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タイトル 「全く補給が来ない最前線」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] 北部ビルマ 密林に倒れた最強部隊 ~福岡県・陸軍第18師団~
氏名 永松 一夫さん(第18師団 戦地 ビルマ (フーコン)  収録年月日 2007年6月1日

チャプター

[1] チャプター1 中国戦線からビルマまで  02:48
[2] チャプター2 「死の谷」に送り込まれた「菊兵団」  02:47
[3] チャプター3 使えない武器  05:16
[4] チャプター4 補給が来なかった最前線  06:03
[5] チャプター5 放棄した大砲  06:01
[6] チャプター6 「18師団」という軍隊での生活を振り返って  03:54

再生テキスト

最後まで団結力があったね。だから、さすがにやはり、最後までね、部隊というものはね、分裂せずに、小さくなっても1つの集団でね、最後までまっとうしたら、やはり相手からも強く見られると思いましたね。それで戦後になって初めてね、外国の新聞がね、英字新聞見たりね、友達同士で話してね、やっぱり菊部隊は強かったんやなと。それからよその師団の方からね、「菊」は強かったと、強かったと言われたり。

しかし戦争中はね、残念なことには、米支連合軍になったでしょ。アメリカから火力と機動力を中国軍に与えてね、そして作戦指導しとったからね、中隊長にわたしが、「中隊長、菊部隊は強いとわたしは聞いとったが、残念ながら、歩兵さんは、ひどい目にあうことが多くて、きついですね。」言うたら、「いや僕も、今までの戦争と違って、なんでこんなに負けるんだろうかなあ、ようわからん。」って、こうおっしゃいましたよ。

というのはあとになって考えてみたらね、あれだけの火力とね、あれだけの機動力を持っとって、しかも圧倒的に征服力も握っとったでしょ。あんなジャングルではね、征服力も徹底的に握っとるからね、自由にね、行動が出来ますよ。あの中歩いて行動することはできないんですってね、実際問題。だから、そりゃあ敵さんは、そこの訓練をやっぱり優れとったんやないかなと思います、あの爆撃のしかたを見て。

自分の体験はそういうことです。

で、インパールが始まる前まではね、敵は空てい部隊はね、北部ビルマ全体にね、すごいこと空てい部隊、スパイですな、を下ろして、日本軍の配置状況とかね、それから橋りょう、鉄道の状態ね、そういうのを、2千人ぐらいの空てい部隊を下ろしてね、詳細に、約1年ぐらいかかって、準備周到に偵察しとったんです。

だから、いよいよ作戦が始まったらね、そういうところにスパイを置いとったり、どこがどうなっとるな、ものすごく詳しいて、我々はフーコンという所自体がどんなとこやら、行ってみるまでわからなかったんですからね。ただ、将校教育のときにね、情報係の隊員が、時々フーコンというとこはこういうとこだということをね、情報将校が教えるけども、もうそんなとこぐらい、なんぼのもんと思って行ったって。だから、もちろん体験もないけど、人の情報だけでね、行って、そしたら、その情報以上に深刻だったということですよ。まったく安穏の気持ちです、やな。

だから砲兵もね、なんであんな野砲やらあんなの持って行っただろうかと、あとになったら思いましたわね、ほとんどジャングルのね。平原で射撃する任務はあんまりなかった、ただ、マインカンね、あのへんの平野がありましたわな、フーコンの中にも。あすこだけですよ、本当に。射撃らしい射撃をしたのは。

それとタイバカナの第1戦はね、川のね、堤防に沿うて、川岸に沿うて全部砲列を配置しましたからね、ほとんど前のほうががら空きでしたな、空間だったから、自由に射撃ができた。そこだけです。あとはもうみんな、ジャングルに遮られてね、もう向こうが見えないけん、射撃がなかなか、野砲の射撃は無理だった。

ビルマではもうほとんど、相手を見ることはなかったからね。ほとんどジャングルの中だから。ジャングルの近くで、敵と対じした場合は、歩兵が電話でね、「敵の位置はこのへんでしょう。」ということをね、電話で教えてくれよった。

