ホーム » 証言 » 金森 喜三郎さん

チャプター

[1] チャプター1 連合軍の反攻  06:19
[2] チャプター2 補給なき前線  03:53
[3] チャプター3 最前線の惨状  03:50
[4] チャプター4 新たな戦闘  06:20
[5] チャプター5 クレ高地の戦闘  07:52
[6] チャプター6 敗走  07:37
[7] チャプター7 終戦の知らせ  02:13
[8] チャプター8 復員  04:18

再生テキスト

あのときは、あのころ、南方軍では「ジャワ天国、タイ極楽、それからビルマは地獄」と言われとった。それくらい地獄はあのビルマは悪かったんですわ。そしてビルマへ行くって決まったときは、みんな騒々しかったですわ。

もう負け戦ですから、もう行ってすぐ爆撃受けて、わたしの本来の仕事の「功績」の仕事がなくなったんです。だからまったく戦場では連隊本部のもう最前線に出されましてね。塙さんのおっしゃるとおり、斥候。それから戦車攻撃っていうのがありましたよ。それから歩哨、部隊連絡、中でも戦車攻撃みたいに、これはアンパンって言いましたよ。かって戦車につけてけやる、あれを持って、そして戦車の来そうなところに出されるわけです。そのときの気持ちはもうカァーッとしてましたね。敵が前来とるじゃから。近づいてくるんじゃから。そうすると兵隊がそのときは兵隊が1人か2人ついてくるでしょう。そうすると死にとうないんですわ、みんな。死たくないの。そやから「班長」って言うてね、わたしに。向こうで班長っていうでしょう。下士官のコウチョウ軍曹のことを。「班長、御身大切」って言ってね。御身大切。

もう体、大切やから、突っ込まんといてくれっていう戦線。もうぎりぎりの、どこへ行こうと人間はあわれですよ。そしてわたしに、突っ込まんといてくれって。それから負けてくれーって。絶対にひとり、動いたり、じぃーっとして動いたり、それから自分で走ってどこかへ逃げて行こうとしたりしたらあかんぞ。じぃーっといまのところでおらなあかんっていつも言いました。

わたしは運がいいんで、戦車がわたしのもう見えるところへ来たって、帰っていくんですわ、うまーく。そして戦車の後ろには向こうの歩兵が10人か15人ずつ戦車の後ろについているんです。それが何台も来るでしょう。そんなもの、とてもなんにもならない。なんにもならんのになんで部隊がそんなところへわたしを出すかというと、安心のためです。後ろにおって、わたしらがババァーンとやられると準備ができるでしょう、みんな全員。それがあるんかね、まぁいわゆる戦場においては一人一人が自分が大事でね。まぁ兵隊も将校も利己主義の塊です。

命令で戦車攻撃やから。ですけど、突っ込んだら死ぬでしょう。そうしてその実は後ろの者のはそうすると全部やられちまう、今度は。砲撃と銃撃で、もうそのあたり何百平方メートルか知らんけど隠れておって、いままで天井が見えなかったところが、もうスカーッと爆撃で木の葉が落ちてしもうて青空になってまう。それくらいひどうやられるんです。
それからわたしは運がよくて、敵が帰ってくれたんでしょう。そして帰って、フゥーッと副官のところへ行って、戦車はもう帰りましたって言うと、「ほぉー、ご苦労」って言ってね。いつも決まっとったわ。「おぉーご苦労、休んどいてくれー、休んでおくれー」って言ってね。そんなことでした。

もうね、誰でもあのころになると、この戦争で勝てるとは思いませんでしたわ。それはもうなすがままやで、英軍の。そんなんでした。

Q:日本軍は、じゃぁどういうふうな行動というか、対応するんですか。

逃げるばかりですわ。じりじりじりじりと。米のあるところに向かって、もう米がないです、食べるもんが。そやから現地人の家へ行くと、田舎へ行くと、各家に畳半畳から、大きいところになったら畳1畳ぐらいのモミが用意してある。ダァーッと各家に。それを食べるだけすってね、玄米にして、そして今度は日本で昔、米をついたようについて白米にしてビルマ人は食べておった。それをビルマ人の、ビルマ人はもうそこへ日本人が来るちゅうことがわかると、ここが戦場になると危ないでしょう。皆奥地へ逃げこんでまうんです。と、米は持っていけんでしょう。そしてその米をもらったんですわ、ただで。悪く言うと略奪やわ。金払わねぇから。そしてその米を白米にして靴下の中へ入れて、2本か3本入れて背嚢(はいのう)に入れて、そして下がったんですが、それがあったために生きられたんです。米の国やから生きられたんです。

