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タイトル 「軍艦から陸戦隊へ」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン 絶望の市街戦 ~マニラ海軍防衛隊~
氏名 高橋 善二郎さん(マニラ海軍防衛隊 戦地 フィリピン(マニラ)  収録年月日 2007年3月22日

チャプター

[1] チャプター1 軍艦から陸戦隊へ  04:27
[2] チャプター2 米軍のマニラ侵攻  06:22
[3] チャプター3 斬り込み(きりこみ)攻撃  02:53
[4] チャプター4 病院に残された兵士たち  04:16
[5] チャプター5 山中の彷徨(ほうこう)  08:14

再生テキスト

11月の20何日だったね。ああ、25日だったかな? それで、それからすぐマニラへ回送になって裸同然でマニラへ行って、で、マニラの、はっきり覚えてませんが、何とかって女子大ってあったんですよ。その隣の、女子大の体育館かどっかそういうところで全部集まっておったんですけど、結局、ま、そう言っちゃ悪いですけど、「熊野」で生き残った連中の中でですね、将校は全部内地へ帰ったんですよ。ほで、あと残ったのが下士官兵だけなんですよ。それではねぇ、まとまりがつかないんですよ。

「おまえはとにかく妻帯者でもあるし、ほんで、内地へ帰れ」って言ってね。マニラの埠頭まで来たんですけどね。そのときに内地へ帰る予定でおった下士官が20名くらいおったです。わたしの島根県出身の人で、ベッシ兵曹なんかもおられましたし、同じ分隊の、その人なんかも一緒だったんですけどね。で、帰らなくて、全部捨て、そう、あの31特攻の総司令部に配属になりまして。

で、そこで毎日することがありませんので。で、情報は、そんなに早く米軍が来るとは思ってなかったんですから、ですから、ま、ゆったりした気持ちだったけども、何にも手に持つもんがないもんだから、まあ、江戸時代じゃないけども、せめて何か切るもんでも持たんことには戦争にならんわ、と思いましてね。

それで、何人かと話合って軍刀作りあったんですけど。立派なのできましてね。で、あの、随分それでやしの木切ったりなんかしたことありましたけど。それが唯一の頼りだったですけど。ほんと、何もないですから。

もうすることありませんしね、武器はないです。なんも武器がないから。「まてよ、とにかく何か切れるものこしらえてやろう」っちゅうわけですね。だから、自動車工場ありましてね、そこにあの、自動車の、今ほどの自動車はありませんけど、昔の自動車はこう、スプリングがこうついてるんですよ。こう。こうなって。そのスプリングが切れましてね、日本刀作ったんですよ。それがよう切れるんです、また。折れもしませんしね、スプリングですから。それを、まあ毎日毎日グラインドかけて、何日もかけて1本作ったんじゃないかと思いますけどね。それ、それが武器だったんですよ。

怖いですね。怖かったです。それも大体ね、まあ考えてみてください。海で、海で教育受けて、海の軍艦の教育しか受けてない、戦闘訓練を受けていない者が陸に上がってですね、それもしかも武器でもあればまた別ですけども、小銃もないわ、そんなでね、戦争せえったってそりゃ無理ですわ。おそらくね、10何万おったんですよ。あの、あそこのマニラの防衛部隊に。そん中でほんとの陸戦の教育をした、受けた兵隊が何人いったかということなんです。おそらく何人もないはず、あの、何千人もいないと思いますよ。そんなみんな、あの、レイテでやられた戦線の部隊がどんどんどんどん上がって来てますから。

Q:明らかに兵力の差は感じましたか。

はい。いえ、もう、こりゃもう何にもないですもん、わたしら。それは、ほんとに装備された兵隊じゃないですもの。船が沈んで上がった、ただ人員の頭数に入っとるだけです。何にも戦闘するって言ったところで。そら、何か機関銃でも何でもあればある程度出てって戦いますけども、そんなんもうあったところで戦車に向かってもどうにもならんですわ。わたしの戦友ったら、布団爆雷積んで戦車に向かって突っ込んだですけどね。そんな兵隊もおりますよ。それで指令も下りましたけど。

