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タイトルタイトル: 「手榴弾飛び交う前田高地」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 沖縄戦 住民を巻き込んだ悲劇の戦場 ~山形県・歩兵第32連隊~
名前名前: 比嘉 恒吉さん(山形・歩兵第32連隊 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2008年3月

チャプター

[1]1 チャプター1 現地入隊  02:41
[2]2 チャプター2 陣地構築  02:41
[3]3 チャプター3 米軍上陸  02:46
[4]4 チャプター4 前田高地の争奪戦  05:29
[5]5 チャプター5 さまざまな兵器で攻めたてられた  04:38
[6]6 チャプター6 巻き込まれた住民  03:46
[7]7 チャプター7 生き埋め  04:59
[8]8 チャプター8 壕を転々と逃げ歩く  04:41
[9]9 チャプター9 吹き飛んだ草木  05:22

チャプター

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現地入隊で。結局、兵員が不足してたから現地から入隊させて、そのまま使おうということじゃなかったですかね。

あのときは、なんか恩納村の山田国民学校という学校に、連隊本部がありましてね。そこに入隊したんです。入隊式があったかどうか、ちょっとその辺は定かではないが、とにかく三々五々、初年兵があちこちにたむろしておった。

それと、沖縄現地入隊だから、あのころからは沖縄上陸、必至と言われましたからね。自分の故郷を守るんだという気持ちでいっぱいでしたね。


Q:自分の故郷を守るという?

 国と言っても国土、こちら沖縄を守るというのがわれわれの大事な考えでしたからね。生まれ故郷をということで。

10月15日に入隊して、12月の20何日かに島尻(沖縄本島南部)に行ってますからね。ですから3カ月ちょっと足らずの訓練ですね。速成ですよ。


Q:速成?

 ええ。そうしなければならないと思ったんでしょうね。あのころから、ちょうど「十・十空襲」直後でしたからね。10月10日の大空襲がありましてね。壕の中から入隊したんですよ。


Q:壕の中から?

 そうですね。10月15日ですから、大空襲があって、みんな避難しておって、まだ壕の中におったんですよ。

避難壕の中から。だから家族に別れを告げて、あとは見送るものは誰もいない。もうそのまま。

島尻に下がってからは、機関銃陣地を作ることと、それから模擬戦車と言いましてね、戦車に似せて作って、そこに爆弾を投下するということで、模擬戦車を作ったり。


Q:模擬戦車?

 ええ、戦車の形をしたのを土で積んで作ってね。松の木を切って砲身にして。そこに、無駄な弾を落とさせようという。模擬戦車と言いました。それと道をふさぐ意味でね、入ってくる敵を防ぐための、戦車断崖というのを造って。石なんか積んで。部落の人たちも、随分それは石は提供するし、労力提供するし、部落の人たちも一緒になって、戦車断崖というのを。妨害するための石垣を、海岸線にずっと。

土を運んで、戦車の土台を作って。木を切って砲身を作って。ちょっと子供じみたことで、今から考えると。あのころは真剣にそうすることが、敵に損害を与えるという。

ちょうど、あすこに行くとわかりますが、丘陵、丘がありましてね。米須の向こう側に。そのお墓2つあったので、これ抜いてね、機関銃陣地にしたんですよ。お墓をくり抜いて。

お墓、こう、2つ並んで、沖縄のお墓ですからね。大きな墓だから、これをくり抜いて2つを1つにして。そんなに労力は要らなかったんですね。

米須海岸から上陸してくる予定で、そこに向けて機関銃を据える。機関銃陣地にする。ちょうど、この瀬から上陸するつもりで、そこに向けて造った。

はるか中頭の、北谷の海岸ですからね。離れてるから、よくは分からんが、艦艇が島をぐるっと取り巻いて。1400隻と言ってましたからね。アメリカの軍艦、船。


Q:1400隻?

 1400隻。だから歩いて渡れるぐらいの船ですよ。ぐるっと島を取り巻いてね。それから艦砲射撃をやるし、空からは空爆やるし。砲爆、空爆ね。まったく空からも海からも。

びっくりしました。もう線香花火のように、ボンボン、艦砲ですよ。


Q:線香花火?

