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タイトルタイトル: 「毎晩行われた斬り込み攻撃」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~
名前名前: 椚 恒雄さん(第1師団 戦地戦地: フィリピン(レイテ島)  収録年月日収録年月日: 2007年12月

チャプター

[1]1 チャプター1 満州からレイテへ  03:21
[2]2 チャプター2 襲いかかる米軍の砲撃  11:45
[3]3 チャプター3 壕にいっぱいになった遺体  05:13
[4]4 チャプター4 斬り込み  03:36
[5]5 チャプター5 同じ部隊にいた従兄弟(いとこ)も斬り込み攻撃に向かった  04:51
[6]6 チャプター6 転進  05:54
[7]7 チャプター7 マラリア  07:08
[8]8 チャプター8 生還  11:54

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~
収録年月日収録年月日: 2007年12月

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Q どういうきっかけで知ったんですか。

上海へ行ってからです。ほして、あの、現代は中国ですけど、昔のあのペイアン(揚培安)に行ったのも、今、ウカイ橋のたもとのウカイさんという料亭があるけど、そこの社長が兄さんと同期で、ほいで、兄がやっぱり満州にいて、シベリアのあそこの国境にいたんです。そしたらそのウカイさんの社長が家へ来て、入隊するですから19年の3月の15、6日頃来てくれて、ほして、初めて知ったんです、これはペイアンという所へ満州に行くんだなと。
 で、そこへ入隊して1か月訓練を受けたら、今度はわたしが連隊本部へ転属になったんですけど。ほして、上海、最初は南京にちょっと寄ってそして上海へ行ったんだ。そのときに初めて、大体「レイテ」という言葉は知らなかったですけんね、フィリピンへ行くことは知ってたんだ、で、フィリピンへ行った。

Q どうやって知ったんですか、フィリピンに行くって。

船が来るから、迎えにね。で、船に一度は乗ったんだ。上海のウースンという港から。ほして、乗って1週間ぐらい行ったらまた戻ってきちゃったんだ。そしたら、米軍の潜水艦か何かがいて、危ないから引き上げてきて、ほいで、そこに少しいて、そして、また、船に乗り直して。

今度は海軍の護衛艦でレイテへ入ったんだ。ですから、もう1週間以上遅れていたんだね、皆さんよりは。
 そしたら、そのなんていう、上(上陸)がったらもう、戦死するとこう南方の、っていうか暑いせいか黒くなっちまうんですね。(戦死者が)道路にズラッと並んでいて、並ぶって横にされていて。

Q その黒いっていうのは。

あの、みんな戦死してる人たち。「あ、これはすごくやられたんだな」と思って、まだそういう時には実感がわからない。それからその夜、行軍に入ってから砲弾が落ちてきたので、初めて、「あ、俺たち、戦に来たんだ」って感じがしたんだ、最初はだから怖かったです。

大きい負傷して、泣きながら歩いている兵隊もいたし、それで、火炎放射器であおられているところの兵隊などは、こう裸で体中が大きな火脹れで、泣きながら歩いているし、まぁ、惨めですね、ああいうのを見ると。
 まぁ、火炎放射器なんか、浴びせるほうはいいんでしょうけどね。もっとも、向こうも自分の仲間がときには亡くなる。だけど、あんな火炎放射器で吹いたり、何か、いくら銃で撃っても間に合わないやね、日本の。だから草むらの中が、ちょっと混んだような草むらがあると火炎放射器を吹き込んでくるんです。

とにかくメチャメチャに撃ってきますね、砲撃が。もう音はひっきりなしに落ちる音がする。それが5分10分じゃないんです、何時間もこう。よく向こうでもそれだけの弾薬あるなと思うぐらい撃ってきた。
 だから、あの連隊長が亡くなったあの2日間なんていうものも、やっぱり同じような撃ち方された。もう暗いような、その谷を下りるときなど暗いような所だったけど、もうそれから何時間もしないうち、すっかりこのように明るくなってしまう。木そのものも何もなくなるようにやる、砲撃を。

