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タイトル 「迫りくる連合軍の戦車部隊」 番組名 [戦争証言プロジェクト] 北部ビルマ 密林に倒れた最強部隊 ~福岡県・陸軍第18師団~
氏名 中村 敏美さん(第18師団 戦地 ビルマ (フーコン)  収録年月日 2007年6月1日

チャプター

[1] チャプター1 三年以上にわたったビルマでの戦闘  05:04
[2] チャプター2 忘れられない戦友の死  03:07
[3] チャプター3 ヒルのあふれる密林を行く  03:39
[4] チャプター4 壕(ごう)のなかで防戦一方  04:15
[5] チャプター5 フーコンで壊滅状態に  06:14
[6] チャプター6 薄れていく恐怖感~生死を分けたできごと  03:55
[7] チャプター7 死を覚悟した戦車の接近攻撃  02:53
[8] チャプター8 次々にたおれていく戦友  04:39
[9] チャプター9 「マラリアは病気じゃない」傷病兵も前線に  03:35
[10] チャプター10 いま振り返る「ビルマでの戦い」  05:17
[11] チャプター11 戦友の死に麻痺していく戦場の日々  00:57
[12] チャプター12 戦友と分け合ったわずかな食糧  03:20

提供写真

再生テキスト

19年の7月15日はですね、ちょうどフーコン作戦が終わったのが7月の7日、5日でした。それでわたしたちが脱出して集合地に集まったのが7月7日でした。ちょうどわたしは、栄養失調状態のマラリアでして、それで中隊長にお願いしてですね、まあ、本隊と一緒にという連隊本部と一緒にですね、カロウという所にあっ、カーサですね。カーサに下がりましてね、それで留守隊のところに行って、病気を治すと毎日毎日、寝ていましたね。7月15日がそういう19年の7月15日はそうでした。

20年の7月15日は実は6月の14日の夜襲でですね、わたしはこの肩を負傷しましてね、それで真っ暗な雨の中、その弾が当たったときはひじから先がですね、吹き飛んでなくなったような感じだった。こっから先が。腕が飛んでしまったという感じでした。

そしてこう触ったら、腕はあったわけですね。激痛でしたけど、それで闇の中をシッタン河を渡って、本隊のほうに帰ったことがあります。

それが6月の15日の朝ですね。14日の夜から15日の朝にかけての戦闘ですから、そして軍医がすぐに入院とゆうてわたしに入った弾をピンセットで取ろうとするんですけど、取れないんですよね。食い込んで。それでそのまま野戦病院に入院したんですが、そのさきほど申し上げました7月の4日のアメリカの独立記念日奇くしくもそういう日に攻撃を中隊、第8中隊、第7中隊の2個中隊で攻撃をしたんです。サドアジョンという所、そこで両中隊長以下27名戦死したわけですね。そのうちの19名がわたしの所属した第8中隊でしたから、わたしは野戦病院に入院中でそれで、負傷した8中隊の兵隊来ましてね、こうやって中隊長以下ほとんど中隊は全滅状態だから早く中隊に帰ってくれとあなたが帰ってくるのを待っとるという伝言を受けましてね、それで軍医に申して、申し出て、ちょうど7月15日ぐらいに中隊に復帰しましたね。昭和20年の7月15日。まあ、完治はしてなかったですけど、まあどうにか不自由なく戦闘はできるという状態だったので、まあ、そういう話を聞いて帰って行きました。

中隊全体がやはり、しょう然としていましたね。もう。そして、第8中隊と第7中隊がほとんどそういう形で負傷者を含めると、相当の人が戦没者と負傷者で減員になっていましたから、合併したんですよ。そして、第7、8中隊がなくなって、第4中隊という中隊、編成されたのね。

それでそのまま終戦を迎えるという状況でした。それが8月のいや、7月の昭和20年7月15日のころのことですね。

メイクテーラの昭和20年の3月16日にわたしがこのひじを負傷したときにですね、M4(エムヨン)戦車の機関砲で撃たれたわけ。

Q:あっ、戦車の機関銃の?

