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タイトル 「抗日ゲリラとの戦い」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン 絶望の市街戦 ~マニラ海軍防衛隊~
氏名 村田 真一さん(マニラ海軍防衛隊 戦地 フィリピン(マニラ)  収録年月日 2007年6月17日

チャプター

[1] チャプター1 米軍のマニラ侵攻  02:19
[2] チャプター2 突然の戦闘  03:22
[3] チャプター3 ゲリラとの戦い  06:33
[4] チャプター4 ジャングルの退却  01:52
[5] チャプター5 戦場の記憶  00:39

再生テキスト

とにかく、アメリカが来るのに命令は、「ルソンの橋を落せ」という、爆薬つけて、工兵隊が爆薬つめて、それだけですな。

爆弾仕掛けて。

それまでにアメリカ人、兵が渡るで、戦車が渡るで爆破せいちゅうて、ほんで結局爆破して、しったったけども、アメリカすぐに、ようけい機材持っとるで、橋かけてサーッと。んな、もうリサール公園に周旋から降りてきたら、あの、みんな爆弾抱いて、戦車に突っ込んでやった。戦車が何百台とずうっと、持ったるでしょ。なんで、リサールで公園の車やとかな、戦車の残がいはたくさんありました。

燃えたよ。んなもん、そやで、マニラの町はほとんど、火の海やったですなあ。あれはもう、マッキンレーの高台から見とると、ぼんぼん、ぼんぼん燃えて。えらい、まあほとんど。


Q:燃えているのは何によって燃えているんですか?

 爆撃によって、そのいろいろな物が燃えて、ね。

今でこそ思うけど、あの頃、やっぱし命令やでな、仕方ないわな、もう。やらんだら、やられるんやさかい、なあ。かわいそうやったなあ。フィリピンもかわいそうやった、日本人もかわいそうやった、みんな。戦争はほんま、2度とするもんやないな。

何せ、バリバリ、バリバリ。もう、5日の日は朝からもうずうっと何で。夕方にはもう完全にみんな、やられとってでな。わしも3時頃に、大隊本部で治療してもろとったんや。頭と肩とな。

5日にわしはやられて、それからあの病院が、103海軍の女子大の跡が、103病院になってまして、海軍病院に。そこへ行って、そしてちょっとした手当してもろて、そしてもう、「いのける者は(動ける者)いのけ(動け)」っちゅうて。そして、タカハシ兵曹はおらへん、道で会うてな、色々、「木曽」(軽巡洋艦)の兵隊やとか、川とか夜逃げて行きましたわ。

パコ駅のときになんして、ヨコイ兵曹と、ああ、ヨコイと、兵長とムカイで、と、ワシ、2人ともダーンと迫撃砲が飛んできて即死やわな。そして班長が「病院行け」っちゅうて。あんなものツァッツァ、ツァッツァ燃えてて、熱てんなもん、水があるの見つけてはかぶって、そしてそこの病院行って。


Q:2月の、じゃ5日は? 5日の前後は本部、あの村田さんがいらっしゃったのはどこにいらっしゃったんですか?

 その、あの、103病院のはた(横)に大隊本部があって、そこおりました。そして、そこで一応、あっちやこっちの訓練、その、教えてもろたりなんか、しておりましたけどな。

いよいよ、なんで、「お前らは、部隊は、ここ何やっちゅうてヤマグチ兵、それはパコ駅、ワシらはパコ駅から100メーターくらい東の(?)のところへ25ミリの機銃を据えてそこで、短機銃を据えて撃ってましたよ。弾あるうちだけで仕舞いですわ、もう。やられて。

パコ駅でもう、バンバン、バンバン撃ってきますやろ、迫撃砲を。そして空から、観測機で機銃掃射。もう、いのいとる(動いとる)もんおったら、みんな撃ってくるんやさかいに。


Q:結構あのときパコの周りとかみなさん逃げないでたくさん住んでいましたよね?