Q 丸裸になっちゃうんですか。

そうです、丸裸になる。

Q それどうやって隠れてりゃいいんですか、そういう時は。

いや隠れるっていうよりね、もうとにかく、エンピって背負ってますよね、スコップの小さいの。それで少しこう掘るんです、もう歩兵の時には。ほして、少しでも体を低くするとか。で、大きな木があればそこへ駆け足で行って、その根本へ行って少し掘って自分の体を低くすると。
 その後は、もう今度、行軍していくと、「ここで今晩―(交戦)」という時には、もう急いで自分が入るだけの穴を掘るんです、ええ。でも、その乾いた土でないからね、ずーっと(雨が)降ってばっかいた当時だから、それでも穴を掘って身を隠す場所がないと砲撃を受けたときには、もう、直撃を受ければね、それだけでー。
 弾の破片がすごいんです、唸って飛び歩くので、「ブーン」って近くの場合になると。ほして、あの破片が、まるでビンをこう割ったような鋭い、こうあれしてるんだ、それが飛び歩くんですよね。だから、あの破片でほとんどやられてしまうんですよね。
 だから時に、多い時には50人、100人くらいがパサッと亡くなるし。

悲惨だったのは、やっぱし、ああやって砲撃で1つの中隊が全滅するぐらいの砲撃、戦わずにして亡くなるような砲撃が、向こうは砲撃がすごかったですけれども、あのようなことが多かったですね。だから砲撃された後に行くと、もう本当に兵隊さんが折り重なるようにして亡くなっていくんです。まぁ、レイテはそんなふうなのが最初は多かったですね。あれ、もっと助ける方法もあったんでしょうけれども、でも、わたしたちみたいな兵隊はとにかく「進みなさい」って言えば進む、「戻ってらっしゃい」って言ったら戻って、もうやっぱり上の人の号令一つでどっちにも動く、これが軍隊の定めでしょうけれども。

Q その砲撃に自分の周りでもどんどんみんな亡くなっていくわけですよね。

そうです。

Q どういう感じなんですか。

いや、もう感じって言うより、もう頭が何ていうかね、もう無視されているような、もうモヤーンとしてるっていうか、一度砲撃を受ける、そして急いでそこを出る。出るとき途中を見ると、大勢の戦死者がいる。「ああ、ここでもこんなに戦死者が出ちゃった」と思ってまた行くと、また同じことを繰り返していく。まぁ、わたし、指揮官だったらもっと違って、いや、これはいろんなことをしとって、楽しい生活をしてしまったからもっと変えてと思うけど、あのころはそれが普通になっていたんですね、当たり前みたいに。だから「死んでも前へ進む、死んでも前へ進む」っていうような。

だって、戦わずにして亡くなった戦友がたくさんいますもの、砲撃がひどすぎて。ほして、あの偵察機みたいな、まぁ、わたしたちは「観測機、観測機」なんて言ったんですけど、2枚羽の真っ黒の飛行機が、ほんとにヤシの葉、少し上ぐらいの所を、低空でこう飛ぶんです。で、あれが一回りされると必ず砲弾が落ちてくるんだ。だから下のほうにこう、「絶対に動くな」って言ってもみんな動かずにジーッと草の中へ潜ってる。
 ほうと、あの観測飛行機が飛ぶ、ほうすると、ジッとして見つからなけりゃ飛行機はまた向こうへ飛んでいくんです、「あ、これでホッとした」って。それが2回目も回るとダメなんだ、必ず砲弾が落ちてくる。だから、上からこう観測されているっていうような。あれには、本当に悩まされたです。
 だから音がすると、ほしてまた、あの飛行機が向こうでも高い所から飛んでこないんです。近くに来て初めて音を聞くんですね。あれ、高い所を飛んでいれば音が早く聞こえるんだけど、近くなってきてからブルンと来るから慌てちまう。まぁ向こうも、それが一つの作戦でしょうけどね、あの飛行機には本当に悩まされてしまった。
 だから、昔の軍隊だったら、高い所からこう、向こうに敵がいるからって測量して、そして、どのくらい離れてるなんてこうやったんでしょうけど、あれが近代戦っていうか、もう飛行機で上でこう誘導するんですよね。で、そこから向こうの砲兵陣地かどこかに連絡して、そして砲弾が落ちてくるんです。だから、あの米軍がそこに来て撃つんでなくて、向こうの方に待機してるのがこう飛んでくる。

