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タイトル 「飢餓の果てに起きたこと」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン最後の攻防 極限の持久戦 ~岡山県・歩兵第10連隊~
氏名 佐藤 春雄さん、市原 毅さん(岡山・歩兵第10連隊 戦地 フィリピン(ルソン島)  収録年月日 2007年

チャプター

[1] チャプター1 ルソン島に向かう  05:44
[2] チャプター2 バレテ峠の死闘  03:14
[3] チャプター3 斬り込みへ  05:05
[4] チャプター4 敗走の道  04:45
[5] チャプター5 ただ看取るしかなかった  09:02
[6] チャプター6 赤痢患者に炭を食べさせる  02:46
[7] チャプター7 小指を焼いて遺骨をつくる  03:45
[8] チャプター8 飢餓の果てに  03:34
[9] チャプター9 心にのしかかるつらい思い出  02:26

再生テキスト

Q:フィリピンだって聞いたときはどんな気持がしたか覚えています?

 これは二度と内地へは帰ってこられんと思いましたね。


Q:それはどうして?

 もう、そのころはもう、敵の飛行機や潜水艦が、うようむよう、しとったですから。フィリピンまで行くのが、とても行けんのじゃないかと、思うとったですなあ。もう、わたしどもの輸送船が江島丸いう貨物船だったんですが、江島丸。これがボロいうんですか、古い船で速力が出なくて、フィリピンへ行く船団が出たんですけど、5隻も、6隻も、いっしょに出たんですけど、その速力についていけずに、わたしが乗っとる貨物船の江島丸、これが遅れてしまったんですわ。それで船団は、駆逐艦とか、潜水艦が護衛してくれとったんですけど、わたしらの船はもう、その護衛もしてもらえず、たったひとりぼっちでフィリピンのいちばん北の端へ、港でもなんでもないところへ、もう着いて陸揚げいうことになったんです。

やっぱり、わたしも母親1人と、弟2人残して、出征しておりましたもんで、母親がいつも苦労して、元気に育てないけんいうことで頑張ってくれとったのを、ひしひしと身にしみとりますんで、できることなら、生きて帰りたい。まあ手柄でもたてて、帰りたいというのは、もう始終あったんですけどね。それでも概略見て、その戦闘状況を見て、生きて帰れるのは、まれだろうなあということはもう、始終、頭の底にはありましたね。それで、輸送船が古い、速力の出ん船だったばかりに助かったんですが。

ほかの船は沈んだんですよ。わたしの船は敵襲があるいうことで、荷物を3分の2揚げたところで、すぐ内地へ帰れいう無電が入ったいうことで、荷物を揚げさずにして、江島丸は台湾へ引き揚げたらしいんです。

24日の朝、砂浜へ着いて、上陸舟艇を下ろして、2日かかって徹夜で砂浜から下ろして、それで2日やって、それでその船がまだ荷物、兵器は下ろしたけど、糧まつは半分ぐらいしか残って、それで台湾へ帰らないけん言って無電が入って、それで帰った。それから、わしらはもう、そこから荷車で、馬もおったけえ、それで引っ張ってずうっと、何百キロって歩いて、マニラのほうに向いて、初めは昼、歩きおった。そのうちに観測機が来てやって、それで今度は夜。夜、川を渡って、それで竹を切って、割って、それに火つけて、たいまつ。それで行軍だ。夜が明けるまでには、森の中は入って、その中で炊事しよった。それから昼はもう、その中にてじいっとおる。それから晩になったら、そこから歩いて行く。まあ1日に、10里ぐらい歩きおったんやもん。

あの、現役の10連隊でしたからね。若い人は20歳、それから、もう年のいった人でも25~26で、もう、主力でしたからね。もう、元気な者ばっかしの精鋭部隊ですからね。歩兵10連隊いうたら、軍旗を持っとる連隊で、行っとるのはほんとうに、歩兵第10連隊、わたしたちの軍旗だけじゃないかと、思うんです。西南の役が初陣の軍旗でね。