 ずっと絶え間なく撃ち続けているものですからね。すごいなと思いましたね。

どんなふうと言ったらいいんですかね。本当に、どこの場所か分からんですね。飛んでくる方向が。怖かったですよ。撃ってるあれはわかるけど、どこに落ちるかわからんわけですよ。空爆は、大体、上から落ちてくるのはわかるんだが、海から来るやつはどこに落ちるかわからないという、そういう、感じていましたね。艦砲射撃というやつは。

大きな爆音がして、地面に大きな穴があくね。落ちた箇所はすごいですよ。


Q:そういうときは、日本の兵士はどうしてるんですか? 攻撃を受けてるときは?

 やっぱり陣地の中に入ってましたよ。みんな壕の中に。出られないもんですからね。

あのころは大変ですよ。私は遅れて行ったもんですから。途中で負傷兵ができて、それを、野戦病院に届けるように、小隊長から命令を受けて。その間、4~5日ぐらい遅れて行ったものですから、その間に、ほとんどやられてました。800名から百何十名ぐらいに。ちょうど一線に出て行く途中で、アケラという一等兵が、朝、用を済まして、ヒエ畑で。帰るときに、艦砲の破片で股をえぐられましてね。それで小隊長が「それを病院に届けてくれ」と。「君は沖縄出身だから、それを届けてから、追ってこい」と。だから、防衛隊2人と私と3名で、その人を病院に届けて。軍病院に。それから、防衛隊連れて。1人はアケラ一等兵をそのまま残すわけにはいかんから、1人看護に残して。1人を連れて2人で島尻から前田(高地)までたどって行ったんですよ。

それから行ったら、もうみんな120~130人になっていました。1個大隊。


Q:8百名もいた第2大隊が、120~130名になる? 残りの方はどうしたんですか?

 いや、戦闘でみな亡くなったんです。前田高地の争奪戦で。前田高地を取ったり、取られたり、何回か繰り返すうちにほとんど、逝っちゃった。私が行った時期、その状況を聞いたら、もう戦友の誰々がいないよという話聞いてね。戦闘とはこんなもんだなと。


Q:その数日の、出来事ですよね?

 ええ、4~5日、1週間ぐらいの間にね。こんなにたくさん被害が出て。ちょうど壕があって、その入り口に座って、アメリカ攻めてきて、上から爆雷投げて、そのあおりで目の中にゴミが入ったか何かで、ものが見えなくなって。

入り口におったんですよ。ちょうど夜明け前、連隊本部から伝令兵と一緒に大隊壕に着いて。そこの入り口におって、仲間の者たちに、「彼はどうした? これはどうした?」 「あれも死んだ。これも死んだ」 その話をしてた途中に、上から爆雷が落ちてきて目をつぶされた。いわゆる馬乗り攻撃という、壕の上から爆雷を投げてね。


Q:馬乗り攻撃?

 馬に乗って上からやるの。上から、つまり下をめがけて。馬乗り攻撃。ちょうどそれ。だから穴の奧に下げられて、聞こえてくるのは傷ついた者の阿鼻(あび)叫喚というか、うめいたり、わめいたり、そういう音しか耳に入らない。目が見えないものだから。その声を聞きながら、どうなるんだろうと、不安な気持ちでいっぱいでしたね。

やられて、あちこちからうめき声が聞こえてね。それは地獄ですよ。まさにね。


Q:壕の中にいるというのは、すごい緊張感がある状態だと思うんですけれども、その物音ひとつたてられないような、そういう状態なんですか?

 いや、中はそんなにね、うめき声が聞こえてくるし、負傷者のね。そういうのは別に壕の中は、そんなに。外側にみんな出て行って戦ってるもんですからね、壕から。もう肉弾戦ですよ。敵と投げ合ってね。手りゅう弾を投げ合って。壕から出て行って、敵と対峙(たいじ)して。昼間から、夕方まで続きましたね。

Q:だいたい、武器そのものはあったんですか?

 小銃、持ってましたよ。小銃と小銃弾をね。機関銃はなくなっておったが、小銃は持っておった。その小銃もさび付いて使えなくなってね。九々式小銃といって、新式だって言ってたが、遊底を覆う何もないもんだから、ちょうど雨降る時期で、降ったらさびついてね。使えなくなったんですよ。さびついて。そういう小銃でしたよ。九々式小銃、最新式だって言うんだが。


Q:かたや、アメリカはその最新の兵器とかは持ってきてるわけですね?

 もう、火炎放射器はあるしね。爆雷があるし。火炎放射器でやられましたよ、壕の中ね。


Q:火炎放射器にやられると、壕の中というのはどんな感じになるんですか?

