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タイトル 「降り注ぐ迫撃砲弾攻撃」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] 北部ビルマ 密林に倒れた最強部隊 ~福岡県・陸軍第18師団~
氏名 高平 三郎さん(第18師団 戦地 ビルマ (フーコン)  収録年月日 2007年6月1日

チャプター

[1] チャプター1 戦友たちの最期  09:08
[2] チャプター2 「死の谷」フーコン  05:09
[3] チャプター3 思い続けた「戦友の死」  05:01
[4] チャプター4 物量の差に圧倒された  02:55
[5] チャプター5 自決を覚悟した戦車の猛攻  02:26
[6] チャプター6 生と死は「1秒」の差だった  01:54
[7] チャプター7 終戦  03:13

提供写真

再生テキスト

Q:これは何が書かれているんですか。

え、戦死状況です。あの、戦死場所とかね、戦死年月日。だから、留守担当者とか、住所とか、その氏名、皆こう一人一人書いておるんです。これは240名書きましたけども、160名分は、遺骨、ご遺骨の中に入れて送ってあげましたけれども、しかし、その、これだけのご遺骨がね、早めに、もう、帰ってきたんですよ。だから、それにはまだついてませんとおっしゃったから、それだけの何を・・・はずなんですけども、160名、中隊240名のうち、160名分は、わたしが持って帰って、それから広島の福井本部で、その、整理するときまた残ってね、人事係、あの、整理したんです。それには、ご遺骨の中に、これを入れて、一人一人入れてね、あの、送りましたけれども、早く帰った者などは、入れてないんですよ。

そして、これを送ろうと思ってもなかなかね、その当時は住所わからなかったんです。もう、この、戦後ですから。何かばらばら転宅したりね、あの、こう、しておりまして。ある程度はね、あの、まあ、送ったこともありますけど。

それは渡したかったですよ。しかしね、わからなかった。そして帰ってきたときもね、わたしはね、これだけのものをもらったらね、それをね、ようく戦死者のところにお参りに行って、そしてね、あげおったんですよ。それはもうかなりのね、「これはためずにもう戦死者の方にあげたらどうですか」というようなことでね、そして持って回った経験もあります。

喜ばないんです。
というのは、自分の子どもが戦死して帰った。わたしは生きて帰った。これ誰でもそう思うことなんですよね。「うちのはどうして戦死したんですか。あなたは元気に帰っておったのにね」っていうようなね、そんなこと言われたらもうつらいんですよ。

そしてもう回らんほうがいいだろうなと思って止めましたけども、そんな苦い体験もしました。だからこれは配りきれなかったのは残念でしたけどもね。もしかでもね、両親がほとんど亡くなって、ほとんど亡くなっていますから。

いえ、その、ご遺族の方もね、どこでどうにして戦死されたかということもね、知りたいでしょう。だから、その、ご遺族に理解してもらうために、どこでどんな戦闘でどういうふうな死に方をしたということを、これ、書いておるんですよ。

ただ、これをやらにゃいけないというね、書かないけないという、ただ、そんな気持ちですよ。書けばどうこうじゃなくて。やってやる、どうにもおれがやらにゃいけないんだと。やって、そしてご遺族の方はね、喜んでもらうというような思いが常にありましたね。

しかしこれがご遺族に行かないのが残念で何ですけども。しかし160名の分はね。ほかの中隊の人がこれを書いたかどうか知りません。ですから中隊長や大隊長は喜んでくれましたけどね、「こういうものをやってくれた」ということで。

これを出したら、「ああ、こうして書いておってくれたんですか。これでうちの子どういうふうな行動やってね、どういうふうなことやって戦死したっていうのがわかります」と。これはね、どこの方もそういうように知りたいんですよ。

だから「うちの息子はどういうふうにして戦死したんじゃろな、のたれ死にじゃろか、病気で死んだんだろうか」ということをね、やっぱり行ってお話をするとね、みんな心配しておりますよ。しかしこういうふうな戦死状況のこれをね、読んだらね、「あっ、こういうふうにして戦死しておるんだな」っていうように、何か安ど感というかな、安ど感というのは失礼ですけどもね、まぁ、「のたれ死にしたというよりかも、こうしてね、わかってよかった」って喜んでくれますね。 ですからね、もう本当これはわたしも、「ああ、やってよかった」と思っています。

わたし、まあ、1つのフーコン作戦でもね、のときには、100、一個中で142名でしたかね。戦闘をやってましたから、中隊長以下。それで、わたしが、ええ、最後までね、あの、フーコン作戦、最後に皆、わたしが、ついに栄養失調とマラリアと赤痢ね、これにかかって倒れたんです。もうそのころはフーコン作戦の終わりごろです。で、そのときに、10名ぐらいしか残ってませんでした。

