ホーム » 証言 » 小岩 一男さん

チャプター

[1] チャプター1 「北方の最前線」へ向かう  03:35
[2] チャプター2 侵攻始まる  03:40
[3] チャプター3 突然の方針変更  04:45
[4] チャプター4 退却のさなかの大混乱  02:11
[5] チャプター5 山間部に逃れる  05:21
[6] チャプター6 再度の激突  04:04
[7] チャプター7 届かなかった終戦の知らせ  01:49
[8] チャプター8 2週間遅れの停戦  03:49
[9] チャプター9 死の強制労働  09:06
[10] チャプター10 つらかった戦死者遺族宅への訪問  03:04

再生テキスト

昭和19年の1月13日、一関駅から軍用臨時列車で大阪市の、大阪で着替えて。その晩、朝ね、すぐ博多まで瀬戸内海を船で行って。それから博多に一泊して、次の日8時ころね、釜山まで。昼間。釜山上陸して、それから23日まで朝鮮、満州を縦断してアルシャンに到着したんだけど。

夕方なんでね、あんまり景色は見えなかったけども。まだ革靴で日本の服装して行ったから、寒いなという感じしましたね、1月23日。

Q:まだ冬ですもの。

ええ、真冬。

あのころはもう1000人か2000人ぐらいの小さい町でしたね。満人も蒙古人も何やるったって仕事は、田んぼも畑もないしね。何やってたかよくわかりませんけども。軍隊が駐屯したところが、軍隊が5000人ぐらいいたんでねえんですか。アルシャンにね。

なんていうか、中国人も満人もあまりいないしね、軍隊ばかりだから。やっぱり遠くへ来たんだなという感じね。ウクテリ山という山があんだけどもね、そこへ登ると見えるんです、眼鏡(がんきょう)でね、モンゴルとかあるし。

やっぱり丘陵地だからね。そこにも敵も見るんでしょうし、こっちも見るんでしょうからね。だから、その辺はもう、何キロ以内に監視所いっぱいあったんですよ。ほとんど歩兵さんが監視所の役やっていましたけどね。

そこのガラガラという山だけども、そこへしょっちゅう登るんですよね、軍装して。普通に自分だけ登ったり、山砲も馬に乗っけて持っていったりしてね。そして射撃訓練。射撃の訓練ね。

砲兵というのは、戦車が来たら乗るんだけども、普通は遭遇するときにはね、歩兵さんが行くところの後ろに乗って援護するわけですよ。だから必ず、歩兵と砲兵と一緒に行動するというのが原則だよね。敵の機関銃とか砲兵とか戦車をつぶすと。歩兵が行きやすいようにね。

8月9日の日はね、新しい兵隊さんの幹部候補生20人ばかり連れてね、野外演習に行くことにしたの。それで炊事へ行って弁当をもらいにいったらね、そして待っていたら近くに爆弾が落ちて。で、戦闘ということで解散して、「みんな、各中隊へ帰れ」と。それからが大変でしたよ。

もう9時半ころから午後3時ころまでは飯も食わねえでね、何やったかわからねえですよ。戦闘準備だからね、大砲をみんな広場へ出して並べてね。そして馬ッコも出して、それから弾薬受領もあるし、ほんとにもう。

部隊の60%は陣地構築に、五叉溝(ウサコー)へ下がっていたから、人員少ないわけですよ。それから将校さんの奥さんを送って、危ないから帰してね。それの荷守りやったり運搬やったり。

まず一発は爆弾、砲弾をね。

Q:爆弾で気づいたんですか。

爆弾。9時半ころかな、爆弾落ちたのね、一発落ちて。あとはなんていうんでしょうね、正式には本部から、ソ連が攻めてきたということでね。直ちに戦闘準備、という命令はありましたけどね。

いや、最初わからねえですね、パッと飛んできただけで、ブーッとね。バーンと落ちたから、それっと行きました。あとは、そのほかに何回か来てね、機銃掃射。みんな、準備でうろうろしているからね。