 いや、ふわっと熱い熱気がくるだけで。壕が曲がってコの字型になってるもんだから、奥におるとそんな影響はないけど、入り口はみんな焼かれますよ。

入り口におったら。火炎放射器の火が。ガソリンで火を中に吹き込む火炎放射。一度ね、前田の壕で受けましたよ。火炎放射器で。

これは初めてですよ。黄リン弾というのも投げ込まれるし。青白く光ってね、黄リンが。それがそこに落ちて。田んぼの中に落ちて、その水を飲んで下痢して。黄リン弾の落ちてるところの水を飲んで、下痢してね。リンが燃えるわけだから。青白く光るホタルみたいに。黄色いリンで黄リン弾。

その落ちたあとのリンがたまると、下痢してね。ものすごい下痢ですよ。水を飲むと。直接それで死ぬということはないけれども、そんなこともありました。


Q:では、前田の戦いというのは、そういういろいろな兵器にやられたんですね?

 そうですね。砲はいちばん迫撃砲が多かったですね。

死屍(しし)累々と言っていいんじゃないですかね。さっき言った、アメリカの缶詰探しに出るとね、暗いから手を突っ込むと死体に手を突っ込んだり。踏み場もないくらい、いっぱいですよ。食糧探しに行くと死体の中に手を突っ込んだり、その上を通って行ったりね。まさに、地獄の中の生活でしたよね。前田戦線、間もないころ。前田戦線、終わると首里の方向にみんなアメリカ人、進んでしまって。その後に食料探しに出ると、そういう目にあう。死体に手を突っ込みましたね。

まさに、地獄ですね。うめき声が聞こえてくるし、目をつぶると、そんな声が聞こえてくるような気がしますね。

米須(旧摩文仁村、現糸満市。沖縄戦最後の激戦地となり、村の人口の半分が戦死したといわれる)というのがあってね。その中に、一家全滅がかなり。びっくりした。一家全員、全滅。米須は大きな部落でしたよね。まだ、部落はあるが、かなりの数ね。びっくりした。

あれはね、数字を見るだけで、何とも言えない気持ちになりますね。一家全滅の。住民がね、あんなことになって。

ま、それが追い詰められてね。逃げ場はないし。軍と一緒だって、大変だったろうと思いますね。あれだけの住民が追い詰められて、みんな島尻に下がって。逃げ場はみんな島尻の果てになって。あとは、海しかないから。行き場を失って、それで多くの犠牲が出たんじゃないかなと。


Q:具志川でも人が、たくさん人が、自決された方もいたと聞きましたけど?

 13名、若い人がね。自決をして。手りゅう弾、配ったからでしょうね。民間にね。若いの集めて、手りゅう弾配った。それがもとで手りゅう弾で自爆した。13名。

あのときは、びっくりいたしました。被害を受けていることは、よく分かっているが、その実態をまざまざと、見せつけられてね。そのことが、いちばん大きいですね。米須のね、そのことと、後方陣地でありながら、あたら若い人たちが、十何名も自爆したという。何でそういうことしたのかなと、今は思うんだが。純粋な、若い者の気持ちだから。そのことが残念でもあるし、心に引っ掛かっていますね。敵上陸して間もないころ、4月の2日、3日ぐらいのようですよ。北谷海岸に上陸して、あれからこっちへ突っ切ってきて。4月の2日、3日ぐらいに、こっちに来てるようですからね。具志川に。それを見て、若い連中、手りゅう弾でしばらく応戦して、アメリカの攻撃受けたもんだから、車座になって、自決をして。若い後輩たち、何名か、その若い人たちが逝っちゃって。

Q:5月の半ばごろの話で、潜伏斥候とか、そういったことをされてたって? そのときは大変なことが、あったそうですね?

 生き埋めになりましてね。生き埋めになって、生きたまま埋められて。


Q:それはどういう状況で、生き埋めになったんですか?

