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タイトル “なぜここまで殺し合うのか” 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン 絶望の市街戦 ~マニラ海軍防衛隊~
氏名 橋本 照美さん(マニラ海軍防衛隊 戦地 フィリピン(マニラ)  収録年月日 2007年6月17日

チャプター

[1] チャプター1 一変したマニラの街  02:13
[2] チャプター2 米軍の進撃  10:34
[3] チャプター3 市街戦のはじまり  05:30
[4] チャプター4 斬り込みの命令  05:19
[5] チャプター5 負傷兵の「処分」  08:21
[6] チャプター6 撤退命令  05:13
[7] チャプター7 戦いのさなかに思ったこと  03:50

再生テキスト

Q:行かれた時のマニラの様子は、どのような感じでしたか?

 マニラは夜になったら、華やかにネオンサインがきらめいて、それからバー、キャバレーと随分派手に。これが戦争かな? と思うような感じでしたけどね。華やかに、夜も電気がこうこうとついてるし、ちょっと戦争中という感じはなかったですね。


Q:平和な雰囲気、昭和19年、まだ平和な雰囲気が変わってきたのはいつ、どのように変わってきましたか? 何がきっかけか?

 昭和19年の9月が初空襲です、マニラは。アメリカの飛行機が飛んでまいりました。9月の下旬にです。そして、その後、日本もやむなく街の中で、疑わしいフィリピンを捕らえて拷問をかけるとか、そういうこともやりました。それで、その年の暮れにはですね、日本の旗色は悪いと、かいうようなことが。軍艦は沈むし。マニラ湾の港なんかにも軍艦はかなり沈んでました。それで、だんだん旗色が悪くなって、したがって、現地の人、現地人も日本より、アメリカへというような感じがね、アメリカにつくというような感じが、強くありましたね。

2月に、ニコラス飛行場におりまして、わたしなんかが実際に、最後に敵と戦ったのは2月11日の紀元節、日本で言う紀元節。この日に敵の戦車、敵の歩兵、そういったもんが一挙に、わたしなんかのいた陣地、40~50人おったでしょうか。その陣地へ、攻め込んで来たわけです。戦車を先頭にして、向こうはね。それから装甲車がありましたが、それで、わたしなんかのおった飛行場の、その陣地に一挙に2月11日の12時半ですね、その頃、攻めてまいりまして、それで撃ち合いをやって、ほとんど、戦友はそこで死んだわけですが、わたしは不思議とに弾傷、かすり傷ひとつなく助かりましたけど。

11日まではね、あのう、飛行場内で毎日訓練をやっておりました。演習。訓練。

それでその間、敵の飛行機がやっぱり、1週間に1度くらいは飛行機が朝からね、飛行場を攻めてまいりまして、爆弾は落とすし、ま、中には戦死する戦友もおりましたけどね、はい。そういう日が続いたわけですよ。12月年末から、その、敵が入ってくる2月までですね。敵が入ってきたのは2月11日が最後だったんですが、11日の、そうねえ、1週間、10日前にはもう敵の影が、飛行場の端の方にはちらほら相当見えておりました。

わたしはね、最後に戦うときに、敵の戦車が来た時に持っていたのは、あの手記にも書いておきましたけど、手りゅう弾を2個、右に1個、左に1個持っておりました。手りゅう弾を、日本の手りゅう弾。「てりゅうだん」ですね。それで、自分としてはもう、敵と30メーター、40メーターと敵の声も聞こえてました。なんか、相当な動物のような声をだしておりましたが。それでわたしも最後に、いよいよこれが最後だなと、思って、これ以上敵が、もう20メーター、10メーターまで来たら、1発を敵に向かって放り投げて、手りゅう弾をですね。そして、もう1個持ってる、左手に持っておる手りゅう弾は、爆破して自分が死のうと、自決用ですね。1個は自決用。それで最後の1発は敵に放り投げて、残り1個で自分が自殺して、もう死んでしまおうと、そういうふうに思っておりました。


Q:でも、手りゅう弾しか逆に持っていなかったんですか?