そしたらね、地図を見てね、歩兵の今地点がどこであるということを、地図の上で歩兵の位置を決めて、それで「ああここだな。」と思って、地図で全部、図上で評定するわけですから。それで、そこに対して距離が出ますからね、図面では。25万分の1です、あなたね、ご覧になったかは知らんけど、25万分の1で、全部それですよ。そしたら、距離を出して、それで方向を出して、まず撃ってみるんですよ、2,3発。そしたら、とんでもないとこへ弾が行くこともあるし、手近で来たり、よっぽどそんなときには、近くに落ちることもあるけど、それを今度は自分で、観察行った小隊の観察係の小隊長が、「今撃った距離は勘ですよ。100メーターぐらい遠くへ行った。」とかね、「100メーターぐらい右に行き過ぎた。」とかね、そういう勘でね、弾を流しよりました。そしたらだんだんだん撃っていくとね、当らずといえども遠からず、敵の目標近くに弾が落ちるようになる。

ジャングルの中では使い物にならないです。だからジャングルのない地点からね、ジャングルからずっと離れた、砲列を、火砲の砲列を引くところをどこに決めるかが、これがもうひと仕事やから、そんな適当な所はなかなかなかった。ある所はあるけどね。
敵は迫撃砲持っとんのに、有効ですよ、どこ持っていっても十分できるんだから。

Q:迫撃砲と山砲、野砲の弾の軌道ってのはどこがどう違うんですか?

もう、いわゆる迫撃砲はね、せいぜい射程にしたら、そうねえ、1キロもないでしょうね。500メーターか300メーターぐらい。いわゆるこれでいくわけですよね、高さで。

Q:高いんですね?

高い、高い。だから、ジャングルの2倍ぐらい高さに上がって、こう撃ち落してくるんですよ。
それはね、迫撃砲隊なんていうのはなくて、連隊でも歩兵の連隊でも迫撃砲を持っとったのは向こう だと思います。というのは、もう作戦がね、あんな南方のジャングルなんかで戦争するなんて、極端なことばで言うたら夢物語で、あんな所に行って、中国やら満州からね、兵隊が移動してくるなんて、まだ移動しようとも思っていなかったんじゃないですか、どうかわかりませんがね。

それはね、全部航空、飛行機でね、日本軍の陣地をね、測定した、いわゆる偵察して、日本軍の陣地がどこにあるかを偵察したうえでね、助言をね、教えるわけですよ。だから、あんまり無駄なのは撃ってこないです。もう最初撃ってきたのがもう砲列の近くにやってくる、それだけ、飛行機正確ですけん。ブルンブルンブルンって言いよりましたが、木の飛行機ですよ、偵察機は。

 それがね、もう舞い出したらね、どこを舞うんかいうたら、日本軍の砲列ね、火砲の、特に、ジュウゴリョウ(九六式十五糎(センチ)榴弾(りゅうだん)砲)、野砲の砲列をね、探索するわけですよ、上から。それでしかも50メーターぐらい下がって来るんですけんね。だから日本の戦闘機が1機でも2機でもありゃ、すぐにあっという間に落としてしまいますよ。

しかしもう制空権出とるでしょ。だからみんな、相手はいわゆる特殊な観測機かね、観測機ですよね、それで日本軍の陣地、それから司令部をね、みんな評定して、それでそこに発煙弾を最初撃ってくるから。それで発煙弾を見とってはそれがどの地域になったか、飛行機が観測するでしょ、で今度はこんな砲列のほうに無線でやるんですよ。

最低のときはずーっともう下がって来てね、後退してったときは、ちゃんともう制限されてね。あの、1日6発とか3発ね。それもね、敵をあざむくためにね、まだ弾があるぞというためにね、パラパラ撃てというわけ。

Q:あざむくために撃ったんですか。

そうそう。あざむくために、あざむくというたらいかんけど、まだ弾があるんだぞと、まだいつでも射撃ができるんだという、その、相手はそう思ってないでしょうけども、こっちなりに考えたんでしょうね。

Q:1日6発しか撃てなかったんですか?

いや、撃てないようにされた。

Q:弾がそれしかこないんですか?