ちょうど、それに書いてあるんですが、3名1組で、班長と私とあと、伊藤一等兵と3名組んで、棚原の壕におるときだから、あれから首里方向に行くところのアメリカの車とか飛行機だとか、これは、見通せる場所だったんですよ。そこへ行って、敵情状況を。兵隊が何名、首里に向かったとか、飛行機が何機、飛んだとか、それを調査して、報告するんだったんです。それを、潜伏斥候と言うんです。壕の中に隠れておって、敵情を探るという。そのときに、私が立哨のときに、谷底みたいなところから、アメリカ兵の声が聞こえるんですよ。敵が来ましたよと。足跡を壕の前だから、消して、少し下がったところで、後ろから手りゅう弾を投げられて。班長は少し先に行ってるから、大丈夫。伊藤一等兵と私の2人はケガして。下のぬかる、穴でね。私は尻の方と肩の方の2カ所、小さな手りゅう弾の破片が刺さって。で、こう探って、這ってこうやってるんだが、包帯してもらって。このまま、生き埋めになって、そのまま死ぬなと思って、班長はケガしてないもんだから、行って(しまって)。ちょうど、穴を埋めて、壕を作るときに松を切ったのが前に転がっておったんです。それを縦に差し込んで土かぶせて、埋めてしまったんですよ、アメリカが。中に兵隊おると分かるもんだから埋めてしまった。

だから班長は仕方がない、帯剣で掘ろうとするが、とても掘られる状態でないから、何時間か掛かってやって、もう駄目だと。私と伊藤はケガして駄目だし、班長1人でやっても駄目だと。もうこれは、朽ち果てるなと思っておったら、夜明け、明け方、本部から来てみたら穴を埋められたもんだから、掘ってくれてね。それで助け出されて、それが弾痕なんです。そのことかな。


Q:生き埋めになったときというのは、何を考えるんですか?

 やはり、いちばん先に浮かんだのが、水飲んで。きれいな湧き水がありますよ、部落のはてに。そのおいしい水を腹いっぱい飲んで、死にたいなと。死ぬにしても、水が飲みたいという、そのことだけでしたね。それと家族のことね。頭の中に。脳裏に浮かんで。

病院へ行ってレントゲン撮影したら、米粒くらいの腫瘍(しゅよう)があるもんだから。先生「これは何か鉄の塊のようなものがあるが、戦争で受けたんですか」と言うから。私、「沖縄戦でしたよ」と。その痕ですよ、これは。手りゅう弾、まだ残ってますよ。それ、かついでる。小さい米粒くらいの、右肩のこれ。レントゲン撮ったら、残ってましたよ。

生き残ったものだけ、あの壕、この壕と転々と。Aという壕をやられると、Bの壕へ。転々と何べんか繰り返して。

みじめなもんです、それはね。やられたそこから、別の壕に移る、それを探して。もう体のいい敗残兵ですよね。体もよくないか。逃亡。あっち隠れ、こっち隠れだものね。戦闘能力を失ってるものだから。最終的には機関銃も何も。重機が3小隊まで、3機あったのが何もないですよ。今の歩兵が持ってる銃も、小銃も、もうほとんどないぐらい。手りゅう弾もない。戦う能力は全くない。だから転々と移るよりほかに、方法がなかった。そういうことですね。


Q: 転々として暮らしてるときというのは、どういうふうにして、食いつないだりしていたんですか?

 食料探し。初期のころは、アメリカが戦闘に使ったレーション(米軍の携帯用食糧)、戦闘用のレーションとかありましてね。あのろうそくを敷いて、雨に濡れても大丈夫な箱の中に、ちゃんと詰めたビスケットが入ってるし、缶詰が入ってるし、タバコが入ってるし、そういうレーション、かなりあったんですよ。つまり、戦闘してそこで残ったものを、穴掘って埋めて行ってしまう。それを漁って。Aレーションとか、Bレーションとか、Cレーションとかね、Dレーションとか。軍隊用の食料。タバコも入ってるし、缶詰も入ってるしね。ビスケットもあるし。

夜に出て掘って、それを持ってきて。そのころから前線は、兵隊みな首里の方向に行っていますからね。後方は手薄ですよ。そのころ我々は食料探しで。中グスクの大きな壕がありましてね、ジャム壕と言って、ジャムがいっぱいあってね、アメリカの。それを取ってきて。日本の食糧はかなり残ってましたからね、米とかね。食糧倉庫。そういうものを探してみたり。もう、食いつないで。

みじめなもんでね。転々と逃げるというのも、みじめですよ。後方陣地といえども、見つからんように、何名か組をつくって行って、漁ってくるわけだから。みじめな生活ですよ。

毛も抜け、色は青白。ちょうど真ん中の壕道で。4、5、6、7、8、9月は初めまでだから、5カ月ぐらい、日の光を浴びてないものだから青白くなってね。毛は抜けるし。おかしくなってましたよ。

いきなり隊長が来て、もう終戦になったと、連絡あったもんだから。それじゃあ、というんで、アメリカ軍が持ってきた、カミソリとかなんとかで髭を剃って。武装解除と言っても、手りゅう弾いくつか残ってたのと小銃ですか。それみんな出して、アメリカ軍に提供したよ。9月の3日に、アメリカの車で収容所に。それが忘れもしない9月の3日ですよ。


Q:沖縄戦が終わって、久々に洞窟から出た生活になったとき、故郷の様子というのはどうでしたか?

