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チャプター

[1] チャプター1 知らなかった行き先  03:33
[2] チャプター2 「撤退部隊」収容作戦  08:41
[3] チャプター3 追いうちをかけるマラリアと雨季  04:11
[4] チャプター4 制空権のない戦場  01:15
[5] チャプター5 新たな命令  05:38
[6] チャプター6 クレ高地奪還の命令  05:06
[7] チャプター7 終戦  02:30
[8] チャプター8 収容所生活  01:38

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再生テキスト

南方ってまだどの程度、まだその、そこまで悲惨さはわれわれ状況わかってませんからね、だから、シンガポールに上がってから、部隊は、その南兵営っちゅう各南方に上がった兵隊が一時宿泊する兵舎へ入るんですよ。うちの部隊もそこへ入ったんですが。連隊長が、「塙、ついてこい」というて言われたので、南方軍総司令部へ申告に行くんです。

そして行きましたところが、南方軍総司令部のいわゆる寺内閣下(寺内寿一南方軍総司令官)が総司令官、寺内閣下は今出ておられたから塚田参謀長に申告をして、それでわたしは廊下で立って待ってますね。「いつ、こうこうで」言うて、その時にはまだ南方軍は、53師団は南方軍の総予備隊と、万一フィリピンがおかしくなったりあるいはスマトラがおかしくなったりしたときには、そこに吸い込むというような総予備隊のつもりでおったんですね。

それが、結局ビルマのほうがだんだんこう形勢が悪化して、インパールはもう始まっとるんだしね。途中で、南方に行っとる時はね。今、インパールのコヒマのほうに行っとるとか、あるいは、ビシェンプールのほうに行っとるとかいうて来るのが、各部隊の方位広域の地図をもらって、「あ、ここまで行ってんだな」ということは。まだ、インパールがもう攻撃頓挫してこんなに悲惨になってるいうことは、まだわかってません。

しばらくして今度ビルマ本土に方面軍に行くということで、ビルマ方面軍に。さぁそれに行くときに今度は、ビルマのこの状況が全然、フーコン方面は全然もうだんだん圧迫されとると。それからインパールはどんどんつぶれてて、それからさきほどのサーモのほう、サーモのほうは、フーコンのほうから菊兵団(陸軍第18師団の通称)が押されておるということで「来る部隊をあっちへ持ってけ」「来る部隊をあっちへ持っていく」こういう格好なんですよ。一個連隊をまとめてこう持っていくんならいいんです。それが結局「兵力の逐次使用」ということで、いちばんこの戦史で戒めとることをやらにゃならん。

その時に、第一大隊が野中少佐が第一大隊に重機関銃をつけて、龍陵の方面に行けということで、先、飛行機でまず行きまして、それから連隊はそのあとにシンガポールから今度、マレー半島を縦断する汽車に乗って泰緬国境を通っていくと。

敦賀連隊はね、とにかく速やかにフーコンに、えーと、フーコンじゃない、「サーモのほうに進出してそれで菊兵団を収容せえ」という命令で。

Q:「収容」というのはどういうことになるんですか。

収容っちゅうことは、敵の圧迫を止めてくれと。それで友軍を中に入れると。いわゆるまぁ、防波堤ですわね。防波堤みたいに止めといて、菊兵団が逐次下がってくるから、それを収容せよという命令なんです。

まだね、連隊長はね、意気盛んでね、もう北ビルマに応援をするんだということをね、もう鉄道連隊が、鉄道線路が飛行機でやられとるから汽車が通らんです。鉄道線路の上を歩くっちゅうことは大変なことなんです。線路の枕木を歩くったらね、歩幅が合わんの、外側を歩かないかん。で、疲れますわね。それでもまぁ、一列になって両方で歩きよるね。

今度は敵は制空権を持ってますから、こう見てるからね、浅野連隊(119連隊連隊長・浅野庫一大佐)がどんどんどんどん北上してくるということがわかったもんだから、今度は今度改めて今度、飛行機でもって、ズドドドドドドタタタタッてこうやって。ですから、みんなこう「伏せろー」ちゅうて。それでその場その場で伏せましたからね、だからそれで被害はなかったわけです、なかった。

わたしもね、軍旗を持っとるから、初めて敵の弾を受けたんだが、まぁ軍旗っちゅうものは陛下からもらったんだと、何にも替えられない。そいから、周りの軍旗の護衛兵も、「異常ないか」「異常ない」ちってね。