ない、こない、うん。弾がこない。それでね、これはもう、相手とね、絶対戦わにゃならんというときにはね、弾をちゃんと供給してくれました。そんな戦いというのは勝つ戦いですよ。負けるという戦いのときにはね、なんぼ撃ったってどうにもならんけど、勝つと、ここは地形的やなんやかんやで有利だと見たときにはね、弾を使わずに、そういうときに使いよるの。

Q:じゃあ連合軍は、どれぐらいの弾の数をね、撃ってきたんですか?

あれはね、マインカン含んではおそらく800発から千発撃っとった。

Q:それは、1日ですか?

1日、1日。

Q:1日で?

ああもうね、連動式ですから弾が。われわれの砲兵がね、1つずつ照準を見ながらね、撃つでしょ、こう回しながら、眼鏡を見ながら。あれらのとはもう照準決めたらね、機関銃ですかな、連発してダダダダダーっと撃ってきますよ。だから弾の揺れがあったってええということですよ。だいたい揺れがあってもね、もう相手を威嚇してしまうという、そういう射撃やった。

だから、四門砲兵って言よりましたけどね、四門がバババーっと撃ったらもう20秒もたたんうちにまたダダダダーっと、どんだけ撃ってくるですよ。だから、砲身も強いということですよ、あれね。

というのはね、詳細はわからないけどね、ひと晩中撃ってきよったから。マインカンあたりでですよ。そしてね、それでね、あれを全部焼いてしまうんですよ、ジャングルを、裸にしてしまう。そいでそこに住んどったね、野牛ですか、野牛ね、野牛が焼かれてしもうてね、住まいをね、ジャングルを。

全部ジャングルから、夜ですよ、夜はほとんど曳光弾(えいこうだん)ですからね、撃ってくる弾は、曳光弾で。だから野獣が逃げてね、そしてマインカンの川のほうに何百匹と逃げてきてた。

もうね、ひと言で言いますと、残念でたまらなかったけどもね、砲手っていうかね、弾を入れて射撃する砲手ね、いわゆる砲手と言いますわな。あの人らは残念がりよったですよ。「弾さえありゃなんとかなるんだがな。」言うて。

それでね、弾のことちょっと言いますとね、弾がね、前線にこなかったんですよ、前線に。後方にはあるの。それはあとでわかったんですよ、あとで。前線にね、輸送することができなかった。制空権握られとるから、弾を輸送するやったらみんなトラックで輸送するしかないでしょ、前線に。だからわたしらは、最初のときはね、もうタイパカのいわゆるいちばんインドに寄ったとこのタイパカの川辺へ布陣したときは、さっき言ったように150発ぐらい撃ってありましたやろ、砲身が焼け付くほど。しかし、それはそれまでの間に十分弾を貯蓄しとったから。

しかし負けだしたらね、もう負けるいうことはね、あとの補給はないから負けるちゅうことですよね。負け、即輸送力がなくなったということ。どんどんどんどん下がってくると、結局後ろの後方の陣地、たとえば第一線から50キロも80キロも下がったところにはね、集積所があったんです、みんな弾が集積所に。しかし、その弾を集積所からね、運ぶことができなかった。制空権握られとるけん、トラックが動けんわけです。

Q:人力で・・・

人力はね、事実上できませんわ。もうほとんど牛でね、運びよりました。人力はね、大変ですよ。野砲の弾でも、あれ7キロか8キロあるでしょ。だからもう、トラックで近くまで運ぶのがいちばんええけど、それはもう、制空権握られてるから、道路もそういうトラックがずーっと運ぶような道路でない。敵さんはね、トラックが悠々と運んで来れるような道路を作っていってますからね、敵のほうは。それはもう、道路の問題からしたって、日本軍と敵の輸送道路とは格段の差だったと思います。

で、わたしら、まあ、あの、カマインの近くまで来たときに、野砲は全部、砲を投げましたわね。砲を全部7中隊、8中隊、9中隊、野砲、カマインの近くの、いわゆる川の近くの10キロぐらいのとこでね、全部火砲放棄した。

そのときからもう、もう、弾はほとんどなかったと思う。それはもう、完全に包囲されてしもうてね、このままじっとしとったら、火砲もろとも、人間も全部玉砕するという状態になったから、人間を取るか、火砲を取るかになったら、兵隊を取った方が戦力になるでしょう。だから、火砲をみんな投げた。