よく頑張ったんじゃないかと、思うんです。小銃中隊なんか、前の将校の方に聞かれたかもしれませんが、ほんとうに中隊で、ひとりも生きて帰っておられない中隊が、なんぼもあるんですからね。

向こうは、ブルドーザー持ってきて、ザァーッと道つくって、上がってきよるんやもん。こうやって、見ようりゃ。それ、小銃もって、手りゅう弾投げたってもう、こたえやへん。それで回ったの、わし。いったん、もう(攻撃に)行ったって、あかんのじゃいう。(米軍の)糧秣(まつ)もろうて食うてな、帰りゃぁ、いいんじゃいう。わからへんや。それから、小銃中隊はみなまじめに行って、みな、パーじゃもん。ほんとうよ。

中隊本部から小隊本部へ連絡して、帰りおうた。ほいたら、その途中で小銃中隊がたこつぼ掘って、ずうっとな、馬の背いうてな、背面へ、山の、そのこっち側へみんな、一個中隊ぐらい、いや、一個小隊ぐらい、たこつぼやって入っとった。たら、それが爆撃くうたんや、砲弾をくうたわ。それで、わしゃあ小隊へ連絡して、帰りおうたよ。そしたらがけに、こんな木があったんが、ありゃせんがな。どないしたんじゃろうかな思うて、それでせめぐりゃ、たこつぼの中へ埋まって、「ううん、ううん」言いよん。


Q:声が?

 「ううん、ううん」うなりよるき、もう遺体、掘る間はねえよ、もう。やりおうたら、やられるがな、向こうの山へおるんじゃもん。向こうは眼鏡があるな、小銃、持ってねらい撃ちじゃもん。そやからほうっとかな。

わたしの部隊は、分がよいと言うたら、ほかの人へ、申し訳ないんですけど、連隊砲いう砲を、持っとりましたから、最前線より一歩後退、後で援護射撃をする地位にありましたから、常に第一線よりは、なんぼか後方へおったわけですが、そういうことで、斬り込みも一つの斬り込み、5名ずつ、5組ぐらい、出おったんです。それで、出るときには水杯をして、それから連隊長、あのう、中隊長が天皇陛下からもらったいう、菊のご紋のついたタバコを1本ずつ吸わせてくれて、それで水杯をして、斬り込みに出て行ったんですわ。まあ、分がいいもんで、まあ半分ぐらい、戻ってくるというのが、わたしらの中隊の斬り込みの状態だったんです。

斬り込みにいたって、あの、もう、敵は二重三重に、防備をしとんですからね。あのピアノ線いう、その線をずうっと張りめぐらして、ちょっと当たっても「ブーン」と音がするのを、張っとったらしいですよ。

それに、あの、軍用犬をずうっと、つけとるしね。もう、絶対、あの斬り込みに行っても、近づけられん間にやられてしまいよった。それで、小銃中隊はもう、敵といよいよもう、自分らが掘っとった穴の外で、戦争をやっとんですからね、わたしらの斬り込みとは、また違うですが。うちらの兵隊が行った斬り込みは、敵の陣地へ物をとりにいったんじゃからな、うん。それがもう、小銃中隊はおるのへ、向こうが来たのとやっとるから、もう全滅しとんですが。

これがもう、小銃中隊は、もう第一線ですからね。もう、敵ともう、ずうっと遭遇しとったから、もう一人も生きて帰らなかったんですが。

斬り込みが次々、出るもんだから中隊長に「佐藤衛生兵も、次の斬り込みはお願いします」いうて申し出たんですが、そうしたら、中隊長が言うのにね、「佐藤、出しゃばんな」ってね。「お前は、わしが斬り込みに行くときに、必ず連れていくんじゃから、もう二度とそんなことを言うな」って言うて、言うてくれたんですが。それから、わたしはもうね、斬り込みのことは、中隊長には何も言わなかったんですけどね、最後まで、まあ中隊長と一緒に復員ができたんですけどね。


Q:で、佐藤さんはそのとき、なんで自分からを行かせてくれなんて?

