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タイトルタイトル: 「注射で安楽死される傷病兵」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~
名前名前: 佐藤 一教さん(第1師団 戦地戦地: フィリピン(レイテ島)  収録年月日収録年月日: 2006年7月、2007年12月

チャプター

[1]1 チャプター1 「楽勝」と言われたレイテ戦  03:16
[2]2 チャプター2 森をなぎ払う砲撃  03:51
[3]3 チャプター3 負傷者は道路わきに寝かせた  01:57
[4]4 チャプター4 放置するしかなかった歩けない重傷者  05:23
[5]5 チャプター5 重傷者の運命  01:49
[6]6 チャプター6 軍医が重症者に打った麻酔薬  04:23
[7]7 チャプター7 薬がなくて死んだ兵士たち  05:12
[8]8 チャプター8 なくなっていく食糧  03:05
[9]9 チャプター9 住民に襲われる  02:09
[10]10 チャプター10 レイテ島放棄  02:16
[11]11 チャプター11 取り残された兵士たち  02:17
[12]12 チャプター12 帰郷~レイテ戦をふりかえる  01:43

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~
収録年月日収録年月日: 2006年7月、2007年12月

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軍司令部、方面軍の司令部のほうへ行ったときに、軍旗をこの下にあるからって言われたときに、そこの方の言われたのは、とにかく、レイテで今、戦争をやってるけど、どっこいどっこいのところへ、第1師団がほとんど無事に上陸したから、もう、こちらのほうが確実に勝てるから、お前たちはそこを、要するに11月だったから、あと少しでお正月が来る、お正月までにはもう、敵をタクロバンのほうへ追い落として、お前たちの所は、当時昭南島って言われたけどシンガポールですね、あそこへ行って、お前たちは警備に決まってるって言われたから、これはもう、たいしたことはないぐらいの気合いでいた。ま、そこを帰ってきた訳なんですが。

ところがもう、もうそのあしたあたりから見ると、昼間はもう敵襲が来て、それからアレです、海軍のトベツ輸送艦に乗っかってくる途中も、飛行機がこないときもゼロ戦が頭の上を、直衛機が2機ぐらい飛んでるんですが、時々いなくなる。

そうすると、アメリカの飛行機が来て、で、見てる前で味方のゼロ戦が敵のロッキードに、こう中心に追い込まれて、グルグルっと2機の周囲を輪になって、で、たちまち1機はそこで撃墜されたのを、もう海上へ落ちる間に燃えちゃって残がいになると。そうするとあと1機は、すぐ飛び出したから逃げんのかなと思ったら、それももう、やっぱり少し離れたあたりで、あれでしょうね、機関部へ弾食らった、じゃ、そこでボンッと破裂して、やっぱり残がいがたちまち水の中へ落っこった。

それがいちばん先の、敵の言うじゃなくって、偉い人の言った、制空権持ってるっていうようなことは、逆に初めて我々は、はぁ、こりゃアメリカのほうが、全然飛行機なんかも違うんだなと思って、それで見たんですよね。そのときまで自分らは、甲板で、輸送艦の結局、甲板で、こんな小さなカンパンを戦友と一緒に食べていたら、敵襲だっちゅうで、すぐそれを隠れたんですが。もう海軍の兵隊さんが、泡を食っているっちゅうの、どうしてこんなに泡食うのかなと思って、それでやっぱり、恐ろしさっていうのが、まぁ、目の前で見て、そういうようなことで感じたんです。

とにかく、林の中に隠れていないと、頭の上から敵の砲弾がボンボンボンボン、敵の撃つ方向はわかるんだけど、全然山の向こうから砲弾が飛んでくるんですから。それで初めて、敵の大砲、長距離砲とか敵の飛行機、それからあるいは、大砲の恐ろしさっていうのが初めてわかって。それからあとはもう、本当に道路は歩かなくて、同じ行進でも林の中ばっかり、絶対に空が見える所へは出ないように。自然にそういうふうにやりました。

