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タイトル “逃亡兵と言われた” 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン 絶望の市街戦 ~マニラ海軍防衛隊~
氏名 山口 正美さん(マニラ海軍防衛隊 戦地 フィリピン(マニラ)  収録年月日 2007年3月20日、21日

チャプター

[1] チャプター1 寄せ集めの兵士たち  02:39
[2] チャプター2 米軍マニラ進入  02:47
[3] チャプター3 同士討ちも起こった市街戦  07:05
[4] チャプター4 斬り込み(きりこみ)  08:10
[5] チャプター5 逃亡兵  03:50
[6] チャプター6 忘れられない戦場の記憶  00:33

再生テキスト

マニラは船が沈んで12月25日船が沈没しまして、それですぐ海防艦に乗ってマニラに着いた訳ですよ。送られたわけですよ。それでそのまま下士官兵は31特別根拠地帯の陸戦隊に編入ということですね。帰ったっておそらく乗る船はないから、せっかくの学校出でバリバリの技術者であるばってん、陸戦隊に編入になって、それで何にもなかですよね。かっぱのおかあがりですから小銃もなし、何も船にも小銃は積んどるんですけど船もろとも沈んだですからね。何にもなかわけですよ。それから兵器廠(しょう)に行って銃器をもらったわけですよ。3連式の銃器を。それをわたしの軍隊が1個と、2丁、4分隊のユキムラ兵曹と、それを持ってあとは徴発した拳銃とか軍刀は自動車のスプリングでかじ屋で作ってもらってそれを持っておりました。

そういう状況からして、アメリカでも海兵隊というんですね。それはもう陸戦隊に、いつ時代によっては艦船からあがって島に上がった場合はこんな島を防衛して、自分たちが守る一つの部隊ということで31特別根拠地隊というあれが陸戦の司令部がありますよという。それに投入された訳ですよ。司令官たちが決めることでわたしども昔の武士道が言うと雑兵ですけんね。一つの。雑兵ですたい。もう竹やり部隊。言うがままでした。結局。それでもうあきらめて陸戦隊に入った訳ですよ。

Q:マニラにアメリカ軍が来たときは、どういう状況でしたか。またどう思いましたか。

向こうはリンガエンにあがってフィリピンを南下したわけですが、すーっと早かったですよ。それで、わたしたちも貨物廠(しょう)で、食料を取りに行ってたら、戦車やら向こうの装甲車両、どんどん来てですね、もう、わたしの部隊に帰れん、倉庫の中にね、追い詰められとったです。陸軍のコマツ軍曹というのが来て、海軍の糧まつを分けてくれるということで、わたしが案内役で行ったのですが、敵が主要道路に来て、パコの橋とかなんとか、なんや、橋が破壊されたら帰られませんけ、橋の破壊の前に早よう、部隊に帰って、通知せないかんというわけで、とまどっていたわけですよ。とにかく向こうの敵前上陸してからマニラに浸透してくるのは、とても早かったです。この本にも書いてありますように。

Q:もっと遅いと思っていたのですね、みなさんね、で、かなりの兵力で、たくさん戦車とか、ものすごい米軍の武器というのは

陸軍部隊は辰武集団で一個師団がおったですけど、そこには、ノグチ大隊という一個大隊しかおらんけ、陸軍部隊は。留守部隊は。海軍はイワブチ少将が司令官で、あとは現地召集と、31根拠の捕充兵あがりの老兵ばかりで武器もあんまりなく、それで艦船あがりがまた、武器を持たんとが、応援といったって、何もなかですよ。そして兵器廠(しょう)から陸軍が隠匿しとった小銃いくらか、手りゅう弾とか、三八式銃器という残りの兵器をもらって、陣地にその、「わたしの小隊はここを守れ」と、ずっと配分して市外の要所要所は、パコ駅は第一大隊とかですね、守備についちょったわけですよ。

