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タイトル 「市街地での激戦」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン 絶望の市街戦 ~マニラ海軍防衛隊~
氏名 宮沢 宝一郎さん(マニラ海軍防衛隊 戦地 フィリピン(マニラ)  収録年月日 2007年3月19日、4月3日、4日

チャプター

[1] チャプター1 マニラ湾の空襲  10:47
[2] チャプター2 寄せ集めの防衛隊  03:24
[3] チャプター3 突然の米軍侵攻  04:00
[4] チャプター4 住宅街での戦闘  05:31
[5] チャプター5 激化する市街戦  06:16
[6] チャプター6 抗日ゲリラ  01:57
[7] チャプター7 負傷~脱出  06:15
[8] チャプター8 戦争をふり返って  05:18

再生テキスト

そこへ突然敵の部隊が空襲してきたわけでしょ、ですからそんなことも夢にも思っていませんでしたから。

朝普通に起きて、普通に訓練やろうと思っていた所へ配置につけとなったわけだから、おいでなすったというわけだよね。みんな慌てて部署に着きましたね。ちょうど天気の良かった朝でしたね。そしてひょっと見たら南の方の空に、敵の飛行機が転々ともう押し寄せてくるのが見えるわけですよ。まぁこれからは訓練と違って本当の戦争が始まるんだという緊張感はありましたね。

でもそれからまもなくですよ。何十機という敵の飛行機がですね、我々の上空をダーッとマニラの町の上を通って行くんです。そして朝の太陽を背にしてガッと反転しと思ったら、こっちに目がけてざぁっと突っ込んでくるわけです。我々はその飛行機を見てるわけですけど、まぶしいですよね?太陽を背にしてくるんだから。それでそれがざぁっと突っ込んできてパァッと飛び上がっていく瞬間に、ダダダァンと爆弾を落としていくわけです。もう目の前の海の中へどんどん水煙を出すわけですよ。いよいよ戦闘開始という事になったわけですね。

とにかくものすごい量だったですよね。数がね。ですから息つくまもなく次から次へと襲いかかってくる。それに対して撃つ。そういうことでしたね。

まぁ海軍の中にいろいろな船の中に科がありましてね。船を動かす人たちは航海科とか
ね、それからまぁ無線通信なんかは通信科とかいろいろあって、我々は砲術科と言って、大砲を撃つ科だった。で、砲術長という長がいて、その下の士官として砲術士というんですが、わたしはその砲術士だったわけですね。

対空戦闘の為に機銃というのがあるんですが、その機銃をダァーと船にいっぱい取り付けたわけです。それは出発する前に呉(くれ)の軍港でやってきたわけです。その機銃軍の指揮をわたしがやっていたわけです。ですからわたしが号令をかける事によって、あの飛行機を狙え、そして撃てというふうなことをやっていました。

敵の飛行機が突っ込んできて、ですから右何十度突っ込んでくる敵機。それに向かってみんなザァーと機銃を向けるわけです。それでいよいよ敵が爆弾を落とす。直前にこちらがバァーっと撃つわけですよ。それがわたしが早ければ敵が落ちるわけです。敵が早ければ爆弾がきてこっちに当たるわけですよ。真剣勝負ですね。

それが早いか遅いか号令をかけるわけです。まぁですから爆弾が目の前に落ちたりあるいは海の中に落ちたり、あるいは敵機が落ちてきたりそういう状態でしたね。

それはすごかったですよ。とにかくね、ダーンと当たったら吹っ飛んじゃうんですから、今いた人間は全部いなくなっちゃう、鉄板に穴があいちゃうそういう状態だったでしょ。あるいはその破片が飛んできてケガをする。

まぁ話が前後するかもしれませんが、そういう風にして今まで戦ってた人間が吹っ飛んでしまう。そうするとね、またここへ人間を補充しなければいけないわけです。ところが砲術科の人間はそうたくさんいるわけじゃないんです。で、機関科というエンジンを動かしたりするんですが、船が動かないんだからしかたないわけですよ。