そしておかずはもう全然なし。塩だけです。塩をパラパラとふって。そしてもうクレ高地からあと、クレって、クレ高地前からおかずなんか全然なかったです。もう草も、前におった兵隊が下がるでしょう。食べてしもうて食べられるものを。そやからなくなって、バナナのしんですね。バナナの木のしん、あれを食べたりしましたわ。それくらいで、もうめったに米のごはんに塩をふると。米のごはんだけはもう十分食べました。1日2回。夕方と朝、翌日の10時ごろですか。それが命の助かったもとですわ。

わたしの同じ中隊のなんやったやろな、何軍曹やったかな、ちょっと名前は。それがわたしのところへやっぱり軍曹ですわ。それがわたしのところへやってきて、そのサーモでは、まだ歩ける者を自決させたの。自決。かわいそうに。置いてかれると捕虜になる言うて。捕虜は日本のことをしゃべってわかってしまうからなんでも。ほんで自決させたんですわ。手りゅう弾をここへ持ってきてね。弾いてね。手りゅう弾はもうのうなったら、なくなるでしょう、そんなの。ないものもあるし、そうしたらそれは鉄砲を、銃をこういうふうに銃口を向けて、親指でクッと引き金を引くんです。そうするとドォーンといって死ぬ。それで皆自決させたんです。上からの命令ですわ。

そうすると兵隊が、「国のために一生懸命やってきたのになんで死なんならんのか。わしは死ねんわ」と言うてね、なかなか自決に応じないでしょう。しかたなしにもう自決させた。それはもうたくさんあったんですよ。あのようにわたしらが帰ったときには、戦死、戦死ということになってるんです。ですけどそれが多いんです。もっとひどいのは軍曹でしたわ、わたしに言いました。それは、もう鉄砲をここへ持ってきたんやけど、足がもう自由がきかんので引き金を足で引けんそうです。どうしたかというと、「班長、引き金引いてくれ。わしは死ぬで。」そうして自分で引かんのをわしは引き金引くんですけどね。言い合いして、とうとうあとに敵が来るでしょう。それで引き金引いてやるわって言うたら、その男が、「なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ」って言うんです。あぁもうああいうの聞いたら涙出た、わたしは。あのとき、引き金引かずに置いてきたら捕虜になって助かったかもしらんなって。英軍の捕虜になって。

クレは結局はこの「断作戦」の失敗ですわな。負け戦であったことは、我々はそんなもん知りませんわな。兵隊がみんなよう言いましたわ。こんなことで戦争は勝てるんかって。毎日負けて下がるんでしょう。勝った戦は1回もない。

負け戦。負け戦というよりも、もう北から南へ押してくるでしょう。押してくるときは戦車と飛行機で押してくるのやからどうにもなりません。逃げるばっかり。そんな逃げ戦でした。

そうすると、下のラングーンの近くへ行ったら、今度あそこでだいぶ犠牲出した。あそこで後方におって楽しておった部隊があるでしょう。平和な部隊。鳥取の連隊なのかもあそこにおったんですわ。あの連中は、後方の守備をしとったんですわ。

昔の支那事変でしたら、中国でもうひと月戦闘をやると、交代したんですわ、負傷するから。後ろの者と前の者と。ビルマでは後ろの者と前の者と交代はなかったんです。ビルマはいつまでもあきるまで、移る前の部隊はいつもいちばん悪いしんがりでしといやった。 それでそのときもあおりがありました。それで、ダンから川を渡って逃げて日本軍が逃げてくるのに、もう船ないです。本当にどこかに、どこやったかなぁ、つりかご、なんとかして両岸をロープで結んだんです。そしてそのロープを握って渡ったわけ。そのときにようけと南方のジャングルの、わたしもラングーン病院におったことあるが、(従軍)看護婦が、日赤のあの看護婦が、もう山を伝うて下がるのが持ちこたえられんのですよ。流れて行くのを見たって言うてました。あおりがあったって。