Q:アメリカの攻撃って、具体的にどんなところが恐ろしかったんですか。

佐藤 いちばん恐ろしいのは、このあいだキクチさんも言っておったんですがね、日本の砲撃っていうのは、弾を大切にするために、大砲もそうだろうと思うんです、それで歩兵でも何でも、一発必中って、敵の、アレです、必ず倒すっていうために、いなかったら銃を撃たないっていうことなんです。そういうようにして狙って撃つんですが、アメリカの砲撃っていうものはですね、とにかく全然想像以上のもので、日本の、だいたい攻撃だったら、林、ジャングルだか林の中に敵がここにいたらば、敵が初めている所へ向かって、野砲でも、要するに大砲も撃ち込むんです。それで、当たらなかったらば、当たっても当たらなくも、そうすると今度は、生き残ってる人は、周囲の木の中へずっと広がって逃げられますね。

ところがアメリカはそうじゃないんです。このジャングルの中、日本の部隊がいるとなったら、そのいる所へ直接撃ち込んでこない。

その周囲からボカスカ、ボカスカ、ずうっと撃って、だんだん、だんだん、あのキクチさんが言うとおり、ジャングルの木の枝が赤裸になるから、自然上に見えるように、観測機が上に舞ってる、それで見えないために、茂みの濃い所へはいる、そうするとだんだん、周囲がたくさん撃たれるから、砲弾を全部撃つから、ここに、ぐるりの赤肌があんだから、自然に真ん中のほうへ寄ってくる訳だから。この米兵に見らんないためにですね。そうすると最後にここへまとまった所で、ボカンとやるって。

そういうように、戦法がまるっきり違うんです。日本は中心へ、てっぺんから撃つから、四方へ、同じアレでも四方へ逃げられるけど、向こうはもう、そこにいると見たらばもう、そこへ直接撃ってこない。あたり八景、ぐるり、焼け野原になるように、そういうように砲弾を使うんです。そして砲弾のアレが十分の一、もう日本の砲兵だって十分の一の量がなかったらしいが、それで弾薬が尽きるように向こうは使える。こっちは弾薬が届かないっちゅうようなことだから、全然勝負になんない。

で、結局最終的には、白兵戦よりしょうがないっちゅうこと。白兵戦に行こうとしても。向こうが30発のアレで、自動小銃に対して、槓桿(こうかん)で1発1発、パシャン、パシャンやるのと、自分らは小銃の音を夜間聞いたけど、パシャンパシャンなんていっちまって、もう笑い出したくなるような。ま、戦争は終わったから、本当に、大人と子どもがおもちゃで戦ってるぐらいなような、武器においちゃそうだっちゅうことのような気がするんですけどね。

自分がいたリモンの、リモン峠の野戦病院っちゅうのはもう、だいたい一線から来た兵隊をそこへ、一線の、今だったら衛生兵は、野戦病院がそこだから、そこまで行って引き渡すともう、自分はまた一線のほうへ帰っていく、そういうようなことですが。それですからもう、衛生兵も何もいなくって、結局、道路のアレ、ずうっと寝かしておくだけです。いくらかまぁ、上に木のあるような所。それから、あるいは、少しいいような人は、木の茂みの中へ、自分が寝れる所だけ。

今言うとおり、来る人たちが担いでこられるなんて、そういう余裕のある戦争じゃないですから。独歩患者って、歩いてる人だけが来るんですから。それですから自分は、そこに寝かされて、歩ける人は自分の木の根っこへ行って、しゃがんでる。そういうことで、それで、定期的におそらく軍医さんや衛生兵が歩くんじゃないかと思う。

だからウジもたかってるし、出血が、あの、アレです、便のほうなんかもそのままで、とても便を隠してやれるなんてもんじゃないから、その場でやったりもう、とにかく地獄図のようなもんですね。少しひどくなると、すぐハエが飛んできて、そこでウジがわいて、自分でとったり、戦友がとったりっちゅうことするっていうけど。

野戦病院も、そりゃもう、患者だけですから、本当にウジをとってやる衛生兵だって、そんな暇もないくらいで。それで、攻撃のときにはやっぱり、衛生兵自体もそこに、砲撃されればしかたがない、隠れるっちゅうようなことをやってるようなんですね。