Q:何人いて10人しかいなかったんですか

142名。

Q:142名いて、10人しか残ってなかったんですか。

ええ。それも、負傷して下がって、治ってから追及すると、そういうのを含めてですよ。しかしね、不思議に、わたしはね、負傷もしないんです。負傷もしないということは、戦闘をずっと続けるっていうことなんですよ。負傷して、負傷したら下がりますからね。下がって、病院に入院する。それからまた治ったら追及する。

しかしわたしはね、負傷しないんです。もうシンガポールからの作戦をずっと、終戦まで、いちばん、もう、わたし、死ぬことしか考えておりませんでしたからね。まあ、死ぬと、どうせ自分は死ぬんだということで、だから、それでもね、弾は当たらないんです。どうしてか、そばにおる人、当たってね、バタバタ倒れて行くでしょ。どうしてかわたしだけ弾が当たらない。

そこにチューンチューンと行くんですよ。チューンって行く音がまだ良か方です。離れとるんですよね。確か、パシッ、パチッというのが、もうほんのすっていくようなもんですよ。そんな音もない。ただ皆が拳銃ぐらいのパチッパチッを撃たれよったもので、機関銃でバラバラ撃たれたらね、もう、本当、身の動きもできません。

そういうふうなね、やり方をやっとって、そんな戦闘をやっとって、弾が当たらなくてね、こう生き返って、いまだにここに来て元気でおるということは、本当に、もう、ええ、もう、感謝していいかって言いますかね、とにかく、もう、わたし自身、驚いております。

まあ、フーコンの作戦のエンプンガの戦闘って言ってね、わたしが中隊長代理をしとったんですよ。で、わたしが、30何名指揮して、こっちエンプンガをね、包囲されて、それを、大隊が、こう、戦闘しとった。しかし、それに敵に増援部隊が来る。その増援が入ったもんだから、わたしね、指揮して、30名ばかり、その、1キロほど先に行って、阻止せよという、大隊長から命令がありましたので、で、そこに行って戦闘をずっと続けておって、8日間飲まず食わずの戦闘でね、で、その敵はね、もう何百人って、初めはまあわずかだろうなとかという、わかったのはね、やっぱりもう200人以上。まあ、あとで600人という話も聞きましたけどね。

しかしそれからね、毎日しめて来るでしょ。で、飛行機は爆撃して来るでしょ、もう陣地ね。それから、あの、砲撃は三方撃ち込んで来る。迫撃砲撃ち込んで来る。まったく陣地はね、一夜のうちに、もうめちゃくちゃになる。そして、もう、皆、それで倒れて死んでしまう。

で、そこ、もう、陣地が破壊されると、今度大隊長が、あの、もうちょっと後方に下がれと、そこにまた陣地を取る。で、敵が来たら攻めて来ますから、そのあとで、バラバラバラバラって撃つ。敵も相当な損害を与えたと思います。ええ。

いちばん、あの、そこでね、わたしがやったのは、敵の飛行機が来ると、皆に、発煙弾を撃ち込むんです、わたしどもの陣地に。発煙弾を撃ち込んで、そこに、飛行機に爆撃をさせるんです。ええ。そんなことがもう毎日続いておりましたのでね。
それから、伝令に大隊本部まで行って発煙弾をもらって来なさいということで、もらいに行って、2発もらって来たんですよ。

Q:ちなみに、その、そこに書かれているタナカさんは、どういう状況で亡くなったのかご記憶されていますか。

ええ。その、わたしの近くにおりましてね、分隊を指揮していたんですよ。分隊っていっても5名ばかりね、5名ばかり指揮して、本当は分隊っておっても10人ぐらい指揮するんです。もう、4名か5名になってましてね。

で、分隊を陣地、この、高地にずっと1日おっとるんですよ、皆ね。そこにタナカ分隊が高地に陣地おってなさいということで、壕掘らして、それで、敵の攻撃を阻止するというふうにして、そこにね、迫撃砲弾を撃ち込まれて、その陣地に、そして、死んだんです。

そして、すぐ、あの、この、伝令が、兵隊がね、タナカ班長どのが戦死しましたっていうのを言って来たもんで、で、わたしも走ってそこまで行ったんですよ。そしたらね、もう、そこの陣地は破壊されてしまって、1人軽機関銃の射手がこしだめって敵にバラバラバラって・・・るんです。撃って、撃っておるんで、それで、サトウ腰が高い、低くして撃たんかってね、仲間に言ったら、もう、サトウ、タナカ分隊長のかたきを撃ちます、死んでもいいです、っていうようなことでね、バラバラってもう、まあ、それも死にましたけどね。

