ホーム » 証言 » 川畑 勝さん

証言証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る証言一覧

タイトルタイトル: 「海を埋め尽くす米艦船群」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 沖縄戦 住民を巻き込んだ悲劇の戦場 ~山形県・歩兵第32連隊~
名前名前: 川畑 勝さん(山形・歩兵第32連隊 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2008年3月

チャプター

[1]1 チャプター1 訓練はわずか2週間だった  01:55
[2]2 チャプター2 陣地構築  04:39
[3]3 チャプター3 沖縄本島を取り巻く艦艇  03:12
[4]4 チャプター4 猛烈な砲爆撃  03:53
[5]5 チャプター5 肉弾攻撃  04:42
[6]6 チャプター6 司令部撤退  02:35
[7]7 チャプター7 壕(ごう)の中で生き抜いた  01:56

チャプター

1
2
3
4
5
6
7

再生テキスト再生テキスト

そうですね、あらためて、国のためという気持ちが新しく出たって言うよりも、すぐ前にわたしは軍需工場で兵器をつくってるでしょう。あれがお国のためだと思っていたから、あえて意識はしなかったですね。軍隊に行くというのは。

当たり前だったです。

実弾射撃もやりましたよ。これも1回だけ。2~3発ぐらいずつ。たった2~3発。弾がないもん。これも石川の村のはずれに河があってね、海からこう流れてくる、その河のこちらから河の向こう側の方の山に、100メーター、150メーターくらいあるかな、そこへ標的を立てて、撃ってやったんですよ。とにかく弾がなかったですよ。もうこれじゃ、戦争できないんだがな、と思ってはいたけど。

想定してないですね。われわれもそういうことは考えてもいなかったしね。だいいちあんまり甘く見てたんじゃない。

3月、4月まではね、寒いでしょ。この沖縄でも2月、3月っていうのは寒い時期ですよ。

あの寒いときに昼は銃眼、陣地構築して、夕方、ものが見えなくなるぐらいになったら、今度はまた浜に行ってね、服は全部とってね、日本の袴下(コシタ・ズボン下)っていうのがある、軍服の下からつける、あれをつけてね、半ズボンみたいなものをつけて、浜まで行って、その浜に石がいっぱい積まれているわけ。これ民間人が集めて、軍隊のあれでね、動員されて、集めたんですよ。これぐらいの石、いっぱい積んである。これ担いでね、海に入っていくんですよ。寒いときに。担いでね、ずっと歩いて歩いてずっといって、ここまでつかって、いったら、そこに縄が引っ張ってある。「ここだ」っていうことで。そこに石を積むんです。「なんでこんなことをするんだろうな」と思って、聞いたの。「なんでこんなことやるんですか」って聞いたの。

舟艇が上陸しないように、アメリカの舟艇が上陸しないように邪魔するの。石を積んで、海の中に。「ええっ、こんな長い海を、これ石積むわけ?」って思っていたけど、そんなの口に出したらたたかれるから、黙ってね、ここの秘密として、みんなが、無言で無言で、もう黙ってこの石を担いで、毎晩これやったの。で今、本当に考えてから、今だからみなさんにこういうお話をするんであってね、あの時分、こんな話をしよったらやられるよ。撃ち殺される。

だからこれも、黙ってやった。で今になって、ああ、ああいうこともやったけど、本当に今になってみたら、あれもこれも今の子どもたちだったら漫画にでも描けそうな話でしょ。石を担いであんた海に行って寒いのに、ね、遠浅でしょ、糸満のあそこは。目的は何かというと今言ったように、「上陸の邪魔をする」というの。こんなでしたよ。

立つも立たないも、立つ話じゃないでしょうこれは。あんな広い海にあんなして石を積んで。ね、その考え方が、その発想がとてもよかったかもしらんけど、今になってみたらおかしい話、物笑いですよ。