 ようけ住んでますよ。そらおった。このな、「ええ町やのぅ」って。配置になったとき「ええ町やのう」ちゅうて、食料、いろんな飲み屋もあるし、あまとう(甘味どころ)もあるしなんて言うて。バーみたいなもんが、ようけありましたな。あの頃はまだ、日本は勝っとるけど、ま、5日までは良かったですわな。あれで、やられたのは3日や。5、6、7日でもう、ほとんど全滅やわな。

手りゅう弾を持って、川で魚取るのにな、手りゅう弾ほうり込んで。浮きますやろ、バーンって爆発したときに。それで行ったときにゲリラ、ゲリラに、集団に見つかってな。バンバン撃たれてな、こらもうあかん、いよいよあかんと思って川の中にダーッと首だけ出して。ちょうど丸1日、水の中つかってました。そして(ゲリラが)ずっと行ってから自分らの兵舎に帰った。

民家の家に行って、「ええ物をとって来い」って行って、「助けてくれー! 助けてくれー!!」ってな、殴るだけ殴って、ええ物は、たらふくとって来てな。そして自分らで食うて、酒を飲んだりしていましたけどな。

そらまあ、そんなもん、情けなかったな、ほんまに。そんななあ、泣いておったかもしらんなあ。あら、もう、あれほんまに、陸戦隊になってからのほうがな、「熊野」(巡洋艦)におる頃はみんな朗らかでな、みな仲良かったけどな。


Q:陸戦隊になられてからは?

 ああ、陸戦隊になってからは哀れなもんやったな。いろいろと。


Q:哀れというのはどうして? どういう状況が哀れと?

 哀れとはいろいろで。言うこと聞かんならんしな、命令されたらもう。食料を持って帰ってきて、偉いさんに持って行ったりな。偉いさんもぜいたくしとったわな、それで。


Q:民家がいっぱいある中で、市民の方もたくさんいる中で、そういう、フィリピンの方が巻き込まれていったりっていうのもご覧に?

 そんなんあんまりいない。そんなもの、フィリピン人、ようけ死んどった。そやから結局、日本人が殺したか、アメリカの弾に当たって死んだんか、それはわかりません、そんなもの。自分がやらへんのやで。


Q:たくさん死んでいました?

 死んでました。ほらもう、ようけ死んでました。そしたら、もうマニラの町がピャンピャン燃えとるんやしな、大隊本部に、病院行くまでに、ようけ死んでましたね。アメリカさん、パリパリ、パリパリ撃つんですから。撃ったり迫撃砲で、弾なんぼでもあんねんでな、惜しまんで。無残なもんやったな、ほんまに。

もうとにかくな、「ゲリラを見たら、皆殺せ」という命令やけどな。そらなかなか、殺すっちゅうわけになあ、やっぱしいかへんけど、よっぱどのもんやけどな、自分が危ないなと思ったことには、とにかく何にもないのやで、殺すものが。ピストルもないしな、小銃も何にもないのやで。ただ、自分たちで作った短刀とな、それから竹切って、竹やりぐらいなもんでな。それで殴ったり突いたりするんやな。ゲリラでも何でも。そんなもんやったで。

今、思うとかわいそうなことしたと、思うな。そやで、自分ら投げてきたら「ああ、こりゃもうあかんなあ」と思うけど、あの頃はんなもの、何がなんでもやるか、やらないかでな、大概わしもむちゃしてきたけどな。


Q:でもゲリラ達はきちんと制服がなかったんですよね?

 そうですな。やっぱし、民間の服やな。


Q:じゃ、普通の人もゲリラなのか?

 わからんな。わからへんで。結局むちゃやろな、もう。ほんまむちゃくちゃやわな。

今、思うと、そやな、むちゃしたなとそら思うよ。

戦争の、その、ま、あのフィリピンの戦争やとかな、いろいろとな。戦争でな、あらもう偉いさんの命令はな、絶対服従やでな。立派な軍隊の命令やで。

銃をもっとる兵隊はおるしな。

射殺な。してましたね。


Q:誰がですか?

 フィリピン人を。もう「こいつちょっと(?)だからちゅうて、殴るくらいなら殺せ」って。誰、隊長、誰やったかな。覚えないけどな。


Q:殺したんですか? 市民ですか?

 フィリピンの市民をな。


Q:それは理由はどうしてなんですか?

 理由、どうして、とにかく色んな物を盗りに行ってるとき、はむかう者がおったですよな。


Q:もう、じゃ、そのときのことを思い出すのもやっぱり、戦後、すごくつらかったですか?