もう、わしらの第一線っていうもんは、そんなもんでしたよ。
そして、その、何、タナカ分隊長を抱きしめましてね、靖国で待っときなさい、と言ってね、ええ、そして、彼もいきましたけども。うん。靖国で待っときなさいおれも行くから、と言うてね。そんなの、たくさんあります。

そして、その、わたしの伝令が隣の壕(ごう)に「小隊長殿、飯を腹いっぱい食べたいですねえ」って言った瞬間に、バターッやられましてね。もう、即死なんですよ。飯を腹いっぱい食べたいっていうのが最後のことばでしたね。うん。

やっぱりあそこでな、この若さで亡くなるのは、戦死したということは、本当に残念でならないと。これはもう、皆そうですよね。本当、22、3、24、5でね、それもね、こんな、あの、今の日本人みたいに、もう、うまいもの食べて、うまいもの、酒も飲みね、こんなぜいたくしとって、死ぬならあきらめがつくでしょう。

しかし、向こうではね、飲まず食わずが多いんですよ。乾麺(かんめん)っぽい、あの、わら、ありますね。乾麺麭(かんめんぽう)のあれをね、4つか5つか食べて、するとそれに泥水ば飲んで、腹を膨らませて行くということは、再々、わたしもそれは再々ありました。

だから、わたしも、今もね、やっぱり、思い出として、家内が乾パンを買って来てね、で、食べさせてくれますけども、それでもやっぱり向こうの生活、向こうで飲まず食わずで乾パンを食べておったときのことをね、思い出すんですよ。

っていうことは、戦友の顔も映って来ますよ。今、生きとってご覧なさい。今、生きておったらね、うまいもの食べて、それで結婚もし、子どもでき、孫に囲まれた立派な楽しい生活をしておると思いますよ。

しかし、その当時のね、これ、若くして戦死してるのはね、女も知らんで戦死しとるんですよ。この世の中の、この地球上にね、24、5まで生きて、そして、バタバタバタっと死んで行くこの姿、本当、何のための人生かと、わたしはいつもね、それをね、思うたびに、だからわたしは酒を1杯飲むときはね、もう、頭下げて、いただきますってこうやってね、コップを、そうせんと飲めないんです。

だから、ここにも封を、酒なんかの封を切った場合にはね、あの、ここに、あげますと。ええ。まず、わたしが飲む前にね、封を切ったら、やっぱりね、皆、そのときはね、酒を飲みたい、あれを食べたい、こうしたいと思わないんです。ただ、もう、1日1日を、もう、生きて行く、1分1秒先も生きていくということしか考えない。こんなうまいものを食べるってことなんて、到底考えません。わたしも考えませんでした。そこで死んでもね。

いや、やっぱり内地に帰りたいなと思いつつ眠っておるでしょうね。わたしたちと同じような内地に、皆と同じように一人は内地に帰ってこれる、一人は内地に一緒に、みんなと一緒に帰られたんだろうなと思いつつ、まぁ、成仏しているんじゃないですかね。 それもね、そういう普通前進していくときにはね、進攻の作戦のときにはご遺骨はね、全部一人一人焼いて、箱にいっぱい持ってこれるんですけどもね、撤退作戦のときにはね、ご遺骨、死んだらね、それは持てないんです。だから指を切って、親指を1本切ってね、それをね、持ってくるんです。

しかしそれを1本も取れるまでよかほうです。戦死したら、その弾飛んできますからね。戦争によっては手りゅう弾も飛んでくるようなところで戦死して倒れても、「やられた」って倒れた。それを「指を切ってこい」って言うてね、指を切らずに、それで行くでしょう。それがまたね、やられるんですよ。指を取りに行った人がやられてくる。そうするともう取れない。そんなことがね、結構ありましたよ。

ですから内地に復員するときはね、大隊長にお願いして、せめてそのビルマの土をね、そのご遺骨の方のところにはね、この小さい袋に入れてね、そしてご遺骨はここに入れて、それで送った、ビルマの土を。

迫撃砲というか、弾の、もう、とにかく迫撃砲どんどん撃ち込まれますから。ひどいですよ、もう、本当にね。地獄です。

Q:地獄。

うん。

Q:どういうところが地獄って感じがなさるわけですか。

地獄って言えばね、たとえば、ほら、飯も、水も飲まずに、そして、戦闘を連日やってるそばに、迫撃砲弾そばに落ちるでしょうが。あの音、音と、その振動によってね、もう、圧迫されて、音は耳をつんざくようにね、やって来る。それで、敵の機関銃弾は飛んで来る。まったくね、もう、極楽じゃありませんよ。本当の地獄ですよ。もう、ちょっと動いたら当たる、というね、そういうふうな環境の中ですから。

