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タイトルタイトル: 「野蛮人になってしまった」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 沖縄戦 住民を巻き込んだ悲劇の戦場 ~山形県・歩兵第32連隊~
名前名前: 照屋 清次さん(山形・歩兵第32連隊 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2008年3月

チャプター

[1]1 チャプター1 19歳で志願兵に  04:26
[2]2 チャプター2 直撃を受ける  02:06
[3]3 チャプター3 圧倒的な米軍の攻撃  02:51
[4]4 チャプター4 続出する戦死者、負傷者  04:13
[5]5 チャプター5 戦車への肉弾攻撃  04:15
[6]6 チャプター6 自決の手段になった「手りゅう弾」  01:40
[7]7 チャプター7 食べものも飲むものもなくなった  01:11
[8]8 チャプター8 戦闘に巻き込まれた家族  03:57
[9]9 チャプター9 壕(ごう)の中の兵士と住民  02:23
[10]10 チャプター10 壕(ごう)の中で終戦を知った  02:11
[11]11 チャプター11 白旗をかかげた  02:16
[12]12 チャプター12 残った家族のために生きた戦後  03:21

チャプター

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わたしは19歳でね、志願して行ったんだ。なぜ志願したかというとね、優秀な青年学校なんとかというあれがあってね、そういうのに選ばれたんだよ。それで、君たち何名は志願しなさいという命令が出たんだよ。で志願したんだよ。僕は行きたくなかったんだけどね。「僕、死にたくないから行かない」と言ってね、やったんだけどね、そうはいかない、行けってね、命令されたんだ。命令というよりかもう志願していきよったんだ、みんな。軍隊に。みんな軍隊希望だったんだ。僕らの時代は。昭和18・19年。ぼくら19年入隊だからね。

僕らはすぐ首里(現在の那覇市北方・当時32軍司令部がおかれた)戦線に行ってね、すぐ戦争が始まった。ぼくらもうその兵科から教育も受けていないし、すぐ戦争に行かされて。なにもわからない、ただ弾撃って、死んで、これだけしかわからない。別にそういう行動は分からない。ただ首里戦線に行って大砲撃って、戦車をやっつけたとか、そういうことはわかるんだけどね。また中隊のだれだれが戦死したということもわからない。

わからない。「誰々が戦死した」ということの、命令というよりか伝達があるんだよね。そういうときは、「ああそうですか」と言ってね、ただ首をさげるだけだったね。別に戦争という気分はなかったよ。普通の青年学校の訓練と思ってね、やっただけだよ。戦争という気持ちはなかった。戦死してたら靖国神社に行くということをね、言われてるからね、頭にはいつも名誉とかあげてるから、「いいね」という、そういうことだけしか思わなかったよ。いつもこういう教育をされているから僕らは。「靖国神社に行く」っていって。死ぬのが名誉だったんだよ。戦死するのが。普通なら人間だったら生きるのが名誉かもしれないけど、軍隊では死ぬのが名誉だったんだよ。そういう状況だったんだよ。

毎日いじめられとるさ、初年兵は。

Q:どんなふうに?

どんなふうにって、戦闘中でしょ、爆弾、鉄砲の弾なんかばんばんくるでしょ、そういうときに「水くんでこい」とかそんなこと言うでしょ、すると行かなきゃいけないでしょ。行かなければ殴られるでしょ。命令だから。軍隊というのは命令だから。軍隊は命令というのは十分あれだからね、命令に従わなければ首だから。そんなもんさ。日本は。命令絶対服従だから。

私は沖縄出身でね、偵察隊という名目でね、いつも真っ先にね、戦地を歩き回っていた。状況よく分かるでしょ。だいたい地形も分かるでしょう。だからいつも先頭でね、毎日歩き回らされてね、いつも第一線部隊の第1番目だったよ僕ら、初年兵は。状況分からなければひとつのことできないでしょう。だから僕ら状況分かるから地形も分かるから、いつもいちばん先に連れられて歩きよったよ。初年兵だから。

壕(ごう)にかつがれてみんなより僕は生き延びたんだよ。そうじゃなきゃもう、とうに死んでいた。骨が肥料になっていたかもしれない。ぼくはいちばん先にね、頭やられて耳がやられて聞こえなくなったんだ。頭ばかになったんだ。それで壕の中に閉じこめられて生きてきたんだよ。そうじゃなきゃ生きてない。とうに死んでいる。

Q:どういうときに耳が聞こえなくなって頭をけがしたんですか?