敵でもね、来て撃たれてドンドンやってじゃなくて、砲撃が多かったですね、砲撃で戦死した人たちも。だからあの三ツ瘤(高地)から下がった時が、あれが、わたしの記憶では12日頃だったんだけど、そのときなんかもやっぱりあのヤマモトの負傷の時だけど、背負って、夜が明けちまって山ん中うまく歩けなくて。こう、坂が、木は倒れてる穴ボッコロで。そして、夜が明けてきて見たら、川の縁にダーッと折り重なるように倒れていた。
 ほして、「あ、これは通信隊だ」と思った。通信の輪っかが、胸にぶら下げていたり、背中に背負ってたりしたから、「あ、これは通信隊がやられたな」と思った。ちょっとこう見ただけでは、100人ぐらい死んでるんじゃないかと思うぐらい、折り重なってて。
 ほしたら、夜が明けてから通信の曹長が負傷して、それに衛生兵が1人ついて、ほいで兵隊が5人ぐらい、そのどこかで避難して、ほして、上がってきて、わたしたちはその人と一緒になったんだけど、そのときには。
 だから、あの砲撃が、そう、何時間ぐらい続いたんでしょうね。やっぱり3時間くらい続いてましたかね、砲撃が。ほして、暗くなってから川の縁を移動し始めたんだけど。わたしたちは、まぁ一緒に連隊には付いていかなくて、彼をおんぶしてる、ほいで、マツナガと3人で、まるで山のなかへ取り残されたようになって。
 そしたら、また夜明けに砲撃が始まって、そして大きな木の所に3人でジーッとそこで落ちつくまで待ってた。ほしたら、夜が明けて、見たらそれがダーッと倒れて、まぁそういうような戦死者が多かったですね。

ええ、リモン峠がいちばんの思い出です。リモン峠は師団司令部がリモン峠の下にいたんです。だからどこへ行っても、552高地のほうに行っても三ツ瘤高地へ行っても、わたしたちはまぁずっと初年兵でしたけど、ほうすると亡くなったシキシマのニシヤマさんとか、いつだかテレビに出てましたね、キクチさん。あの人もとは「ナカノ曹長」なんちゅったんですけどね、あの人たちの護衛で命令受領に行く場合、師団司令部へ。
 ほうすと、わたしたちの先輩が2人ぐらいついて、ほして、初年兵のわたしたちが誰かが1人ついて3人で、曹長の護衛で命令、貰いに行くんです。ほして、師団指令部がリモンにあるからリモンへ下りてくるんです。そうすると、大体リモンまで行くに1日かかって。

リモンへ下りたときにマツナガが頭へ負傷して、そして第4野病(第4野戦病院)へ連れていくようにつって、連隊にも、軍医さんはいるし、みんないるんだけど、サトウさんなんかも、箱は背負っているけど中に医薬品は何も入っていない。だから三角巾一つ、みんな持ってない。
 ほして、第4野病へいって行ったら、何にもやっぱり手当て出来なくて、三角巾だけをこうやってくれて。そしてあの驚いたのが、そこに、きれいなテーブルがあったので、「あれー戦争している?」何か、錯覚起こすような情景だった、ええ。
 そして第4野病から帰ってきてその話をフカヤ少尉に言ったら、そしたら軍医さんが、「この下の方に、そのときも名前なんか全然知らないんです、わたしたちは、これから大体10キロぐらい歩けばそこにこういう病院があるから」って、で、それからまた下がっていったんです、暗くなるのを待って。
 そしたら、そこに、ものすごく兵隊さんが横になっていて、原住民のハウスのその2階と下に、向こうのハウスは縁の下が高いようなハウスで、上に住まいがあって下はただ柱だけというの、そこにぎっしりいて。そのあそこに、後に、本なんか見ると、2大隊の隊長の田村少佐がそこに負傷して入ってたらしいんですけんね、そんなこと知らなかった。 そしたら、その明くる夜明けに米軍に襲われて、もう米軍がすぐ目の前に来ていて、そして急いでリモンへ戻ったんです、みんな。そして川へ下りて川を横切るときに、水が深かったんです、ものすごく。そしたら、「こんなに深いんじゃ下(流)へ行こう」っていって下行ったら下の方がもっと多くて。ほしたら、戦死者がぎっしり川の中へ浮いていたんだ。だから、それがそこに詰まっていたから水が増えてっちゃったんですよね、そんなふうな状態もありました。

Q 野戦病院はどんな様子だったんですか。

野戦病院なんて、ただ病院って名前だけのこと、何も手当てがないんです。ほいだから、負傷者はただそこで寝ているだけ。まぁ死を待つだけってこんでしょうね。もう、野戦病院にもその包帯布一つないんです。まぁそれだけ早く負傷者が多かったっちゅうこんで使い切っちゃったんでしょうね。

大きな壕へこのぐらいの広い壕を、土掘った中に、戦死者がこういっぱい埋まっているんです。それであれば病院まで来た人が亡くなる。あれは、他で戦死した人を連れてきた場所じゃない。あそこまで負傷した人、病気した人がその病院までたどり着いて、そこで亡くなるっていうことでしょうね。だから壕にいっぱい入っていた。