わたしは第一分隊の下士で、分隊長で言われるままにパコ駅から線路づたいに行ったわけですよね、銃器を持って。敵と対当して撃ち合いはじめて小隊長がやられるまでは。小隊長がそしたら、指揮官がおらんと兵隊は動かんですからね、指揮官がやられたら、親分がやられたからということで撤退ということで撤退したわけですよ。

やしの葉っぱでふいた屋根(の家があって)で、ある程度丘があって、線路が通って、ちょっというたら、ま、草っ原のような、そういうふうな状態ですよ。そこで、身を寄せておって、そこが、向こうからまる見えで危ないと思うて50mくらい右に移ったわけですよ。その後に、わたしがおったときに、機銃弾が打ち込まれて、機銃の撃ち方もこう「なぎさ」というて、横にずーっと撃つ方法と、「点射」って、ここならここ、かたまりのここばっかりいっぺんに集中して打つ、いろいろ方法があるわけですよ。わたしは「点射」で、わたしが隠れていたら、その木がバタバターと倒れされたわけです。わたしはヒヤッとしたですたい。後、何秒差だったねと思って。こりゃいかんばい。そしたら、小隊長が「負傷!撤退しろー」というわけで。すぐ機銃を担いで、パコ駅まで着いたわけです。パコ駅も、写真はあるよね。そこにはもう、砲撃やら負傷した人がたくさんおってですね。そりゃもう、戦死した人は、すぐ即死がいちばんいいですよ、もう。あとは、即死ならもう戦車にひかれるか、何しようが「わや」ですたい。けがした人は痛かろうて包帯を巻いてもらって。小隊長も自分の手当てでタオルか血止めとか応急手当して、小隊長はすぐ、第2大隊、自分の陣地に帰って行った。後残った銃器はトーチカがあいているからそこで戦車を食い止めろというわけでユキムラ兵曹とわたしが銃器持っちょったけん、2台行って対抗してやったですよ。

わたしはM4戦車でした。トーチカの銃眼口から銃器で2000発以上ぐらい撃ったですよね。銃身がとろけるように、真っ赤になるまで撃って。向こうもどんどんこっちが撃つもんだから、戦車の陰に歩兵がいるわけですよね。兵隊さんたちついてくるからあかんから。そういう人が出てこられんから、そこでとうとうストップした。そしてわたしたちが、向こうの迫撃砲でトーチカがぐらぐらぐらぐら、踊りだくらいするぐらいにやられた。ユキムラ兵曹がとうとう戦死されたけど、ユキムラ兵曹のトーチカは直撃弾にあたってやられた。わたしが、トーチカがわりと至近弾でぐらぐらしたばってん、幸いやられずに。そして、もうこれはだめだと、わたしの判断で機銃を分解して、投げ捨てて、撤退したわけです。

そのとき、味方からも撃たれた。向こうに残ってた先に帰っていた小隊長がつれて帰った人に。味方からも撃たれた。手上げて。味方同士で撃ち合う。

トーチカから撤退して、自分の陣地に帰る途中ですね、向こうから撃ってくるんですよ。なのに、わが部隊を撃ちよっと。味方同士。

向こうがゲリラだと思ったんでしょうね。体の大きさはあんまりかわりませんからね。

息も絶えた人もおりますが、我が体が大事だからそこで連れて帰るわけにも行かんですね。ほったらかしですたい。自分もやられたら、ほったらかしですたい。で、向こうの戦車にひかれてどうにかなってしまうし。

とにかく負け戦になったらむごいもんですよ。そこにまたむこうの砲弾が飛んでくるわけですよ。そりゃもう地獄、地獄。それこそ生き地獄でした。

気持ちですか、そうですね、もうどうせ死ぬならという、投げ捨てですよね。死ぬなら早く殺してくれと。自分で手りゅう弾を抱いて、発火させて、飛び散って死ぬ人多いですよ。

