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タイトルタイトル: 「生きものなら何でも食べた」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~
名前名前: 茂木 利一さん(第1師団 戦地戦地: フィリピン(レイテ島)  収録年月日収録年月日: 2007年12月1日

チャプター

[1]1 チャプター1 死を覚悟したレイテ行き  02:17
[2]2 チャプター2 上陸直後猛攻撃を受ける  07:12
[3]3 チャプター3 44日間の戦闘でコメを一粒も食べなかった  05:44
[4]4 チャプター4 生き物はなんでも食べた  08:11
[5]5 チャプター5 陣地を固守せよ  05:30

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~
収録年月日収録年月日: 2007年12月1日

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どこにもみな敗れているんだから。もう、今で言う、何て言うんですか、まぁ、いちばん・・・山本長官が戦死した場所、あすこまでのを見ているんだから、あすこまで日本の兵隊が行っておって、それから順次押されてレイテ島に逃げてきたんだから、日本の兵隊は。レイテ島までみな来たわけでね、日本が押されてきて、レイテ島に。それに行ったんだから、つまり山本長官があれだけの距離を制圧したものの、あそこまでレイテ島まで、フィリピンの・・・状態にわたしども本拠にいたんだから、なおさらその死ぬということを、死というものを意識してしまっているわけ。「今度はあと、無事に帰ることはできないんだ」というふうに全員意識してしまっている、そういう状態なんです。

要するにはよ、兵隊だって、兵隊だって神様ではねえから、生きた人間だからにしてよ、みんな同じですよ。もう、死というものが覚悟されているもの。頭の中に閃いているんですよ。あとは死なねばできねえ、国に帰ることはできないということはよ、あそこのレイテ島に向かったときにすぐにもうみんな同じような状態になってしまっている。これがその兵隊、軍人というもののやむをえない宿命であったんですな、あれは。

とにかく11月の2日の晩、行動開始したんですよ。そして1晩中行軍をして、レイテ島を北に向かって前進したんです。そして3日の夜が明けた。夜が明けたから一晩歩いたから、一晩行軍したから、小休止をやったわけ。つまりそこに一服ついだわけ。連隊がざーっと叉銃という、銃をこういうふうに叉銃というものを敷いて、そこでみんな休憩をしたんです。

休憩をしたところ、すぐそのころからお日様が出てきたんです。ちょうどそのころ、合図したように、アメリカの飛行機ロッキード、双発双胴飛行機が3機現れた。3機ばーっと。「あっ」と、すぐ兵隊は銃を持って3機にはいた。ところが飛行機の銃撃なんていうものは話になりませんよ。一斉に機銃をダダダダダダダッと。そこでもう開戦になる。戦争が始まって。

敵の飛行機が来て、銃撃を始めたんです。銃撃をわが国も始めたんです。それで、だから兵隊は全部ばーんと下向けになって、みな伏せの状態だね。それでわたしもこういう状態で伏せておったんです。

ところが、ここ、最近まであったんですけども、これを撃たれているんです、だっと。それでこうなっておった。これがもうちょっと、もう10センチこっちに来たら、脳天をやられた。だから生きて帰ったということも、ちょっとしたところの差で弾がまぁ、思うには、まともに当たらなかったということです。ここに、最近まで傷あったんです。

Q:他にでも戦友の方とかは、運悪くその攻撃を受けて亡くなった方とかいたんですか。

「敵機現る」という伝令が入ったんです。ところが、ものの数秒もたたないうちに敵機が現れたんです。現れて、最初に落とした爆弾が第2中隊長の脳天に当たった、中隊長の。中隊長がどこにいたか分からない。そして、その後の爆撃も・・・よ(銃撃もあるでしょ)。兵隊もあそこで戦死した人はいくらもおりますよ。あのぐらいの空襲を受けながら、まともに砲弾が当たって戦死したというのは、恐らく20、30人ぐらいあったんでしょう。ただ、まともに吹っ飛んだのは、2中隊の隊長、これはもう姿も何もなかった。吹っ飛んでしまって。