飛行機の特攻隊と同じです。 10人ぐらいの編成で米軍の中へ飛び込んでいく。そうして誰も帰ってこないんです。これでも毎晩毎晩そういうことを繰り返して。だからあっという間にもう兵隊の人数は減っていく。

Q なんで帰ってこなかったんですか。

いや、みんな、米軍だって銃で撃ってくる、日本人も銃を持ってその米軍の陣地へ飛び込んでいく。だから、そこでもうほとんど戦死して戻れない、ま、決死隊ですね。だからどのようにしてあの斬り込み隊なんていうのがこうなっていったのか、とにかく、毎晩斬り込み隊というのはあったんだ。
 もう10人ぐらいの編成で銃を持って相手の陣地の中へ飛び込んでいく、もうこれは死ぬ覚悟で飛び込んでいく。まぁどのくらいの損害を与えたか、まぁ損害っていうよりは米軍の恐怖心を煽るほうが多かったんでしょうけどね、その効果をねらったんでしょうけど。

Q どんな武器を持っていったんですか。

いや、日本はもう武器なんかないんです。あの38年式のあの銃(三八式歩兵銃)しか持ってない。あと持ってるのはあの手りゅう弾を腰に2発下げてるだけ、ええ。だから、銃を1発撃ったって、向こうのほうは自動小銃でバッと撃ってくる。だからその中へ銃を持って、だから肉弾戦ですね、だから白兵戦みたいなもの。
 まぁ米軍も驚いたでしょうけどね、夜中に日本軍が銃剣をつけて飛び込んでくるんだから、だから、何人かの米軍の犠牲は出ても、日本の方のが多かったでしょ、戻ってこないんだから、それだけを向こうに犠牲に行くんだから。斬り込みでも帰ってくるんならね、これもいい効果になるけど。でも斬り込み隊っていってなのが、毎晩斬り込み隊ちって。

あのまま転属(連隊本部に転属)なくて1中隊にいたら、やっぱしカリガラ海岸で亡くなっていたかもしれない。だからあのレイテ島のあの本を読んでも、やっぱりわたしたちの班長の名前があれへは載ってるけど、やっぱり斬り込みで亡くなってる、カリガラ海岸っていう所で。だから、どこかその近所に、わたしなんかもいたかもしれない。

うーん、とにかくみんな、「あ、行くな」っていう感じだったんですよね。だから、わたしの従兄弟がやっぱし、ちょうど、あれが12月へ入ってまもなくだった。(従兄弟が)偶然、連隊本部の所に来たんです。それでその時に、わたしは、命令受領の護衛でリモンへ下がるとこで、ほして、そこで5分や10分話ししたんだ。それで、持ってるタバコをみんなに与えて、6中隊がそのときに30人ばかり来たんです。そして、みんなでタバコを、ほかの戦友からもらったりなんかしてタバコを皆さんにやって、ほし、別れて。明くる夕方、わたしたちは命令(受領)の護衛に行った、で、帰ってきたんです、三ツ瘤の山へ。
 そしたら、「6中隊はもうみんな全滅だよ」って。あれが最後の残った兵隊で、ほうして斬り込みに入ったそうです。ま、従兄弟たちも、どんなつもりで入ったか、まぁこれは分からないけど、ほして、6中隊はもう全滅しちゃった。

Q タバコを渡すときはどういう会話をしたんですか。

ああ、あの、みんなね、「あ、うまいな」ちってのむんですよね、もう何日ぶりかで、みんなタバコふかしたんでしょうね。こうして、だからみんなの集めてね、連隊本部の人に「お願いします、お願いします」って貰って、ほして「この頭へ入れとくといいよ」ちって、ほいで鉄かぶと、話もしないですよね、ああいう時になると。
 ほして、「お互いに気をつけような」っていうことだけは言って別れたんです。ほいで、まだ、そこに6中隊がいる間に、わたしたちは護衛で師団指令部へリモンのほうへ下りていった。そしたら、あした、もう夕方帰ってきたら、誰も残ってなかった。
 まぁあの頃の、なんていうか、特攻隊のあの飛行機と同じような気持でみんな行ったんでしょうね。まぁ陸軍は銃をただ持って飛び込んでいくだけだけどね、まぁ白兵戦と同じで。まぁ行った人たちは、うーん、まぁ悲壮な気持で入っていったと思いますね。もう死が目の前にあって飛び込んでいくんだから。

