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チャプター

[1] チャプター1 昭和20年(1945年)8月9日、ソ連侵攻始まる  01:03
[2] チャプター2 対戦車戦  07:02
[3] チャプター3 遅すぎた終戦の知らせ  04:33

再生テキスト

そういう状態で関東軍は、朝出した命令が夕方にはもう、次の変わった命令が来るわけですよ。どうしていいかわからないですよ。だから、われわれのとこに来た命令、「最後はみんな五叉溝(ウサコウ)に終結して一戦交えあおうと、陣地をつくってあるからね」と言うたところへ「奉天へ集まれ」と。こうでしょ。あの長い道を、アルシャンの方から五叉溝から奉天(ホウテン)まで、行列作って行けるもんかと。

次の12日の朝になって、ドンパチが始まった。13日にとうとう、戦車がわれわれの陣地の前まで接近してきました。

13日の10時ごろ、一斉にやって来ました。そこで2中隊と、のけて1中隊と3中隊が両方でこう撃ったんですが。歩兵がいないために、われわれが機関銃で砲手がやられるんですね。敵が機関銃を伴った戦車ですから。砲手が倒れて、弾が撃てなくなる。撃っても、敵はもう、どんどん撃ってくるでしょ。それまで戦訓によると、アメリカのM4戦車は100メートルで貫通する、という妙な戦訓があったんで。じゃあソ連も、100メートル来るまで待って撃て、と。貫通しないんです。これは、例のドイツの『ティーゲル』という『タイガー』『ティーゲル』戦車を東に送ってきて。鋼鈑30センチ、このくらいあるんですよ。前の鋼板。普通はこのくらいですからね。これなら通るんですよ。(九〇式野砲)で。このぐらいあると、まずは貫通しない。腹を撃つしかないんです。ところが、腹を撃つような道路はそんなにめったにあるもんじゃない。狙いは、腹を撃ってかく座したけれども、あとはもう前を撃つしかないので、2個中隊の火砲は破壊されました。

兵隊は生き残ってるものは集結して、徳伯斯(トポス)の元の兵営があったところですが、索倫(ソロン)からちょっと下ったとこですね。4キロくらいありますか。そこの徳伯斯の方へ集まったわけです。

種馬の村落があって、その官舎が50~60軒あったでしょうか。そこへ陣地をかえて穴を掘って、大砲の筒だけで出て、こっちを穴にして兵が来たら撃つ、というふうに準備しとったんです。そこに食糧が豚、鶏、米、みそ、いっぱい官舎にあるんですよね。で、みんな食糧を補給してずっと待っとったら、1日たっても2日たっても敵の攻撃がないわけです。「じゃあ、行ってみろ」というんで、ヨダ准尉という准尉に、トラックに行きましてもとの戦場に偵察に行かせたんです。帰ってきて報告に、「もうソ連はどんどん通過して、南へ南へ下っています」と。「こっちの方の陣地にはやって来ません」と。「そういえば、この山の上から見ると変だね。じゃあどうするか」ということになって。「まあ、南に下がるより、しょうがないから、道を変えて南方へ行こう」といって、14日の朝からまた、出発を始めたわけですよ。

結局、ザライトッキという最後の集合地に着く、5キロくらいあったんですかね。
だいたいの戦況を連隊長に報告して。2個中隊全滅したと。ここで最後の決戦隊で砲を構えているんだと。

そりゃあね、気持ちがみんな高ぶってますからね。生きてるとか死んでるとかいう感じはさらさらないですよ。わたしなんかもいちばん高い所へ大隊本部置いて、双眼鏡で「敵の機関銃、どこから撃ってるんだ」と。それをこっちの2中隊の方でね、「狙い撃ちさせなきゃいかん」といって、そればかり探してたんです。ビューと飛んで来ますよね。機関銃。わしの頭越えて、後ろの山のかげに弾薬こうまとめている人たちが、「キャー」「ワー」いって死ぬわけです。みんな、生きてる、死ぬ、「生死」という感じはもう、頭からさらさらないですね。もう怖くもないし何ともない。「とにかく目前の敵をやっつける」という、その気持ちひとつですよね。だから、中隊長が死んだ、兵隊もほとんどやられたといっても、悲しいだ、どうだという気持ちのほかに「やられたか!」という気持ちだけですよね。「そうだ、どうしよう」というね。このままでは、虎の子の陣地中隊が全滅するというんで、陣地をシバショウに移したんです。それ移してまあ、よかったと思いますよ、結果を見ますとね。あれはあとまでそこにおって玉砕したって、何にもならないでしょ。だいたいは師団の本体は、山の中歩ける人ばかり集めて、昼は寝て、夜、南に向かっていきよったんだから。そういう身分じゃないでしょう、こちらは大砲引っ張っていくのに。だから、新しい陣地かわってから2日間というものは、悩みに悩み抜きましたよ。「まあ、みんなここで一緒に死のうや」と。「人生ほうっておけ」と。「出てきたの撃ち合って、最後までここで抵抗して玉砕しようじゃないか」と。全部そういう気持ちでおりましたね。