 いやそれは、みんな戦友が次々に、行くでしょう、ほんなら、衛生兵じゃからいうたて、兵隊ですからね、日本の皇軍の一員ですから、みんなが行く所へは、行かにゃいけんと思うて。死ぬるが覚悟で行かにゃいけんと思うて、申し出たんですけどね。


Q:佐藤さんは、自分の同じ部隊から、斬り込みに行く人たちを見送ったことがあるんですか?

 はい、見送ったんですよ。それで、出て行く者は軽い、もうほんとに、軽い笑顔でなあ、「おい佐藤よ、乾パンやチョコレートを余計、取ってくるからのう、待っちょれよ」言うて、出て行ったんですけどね。

それで今度、戦闘がもういよいよ、バレテ峠が、わたしらのもう、陣地を突破して、アメリカが。こう入ってきたもんですから、こう、もう遮断されたんですわ。そんなら、いよいよ山の中ばかり、もう転進作戦いうことで逃げおるんですけど、逃げよるとは言わんからね。転進作戦いうことで、東海岸へ集結するいうことで、山の中をうのやりで、後方へ、後方へ、下ったんですが、後方へ、下る言うても、後方へも、もうすでにアメリカの部隊が入っておりましたからね。後方も、最前線も、今度は、もう一緒になってしまったわけですが。そうしたら結局、わたしらのような連隊砲の一線へ、出ていない人員が、いちばん、うちの中隊が多かったんですが、そういうことで後方へ、転進作戦にはもう主力ですわね。

まあ、あの栄養失調でね、もう精根尽きるいうたらあのことでしょうで、「休憩」いうて、部隊が止まってそこで休むんですが、皆もう、背のうを負うたまま、コトッと寝るんですけど、「まあ、気持のええこと」いうてまあ、「本当なあ」すぐ寝られるんよ。これはもう精根尽きたらな、ええあんばいに寝られるんよ。そいで「出発」言うて、「こら、行こう」言うてけえからけえてな、それで、ようよう目を覚まして、連れていったら、生きて帰ってこれた。ほっとったら、もうそのまま。


Q:なるほど。

 そやからな、死ぬるいうことはな、ほんまにええあんばいに、わしゃあ、死ねるんやなと思うたよ、あの栄養失調で死ぬの、ううん。ものすごう、眠とうなる。わしらもそんなの何べんもあったもんな。「もうこれでええあんばいやなあ」と、思うてなあ。そんなんのことがあったわ。


Q:そうですか。

 でね、もう何もないいうて、ほんまにね、ねえんじゃから、あれですよ、塩もなしコメもなし、それからあの、もう着るもんも、着たきりでしょう。あの、満州出るときに着たものを、ずうっと3年も、4年も、着とんでしょ。ほんならもう、シラミがわいてね。あるときはこうに、わしあの、山の上で大雨が降って、背中のほうを水が流れよるんですわ。ふと目が覚めてみたら、ここをシラミがね、ゾロゾロ、ゾロゾロ、背中のほうから今度、水につかるから、腹のほうへゾロゾロ、ゾロゾロ、もう移動しよるんが、ようわかるんですが。そのけえシラミがわいとった。もう着たきりじゃもんな。


Q はあ。

 それからもう、あれです、市原も前に言いよったけど、戦友がね、亡うなってがいこつが、軍靴を履いとんですが、靴を。そのちいとでもよかったらな、「すまんけどわしの軍靴と換えてくれんか。わしゃあ、もう穴が空いて、もう砂が入ってな、足が、もう擦りむけてどうもならんのじゃ。すまんけどおめえ、わしと換えてくれんか」いうてね、がいこつの靴を脱がして、自分の靴を履かして、代わりに、あの、靴をもらって出たんですよ。