Q:初めてですよね、そういう米軍の飛行機の攻撃を見たのは初めてですよね。

初めての戦闘。第1回目の戦闘でそういう戦争を受けた人だ。

Q:それ、見たときどう思いました。初めて米軍の飛行機を見てどう思いました。

何と申しましょうかな、アメリカの飛行機のその優秀な射撃の姿、攻撃の姿、爆撃のしかたというのは日本の飛行機のやり方と違うなということはみな感じるでしょうな。

わずか20分、15分から20分ぐらいの間であったの、その(向こうの)爆撃は。・・・(戦死した人)は幾らもいなかったんでしょう、あすこには。

Q:でも、日本の味方の飛行機は助けてくれなかったんですか。味方の飛行機はそのとき助けてくれなかったんですか。

くれなかったね。ちょっとこう、ちょっと止めてもらいたい、冗談言うから。

みな一斉によ、「あらっ、日本の飛行機も来るんだろう」と瞬間的には思ったんでしょう。思ったんだけど、日本の飛行機は一機も現れない。レイテ島のあの1か月間の44日という、わずか40日間の戦闘で日本の飛行機というのは一回も現れない。あれだけのアメリカの飛行機が集団を組んでやってきているんですよ。日本の兵を爆撃、砲撃、銃撃も加えるんだけど、日本の飛行機は一機もこなかった。これで戦争が勝てるかなとはみんな思ったんですよ、我々は。そんな状態なのに。

それが地上戦では、これは鉄砲撃てば、1発撃てば1発なくなる、10発撃てば10発なくなる。兵隊の持っている弾なんて50発か60発しかないんだから、1発撃てば1発なくなる、2発撃てば2発なくなるんだ。食料もなし。もう3日の日、襲撃を受けて、4日と5日とぐらい1週間と持たないうちに食料が全然なくなってしまった。ほんだからその間、戦争が終わるまで、日本兵は食料から離れてしまった。

全然補給はなかったの。57連隊、シマノ連隊の1人の兵隊が歌を書く、歌詞だな、歌詞を作るのを仕事だった。その人が歌を作ったんですよ。44日、44日のあの戦闘で、コメ一粒も食わなかった」という、そういうやつの歌を作って、今、現在、おれ持ってるんでね。「44日の戦闘でコメ一粒も食わなかった」という、歌の文句があるんです。それだから、要すればその間、何を食って生きたかと。何を食って生き長らえたかというと、要すれば、向こうの住民の作ったさつまいもであるとか、あるいはなナスビあろうと、トウガラシであろう、そんなのは一滴も出てこないは。それだから日本の兵隊は塩分が全部・・・されて、肉断ちより・・・(生きた地獄の)あるごとくだと思います。

Q:塩分が足りない兵隊さんってどういう状態になるんですか。

想像してください。見たもんだって、人の顔なのに見るのもよくねえすよ。人間の顔色してねえですよ。みんな・・・あってもよ、ふっふっふって。今、身落とすような、そんな状態です、みな兵隊は。恐らくはおれ一人だけじゃなくて、偉い人はじめ、下士官兵に至るまで、ごはんなど食べた人はいないでしょう、恐らく。補給が来ないじゃない。ということは、レイテ島は決戦場と言われたのを知ってますか。

Q:はい。

レイテは決戦場です。10万の兵力失ってよ、生きて帰った人は800名ですよ。800人が、帰ってきて、そういう状態の戦争であった。おれは今、生きてここに帰ってきて、90歳まで生きているんだけども、自分の身を不思議に思うぐらいだ。あんな状態ですよ。

上陸と同時に食料の補給がなかった。携帯口糧というものがあるんですよ。コメ6合、乾パン3袋、これが兵隊の食料であった。その携帯もって、船から持って下りるときに持ったコメ6合と乾パン3袋以外には食料が全然補給がなかった。アメリカの捕虜になって初めてコメの飯をごちそうになった。

だから11月の3日の日、上陸して、戦争が終わるまで20年の8月の23日まで、その間が全然食料の補給がなかった。アメリカの捕虜になって初めて何かをご馳走になった、こういう状態なんです。

Q:ものが食べられないのに戦えるんですか。

戦えないんですよ。戦えないから、逃げて回る。そうすれば(おそらくは)、これは一介の兵隊がこんなことを言っていいか悪いかわからないけれども、恐らく10万のレイテ島で戦死された方が10万人おると、10万おると。恐らく5分の1、5分の1ぐらいは弾で戦死されたか知れない。あとはみんな渇してた。食料がなくて、倒れて死んだんだ、戦死されたの。恐らく10万の1000、2000、いや、こういうことを偉い人に言ったらよ、これはとんでもないことになると思うの。恐らく弾で死んだ兵隊より食料がなくて飢えて死んだ兵隊が多いと思います。