 そして一番身近な戦友が戦死すると、ものすごく悔しくなるんですよね。相手のこう自分たちに歯向かう、あの当時は米軍だけど、みんな殺したいくらいの気持になります。「なぜ戦友をこんなに殺すんだ」っていうようなね。とにかく、悔しい、悔しいが先に立って、別に自分が、こう、例えばわたしが結婚して田舎に妻があるなんていう、そんなことがあっても、きっと飛び込んでいったかもしれない。仇(かたき)討ちじゃないですか。これは日本人の性質ですかね。だから身近な人が死ぬと、戦死するとものすごく悔しくなっちまうんだよ。だからもう、「よーし、俺が行って仇をとってやる」というような気持になっちまうんですよね。

 だからそのセブへ行くときにも、最初は、「パロンポンに敵前上陸」なんていう噂が出て言っていたんだ。ほいで、「そこに行くには決死隊を募る」って、言っていたけど。わたしたちはそういうあれがなくて、もうとにかく、嫌でも一緒に軍旗と行かなきゃならない。
 ほいでだから、あのカンギボットの時に、山をあれ3日くらい、夕方海岸へ出て、ほいでずーっと一晩中待っていて、ほいで、船が来ないからまた山へ引き上げる。そういうことを繰り返しててやっと船が来た。ほして、最初の船にあの連隊長、ほして、師団指令部の岡林参謀長が先頭になって乗って、軍旗もだから一緒に入れてもらった。
 だから、あの最初の2艘へは49連隊が最初乗ったんだ。ほいで、途中まで船が行ったときに初めて岡林参謀長が言ったんです、「これからセブ島に行って弾薬を補給して、ほいで弾薬・食糧を補給したら、あの隣の島にネグロス島っちゅうのがあるんだ、レイテの隣に、そのネグロスに米軍が今築いた飛行場があるから、そこを爆破するんだ」ちって、ほいでセブ島へ「弾薬補給だ」ちって、入っていったんだ。
 だけど、また敵前上陸かなと思ったけどそのときは米軍はいなかったんです、そこの上陸地点には。そしてそれが2艘の船で、毎晩のようにレイテに残った兵隊さんを、きょうは49連隊が連れてきたから、あしたは歩兵1連隊を連れるという、そういうふうに毎晩毎晩通っていたんだ。
 ほして、何日かたった頃、米軍の哨戒艇みたいのがずーっといつも警戒してるんだ、昼間は。それに発見されてあっという間に撃たれてしまって、船が沈んじゃったんだ。それで今度は輸送が中断しちゃったんだ。

大体、「セブ島」なんて島の名前も知らなかった。初めて聞く名前だったんだ、セブ島っていうのはね、わたしたちは。

Q それ何て言われてたんですか、一般の兵隊の人たちは。

ああ、んだから、皆乗って、船でまた敵前上陸のオルモックに上陸したときと同じような状態だっていうような頭があったんですね。最初レイテの海岸に上がった時と。また米軍がそこに待ち構えているんじゃないかっていう感じの。ところがセブの場合は、あそこ米軍がちょうどいなかったんです、ほいで、セブ島の場合はゲリラが多かったんです、ゲリラ的な。ほいで、まぁ無傷みたいに上陸できたんです、セブには。

Q それなぜ隠さなきゃいけなかったんです。

ああ、あれは何か作戦のあれがあったんでしょうね。だから、もしセブ島へ動くなんていうことをレイテの海岸でそれを言っていたら、きっと2艘くらいの船であったら、みんな先を争って乗れなくなっちまうんじゃないですか、あとでそう思いました。
 49連隊だって500名近くカンギボットへ移動してるんだから。それがたった200何名乗っただけですから半数しか乗れなんだ。ほして、そこへ1師団の兵隊さんが全部カンギボットへ集結していたんだ。だからその1師団の兵隊が、「船が来てセブへ行く」なんて言ったらこう、われ勝ちになっちまうんじゃないですかね。
 それとも、階級別で上のほうの階級の人だけが乗って、わたしたちみたいな兵隊が置いてけぼりになったかそれは分かりませんよね。でも、全然名前も知らなかった。船の上で岡林参謀長が、「これからセブ島に行く」って、初めて「セブ」という名前聞いたんです。

だからあの、「決死隊を募る」なんて言ってほら、やったかもしれませんね。「パランポンへ逆上陸する」っていうことは言ってたんだ、ほして「決死隊を募るんだ」って。だからわたしたちは本当にそういう「パロンポン」という所も初めて聞いた名前だったんだけど、カンギボットより少し離れた所にそういう港があるんだけどね、だからそこへ行くとばっか思ったんです。そしたら逆にセブへ動いたんだ。