やはり栄養失調と、それからマラリアにやられて亡くなるんが、いちばん多いかったですわね。それで、横穴いうて、急な山へ横穴を掘ったんが、いちばん掘りいいんですが、それで掘った土を穴の口へ出すんですけど、その出す土が黄いな色をしとるんで、飛行機から見たら、あっこへ穴、掘っとるないうんがわかるんです。穴を掘りしだい、あたりの木を切っては、その土の上へ、すけすけ(のせる)穴、掘って行って。それでようやく2人、3人入れるような穴ができたら、そこへ病人なんかをわたしが、看護したわけです。

まともに、正直言ってまともには、治療はできなかったんです。というのは、もう材料がないんです。薬も、包帯も、何もないんです。次々、あとから来る材料が、届かんもんですから、もうあるだけのもので治療をし、介抱したわけです。その中に、陸揚げして、弾薬や物資を、みんな分けて取ったときがあるんですが、そのときに、この市原君が取ってきてくれとった行李(こうり)の箱の中に、キニーネいうマラリアの薬がたくさんあったのを取ってきてくれとったんです、これが。それで、「佐藤、これ持っとったらお前、仕事になるぞ」言うて、それでわたしは。

とにかくなあ、お前がマラリアの薬、よけい取ってきてくれたろうが、わしに。

マラリアのなあ、一箱あった。それから注射液があったの。わしは英語を知らんから、そたら、イトウ言うて、死んだけど、それは笠岡(岡山県笠岡市)の中学校、出とった。あれな、マラリアの薬で(だと)いうから、それで、イノウエ軍曹いうて、わしらの先輩がおった。それでイノウエ軍曹に、こうこうで、行ってくるで言ったら、「よし、わしが責任持ったるから、行ってけ」いうて、それで2人、それから3人行って、箱へ詰めて注射液、雑のう入れて帰って。それでこれ、衛生兵やろう、中隊全部わかって、それで知らん顔する。そうしたらみんな、山へ上がったら、マラリアやろう。注射液、打って。それで助かった、うちの中隊は。

毎日もう、弱った兵隊の看病をしたんですが、それで中には、若くても、嫁さんをもらってきとる兵隊がおりましたからね。そんなの、わたしは知っとるから、もう助からんいうことがわかっとるからね、「奥さんになんか伝えることはないか。どうせ、わしらもお前のあとをついで、死ぬとは思うけど、もし万一内地へ帰ることがあったら、伝えてやるから」いうて。言うたんですけど言いませんねえ。言うた者ない。もうあれ、不思議ですなあ。

Q:どうして、言えなかったんでしょうか?

 どうしてですかなあ。それでもう、元気な24~25の兵隊ばかりでしょう。それも連隊砲いうことになりますと、もう召集したときから、もう元気な兵隊ばっかしとったんですが。体格のええねえ、70キロぐらいな、もう兵隊ばかりですが。それが、栄養失調で亡くなるんですからね。それは、なかなか息が切れんのですわ。それでもう、ゴトンゴトンいうて、あごを出して、息をするんですけどねえ。わたしもほんまに、「おめえなあ、おめえだけ、ほうっときゃあせんのじゃけ、早うのう、もうあっちへいってくれえ」言うて、泣いたことがありますら。本当にもう、寂しゅうて自分も目の前、見えとんですからね、死ぬるいうことが。そういうことで、亡くなったらね、供えてやるんですが、自分が食べよるものを。それでもう、供えてやるんですけどね、もう、その供えるもんが山に生えとった草と、草の葉っぱや。それから、まあ、木の幹の柔らかい先のほうを割って、柔らかいとこだけを、おかゆ、いうことにしてね、そのおかゆも米がないんですからね。飯ごうでいっぱいしても米つぶが、そこそこあるようなおかゆですが、それでも、おかゆじゃ、ゆうて、食べよったんですけどね。

それを、亡くなった兵隊に供えてやってね、「おめえ、すまんけど、おめえが食べたらな、わしにあとよんでくれよ」言うて、供えたものを、またわしがよばれよりました。本当にまあ、哀れいうんですかな。戦争の惨めさを、もう、直接、感じとります。

Q:仲間たちはどういう思いで最後、亡くなっていったんでしょうか?