だから、あんときね、確か、2門ずつやったから、三個中隊やから、6門、火砲ね。で、投げて、壊したということ・・・あの、火砲、弾にも、火砲の使用できない不能、使用できない不能にしてね、皆投げたわけ。

あの重たいものを、あんた、ジャングルの中で道のないようなところでね、まあ、道ないとは言えんけど、もう、小さな小道の中を、押して逃げることしようなんか、ある程度までは押してね、もう、これから先は、もう、押しても人力ではだめだとなる。それまで馬で引っ張って行ったわけ。

もう、必ずね、火砲を移動するときは馬が必要ですよ。馬でそこのカマインの近くまで引っ張って来たんだよ。しかし、そこでね、包囲されてしまったのよ。それは、三方連隊だけではなく、歩兵も全部包囲されてんの。あのカマインの川を渡らせまいとしとったわけ。

それでそこで来たときに、火砲をね、皆、自動的にね、操作、敵に陥っても操作不能にしたわけですよ。

そのときはね、もう、もう、大隊長命令やったからね。大隊長代理の命令。ヤマダ大尉やったかな。あのときね、もう、どうしようもならんからね。もう、あとは命令に従う以外ないと思った。自分の個人の行動とか主観はもうないです、ああなったら。もう、生か死の場面ですけね。

だから、やはり、あの、大隊長が、兵隊、負傷兵を助ける方が主だという考えに至ったんやと思いますね。
全部やられてしまうと。そしたらね、あとの抵抗ができんでしょ。で、火砲がなくなったら、わたしら全部歩兵になったの。かわいそうなもんですよ。砲兵がね、歩兵になるということは。まあ、歩兵は歩兵の戦争慣れた方だけどもね、砲兵はまったく、銃を持って皆、出た。

勝てるんやなくて、何とか維持できるんやないかなと思ったんやないかと。まあ、偉い人は先見とってろうけも、言わんだけの話じゃからね。で、乾季の間だけはもったですよ。撤退が始まったのが、ちょうど雨季が始まるころに、フーコンから撤退が始まったわけですよ。

だから、そういう撤退になってくると、もう、さっきも言ったように、かつての道路は水が1メーターもたまるようになるし、泥水になるし、それから、何です、動きが取れないことになるんですね。

ちょうどその、雨季の最中に、カマインの所まで来たわけです。カマインの所が確か5月だったと思う。5月の、何か、3月の末、4月ごろから雨季が始まるんですけね。で、わたしはもう、まあ、こんなこと言うたらおかしいけども、あらら~、もし、あの、タイパカ?におるときに、そのまま陣地におったら、ここまで撤退して来るってできなかったなと思いましたよ。早く向こう撤退しておったからね。2月のね、10日ごろ撤退したと思うんです。

あの、葉っぱをね、こう、地面に落ちてる葉っぱだと思いますがね、白いような葉っぱやと。それをね、皆、あの、砲車とかね、自分の背嚢(はいのう)の後ろね。で、きびって付けとったの。そして、それで見えるんですよ、夜。

Q:どんなふうに見えるんですか。

白く見えるんです。あの、光って見えるわけやないですよ。夜だからね、白く見えたら、パッとこう、反射するんですな。それで、ああ、前の人がどこへ行きよるな、どっちへって、蛇回路をこう、七曲がりに、こう、逃げるんだからね。もう、すぐ見失うかわからんのです。一線道路やったら見失うことはないです、撤退するときは。しかし、次々こう、蛇行して、撤退しましたからね。だから、前の人がどこ行きよるか、やっぱり、目標になるんですよ、あれ。

まあ、同じ事を繰り返すかもしれませんけどもね、やっぱり、さっき言ったように、団結が強かったんじゃないかと思うんですな。いわゆる、支離滅裂になるということを嫌がったね。あくまで、連隊長中心、大隊長中心にね、最後まで上の命令を聞いてね、まとまって行くという、いわゆる、まあ、こんなこと言うちゃいかんけど、個人で応用動作?する余地がなかったんじゃないかと思う。個人で応用動作するっていうことは、まあ、あの戦場で、逃げるということじゃないですよ、自分の思う方向にね、こう、自由に行ければ行きたかったかということですけどね、そういう意味やなくて、あくまで連隊長が、大隊長、中隊長中心、戦友を中心にしてね、行動するという、いわゆる、その、規律ですかな。これが、九州の男のあれに合ったんやないかと思いますよ。九州男児のね。