セブの奥まで行ってセブ州より先のほう行ったら、これはジャングルがものすごいひどい所で、そこへ行ったら今度はマラリアをわたしも起こしちまって、マラリアやってた人がずいぶんいたんです。

Q マラリアってどういう具合ですか。

辛かったですね。こう時間が来ると、例えば、今朝10時だら10時、ほうすると明日もまた10時頃、必ず起きるんです、時間が決まって。ほして、最初は寒くて震えるんです、もうガクガクガクっていうぐらい。それがしばらく続くと今度は暑くなるんです。今度は軍服を脱ぎたいぐらいに暑くなる。それでも行軍して動かなきゃなんないわけ、みんなの後をついて行かなくちゃなんない。だから、行軍しながら銃を担ぎながらガクガクガクいってる、震えて。ほうと、今度は、しばらくしていくと今度は暑くなるんだ、ほして「暑い暑い」って言いながら、ええ。そうですね、ずいぶん何日もやりましたね。

Q そんな辛い思いをしてまで先に一緒に行かなきゃいけなかったんですか。

ええ、それは部隊が1つの、49連隊というものが動けばやっぱりそれと一緒に動かなきゃなんない、もう落伍したら死ぬと思ってました。

Q なんで落伍したら死なないといけないんですか。

いやあの、助かる方法がないですもんね。だから、よくみんなこうアメさんとやるときには、「絶対に負傷するな」ってよく言うんです。亡くなるなら一発でパーッと死んだほうが楽ですね。だけど負傷すると部隊と一緒に歩けないから落伍して、落伍すれば自決するっちゅうことがもう分かってました。

Q なんで自決しなきゃいけなかったんですか。

いや、米軍に捕虜になるのが嫌だったっちゅうことですよね。もっとも、そういう教育を受けてましたからね。「絶対に米軍に捕虜になってはいけない」。だからその米軍に捕まる前に、その捕まるっていって、普通でなくて負傷してもう動けないからそうなるんですけど、それでももう自決する。
 だからあの、連隊長が亡くなったときなどは、自決者がずいぶん多かったんです。砲弾で負傷する、石和のカトウさんなんていうのもやっぱしそうだったんです。ほいで、「手りゅう弾をくれ、手りゅう弾をくれ」つってみんなのとこ歩いて、ほいで、手りゅう弾だってもう尊い、わたしたちも1発しか持ってないし、余分に持っている人はそんなにいなかった。それでも誰かがあげたんでしょうね。ほしたら、下のほうでボコンちゅう音がして終わってた。

もうマラリアをしながらの行軍で、「もうここへ置いていってくれ」って思った。だからあの、大草原を越えるときなど、一晩中歩かなきゃならなくて休憩なしで歩く、その前にマラリアはしてる、ほして、「ここで残ります」って言った。
 そしたら昭和村のカンベさんに怒られて、「銃を捨ててもいいから這ってでもついてこい」って言われて。「銃など、ほんな、戦がまた米軍と当たれば、銃なんか落ちてるから銃を持たないで歩いてこい」って。ほしたら、その夜は少し歩いたきりで行軍がそこで止まったんです。だから、あれで本当に命拾いみたいにさしてもらった。もう死ぬほうが楽だと思った、この歩くよりは。
 お腹は空いてひもじい思いをしながらとにかく歩くことだけ。だから逆に、わたしたちコヤマ軍曹が、八代の人ですけど、やっぱり負傷してそして「残る」って言ったときに、「軍曹歩きましょう」ちって、歩いたんですよ。でも、結局それから3日ばっかたったときに、連隊長と一緒に戦死してしまったけど。
 みんな、もう、あそこ行くと兄弟以上になってる、ええ。もうですから、誰が死んでも本当に悲しくなりましたね。もう、あそこのあの兵隊の絆っていうのは、こう、なんとも言えないあれで結ばれてますね。

Q そのお仲間は、なんで椚さんに「銃を捨ててでも来い」って言ってくれたんでしょうね。

いやぁその、ここへ残って死ぬよりは生きろということでしょうね、もっと先まで行こうっていって、まぁ励ましてくれたわけで。

Q ここで落伍してしまったらということですか。

ええ、落伍すれば、わたしもそこで手りゅう弾を抱えてね、終わるつもりでいたから。だから「いや、とにかく銃なんか要らないから一緒に歩いていこう」ちって、言ってくれて、そして、みんなと一緒に歩いたんだ。まぁその後、そんなふうにして、まだまだ何人か戦死者は出るんですけどね。互いにそんなこと言って励まして歩きましたね、お互いに。

