ホーム » 証言 » 辻 安太郎さん

チャプター

[1] チャプター1 物量の差に圧倒された  06:16
[2] チャプター2 撤退部隊の「盾」になる  01:17
[3] チャプター3 病で倒れる兵士たち  01:54
[4] チャプター4 クレ高地奪回命令  02:50
[5] チャプター5 押し戻される最前線  03:23
[6] チャプター6 終戦の知らせを受けて  02:15
[7] チャプター7 収容所生活  06:38
[8] チャプター8 帰郷  02:52
[9] チャプター9 アーロンキャンプの歌  03:16

再生テキスト

そして弾でもまぁ野砲が1発撃ったら、迫撃砲が飛んでくるのが100発ぐらいは飛んできよる。そしてまぁ撃ちっぱなしや。それはどんな陣地があって、あんなのが見えてきたら皆飛んでまうですよ。

まぁ戦車砲っていうやつは、案外目の前はそんな毎日毎日戦車が通って、いつもそれで退避してるわけやないけどね。そして小銃がまず三八の小銃やけど、5発ダンソウに入れてやはりコウカンを1回ずつ回して、そしてやるんですよ。やったらば、もう軽機みたいなもんですよ、日本の。腰だめ(銃床を腰に当てた射撃)して、弾倉が20発入るんですよ。ブルブルブルーと日本の軽機関銃みたいなもの。もう目の前に落ちたら危ないですよ。飛んでいくやつは弾は見えへんけれどもシューンと、もうこれは通っていくやつや。目の前に落ちるやつは危ない。もう照準がそこへ来てるから。だからもう前へ出たほうは危のうないですよ。後ろへ下がったらよけい危ないですね。

そんな具合で、もうとにかく100分の1やね。大げさになるけどね。それぐらいの違いはあった。

なにしろ向こうは、日本軍のなには、日本軍のやり方は兵隊は死んで当たり前、兵隊は死んで当たり前なんですよ。陣地をとるときには犠牲ちゅうものはある程度、もう勘定に入れてないんですよ。やつらはそうじゃないですよ。とにかく人的な戦力を確保するために、そしてとにかく飛行機と砲とどんどんどんどんたたきつけといて、あとから出てきよるですね。やつらは植民地軍隊やからね。そんな教育はできてないんですよ。物量でものをたたいて、そしてその人的資源のそれはあまり死なさんように、植民地の軍隊やからもうかなわんと思うたら早いこと下がるんじゃから、命令なくてもね。

だから夜はとにかく最前線、ここで抵抗せんし、ここで戦って日本軍がここを取った。そうしたらこの線からは2キロも3キロも下がってまいよるんです。そして夜はゆっくり休んでもらう。

そして明くる朝、ポォーと夜が明けたら観測機が出ていきよる。次に観測機が大体日本軍の様子を見て、そうすると戦闘機が出てきよる。まぁとにかく、そしてまぁ軽爆撃というのはもうわたしらのとこにはおらん。後方のほうへグラマン、それにB29、ああいう水平爆撃で来よったら逃げ場がないですよ。そんなもの、B29が20機も翼を連ねてダァーッと来よったら、まず爆弾が見えたなと思うと、どこへ逃げようかってったって皆目の前に落ちるような気がするんですよ。それはまずいちばん低く飛んできても、まぁ千メートルはよっしゃはB29はないけど、まぁ戦闘機はもう木のすれすれにでも、もううちの場所なら陣地すれすれにでも、とにかく昇るときにも、あのプロペラのあの金属製の音がもう、まぁとにかくいまでも耳もとにキィーンという、ダァーッ、あれ、降りるときにこうなったときに、機関砲撃ちよるの。

まぁそんなことで、物量の差ちゅうやつはもうそれは、この戦はもう、きょう死ぬ、きょう命があっても、あすの命はどうなるか。そして皆やられた、動けん、そして後退するときにはもう歩けんやつほうって行くんですよ。ほうり投げて行くんです。そんなもの、患者やいうて担架兵も来んし、そんなもの、それじゃぁひとり、「おい、お前、なんやから、はい、棒、おい、腕について歩け」っていうようなそんな暇はない。歩いて、そして歩けんやつはもうそのままほうっておく。