 はい。手りゅう弾、あの、小銃もありましたけどね、小銃はもう、とてもじゃないが、ああいう、たいして兵器としては力のあるもんじゃありませんし。手りゅう弾だけです。

米軍がね、だいたいあの、歩兵、向こうの歩兵がずっと伏せて、攻めてきたんですがね、彼らは小銃ですね、小銃の弾があの中に1回で2、30発入ってるんでしょうかね。それをもう、やみくもに彼らはバラバラー、バラバラーっとこう、種まくようにこう、撃ちながらね、攻めてきておりました。それと側面からね、彼らは迫撃砲、これはね迫撃砲というのは、おそらくアメリカのも、そうだと思いますが、長さが20センチぐらいのこういうキュウリのようなね、ナスのようなわりと大きなもんですが、それを撃ってくるわけですね。それは破壊力、相当あります。当たったらまず、ダメですね、はい。それを彼らは、さかんに側面からはね、それをどんどん撃ってきて、それから正面からは、彼らの歩兵がね、ずうっと何十人か、こう、散開してしてね、日本を攻めてきたと。そういう格好ですね。それから一番前には戦車が先頭をきって、彼らはまいりましたね。

12時半ですね、正午。正午にですね、敵の戦車はずうっと我々の目の前に、2、300メーターぐらいのとこまで飛行場の広い草っ原ん中をね、攻めてまいりました、戦車が。そして、倉庫も3棟、4棟ありましたがね、その中に敵は、兵隊が隠れてるし、戦車をいちばん真ん前にたててね、ずうっと攻めてまいりましてね、それで敵の歩兵なんかの声がね「ウォー、ウォー」いうようなね、動物の鳴く声みたいなんが随分、聞こえました。そして、これがいよいよ最後だなと、それで自分は1発ほうり投げて、1発は自分の自決用にと思って手りゅう弾持って。それまでにできるだけ機関砲とか、機関銃とかね、鉄砲撃ちました。敵、めがけてね。あまり効果がなかったんですけどね。そしてとうとう、12時半ごろでした。あれにも書いておりますがね、12時半頃に自分の時計を見たと。12時半、12時半。空はどんより曇っておりましたがね、それでハラハラッと、スコールは降ってきたりして。いよいよこれは敵がもう、声が聞こえてるんですからね、いよいよこれは最後だなと、思って、自分も決心したというかね。ただ、やっぱり死ぬ間際もそうでしょうが、両親の顔なんかも、思い浮かべましたね。そして、「長い間20年間、親にもお世話になりました」と言いました。ほんとに。だけども、これでいよいよ終わりになりましたと、人生はね。終わりになりましたと。ありがとうございましたと。そういうふうな感じで、じっと伏せてね、敵の動くのを見とったわけですよ。それで最後は飛行場の中ですが、ゆるやかな斜面でそこを敵の戦車が、まっ先に敵の戦車。そのあと歩兵が、何十人かずうっと伏せたままに来て、それでグーッと、こう敵の戦車が音を立てて坂を登ってきました。それでいやあ、いよいよ来たなと。しゃあないと、こう思って。

もう、戦争には、ケンカにはなりませんね。はい。もう兵器という点からいけば、何も日本が勝てそうなものはなかったですね。日本は小銃で、小銃はあれ5発ずつ弾入れるんですよね。その小銃と、手りゅう弾が、運が良ければ手りゅう弾を1~2個持ってたという程度ですね。それで、それ以外にね、余談ですけど、日本はあの、飛行場の周辺にね、高射砲の陣地を作っておりました。日本の高射砲。これ、高射砲は15センチとか20センチぐらいの弾が出るわけで、飛行機を撃ち落とすんですがね、この高射砲陣地は飛行場の周辺に何か所かありましたね。それで敵を撃って。最後はそれを兵舎に向けて、平らに向けて、敵の戦車をめがけて撃ったりもしたが、あまり効果はなかったですね。

日本とこれじゃあ、戦争にならないなと。そうですね、まったくこれじゃ戦争にならんと。もう自分の身の処し方、最後にね、いよいよとなったら、これをほうり投げて自分も死んでしまうだけだと、そういうふうに思いましたね。ただ、ギリギリになってからは、やっぱり親兄弟とかね、友だちの、学校の友だちとか、色んな人の顔は思い浮かびましたね。それこそ走馬灯のごとく、いろいろ昔のことがね。思い出しましたね。いよいよこれで、オレも23(歳)で人生終わりかと思いましたね。涙、出ましたよ、ハラハラっと。思わず、スコールじゃないけど、自分もこれでいよいよ人生、終わったなと思ったら、それで親兄弟、世話になったなあと、こう言いましたよ。オレの人生もこれで23、24歳で終わったと決心しましたね。