当時は日本国民としてそれが当たり前だとしか思っていなかったんですよ。寒いときに石を担いで、そんな漫画みたいな話をね、考えてやったと、じゃ上の人はそんな頭が悪かったかというとそうではなかったでしょうけど、ものがやっぱりないから、そういうことでもして戦争を1日でものばさないかん、本土攻撃をされるよりは1日でもここで長持ちさせないかん、というのが狙いであっただろうなと。あとから聞いた話で、戦争を長引かして、長期戦に持っていこうというのを、その狙いでしょう。本土の攻撃を伸ばそうと、その代わり日本は兵器を少しでも多くつくれると、いうあれじゃなかったですか。

すきまがないぐらいよ、戦艦が、二重三重に。だからここにこの船があると、また後ろ少し下がってこう船があるでしょう。またあそこにある。二重三重にこうなってるから、こっちから見たら全部船になって海が見えない。すごいですよ。あんなに軍艦持っとったんだから。とても戦艦大和つくっただけじゃ戦争はだめだったよ。今考えてみたら。だってあんな広い沖縄のまわりの海、見てごらんよ。軍艦がこうあってまたこうあって、あれ外から陸から見たら全部つながってるでしょ。だから「海がない」って、「海がなくなってる」っていって。こんな、今もここに焼きついてる。「よくあんなに船が軍艦があったな」と思って。あれが一斉に攻撃するでしょう。恐ろしいですよ。

昼は見えるの、銃眼からも、軍艦、海が。あんないっぱい軍艦があって、あれに人が乗ってるかな、と思ったら、「うそじゃないか」と思って、「あんなに人がいるかな、アメリカは」と思って。そのぐらい軍艦がいっぱいだったの。これだけは今でも焼き付いているよここに。でいちばん戦闘中で記憶に残るのは、石峰辺りでは、20~30メートル離れたところにアメリカを見たんですよ。こう、丘があって、われわれはこちらね。むこうはアメリカ。山じゃなく丘。この上が、20~30メートルぐらいのところ。向こうから顔出す場合がある。向こうものんきなやつがいてね、わからないんだろうな、ここにわれわれがおるというのを。こう見たら、上半身裸になってな、これら。今考えたら葉巻吸って、たばこ吸って、銃口を脇に構えて、たばこ吸ってこんなんして、真っ赤な顔をして。

余裕しゃくしゃく。手りゅう弾投げても届くよ、あまるくらいよ、われわれが。そんな近くから見たんだよ、これが。

ばらばらばらーっとね、もうめちゃくちゃですよ。その、電話、向こうは通信が立派でしょう、通信があるもんだから、迫撃砲、艦砲射撃も、大砲なんかも、もう全部一斉に集中射撃ですよ。すきまがないぐらい落ちる。これがもうすごいですよ。とってもあれはもう話ができん。

そのぐらい厳しかったね、これがやっぱり武器の量の問題だなと思った。それで3日そこにおって下がってきたの。もう帰るときは兵隊いなかったですよ、半分しか、半分もいなかったよ。全部やられて。

弾の直撃にあって吹っ飛んで中身が全部飛び出して、うちが入っているあの木の枝にぶら下がっている、肉が。そんな、大変だった。で、わたしの隣にね、弾薬手がおってね、これが出た肉片から血が生だから出るでしょう、これが顔に落ちてるんですよ、これの。肉の血が、赤い血が。わたしはてっきりこれがやられていると思ってね、「お前大丈夫か」と言ったら「大丈夫」と言う。それで「お前、顔が赤い」と、上を見たらぶらさがっている肉が、人間の肉が。こんなんでしたよ。これなんかどこまでこの話信じられる?

砲を使う、戦車でね、戦車が何十台も並んでくるでしょ。手向かいできないよ、これでは。鉄砲を撃ったって戦車に鉄砲を撃ったって、何もならんでしょう。だからもう、そのままやられるしかないんですよ。それで1日か2日辛抱して、また夜下がってきたの。石峰に。その帰りがけはもう半分もいない。だからあのとき誰がどこで、そこで死んだかもわからん。