Q:近くに来ましたか。

うん。飛行機、飛行機が来て機銃掃射ね。

わーっとまごまご、人うろうろしてるでしょ。ダーッと降りてくる。誰もあたったわけねえがったけどね。

あと、夕方暮れる、暗くなるころね、山砲は乗っけて。五叉溝まで。夕方乗っけてね。あとは馬は、1人で3頭ぐらい乗って。夜中に。12時過ぎだ、その日ね。3頭ぐらい引いて、やっぱり五叉溝まで後退。おれたちは10日の朝は、夜明けに五叉溝へ着いたんですけどね。馬連れてこないからね、鉄道貨車で行ったから。

五叉溝に行ってね、あとはまず、陣地構築の連中と一緒になって。あとは馬の来るのを待って、それからお昼過ぎになってから部隊を組んで。その日は戦車が来るということで、来そうな原っぱに山砲の弾埋めて、信管抜いて並べてね。そんなことやりました。でも通ったか破裂したかはわかりませんけどね。

10日の夕方は集合。今度は新京へ下がれ、ということでね。なんと歩兵、山砲いろんな兵隊がいた。道路も何列もね、違う部隊の連中が下がりました。そのとき、部隊の近くに、いっぱい乾パンとか毛布があったのね、みんな火をつけてパッと焼いてね。

ほんとに戦争というものは無駄なむごたらしいね、ありましたね。

その次からは今度は、昼間歩かれんですよ、そこへ来るから。でも、いくらか歩いては来たらすぐ林の中へ入ってね。夜の行軍になったわけですよ、夜行軍ね。そして13日まで西口(シーコー)へ行って。「西口から歩兵さんが来るのを守れ」ということでバックしてね、五叉溝の飛行場まで行ったと。14日の朝に飛行場までバックして。

そしたら大した音したんだね。そしたら動かなくなったトラックを爆破したのね。バーンとね。驚いたけどね。歩兵さんがだんだん下がったということで、お前らいちばん後だから、ということでだんだんと下がってきましたけどね。14日の昼ごろ。途中まで来たら、「川の向こうのあそこへ、山砲を据えつけて撃つから」と言われてね。分解して友だちと2人で棒で担いで1門を、川さ2人で担いで行ったらね、1つが80キロぐらいの大きさなのね。行ってしばらくまた誰か来るわけだ。そしたら来て、「いや、もう取りやめになったから、敵が来るから逃げるぞ」ということでまた帰ってね。14日の日は行ったり来たりしてね。夕方西口のところまで帰って。

ソ連の兵隊が自動車で来るから、砲兵も榴散弾(りゅうさんだん)というのがあるんだね。榴散弾というのは、ドーンと撃ってね、こう、空中で絞られる。ダーンと来るから、こうやって撃って守ったけれどもね。でも、だめなんだね、だんだん浸透して来てね。で、3時過ぎかな、雨が降ったのね。雨が降ってきて。あとは「撤収」という命令が来ましたね。

あの、見えるから。そうするとするするするっとこうやって、撃てるからね、バラバラバラ―っと。マンドリンというね、ご存じですか。

マンドリンというのはね、大砲の弾に一緒に弾倉がくっついている。弾が52発もあれが入ったのね、こうやって肩からかけて。こうやって動かないでね、こうやってダーッと撃つんです。52連発だから。それ、やられるとね、まず数あたればあたるんだね、近くだからね。あそこはほとんど亡くなったんじゃねえすか、突撃隊ね。

向こうは戦車と皆、車の移動でしょ。日本人はほれ、日本の軍隊というのは大砲分解して馬ッコさ乗せてだね、とっとことっとこ引いた。話になんねえんですよ。なんでああいうふうに、ノモンハン事変でね、さんざん負けて、その教訓を生かされないです?大和魂だけで。

