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チャプター

[1] チャプター1 「クレ高地を死守」の命令」  01:54
[2] チャプター2 攻撃延期  05:17
[3] チャプター3 敗走の道  02:05
[4] チャプター4 終戦を知る  02:04
[5] チャプター5 収容所の日々  04:29
[6] チャプター6 収容所での「首実検」  03:58

再生テキスト

まぁ、あの時分は死ぬこと、ちょっともいとうておらへん。

いまでこそ、死を恐ろしいように思うけど、そんなもん、いつ何時言われてもへっちゃらや。国のためやもん。

それは大隊長と2人行ったときに、「黎明攻撃をしなさい」と。

「夜が明けたら黎明攻撃をせぇ。クレ高地を取れ」と、こういう命令や。

大隊長と2人おって、それで、「はい、わかりました」言うて。

水筒の栓に日本酒を一杯よばれて、「これは別れの盃や」言うて。

もう、命的にして生きれちゅうことや。

Q:(第)2大隊では、全部で何人ぐらいだったんですかね?

それもう、皆30人ほどや。

5中隊30人、7中隊30人、機関銃は20人、大隊砲は20人、そんなもんや。

だから150名やがな。せいぜい150から130。

Q:別れの盃をもらったときはどんなお気持でした?

もう、はぁーっ、ちゅうもんじゃなぁ。偉い人からよう、頂きますとかって言って頂いて。

黎明攻撃で配置して、路上斥候、道を出して、行ったら夜明けたもんで。

もう向こうは撃ってきたんや、その路上斥候に。それで「ちょっと待ったぁー」となって。

それで大隊長に、「これはもう、今、行ったら全部全滅や」と。

「延ばそう」ということになったんや。

命が惜しいんじゃない。兵隊さん皆殺してしまうと、もう戦うもんおらへん。

Q:その後どうなったわけですか、2大隊は。

それで、その攻撃を頓挫して、そやけ黎明やから、昼1日あるわなぁ。

それで昼の間、いまの偽装網かぶって、おうちにみな待機させたわけや。

で、夕方、「はんごう炊事せい」と。腹ごしらえな。

それだったら川へ米とぎに行ったら、いま言う連隊本部の下士官か誰かに会うたわけや。

それで連隊長、大隊長が死んだと。「軍旗はどこにある?」「わからん」と。

そやから、これは(第2大隊の)辻大隊長はこれは大変なこっちゃと。

軍旗はどこへいったか分からなくてはいかんと。

それで辻少佐も「これは攻撃やめや」と言うて、その軍旗を探しに行ったわけや。

連隊長、探さへん。もう兵隊に聞いたら、連隊長は・・・

書いてあるとおり、破甲爆弾くらい持って、戦車に突入していったんじゃけ。

肩章と襟章とってもうてなぁ。

もう、責任観念やなぁ。命令は絶対に服従するという。

やっぱりそんだけ責任観念旺盛や。

師団長の命令聞かな。かと言うて攻撃させては頓挫するし、兵員は死ぬし。

Q:転進命令が出ますよね。

それから、うちの大隊長は連隊長代理して、今度は、うちの大隊を5中隊のタカギ大尉が、大隊長代理したわけよ。
そして、私は5中隊の部署につくわけ。

そのとき、緩詰の小隊をうちは配属受けた。戦車を撃つように。

この地図で言うと、これはクレやし、ここ。この川沿いにおった。

ここで、うちの大隊「戦車攻撃せい」と、こういう命令やった。

それで小さい田舎の集落あってな、ここに。

その周りに1個大隊、ずーっと垣根越しに置いて、そうしたら敵の飛行機が来て、集落へ焼夷弾落としてしもうた。

集落、焼けてしもうたんや。

周りの垣根あったや、そこへみな兵隊おったや。

そして、しとったら15榴(りゅう)の重砲が、将校がわしのところへ、副官ところへ来て「重砲は応援するさけ、戦車が来たら言うてくれ」と。

「ここへ弾落とすさけ」と言うて帰ったから、少尉やったわ。

そうしたら、戦車がやってきた、3、4台。

それで、その15榴に「戦車来た、撃てー」って言ったら、ドンドンドーンと撃ったわ。

そうしたら、この台所ぐらいの穴開いたわ。こんなん。

そうしたらもう、戦車下がってもうた。

行ったってこう、殺されても、エー、戦死したら、しょうもねえ。

もう師団司令部、なんにも言わへん。わしはまぁ、そのときは連隊はもうおらんさけ。

わしは連隊命令でうちの大隊はここへ行ったわけや。

もう攻める手がないんじゃろう。兵隊持っとらんし、師団長かて。

もはや自分の部下もマンダレーまで、みな下がってしもうとるし。兵隊あらへんや。

手持ちの兵隊あらへんやろ。

そのまま、日本の兵隊、下がってくるとき、死ぬとそこへ小銃が1本落っとるやん。

それをビルマ人、みんな全部、取っとる。

そやけ、一家の全員で撃ってきたね。ビルマ人は撃ってきた。

こっちも撃ったし。みな日本の小銃や。

英軍はそんなもん、武器渡すかよ。みな日本軍の取った小銃や。