生きているものは何でも食べたと、こういうことでしょう。例えば、夜、寝て、倒れて寝ておる。カサラカサラと何かの音がする。というと、人間のまなじりが変わっちゃうね。はっと思って手をやると、イナダコンのヒナを捕まえたり、あるいはカエルのヒナを捕まえたりするわけ。そういう生きているものは何でも食べたです。煮たり、焼いたりして食べたらまだもういい。生のまま食べるんですよ。そうして食べれて、食べた人は生きて帰ってきた。「そんなイモリや、ヤドカリなんか食えるか」というような状態で食わない人は死んだ。何でも、何でもあるものを捕まえて食べたという人が、つまり健康な体がそうだから、何とかかんとか生きてきたと。草の根であろうが、木の実であろうが、あるものであれば何でも食べたと、こういう人が生きて帰った。
 だから、これ、生きて帰った人もあと時間の問題。あと何ぼそれが続いたかと、こういうようなのが。

Q: じゃあ、食料がね、ないと分かって、初めて口にしたものって何だったんですか、その支給されたものじゃなくて。

 食料をもない。腹へって。昔からよく言う話があったでしょう。腹がすいては戦争にならんと。腹がすいては戦争になりませんよ、これは。つまりその歩きながらでもよ、夜、歩きながらでもよ、あるいは寝ておって何かの音がしても、それに手をやって食える人、生のままですよ、かぼちゃであろうが、・・・いもであろうが、人がよろよろよろよろとこう歩いているときに、ぱっぱっぱと行って掘っているんですよ。いもを掘って食った人、あるいはそんなナスをもいで、生のまま食えた人は生きてきたと。「そんなもの食われるか」と、こういうような人は結局無事には帰ってこなかった。こういうことなんです。
 いちばんおいしかったのはよ、やっぱりさつまいも、こう当たり前の野菜、さつまいも、ナスビ、あるいはナスビの茎、さつまいものつる、それから何だ、野菜ものは、つまり野草であれば、食われたもの。ミズ、フキ、ああいうものもみんな食べたんです。食べて歩けるようにしたのが生きてきた。「そんなもの食われるか、このばか野郎」と思って歩いていた人は結局、無事に帰れない。
 それで、また死んだ人を見ればよ、まぁ、戦死した人だけを見ればよ、ほとんどが皮までやせ細った人が鉄砲ももう持っていることができない。体弱々しくなって、何もなくても倒れるんだよ、こういう状態なんだ。それがそのレイテ島の戦争の末期がそういう状態なんだ。
 それで、それから川に行くと、どこにも小川があるからな。その川に行くと、何かいるんですよ。イモリ、知っているでしょう、イモリ、イモリであろうが、ヤドカリであろうが、それから何だい、食べ物にいいものはいちばんかみつかないようなもの。これは煮て食うような余裕はないんですよ。生のまま、生のまま食べたね。食べれた人、食べれることができた人、これが今、帰ってきている人のすべてにあると。
山にいるんですよ、向こうの山に、ヤドカリが。夜寝てるというと、カサカサカサって音がするんですよ。「早くおれのそばに来てくれればいい」と思って、見ているんですよ。来たのをびっと。捕まえるのにいいんですよ、あれ、のろいから。それを捕っているんですよ。こういうふうにまわっている、ヤドカリの形であれば、それを反対にこう捕まえて、こうねじると、くるっとむけるんですよ。くるっとむけたのを全部がよ、全部片っ端からかじる。爪も何もみんな。

Q:どんな味がするんですか。どんな味がするんですか。

そいだば、味なんかわからんでしょう。カエルの味もよ、イモリの味もみんな同じですよ、あれ。口の中、ばかになっているんだ、あれが。ヤドカリがいちばんおいしいですよ。
おれ一回、だいぶこう何ていうか、深いようなところがあったものな。そこさこうやってはってな、何かいないかなと思って、一発持っていた自分が最後にいよいよだめだと思ったときに、「この一発で死のう」と思った手りゅう弾、手投げ爆弾、その手りゅう弾を一発持っておる。それをあれの長い、川のちょっとしたふちがあったから、深いところに投げたわけ。ところが水の中だからブーンて。バーンと言わんで、ブーン、これで終わりなんですよ。
 ところが浮いてきたのがウナギが上がってきたんだ。それにひとりで2つ分。そのウナギのうまさというものは、今の考え、・・・あまりおいしくて。その川のそばに行って、ちょっとしたふち、手りゅう弾ボンと投げて、ダーンと音がすれば、これ、日本兵ってすぐわかるから、川の中でプーンって。浮き出てきたのがウナギやった。このくらいのウナギが上がってきた。それ1つずつ捕って煮てよ、皮をむいて食べた。おいしいこと、今でも忘れられないぐらいおいしかったですよ。

11月の26日にとてもこれだけの兵力では20人や30人の兵力では戦争も戦いもできねえんだから、大隊長は兵隊のさ、残った兵隊を皆殺しにしたくなくて、その陣地を引き上げして、ひと晩かかって。もう息できないほどだ、今。言っていいのと・・・それ・・・よ。
・・・あんなのはや、おれのはドラマがあるのも、それだけ聞いてもいいんだ。