Q:それは命令が出て。

ええ。命令が出て突っ込んで行ったんですよ。訓練してました。布団爆雷をね、戦車に投げる。で、たこつぼ掘ってそこ入っておるとか、それから民家に隠れとって、戦車が来たら戦車に突っ込んで行って布団爆雷投げると。言うんですけど、結局投げるまでにやられてしまうんですよ。出てったらね。あの、戦車がこう歩きますと、その後ろに兵隊がずーっとついて行くんですよ。そして前へ出て行くために兵隊が狙ってるから、みんな来ますから。だから、どないもならんですよ。

夕方、3時頃に出発したんですよ。あの、軍司令部を。ほんで前線までまともに歩かれませんのでねぇ。こう、かげづたい、ずっとつたって。あの、最前線の、ほとんど最前線の方まで出たんですよ。
 
で、あの、民家の床の下に入って、全部。15人連れていましたっけ、わたし。ほで、そこで結局待機したんです。そのときわたしが持っていたのは、あの日本刀みたいな作ったのと、それから機銃、軽機(関)銃が1丁、それから歩兵銃が2丁、15人おりますけど、兵器が3つしかないんですよ。兵器がね。で、後の者はついて来とるだけで何にも。斬り込み行くったって、手りゅう弾は持ってましたけども。

んで、まあ、待機して夜になるのを待つわけですわ。それを、が、結局ゲリラに見つかったんでしょうね。まともに迫撃砲飛んで来たんです。

結局、戦前、斬り込みに行ったときに迫撃砲弾が。わたしちょうど真ん中におりましてね。で、こうずっと横にすって座の下に入っていたんです。かなり大きな家やったですね、どうも。そこへ、平屋だったですね、どうも。迫撃砲弾がぼーん飛んで来ましてね。で、迫撃砲っちゅうのは、当たって、上で当たってパーッと散るんだそうですね、あれ。そうですけん、わたしはまともにこんなのが1発背中へ入ったんですよ。

Q:高橋さんのですか。

ええ。肺に入ったんです。で、肺に入ったためにだいたい器官が弱いんですよ。肺が弱いんですよ。それで気を失っちまったんです。で、気がついたときは病院だったんです。ですけん、助かった兵隊がおそらくわたしを連れて病院に行ったと思うんです。気がついたときは病院で。気がついて、それからその晩にあのその病院は、あの、31特攻の司令部の中にあった病院ですから、その晩に、あのあそこへ、マッキンレーの病院まで移動したんです。そのためにもう明くる以降、包囲されたっていうことあったんですけどね。もう出られないっちゅうとこやったんです。ほんでわたし、結局、前の晩出たために助かった。わたし、これが命助けてくれたんだと思ってますけども。

あ、もう1日遅かったら出られなかったと思います。もうとにかくね、あの、出た人の話聞くと、そらもう悲惨なものだったらしいですよ。

市街戦が始まるという状況のときにですね、あの、難民がどんどんどんどん入ってくるんですよ。避難民がこっちに入ってくるんですよ。それで「おかしいなぁ、戦争が始まるところへ避難民が入ってくる。おかしいなぁ」と思ってたんですわ。なんかみんな武器隠隠してゲリラが入って来とるんです。それに見えないのですわ。ゲリラにね。

Q:住民に見えたんですか。

はい。住民がね、こう、車みたいなのに家財道具積んで帰って来るんですわ。入って来るはずがないんですよ、だいたい山の中のほうから。そいつが入ってくるんですから。みんな銃器持って、米軍からいただいた機関銃なんか持って入って来るんですよ。ですからもう、始末がつかんですわ。
随分もう、市街戦の前でもゲリラ戦が相当あったようです。あっちゃこっちゃでチラチラと。大きなナニはないけども、結局狙撃されてますね、窓から、狙われて。