それは、そんなこと言うとおかしいけどね、日本軍は、わしゃ戦争中、軍票使ったことないわね。

主計からもらうけんど、もろうたて、もの買うとこあらへん。

で、糧秣受領というと、後方からもらいに行くと、兵隊さん、もろうてくるやろう。

それでなくて現地、現地給糧ばっかりや。略奪して。

そりゃ、ビルマ人は怒るわや。

牛、殺すやろ。あんなさけ。水牛、殺すやろう、怒ってくるんのや。ビルマ人が。

「マスター、牛を取ってった」言うて。

そんなもん、知らんっていうけど、実際は取ってきとるよ。

それやって、食わなおれへんねん。

いわゆる略奪して、生きったね。なしてや、あんなの食わねと。

ただ、ビルマはニューギニアとかガダルカナルという島と違うて、米があるんや。田舎へ行くと。

こういう家あると、後ろに必ず米あるんや。

それ取ってくるん。

Q:連隊の下の(兵隊の)雰囲気というか、志気、隊員の志気は?

それはもう、わしゃ、一番前線にうちの大隊おったんで、もう現地給与で、バナナ食ったり、パイナップル取ってきて、食うたりしておったが、兵隊もわりかた、工夫をしとったしな。

もう敵さんの前ばっかり、かわしつつ跳ね、敵おんにゃけ、うん。

油断できへんわ。

そったら終戦なったら、敵さんの戦闘機は飛ぶけど、河をね。

ちょっとも撃たんに、「おかしいな」って言って。

どうも、おかしいといったわ。

そしたら敵さん、ビラを撒いたんや。「日本兵隊さん、戦争終わりましたよ。故郷へ帰れますよ」

英文のビラで知ったんや。

それで18日になったら、命令が来て、「即時、停戦すべし」や。

とまあ、記憶しとるわ。

終戦、15日。

連隊本部から電報入ってくるの遅かって、「即時、停戦すべし」という命令が来たんや。

そしたら、兵隊さんは「日本は勝ったんやろうか」って、そない言うたんや。

「いや、それはもう日本は、もう、沖縄を取られとるし、勝っとらへん。負けたんじゃ」って。

「お前らこれから、泰緬鉄道を通ったときに、オーストラリアの捕虜はドラム缶を押しとった。

あんなこと、せんなんかしれんど」って。

「まあこれから、命、永らえなあかんな」ってわしは言うたんや。

いちばん初めは、終戦になって、8月の30日に英軍に武装解除や。

英軍に交渉に行ったわけだ。そしたら英軍の中尉が来たんや。

わしに「You can speak English?」ってこうやるんや。

わしゃ、英語がしゃべれんたんや。

それで、3大隊のイマザワ少尉は、名古屋の商大出や。

「イマザワ少尉、お前通訳せい」って言って、それで英軍の中尉とイマザワと英語で通訳したん。

それで、いついっか、ここで武装解除するという約束を受けたわけ。のう。

それでそこで全部、銃から剣から弾薬から、将校は軍刀から眼鏡から全部、そこへ。

それから河を渡って、ニュアンレビンという所へ行きやった。

そこで今度また、英軍の日本放送やって。

今度は、また持物検査や。安全カミソリ、時計、みな取られるや。

わしゃ、そのとき短刀もっとったよ。取られた。

そって、そこを済んでパヤジいう所へ行ったんや。

パヤジで半月ほどおったかな。あれ、9月いっぱいおったんか。

そしたら「2大隊は、貨車に乗れ」とこうや。

そしたら「おい、兵隊さん、ラングーン行ってもう船が来たんじゃ。いねべ」言うて、ラングーンの港をずっと船行ったや。

「ここで降りるんだ。はや行こう」てみんな言うた。

降ろさへんのや。アーロン収容所や。アーロン収容所入ったら英軍の幕舎がちゃんと張ってあった。

そこへみな入ったや。わしは連隊長と大隊長みんな一緒やって、幕舎の中で寝たよ。

そして、今度は英軍からニッパハウスの材料もろうて、兵隊の宿舎を建てたわけ。

だいぶおった、アーロンには。

収容所されてからは、兵隊さんに言うたんや。

「御身、大切やぞ」と。

「みんな日本に帰れるんやから、無茶なことしたらあかんさけ。体を大事にせなあかんぞ」っていって言うたんよ。

みんなに。自分自身もそうやし。


Q:あと、もう一つは、行ってますよね? 

ミンガラドン。

それは幕舎やった。英軍の幕舎。天幕。

それがいまいう、戦犯のあれを調べたかったんや。

原住民を虐殺したか、なんか、そんなこっちゃやげ。

だから、鉄道連隊「鉄9」は、捕虜使うとったやろう? 泰緬鉄道は。

そやけこっち来て、みなやられとるよ。

敦賀連隊は、まあ、いわゆる下がってくるときにを、原住民をどやかしたんだろう、という話しだい。

だろうね。だから「兵員は、顔の人相を変えなさい」と。

頭伸ばし、ひげ生やす。のう。

頭髪を伸ばしてひげを生やす。

それは、一列に並ばされて、広いとこに。

ミンガラドンっていうのは飛行場やけのう、そのあとやけ。幕舎看おって、で、首実検始めるという。

まあ、実検やな。首実検というのは、認定尋問すると、な。

だから1列に並んだいな。なあ? 