あの、ちょっと偉い兵隊さんに「大和魂ってなんだと思う?やせ我慢だよ」なんて、怒られてね。

西口から山の中に入って、薄暗くなったとき自動車爆発があってね。そこを通った9中隊という方々が10人ぐらい死んだのかな。

殺気立っているから、殺気立っているからね。あまりふだんとは違ったったからね、それはやむをえないという感じはしたけどね。馬なんかね、もうガソリンばかりで、弾あたったりしてね、お腹からはらわたを出して引きずりながら飛んだり跳ねたりね。鞍(くら)にはガソリンかかって火ぼうぼう燃えながら、ほんとに戦闘でなかったんだけどね。輜重隊(しちょうたい)の車を火をつけたもんだから、ダーンてね。

(トラックが爆発した音を)火がつきました。見える。そんなに遠くでなかったから。火柱あがってね。

10メーター、20メーターあがったんでしょう。あのね、ドラム缶さ石油入ってて、弾薬もありましたからね。それ火をつけたんだから、ガソリン室、ドーンとあがるでしょう。そのガソリンが馬にかかってほれ、背中ぼうぼう燃えながらね、お腹からはらわた出してね、ひきずってもう。

混乱です。混乱。混乱。混乱。トラックいったってね、山道のほうはだんだん険しくなるもんだからさ、ちょっと調子の悪い車はだめ。置いて行くからね。そして物は積んでいるし、敵に渡せねえからということで火つけるの。

あそこで見た『戦闘』ではないけど、むごさというのはいちばんひどかったね、わたしは。あの西口よりも、号什台よりもね。

そこは15日の夜だからね。次の日からもう16からなんかね、普通は山の奥に木の葉っぱをかけたりなんかしたけどもね、何もしねえであったです。なんだかどうも戦争が終わったんでねえかというね、どこからともなくそのうわさが聞こえてきたんですね。

いくらかほっとしたね。ただほら、もう14日あたりから食べものの何も支給がないから。まず、これぐらいのしかなかったからね。

15日の晩は何時ころ寝たのか、忘れたね。乾パンを抱いて寝たらば、次の朝目覚めたら、ねえんですよ。

かっぱらわれたの、寝てるうちに。

Q:それだけやっぱり、食べものはなかったんですかね。

なかったな。ほれ、四角い箱に入っているから目立つんでしょう、なんぼ握っていたってね。疲労困ぱいだから、かっぱらわれるのわからねえんだ。

ないんですね。13、14、15あたりも満足な配給はねえんですよね。

誰でも落後してるんですよ。もう、うずくまってるもの。道路のわきさ、うずくまってるの。自分の中隊もいたんだけど、誰も声かけてくれる人ねえがらね。それはもう1人そこに、2人残っちゃうと現地人とかいろんな者にね、いろいろ襲われたりするんじゃねえですか。

精神に異常きたすというかなんていうか、もうどうでもいい、という気分になっちゃうんですね。疲れて疲れて疲れて、ものを考える姿勢でなくなっちゃってもう。もうどうでもいい、となっちゃうからそうなんだな。なるんでしょう、自分でなったことねえからわかんねえけどもな。

いや、負けたとは思わないけどもね、負けたらしいという気持ちは話をしながら歩いてたからね。でも、その間だってやっぱり攻められれば攻めなくてはならねえからね。仕掛けられれば返さなくちゃならねえからね。

素直にはならねえんです、精神教育が少しいってるからね、わたしたちは。

捕虜になったときはもう、これは終わりだなと。

なる前はそこまではいかないけども、満州でいろいろしててね、はたしてこれからどうなるのかなと。まずね、食い物はないし。

総体的に日本は勝つ、という意味はないんだけども。号什台あたりの戦闘やってもね、負けてたまるか、という気持ちありましたね。

上の人はだってね、そういう空気はわかったんでしょうけどね。師団長さんは無線機。暗号なんかもうだめになったからね、正確な命令がないからということでね。それが、あれほんとにね、もう少し正確な命令伝達あればね、まだまだ助かった人もあるでしょうけどね。15日から10日以上だものね。18~19だからね、ここやったのはね。