陣地を引き上げたもんだ。そして、翌朝、連隊長のとこまで行ってね、連隊本部まで引き上げてきた。そしてヨコタ大隊長が「部隊長殿」ヨコタ大隊はといい始めたわけ。ところが「貴様、命令を何と心得る。戦場離脱の罪だ」ということは、戦場離脱の罪になるということは、戦場から離れて、陣地を離れた、逃げたという罪に問う、ということは、戦場離脱の罪というのは、軍法ではいちばん重い罪なんだ。必ず銃殺にさせられるという。

ところが連隊長は「戦場離脱の罪に問う。部隊長自ら銃殺してやる」って拳銃に手をかけて、拳銃をこうやって向けたらしい。そこにいるやろう、大隊長は。「戦場離脱の罪で」って、こうやってやったきゃあ。

ところが脇にいたクラジマっていう中尉が、「いや、部隊長どの、銃殺だけは止めてくれ。直ちに引き返して敵の前で勇ましく戦死してもらって、どうか銃殺だけは止めてくれ」って願ったのは、クラジマっていう中尉。あすこにも写真がある。それに「止めてくれろ」って、「銃殺だけは止めてくれ」って、銃殺だけはということで。「はい」、そして当番と2人で、当番というのはその偉い人の小使いだ。小使いを連れて「お前方は別令あるまで現陣地に待機せよ」と。ことばわかるか。わからねえだろう。「お前方は」、兵隊たちはということだ、「兵隊たちは別令あるまで」、別の命令があるまで、「ここにおれ」と、そう言い残して、そのヨコタという大隊長と当番の2人、そこから回れ右して引き返したの。

おれらはやぶに隠れていたの。その間を利用して部隊長、ひょーってぶっちゃかれた。パロンポンというどこさ向かって、それで大隊長はそこから「はい」って引き返して、だらだらだらだらと涙こぼして。大隊長はわしらを守って、戦場さ。ところがものの20分、30分と・・・かった。バンバンって拳銃の音が2発聞こえた。それはヨコタ大隊長が撃ったのか、自分に撃ったのか、撃たれたのか、それは誰も見た人はいねえ。いねえども、そのバンバンという銃の、拳銃の音はみんな聞いて、覚えているのがおりますね。

出来事の背景出来事の背景

【フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~】

出来事の背景 写真昭和19年10月中旬、マッカーサー率いる20万の大軍がフィリピンに接近、上陸地点はレイテ島が選ばれた。レイテ島は、日本軍にとっても5つの飛行場がある重要な軍事拠点であった。
10月、太平洋戦争中最大の誤報がレイテ決戦の決行につながった。米軍機動部隊はフィリピン侵攻の前哨戦として台湾を空襲。迎え撃つ日本軍との間で激しい航空戦を展開した。ほとんど戦果はなかったにもかかわらず、海軍が報告した米機動部隊撃滅の大戦果を大本営は鵜呑みにし、昭和19年10月20日、レイテ島で一勝をあげることで和平につなごうとしたのだ。
昭和19年11月、1週間で勝てると言われた第1師団がレイテ島に上陸した時点で、既に制空権は米軍の手に握られ、米軍機が次々と襲いかかってきた。また、米軍の上陸直後から猛烈な砲撃を受けた。短期間の戦いを予想して十分な物資を持たなかった兵士たちは、すぐに食料・弾薬が尽きてしまった。
さらに兵士たちに過酷な命令が下された。限られた武器を手に敵陣に突っ込む「斬り込み攻撃」である。次々に兵士たちの命は失われていった。

食料や弾薬を運ぶはずの日本の輸送船は攻撃され次々と撃沈され、レイテ島の日本軍は孤立。生き残った兵士たちは食糧を求めて、密林をさまよった。

第1師団上陸から50日あまりたった12月21日、大本営はついに、レイテ島の放棄を決断、兵士たちに転進命令が下る。米軍が上陸していないセブ島で再起を図れというものだった。しかし、セブ島に行くために用意されたのは、わずか4隻の小型艇。第1師団1万3000人のうち集結地点にたどり着いた兵士は2600人。船に乗れなかった2000人はレイテ島に置き去りにされ、米軍とフィリピン人ゲリラの掃討にあい、全滅していった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1917年
秋田県由利本荘市にて生まれる。
1941年
24歳で徴集。秋田の第8師団歩兵第17連隊要員として中国・黒河省に派遣。
1944年
第1師団歩兵49連隊に転じ、レイテ島に派遣。当時、27歳、兵長。
1945年
セブ島で終戦を迎える。

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