Q:歩いていける人しか治療が受けられなかったんですか。

そうです。とにかく足の、足は傷を受けていない者。それから上は、ひどい人はしかたない、担架で運びだすっちゅうことは絶対に、大隊長の担架は自分たち、普通の担架教育してる兵隊が同年兵いたけど、2大隊の大隊長が担架で運ばれてきたけど、その人も死んだとかなんだとかっていう話だけどね。とにかく、自分だけの想像じゃ、だいたい大隊長以上ぐらいの、うちの連隊長も終いには自分が負傷したときに、セブで自決したそうですが、そりゃサトウ大尉殿が見てきたんだけど、自決したそうですが、もうダメだと思ったらやっぱり、自決、本人がそういうことですよね、上官でも。

とにかくただ、担架で運んだのは、自分は、3大隊だか2大隊だか知らんけど、その大隊長がひとり1回。それだっても助かる見込みはあるからきっと、担架で運んだんじゃないかと思うですが。それ見ただけで、担架の後送なんていうことは、全然ほとんどできない。だいたい山自体が、ここいらの山と同じように、レイテの山は、いい所もあるけど、平らな所もあるけど、峻険な所があるんです。大砲、機関銃なんかも、綱で引き上げたりなんかっちゅうのは、たぶんしていて驚いたんですがね。そういうように、敵の死闘のためにはそういうこともやっておりました。

Q:佐藤さんの患者さんは、どういう患者が多かったんですか。

自分の患者っちゅうことは、全然ないですが、とにかく転進途中に、一時やっぱり休憩しますからね、休憩するとなると軍医さんは、いろいろ、ま、軍医大尉がいちばん偉いんですが、そんな人のそばにいつもいたんですが。そうでなくて、だいたい軍医さんっていうのは連隊本部にいて、それから大隊本部にひとりかふたりいて、その大隊本部っていうのは、だいたい3個大隊あるから、それで連隊本部と、4か所ぐらいで軍医さんがいる訳なんです。

そこへ患者が来る訳なんです。とても、今言ってる、負傷してる所へ軍医さんが行くなんてこと、絶対的になかったですね。ただ、レイテの戦争じゃ、本科の兵隊が負傷した人がこなくて、他の人が軍医殿来てくれろって言ったときに、幕舎の中に、幕舎ったって、この間言ったように、ただ携帯用のちょうどこのぐらいのヤツです。それを上へやった所にいると、軍医殿来てくれ。すると軍医殿は防空員だったんですが、おれ行っても佐藤行っても同じことだ、佐藤行けって言って、よく自分が代理に行ったことがあるんですがね。

そういうように、わりと、兵隊と自分らがいる所では、結局いる所っていうことなんだけど、戦闘中に兵隊の中へ混じって戦闘するっていうことは、とても、そういうことはできないし、そんなに衛生兵が多い訳じゃないからね。だから、急場の場合は戦友同士で、やっぱり治療した、治療って言うか包帯するのが、いちばん多かったようですね。三角きんも持ってますから。仲間同士でやって、それであと、医者のいる所へこれる人は来る。そこで動けない人はしかたない、置いて来るっていうようなことに、なる訳なんです。

Q:あの、動けない人たちが、置いてけぼり食うっていうのは、どういうことなんですか。

置いてけぼりを食うっていうことは、結局、今自分が言った場合は戦闘の場合だわね。それに戦友が付き添っている訳にはいかないから。どんどんやっぱり、兵隊は戦闘っちゅうものは移動するから。勝ってる場合なら、どんどん進撃するし。それであくまでそこにいて、全滅するっていうことになったらば、後退するけど。とっても普通の、支那事変のような後部へ下がりゃ安全だっちゅうことは、全然ない訳ですから。食料がないし、なんだから、そこでダメだったら後退する、命令もあるけど後退する。

後退するときに戦友を、負傷した戦友をとても連れてなんていうことしてたら、両方とも死んじまうっていうことになるんですからね。それはもう、しかたがない。あくまでも、戦争、生きながらえて、やらなければならないっちゅうことですから。本当に、戦友が負傷してるヤツを、そこでですね、いつまでも見てるって、命令でもあればそれはまだいいけど、そうでなかったら、進むか退くかどっちかの場合、とてもその、そういう動けない戦友を、いくら気の毒でも何だっても、すべてそうです。自分がそうなった場合だっても、あくまで、それはしかたがないことですね。そういう、それが実情だったんです。