 どうなって、どんな気持で、亡くなったかね。自決した人や、こうにもね、一生懸命、止めたんですけどね。聞いてくれなかったですね。うん。


Q:なんて言って、自決をするって、言われていたんですか?

 「もうこれまで、ご奉公、十分したから、もう、この辺で、奉公の暇をもらいたい」言うて、中隊長に申し出てね。中隊長も「何をなあ」いうて、まあ、ものすごく、怒りよりましたけど、もうそうなったらね、ノイローゼいう、来とんかなあ。もう思い込んだら、もうやめんのですが、もうそのまま。中隊長も、もうそれに「おめえが死にたいと、思うなら、もうおめえに、おめえの思いどおりにせい」って、言いようりました。それで「すまんけど、たばこを一服、吸わしてくれんかのう」言うてな。戦友のたばこをもろうて、うまそうに、たばこを吸うてね、「ちょっと離れたとこで、死ぬから、すまんけど、土だけはかけてくれのう」言うて、戦友に頼んでね。自決していったんですよ。

もう、本当にそう、それであとから考えてみてもね、その自決、次々したその時分は、すでに終戦になっとったんですが。本当にもう、もう、本当にあと、あとから聞いてね、本当に断腸の思いゆうたら、このことかと思いよりました。

それで、アメーバ赤痢いうて、赤痢がものすごう、感染してね。食べ物を生で食べたり、どういうんですか、それアメーバ赤痢、赤痢菌がついて、そうなったら、どうしようもねえですから。全然、とにかくね、もう薬がないもんですから、ご飯だけは、なんじゃかんじゃ言っても、炊きよりましたからね。できるのは灰と炭、たいた炭をね、とにかく炭を丈夫に食べて、水はあまり飲まんように、炭を始終、食べよう言うてな、炭をものすごう、食べさせたんです。それから、昼は、夜、腹は冷やさんように、陽が差し込むような、陽が、あっちの南方の陽ですから、暑い陽が木の枝から差し込んでくるそこへ、腹を出してな、「腹、ぬくめ」言うて、そいなことで、何人か助けました。帰ってからの、こういうような本にでもね、佐藤衛生兵の炭の治療で、助かったいうのを書いてくれとりました、戦友が。

炭はね、下痢したときに、炭を飲めば固まった便になりますしね、炭は毒にはならん、薬なりますからね。そういうのをわたしが考えたんですけどね、それしか、もう、方法がないですが。

どうしてやろうよも、ねえんですもん。野戦病院やいうたって、名だけでね。何も、治療も、何もねえんですもの。わたしらと同じことですが、あとから後方から、糧まつじゃとか、薬品じゃとか、弾薬が来るいうんじゃねえんですからもう。あるもの、あるものを使うて、済んだらそれで、それでもう、戦争せにゃならんですから。負け戦は本当につらいですわ。

Q:佐藤さん、小指を切るという話しなんですが、それは遺族の人に届けようっていうお気持からですか?

 そうそうそう。うん。遺族の人へな、できたらな、何も、帰らなんだいうんた、あれでしょう。遺骨が戻ったいうたら、亡くなられたうちにはな、なんぼか、気持が安らぐんじゃないかと、思うて。思うて大事にな、首、ぶらくっとった(ぶら下げていた)んじゃけんどな。うん。


Q:多くの兵士を看取(みと)られて?

 ええ。戦友のね、小指を切ってはね、それを晩方、食事をするときに焼いて、小指の遺骨だけは、ようけ、持っとったんです。


Q:遺骨の代わり?