 嫌やな。つらかったですよ。今でもそう、「あの頃つらかったなあ」と。収容所の(?)、こうやってな、戦犯の、C級戦犯で調べとるときに「ああ、これはいよいよおれは殺されてしまうんかな」と思た。思たけどな。嫌な夢見たけどな。

アメリカ人(?)、とにかくフィリピン人を見たら男でも女でも全然かまへん、見つけたら撃っとったな。あれ100メーターくらい飛ぶやつでな。狙わんでも。むちゃでも当たる。あれは、ほんまにそんなでもおったな。

フィリピン死んだの見たわけじゃないしな。そら他に、近寄って見たけどな、フィリピン人の死がいをな。そやけど、アメリカの軍隊の弾でやられたんか、それが撃ったんが当たったんか、わからんでな。そんなもんですわ。

Q:マッキンレーに行ったときのマッキンレーの中の様子はどう?

 マッキンレー行ったら、ようけ負傷兵おりますやろ。それで、兵曹長連れて斬り込み(きり込み)に行ったもの以外に、もう「いのける(=動ける)者はとにかく脱出せえ」ちゅって。「東海岸に潜水艦が迎えに来るで、脱出せえ」。
で、行ったけども、動けん者を頼んでクレゾールで、注射して回ると。手りゅう弾で自決して、もう動けん者はな。かわいそうに命令放ったな、かわいそうにな。

わしらもう、逃げて行くときにな、川づたい、着の身着のままでな。逃げてたけどな。

ようけ死にましたな。ほんまに、あんなもの白骨街道やったな。

わし、一緒にこうやって歩いてて、何もあれ、毛布1枚しか持っとらへんのやで、あとは量のいいちょっとした缶詰の空き缶で、飯炊いたりな、いろんな野菜取ってきたやつ、炊いたりして。んなもん、生で食ったりなんかしたら下痢でな。やられて。薬がない。

かわいそうなもんやったなあと思うな、今でも。2度と戦争を起こしたらあかんわな。


Q:今もやっぱり思われます?

 そらな。つらいことしたんは、おれが初めてじゃないから仕方ないと思うけどな。

そらフィリピン人、ようけ死んどったよ。日本人も死んどったし、フィリピン人もよく死んどった。

出来事の背景

【フィリピン 絶望の市街戦 ~マニラ海軍防衛隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期の昭和20年1月9日、米軍は164隻の大艦隊、19万人でフィリピンのルソン島に上陸。2月には首都マニラに攻め込んだ。追い詰められた日本軍は、100万人の市民が暮らすマニラ市街で最後の抵抗を試み、米軍との激しい戦闘を繰り広げた。

陸軍は、山中への撤退、持久戦を主張したが、港を守ることにこだわった海軍は市街戦に踏み切った。沈没艦船の乗組員や在留邦人で結成されたマニラ海軍防衛隊は、およそ2万4000人の兵力で米軍を迎え撃った。

2月3日、米軍がマニラ市内に侵入を始めた。またたく間にマニラ市の中心部まで兵を進め、圧倒的な兵力と物量で攻撃し、日本軍はたちまち劣勢に追い込まれた。さらに日本軍の占領政策に反発したフィリピン人が米軍による訓練を受け、ゲリラ戦を展開。日本軍は、ゲリラの攻撃に悩んだ末、ゲリラの掃討を開始した。このゲリラ掃討は多くの一般市民を巻き添えにしたといわれる。

米軍は当初、市民の犠牲を避けるため、日本軍への砲撃を控えていた。
しかし、2月12日、規制を解除し、無差別砲撃を開始。日本兵の多くは、当時1万人を超えるマニラ市民が暮らしていたイントラムロスという要塞に立てこもった。

2月17日、米軍はイントラムロスへの砲撃を決定し、榴弾砲、迫撃砲、戦車砲を、城内めがけ一斉に発射した。
2月26日、マニラ海軍防衛隊岩淵司令官は自決。3月3日、米軍はマニラでの戦闘終了を宣言。1万6555名の日本軍兵士の遺体が確認された。しかし、マニラ市民の死者は10万人にのぼった。市民の証言から多数のフィリピン人男性が日本軍によって、連行され殺害されたと見られている。

わずかにマニラから逃げ延びた兵士たちは、フィリピン山中で飢餓と戦いながら敗走を続けた。

証言者プロフィール

1927年
三重県津市にて生まれる
1942年
巡洋艦「熊野」に乗艦。「熊野」沈没後マニラへ
1945年
マニラ海軍防衛隊第2大隊に配属。カルンバンの捕虜収容所に収容される。終戦当時、18歳、海軍2等兵曹。
1946年
復員。復員後は三重県津市にて複数の仕事に従事

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