もうそれまでに菊兵団の兵隊が鉄道の両方に、ぼっつらぼっつらもっと、つえを打って下がってくるんですよ、飯ごう一つ持ったり水筒一つ持って下がってくる。片一方水筒、手をぶら下げてきたりいろいろ。それがまぁ一人ずつ帰るのもおるし、それから、若干もう多少でも元気な者が弱った兵隊を抱きながら下がってきよる。

これを散見しながら、われわれは北上していくと。そだから菊の兵隊はね、「どこの部隊ですか」言うて、「しっかり頼みますよー」言う、そういうのもあるし。

「水をください」っていうのもおる。もう苦しいから。水やったらダメですからね、水やられんから。だからそういうのを見ながら行ってね、初めてね、まぁ菊兵団にしても、日本軍はこんな敗残兵みたいな姿があることは初めて見ましたね。これが戦、これが戦だなということはもう実感しとるから、そんなにその、まだ負けるなんて考えちょらんけども、まぁ、すべてそんなものが順調にいくもんじゃないと。戦っちゅうものはそんなもんだということはもう、頭からその時はたたき込んでますからね、それをもってどんどんどんどん行って。

連隊の雰囲気はまだ意気盛んだったです。連隊とすりゃ、サーモは初戦ですからね、意気盛んだったですよ。だからまぁ、兵隊は、菊兵団の兵隊が負傷しながらあるいは病気しなからトボトボ下がるのを見て悲惨に感じたかもしらんが、われわれが見るところでは、また連隊の士気はおうせいだったです。連隊長も士気おうせいだった。

もうわれわれは、早く一刻も早く行かなきゃならん。もう砲声がね、ドーンドーンと響くんですよ、ね。まだ遠い間はね、「ドーン、ドーン」で聞こえるんじゃ。だんだん砲声が近くなるでしょ、ね。だいぶ菊が圧迫されとるなってわかるから、だから、どうしてもそれを戦場に近くなったいうことは実感されますから、ええ。

だから、助けてやりたい気持ちもすらすらある、声もかけてやりたい気持ちもある、それはどの兵隊も思っていると思いますね。特にわたしはね、もう軍旗を奉じてますよね。水筒から水をやるわけいかんし、助けて声をかけるわけにいかんですね。とにかく連隊長の後ろでもって軍旗を奉じていくことは、これがまぁ「連隊の士気のもと」だからいう気持ちがあるからね、確かに、声もかけてやりたいなぁと思うのがね、ほんとかわいそうだったです。 それでひとりになると、お話ししたかもしらないが、草むらのこのくらいの中にもってあるいは竹やぶのこの中にいて、しゃがんで銃を持って、このままこうしてもう何日前にもう亡くなって、体にウジがわいて、だんだん骨が出よると、そういう姿が何件も見ました、これが日本軍の姿かなぁというて。

わしらは士官学校でも「退却支援」とか習ったことがない。退却支援って習ったことない。包囲することやら攻撃することばっかししか習ってないんだからね。ほんだけどまぁ、「退却」をということなしに、問題は「転進」いう言葉は使いますわ、「退却」という言葉は使いませんからね、士気に影響しますから。

それから今度、もう一つは、まぁ「収容」ですわね。「収容援護」という言葉で。それで結局サーモに赴任をして、119連隊はあそこで「菊兵団を収容せ」と。

Q:習ってないその「収容援護」を、どういうふうな作戦を立てるもんなんですか。

それはね、いや、もうそれはもう防御の防御の戦術ですよ。「収容」っちゅうのは結局、こちらが収容する、人のとりでになるんですからね、「菊」の背後のとりでになる。だから陣地に進むに対して各兵隊を植えていって、敵の来るやつを全部殺さにゃいかんですからね。そうして敵の抵抗を弱めている間に菊がどんどん下がってきますから。

それもね、もう収容っちゅうのはもう防御ですわ。防御ですから、防御っちゅうのは少ない兵力で敵をくい止める。しかし、戦地で習うところの防御っちゅうのはね、「攻勢防御」っちゅうんですよね。いわゆる防御で、ジーっとしとる防御じゃなくて、ときどきこう前へ出て敵をやっつけると、それでまた引き上げると、こういうような「攻勢防御」とかっちゅうようなのは習っておりましたからね、まぁ防御ですわ、完全な。

