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チャプター

[1] チャプター1 使命は「フィリピンを守り抜く」  01:08
[2] チャプター2 作戦参謀として  02:09
[3] チャプター3 マニラ陥落  05:18
[4] チャプター4 命じられた斬り込み  09:32
[5] チャプター5 飢餓の退却路  02:08
[6] チャプター6 戦争について 今、思うこと  02:27

再生テキスト

その頃は、そういうことは、わたしたちは知らないですなあ。ただねえ、態勢的にはもうあそこまでアメリカが来とるわけですからねえ、これをいかに破れるかということは、それは一か八かの賭けですよね。こっちとすれば自信はなかったと思いますよ。

ここまでこられた以上はね、徹底抗戦だけですなあ。できるだけの抗戦をするということでしょうねえ。

結局はねえ、直接本土進攻の時期を遅らせるということでしょうね、そうでしょうねえ。アメリカだってそんなに従軍の余裕があって来とるわけじゃないから、ガッチリ抵抗すればある程度挫折する時もあるだろうと。また、あれでルソンに来たからって、沖縄もあるし、それから関東防衛もあるしね。

やっぱりそういう目的、まあ、なるべく抵抗して遅らせるということなんですよね。

いや、大変ですよ。大体、作戦的にはねえ、もう制空権も制海権も取られるわけですからねえ、きついですよ。だから陸上戦闘以外はもう手が出ないと。陸上戦闘でももう持久戦以外ないな。

難しい、作戦は立てようもないですよね。師団は命令をもらってやるよりほかしょうがないしね。ここで、こんなにいろんな部隊をもらったんですよ。小さな部隊をゴソゴソゴソゴソと。だけど、やっぱり抵抗すればね、陸上で抵抗すれば相当な抵抗はできますよ。

ええ。挺身団だから、挺身部隊が攻撃して、追い返しましたから。ちょうどスズカ峠とバレテ峠の中間地帯に敵が進攻してきたところを、それでびっくりして、今度はこの挺身(てい身)、第2挺身団をもらって、それでそこへわたしが連れて行って、あそこで反撃をして向こうを撃退したわけです。その後また、今度は米軍は16号線方面、バレテ方面に兵力を増して攻撃して逐次入って来たわけですねえ。36連隊のイタガキ大隊がまず潰れて、それからネモト大隊がもう戦力尽きて、そこでバレテがやられたと。まあ、向こうも下がった、やっつけられたりやっつけたりしたわけですよ。

歩兵がね、歩兵が潜入して戦闘するわけです。もうこっちは砲兵力はもう効きませんからね、全然ないから歩兵戦闘ですよ。だから、その挺身団、挺身団はそういうのは上手いんですよ、歩兵攻撃がね。

歩兵が攻撃するわけよ。小銃、小銃・機関銃を持って。精鋭ですよ、挺身団ていうのは。マスダとかねえ、ムラとかねえ、マスダ大尉とかムラとかスズキとか、中隊ごとでね、うん。

Q:平林さん、最初は鉄兵団(第10師団の通称)はサンホセ、つまりプンカンのあたり、あそこを主陣地にしろって。

あのねえ、14方面軍はねえ、サンホセ北方高地を占領して防御せいっちゅう、最初の思想はそうだったわけ。

で、行ってみましたらねえ、その東西の線は、東のほうは拠点とするような場所がないわけ。

もう寄れないですね。それは、戦地、山地で、あ、戦地でなけりゃ、あ、山地でなけりゃ拠点にならないです。空挺でも何でも降りるんですから。

防御陣地になりません。穴が一つしか掘れないでしょ。横に掘れないでしょ。穴に入っとってから射撃するような陣地が取れないでしょう。

中部ルソン平地から北部ルソンに行くには、そこが最先、最前線の山岳地帯なんです。ところがその山岳地帯でもねえ、ずーっと東西に見ると、拠点になるような山がずーっとあればいいんだけど、ないんだ。あるのはそのサラクサク峠、バレテ峠、スズカ峠、と。その線まで下がらなけりゃ駄目なんです。ところが平地のすぐそばにあるのはそこなんだ、プンカンと東西の線。だから現地を知らない人は、まずは平地から山にかかったとこの、その線が陣地になると思っとるわけですよね。