 うんうん、遺骨の代わりと思ってね。しかし、もう、その遺骨も今度、捕虜になって、武装解除を受けるときに、アメリカの兵隊が、ヘリついとんですからね。もう、何もかにも、全部、焼いてしまうんですが、向こうは。もうじゃから、もうそれこそ、スッポンポンにしてしまうんですが。そやからこれは、アーメンでな、キリストのあれを、遺骨じゃ、いうことを言うてもね、「ノーノーノー」言って、ほうり込んでしまうんですが。そやから、もう、どうしようもね、取ってきてやるやれなんだんですわ。


Q:佐藤さん、亡くなった戦友たちの小指を切るときは、どんな気持で切っておられたんですか?

 どんな気持いうんが、もう、それはこの人、内地、連れて帰ってやろうと思う、一心で、な。それも、自分が帰れる身であるいうことが、わかっとるもんなら、まだしもな。どうも、「どうせ、死ぬるんじゃけど、まあ、できるだけのことはおめえ守ってやるで」言うて。そやから、あまりな、気はたっとりますしな。そのころは。怖いとも、何とも、思わなんだです。普通の人だったら、指を切る、大変じゃな、怖がろうな、思われるかもしれませんけどね。もう戦争いうたらね。そんな指、切るぐらいことはね、何ともなかったんですが。

わたしも、もう生きて帰るとは、思っておらなんだですな。そやから戦友に、どうせ、おめえと一緒に、ひとっとこへ行くけど、もし帰れたら、言いてえことがありゃ、告げるとかね、届けるもんがありゃ、届けてやるのにっていうことは始終、言いよりましたけどね。

あの、連絡に来よったやろ。ほたら、日本人の戦友のここを、焼い弾で、頭くらわしてて。で、ここの肉をとって、3人、食いよったんよ。「なんか、ええ肉のにおいがしよるなあ」言うて、ほたら、3人、ここを食いよるん。

見たんや。飯ごうで炊きよんのや。そりゃ、うそじゃねえよ。へでも(へりまで行って)大体、見たんよ。それで、こう道が曲がっとって、ここまで来たら、「おい、ええにおいがするのう」言うて、「ナカオ軍曹、肉のにおいせえへんか」言うたら、そしたら、その向こうで3人、飯盒で炊いて食いよん。それから10メーターほどいったら、左側で、今いう、ここ(太もも)を帯剣ですごいて(そぎ落として)で。どないしたんか知らんよ、それを炊いて食いよる。それはうそじゃねえ。それはもう、中尾軍曹は死んどるけど、生きとんのはわしだけで、それはうそじゃねえ、うそ言うたってしょうがねえわ、わしが。何で、うそ言う。いや、本当じゃもん。だからわしが、「撃ち殺したるう」いうて言うたら、「もう、イッつぁん、ほっとけい。もう、どうせなら、あれりゃ、ながいことあらへん」言うて。牛も、何もおらん所じゃもん。


Q:あの、市原さん、それを見たときは、どんな気持がしました? その現場を見たとき?

 いやあ、そやから「撃ち殺したる」言うたやん。そら、腹が立つ。なあ、ほんなら、わしらの戦友じゃったら、もう許しゃせんけど、いてから刺し殺すけん。そやけど、よその兵隊じゃから。「殺したろか」いうて、言うたらまあ、中尾軍曹が、「もうイッつぁんやめとけ、放っとけ。どうせ、ありゃあ、長いことあらへん」


Q:でも、それぐらい、それぐらいどうしようもなく、もう、飢餓だったということなんですね?

 食べれるもんじゃねえよ、戦友の。

あのな、もう、散り散り、バラバラになった部隊の、一人、二人がね、もう、そういうな考えは、出てきたんじゃろうと思うよ。


Q:そういう考えとは?