よくあそこでね、米支両軍を皆119連隊が持ちこたえたと思います。山崎連隊長は第55連隊長(55連隊は久留米18師団・菊兵団の指揮下にあった)ですが、これが浅野連隊長の所にこられて、それで2人で握手されて、山崎連隊長ももうやせておられました。それで、ホッとしたったような気持ちがなられていたのは、そばで見てわかります。友軍のところに戻ったという気持ちですね。それで連隊長と何分か話をされて、それから今度後ろへ下がられました。

それで今度は、どうせ負傷兵は下がる。あるいは、あの所ではサーモはちょうど雨季ですからね、マラリアになったりアメーバ赤痢になったと。マラリアっちゅうのは蚊でこれでやってくる、体がだんだん衰弱して下がる兵隊がおる。戦に弾に当たって死んだ兵隊じゃなくて戦病死が結構あるんですよ、あそこね。だから、そのために戦力はほんとにあれが、戦病死がなかったらもう少し戦力を発揮したろうし、兵隊にもかわいそうな目を負わさないで済んだろうと思いますね。

雨季と乾季と半分半分です。ほいで、雨季になるともう日本の梅雨と同じですわ、もうしょっちゅう雨が降る。それから今度、道路は川になってくると、グチャグチャになる。ほいで乾期になるともう全部川は干上がってくるということで。

で、乾期になると極端に言えばね、水浴びするとまぁ、シャツよりふんどしですが、ふんどし洗濯して木にかけときゃ、もう終わった時分には乾いてますよ。

暑さは激しかったですね。

それで、雨どないかって、雨のほんの、こんな小ちゃなものしかしか兵隊があれですからね、天幕を持っとるんですからね。それが結局、天幕を兵隊さんの分をより合わせて天幕を作って、その中で隠れとるんだけど。ジャージャージャージャー降っとったら、間から全部雨が入ってくる。もう、とってもそらね、体によくないですわね。だからね、病人が病気がでるのはあたりまえですわ。

Q:衛生状態っていうか、そういう準備みたいなものは全然できてなかったんですか。

できてないですね。それはね、まぁあれが精いっぱいでしょうがね、日本軍は全然全然ないですね。

Q:全然何がなかったですか。

いちばん無いのがやっぱりマラリアの薬のキニーネ。マラリアの薬はキニーネっちゅうのがあるんですよ。これはまぁ錠剤ですがね、注射もありますけど、これも足らんかったですね。それと、マラリアの予防に対する分が、これがちょっと地図に書いてよかったが、敵は縦穴掘ってその中へ入って、その上へ持って網を張ってるから蚊が入りませんわね。

日本軍は浅い塹壕(ざんごう)掘ってその中に入っているから、養蜂(養ほう)業者が顔に網をかぶってはちのみつを採りますわね、あんとの分をもらったんだけど、「こんなのうっとうしい」ってこう取るでしょ、そうすると、その間に蚊がこうこうやられるから病気になりやすいです。

ぬれとってもしかたないです。なんかその部落の材木をとるかとってきて、あるいは下に、これはもう、ほかのニッパヤシを敷いた上でこう天幕を敷くとかね、そういうようなことでやるより手がない。だから衛生上はいちばん悪いですよ。

だからまぁ、わたしもマラリアになったけれども、まぁあのシミズ軍医が、軍医少佐が、わたしのためにとにかくマラリアの注射をやってくれましたからね、それだから割合早く回復したんです。兵隊にみんな注射があったりね、キニーネの錠剤があったらね、あんなに殺さんで済んだかもしらん。

前線に対するものが補給がこんですわね。食糧送るだけでも大変だからね。衛生材料の分でも十分来とらんのです。それから、前線に送る集積分、全部飛行機が制空権とられとるから、ある程度集積したらジャングルに持ってこう、山積みにしてとっとくんですよ。そいで今度また夜になったら、台車の上に乗せてまた前線へ送るんだ。