Q:爆弾落として。僕ら歩兵砲と言ってね、小さい砲だったんだよね。爆弾を集中攻撃にされてね、それで砲も吹っ飛ばされて、人間も4~5人いたんだけど、吹っ飛ばされて、僕は耳をやられて何も聞こえない、死んでるからって壕の中に担いで埋めようとしたらしいんだ。投げようとしたとき息したらしいんだ。で「こいつは生きてる」ってね。またひっこいて持ってきたんだよ。そういう話になってるんだけどね。おかしいいよ。

攻撃されてね。僕は歩けなかったんだよ、右の足やられてね。長いこと松葉づえだったんだよ。で、ようやく松葉づえをはなすことができて、歩けるようになったんだ。

わかるから。で、あとからうちの班長がね、「照屋、お前よう生きたな」というて。「なんでですか」っていったらね、「君はもうばかになっていたからね、僕らが壕の中にこう捨てたんだよ」って。穴になって、「ああそうですか、ありがとう」っていって、笑ったんだけどね。あんなもんだよ、兵隊は。

Q:初めてアメリカ軍が攻撃してきたときはびっくりしたのでは?

びっくりしたというよりかはね、何かねと思っとるぐらいだよ。

Q:何かねというのは。

Q:爆弾ばんばんばんばん落とすでしょ。あちらが爆発するみんな。弾がぶんぶんくるでしょ、「戦争ってこんなものかな」って思ってね。ただそれ、何も怖いこと無かったよ。ただ、「こんなもんかな、戦争ってのはこんなもんかな」、ただこれだけしか感じない、もう頭ばかになっていた、とうに。戦争中は。何も考えることできなかった。もういつ死ぬかな、死ぬのを待っていたんだ。名誉の戦死というのがあるでしょ、日本には。これを待っていたんだよ。僕は特に初年兵だから、いつもそういうことを思っていたんだ。

Q:どんどんどんどん弾が空から降ってくるんですか?

僕らいつも穴の中に引っ込んでいたんだよ。それで生きてるんだよ。

Q:ずっと穴の中にいたんですか?

そうそう。もう沖縄では50メートルごとに穴があるからね。あの時分は。敵がばんばん撃つな、と思ったらすぐあの中に入るんだよ。各分隊ごとにさ、みんな穴の中に入って命をしのいでいるみんな。生きている人間は。そうじゃなきゃみんな死んでいる。生きた人はいないよ。

Q:外に出ていたら生きている人はいないんですか?

外に出ていたらね、僕らは歩兵砲だったからね、歩兵砲というのは小さい大砲なったから。僕らいつも壕の中にね砲をつっこんでね、あんまり外に出なかったよ。だから命が助かったんだよ。

たぶん爆弾ぼんぼん撃っても、破片はこないんだよ。穴の中には。だから助かったんだよ。そうじゃないともうとうに死んでいる。骨になってたよ。僕とこはうちは耳をやられてね。頭をやられてね。もう意識不明になっていたんだよ。穴の中につっこまれて。それで助かったんだよ。

私は、頭をやられて、耳もやられてすぐ壕の中に衛生兵が引っ張っていってさ、寝台に寝かせて、治療してくれたから命が助かったんだ。そうじゃなきゃ助からないよ。

これは、こう倒れるでしょ、弾が当たって倒れるでしょ、「水くれ」って呼ぶんだよね。くれたら出血するから、あげられないんだよ。そういうことがあるんだよ。戦地はこんなことがあったんだよ。

Q:照屋さんもけがをした人から水をくれと言われたこともあるんですか。

ある。あるんだけどあげなかった。出血したらまた死ぬからね。死んだら何も値打ちないからね。「生きておけ」って言ってね。あげなかったよ。そのままだったらまた衛生兵が後方から来るからつれて、看護隊が持って行って治療するからいいんだけど、水あげたら出血するからね。死んでしまうからあげなかった。こんなことを考えていた。うちも長いこと松葉づえだったんだけど、でまあ、会うと「君は松葉づえどうしたか」ってね、「治ってる」って言ってね。笑ってるんだけどね。「そうか」っていってね。そのままだけど。「君は松葉づえで良かったんじゃないか」っていって、「松葉づえは逃げることできるでしょう。松葉づえしかない人は逃げることできないでしょう。松葉づえついたほうがよかった」っていうんだよ。

Q:アメリカの兵士はどんな武器で攻撃してきていたんですか?

僕らはアメリカの話はわからないよ。なぜかというとね、いつも「戦争を勝つんだ」と言ってね、いう気持ちだから。負けるという気持ちはないから。「アメリカは負けるんだ、僕ら勝つんだと」いう気持ちだからね、何もそんな勝ち負けのこと考えなかったよ。いつも「今日も生きてればよい、明日生きてればよい」それだけしか考えなかったよ。「あ、今日も生きた、明日も生きた」ただこれだけしかわからないよ。何も考える必要ないし、また考えようと思わなかった。あの時分は。「いつ死ぬか、1秒前で死ぬか、2秒前で死ぬか」そんなことを考えていたよ。「死んだら靖国へ行こう」といって、みんなこれだけしか思わなかったよ。なにも生きる、こういうのは考えなかったよ、ただ「死んだら靖国で会おうね」といって、それだけだったよ。そんなもんさ。だからいつもあの、先任兵が、いまもう相当年とってる方からね、話するんだけどね、「僕らの時代、哀れな時代だったな」というんだよ。「ああそうですか」っていってね、話するんだけどね。ばからしいよ。あの、軍隊ではいろんな話あるんだけどね、僕はそんな話は聞きたくないから聞かなかったんだけどね。飯ごう炊こうとしたらね、肉が飛んできて、飯ごうの中に入ってたとか何とかね、そういう話もあったんだけどね。