終戦になってわかったんですが、アメリカ軍が救助した、通りがかってくればですね、これは確実にあの、戦敗の捕虜って言っただけんど、そういうことで助かってですね、とても残虐どころでなくて、食料なんかも豊富ですから、十分与えてももらえるし、無理にいろいろなことを聞き出す必要もないし。日本軍なんか、将校が図面を持ってたりなんかするから、将校の死んだときがいちばん状況がわかるっていうようなことを、戦後になってわかったんですが、そういうことを、無理に拷問をかけて聞くようなことも全然なかったようです。で、ミルクもあるし、いろいろなことで。

ですから、だけど、「生きて虜囚の辱めを受けず」って、我々はそういうことなんです、ほんとは。その心理はあくまであるから、自決しなかったらそういうことになって、アレだったけど、結局アレですね、そのとき捕虜になっている人は助かるけど、近くの住民の、住民って言っても結局、アメリカ軍に偏った人、それで普通の人が日本を助けるなんてことをやりゃあしないけど、とにかくゲリラに会ったらば、身ぐるみはがされてですね、よく死んでる人の見たんですがね。

ですから、息のあるうちに、助かる人だったらアメリカ軍が来さえすれば、それなら、ずいぶん助かった人が、助かったって、生きてる人はたいがい全部ね、助かってるよ。それはあの、収容所入ってよくわかったんですが。

それはやっぱり殺すためです。殺すためにっちゅうことはないけど、安楽死させるためですよ。で、まだその薬があったからやったんだけど、薬も少ないせいだか、その補給もつかないせいかどうだか知れんけど、軍医さん、それでも1本じゃなくて2本だか3本でも打ったですがね。やっぱりだめだったったって言って、それで自分も見てたけど、それだから、まぁあとにも先にもそういうことはなかなか経験もないことですし、しかも自分が前後いままでずーっと前線中にその2人だけが確かにそういうこともあったちゅうことです。

それだから部隊長も、それは普通じゃぁもう捨てていけっていうのが普通なんです。だけど、それだから部隊長が特にまぁそういうことを恐れて、心配して、まぁ早く言ゃぁ温情から出たことじゃないかと思うんです。それは捨てていけって、非人情な人だらもう捨ててけって、どうなって構わないちゅうだけど、できりゃぁまたあんだけさせるもんだったら、まぁ九分九厘そのままでも大丈夫だんべけど、結局、そのいま言ったようにゲリラに会うとこれから先、またひどい目に会ったんじゃぁかわいそうだからちゅうようなことから出たちゅうことは確かでなんです。

その打つ薬だって、苦しむっちゅう薬じゃないですから。結局、麻酔薬のあれですからもう。うえらなんかも自分ら、歯の痛いときに打ってもらったり、夢心地だったようによくなりますからね。それだから習慣性になるらしいけど、だからそれはあくまでまぁそういうことはだけど温情から出たことだと思う。

それが全部が全部、そういうふうにとても薬があるところでそんなことできる、薬がそんなもの、できることじゃないけど、ただそういうことがまぁ1回あったちゅうことは結局、本人にもよかったことになると思うし、あとは二度とやりたくったって薬もないし、それから普通、いちいちそういうことをやるちゅうこともないけど、初めての転進で、部隊長殿も結局、1人だけそこへ残しておくちゅうこともかわいそうじゃないかちゅうようなことじゃないかと思うです。恐らくそうだったんです。ですから軍医に命じて、お前、いま言ったとおり、結局、強く痛いでもないことだから、安楽死だからね。それやれちゅうことだったでしょう。

自分らがそれ、わたしだけのことでなくて、いろいろ苦しんで死んだ人たちも、やっぱりその状態でいる場合はもう運命ちゅうこととあきらめて、もうそれは当たり前だちゅうような。それだからね、まぁ死んだ人は気の毒だけど、とにかくそれだけの運命だったと思うし、それからただ自分らがそういうような仮に運命として生きて帰ったとしても、あぁこれはおれは運がよかったからどこでも構わないちゅうでなくて、死んだ人のことを考えたらもうとても、わたしは生きて、レイテから生きてきましたちゅうようなことをあんまり威張って言える立場じゃないと思うんです。