戦車の中にですね、戦車砲、戦車機関砲というのがある。機関銃みたいなもの、それでこれ当たった。

Q:当たったんですか。

わたし、小隊長をしてましてね、そしてわたしの隣におった分隊長は頭に当たって、戦死したんですよ。それでM4戦車がわたしたちの目の前の150メートルから100メートルぐらいすぐに接近してきましてね、そして攻撃してくるもんだから、もう全滅するんだ、そういうような感じやったですね。それでわたしは、これをやられてこのままではね、小隊全滅、全滅しちゃいかんと、飛行場の戦車の前をですね、今から戦車の前を突っ切ってやる。走るぞというてですね、1、2、3という号令を掛けて飛び出した。

Q:何人でですか。

ええ。

Q:何人で?

14、5名でしたね。もうその、というのは一個分隊を150メートルぐらい先に飛行場に出しておりましたから、大隊命令で、その人が6名ぐらいおる。もう17、8名で突っ切ったんです。そしてわたしのすぐそばにおったですね、擲弾筒(てきだんとう)の名手この人はもうほんとうにね、もう日本一擲弾筒を使ったらこの人はうまいんだっていうような人が、一緒だったんですけど、倒れたのは知らない。わたしも必死ですから、わたしも2度やられている。そして、脱出した走ったらまた、壕(ごう)があったんですね。壕に飛び込んだら彼がおらなかった。戦車から撃たれて、そこで死んで そういうような本当にね、もうわたしの片腕というような名手が亡くなったりそれはやはり日にちを思い出す、その戦場のことを思い出すとですね、毎日拝むたびにその人のことを思い出しますね。うん。

いやもうはっきり言ってですね、フーコンに行く途中で、わたしはどうしてこんな所に行くんだろう、どうしてこういう山の中でですね、人も通らないような誰とも会わないですからね。山道は。獣の道みたいな山道をずーっと歩く。こんな所でどうして戦争するんだろう、なんのためにと思いましたね。ええ。結果的にはいわば、援蒋のことをレド公路をね、言わば英軍、米シ軍が作って、レドから昆明までトラック道を作って、援蒋ルートを完成させるという話を聞きましたけど、行くときはそう思いましたね。どうしてこんなところで戦争するんだろうと。はい。ひどいとこでしたよ。はい。

もう山道を歩いて休憩点にいきますとね、もう上からサーッと音がして、ヒル、山ヒルが落ちてくる。それが耳に入ったりわきの下にそして、こかんに吸いついたりするんですよね。それはすごいですよ。そして、葉っぱが揺らぐですね、こう。そしたら葉っぱの裏側に山ヒルがいっぱい引っついている。そして人間の吐く息を感知して、その葉っぱから雨が降るようにサーッと落ちてくるわけですよ。そんなもんひどかったですね。みんなやられましたよ。まさかみんな考えてもいなかったようなことが。そういうとこでした。

それからブト、ブヨと言いますかね。小さなハエのような小さな、これいっぱいひっつくんですよ。こう出していますとね。これに。要するにこれをたたく。そしたらですね、ホクロみたいに手の吸い上げた血の跡が、ホクロみたいにいっぱいこう付くんですよ。

そういうもう本当、こんな所ね、山ヒル、フト、それからもういろんなね、考えられないようなそして猿が多かったですね。わたしたちが行くと、猿が鳴くんですよね。もうそして、進んで行くと猿が木から枝から枝へ移りながらわたしたちのあとを追いかけるようについて、うん。そんなそういう場所でした。

それはね、もうびっくりするようなというのは、わたしが小隊長で一個小隊で前進陣地というのを守っとったんですね。そしたら敵が来た。そしたらね、迫撃砲を撃つんですよね。で、毎日1200発ぐらい撃つ。27、8名で守っとる陣地ですよ。そこにですね1200発ぐらい撃ってくるわけです。瞬発信管ですから木の葉っぱに当たってもさく裂するわけですね。ジャングルの中でしょう。そして、壕(ごう)はね、工兵隊が事前にこの場所にということで、陣地を初年兵と一緒にですね、作ってくれた立派なものがある。だから、木を倒して、そして壕の上にかぶせてですね、その上に土を盛ってというような壕をこさえとったから、それで直撃弾が来ても瞬発信管だから上で弾け、中まで来なかった。それを1200発ぐらい撃つんですよ。