謀略という、あるでしょう。うそか本当かで真偽は確かめられないわけですよ。そういう謀略戦が日常茶飯事のことでしたからね。師団長もおそらくね、師団司令部の無線機をもってすれば、そういう玉音放送とかいろんな関東司令部の命令とかいうものは聞いてると思うんです。だけども目前の敵が攻めてる以上、じゃあ、どうせいと。こうやる気にはなれませんよね。第一線なんで。「撃たれれば撃つ。来れば構えていく」という戦法で南へ南へと行く。雁(がん)が北へ向って行くようにね、戦場の師団の主力全員が「南方、新京・奉天へ向かっていくんだ」という、本能的な行動ですよね。これは思うに。そういう命令を受けてもまあ、「行かなきゃいかん」というんで、師団は南に行ったんだと思いますよ。

しばらくすると飛行機が、日の丸つけたのがこう、舞いだして。「あら、不思議。撃とう」としたら「やめろやめろ、降りるまで待て」って。で、降りたところが日本の参謀が2人、ソ連の参謀が1人降りてきて、関東軍司令部の命令を伝えてくれました。「武器をソ連に渡して、降伏しろという勅命である」と。「うそやろ!」というね。みんなカッカきたんだけども。その参謀が言うには、「こういう書類もあるんだ」といって。師団長に差し出したから、「じゃあ、もう本当だ」というんで、みんな鉄砲とか大砲の照準器なんかを全部、井戸の中にみんなぶち込んで、武器を返納したわけですよ。あとは捕虜の集団となって、チチハルへ集合して。そしてソ連へ11月3日に入ったと。そういう経過をたどってる。

師団長は最初はだから「うそだろう」という信念で進んできたわけです。ところが、どうも飛行機を見たら、「これはうそじゃない」と。どこ探しても見つからんので、もうやめさせたいんだけども。29日ですよ、それが。15日から何日も2週間もたってるのにまだドンパチやってるから「早くやめろ」と言いたいのに、関東軍は連絡のしようがなかった。それで飛行機を飛ばしてきたわけですからね。そばでやっていたら、飛行機来なかったら、見るとね、もう大軍でしたよ。「これだけの軍隊が来とったんだ」と、ソ連の参謀が見せてくれましたがね。

それは、すごい戦車と大砲がずーっと、原っぱ見渡す限り並んでましたからね。だから、1個師団くらいいったって、へのカッパだったんですね。あれもしやってたら、全滅で
すよ。そういう状況でしたからね。

そりゃあね、「わからなかったから、最後に飛行機飛ばしてきた」というけれども、その間何日あるんですか?きのうきょうだったらわかりますよ。ところが15日から29日っていったら2週間はあるでしょ。その間にね、自分の部下の師団の行動がつかめないという。上級司令部がこりゃあもう、あるべかざることですよ。

出来事の背景

【満蒙国境 知らされなかった終戦 ~青森県・陸軍第107師団~】

出来事の背景 写真昭和20年(1945年)4月、ソ連は日本に日ソ中立条約を延長しないことを通達。緊張が高まる中、東北出身の兵士たちを中心に編成された107師団は、モンゴルとの国境に近い、いわば最前線の「アルシャン」に配備されていた。

8月8日深夜、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、宣戦布告。
翌9日未明、150万を超える兵員と5000両の戦車、そして5000機の飛行機で満州へ侵攻してきた。重戦車や連続発射可能なロケット砲など、すさまじい火力で日本軍を圧倒した。
107師団は、関東軍総司令部から、国境付近から600キロ離れた新京まで後退せよとの命令を受ける。しかし、機動力に勝るソ連戦車部隊の追撃、挟撃で西口(シーコー)の原野で14日から15日にかけて激しい戦闘になり、大きな被害を受ける。

8月15日、日本では終戦が伝えられた。しかし107師団には、終戦とそれに伴う停戦命令が伝わらなかった。軍の命令を解読する「暗号書」を処分していた107師団は、停戦命令を受け取ることが出来なかったのだ。

敗走する107師団は、ソ連軍に進路を阻まれ、大興安嶺(だいこうあんれい)の山中に入った。飲まず食わずの行軍で、疲れは極限にまで達していた。
8月25日、山中を抜けた107師団は、ソ連軍と号什台(ごうじゅうだい)で遭遇、武器のないまま、捨て身の攻撃を仕掛け、さらに戦死者を出した。

8月29日になって、飛行機からまかれたビラでようやく終戦を知った107師団は戦闘を停止。終戦後も続いた戦闘と行軍で、1300人の命が失われた。
しかし、生き残った兵士たちにも過酷な運命が待ちうけていた。極寒のシベリアでの収容所生活である。

証言者プロフィール

1914年
広島県深安郡加茂村(現・福山市)に生まれる
1933年
広島予備士官学校卒業。その後配属将校として各地にて勤務
1941年
第107師団野砲兵第107連隊に入隊
1945年
索倫の戦いで戦闘を指揮、イントールにて武装解除、シベリアに抑留、
1947年
シベリアから復員

関連する地図

満州(アルシャン、五叉溝、大興安嶺、号什台)

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