それで上甲板で待機してるわけですよ。それで砲術科の人間が倒れたら機関科が代わってまたそこに着くというふうな状態だったんですね。だから次々に人を補充しながら戦っていくうちに機銃が何台か壊される、船は傾いて沈みかける。そんなふうな状態ですね。

とにかくね、船は爆弾が何発も当たりましたからね。水も入ってくるわけですよ。それで傾いてしまうわけね。そうすると船の中は細かく仕切られていてね、それでこっち水が入って傾いたから、反対側に水を入れたら元に戻るという事もあるわけです。ところがそうして戻したらいいけど、底へ着いちゃった。もうこれ以上沈まないんですよ。

という事は海上の砲台ですよね。船じゃなくて。艦長は砲台みたいになっている最初からそういう目的で覚悟して港の中に船を入れてあったから、浅瀬だったから沈んだら底を着いちゃったわけです。それでさぁこいと後は沈まないんだから、最後の一兵まで弾のある限り撃ってね、それで戦うというようにやったわけですけどね。

もう2日間でとにかく最後の一発まで撃ちましたよ。艦長がね2日目の昼に近かったとき、「各銃残弾知らせ」という号令がかかってきたんですけど、

わたしが調べたらもう残ってる弾がないんですよ。「撃ち終わり」って言って。撃ち終わりって事は、敵の飛行機が突っ込んできてもこちらは撃たないんだから、やりたい放題やられちゃうわけですよ。それでたちまち船は全滅に近かったですね。

弾を撃ち終わって、敵が待ってましたとばかりにどんどん攻撃して来たときに、ボートを下ろしてみんなそれに乗って陸地に行きました。あがったんです。敵の攻撃の合間を縫ってですね。それでみんな生き残った者はそれぞれボートで陸上にあがったんです。

とにかくやることはやったんだと、もう弾がないんだから。それで一応あがったんです。だけどね、我々はその後に交代で船に行って一応は当直みたいな事で一日船にいて、また夕方戻るという事を繰り返してました。これは船が沈んで戦う事はないんだけども、できないんだけども、廃艦になったわけじゃないんですよね。まだ軍艦「木曽」としての籍があるわけですよ。第4予備艦という名前になってるんですね。それでその予備艦である内はみんな船に戻っていって朝になったら軍艦旗をあげて、夕方になったら軍艦旗降ろして、そういう事をやっていたわけですね。で、最後に廃艦になったからもう行かなく良いという事を言われるまでは何日かかかりましたね。まぁ10日か2週間かかりました。通ったんです。

何も無いんですよ。要するに裸なんですから。裸の人間が集まったんだけども、これでいったいどういう戦争をすりゃいいんだと。そこで武器をちょろちょろ少しずつ調達してきて、訓練と言ったって、敵がこの道路を進んできて、敵は戦車で来るんだとどうして対抗するかというと竹やりしかないんです。それでじゃあ地雷を道路に埋めて敵の戦車が来たら地雷を爆破させて戦車を倒せと、あるいは棒の先にそういう爆弾をつけて敵の戦車の下へこう肉弾飛び込んで行って、止めちゃえとそんな事でした。

Q:その竹やりで訓練してる様子を見て、地元のフィリピン人の人は何て言ったのですか?

キャプテン上等だと言われ、冷やかされました。

Q:キャプテン上等とはどういう意味ですか?

キャプテンとはこっち側にすれば上官ですから。民間のフィリピン人にしてみれば親方です。それがキャプテンの意味だったんでしょう。上等というのはベリーグッドの意味で、まぁ冷やかしですよ。おっさんおもしろいなという調子ですね。

げらげら笑ってました。戦車が来るのに竹やりしかないんですから。

とにかく寄せ集めですから名前も知らなければ階級もわからないという状態でした。それが慣れない仕事でやるわけだから、陸戦ですから。まぁ、そういう境遇に陥った我が身の不運もなげく気持ちもあったのかもしれませんけど、お互いもう円満なお付き合いはできませんよね。何言ってやがんだこの野郎という調子でそういうのが多かったと思います。だからその上にわれわれがいてまとめていくという事でした。