ほんで、見つかってないなと思っとったんですけどね、見つかってたんですね、こっちがおることが。それで、そのとき初めてゲリラの姿見たんです。服装は民間の服装してました。ただ、銃持ってました。

初めてです。経験も何もないんです。だけども、やっぱりもう、なんですね、そりゃ今考えるとバカみたいですけど、その時はきちがいになってますね、やっぱり。やる気になってます。

もう、もうほんとに「やったるぞ」という気持ちだけです。なんとか一矢報いたいという気持ちだけでおったですね。兵隊みんなそうだったですよ。ですから、ひとつのちゅうちょもなく何の抵抗もなく、どんどんどんどん、あそこ、最前線まで行ったんです。

Q:その民家はもう米軍がいるところのすぐそばだったですか。

いや、まだだいぶん離れていると思いますがねえ。そっからまた相当、1000メーターくらい行かんと米軍の基地まで行かれないですか。

Q:そこでゲリラに見つかって。

ええ。迫撃砲1発、それだけです。

Q:で、周りのみなさん、お仲間はそのまま行かれたんですか。

いや、それがわからん。わたし気づいた。行ってないと思います。はい。側の相当端のほうはもう全部やられてると思います。真ん中がわたし一人で、あと両側は助かっ、こう何人かは助かってる。で、こっち側のほうでおったのは何人かは死んでるんじゃないかっちゅう思いますわ。はい。

その兵隊の名前も顔も全部忘れました。覚えてません。わずかな間、おそらくね、付き合った期間が、訓練の期間が、10日か、余りじゃなかったですかねえ。ですけん、ほんと、わずかな間に。わたし結局、陸戦の経験はありませんけどね、あの、陸戦の経験のある兵長が一人いたんです。その兵長の、その、ま、それを主として教育、教育っていうか、戦争の、斬り込みの方法なんかをね、話はしてたんです。やり方なんかを。

Q:そのとき、恐怖、斬り込みの恐怖、恐怖心みたいなものも?

ありません。はい。全然ありません。その時はないです。ただもう逃げるようになってから怖かったです。はい。ただ進んでいくときは怖くないです。ほんと、その時は異常です、人間の心理状態。

病院に送られて、で、マッキンレーの病院が今度また危なくなりまして。

ま、とにかく普通の今の現代の病院なんかと想像つきませんよね、ごろ寝ですから、座(ゴザ)の上に。そして、もう、いっぱいゴロゴロしているような格好です。

それで、マッキンレーの病院で、もう危なくなるから歩いて出られる者は全部山へ向かって出発せいってことだったんですよ。ところがわたし、今も話したように、あの、背中に穴が開いて、背中は縫うてあるんですよ。だけどやっぱり肺をやられてるもんだから呼吸が困難でなかなか歩けないもんです。兵隊が来て、わたしの「熊野」に乗っていた時代に、新兵教育のね、助手を、教員助手しとったんですよ。そのために新兵がですね、昭和18年に乗ってきた新兵が100人ほどおったんですよ。その兵隊をいろいろと艦内のことについて、教育したんですよ。

で、わたしは兵隊を覚えてないけども向こうはわたしのことを覚えとる。で、そのたまたまそこにおった指揮兵なんですが、看護兵です。その兵隊がわたしの顔知ってましてね、「ま、高橋さん、とにかくなんとか出なさいませ」と。「ここおったらとにかくダメです」って言うわけ。「ダメったって動けんで」っちゅったら「ま、なんとか出なさい」っちゅって。「トラック、今、糧まつのトラックが山へ行くからそれに乗せてあげますから」あの、ってことです。ちょうどトラックがおりましてね。で、その乗せてもらって、それで山へ逃げたんです。

Q:その時、動ける者は山に行けと。動けない方々はどうなったんですか?