わたしたちが行った時には、もう、そんな所、もう陣地にならん、と。

そんなとこへ陣地持ったって長くは持てんよと、ええ。わたしたちがね、だから、それでプンカン平地に前進陣地を持って抵抗させて、そして主陣地を、主陣地をバレテ峠東西の線に持ってった。

ええ、そうです。プンカンは主陣地地点としては不適である、と。ええ。それで大分すったもんだやったんですよ、方面軍とね。

Q:方面軍は簡単にそういう変更は許してくれないんですよね。

うん、そうですねえ。まだ平地から山地にかかったその線がいいだろうという気があるわけですよ。だから、そういうふうに思想的なねえ、そごがあると、それが最後まで影響するんですよ。

Q:でも、プンカンは本当に激しい砲撃に晒されて大変になりましたよね。

ああ、そうですねえ。前が平地だからねえ、向こうはいくらでも展開できますからね。だから1か月持ちませんでしたよ、うん。

やっぱり死守せいっていう意味でしょうよね。そこをとると、そこをとられるともうすぐ主陣地だから、裸に、それが、主陣地が裸ですからね。だから、あれがねえ、2月の、3月の初めごろまでにはもう前進陣地はやられたんですよ、それで今度は方面軍が、あくまでも師団の主陣地は、もう主陣地部隊はもう全部あげてもいいから陣前逆襲をやれっていうわけだ。3月の10日ぐらいですよ。

それじゃあ、もう、この、全滅してもやらなきゃいけないっていうんで、この陣前出撃をする時には、反対ですけどね、お前が作戦指導をしろと言うので、63連隊全部連れてね、陣前に行ったんですよ。そして攻撃して来る部隊の横面、横、側は、横と、後ろまで行きましてね、明日から出撃をする、攻撃を始めると。

ところがねえ、陣前出撃には砲兵の支援が一切得られないんです。それはバレテの後ろに10師団砲兵はおりますが、弾が届かない。

だから、そういうこともあるしね、これ、やっても意味ない、と。やっても、やったら、もし、全滅だ、と。わたしが、わたしはこの戦争の間に遺書を1回書いたけど、その時に書いた遺書が1回だけです。もうこれは絶対全滅だ、と。帰れない、と。全滅までやらなきゃならん、と。それは、これ、読んでみたらわかりますがね、ええ。わたしはこの戦争の間に遺書を一通書いたけど、その一通書いたのは、明日からその逆襲をやるという、その時に書いた、その、そのやつだけです。

だから、まあ、大体、防御というのはねえ、陣地死守というのは、やっぱり出撃っちゅうのがあるんですよ、戦術的にね。しかし出撃してもね、また陣地に復帰して、そこでもう一回抵抗するということもあるけど、こういう陣前出撃はもう出撃したら終わりだ、と。陣地に復帰して前の陣地を持つなんていうことはできそうもない、わたしらに言わせりゃね。

陣地を守る以外は攻撃的な能力はないと。要するに支援砲兵が支援をして突っ込むなんていうのはできないわけです。だから斬り込むわけですよ、夜中にね。夜中に行って天幕の寝ているやつをやっつけるわけですよ。で、アメリカ兵なんかは声あげて泣きながら逃げて行ってましたよ。

ほかに手がないから結構いい手段だった。向こうのやつは泣いて逃げるんですから。斬り込み。特に第2挺身団の斬り込み隊というのはもうすばらしいものですよ。4、5人で天幕の中へ入って行って、バァッとやるわけです。敵の天幕に。それ以外手がないんです。こっちは砲兵が撃たないし、向こうが来なければ撃っても目標もないですね。斬り込みしか手がなかったですよね。

夜だからね。皆、やっぱり勇敢に行きましたよ、斬り込みへ。大したもんだ。黙ってやったらあれだから、天幕の中へ入ったら大きな声で、びっくりして起きたところを皆やっつけたからね。刺すとか。斬り込みはいちばん大きな手段でしたな。昼はできないからね。弾が来るから、夜は弾が来ないから。

あぁもうほんとね。ほんと、ほんとの戦術じゃないですね。やむをえない手段ですな、斬り込み隊っていうのはね。まぁしかし日本軍はよくやりましたよ、斬り込みにはね。
手がないんだから。じっとしとれば敵は砲兵で撃って、そうして頭があがらんところに攻めてくるわけですから、砲兵が撃ったら手がないですよ。