 いや、あの人間の肉でも、食べようか、いうような気のうちにな、なったんじゃろうと思うよ。

(後で)そんな、収容所へ入ったりしてな、ほかの部隊の人の話を聞いて、「本当に何ちゅうことだろう」いう気になったな。もう、うちの兵隊(10連隊)はね、もう軍律、厳しいいうか、もう現役のバリバリの兵隊ばっかしじゃったから、そんな気持ちは、誰も持っていなかったとも思うわ。

まあ、そんな気には、わしはもう、こけらもなかったな。自決しよる人も、そんなことは言わなんだな。

いやもう、負け戦のつらさだな。

それはもう、負け戦だから、行けども、行けども、友軍のしかばねばっかしでしょう、どうしようもねえですが。

こう、ひ孫の代までも、させとうはねえと思うたよ。


Q:亡くなった戦友たちの顔が、思い出されることっていうのはありますか?

 あるなあ、うん。まあなあ、もう60年も、そういうなるから、思わんようになったけど、あのう、思うことがあるな。夢に見るわな、戦争の困ったときの夢をな。あっちからも、こっちからも、もう米軍ばに取り囲まれてな、もう、「どげんしようか」いうようなときに目が覚めるわな。まあ「夢でよかった」いうようなことをずっとな、見たわな。

つらいときや、苦しいときにも、戦争の当時のことを思うたり、戦友のことを思うたら、戦友の分までも、頑張らにゃいけんなと始終、頭から抜けませんね。それ、もうそれだけですな。もう、本当に、あのたくさんの人を亡くして。元気で戻れたいうことは、本当に幸せなんですけど、本当にあの、亡くなられた人のことを思うと、本当にもったいないような気がしてね。あの、本当に亡くなったあとの方々の、幸せに生きよるじゃろうか、いうことばかり思いますね。

出来事の背景

【フィリピン最後の攻防 極限の持久戦 ~岡山県・歩兵第10連隊~】

出来事の背景 写真昭和20年(1945年)1月、米軍は空母12隻を含む大艦隊で現れ、フィリピン・ルソン島に上陸。首都マニラと、日本軍司令部の置かれた北部に向けて進行してきた。

日本軍はこの地で、敵の日本本土への進行を遅らせるための持久戦を強いられた。その兵士の数は八個師団を主力とする、およそ30万人。補給も援軍も望めない状況におかれ、「自活自戦永久抗戦」という方針で戦い抜くよう命じられた。

10連隊は、ルソン島中部にあったバレテ峠に陣地を築いた。
バレテ峠は、島の北部に抜ける、幹線道路が通っているため、敵の北上を食い止めるには、死守しなければならない要衝だったのだ。
制空権を握っていた米軍は上空から日本軍のざんごうを次々に爆撃。さらに地上からもブルドーザーで道を切り開きながら、進撃、絶え間ない砲撃を加えてきた。
武器弾薬が欠乏する中、命じられた攻撃法は、手りゅう弾や爆薬を抱えて敵の陣地に突っ込む斬り込み攻撃だった。斬り込み攻撃は米軍の激しい反撃にあい、攻撃に参加したほとんどの兵士たちは帰ってくることがなかった。
さらに食料が底をついた兵士たちは「自活自戦」の名の下、現地の田畑や倉庫から食糧を調達、事実上の略奪も起こった。

5月初め、バレテ峠の日本陣地は陥落。日本軍兵士たちに転進命令が下され、密林地帯を敗走することとなった。日本兵士には想像を絶する飢えと渇きが待ち受け、多くの兵士たちが命を落としていった。

証言者プロフィール

1921年
(市原)岡山県一宮に生まれる
1940年
(市原)歩兵第10連隊入隊
1945年
(市原)バレテ峠の戦いに参加、以後復員
1921年
(佐藤)岡山県邑久郡に生まれる
1941年
(佐藤)歩兵第10連隊入隊
1945年
(佐藤)10連隊の傷病兵治療にあたる、以後復員

関連する地図

フィリピン(ルソン島)

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