そのとき、わたしはこうやって、ジャングルから逃げていくのを救うほうでしょう、わたしらみたいに。そのとき、ある日、わたしのところへ兵隊がドォーッと走ってきて、「班長」って言って、「なんや」って言うたら、「わしらはきょう悪いことしたんじゃ」って。「なんでや」って言うと、ビルマはもう着の身着のままでしょう。ほんで死んだ兵隊の靴でもシャツでも比べてみて、自分のよりもよかったら、死んだ兵隊のもらうんです。そういうあれがあったんだね。わたしはそんなことはわたしらの部隊にはなかったんだけど、それでやっぱりあったんですね。それがその部隊の、死んだ部隊がよけておるでしょう。河を渡ってきて、もう安心感かなんかで死ぬんですわ。それで死んどるんで、それで兵隊がわたしを知っている兵隊が、「班長、わしはもう嫌になったんだ。靴がいい靴、新品でいい靴、ラングーンでおって、みんないい靴はいとるの。自分らの靴はもうここのとこ、針金で結んでいるような、そんなひどい靴でしょう。」それで靴をもらうと思って靴を脱いで、「いただきまーす」って言って、これいただいたらわたしはまだ生きとるぞーとって言うたちぃ、それで飛んだり。わたしには、「班長、もう弱ったわ。わしはまだ生きとるぞ」ってそういうね、まぁ哀れというも、本当に哀れですわ。

これは誰も知らんと思うわ。もうわたしぐらいのもんや。

それはわたし、口やられたときですかね。そしたら頭と頭とこれぐらいひっつくぐらいにして、やってこうやって絞ったんだ。クレ高地の山のふもとで。それで、口をね、こう開けてね、爆風が来たら口を開けてなけりゃ片目、片ほうだけ鼓膜が破れしてしまうんだ。口を開けて、こうやって口開かんの。ね。そしたら、普通は爆弾やこう来て、こうっと中へ入ってズーンと弾くんです。あのときは、クレ高地のあのときの爆弾は、ずーっと来てなんかどっかにひっかかったんですね。爆弾が。それでここへ引っ掛からずにどっかほかのとこへ爆弾の腹やなんかに引っ掛かって、ころがってきたんですよ、ゴロゴロゴロ。ごろごんで来て、わたしらの近くでこれに木にかん木にせっとあられて、それでバーンって弾いたの。

ほんで、ちょうどね、わたしの30センチぐらいか、前におった男がね、ちょっと飛行機があんまりよく来るもんやから、ちょっと見るようにこう体を起こしたんです。それでそのときに来たん。それでわたしは、口やられた。その前におった男は頭が割れてね、そして白い脳みそ、それがバーッとわたしにかかってね、そして、片腕ちぎれそうになってました。もう即死です。もう一人の兵隊も負傷して、まもなく死にましたよ。それで、残ったのは、わたしと衛生兵のオカジママコト兵長かね。軍刀下げているのまで、そんなとき前出すぐらい兵隊が、おらなんだわけですね。

それが12月の8日のちょっと前ですよね。それからずーっと中旬まで、この着の身着のまま、もう着た脳みそのかかったのを着たまま、洗濯もできるあたりないし、でしたわ。
汚いとも思わんしね。

Q:もう一人の方はどういうふうに亡くなったんですか。

ヒジとね、胴か、肩かなんかやられたらしい。運んでから、死にましたよ。オカジマ兵長というのは、軍刀下がりしとったんですわ。この鉄帽かぶっているでしょう? 鉄帽に当たってね、鉄帽は真綿でね、こうかぶしてあるんです。あのころ。それでその真綿がバーンと開いて、それで鉄帽割れずに助かったの。鉄帽割れたらオカジマも死んでいるんや。頭ぼけてしまって、下がってしもうた。わたし一人、その口をやられながら、ちょっとちょっとだけ下がりして、下がって一人だけで、二晩頑張りました。二晩。2日と3晩か、飲まず食わず。こっから出血はひどいでしょう。飲まず食わずでしょう、のどが乾いてそれはもうね、ならんけど、誰もない食糧持ってこず、来てくれるまで。それで、みな軍隊で言いますわね。もうあのそういうときは他人の小便でもくれ、小便でもいいから飲ましてくれっていうぐらいやって言いますよ。わたしは他人の小便は飲まなんだけど、3人もおらんでしょう。2人は即死、死んで、オカジマ兵長は、全身やけども頭ぼけてしもうて、カーンって当たって、下がったでしょう。わたし一人、2日3晩かね。一人で壕なんか入って、おったんですわ。

Q:相手はどのくらいいるんですか。

わかりませんわね。山へ丘のクレ高地へ高地におるんやから。それであのとき、下がれっていうことになって、いよいよ下がったときにもうわたしの鉄砲も終わりなんです。きかんように。それから飯盒(はんごう)がこ破片がグッと当たってね、つき抜けてしもうた。それで水筒も飛んでいって、わたしは丸腰になった。そしたら兵隊がね、下がったときに死んだ兵隊の飯盒に水を近くの水をちょうど、あのころ、2月のそのころは乾期で、雨が降らんときで、どっか川でね、水をすくうて来てくれてわたし、飯盒にそしてもうもうアメーバ赤痢になろうがどうか、しゃあない、もう腹も減っているけど、ノドが渇いているでしょう、こう出血している。グーッともう飲めるだけ飲んだらば、忘れられませんわ。あれは、あんな、あんなつらかったことなかった。はい。つらかったわ。あれが生き地獄ですね。