こういったことだからもうね、この集積場まで爆撃されとるから、だから十分にね、ある程度向こうじゃ出したかもしらんが、十分に前線には来とらんです。

制空権があればある程度それは確保できますがね、制空権がないのがいちばんこたえるんです。もう本当は昼はジャングルに待機するより手がない。

各方面にもって斥候を出したんです。
 
下士官斥候もあり将校斥候もあるんでね。それを出して、敵はどの辺かと。大体主な道路は1つ、それから鉄道が1つあったんです。主な道路以外にほかの道路がないんだろうかな、あるいはどうだろうかということで。あるいは敵の後続部隊がどうなっておるかと、斥候を出すね。

それで、「行く、裏から行って報復しましょうや、やりましょうや」言うて、それでわたしも意見を言うて、「よし、それやろう」。もう最後に結局、なんぼ周りのもんが言うても、決心するのは連隊長ですけね、だから「やろう。よし、今晩は夜襲だ」と。

それで夜襲をするために準備をしてね、乾麺包(乾めんぽう)を2晩分、2日分と弾薬と、そういうの。それから今度、夜行くんだから、敵と対じしとる分はその最終日においといて、あとは全部ここに置いといて、ここをこう回るわけですわね。連隊長以下全員に、真っ暗闇ですから包帯を背中に全部付ける。そうすると、前の兵隊がどこへ行ったかわかるから外れんですわ、それを付けてずーっと行った。

あ、ここだ。内地の夜間演習と同じだなとわたしは思うた。夜間演習の時にはね、夜間眼鏡というのを付けるんですよ。これをかけるともう夜とまったく同じ。それでジーッとしてると、暗闇でもジーッとしとると若干こうわかってきます、あそこに何がある。それで、背中やら背中に後ろで包帯をつけて、白いのを付けて、もう夜間演習をすると。それと同じような装備をしてずーっと行く。

なるほど、ミナミ中尉の言う所に道路へ出た。そうしたらね、被覆線、あの電話線ですわ、電話線がズーッと引いてある。それで、あのころ、まぁ今のように携帯電話があれば、敵も携帯電話を持っとったろうしこっちも携帯電話を持っとったろうが、携帯電話ないですけね、向こうもずっと被覆線で電話を。

それで後方と、今の連隊の対じしとるウルペイとの間が電話線ある。これをブチ切ったろうと思ったんだがね、待てよ、今ぶち切ってはね、第一線がな攻撃をしかけてバンバーンと撃ち合いしたらパンパーンと切っちようり。そうせんと、攻撃しかけて敵を待って、電話で、「敵からやられました」いうたら、また後続部隊が来るから、連絡とれんように、撃ち合いして撃ち出したら電話線を切ろうとね。

で、そのとおり予定どおり電話線を切りました。それで今度はこう入って、それでバンバーンとやって。敵はびっくりしましたね、後ろからまさか来るとは思わなかったから。それで結局、わたしはまだ退却はね、退却はね、しとったのかな、しとらんのかな、まだ。わたしはまたすぐ背後関係を調べにゃいかんもんじゃから、こっちの背後関係のほうの鉄道線路のほう、伝令を一人連れて、ずーっとほかの道路がないか、こうやって見たんです。

わたし、話したかもしれませんが、迷ってね、それで、さあ、部隊へ戻られんようになっちゃった。「困ったな、どうしようか」。そいで、まぁそのうちにようやく見つけて部隊へ戻って。そうしたらタムラ大尉が「塙、どこ行っとんたん、お前は」言うて、「いやぁ」言うて、もうそれ以上言わない。

そしたらそのあと、わたしを追尾していたのか、それともたまたまタイミングが合ったのか、わたしのあとを追って何人か、十何人来ました。敵来た。もう連隊長も全部おられるけど。そいでとっさにね、普通ならね、拳銃を撃って安全装置さってこうやるんじゃ、こんなことやってるヒマない。もうこれはもうこんなことやらない。もう手りゅう弾パーンって打って。

そうすると、材木がこう、木が生えてますから、もしわたしが打つのが友軍のほうに破裂したら、連隊長以下消えた。そんなことはもう考える間ない。運良くこの間へ行って敵のほうでバーンとやったから。それで敵はもう目くばせ食うたようにね、それで退却しましたがね、それでホッとしたというようなことが1回はありますわ。

手りゅう弾を打って。

それだから一応敵を退けたという気持ちがね、これはお話ししたかもしれんが、いわゆる初めての征服感を味わったと。今まではもう、「敵を陣前に撃滅せよ」とか「防御せよ」とか「収容せよ」とかそんな消極的な命令ばっかりもらってたのが、こう初めて、結局それで助かりました。