とにかくね、われわれがいたマニラの中心部にこう大きな川が流れているんですよ。繁華街があってその近くをそういう川が流れてて、その橋を渡って向こう側の岸に、わたしは何かの用事があって行ってたんですよ。そしたら、わーわーとみんなの叫び声が聞こえるので、見たら「橋を爆破して落とす」と言ってるんです。ちょっと待ておれが戻るんだから、何事が起きたのかと思ったら、「敵がそこまで来ましたよ」と言う訳です。それでわたしが急いでその橋を渡ったら、ドーンと爆破して米軍がそこからこっちに来られないようにしたわけです。そこでもうすぐそこまで敵が来てると。

お互いにとにかくどさくさ紛れの、だって敵がもう来るのに、部下はいない、武器はない、そんなごたごたしてる最中だから、そんなまとまった話はないんですよ。だってきのうまで陸軍さんいると思ったいたらね、突然引き上げちゃったり、陸軍の命令で、もういろいろな物置いてそのまま行っちゃいました。しばらくしたら、あれが欲しいこれが欲しいと言ってまた取りに来る、そんな状態でした。

情報は入らなかったんですよ。陸軍のあれだとか、海軍だってその司令部の連中ははどう動いてるか、隣の部隊はどういうふうに動いてるかとか全然わかりません。とにかく自分の所に足もとに火がついてるんですから、そういう状態だったんです。

自分で選んで自分の隊に入れたというわけじゃなくて、何月何日どこどこの部隊から派遣されてきましたって、お前はどこのやつ?航空隊で3人来ました、5人来ましたって、そういうのを集めてるんだから、名前もわからない、そういう状態でした。

そこまで敵が来てるし、隣ではドンドン戦闘やってるんだし、だからいつこっちに来るかわからない、で、みんな自分の所へ来たら今度はやってやろうと一生懸命準備してるわけです。そうしたら今度、隣に応援に行けと言われるわけです。自分たちでせっかく準備した所をそのままにして、それでみんなで隣のパコ駅に応援に行ったわけです。

これはもうねえ、何て言うのか地獄だね。とにかくもうパコ駅のまぁ入り口というか広場はけが人がいっぱいですよ。もうけが人がいっぱいですよ。もう大激戦があってそこでみんなけがして、それでその辺にゴロゴロしてました。わたしのように威勢のよい新しい兵隊が入ってくるんです。大隊長はどこにいるかって。2階ですって。それで見たらみんな血だらけで、その連中が助けてくれとか、何とか言って足引っ張って、わかったわかったと言って、中には殺してくれとか、地獄ですよ。

治療なんて全然できないですから、とにかくけがした人間をそのままその辺にほっぽってあるから、何とかしてくれと、助けてくれと言うんです。

Q:宮沢さんはなんて答えたんですか?

答える暇なんてなかたんです。わたしはもうとにかく、応援に行ってこういうふうにやられてる人たちをここに置いて、敵をとにかく食い止めなければしかたがないと行ったんだから、その大隊長の所へあいさつして応援に来ましたけど、どこに行けば良いですか?と聞くのが先決問題でした。

とにかく敵はもうそこまで来ていると、それで何とか食い止めなければならんから、あそこに行って食い止めてくれという意味だったんですね。大隊長からです。「はい、わかりました。どこに行けばいいんですか?」と言ったら、「どこに行けば良いんですかって、いちばん近いのはこの線路を真っ直ぐ行けばいちばん近いけど、危ないから。下からこうやって回って行かないとダメだ」って、「わかりました。だけどわたしはめんどうくさいので、まっすぐ行きます」と。むちゃくちゃでしたね。とにかく。線路がちょっと高くなってて、戦争してる連中は下へみんな身を伏せてやっていますから、走って行ったら目立ってすぐにやられてしまうんです。