なるときがあればそうなっていたでしょうね。生きることが人間の最高の喜びですから、そこもひとつあるわけ。いくらか、こう、この神経の中に入っているわけですよね。そういうのを考えたらやっぱり、どうしても早く逃げたり、ものに隠れたりして自分を守るわけですよ。うん。守るためには、敵を早く殺して、早く軍刀を引き抜いてやっつけなくては、その時は10倍、100倍の力がでますよね。火災のときは抱えきれないほど何でも持ち出すというような。そういう特別なですよね。そういう能力がでてくる。一番いいのは瞬間的に、心臓、頭、やられて、ころっとやられたらもう、ばっと、即死ですけん、それがいちばん極楽ですたい。ただ、足を取られたり、負傷した場合に、きつかですよ。病院って野戦病院しかないですから、軍医もおりますけど、手当ての薬とか注射とか内地の病院のように設備もなんもなかですけんね。包帯できびって止め血をするぐらいのものですね。そりゃあもう。

だいたいもう市街戦とはこういうことで、どこに敵がおって、どこから攻めてくるかわからんけえ、とにかく兵役が長いけえ、船から上げた広角砲とか3連式機銃をすえて防御するという陣地構築をしてトーチカを作ったりなんかしてやっとった訳です。その訓練法は結局陸戦において銃剣術とか基礎訓練をやっとったように、火薬の手りゅう弾を投げる練習とかいろいろ訓練したわけですよね。斬り込み(きりこみ)隊です。夜は斬り込み隊といって、そういう戦法。肉弾戦法しかなかわけですよ。もう武器がなかけ。身を捨ててこそわが身を浮かぶ瀬がある。っていうんですね。身を捨ててこそ生きるということですよね。それが一か八か弾に当たって死ぬ人と死なない人は紙一重でどこにおってもどこでどう死ぬかわからないです。それは生きるということは頭にあるんです。国の親のことやらいろいろ頭にあるので。もう鬼みたいになってるわけですね。だいたい。鬼畜がもう精神的に一つのかく乱をしているわけですよ。今大和において死に方用意という、もう死ぬのを覚悟して生きとらんば自分の体、精神かく乱で、なんていうかきちがいになっている訳ですよね。ひとつは。

そういうふうに軍隊長とか上になる人、頭が痛めていた。どうしてどう戦ってどうしたら生き延びられるかってね。作戦もありますように敵を攻略する方法もあるわけですけど、そういうことを考えるとやっぱり、基本の陸戦の基本の動作を、出た学校で習ったのをここに持ってきても、場所と状況によってははまらんわけですよね。こういうときはこう戦えとか、こう敵を動かせとか、難しい本に包囲するとかいうふうにですね、作戦にもいろいろ様式がありまして、なかなかうまいこといかんです。次に、「斬り込み」といって、奇襲というようにそれを風林火山のように奇襲を仕掛けたり、裏から回ってむこうの、なんていうか、何ていうかな、むこうの油断をみて急にこちらが攻撃をかけてやっつけるとかいうことですよね。昔の戦法じゃなかばってん、そういうふうなしきたりが日本の陸戦の軍隊の戦闘様式といいますかね、そういうことではなかでしょうか。

「斬り込み」ばっかりでしたよ。晩は。そして向こうは入られないように犬を使うたりなんかこう音のするような、ああいう、天幕をはったり網を張ったりしてね、入らんように、こっちが入られんように音のするような防御策を作るわけですたい。とにかく犬とかああいうのがいちばんこっちもいかんですよね。ほえるからね。すぐわかるんですよ。そういう合間をついてダーっと行って、もう、身を投げて向こうの油断しているところを、寝込みを寝込みを寝込みを襲う訳ですたい。で、向こうもそういうふうに安心して寝られないけ、犬を配置したり、そういうふうに、音の出るような防音装置をつけたり、網を張ったりして安心して天幕に入っているわけですよ。