ホソブチっていう隊長がおりました。その隊長がですね、伏せとったら、最後にわたしの目の前2、3メーターに彼は伏せとったでしょうか、それで「橋本、危ないぞ、さがれ!下がれ!」っちゅうてね、そのホソブチ少尉でしたか、彼、言いました「橋本、危ない! 下がれ! 下がれ!」って言いましてね、わたしも、おめおめ下がるわけにも行かないしね、伏せとったわけですがね。そうこうしよったら、ホソブチ中尉もね、いよいよ最後に、自分もこれダメだと、もう逃げれないと思ったんでしょう。そんでホソブチ少尉はわたしの目の前4、5メーターのところに伏せておりましたがね、「橋本! 下がれ! 下がれえ!」言うてね、僕に言ったか思ったら、自分でピストルをね、自分の持ってるピストルを耳のこの上ね、当てましてね、自分の。パーンと撃ったですよ。自決したわけです。そしたらそのホソブチ少尉の体がね、地上から1メーター、1メーター50くらいでしょうか、飛び跳ねましたね。パーンとこう、ピストル撃った瞬間に。それでパタッと、こう横になったままでね。鬼のような顔でしたよ。血がね、さかのぼって。そういうふうな顔になってね、パタッと倒れてしまって、それで僕はね、「ああ! 小隊長死んだなあ」と、困ったなと思ってね、なんか遺品でもないかいな、と思って、そのピストルだったらいいだろうと思って、ピストルをね、のこのこ僕、取りに行ったんですがね、もう、弾は飛んで来るし、危なくてしゃあないからね、もう、それはそのままで、僕は下がって行ったんですがね。それが、ホソブチ少尉の最期でしたね。

それで辺りを見たら、もう生き残っているのは3~4人ぐらいでしたね。あれにも書いておりますが、この三田にね、イシマっていう、兵長の人がいたんですがね、そのイシマっていう兵長も「橋本! 下がれ! 下がれ!」言ってましたけどね、その兵長も、腹を撃ち抜かれましてね、敵に。それでわたし、そのイシマ兵長の所まで行ってね、「どうしたんですか! 元気、元気出してください!」っちゅうって、こう、僕は揺すったんですよ、体。そんで「ううん」って言うしね、これで腹をね、こう開けてみたら、こう千人針をね、ずうっと巻いて、その千人針の間を弾が抜けてね、血、出血でずうっと、千人針が染まってしまいました。そんで、これはねえ、女の人か彼女か、誰か知らんけど、これだけね、千人針を縫ってくれたのを、とうとうこれでダメか、死んでしまうのかと、そういうふうに思いましたね。助けようがないと、腹を射抜かれたらね。ケガでも手なんかをこう、ちょっとやる程度ならいいけど、お腹なんかすぐ弾が突き抜けたもんだからね、どうにもならんし。そんでわたしはね、そん時にのけのけとね、その兵長の傍らへ行きましてね、イシマ兵長のとこ。ベルトをね、抜き取りましてね。兵長がしとった。それで、そのベルトはね、わたし最後まで持って帰って、戦後、遺族に会ってね、「これが遺品です。こういう時のベルトです」言うて、渡しました。ちゃんと。渡しておきました。

それ以外はね、いよいよこれ、陣地を見ても、あと2~3人しかいなかったわけですよ、戦友が。もう陣地内50人の兵隊がね、2、3人しか、もう自分も含めて残ってないし、「しかたがないなあ」と。「じゃもう、やはり下がるか」と。大隊の本部、本部があるとこまで下がって行こうと、自分ではそう思ったですね。

もう、敵の声が聞こえてるんですからね。「ウォー」いうような声が。姿も見えとったですよね。2、30メーターのところにね。敵がちょっと、こう顔を出したりしよる。「ウワァー」言うてなんか知らんけど、どうせ英語でしょうけどね、そんな声が聞こえてるし、敵の。敵も必死ですよ。「ウワァー」言うてね。最後の、最後のそれこそ声を振り絞って彼らも攻めて来とると思いますが。