だからもうとても毎日毎日、そのことばっかりは考えて、ただ自分、よく言うけど、朝飯食べるときにはもう戦友の死んだ連中がなぁ、これ生きていればこういうようなことが、コメの飯も食えたちゅう、いちばん思うのはコメの飯だわね。死ぬときにやっぱり。コメの飯が食えるだけでも食って死にたいちゅったのは。実際、全部ほとんどその気持ちだったからね。

だからまぁ自分はいま言ったとおり、あの当時のことがあの当時のことで、いまからどういう状況になっても、やっぱりそれよりしかたなかったんじゃないかちゅうような気持ちでおります。

いやいや、全然ないです。薬の補給がないから、それがいちばんいま言ったように、言わりゃぁそうそう、そういうことを含めて言うと、もう薬の補給がないことがいちばん、軍医さんは言うにおよばず、衛生兵だってそうだわね。

いや、治療ができさえすればですね。それはもうそれだけのことですから、限界なんですから、もうそれで最善の努力して、助かるとか死ぬとかちゅうはしかたのないことですからね、あれだけど、いま言うとおり、ずいぶんほとんどがそうです。薬があれば助かる人がどのくらいあったかわかんないしね。歩けなくて死んでる人が、傷そのものは助かるんですよ。確実に治る見込みはあるんですが、歩けないために結局、歩けないためと部隊へついていけない。まぁ仮に歩けても、結局、ずっと戦闘中、そのそばについて、まぁ自分は戦闘しなくも、部隊にくっついて歩けなきゃぁもうそれでしかたないちゅうことですからね。それはもう絶対的にあれですね。いちばん苦痛ですね。いまだにそうですよ。

そういう人がとにかく10人のうち7人あるでしょう。7割ぐらい、70%ぐらい死んでる人がいるんじゃないですか。いま言うとおり状況がよくて、後方からの連絡があったり、整備、支那事変みたいにどんどんどんどん野戦病院っていった、野戦病院へ行きゃぁ病院があって、そこであと兵站(へいたん)病院へ送るとか、それができたらばもう兵站のうちでほとんどですね。それがもちろん直撃弾で死んでいる人もずいぶんあるけど、患者となった場合だったら、いま言ったとおり、7割ぐらいは。その傷の時代で言ゃぁそういうふうにうまくいけば7割ぐらい、半分以上はあれですわ、あると思うね。

Q:助かった人がいるっていうことですか。

えぇ。いま言ったとおり、10人が全部死んでいりゃぁね、負傷したらあれで。そうだけんど、まぁ7割はともかく、いずれにしても半分を越しますね。傷そのものが順調に治療できたらば。そうするといま言うとおり、余病も併発するし、栄養失調もみんなそれがやっぱり原因なんですから。丈夫な人ですら栄養失調になるけど、とにかく傷があって食べるものも自分じゃぁとれないちゅうようなことになったらば、もうあれですわ。やっぱり傷の手当てができてさえいればですね。

まぁ、いま言うとおり、傷の手当てができる状態だったらば、食糧だってそのときは確実に、医療の薬剤なんていうものは、主食と同じにもう絶対不可欠なもんで、主食を持ってくるときにはもう治療の薬というものも必ず持ってくるもんですから、だから補給がもう主食と同じくらいに必ず来ているわけです。それだけはもう絶対言い切れるですね、薬が順調に補給ありゃぁ普通の状態だったら補給されるから、ずいぶん助かる人はそれで栄養失調にもまたならなかっただろうし。

Q:薬がない中で、どうしてたんです?

それが不思議なんですね。自分らはあとの傷ちゅうを、自分がとにかくしょってるやつしかほかに軍医さんないわけだけど、マラリアなんかはなんかヤシの根っこをせんじて飲めとかなんとか言ってるちゅうけんど、あれだねぇ。結局、薬がなくて、自分らは来る人だけを治療するだけの、その治療の薬が、それでもあれだ。軍医さん、アルコールぐらいは自分も持っていたんでしょうね。その箱の中にあっただろうと思うけど、自分の手術のあれを切るためなんた見たのも、そういうわけで雨が降ったからメスがずーっとあって、一部がここにあるです。こういう薙刀(なぎなた)のような格好の、一部もう欠損しちゃって腐って欠損したのを、それであれです。アルコールがなくなっているから、火で湯わかしてそれで消毒してやって、そういうようなことだでね。