おそらくね、自決してます。と、思います。ちょっと言えないことがあります。その看護兵の話で言えないことがあります。

それわたしね、そこのわたしが教えた兵隊が「とにかくなんとか(ここから)出なさい」っちゅって。

戦争に行かれた人の遺族はですね、自分のせがれがどういうふうに死んだかっちゅうことはですね、なかなかわからないはずと思って。本当に戦争で戦って亡くなっとればええですけどもね。

自分で自決する意思があって自決する人はまだいいじゃないですか。

そうでない人がほとんどです。想像がつくでしょう。それをその今のわたしの新兵、教えた新兵が、看護兵がしてたからわたしを無理無理に出したんです。そういって言いました、わたしはハッキリ。ハッキリ言いましたけん。「とにかく出なさい」と。「これこれだから出なさい」と。その兵隊も死んでしまった。

そうでない人がほとんどです。想像がつくでしょう。それをその今のわたしの新兵、教えた新兵が、看護兵がしてたからわたしを無理無理に出したんです。そういって言いました、わたしはハッキリ。ハッキリ言いましたけん。「とにかく出なさい」と。「これこれだから出なさい」と。その兵隊も死んでしまった。

病院に送られて、で、マッキンレーの病院が今度また危なくなりまして。

ま、とにかく普通の今の現代の病院なんかと想像つきませんよね、ごろ寝ですから、座(ゴザ)の上に。そして、もう、いっぱいゴロゴロしているような格好です。

それで、マッキンレーの病院で、もう危なくなるから歩いて出られる者は全部山へ向かって出発せいってことだったんですよ。ところがわたし、今も話したように、あの、背中に穴が開いて、背中は縫うてあるんですよ。だけどやっぱり肺をやられてるもんだから呼吸が困難でなかなか歩けないもんです。兵隊が来て、わたしの「熊野」に乗っていた時代に、新兵教育のね、助手を、教員助手しとったんですよ。そのために新兵がですね、昭和18年に乗ってきた新兵が100人ほどおったんですよ。その兵隊をいろいろと艦内のことについて、教育したんですよ。

で、わたしは兵隊を覚えてないけども向こうはわたしのことを覚えとる。で、そのたまたまそこにおった指揮兵なんですが、看護兵です。その兵隊がわたしの顔知ってましてね、「ま、高橋さん、とにかくなんとか出なさい」と。「ここおったらとにかくダメです」って言うわけ。「ダメったって動けんで」っちゅったら「ま、なんとか出なさい」っちゅって。「トラック、今、糧まつのトラックが山へ行くからそれに乗せてあげますから」あの、ってことです。ちょうどトラックがおりましてね。で、その乗せてもらって、それで山へ逃げたんです。

Q:その時、動ける者は山に行けと。動けない方々はどうなったんですか?

おそらくね、自決してます。と、思います。ちょっと言えないことがあります。その看護兵の話で言えないことがあります。

それわたしね、そこのわたしが教えた兵隊が「とにかくなんとか(ここから)出なさい」っちゅって。

戦争に行かれた人の遺族はですね、自分のせがれがどういうふうに死んだかっちゅうことはですね、なかなかわからないはずと思って。本当に戦争で戦って亡くなっとればええですけどもね。

自分で自決する意思があって自決する人はまだいいじゃないですか。

そうでない人がほとんどです。想像がつくでしょう。それをその今のわたしの新兵、教えた新兵が、看護兵がしてたからわたしを無理無理に出したんです。そういって言いました、わたしはハッキリ。ハッキリ言いましたけん。「とにかく出なさい」と。「これこれだから出なさい」と。その兵隊も死んでしまった。

Q:最初500人ですか、500人いらっしゃった方が、そのもう市街戦、終わりかけの3月には30人くらいになってしまったというのは、

そうですね。

Q:すごいことですよね?