斬り込み(きりこみ)はね、毎日やってましたよ。マッキンレーからも。マッキンレー、あの、ニコラスの飛行場でもそうですがね、斬り込みというのは、また日本的なんでしょうね。日本精神、軍人精神なんでしょう。ほんとね、だからマッキンレーでもありました。あの「今夜の斬り込み隊長はね、誰だれだ」と。部下何名、部下10人も率いて今夜何方向の敵を、斬り込みをかけて来いと、そういう命令が出るわけです。上官から。ほいじゃあ、今夜、おれの番か、おれが死ぬ番かと思うけどね、しゃあないし、それで、あの、斬り込みはもう、全くこう、体には重いもんは一切、持たずにね、身軽にして、鉄砲と刀1本ぐらい持てりゃいいほうで、身軽になってね、それでそのままで、夜になって「斬り込みに行きます」言うて、出て行ったわけです。斬り込みいうのはね、僕は斬り込みやった事、無いんだけど、あの、やった状況なんかから、判断するとほんとに日本人はあの刀を持って、敵のテントの中ね、寝てるアメリカに斬りつけて、突っ込んで行ってやるんですよ。中にはね、大隊長なんかが「おまえら、アメリカ人に斬り込みやったとか、何とか言うけど、証拠はあんのか」と、こういうわけですよ、大隊長がね。証拠もなくってね、斬り込みやりましたいうて、どういうこっちゃいうて、怒るわけです。いよいよ最後になったら、こう斬り込みして、敵の持ってた、それこそ何かね、敵の遺品でも持って帰って、「このとおりでございます」言わならんですよ。そういう状況。斬り込みはほんとにね、華々しいのは、だから、敵の横になってるテントに飛び込んでいって、やって、差し違えで死んじまうんです。

夜ね、夕食が終わってから、「今夜の斬り込みはどこの方向だ?」と、「今夜の斬り込みは隊長が誰で、あと部下は5名率いて、5名は隊長が選定、選べ」っていう。ほんなら隊長が、生き残った者の顔を見て、「おまえ」「おまえ」「おまえ」と。それで、持って行くものは、そういうわけで、日本刀1本か、銃を1丁か持って。それだけですよ。身軽に。余計なものは持たずに。

マニラの戦争のときは「ニコラス飛行場で斬り込みを」というにやられて、何人かで夜ね、飛行場周辺の敵を攻める。実際のとこね、行ってから、こう刀でこうやる以外、手がないでしょ。そこまで、接近できないです。アメリカ人はね、彼らも怖いんですよね。歌うたったりね、口笛吹いたりしてますよ。ピストル、自動小銃をね、彼らの自動小銃ちょっと短いですが、あれ持ってね、こう調子のいい口笛こう吹いたりしとるけど、日本人がおるなと思う方向へ来たら、機関銃をね、バリバリー、バリバリーっとね、こう無差別にね、撃ってます。日本人がこの方向、おるやろという方向へね、バリバリー、バリバリーっとこう、自動小銃撃って、そんでこう口笛でね、なんか歌うたいながらまた帰って行って。そういう状況で。斬り込み言うてもほんとにね、ええー!! って(刀を振りかざすマネをする)やったのもおりますよ。おるけど、なかなかそこまでは、あの、接近できないです。接近する前にね、そういうわけで、こう無差別に、こう鉄砲を撃ってるしね、近寄れないですよね。


Q:それで、近寄れなくて、斬り込みに行って近寄れなくて帰っても、別に大丈夫なんですか?

 はい。それは。

Q:「何やってるんだー!」みたいなの、ないんですか?

 はい。それは「ゆうべ、何名、隊長以下5名行って参りました!」って。「戦利品なし!」それで。隊長にもよりますが「ご苦労!」いうそれで終わりですわね。

マッキンレーはね、「そこへ行け」と。大隊長が言うから、行って。マッキンレーで、行ってみたら、もう病人も相当、収容してるんです。あの洞くつでね。あの洞くつの中ね、1万人ぐらいは入れるだろうと、いうように言ってましたけどね、上官は。

マッキンレーの状況はね、1万人ぐらいは入れるだろうと思って、わたしが入って行ったら、あそこはね、トロッコ、細い線路のね、トロッコがありましてね。そのトロッコで、弾薬やら食糧を、トンネルん中、運搬しよったですよね。それで、わたしなんかが行ったら、病人や、もうそんな人ばっかしでね。もう倒れたベッドでうめいたり、うめいとると。何か知らんけど。中にはね、調子のいいのがね、上官で。歌を歌って踊ったりしてましたからね。何人かいましたよ。やっぱり。その中、あの中でね。この戦争のね、激しい中で「何だ、歌なんか歌って、遊んでやがる」と、こう思ったんですがね。死んだほとんどの人がそういうわけで病気、けがしてね、ベッドなんかでうめいてましたね。大勢。