みんな、これで、行った人たちが、例えば半分でもいいから帰ってきていれば、もっと違っていましたね。でも、自分の知っている範囲の人はほとんど亡くなっていますもの。だからもっとも、その向こう行ってから帰ってくるのを、随分、家族なんかは待っていたと思うよね。
 だから、惨めな戦っていえば本当に惨めな戦。「こんなにまで亡くなってしまう」とはね思わなかった。もっともレイテだけではなくて、他の島でもずいぶんこういうことはあったようですね。

Q 同じ村からも行った人で、帰って来られたのは、帰って来られた方いるんですか、同じ村から。

いないです。それで亡くなった人が22人ですか。それで、同級生が7人ばかし亡くなった。そして、わたしの実家のすぐ近所に2人、レイテで亡くなっている家もあるんです。兄さんと、あの弟の方がわたしと同級で、それでその人は兄さんも一緒に行って。だからうちの部落で、田舎の、今は町に名前なっているけど、家族2人戦死っていう家が2軒あるんです。イシハラカズエなんて、これは同級生で、その人の兄さんも一緒に亡くなっている。だからレイテ戦で亡くなった人は、だから、わたしも墓参りに行ったときにそう思うんだけど、お寺さんの入口必ず大きいか小さいかの墓標みたいなの立っている。そうするとレイテ戦で亡くなっている人が、みんな書いてある。「ああ、ここでもこんなにも亡くなっているか」と思いますよね。

わたしは墓参りはしても、その亡くなった家へは行ったことなかったです。だからヤマトさんなんかもそうだし、自分、連隊本部へ入ったのは、初年兵で入ったのはヤマト、そして・・・マツムラと、わたし、あとは幹部・・・こっちは幹部候補生でしたからね、ムラカミだとかツキタが一緒だったんだけど。だけど町の名前は消えています。だけど家族構成は知らない。でも亡くなったからせめてお墓参りぐらいは行って、何回かは墓参りに行く。でも家族にすれば病気でもしてね、「どこか病院で、今、現在いますよ」とか、「仕事の都合で遅くなりますよ。近いうちに帰ってきますよ」とか言って、その家へ寄るんなら、元気に寄れるんです。だけど「こうやって亡くなりました」なんていう話はできなかったです。 だから、お寺さんだけは行って線香だけあげてくる。これも自分の気休めかもしれないけど、そうして、ほうぼうを探しては、住所の分かる人だけは探して、そして歩いた。でも家族の家へ「こうでした(亡くなったのは・・・)」って言ったのは、ミヤモトさんだけだ。ミヤモトさんのほうは家へ向こうで来たから、まぁ、いろんな話をした。そしてお互いにお付き合いするようになったんですけど。他の人は、まだ、全然、会ってないんです。

Q 何で遺族に会えないんですか。

遺族の家ですか。いやあ、本当に、例えば、負傷してでもいいからもう帰ってきていればいいけど、亡くなった話だと、かわいそうでできませんものね、お父さん、お母さん、兄弟には。ただ、「帰ってくるのが遅いですよ」って言うのだったら元気よくね、「近いうちに帰ってきますよ」って言って行けるけど、「もう帰ってきません」の人の家へはね、どうしても行けなかった。だから、今もって、そういう家へ帰っては行ったことないです。

Q それはその死んでいった戦友たちのどういうことを思うからですか。

ああ、やっぱり一緒には帰りたかったです、それは。そしていろんな話がこうすれば、それはよかったけど、周りの人がみんな亡くなっちまっているから。
 49連隊でもっともっとたくさんの兵隊さんが残っていてくれたら、もっと違っていたかもしらんので、考えが。あまりにも少なすぎる。

まぁ、こんなこと、わたしが引きずって終わっていけばそれでいいと思っている。だから、遺族のそういった亡くなった家だけは、ほとんど行ったことがないもの。墓参りは行きます。これは知っている範囲はできるだけ墓参りはしたいと思って。
 でも、その家庭によって帰ってきただけ、もっとたくさん帰っていれば別ですけどね。少ない人間が帰ってきて、そして「こんなふうに戦死していました」なんて言うと、またみじめで話せないですよね。
 普通、戦死すれば、中国戦線あたりだとみんな火葬にしたり、埋けたりはしたそうだ。もうレイテ戦は、もう亡くなればそこに置きっぱなしで行く。もっとも、そんな余裕もなかった。だから、よく戦友の友だちの指を「火葬して持ってきました」とかね、「骨を持ってきました」なんて言うけど、レイテではとてもそんな余裕もなかったし、自分も、今日、それがあっても、明日、自分がここにいるかどうかっていうことも分からない。もういつかは、遅かれ早かれ、もう死ぬものだとばっか思っていました。だからきょう助かっていても、「明日今度は俺の番だな」っていうような、そんな感じだった。それも深刻に考えるんじゃなくて、自然に、「ああ、もう明日は今度俺の番で来るかな」って、「死ぬんだな」っていうような感じはしていた。

