ジャングルへ出かけたんですよ。そうしたらジャングルの中で迷っちゃってね。西か東かわかんなくなって。帰りね、すごく苦労しましたね。もう暗くなっちゃってね。上だけ見ているからね。磁石もないし。どっちが南か東かわかんないし。帰るに帰れなくなっちゃった。

その時にですね、まぁひとつの霊感なんでしょうね。このまんまもし、おれがここでね、行方不明の形になれば、『敵前逃亡』というような形になっちゃうわけですよ。だからそれはもう、自分たちの家族に対しても親たちに対しても、非常に不名誉なことになるわけですね。ですからわたしとしても泣くに泣けない。ジャングルの中で鉄砲を抱えたまんま、男泣きでしたね。それでこう、じっと考えていたらね。わたしが19歳の時におふくろが亡くなっているんですよ。そのおふくろが出てきましてね。それで、「こちらへ行きなさい」って言うんですよ。おふくろが。「不思議なことあるもんだなぁ」と思ってね。そのおふくろの言うまんま、そっちへ歩いて行きましたらば、わたしたちが渡ったムガっていう川があるんですけど、ワニのいた川なんですけどね、その川のふちへ出たんですよ。あぁ、その時は「しめた」と思いましたね。この川のふちをあがっていけば、おれの部隊に帰れると。それでジャングルの中でじっと見て。ところがワニがいたもんですから、銃弾を構えて、足をドカンドカンとしながら足音を大きくしてですね、そのムガのふちを、川のふちをのぼっていったんです。いつワニが飛び出すか。あるいは足音で逃げていくかもしれない、と。そういう不安がありましてね、そして真っ暗な中ですから、あっちの木へぶつかり、こっちの木にぶつかり。軍服もちぎれちゃうし、顔は血だらけになるし。そうしたらば、残っていた兵隊たちがたいまつをつくって探しにきてくれたんです。その時は涙が出ましたね。これで助かった、というような。

ですからもう、まぁわたしも、『霊魂不滅』っていうような考えでおりますけれども。「おふくろがどうしてここへ来たんだろう」っていう、そういう思いがあります。あの時に行方不明になったら、そのまんまわたしはジャングルの中でのたれ死にだったと思うんですね。それはすごくもう、わたしの印象にはひとつあります。
ですから何回か死にはぐっているわけです。そんな思い出が作戦中、ありました。

出来事の背景出来事の背景

【西部ニューギニア 見捨てられた戦場 ~千葉県・佐倉歩兵第221連隊~】

出来事の背景 写真昭和18年(1943年)、9月、日本は戦況の悪化にともない、絶対国防圏を設定し、西部ニューギニアがその要衝の一角に組み込まれた。重要な飛行場を有するビアク島防衛のため、第35師団歩兵第221連隊が派遣された。しかし、米軍に阻まれ、昭和19年5月、主力は西部ニューギニアのマノクワリに、その他の部隊はソロンに上陸した。その後、ビアク島に上陸した一部の部隊は米軍の攻撃で全滅した。マノクワリとソロンに上陸した部隊は、その後、上級司令部の指揮命令系統の崩壊によって、高温多湿と泥濘のジャングルを長距離にわたって行軍させられ、補給もないまま、飢えと病で多くの兵士が倒れていった。

また、ゲリラとなった現地住民の襲撃にも苦しめられた。

昭和20年1月になると、主戦場はフィリピンに移り、見捨てられた221連隊は、ジャングルに孤立させられた。ときには日本軍同士で食料を奪い合う事態も発生。加えて、マラリアが兵士たちの命を奪った。終戦後、現地で10か月にわたり自給自足の生活を余儀なくされ、連合軍の監視下、日本に生還できた兵士は3300人、わずか1割にすぎなかった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1923年
埼玉県東松山市に生まれる
1943年
現役兵として歩兵第221連隊に入隊
1944年
乗船中の「亜丁丸」がフィリピン沖セレベス海にて轟沈、西部ニューギニアの作戦に参加
1945年
西部ニューギニア・ソロンで終戦を迎える、復員後は農業を営んだ後、薬局を開業

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ニューギニア (ソロン、マノクワリ)

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