かなり、だから何千人もいたんじゃないですか。日本の兵隊が。引き上げてきた兵隊がね。

悲惨な状態ですよ。ベッドの上に横になってね、けがして、動けんような人ばっかしでしょ。それでね、その時にあれ書いてるか、どうか知らんけどね、これも申し上げにくいんだけど、軍医がね、軍医がね、注射をね、して、残った息絶え絶えの日本人なんか、みんな注射で殺していったわけですよ。軍医が。もう助からん、動けん、動けない日本の兵隊ね。昇こう水かなんかの赤いような、あれ劇薬でしょうけどね。あれをね、軍医がね、ずうっと回って、生き残ってるか、息絶え絶えの日本人に、注射して回ってましたよ。それで僕も、軍医をちょっと見たらね、「どや、おい、あれまだ生きてるか?」っちゅうて、軍医が言ったりしてましたね。「いや、まだです」いうようなことを当番が言ったりしてましたけど。そして、軍医が回って息絶え絶えの病人は、半病人は注射で殺していったです。あの、マッキンレーの洞くつの中で。軍医もまあ、どういう気持ちだったか知りませんがね、「まだ生きてるか?」っちゅうて言ったりしてましたよ。洞くつの暗い中でね。


Q:それをご覧になったとき橋本さんはどういう?

 そうですね。もう、助けようがないしね、軍医は、軍医いうたら、だいたい大尉とか少佐でしょ。階級で言えば相当な人ですわ。だけど、注射針でこう、殺していったのは、まあね、戦争って悲惨だなと。特に、負け戦はだめだなと思いました。勝たなきゃだめだなと。負け戦は悲惨だな、残念だなとそればっかし、思いましたね。残念やなあと。


Q:その注射されて死んでく方たちを、じゃあ、遠めでご覧になったと。苦しんで、もうすぐに亡くなるんですか? 注射をすると?

 ええ、いや、やっぱり時間かかります。ちょっと。すぐは死にません、注射だけで。注射打ってもね、やっぱりどうせ昇こう水かなんか、消毒液かあんな薬なんでしょうね。注射針、突き刺してね、腕でやってましたけど。軍医はね。ええ。それは苦しんでます。もう、こんなんなったりしてね。ベッドの上で。それは決して、笑顔じゃないですよ。それはもう病人、生きるか死ぬか、手足が飛んだりね、してるそういう病人ですからね。中にはうわあっと、こんなんなって死んだりしてますわ。


Q:その時、順番にされてくわけです?

 ええ、まあ軍医が見ててね、寿命のあんまりなさそうなんから殺していったんでしょうけど。


Q:じゃあもう注射されるときは殺されるって、わかってるんですか?

 それはわかるでしょう、本人はね。そういう軍医ももうこんなとこ見て、ブスっと注射針の大きなやつでやるんですからね。


Q:それは「やめてくれ」と抵抗する?

 そんな抵抗してるのは、僕は気が付かなかったですね。軍医はむしろこう見て、やってね、「まだ向こうは生きてるかあ?」とか言うたりしながらやってましたね。


Q:それはなぜ、殺していく必要が?

 そのまま日本人の兵隊を置いといたら捕虜になるしね。捕りょとして日本人が残るわけです。日本人は、日本は昔から捕虜になるんなら、死んだ方がいいと、軍隊の精神そうですよね。だから、捕虜になるほどだったら殺してくれ、死んだほうがましだ、そういう軍人精神ですわ。だから、決してみんなも生きようとは思ってないでしょう。もう、殺してくれていう。


Q:あの暗い洞窟(くつ)ですよね?