そんなめが、そんな、あしたは、ああ、またあの身になるのかなと思える、まぁ毎日がそうでした。

わたしはまず菊兵団の交代でなにしたときに、これは恐ろしいところへ来たなぁ。支那事変とはとてもじゃないが話にならんなと思うてね。まず師団長が下がって来たとき、交代するときにはチャンマみたいな小さなロバにあれ、ビルマ人のなにが、まぁなんせあれ、牛車に普通は乗るんやけど、その小さな馬に乗って下がってきた。それが60ぐらいのもうおじいさんに見えたし、兵隊ちゅうようなものは、もう鉄砲持っとる兵隊って余計おらなんだ。本当にまぁ若い青年があれだけになるのかなと思って、いうてそうしているうちに、半年もしないうちにこっちのほうもそうなってもうたです。

もうそれは亡くなったというが、それはもうなんとも、行軍中にかっけになった人やなしに、赤痢になった人は、腹がへって腹がへってしようがないから、おい、辻、待ってくれ。飯くれ。そしてまぁ到着するまで待て。今晩はなんやけど、飯炊くまで待て。そして飯炊いてやったら、飯ごういっぱいケロケロと食べてまいよる。そうしてそのあげく、どうするかといったら、2分も3分もたたんうちぐらいに、尻まくって、だだもれですよ。そんなの、ついて来いって言うたってついてこられん。それはもう自分もある程度弱っているし、けれどもそういう兵隊は皆なにしてきた。けど、めったに弾に当たったっていうのは、それはもう一般中隊の人はあるけど、恐らくわたしはまぁあのビルマ戦線では病気が7割、あと2割が銃弾に倒れた。そしてあと1割が生還してきた、まぁこんな割合だろうと思うんですけど、うちのこれ見るとね。何人死んだかって、そのときはわからんけれども。

まずこのまま継続をして陣地を放棄するわけにはいかんから、師団が命令が来るまでに放棄するわけにはいかない。このまま継続しているとうちの部隊はもう壊滅的な、もう本当の全滅になると連隊長は判断しただろうとわたしは感じてます。それやからまず、これはここでは一応わしが決死の覚悟で、部隊の兵力をこれ以上損耗さしてはいけないというので、まず師団の命令を待ってたぐらいが、師団長は交代をほかの連隊と交代するような考えもあったやろうと思う。うん。だから、おれがまずここでなにしなきゃならんと、覚悟しただろうと思うし。

戦死をして、まぁそれを自分でまず、まぁ部隊長が死んだら全滅ということになるわけですよ。ということは、指揮系統が壊滅してしまうのやから。そのときにはもう大体もう、大体まぁ大本営のなににおいても、どこの戦場でも、まず部隊長が戦死をしたら全滅という意味にとらえてわたしはいいんだろうと思うんですよ。ええ。

だから、連隊長もそういうことは知っておられただろうと思いますわ。
これ以上もう助けないかんなぁ、とは思うていただろうとわたしは思います、そのときの部隊長の考えは。これ以上損耗さしたらもう本当に大変なことになると、そこで身を決しておれが戦死したらこれでほかの部下は助かるんにゃ、というように思うていたかもしれないと。「かも」じゃない、わたしは恐らくそれが当時の軍人の統率する連隊長であると、わたしは思うてます。

Q:毎日ね、本部と連隊を行ったり来たりして、どんどんどんどん連隊のみんなが疲れてくる様子とか、人がどんどん減っていくとかってわかりました?

いや、そらわかります。

Q:どんなふうにわかったんですか。

けどもね、それはもうね、第一線のなにはもう、刻々とだんだん下がってくるのがわかりますから、本部の位置が変わりますんで。うちのね、連隊の本部の位置が変わりますから、そらあのね、まぁとにかく、いくら長く続いても、わたしの従軍中にひとつきも確保したというのは、ここのピンウエという所だけです。 

Q:クレではどうでした?