最初はね、陣地がね、畑みたいになるのね、というのは、さく裂したあれで、その木が吹き飛ぶわけですよね。

Q:もともと密林だけど

密林が。ジャングルの。そしてだんだん開けていく。大木が倒れる大木がこのくらいの木は倒れるぐらいですね。そういう具合にひどかったですね。というのは、まあ、連合軍といいますかね、アメリカ式装備をした新編第1軍が蒋介石直系軍なんですね。インドで教育を受けた、はい。身辺第1軍が勇敢だけど、とにかく徹底してほうはくですね、砲撃迫撃砲の攻撃でもって、日本軍の陣地をたたくだけたたいたあとで、攻撃するんだということじゃないですか。日本軍はあんまり撃つと弾がなくなりますからね。そんなに補給が利かないから。向こうはふんだんにそういうのを使う。うん。びっくりするように撃ってきます。うん。

Q:ちなみにそういうときは菊兵団の方たちは、向こうが1200発撃っているときに菊兵団の方たちは、大体何発ぐらい撃ち返していたもんなんですか。

いや、撃ち返しはしないです。撃ってくる間は黙ってもう、壕の中で。当たらないように避難しとくわけですね。

Q:耐え続けるんですか。

うん。ただ、陣地を撃ってきとる間は敵も来ないわけですね。自分の弾で当たるかわからんだから、こないわけです。だからこちらも直撃弾を直接、壕、蛸壺(たこつぼ)ならずですね、それに当たれば死んじゃいますから。だから、掩蓋(えんがい)をしとると、掩蓋の上でさく裂して、助かるから、だからえんがいの中に避難というか、隠れとる。そして終われば、敵が来るかもわからんから、陣地へ着くということですね。それは交通壕でつながっていますからね。

まぁあの、ひとつはですね、第18師団菊兵団というのは、まぁ、いわばマレー作戦、シンガポール攻略作戦を経てですね、ビルマの艦艇作戦、ビルマ攻略作戦を経ていわゆる負け知らずの精鋭部隊であったということで、非常に団結力もあったし、そしてまた九州の、どっちかというと、まぁ必ずしも裕福でない佐賀、長崎、福岡県を主力にした軍隊でしたからね、かなり厳しい中でも耐え抜く力を持っておったということじゃないでしょうかね、それが耐え抜いたと。

それともう一つは、フーコンという地形が大きく左右したんだと。というのはですね、フーコン地区は、朝は霧がかかるんですよ、一面にですね。そうすると、例えばですよ、飯盒(はんごう)でごはんを炊くと煙が立ちますね、しかし、一面の霧だから敵の飛行機もその時間はこないわけですね。で、煙でもって、「あすこに日本軍がおるからあそこを攻撃しろ」ということも、なかなか煙が霧のためにわからない。だから、午前中はわりとそういうことで耐えられたと。で、夜ももちろんですけどね。

だから、わりかたそれで長持ちしたところがあるんですね。兵力もさることながら、気候それから土地の状況ですね、もうジャングル地帯ですから、ジャングルの中に入ると、飛行機が飛んできても、日本軍がどこにおるかもわからんと、陣地がわからないと、いろいろそういうことで長くおったんじゃないでしょうか。

うーん、まぁ、とにかく向こうのいわゆる連合軍の兵力、特に新編第一師という蒋介石直系軍の戦力というのはやはり相当な力を持ってましたし、それもアメリカ装備でしょ。だからふんだんにいわゆる新兵器と砲弾を使って攻撃してくるわけですから、とてもどの部隊がおってもなかなか支えきれなかったと。

と同時に、まぁインパール作戦後したからよくなかった、わたしはそう思っている。いや、あのインパールに行くことはなかったんですよね、実際は。ただ、まぁわたしたちがそんなことを言うたらいかんけど、と思っております。

その3個師団の、1個師団あるいは1個連隊でもいいから、フーコン地区のいわゆる後ろのほうで守ってくれれば、そんなには被害がなかったんじゃないかと。だから兵力の差が15対1ぐらいですからね、どんどんどんどん後ろに回ってくるんです、敵が。で、下がると後ろを囲むんですね。前と後ろとそういうことでね、攻撃されたり、兵力の差があまりにもあったという。

ええ、よくぞ戦ってきたというふうな感じですね。まぁ初めて来た初年兵がですね、初戦で1200発も撃たれると震えてね、分隊長の所に震える手でに、ね。そうしてわたしに、「困ったもんですよ」とね、「初年兵が迫撃砲の攻撃を受けると震えてね、わたしの手を握って震えるんですよ」というようなことを報告してきた分隊長もおりますね。そのくらいやっぱりしれつでしたね。