昼間はできない。昼間もしやったら、向こうが通信でぼんぼんやられるから。それでむこうは距離の真違いなく、どこぬけてどこまで、そこへもう、砲がぼんぼんぼんぼんくるでしょう。だからもうめちゃくちゃですよ。これが小銃みたいな弾だったらいいけど、大砲でしょう要は。破裂するやつでしょ、迫撃砲みたいな。大変だったよ。これは撃たれたあと、この辺におった初年兵でも片っ方の腕が飛んでしまって、首もなくなって、死んで穴が開いたところに、夕べ一生懸命水筒の水飲んで、大砲の跡に穴があるでしょう、そこに毎日雨が降るもんだから水がたまってる。翌日なんか見たら「足がある」とか、「あ、人が浮いてる」とかね。それをごくごく飲んでいたんですよ。

日本は、大砲を撃たすとかっていうよりも、いつも突っ込め、の戦闘が得意だから、それがもうあれだね、普通の日本の戦闘状況ですね。米軍みたいに大砲でやるとかじゃなくして、肉撃攻撃を主としてやる。

やっぱり4~5名グループでね。うん。それから斬り込みっていうのがあるでしょう。斬り込み隊っていうのがあって、4~5名。これも。4~5名グループで、夜、手りゅう弾とか持ってね、突っ込んでいくんですね。

夜は向こうも衛兵だけおって、休んだりビール飲んで寝ているからね。そこを狙って突っ込んでいくわけだから、むこうもそりゃあ、泡くって逃げまどうようなあれでしょう。それでもやっぱり、斬り込み隊に行って帰ってきたというのは、ごくまれですね。1人か2人は帰ったのもおるかもしらんけど、たいていはもうやられてあんまり効果はなかったみたいね、あとからは。向こうもわかってしまってね。

帰ってこないですよ。やられて。だからもうあんまり。あとからそれもなくなっていったんじゃないですか。われわれも糸満に下がってからはそんなものはもうやらなかったですよ。

これはもう命令受けたら終わりですよ。いやといえないしね。もう行くしかないから。その代わりもうあれだ、うまくその斬り込みも要領を覚えたらいいけどね。向こうも生きた人間がやるんだから。

まあ、そうしか考えられないんじゃないですか。第一、100パーセントはもう死ぬというあれでしか行かないからね、だいたい4~5名のグループでたった豆鉄砲みたいなのひとつ持って、手りゅう弾を持って、向こうはひとりひとりが自動小銃でしょう。日本の軽機みたいなもんでしょう。日本の軽機なら、中隊にひとつしかないぐらいでしょう。向こうは個人で持ってるんだから。片っ方の手でバラバラバラ、でしょう、こうして。それはたまらないですよ。

まったく同じですよ。特攻隊と。
海に石を積んで、船が通れないようにするという、あんなおかしな幼稚な話なんかするもんだから、肉迫(にくはく)攻撃っていうのはなんのこともない。苦しみもなんにもない。決してまた、むちゃとも思っていないんです。その方がかえっていいじゃないか、それしか考えられないでしょう。道に穴を掘って、あれがある橋でもね、つぶしておいて戦車が通れないようにしてやろうという、考え方はいいよ。道に、川があった、橋がかかっておると。それを壊してしまえばこないかというと、そうじゃないでしょう。どっからでもつくって道はね、これるんだから。ブルドーザーひとつでいくらでも道はつくれるんだ。

首里から糸満まで行くとき道の途中でね、死者がもういっぱい、ごろごろごろごろしてね、とてもじゃないけど、あれは見たら、におうしね。においはあるし、とてもじゃないけど見られたもんじゃなかった。

「助けてやろう」という気持ちはあるけれど、どうにもならんでしょう。自分も精いっぱいだし、「水くれ、水くれ」とかね。「助けてくれ」というのは普通は、人間の土壇場の話の声でしょう。これをいくらここに聞いているか。忘れられないですよ。

われわれはもうあの、あのにおいだけはいやだね。というかね、犬猫がこの辺で死んで腐っているでしょう。たまたま野原なんか行ってそこでなんか腐ったにおいするなって、ほんのこれ、ほんの小さな範囲でしょう、犬猫というのは。人間が何十名何百名と死んだ人間の、その中を、あのにおいの中を、かいでごらんよ。もう、ここに肉が腐ったのがくっついているんじゃないか、遠くまで行ってもくっついてくるんだから、ここに。このにおいだけは。不思議なもんでね。そこにもやっぱりみんな、いたるところに人間が死んでおった。