まずね、床屋のお父さんなんかはね、足の下マメだらけでね、木の棒つきながらバクタンバクタンと歩きながら用心して。あの人、どうなったのかな。捕りょになってすぐ離れたから。ロシア軍がその、病気の人をどういうふうに扱ったかは、オラはわからないけどね。帰ったか帰ねえか、日本にね。

休憩中に足、靴脱げてたけどね、足の下全部マメなの。バババババッと。足の下に水膨れね、両方の。涙流してね。やっぱり30代だからね、故郷のことを考えたり、頑張ったんだね(考えたんだね)。

号什台は最初の射撃、弾が撃たれてきてね。バラバラ来るもんだから。こういう山のね、もうちょっと頂上のところまで山砲というのはあがらなくちゃならないんですね。観測がない場合は敵見ねば撃たれねえから、こういうとこへね、ちょっと下がって。そこへ登るのにね、立って歩けないですよ、弾来るから。

撃ち込んだよ。歩兵さんなんか行ったからね。あまり、ソ連の連中は砲兵なんかこなかったから、ほろ馬車なんか来たけどね、あったけども。あまり強い軍隊でなかったんで、結構やっつけたんです。

ロシア人もだいぶ亡くなったしね。やっぱりね、負傷したロシア人は捕りょで収容できねえから殺しちゃうのね。それにしても馬車にある何が食べたかね。体がまひしちゃってね、それからひと晩、病んでたし戦闘に参加しないですよ。
次の日、治っちゃったけどね。なんだっけなぁ。マーガリンか、その馬車に乗っているものを食ったんでねえかね。腹減ってるからね。

馬はいないし、その馬車は置いているしね、そういうふうにロシア人何人か死んでるしさ。「ああーっ、戦争ってこういうものか」という感じでね。

おれたちが主(しゅ)に、主に動いて勝ったわけでねえからね、あんまりその。普通の人はほら、神経おかしくなって。約一昼夜ぐらい、おれ休んでた。

だめになったなというのはね、中隊が撤退するときにね、蒙古人の部落の近くでもう歩けなくなったからね。「はあっはっはっ」ってね。その時、医者へ行って。この近くだけどね。それで「だめだ、だめだだめだ」って言うのね。あとは牛小屋さ、敷ワラ敷いて、しばらくは手を握ったりなんかしらいたんだけどね。うわごと言うし、もう、手をかきむしるんだね、手をこうやってね。恐らく赤痢かと思うけど、正露丸の薬をのませて「さぁ、毎日来るからね、頑張れよな」と言って別れてきたんだけどね。

まず、何十年60年経ってもね、なかなかわからん、抜けません、あのときの状態はね。

Q:そういうふうに亡くなられたというのはですね、明らかに8月15日からかなりたってる。

たちます、10日以上。25かそこらですよ。

あの状況はね、ご家族には言えませんよ。

Q:お墓にというかお参りにというか、供養のためにだけ行ったんですか。

はいはい、そうそう。いろいろお話はしたけどもね。その状況は言えないですよ。言えません、とってもその状況は。

15日に終わったんだからね。関東軍司令部とロシアの人たちがね、「あの連中いつまでガタガタしてんだ」ということでね。いろいろ探していたんだけど、なかなか見つからなかったんでね。飛行機は2日欠かさず飛んで、歩いててね。集団見つけるのに。ロシア軍は、「この野郎、いつまでガタガタしてんだ」と大軍を向けてきたのね。それがもう、あと何時間かすればドッチバッチやってんだって。