まぁ1200発というのは本当ね、ちょっと、「そんなに」というふうに思われるかもわからんが、実際はそのくらい撃ち込んできたんですからね、やっぱり震えるのが当たり前で、震えんのがおかしいぐらいっていう。まぁだんだん慣れてきましてね、壕の中に、えんがい壕におれば当たらんのだというようなことも。

で、ジャングルの中だから瞬発信管は上で弾けて下まではなかなか、あとでタイエン機に替えましたからね、敵も。日本軍の陣地を見て、「あ、これじゃいかん」と。だからタイエン機の迫撃砲は一回地面に突き刺さって爆発するから、それが効力を発揮しだしたんですね、それは、4月以降はそういうことでしたね。

いやぁそれはね、わたしね、わかったですよ。怖かったちゅうよりね、頭の中で怖かったです。というのは、わたし、分隊長ね、まず軍曹ですから。そしてシンガポール作戦にもかかわっていないし、いきなりビルマに行ってそして分隊長、やがて小隊長になるんだけど。

わたしはね、こう思いましたよ、敵と遭遇して弾が飛んできたらね、わたしは部下を置いて一人で逃げるんじゃねぇかな、ね。いつも頭にありましたよ。「敵が降ってきたら、自分の分隊をそこに置いて自分一人で逃げるんじゃないかなぁ、おれは」と、そのくらいやっぱりあの、もしそういう戦闘になったら、そういうふうな行動をとるかもわからんなと心配でした、自分で心配してました、それは。

しかし、まぁ、だんだんと慣れてそういうことはしなかったんだけど。しかし、申し上げましたとおり、メイクテーラでこれをやられて、小隊が全滅するなと思ったときにね、この陣地にそのままおったら全滅するからいけないと。じゃあもう一か八か戦車の前を突っ切って脱出するぞというような、そういうことはできるようになりましたね。

Q:そういった中で、ビルマで九死に一生を得たって、大体何回ぐらい?

そうですね、タスバムの前進陣地で2回ね、敵の18日の、17日にですね、わたしはちょっと気になることがあったらそこに行ってみようかという、ちょっとね、命令でなくて自分で行動を起こす性癖というか、そういう癖があったんでしょうね。

それで、1回斥候に出たら敵の斥候とぶつかって、そしてその斥候を1人倒して、そして背負い袋の中を見たら、ワイシャツとセーターがあったからわたしはそれをね、

Q:あ、中国兵のですね。

ボロボロのあれを着替えて。そうしたら17日の日、敵が1200発ぐらい撃ってくるでしょう。と、陣地のここら辺に敵を、わたしたちは、陣地をこうちょっとここをね、「どういうふうになっとるか見に行ってみよう」ちゅうてね、6人で行ったんですよ。

そうしたら敵の兵隊さん、兵隊がジャングルの中で大便をしよったんですね。それでそれにぶつかってですね、それを捕まえようとしたら大きな声を上げた、それで射殺した。そうしたら敵の兵隊がザーッと来たわけですよ、「あ、こりゃいかんな」と思った。

そしたらね、パッタリわたしとね、ジャングルの中ですからちょうどガクノウぐらいの所に2人来たんです、2人か3人。そうしたらわたしと顔を合わせたら、そうしたらね、わたしが前の日に、その数日前のワイシャツにセーターを着とる向こうの服装と一緒やったもんだから、向こうは自分たちの中国兵と思ったんでしょうね。知らぬふりをしてこう、それでしゃ、そういうこともありました。

うん、やっぱりひどかったのはメイクテーラの3月16日の戦闘ですね、戦車からやられたとき。それはやはりもう。戦車はですね、近くで撃ちますんで、パッポーンというさく裂音が先に来るんですね。

まぁ、ご存じのように音の速さは1秒340メーターとかいいますね、そして発射音よりもさく裂音が早いわけですね。さく裂したあとに撃った弾の音が聞こえる、そのくらい接近した所から撃ってくるわけですからね、もう、こっぱみじんに。

Q:そのときはあの、お仲間の方、大体何人ぐらい行って亡くなった、何人ぐらい亡くなったんですか。

そのときはですね、まぁ脱出するときのあれとあわせてね、3名か4名、4名ぐらいでした、そこで戦死したのは。脱出できたんですよね。わりとわたしのおった小隊は戦死する人は少なかったわけです。