ええ斬り込みはやった。軍刀引き抜いたり、散発を銃剣をつけんでぱっといくんですから、それこそ体力がいるんですよ。マニラの陸戦隊は糧秣(りょうまつ)とかいくらかあったけど精神面でもう気持ちははりきっているばってん体が、もう、走ったり、瞬間的な動作はですね、やっぱ地元の大将兵とか第二補充兵で来た人は30~40過ぎですから、やっぱり30歳ぐらいのですね、元気よかのが、いい人がうまいことやって逃れてくるわけですよ。

普通は音がしますから、地下足袋を履いて、そして音がしないように身軽に足元を軽くして、そしていろんなものは捨てて、刀一本ですぐ走ったり逃げたりできるような身軽な服装で行かんごと、いろいろさげたりせんで、水筒だけですたい。のどが渇くけん水筒だけもって行くんですね。

昔の川中島みたいに団体で「わーっ」と行くときは、みんなのいきごみで、十分、力になって突っ込むばってん、ひとりふたりでは行かんわけですよね。やっぱり10人なら10人固まって、ずーっと、しのびで、しのびの格好で行って、っとやってさっと引きあげるわけですよね。そういうことしないと、もう、そのまま行きよったら、じゅんぐりやられよるけ、さっとある程度向こうやっつけたら、さっとひきあげんば、いつまでもおったらすぐやられてしまうけんね、向こうは敵が多いんですから。

たいてい、やられたのは、人の家から(きのうも言ったように)急に上から自動小銃で撃ってくるわけですよね。フィリピンの子どもでも。ジャパニーズ、一丁ずつ5発でしょうが、三八小銃が。向こうは自動操縦でこうしてこう撃って。それだけでも力が違う。こどもでもこうして撃ったです。アメリカン、こうして撃って、ジャパニーズこう撃って。武器の違いもありますよね。

たいてい向こうに付く人は一般市民ですから。それがゲリラ戦。アメリカから給料もらったり、食料などもらった人がよけい向こうに加担するわけですね。マニラ戦闘は木造立てのバラック建てのようなのはすぐ燃えるから、年中ボーボーボーボー。かけずり回って。市民が逃げんけですね、やりにくかったですたい。女、子どもでしょうが。非戦闘員まで殺すわけにはいきませんから、そういう点が難しかったですね。兵隊同士なら、お互いにさくりゅうということがありますから。一般市民まで、子どもまで殺すわけにいかないですからね。そのへんがなかなかむつかしかったですね。逃げんとですけん向こうは。もう、向こうは星条旗を作って待っているわけです。アメリカの旗振って、「たしどもアメリカの応援ばい」ってね。

小隊も中隊も「マッキンレーに撤退」ということで、そういう命令が下りました。13日にマッキンレーに行ったら、防空壕(ごう)も掘ってあるし、敵もこないし、ちょっとした療養所、病院もあるから、そこで手当てをして、モンテンルパの野戦病院まで連れてけと。そうせんと、弾薬がもう、もう破傷風で3日ですからね、ハエが多いからウジがわいて腐るわけですよ。破傷風といって一つの病菌がはいったんですよね。

ええ。30分かかったかなあ。歩いて、そうしたら「お前らは、逃亡兵だ、帰れ」って、自分の部隊の糧秣(まつ)が減るわけでしょうが。入ってきた軍隊で。「戻れ、逃亡兵とみなすぞ」と言って。逃亡兵といえば絞首刑、銃殺刑ですからね。一番軍隊で最低のなんでしたよね、逃亡っていうことは。軍人精神がはいっとらんということで、裁判ざたになれば死刑になるわけですよ。軍隊のいちばんいかんのは逃亡兵ですよ。

Q:それで戻っていったんですか?