とにかく亡くなった人には申し訳ないっていう感じだけありますよ。

Q 何で、亡くなった人に対して申し訳ないんですか。

いや、だってこれだけ長く生きさせてもらって、いろんなことを目にしたり、見たり、みんな19か25、26までの間の人たちです、みんな戦死したのは。わたしたちが20で検査を受けていく。だから21、22ぐらいがみんな多かった、20で。もっともっと生きていればね、楽しいこともあるし。まぁ、これも1つの戦争だったからしかたないけど。

とにかく、今日、これだけいた人たちが、明日はこれだけいなくなる。もう、毎日少なく少なくなって行く。だから、「レイテ戦は何でやったか」って言われると分かんないですね。あんな島を、一師団だけでなくて、あすこへ何師団も上がってる。「なぜこんなにたくさん上がって来て、戦死者を出さなきゃならないか」―それは思いましたねえ、後になって。それが、2500人も出て少なくなる。師団だと1万5千人ぐらいいたのか。帰って来たのは500何名ぐらいでしたもんね。

もっともっと仲間がね、たくさんだったらあれだけど、別に後ろめたいこともしたんじゃないけど、こうやって残してくれたんでしょうけど、でも、亡くなったその家族にとれば、「ああ、うちの息子もあのように帰って来てもらいたい」と思ったんじゃないですか。
 そう思うと申し訳ないでしょ、うん。それも、1人や2人亡くなったんならいいけど、余りにも多過ぎるしね。そして、その、戦死者が、自分の生まれた故郷のすぐ近所に、こう、何人もいる。ましてや、2人も亡くなっちゃってる、そんな家がある。だから、同級生の中でも、話が多い。なんて行ったの、人たちも皆亡くなってる。それ思うと、こう、元気良く帰って来ましたなんて、とても言えるもんじゃないですよね。

出来事の背景出来事の背景

【フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~】

出来事の背景 写真昭和19年10月中旬、マッカーサー率いる20万の大軍がフィリピンに接近、上陸地点はレイテ島が選ばれた。レイテ島は、日本軍にとっても5つの飛行場がある重要な軍事拠点であった。
10月、太平洋戦争中最大の誤報がレイテ決戦の決行につながった。米軍機動部隊はフィリピン侵攻の前哨戦として台湾を空襲。迎え撃つ日本軍との間で激しい航空戦を展開した。ほとんど戦果はなかったにもかかわらず、海軍が報告した米機動部隊撃滅の大戦果を大本営は鵜呑みにし、昭和19年10月20日、レイテ島で一勝をあげることで和平につなごうとしたのだ
昭和19年11月、1週間で勝てると言われた第1師団がレイテ島に上陸した時点で、既に制空権は米軍の手に握られ、米軍機が次々と襲いかかってきた。また、米軍の上陸直後から猛烈な砲撃を受けた。短期間の戦いを予想して十分な物資を持たなかった兵士たちは、すぐに食料・弾薬が尽きてしまった。
さらに兵士たちに過酷な命令が下された。限られた武器を手に敵陣に突っ込む「斬り込み攻撃」である。次々に兵士たちの命は失われていった。

食料や弾薬を運ぶはずの日本の輸送船は攻撃され次々と撃沈され、レイテ島の日本軍は孤立。生き残った兵士たちは食糧を求めて、密林をさまよった。

第1師団上陸から50日あまりたった12月21日、大本営はついに、レイテ島の放棄を決断、兵士たちに転進命令が下る。米軍が上陸していないセブ島で再起を図れというものだった。しかし、セブ島に行くために用意されたのは、わずか4隻の小型艇。第1師団1万3000人のうち集結地点にたどり着いた兵士は2600人。船に乗れなかった2000人はレイテ島に置き去りにされ、米軍とフィリピン人ゲリラの掃討にあい、全滅していった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1923年
山梨県笛吹市にて生まれる。
1944年
現役兵として甲府歩兵第49連隊に入隊。満州駐留を経て、レイテ島に派遣。
1945年
セブ島にて終戦。復員後は東京で飲食店を営む。

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フィリピン(レイテ島)

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