 沖縄戦が終わった時期は、青いものひとつ、見えなかったですよ。真っ白い岩肌とね、艦砲でやられた畑の赤茶けた土とね。青いものが何も見えなかったですよ。だから青いものを見て、目が痛かった。壕から出て、青いものを見ると目が痛かった。そういう体験をしましたね。何も青い物がない。みんなやられて。赤茶けた土と、真っ白い岩肌とね。それだけが見えました。

緑がないぐらいにやられておったですよ。想像できないぐらい。

緑に包まれてね、海の青さと空の色。今の沖縄の売り物だが、あのころは何もなかった。緑のひとかけらも、見えなかった。


Q:沖縄戦というのは、いま振り返ってみると、何のためにやった戦いだったんでしょうね?

 何のためにやったんだえろうね。まあ、本土防衛の第一線。その夢もむなしく、消えて。ま、せめて、本土上陸を許さなくて、本土防衛の防波堤みたいになったのかな、という気もしますね。あの広島、長崎の原子爆弾と、そこだけ防波堤だったのかなと。

防波堤にしては犠牲が多過ぎて。十何万という、二十何万という兵隊を防波堤にしては犠牲が大き過ぎるよ。何のためにああいうことしたのかなという、むなしい思い、残念な思いね。
なんともやりきれない思いですね。

まあ、とにかく何と言っても、戦争はしちゃいかんということで、これは誰もそう思うだろうし、当たり前のことだから。特にね、生き残った者としては、そのことをですね。戦争は二度とすまい。もっと解決すべき方法があるはずだから、それを講じるべきで、暴力を使って命を奪うような、そういうことをすべきじゃない。そのことだけですね。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄戦 住民を巻き込んだ悲劇の戦場 ~山形県・歩兵第32連隊~】

出来事の背景 写真昭和20年(1945年)3月、米軍は沖縄に迫り、4月1日沖縄本島中部に上陸を開始した。米軍の総兵力は54万。迎え撃つ日本軍は防衛召集した県民や鉄血勤皇隊などを含む10万人だった。

戦闘開始から1カ月半、圧倒的な兵力の差で戦い続ける事を強いられた日本軍は6万人あまりが戦死。米軍は沖縄本島の中部から北部を制圧し、5月下旬には那覇市北方、首里の日本軍司令部に迫った。司令部は、玉砕覚悟で首里にとどまるか、それとも南部にさがって持久戦をつづけるかの決断を迫られた。

5月22日、沖縄守備軍司令官、牛島中将は戦闘の継続を決断。歩兵第32連隊も南部、喜屋武半島への移動を開始した。しかし、この冷静を欠いた命令により、沖縄の住民をさらに戦闘に巻き込み、大きな被害をもたらす結果となった。後退する日本軍と避難する住民であふれる南部への道に向けて、米軍は容赦なく砲爆撃を繰り返した。道沿いには夥しい死体の山が築かれた。

沖縄本島南部で、日本軍は洞くつを利用した地下ごうにこもって戦いを続けようとした。また、住民も攻撃を逃れて洞くつに避難していた。6月中旬、米軍の掃討作戦は激しさを増し、「馬乗り攻撃」と呼ばれる洞くつへの掃討戦が始まった。壕に爆弾を投げ入れ、火炎放射を浴びせたのだ。投降の呼びかけに応じない場合、住民と軍が一緒にいた地下ごうにも容赦ない攻撃が加えられた。

6月23日、米軍は喜屋武半島を制圧。軍の幹部たちは次々に自決し、沖縄守備軍は壊滅、組織的な戦闘は終った。

本土防衛の最後の拠点となった沖縄。太平洋戦争中、類を見ない地上戦で、日本軍将兵9万4千人が命を落とし、ほぼ同じ数の一般住民が戦闘に巻き込まれて死亡した。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1925年
沖縄県具志川市にて生まれる
1944年
歩兵第32連隊に入隊
1945年
初年兵として沖縄戦に参加。当時、19歳、2等兵。復員後は沖縄県で教員として働く

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