全く、日本軍はね、情けねえ。誰のためだか。国のためだか天皇陛下のためだかばかり言うてね、情けありません。

あの日はね、飛行機飛んできたのね、ビラまいたのね、ビラを。戦争終わったというビラ。「何、この」なんて。「何、この」なんて言って、「こんなの嘘だ」。

あの心境というのは、ほんとに、帰れないという感じだしね。普通は日本は外国の捕りょを捕らえてもね、あまり生きては帰さないという。あの当時はね。昔の日露戦争と違ったからね。

Q:逆に、自分たちはもう帰れない。

重労働させられて、あとは終わりだと。

28日に武装解除、29日にだから出発ですよ。あーあ、何千人という、五列縦隊に野原をずーっと、すごい。そしてね、ロシア人は馬に乗って自動小銃1丁、背中に背負ってね。ところが日本人はお腹こわしてっから、5~6歩行ってしゃがむね、そっちまで来て。それをまた追い回すんだ。ズボンをケツにかけたぐらいにして、わらわらとしてかわいそうだったね。それがずーっと号什台から、あれはなんだ。音徳爾(オンドル)から五叉溝(ウサコー)までね。なんぼ日かかったんだかな、1日か2日かかったんじゃないですか。そのときね、山形のアビコというのが腹痛(はらいた)起こして。でも団体だから、イトウというやつとついて組ませてね、おれが後ろから飯ごうで水かけながらさ、やっと落ちついてね、落後しないでね。それは日本まで帰ってきますからね。そういうことありました。

Q:途中、なんかいろいろ見ましたか。

ああ、そのときはね、『略奪』。五列縦隊で行くでしょう。将校さんなんかいいものを持っているのとられてね。時計とられて。革靴なんかかっぱらうやつもあるし、本当に。

負けたやつというのは惨めですね。

興安に2日3日いたかな。山の斜面さ、こう。夏だからね。8月末9月ですから、斜面さ散らばって、そして。

あとはね、チチハルまで行って、チチハルに。なんだな、やっぱりロシアに送る基地だったでしょう。1500人の梯団組んで、「満州の南のほうは治安が悪いし、これからウラジオストクまわりで日本へ帰す」ということで乗っていったのね。

満州里を移動して入るやつを、満州里を越えると今度はソ連だからね。あそこへ1500人の梯団で入った。

いやぁ、ぐったりですよ、みんな。ぐったり。「このまましばらくロシアにみんな連れて行かれるんだ」と。「なんとかやっぱり日本に帰れねえか」とね。ほんとに、日本に帰すというような、立派なことばかり言って、だまされて行きましたけどね。

「ウラジオストクまわりで帰す」と。みんな言われたんですからね。やっぱりロシアのある程度偉い人もそう言ったっけからね。兵隊も言うたけどさ。

11月の1日の午後だね、44待避所というサルカオイというポイント村で降ろされて。それから1500人は梯団組んで山のほうへ行きました。

松の木の伐採。直径40センチね、松の木、大きいんですよ。それを4、6、8と。4メーターにするのはまき、6メーター、8メーターは用材、そういうふうに区別つけて切りました。それを切って、切る連中と、それを大きいそれ、車までの搬出が主な仕事、2つに分かれてね。わたしは切るんでなく出し方、搬出のほう。雪は25センチか30センチぐらい、あまり降らないんですよ。解けねえから、いったん降った雪は解けねえから、春までね。だから結構、バサバサしてね。まずまず。

主に、れんが製作工場の土を掘ったりね、あるいはこねたり、さまざま。あるいは窯(かま)に入れて焼く準備をするとかね、できたれんがを出すとか、そういうこと。あとはれんがの建築ね。れんが建築は、下のシベリア鉄道総局の建築。

Q:それで厳しい労働。やっぱりノルマとかそういうのあったんですか。

ありました、ノルマ。必ず。出し方もね、ちゃんとロシアの女の人が検知するんですよ、丸太を測って。これだけ何人、なんぼでどのくらいやった、とね。それで成績書かれるわけ。そうするとあした、2日後の食事に影響するの、それが。コウリャンとライ麦とか、あわの穀物にキャベツの葉っぱ入れたおじや、若干魚くさいのね。それを「これは 100%、これは80%」とそういうふうに三段階に分けて、飯ごうさもらうわけ、量を。それを2食、それが2食ね。あとパンは 350グラム、これ1人ね。これが主食だから。