何も食べるものはないよ。たまたま死んだ人のポケットから、乾パンを拾ったり、脱嚢(だつのう)があったりすると、手を入れてあけて手を入れて死んでるからどうせ、なんか食べ物があるかないか探して、あったら持っていくとか。配給とかというもんでもないし、どこで、上層部から「はい、これ食え」と、「昼飯だ」「晩飯だ」という、こんなものなかったですよ何も。

あんまり考え込むとね、気が狂ってしまうの。きちがいになるよわたしも。あの壕(ごう)の中に明日のこともわからんとあの壕になんで入っておったんだろうと思って。ただ壕に入って、ネズミみたいにね。27、28日に壕から出て、本部に行くときに、昼間太陽を見て、「ああ生きているんだな、世の中ってすばらしいもんだなあ」と思ったのは今でも忘れられないですよ。

気が狂うんですよ。よく気が狂わなかったなと思う、今でも。今あんな深刻なあれを考えると狂ってしまう、今でも。でしょう。10日も20日もね。外に出たら撃たれるでしょう。昼。よくあの壕の中におってね。ただ、ただ入っているんじゃない。今アメリカが来るか来ないかの問題でしょう。

しかし考えてみたら人間っていうのはどうであれ、時の流れには乗るものであってね、時の流れに逆らう人間はやっぱりおかしいです。おかしくなりますよ。「どうなろうがいい」と、いうその気持ちがね、人間にはあってほしいね。「悪いことはいけない。いけないんだよ。悪いことはいけない。絶対いけないよ」いったら、それは当たり前、今なら当たり前と思うでしょう。だが人間があの土壇場になったときにそこを考える人はいないんですよ。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄戦 住民を巻き込んだ悲劇の戦場 ~山形県・歩兵第32連隊~】

出来事の背景 写真昭和20年(1945年)3月、米軍は沖縄に迫り、4月1日沖縄本島中部に上陸を開始した。米軍の総兵力は54万。迎え撃つ日本軍は防衛召集した県民や鉄血勤皇隊などを含む10万人だった。

戦闘開始から1カ月半、圧倒的な兵力の差で戦い続ける事を強いられた日本軍は6万人あまりが戦死。米軍は沖縄本島の中部から北部を制圧し、5月下旬には那覇市北方、首里の日本軍司令部に迫った。司令部は、玉砕覚悟で首里にとどまるか、それとも南部にさがって持久戦をつづけるかの決断を迫られた。

5月22日、沖縄守備軍司令官、牛島中将は戦闘の継続を決断。歩兵第32連隊も南部、喜屋武半島への移動を開始した。しかし、この冷静を欠いた命令により、沖縄の住民をさらに戦闘に巻き込み、大きな被害をもたらす結果となった。後退する日本軍と避難する住民であふれる南部への道に向けて、米軍は容赦なく砲爆撃を繰り返した。道沿いには夥しい死体の山が築かれた。

沖縄本島南部で、日本軍は洞くつを利用した地下ごうにこもって戦いを続けようとした。また、住民も攻撃を逃れて洞くつに避難していた。6月中旬、米軍の掃討作戦は激しさを増し、「馬乗り攻撃」と呼ばれる洞くつへの掃討戦が始まった。壕に爆弾を投げ入れ、火炎放射を浴びせたのだ。投降の呼びかけに応じない場合、住民と軍が一緒にいた地下ごうにも容赦ない攻撃が加えられた。

6月23日、米軍は喜屋武半島を制圧。軍の幹部たちは次々に自決し、沖縄守備軍は壊滅、組織的な戦闘は終った。

本土防衛の最後の拠点となった沖縄。太平洋戦争中、類を見ない地上戦で、日本軍将兵9万4千人が命を落とし、ほぼ同じ数の一般住民が戦闘に巻き込まれて死亡した。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1925年
沖縄県中頭郡越来村にて生まれる。
1944年
現役兵として歩兵第32連隊に入隊。およそ2週間の基礎訓練を受けた後、陣地構築の任務に就く。
1945年
沖縄戦当時、20歳、二等兵。復員後は文具店を経営。

関連する地図関連する地図

日本(沖縄)

地図から検索

NHKサイトを離れます