だけど、余裕がないからまっすぐ走っちゃったんです。全員タァーと走ったんです。そして向こうで敵とチャンチャンバラバラやってるど真ん中にダーンと飛び降りたわけです。

そしたら敵も味方もびっくりしたわけです。でも誰もけがもかすり傷も負わなかったです。強行突破して。目的地にすぐ着いたんです。だけど着いた所がとにかく戦場のど真ん中です。もうまわりに前からそこで敵と向かいあってる連中がびっくりしたんです。それと今飛び込んでいったわたしの部下たちは、それはとまどっちゃた、どうしたらいいかわからん。みんなわたしの顔見てるわけです。そこでわたしがその、ひょっと思い出した。指揮官というのはこういうときにしっかりしていないと兵隊はどうしようもないんだと、だからわたしはわざと、から元気でね、おれは余裕があるんだというところを見せたわけです。

そしたらみんなもひょっとやっぱり気を取り直したんでしょうね。号令をかけたらバッと動き出したんです。それまでは、ただみんな上目遣いにわたしを見て地面にこうへばり付いてこうってやってるわけです。それで動き出したんです。

あのね、市街戦というのは、ほんとうにもう家のたて込んだ所で戦闘するということはね、ジャングルの中で戦闘するのと同じでね、視界が全然きかないわけですよ。どこから跳びだしてくるかわからない敵が、後ろから来るか前から来るか横から来るかそんな状態なんですよね。われわれが飛び込んだ所は、フィリピンの貧しい人たちの簡単な小屋みたいなのがいっぱいある所です。そこへダーッと入っていったわけだから、もう敵はどこに隠れているか弾がどこから飛んでくるか分からなかった。

それでちょっとした幅2~3メートルぐらいの道がこうあって、とにかくそこ行ったのをダーっとやられましたからね。わたしらは危ないと思って身を伏せたらわき腹ここをダダダと弾が土煙をあげてバババとこう。もうそこでヤマグチたちのまだ上の兵曹長間際の人が「ウウウ」と言ったが、それっきり。わたしも動けなくなったんです。で、ササキが後ろに、家の影にいて、「小隊長」って呼ぶんだけど、「いまか、あそこを撃て」とこう、声は聞こえますから手で指図したらタンタンと見えないけれども敵の家に撃ち込んで、そしたら機銃がぱっと止まったから、わたしらはすっと下がってそんな状態だったです。

で、後ろへ下がって今度こっちから回ってあの家を攻撃してやろうと思ってわたしがこう、身を家の影で乗り出した所をバババっとこれ、それで人間というのは利き腕のほうから先に敵にさらすんだなと思ったね。そしてやられたから今度出て行こうと思って向こうもパッと出て来てお互い鉢合わせ。こっちは日本刀を振り回す、向こうは小銃で撃ってくる、手りゅう弾投げ合う、もう格闘ですよ。

もうねバタバタみんな死んで行くからかたきを撃つどころの騒ぎじゃないんです。自分は相手を倒さなければ、こっちがやられるんだという気持ちですね。

何て言うのか距離がないんですよ。自分が身を引くとかよけるとかそうじゃないんだよね。道路の向こうから自動車で来て、こっちも正面衝突なんだから。もう当たるしかない、当たって相手を倒すよりほかない。そういう追い詰められた気持ちでした。

Q:市街戦は民家だからよけいそれが。

そうなんですよ、極端な話し、家の中でケンカするのと一緒で、もう狭い所でひしめき合って、それで殺しあう、そんな状態です。

要するに皆けがしていて動けない、ダンダンダンダン、砲弾は飛んでくる爆弾はくる、もうここにいたら死ぬよりほかない、そんな状態になったわけです。それで結局、わたしはそこを抜け出し、それで自分のせっかく作った陣地に戻って、あそこでせめて一矢報いて戦うんだというつもりですね。だから、ひと晩たって自分の部下たちがほとんど帰ってこない、わたしひとり残ったと、ここでパコで死ぬより、自分たちの作った本来の根拠地に戻って、そこで死のうと。