クレ高地には祭(陸軍第15師団の通称)の、祭兵団のあれは第15野砲連隊かなんかの観測所があったんですよ。それで観測所におったそのあれが、歩兵を守備につけんこうに観測所にあそこに出しとったもんだから、敵の攻撃を受けてもう先に戦死した。それで砲兵は観測所がなきゃ駄目なんです。それで結局、あれの(クレ高地)奪取を結局、それももうあるのか、それを観測所のために119が行ったとは思いませんけれども、まぁ一応、あそこは一応要点じゃったんですね。
 
クレ高地を3回攻撃した時に、浅野連隊長がわたしに言うた言葉は、これはぜひ残していただきたいんだが、浅野連隊長が「散る桜 残る桜も散る桜」言うて、あの言葉をね、こらもう本当に、桜の命が短いということを表しとるんですがね。そうじゃなくて、浅野連隊長の考え方は、「サーモからピンウエまであるいはクレ高地までね、たくさんの部下を亡くしたと。お前らは散る桜だったと。しかし、お前らだけでないぞと、自分もいずれは最後の散る桜になるんだ」と、こういう言葉をね、しょっちゅう言うとられた。クレ高地になってからしょっちゅう言われてね。

それからもう一つね、「塙、わしゃ武運つたないよ」と言う。普通、軍人がね、「武運つたない」ちゅう言葉はめったに言いませんからね。それが「武運つたない」と言う。わしは反論しよう思うたもんですわ、武運つたないっちゅうのは日本軍全部武運つたないちゅわけじゃないですかねと。それでもう今は負けとるんじゃから、言うんだけど、それはもうそうじゃなくて、浅野連隊長だけの考え方やったから、そらね。わしは何にも言わんかったですがね。

ちょっとこれは、浅野連隊長これ、もう「散る桜 残る桜も散る桜」、連隊長はもうここで覚悟しとるなと。よし、わしも覚悟せないけない、もうこれはいうことで。感じはしとってましたがね。

連隊長はもうその時にもう、クレ高地のことで、「クレ高地を攻撃、奪取せい、奪取せい」ちゅうて「軍」参謀が来るんですからね、参謀。「師団」参謀じゃなくて。そのたびに「必ずとります、とります」いうて言うばっかりで。

とるっていうことは、攻撃しても、一応夜間に奪取しても、またすぐ反撃受けるからまた、危ないからまた若干下がるでしょう。奪取して確保できんのですよ。取っても確保せにゃ意味ない。取ってまた下がったら意味ないと。それが、そういったことの繰り返しじゃったですからね。

Q:結局、クレ高地は奪取できたんですか。

できん、できんです。そやからいつも報告は、一応奪取しましたが、事後の確保ができんで、一時後退しましたというふうに、そうするよりない。それから、しかも奪取したら自分の身を隠せないかんから、すぐ穴を掘って身を隠さないかんでしょう。岩石なんですよ。だから穴掘られん。だから結局、穴掘られんから、結局周りの岩やなんかを岩石を積んでこのへんに隠れる。まぁこういう方法ですわ、もう手がないです。

シミズ軍医なんか、連隊長の弔い合戦やろうかという意見もあったわね。でもそれはもう絶対無鉄砲で、もう敵はそこまで来とるんだから、「それはもう無理だわ」て言うとった。事後の命令を待たなしようがないということで、それで結局、もう、辻連隊長が連隊長代理として事後の命令を待つと。事後の命令を待ったところが、今度は連隊はメイクテーラに戻って前進せぇという。いわゆる祭兵団から配属をとかれてメイクテーラへ。

これはどうも静かになったな、ちょっと斥候、斥候出してみると、斥候出したら撃たれるっていう感じだ。おるのおるのなら何で撃たない、飛行機が飛ばんのう。それが2、3日たちましたらね、そしたらね、暗号班長のウノさんが、ウノ班長が「こういう電報来ました」ゆうて。いわゆる特命電報なんですよ。