もうあの、いわば戦車砲それから戦車機関砲で撃たれて、わたしがここやられたときはわたしの隣の分隊長は頭をやられて、そこで戦死という。

Q:あの鉄かぶとをかぶってたわけですよね。

鉄かぶとをかぶっとってもですね、あの、横に当たって、それでわたしが三角布を巻いてあったところまではあれでしたけど、もう助からないと。

それと、脱出するとき、擲弾筒(てきだんとう)の一緒の人がね。擲弾筒を捨てて走ったらよかったかなと思うけど、ま、それはできないわけですね。やっぱり自分の武器を捨ててまで脱出するっちゅうことはなかなか。

それは命令で中隊長とか小隊長が、「武器は捨ててでもいいから丸腰で脱出せろ」と言えばあれだが、まぁそこまでのとっさの判断はなかなかね、個人ではできても全体に命令するようなことはちょっとできんですからね。ひどかったですよ。

フーコンの作戦のパムシンという所で、4月7日でした。それはあの、中隊長の指揮壕という所があって、そこに1個分隊、わたしの小隊から護衛兼陣地かこうでやっとった。そうしたらね、迫撃砲のタイエン機の直撃弾が中隊長の壕に直撃したわけですよ。それで、その壕の近くにいわゆる壕を掘っておった兵隊が、6名そこで戦死しましたね。

Q:6名?

ええ、6名。そして中隊長は指揮壕の中の片隅に、頭がい骨にヒビが入った形でですね、もう意識がない形で倒れておった。それでわたしのほうに伝令が、「こうこうだ、中隊長壕(ごう)に直撃」っちゅうことで行ったんですよ。

それで、中隊長を出し、それから壕の周辺に死んでいる戦友をその壕の中に入れて、それで中隊長を救出すると同時に、中隊長に命令が来てますね、三号無線があったもんですから、その無線で受け取る命令受領の命令文を全部持って、そして担架をこさえて、その中隊長を脱出し、後方に下げたことありますけどね。

その壕のそばで倒れている兵隊のですね、足がこうなって倒れておるわけですね。で、わたしがこの足を握ってパッとやったら大もとからパッと、片足ですよ、大もとから切れて。わたしもびっくりしましたね、こう引き抜いたら、助け起こそうと思って引き抜いたんです、そうしたらここからスポッと取れて、そういうふうにひどい状態の戦死の状況ですね。

それともう1人同年兵の軍曹が、斥候遭遇戦で腹をやられて、で、腸からです、小腸が出てくると。ちょうど小腸というのは小指ぐらいのあれですね、それがここから吹き出とるわけですよ。

それで、さきほど言うたオオカベ軍医という人が配属部分の軍医で来てましたけどね、それを両方の人指し指で弾の入ったところに入れるわけですね、そうして縫合して。で、入った弾は抜き取って、そうしたらその、ハヤシ軍曹というんですがね、「おなかに力が入らん」ちゅうわけですね。そして「たばこが欲しい」ちゅうて。で、中隊長がたばこを1本火をつけてやったら、1、2服ちょっと吸ってそのまま亡くなりましたよ。

それはね、このくらいの腸のあれはですね、おなかからこう吹き出るわけですね。それをこうやって入れて縫合したけども、結果的には亡くなりました。柔道2段の豪快な戦友でしたけどね、わたしと同年兵の幹部候補性だったですけどね、やはり。まぁそういう、非常になんともいえん思い出がありますよ。

やはりもう、マラリアは病気じゃないということですよね。いわゆるそういう命令が出たんですよ、「マラリアで入院はさせないと、それは病気じゃないんだ、みんなかかるんだから」というような、そのくらいね、兵力がないから、もう病人も病人でないから、第一線で戦えというような戦闘でしたよね。

わたしは食べたものが全部吐くんですよね。そしてマラリアと栄養失調みたいなジャングル病みたいなもの、それで衛生兵がサトウ兵長という人がわたしにつっきりで注射を打ちながら、山を歩く。

そしたら指揮官のフクダさんという方が分隊長を集めてね、僕がおるから中村が病気で歩けんから、この山道をね、連れて行くわけには行かんから、残して行くかとあるいは、それが嫌なら君たちはね、僕をたたいてでも連れて行けというようなことをわたしはそれがあとで聞いたんですけどね、それで動けんのですよ。もう5分か10分注射を打って歩いたらまた、そこで止まると。食べるもんが全部、吐き出すというような状況でした。ああ、これで死ぬんかなと思いましたね。がけの上で寝るんですからね。道はないわけですから。