とにかく飲み薬っていうのは全然なかったんですからね。兵隊に聞くと、なんか軍医さんに言ったら、マラリアでヤシをせんじて飲めとか言われたって言ったけどね。自分らも結局、マラリアにもちろんやられたけど、薬はまぁ誰もないからあれだけど、結局、時間がきてそのまま発作が終わるまで。それで発作が終わっても、終わらないでも体力がない人は結局それで死んじまう。マラリアでやられて死んじまうちゅうことだからね。結局、自然淘汰みたいなことですね。とにかく薬のあれちゅうは全然ありませんでした。

結局、補給が来るのは3食、あそこは乾パンはくれるのがいちばん簡単なようだったけど、もう名前はわからないだけでね。この間の見た本で、やっぱりあれだちゅって、向こうでゴムの袋で粉のあれで、それを溶かすともちになるようなやつもあったんですよ。

それといちばん多かったのは携帯口糧ちゅうだけんど、このくらいのあれはなんたっけね。浅草でおこしがあるでしょう。あれがあれと同じようなもんでね。コメをああいうなことにして、そしてそれにゴマ油なんかでものすごく栄養は満点なそうですが、それがこのくらいのあれで、大きさで、3つになってたけれども、このくらいの大きさで、このくらいの四角のあれになるんですよ。大体、そうだねぇそのあれ2つ。これよか、これを3つぐらいかなぁ。これ2つのこれくらいでしょう。このくらいのやつが梱包になって来るんだが、これが3つに切れて3層になってて、1つ1食、2食、3食っていう、そうじゃなくてこれ全体が1食分っていうやつだったんですがね。

それをまぁいま言うとおり、乾パンもあれ1袋が1食なんですよ。だから乾パンを3食に分けて食うと同じようにこれを3つに分けて食うわけだけどね。とてもじゃないけど、それが満足に来ないわけです。

ひと月、そのうちこなくなると結局草を入れて食うっていうことですよ。草を入れて食うけんど、最初は塩が配給になったからあれだけど塩がなくて、そうしたらそういうようなものが、自分はそれだから全然食わないちゅうことはないわけだ、それはしかたない。野草をゆでて食う。転進しててもやっぱり戦う兵隊がいちばん先だから、仮にやぶの中に行ってもトウモロコシの干した、結局、冬中とっておくような実のいったやつがあると、それがほとんどの兵隊のみんな主食になったんですがね。

それをゆでてそれで食うけど味付けはできなかったけど、まぁそれがあればいいけど、何にもないからあれです、結局、先へ行った者はサツマイモの実があるときもあるし、それからない者はだからこれぐらいのやつ、それからあとから行った者は全然、それでも自分ら、いまこっちへ来たからやっぱりその料理もあったように、サツマイモの葉っぱをゆでてね。そして食うだけど、塩けがなくて1回行軍の途中に海岸を通ったことあるんです、アメリカ軍のいない海岸を。

それで飯盒(はんごう)へ塩水くんできて、それで休憩、休憩ちゅうか、野営するところへ行って、それでゆでて食べたら、日本中にこんなうまいもの食ったの初めてでね。塩がなくなったのがいちばん困るんです。

我々が行ったときに、ちょうどその土地のゲリラいなくて、土地の住人がいてね、男の人が蛮刀ってこんなに大きいなたてですよ。さや鉈(なた)ってね。

そうして、自分は衛生兵っちゅうのは本当は拳銃を持つことない。拳銃なんかそんなに持ってあそこであげちゅうから、あげねえかなって、ごぼう剣だけなんですよ。そうして探したら、それがまなじり吊り上げて、、切りかかってきてね。さて衛生兵戦おうにも、準備はごぼう剣1本でやったんじゃもう、こっちの道具も小さいしね、そうしたら、ヤマダっちゅうあれは本部のあれは兵隊が来てよ、銃を三八式歩兵だから短い、三八式歩兵の銃じゃあ長すぎて、レイテじゃ引っ掛かってダメで、みんな前のやつの兵隊のやつは短いんです。それを持って歩いていたね。がちゃがちゃっと、このがちゃがちゃっとしなきゃ、球はひっか抜いても出ないからね。槓桿(こうかん)操作ってね、こうやって実際こうやって銃身へ球を動かすわけ。