だから、もう、ちょっと立ったら、あれ、もう、弾当たりますから、壕(ごう)の中に、壕を掘ってるんですよ、散兵壕って、もう、1人入る、もう、ね。で、敵は前におるんですから、前に、もう、2、30メートルのところにね。

で、ジャングルへ、まあ、そこから、もう、バリバリバリ撃っておりまして、こっちも撃つにしても、弾がそれほどないんです。もう、ほんのわずかな弾で、1発撃って、1発撃って、ね、向こうはね、1発撃てば、もう、何十発。で、おまけには、向こうも10何倍の敵ですから、20倍ぐらいの敵ですからね、その連中が、やっぱり、こう、もう、撃ち込んでくればね、1人のところに、もう、どれだけ飛んで来るかわからない、弾が。

その中を生き延びるっていうことはね、それはもう、到底のもんじゃありませんよ。うん。うん。もう集団ではやられるしね、もう、本当、普通の平地だったらね、2、30メートルまで寄れません。しかし、ジャングルにおればね、見えないから、先がね。だから、ついつい近寄って、今度は敵が陣地を取っておるところにこっちが攻めて行く、匍匐(ほふく)前進みたいにしてね。

行けば、敵から発見されたら2、30メートルのところまで前進して、そこでまた戦闘が始まるというようなね、もう、連続でしたから。それをわたしは毎日、昼も晩もですからね。

もう生きとったって同じだという、さっきも話したように、戦車が、もう標高ね、攻めて敵は戦車が何台も来るでしょう。そうするともう40、50メートルですよ、戦車が川に来て。逃げられるものですか、そこで。壕(ごう)の中に入っているからかがんでね。そうしたらもう戦車にもう縦断されるだけなんです。じゅうりんされますからね。戦車にやられてたまるかっていうような思いがあって、拳銃をもう胸に当てて、引き金を引こうとした瞬間に、「小隊長殿」っていう声がかかってんです。そうしたら、「ああ、まだ残っておる」ということで、「彼たちを助けなければ」と思って、「おい、高平、こっちおるぞ、こっちだ」っていうようなことでね、それで声を合わせて、そしてわたしのおった壕に飛び込んできたんですよ。

そして、「お前たち、そのもう背嚢(はいのう)も銃も捨てろ。塩袋もみんな捨てろ」と。それは脱出に邪魔になるからっていってね。それで捨てさせて、もう鉄砲だけは持たせてね、一生懸命走って。それから谷底なんかに飛び込む、転げ込むようにして、それ助かったんですよ。その2人も助かりました。わたしもそこで助かりました。

それで刀を、わたしは刀を持って走るんでしょう。刀の柄(つか)にぷしゅーんと当たって、弾が当たりましてね、刀の柄がめちゃくちゃになりましたけども、そしたらあとでそれに棒を差して何か白いあれを巻いてね、それでまぁ、やっと使えるようになりましたけれども。

Q:その「小隊長殿」っていう声がなかったら、自決していたということですか。

うん、1秒の差でしょうね。

Q:えっ?

1秒の差でしょうね。拳銃の引き手を引こうしたんですよ。拳銃があるでしょう。あの引き手を引こうとしたんですよ、もう。そうしたら引こうとした瞬間に「小隊長殿」っていう声が聞こえて、それをはっと外したんです。そういうふうなね、なにがね、まだ多々ありますよ。

一回はタナカ軍曹が戦死したところ、あの戦闘ではわたしが中隊を指揮しておるときに、わたしの散兵壕(ごう)にわたしも入っておりますよね。それで各陣隊こう指揮して見ておりますよ。そのときに各軍隊の位置にね、その状況を見にいこうと思ってね、思っているときに迫撃弾がばんばん撃ち込まれたんです。そしてそのときに、撃ち込まれたときに、まぁ、かがんでおったんだけど、どうしてかしらね、そのときの壕(ごう)の縁に飛び出して伏せたんですよ。伏せた瞬間にわたしの入っておった壕の中に敵の迫撃弾が命中して、わたしが入っておったところにですよ。それであのときは敵が撃ち込んできた前に、普通だったら誰でもね、わたしの中におった壕の中にこう縮んで入っておりますよね。