 暗いですよ。だから1万人ぐらいは入れるだろうという、僕らそういうふうに聞いてますが、トロッコも走りましたからね。80階段という段がですね、上から下に降りる階段が80あったんです。80階段。あの階段をずうっと下りてね、また弾、担いで上あがったりしましたけどね。80階段言うたですよ、確か。

もう、地獄さながらです。もう、かわいそうだけど、しゃあないなあと。他に方法がないっていうね。助けようがないし、どうにもならないでしょ。だからマッキンレーはそういうわけで。あそこにも僕は、だから、洞くつの中入ったり出たりして、何日くらいおったのかなあ、10日ぐらいおったかも分かりませんね、僕は。マッキンレーの洞くつにね。戦後も1度行ってみましたわ。

上官なんかは極端に言うとね、あの中で歌うたって、踊ったりしよったの、どういう兵隊だったか知りませんがね、いましたね。もう、やけっぱちでしょうね。もう、人生半ば、おれももう、明日死ぬかも分わからんから、やけっぱちでウイスキーとかね、ウイスキーはわりとありました、残ってましたから。それ、飲んでたらもう、とにかく、ばか騒ぎしてワーワーやって終わり、という。

あの、洞窟(くつ)を引き上げたのはね、いつだったかな、18日かなんかね。それでいよいよね、あの前の日ですか、大隊長がね、ここを明日の夜8時にね、「明晩の8時にこのマッキンレー洞窟を引き上げる」とみんな。それから「シギノ湾経由東海岸のほうへ行くんだ」と、それで、みんな残る弾薬、鉄砲や兵器はね、「処分せい」と「明日の夜はもうここ引き上げるから」と、そういう命令が出ましてね、「兵器、弾薬は全部処分せい」って。


Q:何で引き上げることになったんですか? 状況はどうだったんですか?

 状況はもう、アメリカの攻撃が激しくって、マニラの町の中には、だいたい米軍の兵隊が入って来ると戦車もまあ、ありますね。戦車も兵隊もたくさん入ってくるでしょう、それでいわゆる占領されるわけだから、もういれなくなるっていうか、日本にはね。逃げなきゃ、しゃあないわけですわね。マッキンレーに集結したんですがね、集結したんだけどマッキンレーにも支えきれない言うか、敵が盛んに攻めて来るわけですから。そら、戦車から大砲、飛行機で爆撃、大砲、そういうふうになってくるからもう日本に支えきれない。逃げるより手はないと。


Q:マッキンレーの中でも、攻撃によって亡くなる方も出てきたんですか?

 「今日はね、お前ら今日10人出て、マッキンレー、ここマッキンレーを上がってね、東の方向のどの辺りを偵察してこい」と。敵がおるかいないか、偵察してこいと、そういう命令が出るわけです。偵察に行った、斥候に行ったときもね。命令が。それで行ってから、やっぱり、まずけりゃ、弾に当たって死んだり、とっ捕まったりします。敵にね。ま、捕虜になったり言うのはそう経験ないけど、とっ捕まってね、それはありましたよ、どうしてもね。あれが3月半ばだったかなあ、マッキンレーを撤退して、撤退してバシグという、川渡って、それからシギロ湾(?)ってとこ行って、そっからずうっとそのまま、東海岸の方へ出ていったわけですけどね。

その日はね、もうあの前の日にね、明晩の8時を期してここを撤退すると、日本軍は撤退する。撤退したらバシグという川があそこ、ありますから、その川を渡ってからね、さらにシギノ湾から東海岸の方へ行けと。隊によって多少違いますがね。前の日に、1日前だと思います。撤退の命令が出ました。それで我々は、その明晩の8時を期して、ここを撤退しろと。命令だから。そしてそこを撤退。その撤退の夜、8時なら8時にね。それでその時にね、さっき申し上げましたように、軍医なんかは、半病人は全部、注射で殺したりしたわけですよ。「食料等で持てるものは持て」と。「片足ない者は杖でもついてね、歩ける者はついて来い」と、歩けん者はもうダメだと。そういうことですね。それで海岸を、バシグという海を、深い川でしたけどね、そこまで夜のうちに行って、そしたら工兵隊がね、舟をつないでくれてね、ずうっと川に。それでこの橋、舟を渡ってから、向こうの岸へ行ってくれというんで。それで、つないであった舟を渡って、我々は反対側の川岸に行きました。

やっぱりね、マニラでわたしは敵の姿を見ながら撃ってね、撃ちあいもやりましたがね、その時、やっぱりひらめいたのはね、なぜ人類はね、なぜ人間はこんなにまで、殺し合いをしてね、戦わねばならんのんだろうかっていう、それがね、頭をよぎりましたね。何とかしてね、話し合いによって解決できないんだろうかと、なぜ人間はここまでしてね、殺し合いやってまで、戦わねばならんのんだろうかっていう。その考えがね、弾が飛んでくるとき、さなかに僕、非常に焼きついてますね。人間同士、なぜ話し合いで解決できないのかと。こんなにまでして、殺し合いせなならんもんかと。それは感じましたね、それは、ええ。なんとかね、人間は話し合いによって、解決すべきだと。こんな殺し合いでね、問題は解決しないんじゃないかって。と、いうことは痛切に感じましたね。