それでがけの上で寝ながら、ここで死ぬんだなと思いましたけど、そしたらもう中隊長代理のその人のフクダ中尉が「しかたがないと、道路に出ろー」と。敵は後ろから来たからジャングルの中へ入って、それで脱出をはかったんですけどね。それでもう敵と遭遇してもしかたがないというて、道に出たんですよ。そしたらね、敵を遭遇せんで、ロンキンという友軍の場所に着いたですね。着いてそしたら出迎えた隊長がですね、それで軍医が付いとったんですね。

その軍医がわたしの顔を見たら、「中村君、具合悪いんちゃう? ここに寝なさい」って言ってですね、木の根っこの所をわたしを寝せて、そして診察して、注射を2本打ってくれました。そしてすぐ入院だと。もうオカベ軍医という方でしたからね。その人が顔を見るなりわたしの「具合が悪いんだろう?とここに来なさい」注射を打つ。入院、野戦病院に入院しなさい。もう命をまあ、そこで落とすとこだったですね。

まぁ、ビルマで戦うというこ自体がね、少しやはりやり過ぎじゃなかったんだろうかと思いますね。というのは、マレー作戦でシンガポール攻略ぐらいまでで、あとまぁ戦争を拡大せんでね、いわば和平交渉を早く進めてもらいたかったなと、わたしはそう思ってましたね。というのは、戦争前に、わたしは上海におったもんだからね。

強さがもう身にしみて分かっとったから、アメリカと戦争しちゃいかんなと。まぁ「負ける」ということばは口にできんやって、アメリカには勝てないと思っていましたからね。もうビルマ戦線まで拡大することはなくて、本当はシンガポール攻略後ぐらいで、まぁ講和条約が結べられたらいちばんよかったんじゃないかと。

実際メイクテーラで戦車軍からやられたとき、もう日本軍は戦争には勝てないなとそう思いましたからね。そして5月7日にですか、ドイツが無条件降伏したというのを転進中に知りましたからね。
菊部隊っちゅうか菊兵団というのは、いわゆる中隊、小隊、分隊、それらがきっちりしてましてね、しっかりけん制のとれた部隊でしたよ。

だからまぁ、戦車が来ても、戦車を撃ってかくとするね、武器がないという状況で。それ、もう歯が立たないような形のいわゆる兵器のそういうね、近代装備の違いが決定的に戦争を左右したと思いますね。

菊兵団のいわゆる兵力あるいは指揮系統はね、立派なもんでしたよ。というのは、終戦になったら、戦争が終わってですね、わりかた脱走兵とかそれから部隊で混乱が起きるわけですね。上官暴行とかね、「わたしは戦争中にあんたからいじめられたから仕返しするぞ」というふうな意味のそういう上官暴行等があったけど、菊兵団にはそれがなかったですね。

まぁ非常に過酷な第一線に突っ込まれ、遭遇させられた、そういう戦闘を強いられたというのが菊兵団の運命でしたね。あの、東飛行場の攻撃なんてね、戦車砲をおざする術がないのに、戦車が20両も幾らもある所に行って飛行場を確保す、できるはずがないわけですよね。

そして戦車軍団から完膚なきまでに攻撃されて、そして目の前に来とる戦車を、速射砲にわたしがね、一個小隊がわたしの横におりましたから、「速射砲っ、目の前の戦車砲を撃てっ、どうして撃たんのかっ」て言うたら、「撃ってもはね返るから撃たれんっ」ち言うて小隊長が言うた。しかし、そうは言うたもんの、戦車から、1発も撃たんで結局その小隊は全滅したわけですね、速射砲の。

だから、撃てばよかったのね、かなわんまでも、目の前だからしかたがないわけですよね。で、黙っとったからやられてしもうた。わたしはやっぱり擲弾筒(てきだんとう)も撃たしたし、軽機も撃たしたし、小銃も撃って、そして、「あー、このままじゃ全滅するから脱出する」ちゅうて脱出したのが、おかげでたくさんの兵隊をそこで戦死させんですんだとね。3、4名の戦死者でくい止められたと思います。