ところでね、どうしてかその壕から飛び出して、壕の縁に伏せた。伏せたとたんにわたしの入っていた壕の中に長距離弾が入ってぼんって爆発した。そしてわたしの背嚢(はいのう)とか飯盒(はんごう)なんかもめちゃくちゃ。それでわたしたちはころころって転げましたけども、どうもないんです。

そのうちそこの1秒か2秒ね、そこに入っておったならば、わしゃもうめちゃくちゃすっ飛んでね。そんな例がね、多かったですよ、死ぬの。

それでね、もう、わたしももう死ぬことしか考えておりませんでしたけどもね、終戦の通知が来たときに、中隊長と、中隊長のそばにね、各将校も呼ばれて、2人、小隊長とね、わたしも呼ばれましてね、命令受領が、命令を持って来てね、終戦になりましたということで、それで、どうこうこうして、まあ、命令をたっしておりましたので、まあ、そのときね、わたしは、中隊長にね、もう、全員斬り込み(きりこみ)をかけて討ち死にしましょうってわたし言ったんですよ。

Q:どうしてですか?

いや、もう、終戦になったらね、敵の陣地も構築させられて、あとは、皆殺害されるだろうというね、そんなうわさも流言飛語もあったんですよ。それでね、もう、そんなにまでされたくないと。それよりも討ち死にしたいという思いが、長年のうちにそんな思想になります、わたしら。うん。本当に、

Q:でも、戦争はそこで終わりっていうことだったわけですよね。

ええ、終わるところでね。そしたら中隊長からね、こういうことを言われました。「高平、その気持ちはよくわかる。しかし、皆一緒に内地に帰ろう」と言われたときね、ああ、わたしは何だかうかつなことを言ったなあ、と思ってね。そのとき程にわたしは恥じ入ったことありませんでしたね。自分だけなら良かけど、皆、一緒に討ち死にしようというのは、とんでもないことですよね。そのね、あとでの反省は、もう、いまだに忘れません。本にも書いてますけども。ええ。

Q:皆と一緒に死のうっていうことが、恥だっていう。

いや、その日までに、斬り込み(きりこみ)隊を実施する命令が出ておったんですよ。われわれの中隊、三中隊がね。それで、斬り込み隊は、あの、夜中の12時に、その、シッタン河を渡河してね、小舟に乗って、それから部落に斬り込み隊をかけるという作戦だったんですが、そしたら、それが、終戦になったから、もう、あの、斬り込み隊も行かにゃあ良かったんだけど、わたしみたいなおかしなのがおるから、まあ、斬り込みをかけて討ち死にしましょうと言ってしまったけどね、あれは本当に、もう、中隊長に申し訳なかったなあと思った。

その覚悟は持っておりましたからね。ええ。

出来事の背景

【北部ビルマ 密林に倒れた最強部隊 ~福岡県・陸軍第18師団~】

出来事の背景 写真昭和17年5月、日本はビルマ全土を制圧。しかし、連合軍はインドからビルマ北部を経て、中国の蒋介石率いる国民党軍に支援物資を送る「援蒋ルート」の一部建設に動き出した。その進行を阻止するため、日本軍は通称菊兵団と呼ばれた第18師団4000人を、インドとの国境線の密林地帯、フーコン地区へ送り込んだ。昭和18年10月、連合軍がビルマへ進攻。連合軍は、密林での戦いを研究し、小型の迫撃砲や自動小銃など機動性の高い武器を準備してきた。対する日本軍は、中国戦線で使われていた大砲をそのまま現地へ持ち込んでいた。砲弾は密林にさえぎられ、容易に敵陣には届くことはなかった。
さらに、中国戦線では日本軍が圧倒したはずの中国軍が、ジャングル戦の訓練を受けて鍛え上げられたうえに、米軍の最新の装備で、日本軍を追い詰めてきた。さらに、インパール作戦の失敗により、フーコン地区の第18師団は、援軍も補給路も絶たれた。そしてついに、昭和19年6月、連合軍の攻撃に追い詰められ、ちりぢりとなって、フーコンの南にあった日本軍の支配地域を目指して後退した。

昭和20年8月、ビルマ南部のシッタン河のほとりで斬り込み攻撃を続けていた兵士たちは終戦を知らされた。フーコンで戦った4000人のうち、3000人以上が戦死した。

証言者プロフィール

1919年
長崎県長崎市に生まれる
1939年
名古屋電気学校予科在学中、徴兵検査を受け長崎大村歩兵第46連隊に入隊、以後、中国、マレー半島、シンガポール、ビルマと転戦
1945年
終戦
1946年
復員後は電機メーカーに勤める

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ビルマ (フーコン)

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