病気になったのはね、4月。次の年の4月半ば。それが食べものというのは4月になったら大豆。大豆ばっかり1週間。次の週はアジばかり1週間する。その大豆とはアジにやっぱりキャベツの葉っぱを入れてね。魚くさいものと肉くさいものを入れて、これが何度もだ。下痢患者いっぱい出ましたから。三食三食ほら、まあ、二食か。そういうものばっかり食べさせるからね。

そのうち 750人のうちから本当にひどいのは13人。収容所の隅のところさ、まとめられて患者扱いね。入院させね。なんでソ連というのは入院させねえのかな。満員だったのかもしれないな、捕りょの病院が。

まず、13人皆、1日20回ぐらいか十何回行ったかわかんねえけどね。みかん箱に穴ッコあけて座ってんのさ、昼間。何回も何回もおりるからね。おりてくるのは腸が崩れる血と血膿(ちうみ)とね。2~3滴、バタバタと。いやぁ、あれで参ったな、ほんとに。おれもこれでは終わりだと思ったったね。

下痢するでしょう、体がみんなやせちゃってね。口もあんまりしゃべれないですもの、疲れて。死を覚悟しましたった。こんで終わりと。1か月でもね、パタパタと亡くなったからね、11人か。いやぁ、薬は全然なしだからね。

あの岩盤背負った鍛えた松の炭を、こんなにして飲むだけさ。あとシートで腹温めて、ね。水は絶対飲まない。水飲んだらアウト、ころっといっちゃうです。病院さ入って医師の診断を受けたわけではないけど、赤痢か。赤痢なんだべねえ。腸が崩れんだからね。栄養摂れないから、げっそりもげっそり、ほんとね。

「なんで生きた」と言われるんだけども。いやぁ、なんで生きたかね。ちょっと説明つきませんね。

うんと腹が痛むわけでねえんですよ、大腸ならね。大腸はあんまり神経いってねえもんだからね。呼吸困難とげっそりと、あと動けねえことね。口はあまりしゃべれねえし、このくらいのがいこつです。かわいそうにね、みんなこうやってグループね。

衛生兵がたまたままわってきたんだけんとも、何も言わねえ。「水飲むなよ、おなか温めろ」と。玄米粥食(か)せられんのね、玄米のかゆ。「そいつを口の中へ入れたらカスは出せ」と。13人のうち秋田の人死んじゃったから、おれひとりしか残ってねえし。そのお互い病気したのにはね。

亡くなったのね。亡くなれば、やっぱりそっと死ぬから、死体置場へ行くわけね。
12月1月2月にね、置いてひと晩したらカチンと凍るんですよ。かっ欠くほど、冷凍。

Q:ひと晩にですか。

ひと晩。で、これはね、次の骨に着せるからって裸にするわけですからね、裸にされるんです。そして預けて、お墓の準備でき次第持っていって埋めるわけ。いやぁ、惨めでしたね、本当に。口をアカンと開いてさ。

2月あたりだよな、寒いときね。ツルが全然入らねえからね、土に。だから、枯れた木を切って、たいてね。夜遅くに切って凍ったのをよけて。またたいて、またたいて、よけてね。掘ってひとり入れるくらい掘んだから。わたしたち入れなかったけどね。4~5センチ掘れば埋めると。

栄養失調は三重県の人ね、最初はうんとやせるのね、やせてくるの。そうするとね、次は体がむくんでいくのさ、ぼーっと。そうなったら、まもなく終わりですよ。6月の10日過ぎかな、呼ばれてね。「いやぁ、おれね、どうしても帰れねえ。だから、おめえ、おらのうちさ、この財布と判子を持っていってけろや。重くて持っていかれねえから」と。預かっておりました。ほどなくしてから死んじゃったね、やっぱりね。でも、財布は届けましたけどね。届けました。