だから陣地攻撃というのはもう砲兵が主ですね、陣地攻撃は。砲兵でバァーッと頭をあげられない、まいっとるところを歩兵がずっと来るわけです。それを待っとるだけじゃぁ手が出ないから、夜の間に斬り込みやるわけですよね。あとはもうじっと耐え忍ぶより手がない。
だけどわたしは自分で斬り込みに行くんじゃなくて、斬り込み隊を60組ぐらい持ってね、そして死守してやらせた。主陣地のすぐサンタフェヘの後ろの陣地におって、斬り込み隊長やったんだ。

1組に5、6名ぐらいが、どこの陣地に斬り込んでこいっていうんだよね。それをわたしは最後の時期にやりましたよ。主陣地を突破された段階で。それはボネと主陣地の間におってね。

Q:その時期にやったというのは、もう最後だと思って?

うん、最後です。砲兵の陣地も砲車もないしね。なんにもない。

Q:平林さん、それは斬り込みをせずに、撤退するっていう選択肢はないわけなんですか。

それはないですね。陣地を守っとる以上はね。ここの陣地を守れと言われたらもう最後まで撤退が許可あるまでそこは撤退しませんから。だから皆、命令もらって下がっていますよ。特にプンカンの部隊はもう撤退命令がないから全滅してるんですよ。

もうどんな気持もないですよ、これで終わりだぐらいね。あれはどこの部隊やったかなぁ。もう指揮系統もおかしくなるんですよ、こうなると。いろんな部隊がいっぱいでしょう。その中から皆、命令して。いやーこれ見るとわかるように、ほんとに指揮系統はもう錯雑ですよ、これもうほんと。連隊、大隊、中隊、小隊というものでなくて、部隊が違う部隊の者まで入っている。

要するに小銃の抵抗、小銃で撃つよかないんです、小銃と手りゅう弾でね。だから砲兵でやり、攻撃部隊はもう砲兵で制圧をして、そしてそのあとを歩兵部隊が掃討をしながら、掃討作戦をしながら前進してくるわけですから。

それはやっぱりもう個々の戦闘ですよ。要するに中隊なんかが攻撃目標もらって、この分隊はあれ、この分隊はあれって言うてこれで行くわけじゃないわけですから。
 もう攻撃できないんです、そういう状態の時は。第一、攻撃する時には砲兵が支援してその支援のもとに行って、敵が頭あげられないような状態で突入するとかね。もう砲兵、やっぱり砲兵が動けなかったら攻撃できないですよ。斬り込み以外は。

天幕の中へ入って行って手りゅう弾で爆破するとか、銃剣で刺すとか、そういうことですから。だからほんとうは戦争というのは砲兵が撃って、その撃った戦火の中で最後のまとめを歩兵部隊がやるというのが一般の常道でしょう。ところが砲兵がないんだから、夜行くかしか。夜行く、朝行く、霧の中を行く。

それはやっぱりもう個々の戦闘ですよ。要するに中隊なんかが攻撃目標もらって、この分隊はあれ、この分隊はあれって言うてこれで行くわけじゃないわけですから。

もう攻撃できないんです、そういう状態の時は。第一、攻撃する時には砲兵が支援してその支援のもとに行って、敵が頭あげられないような状態で突入するとかね。もう砲兵、やっぱり砲兵が動けなかったら攻撃できないですよ。斬り込み以外は。

天幕の中へ入って行って手りゅう弾で爆破するとか、銃剣で刺すとか、そういうことですから。だからほんとうは戦争というのは砲兵が撃って、その撃った戦火の中で最後のまとめを歩兵部隊がやるというのが一般の常道でしょう。ところが砲兵がないんだから、夜行くかしか。夜行く、朝行く、霧の中を行く。

まぁ非情な戦闘ですよ。よくまぁ帰ってこれたと思う。それでそのうちに最後の時になると食べ物がなくなるでしょう。わたしだってこれで栄養失調になって、目が見えなくなって最後の転進では落伍しているんですよ。師団司令部の転進では。