訳してみると、『戦闘行動、停止せよ』という訳文になっていたんだ。ね。

それで工兵の連隊長は、「そんなわしの長い軍人生活なかで、こんな命令は初めて見た」ゆうて、言われたという話しなんだがね。まあそれで、その時に初めてわかりました。それでその時にだんだんわかってきて、師団の掌握する、まだ軍旗を焼かないかんなというので、まあ、書いてあるが、各師団の軍旗は参入、連隊旗手が連隊長のところへ集めて、それでこうもって焼いて、最後のだけは爆破した。ね。連隊旗は、最後までこの柄を離さなかったと、だからやけどしとるわい。ね。そこまで涙流しながら、連隊は終わった。

まぁホッとした気持ちは若干ありましたね。ホッとした気持ちはあるけれども、敗戦ということに対してね、これは結局ね、日本軍はとにかく捕虜に対して優遇するということは全然、教育受けていませんからね。何されるかわからんと。だからそれは、その覚悟はしとった。だから実際終わってもなんかもう何かわからんって、全然わからん。

だからどういう気持ちになったか? ちょっと一時的にホッとしたような気持ちもあるけれども、まだ後から今度、捕虜と知ったことで虐待受けるんじゃないかというかね、それはむしろそのほうが強かったかもしれない。

収容所へ入ってからね、まぁこれは私事じゃないんですが、連隊副官のイシヅカさんの副官ですね、作業隊を出さないんだ、英軍のほうから。「今日50名ほど墓地の移動に付けて出て」とか、それから「30人ほどはふ頭の」とか、そういった所とか入るから、その作業のほうはね。

そのときに初めて、将校は労働にはつかんでもいいね、指揮官だけやりゃいいね。あの点はやっぱりね、初めて日本はあれだよ、いわゆるジュネーブ条約いうか、ああいうことは初めて知って、ああいう捕虜に対する優遇ということは知らんかったんだ。“はぁー、そうかな”と思うて。

ただ腹は減りますわ、腹はね。もう14オンスかな、あれは4オンスじゃ何合になるんか知らないがね、それしかもう配給。捕虜収容所長に交渉させてもらっては、少しずつ量を上げてもらいよったんじゃけどね。だがまぁ、まぁ腹は減るぐらいのことで大したことはなかったね。

出来事の背景

【ビルマ 退却戦の悲闘 ~福井県・敦賀歩兵第119連隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争後半の昭和19年(1944年)、日本軍は、連合軍の拠点や輸送路を制圧するため、ビルマとインドの国境地帯に進撃。しかし日本軍は壊滅的な打撃を受け、退却を余儀なくされた。

この時、歩兵第119連隊3000人に命じられたのは、進軍ではなく敵に包囲されていた通称菊兵団と呼ばれる第18師団を救出することだった。

昭和19年6月27日、前線に到着した第119連隊は、連合軍を相手に初めての戦闘を行った。最新鋭の装備で襲いかかる連合軍。食料や弾薬などの補給をほとんど受けられず、さらには、マラリアや赤痢がまん延、およそ800人が病で命を落とした。第119連隊は、18師団退却の楯となりながら後退、昭和20年1月、日本軍が拠点を置く中部ビルマのマンダレーに到着。この時すでに3000人の将兵のうち、半数以上が帰らぬ人となっていた。一方、連合軍もマンダレーに迫っていた。連合軍は6個師団に2つの戦車部隊を伴った大戦力。対する日本軍は第119連隊を含む4個師団であったが、北部ビルマ戦で消耗し、兵力は半分ほどになっていた。劣勢に立つ日本軍の中には、マンダレーを放棄して戦線を縮小すべきという意見も出始めるしかし、ビルマ方面軍・田中新一参謀長は全面対決を行い、敵を撃滅する、という方針を変えず、イラワジ河沿いに陣地を築き、マンダレーを目指す連合軍を迎え撃つことを命じる。しかし、連合軍の圧倒的な兵力を前に、多くの兵士が命を落とし、マンダレーは連合軍の手に落ちた。日本軍は、さらに退却しながら、勝算のない戦いを続けた。

昭和20年8月15日、気力も体力も限界を超えたなか、終戦を迎える。第119連隊のうち、生きて帰ることができたのは、1000人足らずであった。

証言者プロフィール

1922年
島根県浜田市に生まれる
1942年
歩兵第119連隊入隊、ビルマ戦線へ
1945年
終戦
1946年
復員後は、島根県浜田市にて税理士事務所を開く

関連する地図

ビルマ (サーモ、マンダレー、クレ高地)

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