そういう、ああいう戦場になったら。

普通は、まあ、わがままなことを言うかもしらんけども、ああいう戦場になって、敵対味方のね、接触になったら、強くなるんだなと思う。まあ、元寇と一緒ですよ。

まあ、わたしは、まあ、それとさっきも言うたように、初めからね、ずーっとシンガポール以来ね、皆、同じ部隊がね、離散せずにね、ずーっと最後まで縁をつないでね、やって来たということだと思いますよ。

そのときはそんな誇りはない。なぜかと思う、それはそうすることだけが精一杯だけ。ほかにもう頭がないですよ、もう、戦場へ行った人じゃないとわからんですね。そういうことをする以外に、もう、ほかのことは何にもない。

そして、最後までがんばってね、行こうと。ね。だから転進命令が出たときにはね、やっぱり皆さん、最後までがんばってね、行けるところまで行って、戦うだけ戦って、そこで最後を決めるのは致し方なかったんじゃないかなあと、まあ、想像しますわ。まあ、ほかの、見解の違う人もおるかもわからんから、わたしはそういうふうに想像しますね。
終戦を迎えたときね。まあ、端的に言えばね、まあ、いちばんに皆さんが、あれしたのは、まあ、あきらめとったせいもあるけど、自分らどげんなってもいいけど、内地の、なんですか、両親やら兄弟ね、こういうのが、あの、ひどい目にあわにゃあいいやなあということを、皆さんほとんど言われた。うん。あの、一緒の部屋におったからね、皆が言うのは。

というのはね、勝ち戦をした国はね、いろんな悪いことをするということをね、やっぱり、認識しておったからね。認識しておった。だから、自分らの両親とか、兄弟やら妻とかいうのが、ひどい目にあわんなええよなあということを、自分らはどうなってもええと言いました。

出来事の背景

【北部ビルマ 密林に倒れた最強部隊 ~福岡県・陸軍第18師団~】

出来事の背景 写真昭和17年5月、日本はビルマ全土を制圧。しかし、連合軍はインドからビルマ北部を経て、中国の蒋介石率いる国民党軍に支援物資を送る「援蒋ルート」の一部建設に動き出した。その進行を阻止するため、日本軍は通称菊兵団と呼ばれた第18師団4000人を、インドとの国境線の密林地帯、フーコン地区へ送り込んだ。昭和18年10月、連合軍がビルマへ進攻。連合軍は、密林での戦いを研究し、小型の迫撃砲や自動小銃など機動性の高い武器を準備してきた。対する日本軍は、中国戦線で使われていた大砲をそのまま現地へ持ち込んでいた。砲弾は密林にさえぎられ、容易に敵陣には届くことはなかった。
さらに、中国戦線では日本軍が圧倒したはずの中国軍が、ジャングル戦の訓練を受けて鍛え上げられたうえに、米軍の最新の装備で、日本軍を追い詰めてきた。
さらに、インパール作戦の失敗により、フーコン地区の第18師団は、援軍も補給路も絶たれた。そしてついに、昭和19年6月、連合軍の攻撃に追い詰められ、ちりぢりとなって、フーコンの南にあった日本軍の支配地域を目指して後退した。

昭和20年8月、ビルマ南部のシッタン河のほとりで斬り込み攻撃を続けていた兵士たちは終戦を知らされた。フーコンで戦った4000人のうち、3000人以上が戦死した。

証言者プロフィール

1919年
福岡県福岡市に生まれる
1941年
秋田大学在学中に徴兵検査を受け、久留米西部第51部隊に入隊
1942年
中国にて砲兵の訓練を受ける
1943年
ビルマへ移動
1945年
終戦
1946年
復員後は炭産業の技術者として働く。

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ビルマ (フーコン)

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