目が見えなくなった、栄養失調で。だから鉄砲の弾、大砲の弾の苦労だけでなくて、食料がない苦労がある。わたしは兵站(兵たん)、参謀で、そのために一生懸命食料を確保する努力しながら、自分が最後にはそういう状況で。

「籐(とう)」ちゅうのがあります、籐の木。椅子なんか。籐の実を食って行ったことありますよ。

いたるところにね。だからうちの師団の最後の転進のところではね、道路に靴をそろえて、こんな小さな道の横に置いてあるんですよ。なぜかというと、おれはもう行けなくなったと。この靴かまだはけるから、誰かはいて行ってくれと、そういう状況を何回も見ています。

それね、結局は食べ物はなくて、栄養失調になってもう命が尽きたと。おれは行けんから、まだこの靴ははけそうだから、誰かはいて行ってくれと。そして10メートルぐらい離れたところで自決しているんですよ。そんな状態だった、最後の転進の時はね。

だから地獄見てますよ。ほんと。

まぁそれは、戦争ちゅうもんは好いたり好かんじゃないんですからね。国がやっぱり国がするんですからねぇ。わたしたちはやっぱり命令されたらやりますよ。それでみんな来てんですから。もう歴史はそうです。だけど、戦争というものはできればやるべきものではないと思いますね。

悲惨なもんですよ。まぁ昔から言われるように、長生きしても90歳が卒寿ですからね。「ゆく者は水のごとく」でね。生きて帰らずです。もうみんな死んでいくんですから。まぁしかし戦争というのはかわいそうですね。

わたしら、士官学校で560人入ったけど、いま82人しか生きていない。戦死したのが200人ぐらいおりますからね。

どういう任務をもらうかによるんですかね。その任務をもらった時に、その任務をいかに達成するかというのを考えるのが作戦ですが。その任務をもらった時にもうあれがありますよね。もうこれはどうにもならんというような。

それはもうしょうがないですよね、任務で。命令が来たら命令どおり。まったくそれは軍人はあれです。わたしはしかしほんとうに奇跡的に運がよかったというか、わたしでも5回ぐらい死にそこなっていますからね。

出来事の背景

【フィリピン最後の攻防 極限の持久戦 ~岡山県・歩兵第10連隊~】

出来事の背景 写真昭和20年(1945年)1月、米軍は空母12隻を含む大艦隊で現れ、フィリピン・ルソン島に上陸。首都マニラと、日本軍司令部の置かれた北部に向けて進行してきた。

日本軍はこの地で、敵の日本本土への進行を遅らせるための持久戦を強いられた。その兵士の数は八個師団を主力とする、およそ30万人。補給も援軍も望めない状況におかれ、「自活自戦永久抗戦」という方針で戦い抜くよう命じられた。

10連隊は、ルソン島中部にあったバレテ峠に陣地を築いた。
バレテ峠は、島の北部に抜ける、幹線道路が通っているため、敵の北上を食い止めるには、死守しなければならない要衝だったのだ。
制空権を握っていた米軍は上空から日本軍のざんごうを次々に爆撃。さらに地上からもブルドーザーで道を切り開きながら、進撃、絶え間ない砲撃を加えてきた。
武器弾薬が欠乏する中、命じられた攻撃法は、手りゅう弾や爆薬を抱えて敵の陣地に突っ込む斬り込み攻撃だった。斬り込み攻撃は米軍の激しい反撃にあい、攻撃に参加したほとんどの兵士たちは帰ってくることがなかった。
さらに食料が底をついた兵士たちは「自活自戦」の名の下、現地の田畑や倉庫から食糧を調達、事実上の略奪も起こった。

5月初め、バレテ峠の日本陣地は陥落。日本軍兵士たちに転進命令が下され、密林地帯を敗走することとなった。日本兵士には想像を絶する飢えと渇きが待ち受け、多くの兵士たちが命を落としていった。

証言者プロフィール

1921年
大分県大分市に生まれる
1935年
東京市市ケ谷陸軍士官学校入学
1944年
陸軍大学校卒業、第10師団の参謀として満州ジャムスへ、台湾駐留、フィリピン上陸
1945年
バレテ峠の戦いを指揮
1945年
終戦
1946年
復員後は、陸上自衛隊、千代田生命に勤務

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フィリピン(ルソン島)

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