そしたら、わたしの部下が何人か戻ってきて、ヤマグチなんかもそこにいたわけです。

ササキもいたわけです。それでみんな再会を喜ぶというほどの事じゃないんですけど、じゃあここでみんなでまた最後の華を咲かせましょうという事でした。

米軍がマニラに入って来るってことを歓迎するフィリピン人はたくさんいましたよ。星条旗がさっと窓から出るんだから。

だからうかつにマニラの町を夜ひとりで歩くなっちゅうことだったですから。ところがわれわれはその、なんどきそういうやつらが襲ってくるか分からんから一応身を守るための警備をしなければいけなかったんですよ。だからそのマニラの町で不審な民家とかをそういうのをチェックしてね、警戒はしましたよ。だけど、そいでそのやたらにそこらのやつを殺したとかそんなことはできんよ。だって、敵が入って来るまでしかパコの上に行くまででも、近所のフィリピン人なんか手伝いに来たんだもん。そして、われわれの洗濯物を洗濯してくれたりね、その代わりまぁ、いくらか食料をやったりなんかしてそういう極端な言い方をすれば友好関係にあった人たちもいたわけです。

たぶん(ゲリラが市民に)混じっていたと思うね。だけどその服装がね一目りょう然とかなんとかじゃなしにね、区別つかないですよね。でも混じっていることは事実ですよ。

夜が明けてけがした体でトコトコ歩いてるときに撃たれて、家屋のビルディングの2階ぐらいから拳銃で撃たれた事はあります。

我々には懸賞がかけられていたんです。敵が入ってくる前に、我々がマニラの町の中で戦争の準備をしているときに、ゲリラが海軍の将校をひとり殺せばいくらとか兵隊を殺せばいくらとか懸賞がかけられているという話は聞いたことがあります。要するにゲリラが、フィリピン人か誰か知らんけど、わたしを殺せば何ドルかもらえるという事だったんです。

そのころいわゆる何とかアベニューのロータリーのガソリンスタンドみたいなのがあって、ガソリンスタンドの中を、コンクリートで固めてそこに機銃を据え付けて、これで敵が来たらこれで撃つんだということで、わたしは足の治療をしたり、腕の治療してもたっらりしながらそこに横たわっていたんです。

それで爆弾が落ちる砲弾が来るという日が何日か過ぎた。そしたら戦況が押し迫って、パコ駅の方を占領してた敵がだんだん近寄って来たんです。

敵と我々の間に住民がなだれをうって、移動し始めた。これじゃあもうどうしようもないと言っていたら、中隊長がとにかくそこを出て病院に行けとわたしの所に指令が来たわけです。だけど、もういまさら、しょうがないから、行かないとここで戦死するんだというつもりでした。そしたら中隊長が早くしろと行くわけですから、それじゃあしかたないからってササキ兵曹とかそういうのなのを連れて行ったわけですよ。

それでそこから離れて、教会のみたいな所に行ったんですね。そしたら、陸軍の兵隊さんがいて、マッキンレーまでの道を案内してくれるって、中隊長が頼んだんだろう、そして先導してくれたわけです。

わたしはヤマグチたちに背負われてそのあとずーっと行ったわけです。そして一晩かかってマッキンレーに着いたわけです。わたしはけが人ですから、病院に一応入れてもらいました。

ところが病院が移動すると、動けない患者は連れて行かれないから、自分で脱出できるものは脱出しろ、動けないものは残念ながらここで注射して死んでもらうという話になったんです。で、ヤマグチに「おれを病院まで連れてってくれ」と、命じてヤマグチが「それじゃあ」と言って、陸軍の部隊と交渉してくれて、そしたら「向こうに行くトラックがあるから、それに乗りなさい」と、それでトラックの荷台に乗って、病院のあとを追っていったわけです。

そしたらもう空は飛行機が飛んで、夜、迫撃砲がドンドンドンドン追いかけてくるわけで、運よく当たらずに、マッキンレー抜け出して、新しい病院の移転先まで行ったわけですよ。

そうですね。まぁわたしが海軍に入ったのは陸戦をやるつもりじゃなくてね、日本の連合艦隊の一員として米軍の海軍と海上戦闘をやって勝つというつもりで入ったそれが本分だったんです。ところが武運つたなくね、わたしの船は沈められて、マニラの陸戦隊に参加したわけです。しかし、わたしの戦争のね、体験からいったらこれ最大の戦争だったんです。マニラの陸戦すべてだったんです。わたしにとってはね。