クレではもう、恐らく1週間ごとにそらもう本部は位置を変えて恐らくやってた。それでその位置は、これはわずかな時間ですよ、日にちですよ。1月の十何日やったと思ったな。

Q:うんうん、1月11日からクレへ入って。

ええ、クレ入って、それで2月の初め、2月の初めころ、2月の8日にはもう戦死してんのやから、連隊長は。それまでには移動はあちこちしてるわけですよ。

そらやはり敵の攻めてくる状態と、こちらからの受ける、なにしろ受け身のほうですから、受ける抵抗線がそら、いつもかも最前線が常時変わらないという状態はありません、戦闘ちゅうものは。

それは、各一般中隊がもう出たり入ったり、追いさんのときもありゃあ、押されてそしてなにするときもありますし、それは動きます。それは毎日、うん、毎日もう刻々と変わっていくのはまぁ戦場ですから。

Q:どんな変化がありました?

そらもう敵の今言う、さきほど今申し上げるように、敵が攻めてくるその状態と、それからこちらは押す状態とのその力の差がデコボコができますで、そら、まず10中隊がここ守っている、そして10中隊が出ていく、そうすると、10中隊は10中隊、中隊長が指揮して出ていくけども。それじゃ同じように9中隊がその端におっても、それじゃ同じようについていけるかっていったら、そういうわけにはいかないんで。

Q:それぞれの兵士はどんなふうに変化してましたか。

それぞれというのはね、まぁ様子はそりゃあ、恐らくまずい。まず勢力が減るということがね、そらいちばん打撃ですよ、1人でも。戦場にね、まず、戦友が倒れた、そらもうショックですよ。それは増えるほうはええけどもね、気分的にやはり、これは多少は大勢の力っていう、同僚の力同士でね、そして団結してね、お互いにかばいあいしながらなにするんやけども。

Q:その無条件降伏っていうか、敗戦を知ったときはどんなお気持ちでしたか。

わたし、あぁやれやれ戦争終わったなと思ったです。やぁー、これで終わった、その次の瞬間はもう帰れないと。もう内地へは帰れんと。日本には帰れないと思うたですよ。これからどうしよるやろう。我々をどこかへ連れて行きよるやろうと思うたですよ。 まぁそれが瞬間、もうやれやれと思うかのは瞬間のわたしの気持ちやったな。もう刀折れ、矢尽きたっていうことですね。本当にそうやったですよ。そして将校はもう皆軍刀でも皆川の中へね。よい軍刀持ってる人は。とにかく軍医っていう人は、医者のなにはね、これはもともと医者というものは大体、伝統の家のなにがあるから、よい軍刀、名刀を持って皆来たわいな。それやから川の中へシッタンの川の中へ捨てる。

まぁ、いまこういう軍刀みたいなものは将校は、まぁそのままなにして、そして兵隊は帯剣からいまの銃から何から全部置いて、やっこさんらがこういう脚のついた銃機関銃、これをすえて、そして日本軍がとにかく暴動を起こしよると困るというので、もう弾こめてもうそこにいて、日本軍とその銃を置くところにグルカの兵隊が、日本の銃器構えておったが、ばか野郎、このくそったれがと思ったけれども。悲しいかな、まぁ負けたということは、勝てば官軍、負ければ賊軍だよ。

まずね、放火ぐらいはしている。ええ。部落の放火ぐらいはしている。それは簡単なもんですよ。それはね、部落包囲したってね。タイシロをやれって言ったってこんな材木の何? きちっとしたなにしろ、チークの葉っぱね、生のうちに折って、そして竹にずーっとそれで、2メートルぐらい長さにね。そしてそれがハゴエ重ねにして家を屋根、ふいているんでしょう? そして、竹っていったらいくらでもあるとこやから。北ビルマ行ったら。それを別にノミで使うわけじゃなしにちょうどなたのようなザーでね。そしてそれでできて、ブッ穴通してそして、2階を、下は雨季のときに困るから、そして立っているでしょう? 下げや上に焼くのに3分か5分で終わるでしょ。ポーッと燃えたらおしまい。

Q:何で放火をするんですか。

それは敵がね、出てこないように見通しのよいようしとかんと、ね、そして部落民のとにかくスパイがおるかもしれんから、事実そういうのもあるから、まず部落民を寄せつけないようにそれはやりますわ。ええ、それはわたしら支那事変のときでもそういうことは多いにやってきましたで。それはビルマでも部分的にはあったでしょう。けどうちの部隊の戦犯は、それぐらいなしにある程度、土民を殺したとか、なんかそういう理由がなんかあったように聞いている。それやから、ちょっと待てと、首実検まで行かずにすんだんで良かったけどね。