ああ。ほんとそれはすごいことです。ほとんど無駄死にですわ。戦争らしい戦争してないと思いますよ。で、もうとにかく水がないから水取りに出てやられたり、それから食料はなんとかしてでもおそらく走り回ってたんじゃないかと思います。戦争場でないと思いますよ。食うことにおそらく。

なんであんなとこで戦争したんだろうかと思うて。思いますよ。なんか初め予定としては市街戦はする予定はなかったらしいですけども、住民も十分住んでますしね。日本兵はもちろん、現地の人もたくさん亡くなっとるでしょ。

ものすごい、爆撃がものすごかったですもん。またわたしらの時も相当爆撃あったですけども。戦車砲と、それからロケット砲ですか、ヒュヒューッときてボーンと当たる。
 
でね、敵はね、沈船部隊がいなかったからあんな戦闘なかったと思いますよ。あの、沈んだ船のね、兵隊がね、あすこへ上がって行ったら、ま、10何万か知らんけど、10万か知らんけど、500名だから、おそらく、船、各船あすこで「武蔵」もなくなってるし、えーっと「長門」か、戦艦もなくなってるし、たくさん船が沈んでますからね。その連中がみんな、マニラ湾、マニラへ上陸してると思いますよ。ですからわたし、ほとんど沈船部隊が10何万でおるからなんとかやれると思ったんでしょうかなぁ。上の人の考え方ですけども。
 
だけども、実際問題として武器がないですから、どうにもならんじゃないですか。だけども結局、人数だけおったからマニラ市街戦やろうかっちゅう気持ちになられたんじゃないですか。

顔を思い出せる兵隊が何人もいます。特にほんとに助けていただいた方々のね、顔が思い出されますよ。うん。ほんと、一宿一飯じゃないけどほんの一握りの米がいかに貴重なもんだったかっちゅうことをね。「高橋二曹、これあるけん、これ、米あれしてください」っちゅうて。もう自分の服に入ったやつに。自分だって将来なくなるんですよ。それをね、してくれた兵隊が何人もあったんですよ、山ん中で。それがもう下りてきてるかな、終戦になったときに下りてきてるかな、会えるかなと思ったんですけどね、いなかったです、全部。餓死したんでしょう。ええ。ほとんど餓死してますよ。

わたしは幸せなことにカワムラさんに助けていただいた時に、まあ、現地の人には悪いけども、同年でヤマシタっちゅうのがおりましたので、「おう、心配ない。とにかく今日はしっかりごちそうしてやるけん」っちゅうてからね、ふだんから牛殺して食わしたり、鶏殺して食わしたり、豚を殺して食わしたり。毎日とにかくこんな鍋でグツグツグツグツ煮て食わした。もうやせてね、ガランガラしてるでしょ、そこへきてマラリアにかかってるからものすごい弱ってたんです。ところがね、その毎日朝から食え食えってからアゴがダメになるんですよ。食ってばっかおるけん。なんとも一気に太りました。それで今度米軍が来たから山へ、また山へ逃げたでしょ。栄養つけてるから持ちこたえますから。で、マラリアも吹っ飛んでしまったですよ。あの、今の食料の関係でえらいもんです。朝からもう豚肉だ、卵だってとってかかえて食わすから、だからそれが結局助かったひとつの原因なんです。

ほとんど餓死じゃないですかねぇ。ええ。わたしらはあの今の山ん中歩いてた時に、あの、行き倒れた人がたくさんありますね。ぽつん、ぽつんと。何十メーターか、何百メーターにひとりくらい倒れて。木の下に横になってる「どうした!」って「うつろになってる」って、あ、これダメだなって。何人もありましたから。そういった人はみな餓死ですね。途中でわたしはそういう恵んでいただいたお米によって、ま、生き長らえて東海岸まで。ほで、その日にちが何日かかったかわからないんですよ。