戦闘、まぁこれはわたしの実感ですけどね、戦争を長くしてますとね、涙が出ないんですよ、はあ。最初はね、戦死者が出たら、そしてあれして涙が出る。だんだんだんだん戦争を積み重ねていくと、まぁ、戦死者を見ても涙が出ない、出てこない。ただお祈りするだけというような状況ですね。人間というのはそんなになるのかなと思うけど、涙が枯れるんじゃなくて出なくなるわけですね。

(昭和19年)6月のね、3日に転進して、7月7日に出たでしょう、最初の3、4日は持っていった米があったんだけどもう無くなる。で、ジャングルの中で山芋を掘る。それから「ジャングル野菜」というてですね、ちょうどあの菊の葉っぱみたいな草を切って、それからゆがいて食べる。それと、バナナのしんですね、バナナの茎を切り倒してこれをはいでですね、しんがこのくらいにあるんですよ。それを輪切りにして食べるというようなことで食べて。それから木の実が落ちて、こう見たら、サルがかじっとるような形跡があると、「サルが食べとるから大丈夫やろう」というんでそれを拾って食べたりしてしのいできたんですけどね。

Q:戦友と分け合ったりなんかしたわけですね。

ええ、ええ。そのときにですね、わたしは寝とって、まぁ老人が、夢の中ですね、老人が、もう本当、仙人ですたいね、つえをついた絵に書いた仙人と同じ。それ仙人の絵が頭にあったんでしょうね、わたしを起こすんですよね、つえで。「起きろ」と。そうしたらね、あの、茶わんいっぱいの白いごはんと、そして、ぜんざいをですね、どんぶりいっぱいのぜんざいを「お前食べろ」と。

Q:それほどね、おなかがすいていたというそういうことなんでしょうね。

「これを食べると元気になるぞ」と言われて食べた。そうして朝を目覚ましたら元気になりましてね。やっぱりそういうのはね、作り話のようなことがあるんですよね。本当にね、元気になりましたよ。

Q:ただ、まぁやっぱり戦場での戦友の姿というのは、今もやっぱり忘れられないということですよね。

まぁねえ、戦友、本当にね、考えられんようなね、いい、元気な人がたった1発の弾に当たって亡くなるわけですからね、本当に。まぁ、戦争だけはしちゃいかんと思いますね。

まぁ、仕掛けられた戦争をどうするかということもあるでしょうけど、まぁだから、日本は防衛だけはしっかりやってもらいたいけど、戦争はしちゃいかんなぁ、うん。

出来事の背景

【北部ビルマ 密林に倒れた最強部隊 ~福岡県・陸軍第18師団~】

出来事の背景 写真昭和17年5月、日本はビルマ全土を制圧。しかし、連合軍はインドからビルマ北部を経て、中国の蒋介石率いる国民党軍に支援物資を送る「援蒋ルート」の一部建設に動き出した。その進行を阻止するため、日本軍は通称菊兵団と呼ばれた第18師団4000人を、インドとの国境線の密林地帯、フーコン地区へ送り込んだ。昭和18年10月、連合軍がビルマへ進攻。連合軍は、密林での戦いを研究し、小型の迫撃砲や自動小銃など機動性の高い武器を準備してきた。対する日本軍は、中国戦線で使われていた大砲をそのまま現地へ持ち込んでいた。砲弾は密林にさえぎられ、容易に敵陣には届くことはなかった。
さらに、中国戦線では日本軍が圧倒したはずの中国軍が、ジャングル戦の訓練を受けて鍛え上げられたうえに、米軍の最新の装備で、日本軍を追い詰めてきた。
さらに、インパール作戦の失敗により、フーコン地区の第18師団は、援軍も補給路も絶たれた。そしてついに、昭和19年6月、連合軍の攻撃に追い詰められ、ちりぢりとなって、フーコンの南にあった日本軍の支配地域を目指して後退した。

昭和20年8月、ビルマ南部のシッタン河のほとりで斬り込み攻撃を続けていた兵士たちは終戦を知らされた。フーコンで戦った4000人のうち、3000人以上が戦死した。

証言者プロフィール

1921年
長崎県島原市に生まれる
1942年
長崎大村第146連隊に入隊、歩兵の訓練を受ける
1942年
ビルマへ移動
1945年
終戦
1946年
復員後は、映画会社の社員として映画館の支配人となる

関連する地図

ビルマ (フーコン)

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