Q:首実検というのはなんですか。

首実検っていうのはね。英軍は治安維持を早くするためにビルマ人が日本軍の何、「うちのおやじこうやられた」と、そしたら「それをわしは目撃していた」と、そしたら「どの部隊やって今こうこういう部隊だ」と、いうと、それに該当する部隊をそうすると、首実検って言って前並ばして、そしてその本人、ビルマ人が何にも別に証拠もないのにこの人だっていうて指名したら、それで終わりです。それで、絞首刑、銃殺刑ですよ。そうすると、英軍のMPがね、それ、ひっとらえて、そして連れて行って、もうそれで終わりです。裁判のなんのってそんなもんじゃない。首実検っていうやつですよ。

そういうことが終戦のときにありましたよ。

Q:その後、収容所に入るわけですけども、やっぱり収容所ではふるさとへの思いは強かったですか。

ああ~思いましたよ。そしてデマが飛ぶいう今のいうようなことで、そして1日まあ、わずかな米をもらって、これ何年、これ行けば されて、まあそして毎日働かせるから。倉庫へ荷物の運び役、それからどぶ掃除、道路建築、荒らしたとこの修理にいろいろな所へやられる。毎日。

Q:仲間同志でどんなお話が多いですか。

まあ仲間同志ではね、まあ戦闘の話しよりもね、内地へ帰れるやろうか帰れんやろうかっていうそういう憶測をするほうが毎日やったらしいや。

Q:何でそういう話が出るんですからね。

それはやっぱり今までね、まあ家族のことだけを思うわ。それから嫁のある人は嫁はどうしているやろうなっていうのは、まだまだそりゃ、思うやろうと思います。

まず、シンガポールまであすこへとどまったからシンガポールはこれ上陸したとこでわかるけども、しかし、これからどっち向いておい、まっすぐに東向いて走りよったら、「これは大変なことやで、アメリカ持っていってまいるぞ」と。ビザをね、船が向いたから、よう~しよし、これなら帰れる。これなら帰れると思った。あすこでシンガポールであれ、いっかい日本のあれは最後の航空母艦小さな航空母艦でしたけどね、それが迎えに来てくれた。それでアメリカのほうへどんどん東向いていきよったら、これはもうアメリカ行きやぞ、それでまあ、北向いていったからけどね、台湾は来るときも寄ったんやけども、まず沖縄はずーっとこの右のほう、太平洋のほう向いて抜けて、「ああ、沖縄が見えるな」って言ってね、それからちょうど日本へ入ったのは、豊後水道、四国と九州の間のね。宮崎県と愛媛の間。やっぱり日本の国、懐かしいな。島国で緑の島でね。何回通ってもわたしも往復2回あすこ宇品へ出しましたでね、やっぱり日本はええなと思ってね、もうやれやれと思ってね、そこでもう本当にいや、実感したのは、日本帰ったなと思ってね、ええ。

朝からね、母親がね、迎えに来てくれましたわ。そこの多賀の駅までね。彦根まで来たのは京都が朝の8時ごろでしたかな。夜、夜行で宇品、広島乗って、そして夜行でずーっと出てきて、京都で8時ごろでしたやろう。それから彦根着いたのが9時ごろで、それから私鉄(近江鉄道)に多賀(滋賀県)まで電車で、帰ってきて、母親一人の姿やった。迎えに来てくれたのは。ひざにすがり付いた。今でも覚えている。もう何もものを言えなかった。母親のひざにすがりついてああ~良かった。やっぱり何回もわし、家でも言うんじゃが、母親というものは偉大なもんだなと思ってね。それでとぼとぼと2人が5キロある道を2人が帰ってきました。そして帰って来て、いちばん最初になんしたのが、お宮さんへ参ってきました。それから両隣へあいさつに寄って、そして家へ入って、そして休みましたけど、夜は一晩、むしろを母親に頼んだ。その晩、家へ上がることはできずに、むしろの上へ寝ました。「上へ上がって休め」って言われたけど、もったいのうてね、本当に上がって寝られなんだですよ。もう、むしろ敷いて、そこで一晩、家で。ええ。