まだ負け戦いうこと知りませんわな。日本軍の自分の戦闘で最初の負け戦がビルマから始まったんですね。なにくそ思うとったんですが、もうわたしらがビルマに着いたときに、すでにもう勝敗は決まっとったんですよ。それでなんもそんなこと知らんでしょう。それで北へ北へ進んどった。士気はありましたよ。そやけど、追われて追われてしているうちにみんながこれは戦争、勝てるんかなという者が出てきましたわ。

わたしらも日本が負けるとはまだそのことも思っていられなんだね。これはあかんな、ひどいこと。だんだん悪うなったら、もう下がることばっかり考えるようになった。なんとかしてタイまで、あそこは独立国やから戦争に参加しとらんでしょう。なんとかしてタイまで逃げこみたいって言って、そんなことをみんな考えやんでないですか。

Q:いつぐらいからそういうふうに考えはじめたんですかね。

もうあんまりひどい負け方でしょう。ミートキーナの、飛行場で負けて下がったころにそんな気になりましたね。

もうみんな情けないですよ。寂しいですねぇ。毎日負け戦で下がるばっかりでしょう。勝つ見込みは全然ないんだから。向こうは戦車と飛行機でやってくるんだけど高射砲が英軍が高射砲を持ってるでしょう。初めはあれ、日本の飛行機をやろうと思うて撃って、高射砲が。それはあるけに、こうやってね、撃ってくるんですわ。

あれ、速力が高射砲というのは筒が長いでしょう。早いんですわ。そうすると撃った発射音と着弾が破裂するのと、もう撃ったほうがだいぶ遅れて聞こえてくるの。シャッドーン、シャッドーンっていってね。ドンシャンやったかな。こっちへ来てこっちで弾く。弾いたのが先に行くいで、向こうで撃ったのが遅れてくるんですわ。シャンドーンやったかな。そのときもうあかんと思ったな、わたしは。

そんな帰りたいとかなんとかが、もう死にたくないわ。もうわたしね、終戦前に特攻隊員に選ばれたんです。それで特攻隊っていうのは15名が特攻隊で、1部隊で、長が少尉か中尉の将校です。それでその下に下士官が2人おって、それで兵隊が6人ずつで、合計15名です。それでその特攻隊はわたしを命じたんは、連隊副官か、覚えがないんですわ。「金森軍曹は、今度、特攻隊に入れ。」 そのときはもうあかんと思うたね。そして特攻に行くのはこんなもん来るかと思うね。肉のかたまりをくれましたよ。これでいろいろ出発するまでに携帯口糧、これをくん製にして、くすぶらして、そして背のうの中へ入れておかずにして持って行きって言って。

そのときはもうなんとももう言えん寂しさですね。もうこれ今度は絶対死ななあかん。だからもうわたしはそのときにも人生観が変わったんですわ。あぁ人生は命があったらそれでいいと。それでもし生きて帰る--このときはまだ生きて帰りたいなんて思わんけど、あぁもうあんな寂しいことはなかったね。あぁあぁ寂しいですて。なんともかんとも言えませんわ。

出発中止って。あれはうれしかったね。あれはもうあんなうれしいことなかった。あれはもうそれはもう親のことやら、親といっしょに畑で働いたことやら、もう家のことですね。親といっしょに。それがダァーッと頭へ浮かんでね。もう恋しゅうて恋しゅうて寝られなんだ。あのとき、28やったんですね。

敗戦になったでしょう。そうしたら陛下からいよいよ降伏せよという命令が出たんで、もう誰も戦うことなく、武器を渡して、引き渡して行けということになったでしょう。あのとき、あぁ負けたかって、負けたことを悲しむ者は1人もなかった。わたしの知るかぎりではよ。もう本当にぎりぎりいっぱいのところへ行くと、自分ですわ。自分の命。

Q:敗戦を知ったときはどんなお気持ちでしたか。

寂しいね。みんな一時的に皆うなだれましたわ。それでもうしばらくたったら、もうものの20分か30分、その命令を、陛下の命令を聞いて、20分か30分たったら、兵隊はみんな集まってね。しゃべりにかかったの。それ何をするのに、降伏すると今度、男のもうチンチンを全部切られるんやて。もうそんなことは言うて、言うたらね、そんなことしたらどうもならんて。それでみんなで集団で逃げようではないかっていう話が持ち上がった。