そしたら今の英軍の将校の案内で、被害者やな、が、ついてくるわけや。

で、これとこれ。

つぶやくように言うても、あかへん。あとどうなったかは、わしゃはっきり知らんやな。

人相を変えるというのは、今、申し上げたように(部隊が)移動するときに場所がわからんやろう? 

どこどこの前、村行きたいゆうときに。そのときには、道を案内させる現地人頼まな、行かれんへんや。な?

そうすると案内すると、もう私で言うと、一個大隊そこへ行ったわけや。

一個大隊と言えば、少なくても150人ぐらいおるねん。

そうすると、帰すと「今、あすこの部落入った」いうことが告げるや、英軍に。

すると今度は、爆撃や。砲撃や。

すると今度は、こんなこというと悪いけど、虐殺するのができる、生ずるわけや。

帰さんわけや、現地人を。な? 帰すと、英軍に通報すっさかい。

まあ、作戦というのはそんなもんじゃねえ。

やられるか、やるかなんや。戦争というのは。自分が死ぬか、敵さん殺すかえんや。

Q:喜多さんもミンガラドンにいたとき、首実検というのは体験されているんですか。

そんなんな。

一列にずーっと、一列に並びよるんや。

今、言うように、これ中隊ごとにずーっと、ずるずる並ぶわけや。その前を通るんやもん。

Q:並ばさられたときの気持っていうのはどういうお気持ですか。

そりゃ、あんだて。後ろ暗いとこあっと、ちょっとかなわんわいや。

どこ行くんか分からんのや。

で、そのとき、言われたんや。連隊長、大隊長、連隊副官、大隊副官、これは一番先やという。

そやけ、わいらも覚悟しとった。

そやけ人相を変え、先ほど申し上げたように、居場所はそこの場所を、その集落はおらなんだ、という口約束をしたわけや。

危しきとこはな。

Q:来たときの、その英軍とビルマ人が来たときのことっていうのは?

そんなもん、おまえ、英軍が来りゃ不動の姿勢や。

そんなもん横向くもしゃへん、きょろきょろ。きょろきょろすっと、かえって疑われるや。

そりゃ、心にやましいことあっとな、怖いもんやわや。

今、情報えとんのやけ。

もう、いちばん先やられるのは大隊長、大隊副官、連隊長、連隊副官という、もう、情報入っとったわけ。

いちばん怖いわな。

出来事の背景

【ビルマ 退却戦の悲闘 ~福井県・敦賀歩兵第119連隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争後半の昭和19年(1944年)、日本軍は、連合軍の拠点や輸送路を制圧するため、ビルマとインドの国境地帯に進撃。しかし日本軍は壊滅的な打撃を受け、退却を余儀なくされた。

この時、歩兵第119連隊3000人に命じられたのは、進軍ではなく敵に包囲されていた通称菊兵団と呼ばれる第18師団を救出することだった。

昭和19年6月27日、前線に到着した第119連隊は、連合軍を相手に初めての戦闘を行った。最新鋭の装備で襲いかかる連合軍。食料や弾薬などの補給をほとんど受けられず、さらには、マラリアや赤痢がまん延、およそ800人が病で命を落とした。第119連隊は、18師団退却の楯となりながら後退、昭和20年1月、日本軍が拠点を置く中部ビルマのマンダレーに到着。この時すでに3000人の将兵のうち、半数以上が帰らぬ人となっていた。一方、連合軍もマンダレーに迫っていた。連合軍は6個師団に2つの戦車部隊を伴った大戦力。対する日本軍は第119連隊を含む4個師団であったが、北部ビルマ戦で消耗し、兵力は半分ほどになっていた。劣勢に立つ日本軍の中には、マンダレーを放棄して戦線を縮小すべきという意見も出始めるしかし、ビルマ方面軍・田中新一参謀長は全面対決を行い、敵を撃滅する、という方針を変えず、イラワジ河沿いに陣地を築き、マンダレーを目指す連合軍を迎え撃つことを命じる。しかし、連合軍の圧倒的な兵力を前に、多くの兵士が命を落とし、マンダレーは連合軍の手に落ちた。日本軍は、さらに退却しながら、勝算のない戦いを続けた。

昭和20年8月15日、気力も体力も限界を超えたなか、終戦を迎える。第119連隊のうち、生きて帰ることができたのは、1000人足らずであった。

証言者プロフィール

1920年
福井県遠敷郡に生まれる
1941年
歩兵第119連隊入隊、ビルマ戦線へ
1945年
終戦
1947年
復員後は、福井で農業を営む

関連する地図

ビルマ(サーモ、マンダレー、クレ高地)

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