ま、わたしは運だったと思います。わたしね、「死なんなあ」と思ったですよ。もう最後にね、ほんと死なないなあと思ったです。というのはね、不思議と、不思議なことが何回もあったんです。山ん中、山ん中じゃなかった、あすこだ、一番身近に感じたのはね、カワムラ隊に入ってから。爆撃来たんですよ。空襲の中、防空壕へ逃げ込んだんです。満員で入れないんですよ。しょうがないからやしの木の陰に隠れて、隠れたんです。防空壕の近くに至近弾が落ちたんです。入り口の人はやられたんですよ。あれあのままで入り込んでたら、入り口におったらやられとるんですよ。もうその時「ああ、これは死なんな」と思ったんです、わたしは。何回もありました。それから、山ん中でヘリコプターに見つけられましてね、ヘリコプターが無線連絡でどんどんどんどん撃ってくるんですよ。わたしがおるとこへ。山ん中で岩陰に隠れたんですね。もうまともに撃ってくるんですよ。こう見とって、着弾落とすでしょ。ここに隠れてるってわかってるから、そこに向けてどんどんどんどん撃ってくるわけです。ほたら、絶対当たらなかったです。ですけん、もう「こら、死なんなあ」と思ったですわ。だけん、運、人間の運命なんてそんなもんじゃないですか。

とにかく、100、約100名ほどの新兵が生き残っているのはムラタひとりなんですよ。全部死んだんですよ。考えてみなさい。だって17歳ですよ。ほんと新兵教育してきてわたし「なんと優秀な兵隊だなあ」と思ったですよ。17歳でね。今でもね、思い浮かびますわ。童顔のね、子供ですよ。

出来事の背景

【フィリピン 絶望の市街戦 ~マニラ海軍防衛隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期の昭和20年1月9日、米軍は164隻の大艦隊、19万人でフィリピンのルソン島に上陸。2月には首都マニラに攻め込んだ。追い詰められた日本軍は、100万人の市民が暮らすマニラ市街で最後の抵抗を試み、米軍との激しい戦闘を繰り広げた。

陸軍は、山中への撤退、持久戦を主張したが、港を守ることにこだわった海軍は市街戦に踏み切った。沈没艦船の乗組員や在留邦人で結成されたマニラ海軍防衛隊は、およそ2万4000人の兵力で米軍を迎え撃った。

2月3日、米軍がマニラ市内に侵入を始めた。またたく間にマニラ市の中心部まで兵を進め、圧倒的な兵力と物量で攻撃し、日本軍はたちまち劣勢に追い込まれた。さらに日本軍の占領政策に反発したフィリピン人が米軍による訓練を受け、ゲリラ戦を展開。日本軍は、ゲリラの攻撃に悩んだ末、ゲリラの掃討を開始した。このゲリラ掃討は多くの一般市民を巻き添えにしたといわれる。

米軍は当初、市民の犠牲を避けるため、日本軍への砲撃を控えていた。
しかし、2月12日、規制を解除し、無差別砲撃を開始。日本兵の多くは、当時1万人を超えるマニラ市民が暮らしていたイントラムロスという要塞に立てこもった。

2月17日、米軍はイントラムロスへの砲撃を決定し、榴弾砲、迫撃砲、戦車砲を、城内めがけ一斉に発射した。
2月26日、マニラ海軍防衛隊岩淵司令官は自決。3月3日、米軍はマニラでの戦闘終了を宣言。1万6555名の日本軍兵士の遺体が確認された。しかし、マニラ市民の死者は10万人にのぼった。市民の証言から多数のフィリピン人男性が日本軍によって、連行され殺害されたと見られている。

わずかにマニラから逃げ延びた兵士たちは、フィリピン山中で飢餓と戦いながら敗走を続けた。

証言者プロフィール

1920年
島根県松江市にうまれる
1941年
呉海兵団に入団後、「熊野」に乗艦してシンガポールへ。
1944年
「熊野」沈没後マニラへ。
1945年
マニラ海軍防衛隊第二大隊に配属。終戦当時25歳、海軍一等兵曹。復員後は松江市にて小売店を営む

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