そりゃ、壕(ごう)の中に入っとってね、迫撃砲弾なんかがシュシュシュシュシュ、ドーン、いうてね、2~3メーターの範囲に弾落ちてきたり、小銃の弾でもね、プスップスーッっちゅうて、こう近くにね、砂煙立ててこう、落ちるでしょ。飛んできます。だから、そんなん見とる体験をしたらね、とにかく、なぜ戦争するんだろうか、なぜ、話し合いによって人間がね、解決できないのかと、いうふうには思いましたね。どんなことあっても、話し合いによって、人類は解決すべきだと。戦争は否定されなきゃ、いかんっていう。それ、弾が飛んでくる中で、そういうふうに感じましたよ、僕は。

やっぱりマニラでこう、敵とやってるときにね、ある友達が僕はハッ! と思ったらすぐ2~3メーター横におったんがね、死んだから、もうビックリして僕もね、にじり寄ってこう見たんですよ。そしたらもう、鉄かぶとはパーンってあれ弾で飛んでね、それでやっぱり、血が流れてましたよね。それでなんか口でボクボク言っているんだけどわからない。そんなん見たらやっぱりね、「おい、どうしたんだ? どうだ? 元気だせ」ってこうね、やったりもしましたけどね、とにかく、どう言えばいいのかなあ、まあ一言で言えば、やはりこの聡明な人間は、話し合いによって解決すべきだと。戦ったらいかんと。もうそう思いましたね。戦争して、とにかく話し合いによって、人間は話が通ずるはずだと。そうすべきだっていう。

出来事の背景

【フィリピン 絶望の市街戦 ~マニラ海軍防衛隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期の昭和20年1月9日、米軍は164隻の大艦隊、19万人でフィリピンのルソン島に上陸。2月には首都マニラに攻め込んだ。追い詰められた日本軍は、100万人の市民が暮らすマニラ市街で最後の抵抗を試み、米軍との激しい戦闘を繰り広げた。

陸軍は、山中への撤退、持久戦を主張したが、港を守ることにこだわった海軍は市街戦に踏み切った。沈没艦船の乗組員や在留邦人で結成されたマニラ海軍防衛隊は、およそ2万4000人の兵力で米軍を迎え撃った。

2月3日、米軍がマニラ市内に侵入を始めた。またたく間にマニラ市の中心部まで兵を進め、圧倒的な兵力と物量で攻撃し、日本軍はたちまち劣勢に追い込まれた。さらに日本軍の占領政策に反発したフィリピン人が米軍による訓練を受け、ゲリラ戦を展開。日本軍は、ゲリラの攻撃に悩んだ末、ゲリラの掃討を開始した。このゲリラ掃討は多くの一般市民を巻き添えにしたといわれる。

米軍は当初、市民の犠牲を避けるため、日本軍への砲撃を控えていた。
しかし、2月12日、規制を解除し、無差別砲撃を開始。日本兵の多くは、当時1万人を超えるマニラ市民が暮らしていたイントラムロスという要塞に立てこもった。

2月17日、米軍はイントラムロスへの砲撃を決定し、榴弾砲、迫撃砲、戦車砲を、城内めがけ一斉に発射した。
2月26日、マニラ海軍防衛隊岩淵司令官は自決。3月3日、米軍はマニラでの戦闘終了を宣言。1万6555名の日本軍兵士の遺体が確認された。しかし、マニラ市民の死者は10万人にのぼった。市民の証言から多数のフィリピン人男性が日本軍によって、連行され殺害されたと見られている。

わずかにマニラから逃げ延びた兵士たちは、フィリピン山中で飢餓と戦いながら敗走を続けた。

証言者プロフィール

1920年
広島県福山市に生まれる
1944年
第131部隊要員としてマニラへ。
1945年
マニラ海軍防衛隊第3大隊に配属。終戦当時、25歳
1947年
復員。復員後は広島県福山市にて三菱電機に勤務

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