で、その戦争で、まぁ非常に苦戦をしてケガもして。しかしまぁ何とか生き残ったということはわたしの一生に尊い経験として残ってね、この人生80年、どんなかのう?生きるど根性というのが与えられたと思います。もうね、「木曽(巡洋艦)」の戦争、それからマニラの戦争いろいろ思い出せる場面がありますね。そのことを思い出すたびに「そうだ。頑張らなきゃ。」という気持ちが強くなりますね。

いちばん印象的な光景は、やはりパコで撃たれて倒れてね、もうだめだと。これで自決しようと思って、拳銃を手にしてね覚悟を決めたんですけども。そこをまた兵隊が迎えに来てね、パコ街に戻って。それが元でまぁこうして生きているんだから、あれがわたしの生涯の分かれ道だったわけですね。あれで、もうちょっと早くねわたしがやっていればもうこの世にいないわけです。人間の運というのはね、ほんと紙一重ってことばよくありますけど。そうです。だから最後まであきらめないで、まぁわたしはそれから戦後いろいろの病気もしましたしね、手術もしましたけどね、人間はやっぱりね、頑張れば何とかなるんだという気持ち。これはありがたいと思います。

マニラでたくさんの兵隊を死なせた仲間を死なせたね、それはね残念といえば残念なんだけどね。申し訳ないとは思わない。もうそういう運命を皆が背負ってなんとか切り開こうと思って努力をした結果だからね。これはあきらめるより他にないなぁとは思うんですけど。

出来事の背景

【フィリピン 絶望の市街戦 ~マニラ海軍防衛隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期の昭和20年1月9日、米軍は164隻の大艦隊、19万人でフィリピンのルソン島に上陸。2月には首都マニラに攻め込んだ。追い詰められた日本軍は、100万人の市民が暮らすマニラ市街で最後の抵抗を試み、米軍との激しい戦闘を繰り広げた。

陸軍は、山中への撤退、持久戦を主張したが、港を守ることにこだわった海軍は市街戦に踏み切った。沈没艦船の乗組員や在留邦人で結成されたマニラ海軍防衛隊は、およそ2万4000人の兵力で米軍を迎え撃った。

2月3日、米軍がマニラ市内に侵入を始めた。またたく間にマニラ市の中心部まで兵を進め、圧倒的な兵力と物量で攻撃し、日本軍はたちまち劣勢に追い込まれた。さらに日本軍の占領政策に反発したフィリピン人が米軍による訓練を受け、ゲリラ戦を展開。日本軍は、ゲリラの攻撃に悩んだ末、ゲリラの掃討を開始した。このゲリラ掃討は多くの一般市民を巻き添えにしたといわれる。

米軍は当初、市民の犠牲を避けるため、日本軍への砲撃を控えていた。
しかし、2月12日、規制を解除し、無差別砲撃を開始。日本兵の多くは、当時1万人を超えるマニラ市民が暮らしていたイントラムロスという要塞に立てこもった。

2月17日、米軍はイントラムロスへの砲撃を決定し、榴弾砲、迫撃砲、戦車砲を、城内めがけ一斉に発射した。
2月26日、マニラ海軍防衛隊岩淵司令官は自決。3月3日、米軍はマニラでの戦闘終了を宣言。1万6555名の日本軍兵士の遺体が確認された。しかし、マニラ市民の死者は10万人にのぼった。市民の証言から多数のフィリピン人男性が日本軍によって、連行され殺害されたと見られている。

わずかにマニラから逃げ延びた兵士たちは、フィリピン山中で飢餓と戦いながら敗走を続けた。

証言者プロフィール

1924年
山梨県甲府市にて生まれる。
1944年
巡洋艦「木曾」の砲術手として戦地へ。「木曾」沈没後、マニラで31特別根拠地隊に編入後、マニラ海軍防衛隊へ。
1945年
終戦当時、21歳、海軍中尉。
1946年
復員(佐世保)。

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