それで、がちゃがちゃってやったら、それが逃げていったわけね。あのまあ、それがこなかったら、自分とこ切り合いになるわけんだけんど、こっちはあんまり専門家じゃないしね、どうもやっぱり歩はなかったような気がするけんど、それは当然ね、やつらはもう品物をなんでもかんでもあるものは取られるからね。それで、水牛ってちゅうことは、ちょっと余談のあれに出てたけども、水牛があれば今あたり、水牛なんてものすごく高価なもんだからね。それを殺して食っちまうだからね、反感を持つわけだし。まあ水牛なんかも、さっき言った人たちは、ときたまそういうこともあったかしれん。そんなにたくさんいるもんじゃなしね。放牧しているわけじゃなく、うちの家畜の飼育して、それであれだもんね。1頭なり、あんなんで収入を得ているようなことだからね。だから、もの引かしたりなんかしてちゅようなことで飼っているもんだから。

わたしたちの上官から言われたのは、健全な兵隊だけっちゅうことなんですよ。負傷したものはだめ。それであれだから、その兵隊たちが無手勝流でパロンポンっていわはったわね。その場所がパロンポンが自分はどこだか地図見れば、詳しい人ならわかるかもしれない。パロンポンの攻撃、それこそ肉迫(にくはく)攻撃をして、武器・弾薬を取りにいくっちゅうことで、それで、全部健全な者だけっちゅうことでね。セブなんか全然いわなくて、で、そういうことを全部歩いて、それで兵隊を見て、それで、負傷者を残して、それで丈夫なもんだけ集めよったんです。

それでそのパロンポンへ行くっちゅう、そのときにわたしがサトウ軍医大尉に感謝するっちゅうのは、そればかりでなくいろいろほかにもあるだけど、そのときサトウが実はこれはセブへ転進する。セブへ転進してもただ向こうへ行って、準備して、ネグロス島へも行って、そっからあとの武器や何かのレイテ、移動するための準備のためだとかなんだとかっちゅうことだそうだけんどね、それでそれだから、自分はもう転進する、動き出す、要するに、カンギボットから海岸縁までやっぱり歩いて行って、それで、海岸縁で待ってたわけだけどね。その動き出すときに、その話をサトウ軍医大尉から聞きました。一般は全然知らない。海岸縁まで行ってもね、あれです、まだ知らない人がいる。それで、本人もあれだけんど、結局大発のありゃあアカツキ部隊だわね。その下で人たちに聞いて、ああでもお前なに寝ぼけている、これからセブへ転進するんだっちゅうようなことでね。自分らは第1回で師団長なんかと一緒に転進した、49なんで行ったちゅうことなんですがね。


Q:そのレイテ島に、セブに渡れなくて、レイテ島に残った人っていうのは、結局どうなったんでしょうか?

それはもうセブへ渡ってからね、2か月ぐらいかね、もうやっぱりいちばん、セブの一部と天気なら、レイテが見えるとこがあるんですよね。あれはあれだわね、そういう近いとこもあるわけだけど、とにかくセブへ渡ったらば、もうあそこにセブの兵隊は、蚊帳張って寝てるんですよ。敵が上陸しないからね。そばで何度か。それで、そのときにそれからあと、約自分ははっきりしたことはわからないけど、2か月ぐらいじゃないか、1月だったから、転進したのが。2月か3月ごろまでで、ドンドンドンドンレイテで大砲の音が1日中やってたんです。それがそのころなくなったら結局もう、残存の人たちが亡くなって、それから、そういうようなことでね、あれは終戦になって、またセブ島で投降して、それから、セブから捕虜になってからまたレイテへ、タクロバンへ連れ戻されたんです。

そのときに、うちの参謀長が結局連隊長になったから、そのアメリカ軍と交渉して、ビラをまいて、そして生き残っている人があったら出てきてくれって、さんざんそれやっただけど、レイテは全然グアムのようじゃなくてね、だれも出てくるものはなくて、それで、あのとき週刊誌なんかで1人か2人いたのに、なったどうのこうのって、ミツコボ高地なんかも、このレイテの自分らのいたミツコボ高地なんかも今毒蛇で近寄れないって。こないだ、この前行ったときに言われてね、そっちへミチコボ高地の方へは、遺骨採集に行けなかったけど。