財布ね。まぁ、これも10年以上たってからだな、家内とふたりで行ってね。行ったら、お土産買っていったんだね。で、出した。そうしたら娘さんがなんともね、「なんでおれのおやじ、助けねぇがった」と言うんだよ。「あーん」と言われてさ、玄関入れないんです。もう。言われて言われて。別におれがどうしたわけでもねえんだけどね。いやー、やっぱりやるせない気持ちあったんだね。

で、玄関の前に立って、娘さんとは何分かやりとりしてね。お土産だけ投げて、財布は持って帰ってきた。細かいこと言われねえですよ。その、亡くなる状況なんて話できない。あとはその男の人の菩提寺へ行って拝んで、あとから何年かして宅急便で財布やりました。

うーん、入れねえんだもの。玄関から。「あーっ」と言われるでしょ。言われるとやっぱり立ち往生するよね、入れなかったですよ。

「なんで死んでいくんだ、死んだ」という気持ちがね、ただ度を越した、人間にぶつけただけのことなんだけどさ。悪気はねえと思うんだよ、悪気はね。こっちだって言われてどうってもこともねえんだけどもさ、とっても玄関入れませんでした。

それから何年かな、5年ぐらい前にね、奥さんとお孫さんと来ました、うちへ。「いやぁ、あのとき申し訳なかった」お礼のお金持って来たった、オラ家さ。

出来事の背景

【満蒙国境 知らされなかった終戦 ~青森県・陸軍第107師団~】

出来事の背景 写真昭和20年(1945年)4月、ソ連は日本に日ソ中立条約を延長しないことを通達。緊張が高まる中、東北出身の兵士たちを中心に編成された107師団は、モンゴルとの国境に近い、いわば最前線の「アルシャン」に配備されていた。

8月8日深夜、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、宣戦布告。
翌9日未明、150万を超える兵員と5000両の戦車、そして5000機の飛行機で満州へ侵攻してきた。重戦車や連続発射可能なロケット砲など、すさまじい火力で日本軍を圧倒した。
107師団は、関東軍総司令部から、国境付近から600キロ離れた新京まで後退せよとの命令を受ける。しかし、機動力に勝るソ連戦車部隊の追撃、挟撃で西口(シーコー)の原野で14日から15日にかけて激しい戦闘になり、大きな被害を受ける。

8月15日、日本では終戦が伝えられた。しかし107師団には、終戦とそれに伴う停戦命令が伝わらなかった。軍の命令を解読する「暗号書」を処分していた107師団は、停戦命令を受け取ることが出来なかったのだ。

敗走する107師団は、ソ連軍に進路を阻まれ、大興安嶺(だいこうあんれい)の山中に入った。飲まず食わずの行軍で、疲れは極限にまで達していた。
8月25日、山中を抜けた107師団は、ソ連軍と号什台(ごうじゅうだい)で遭遇、武器のないまま、捨て身の攻撃を仕掛け、さらに戦死者を出した。

8月29日になって、飛行機からまかれたビラでようやく終戦を知った107師団は戦闘を停止。終戦後も続いた戦闘と行軍で、1300人の命が失われた。
しかし、生き残った兵士たちにも過酷な運命が待ちうけていた。極寒のシベリアでの収容所生活である。

証言者プロフィール

1923年
岩手県西磐井郡萩荘村に生まれる
1944年
満州に渡り、アルシャン駐屯砲兵隊第5中隊に入隊、その後、第107連隊に入隊
1945年
兵長、イントールにて武装解除、シベリアに抑留
1949年
シベリアから復員、復員後は会社員を経て、自営業を営む

関連する地図

満州(アルシャン、五叉溝、大興安嶺、号什台)

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