ええ。みんな戻ったわけですよ、元気なものは。でも途中で、向こうの、機銃待ち構えていたアメリカの機銃にやられて。それで半分くらいやられて。それを二回も三回も繰り返して、減ってしまって、よけいいなくなった。わたしはちょうど小隊長を護衛して、ササキ兵曹とわたしが護衛で担架乗せて行ったわけです。途中で陸軍部隊の自動車があったからそれに便乗して、一番後尾の車に乗られなかったからよかった。危ないから後ろから3番目くらいに乗って、行きよったら、そしたら向こうは電波探知機ですね、音で、自動車部隊が行きよるのが分かって距離がわかって、攻撃してくるわけですね。それをどんどん撃ってくるから、運転手がどんどんとばして、マッキンレーまで、アンチプロカに着いたわけです。

もうそうなったら戦う気持ちはなくなって、敗残兵ですから、ただ、山入って、あとは山にこもって、食べ物から病気、赤痢とかマラリアとか病気にかからんように、あとは自分の体を守るということですよね。山にはいろいろトカゲがいたり、ヒルがいたり病気をもった虫がいますから。そういうことを考えて生活しなければいけない。まず食べるときは飯ごうがないですから、昔のコーヒー缶に針金つって、それが飯盒ですから。それに杯いっぱいの米を入れて、煮て、芋の葉っぱ入れて、それが一日の食事ですよ。

ま、無用な戦いだったと思いますね、うん。戦えっていうけど、昔の竹やりですよ、それは昔の侍戦争と一緒ですよ。竹やりじゃなんとも大変ですよね。向こうは自動小銃でこうでしょうが。日本は3発でしょ。5発が精いっぱいでしょう。うん。

出来事の背景

【フィリピン 絶望の市街戦 ~マニラ海軍防衛隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期の昭和20年1月9日、米軍は164隻の大艦隊、19万人でフィリピンのルソン島に上陸。2月には首都マニラに攻め込んだ。追い詰められた日本軍は、100万人の市民が暮らすマニラ市街で最後の抵抗を試み、米軍との激しい戦闘を繰り広げた。

陸軍は、山中への撤退、持久戦を主張したが、港を守ることにこだわった海軍は市街戦に踏み切った。沈没艦船の乗組員や在留邦人で結成されたマニラ海軍防衛隊は、およそ2万4000人の兵力で米軍を迎え撃った。

2月3日、米軍がマニラ市内に侵入を始めた。またたく間にマニラ市の中心部まで兵を進め、圧倒的な兵力と物量で攻撃し、日本軍はたちまち劣勢に追い込まれた。さらに日本軍の占領政策に反発したフィリピン人が米軍による訓練を受け、ゲリラ戦を展開。日本軍は、ゲリラの攻撃に悩んだ末、ゲリラの掃討を開始した。このゲリラ掃討は多くの一般市民を巻き添えにしたといわれる。

米軍は当初、市民の犠牲を避けるため、日本軍への砲撃を控えていた。
しかし、2月12日、規制を解除し、無差別砲撃を開始。日本兵の多くは、当時1万人を超えるマニラ市民が暮らしていたイントラムロスという要塞に立てこもった。

2月17日、米軍はイントラムロスへの砲撃を決定し、榴弾砲、迫撃砲、戦車砲を、城内めがけ一斉に発射した。
2月26日、マニラ海軍防衛隊岩淵司令官は自決。3月3日、米軍はマニラでの戦闘終了を宣言。1万6555名の日本軍兵士の遺体が確認された。しかし、マニラ市民の死者は10万人にのぼった。市民の証言から多数のフィリピン人男性が日本軍によって、連行され殺害されたと見られている。

わずかにマニラから逃げ延びた兵士たちは、フィリピン山中で飢餓と戦いながら敗走を続けた。

証言者プロフィール

1920年
佐賀県唐津市にて生まれる。
1942年
「大和に乗艦し、トラック諸島へ。
1943年
「熊野」に乗艦して、レイテ島へ。
1944年
巡洋艦「熊野」の沈没後、マニラへ。
1945年
マニラ海軍防衛隊第2大隊に配属。終戦当時、25歳。
1946年
佐世保に復員。

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