一つの流言飛語が飛んだんです。それは日本へ帰ると、汽車乗って帰るでしょう。そうすると、復員列車っていうのがね、いっぺん帰るんやから、汽車に石を投げつけて、「敗残兵」って我々をみな、バカにするっちゅ。こうやってじーっと我慢してこんなこと言われても我慢して帰るんやぞ。ゆうてね、そうそんな、一生懸命に働いて働いて戦争したのに、「敗残兵、貴様が負けたから、負けたんや」っていううわさが耳に入ったんですわ。収容所へ。

ところが実際、着いてみると、全然違いますしたわ。宇品で広島のそばの宇品で。

あそこで瀬戸内海でね、魚を釣っている、人があるでしょう。

7月の5日のころです。夏ですかね。ちょうど今ごろや。そうするとね、みんな魚釣りを止めてね、こう立ってね、そして帽子、麦わら帽子取ってね、わたしらのほうこうやって、おじきしました。みんな。はあっ、だいぶ話が違うなって、みんな、びっくりしましたね。船が浜へ入ったとき、あっ、はぁってこう、頭下げるんですよ。ね。

Q:7月7日にご自宅帰ったときはいかがでしたか。

そりゃもう、何とも言えない。それはちょうどそれがね、朝の未明ですわ。まだ明るいころです。それで、暗い、暗いときかな。それで、三国町(現 福井県坂井市)へ帰るものは、だいたいはビルマに50人ぐらいわたしらの部隊でいとったんっていうんですよ。帰る一緒に帰ったのがわたしを入れて、3、4人でしたわ。

家帰って帰ったんですが、ちょうど朝、夜明けにうち、わたしの両親百姓でしてね、あのころ、7月7日にきゅうりかなんかをこう採っておりました。それでそこへ行ったらね、そしたらもう喜んでくれてね。うん。そりゃもうわたしの今まで生きてきてうれしかった4つかそこらある中で、もう勝りません。これだけ結婚決まったあとでもうれしかったよ。それで、それから高等学校終わったときね、うれしかったけど、それであの、畑で、親が喜んでくれて、7月7日七夕の日に母のしかも誕生日にね、帰ったでしょう。

出来事の背景

【ビルマ 退却戦の悲闘 ~福井県・敦賀歩兵第119連隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争後半の昭和19年(1944年)、日本軍は、連合軍の拠点や輸送路を制圧するため、ビルマとインドの国境地帯に進撃。しかし日本軍は壊滅的な打撃を受け、退却を余儀なくされた。

この時、歩兵第119連隊3000人に命じられたのは、進軍ではなく敵に包囲されていた通称菊兵団と呼ばれる第18師団を救出することだった。

昭和19年6月27日、前線に到着した第119連隊は、連合軍を相手に初めての戦闘を行った。最新鋭の装備で襲いかかる連合軍。食料や弾薬などの補給をほとんど受けられず、さらには、マラリアや赤痢がまん延、およそ800人が病で命を落とした。第119連隊は、18師団退却の楯となりながら後退、昭和20年1月、日本軍が拠点を置く中部ビルマのマンダレーに到着。この時すでに3000人の将兵のうち、半数以上が帰らぬ人となっていた。一方、連合軍もマンダレーに迫っていた。連合軍は6個師団に2つの戦車部隊を伴った大戦力。対する日本軍は第119連隊を含む4個師団であったが、北部ビルマ戦で消耗し、兵力は半分ほどになっていた。劣勢に立つ日本軍の中には、マンダレーを放棄して戦線を縮小すべきという意見も出始めるしかし、ビルマ方面軍・田中新一参謀長は全面対決を行い、敵を撃滅する、という方針を変えず、イラワジ河沿いに陣地を築き、マンダレーを目指す連合軍を迎え撃つことを命じる。しかし、連合軍の圧倒的な兵力を前に、多くの兵士が命を落とし、マンダレーは連合軍の手に落ちた。日本軍は、さらに退却しながら、勝算のない戦いを続けた。

昭和20年8月15日、気力も体力も限界を超えたなか、終戦を迎える。第119連隊のうち、生きて帰ることができたのは、1000人足らずであった。

証言者プロフィール

1920年
福井県三国町に生まれる
1941年
入学から2年で、京都大学卒業
1942年
歩兵第119連隊入隊、ビルマ戦線へ
1945年
終戦
1947年
復員後は、高校の教師となる

関連する地図

ビルマ (サーモ、マンダレー、クレ高地)

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