それから やれやれ、ああ、わが家っていうのはこんな不思議なことがあるんかな、ああ、2度と会えないおやじも会えて、本当にそう思った。よし、あしたからは、何でも命がけでやる。命さえかけたら、あのビルマの命がけさえ毎日を終了したら、必ずね、親子がしっかりと暮らしができると思った。

これはね、アーロンキャンプの歌はね。「朝だ、夜明けだ」っていう歌い出しでね。これは2大隊のアオヤマ曹長、東京音楽学校を出た人が作詩作曲してくれた人で、あっ、これや。

Q:どんな歌ですか。

「朝だ 夜明けだ アーロンの原に弾む作業の足取りだ きょうもがっちりスクラム組んで腕と力を腕と力を試すのだ 意地だ 男だ 負けてはならぬ つらい作業もドンとこい 汗はふいても涙は見せぬ 忍一字の忍一字の胸 一字が胸にある 友だ 情けだ キャンプの中でうれし悲しも分けおうて 男同志が手に手に取れば 大和桜の大和桜の花が咲く 朝だ 夜明けだ アーロンの原に上がる希望の歌声が さあさあ元気でうれしの日まで 行こう再起の行こう再起の戦いだ」

この歌がね、これをアオヤマ曹長というのが作ってそして、詩を書いてそれで作曲してそしてわれわれにこれを心の和むように歌えってゆうてね、みなに伝えてくれた。

ええ、これでな、アーロンキャンプの歌っていうやっちゃから、だいたいこれは今もそこの師団のそこの収容所にアーロンキャンプの人は、大体これをね、みな歌って、なんして、そして日曜日の日になると、舞台をくんで、それから演芸会をやって、そしてまあ、寂しい中を和まして、そして家帰る船が迎えに来るのを待っていたわけですよ。ええ。

出来事の背景

【ビルマ 退却戦の悲闘 ~福井県・敦賀歩兵第119連隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争後半の昭和19年(1944年)、日本軍は、連合軍の拠点や輸送路を制圧するため、ビルマとインドの国境地帯に進撃。しかし日本軍は壊滅的な打撃を受け、退却を余儀なくされた。

この時、歩兵第119連隊3000人に命じられたのは、進軍ではなく敵に包囲されていた通称菊兵団と呼ばれる第18師団を救出することだった。

昭和19年6月27日、前線に到着した第119連隊は、連合軍を相手に初めての戦闘を行った。最新鋭の装備で襲いかかる連合軍。食料や弾薬などの補給をほとんど受けられず、さらには、マラリアや赤痢がまん延、およそ800人が病で命を落とした。第119連隊は、18師団退却の楯となりながら後退、昭和20年1月、日本軍が拠点を置く中部ビルマのマンダレーに到着。この時すでに3000人の将兵のうち、半数以上が帰らぬ人となっていた。一方、連合軍もマンダレーに迫っていた。連合軍は6個師団に2つの戦車部隊を伴った大戦力。対する日本軍は第119連隊を含む4個師団であったが、北部ビルマ戦で消耗し、兵力は半分ほどになっていた。劣勢に立つ日本軍の中には、マンダレーを放棄して戦線を縮小すべきという意見も出始めるしかし、ビルマ方面軍・田中新一参謀長は全面対決を行い、敵を撃滅する、という方針を変えず、イラワジ河沿いに陣地を築き、マンダレーを目指す連合軍を迎え撃つことを命じる。しかし、連合軍の圧倒的な兵力を前に、多くの兵士が命を落とし、マンダレーは連合軍の手に落ちた。日本軍は、さらに退却しながら、勝算のない戦いを続けた。

昭和20年8月15日、気力も体力も限界を超えたなか、終戦を迎える。第119連隊のうち、生きて帰ることができたのは、1000人足らずであった。

証言者プロフィール

1918年
滋賀県犬上郡大滝村に生まれる
1939年
現役兵として金沢輜重弟9連隊に入隊後、金沢工兵第9連隊に転じ、中国戦線へ
1943年
歩兵第119連隊に転じ、ビルマでの戦闘に参加
1945年
終戦当時28歳、一等兵
1947年
復員後は農業を営む

関連する地図

ビルマ (サーモ、マンダレー、クレ高地)

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