あのそういうわけで、3か月間ぐらいまでの間に、全部とにかく日本の兵隊は亡くなっちゃったっちゅうことでしょうね。どういうことで死んだか知らん。とにかく負傷して、ありゃあいるような人だけ全部残ったわけなんですが。

ただ今いうとおり死んだ人たちは、もうこの現在の復興した日本ちゅうものを見れなかったからね、死んだ人たちだらもう、これ恨んでも、遺族だってそうですよ。だから、自分らはあんまりあれです。遺族の人たちや自分がレイテに行ってきて、行ってきたちゅうことは、それは奇跡には違いないけど、今度は遺族に言わせると、お前だけが逃げて逃げ回って、事実やなにも知らない人には、レイテの戦争は逃げて逃げ回って、この部落なんかにもいう人がいるそうじゃないかちゅうような、あえてそんなばかげた、絶対にねえのに攻撃精神を1師団なかずっと通してやってきたけんど、それをあえて弁明する気もないです。

それに、特に遺族に言わせたら、お前だけはとにかく帰ってきて、そしておれのとこなんかそういうとこで苦しんで死んでるだぞっちゅう考えだけはあるですからね。だからここまで、やっぱりそういう人たちの身になって、自分はやっぱり、どっちかって言えば、自分の意見よりも死んだ連中の、連中っていうか、死んだ人たちはどのぐらい無念だと。

無駄な死に方をしたかっちゅうようなことだけ、やっぱり言いたいですね。ええ。上層部は特に、そういう無茶なわからんことをやってて死んでるけども、死ぬ人たちはあくまで国のために、おれは国を守るために死ぬっていう気持ちで、死んだことは確かだけんどね。家へ帰りたかったことは確かだったし、あれだけど。

出来事の背景出来事の背景

【フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~】

出来事の背景 写真昭和19年10月中旬、マッカーサー率いる20万の大軍がフィリピンに接近、上陸地点はレイテ島が選ばれた。レイテ島は、日本軍にとっても5つの飛行場がある重要な軍事拠点であった。
10月、太平洋戦争中最大の誤報がレイテ決戦の決行につながった。米軍機動部隊はフィリピン侵攻の前哨戦として台湾を空襲。迎え撃つ日本軍との間で激しい航空戦を展開した。ほとんど戦果はなかったにもかかわらず、海軍が報告した米機動部隊撃滅の大戦果を大本営は鵜呑みにし、昭和19年10月20日、レイテ島で一勝をあげることで和平につなごうとしたのだ。
昭和19年11月、1週間で勝てると言われた第1師団がレイテ島に上陸した時点で、既に制空権は米軍の手に握られ、米軍機が次々と襲いかかってきた。また、米軍の上陸直後から猛烈な砲撃を受けた。短期間の戦いを予想して十分な物資を持たなかった兵士たちは、すぐに食料・弾薬が尽きてしまった。
さらに兵士たちに過酷な命令が下された。限られた武器を手に敵陣に突っ込む「斬り込み攻撃」である。次々に兵士たちの命は失われていった。

食料や弾薬を運ぶはずの日本の輸送船は攻撃され次々と撃沈され、レイテ島の日本軍は孤立。生き残った兵士たちは食糧を求めて、密林をさまよった。

第1師団上陸から50日あまりたった12月21日、大本営はついに、レイテ島の放棄を決断、兵士たちに転進命令が下る。米軍が上陸していないセブ島で再起を図れというものだった。しかし、セブ島に行くために用意されたのは、わずか4隻の小型艇。第1師団1万3000人のうち集結地点にたどり着いた兵士は2600人。船に乗れなかった2000人はレイテ島に置き去りにされ、米軍とフィリピン人ゲリラの掃討にあい、全滅していった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1921年
山梨県道志村にて生まれる。
1942年
現役兵として甲府歩兵第49連隊に入隊。満州に駐留。
1944年
レイテ島に派遣。当時、23歳、兵長(衛生兵)。
1945年
セブ島で終戦を迎える。復員後は、故郷で建設会社などに勤務する。

関連する地図関連する地図

フィリピン(レイテ島)

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