戦死したらあの衛生兵がさ、みんな保管してさ、暇あったら埋める。そうでないとそのまま。放置して、そのまま。そうじゃなきゃそうしないとみんな戦死するから、もういちいち死人を片づけると言ったらね、みんなやられるからね。そんなことしないよ。戦争はそんなもんさ。僕ら初年兵だからあんまりわからなかったんだけど、ただぼくら毎日いじめられとるから、毎日、「ああ、今日は生きてるね、明日は生きてるね」と、それだけしかわからなかった。

「ああ、もう死ぬよ、靖国神社で会おう」と言ってみんな行くんだよ。想像もつかないでしょう、君たちには。「みんなどうせ死ぬから、靖国神社で会いましょう」と言ってみんな行くんだよ。戦争ってそんなもんさ。あんた方言っても想像もつかないはず。で、箱爆雷と言って、6キロぐらいあるんだけど。これをこう持って、全身なくなるよ。なくなるけど戦車の前に行くんだよ。これ箱爆雷を持って、戦車の前に行って戦車のチェーンを切るんだよ。それで挟まれるんだよ。爆雷を持っているから爆発してチェーン切ったら戦車止まるでしょ。そのときにまた歩兵部隊が来て攻撃するんだよ。戦闘って言うのはそんなもんさ。人一人の命を何とも思わない。戦争というのは。「天皇陛下のために尽くす」といって。「国家のために尽くす」といって。今の若い連中は考えられないはずだけどね。僕たちの時代はこんなもんだったさ。「忠君愛国」といって。

Q:箱爆雷っていうのはどんなものなんですか?

あの、6キロくらいあるんだけどね、これを胸にこう抱いてさ、戦車の下敷きになるんだよ。戦車のチェーンがあるでしょ、あの下敷きになるんだ。それでチェーン切るんだよ。戦車が止まるでしょ、チェーン切ったら。それでまた、歩兵部隊が攻撃するんだよ。そんなものだ。戦というのは。

Q:箱爆雷を持って戦車に突っ込んでいった人はどうなるんですか?

亡くなるさ。肉片もないさ。はさまるんだから。戦車に挟まるんだから、肉も何もないさ。なくなって。みんな飛んでいって。戦車攻撃というのはそんなもんさ。

そうしなければアメリカの戦車を止めることできなかった。全滅するからね。1人くらい失っても兵隊のことはいいでしょう。だからそんな考え方だったかもしれない。僕らも訳がわからないんだから。だから肉迫戦といってね、箱爆雷持って戦車に挟まれに行くんだよ。で戦車を爆発させて、箱爆雷持って行って戦車の下に挟まれて爆発するでしょう、チェーンが切れるんだよね。で止まるんだよ。千社はそんなもんだったさ。

僕はけがをしたから、爆雷を持って攻撃に行こうという機会も与えられないし、壕の中にもう引っ込んで、まったく避難民みたいにしてやられたから、生きて帰ったんだ。そうじゃなきゃもう、とうに死んでいる。もうあの世に行ってるよ。僕は戦友8人いるんだけど、2人しか残っていない。6名みんな死んでしまった。

火炎放射器か、(米軍が)どんどんどんどんやるんだよ。山の上からやるんだよな。山の上から、だいたいは。で、日本の兵隊は下にいるでしょ、で山の上からやるんだよ。火炎放射器で。ババババーのせて。音もけっこういるよ、ババババーとして、燃える音が。でそのときはみんな穴の中に入るんだよ。穴の中から出ないよ。

手りゅう弾で自分で死ぬんだよ。歩けない人は。僕ら見たことなかったんだけど、そういう話をやっていた。実際戦争にあたって見た人でなければ、そういう話もできないんだよね。想像もつかないんだよ。たくらんで自分で10名くらいの人をみんな吹き飛ばした、という話もあるからね。そういう想像もつかないでしょうあんた方は。僕らそういうことあたったことないから、でっち上げの話だろうといってね、僕ら聞いたんだけど、「そうかな」と思ったんだけどね。自爆といってこう10名くらい集ってさ、手りゅう弾で皆自爆したという話もあるんだよ。

手りゅう弾で自決した人は、自分が体力がなくなって哀れな状態になってやったんじゃないかな。僕は耳もやられて頭もやられて、足もやられて、動けなくなったからやろう、と思ってたんだけど、戦友が「やるな」といったもんでね。やらなかったんだけどね、僕らもそこで自爆しようとした。そういうときは何も考えないよ。ただ死ぬだけ。ただ死んでしまえばいいんじゃないって、ただこれだけしか考えないよ。何も考えない。

ない。全然食べ物はないよ。あの、中隊の食料はね、あったんだけどね、それも何かな。とにかく生きられるくらい食べたんじゃないかな。それで生きて帰った。そうじゃなきゃ死ぬかもしれない。

食べ残しなんか食べてね。一般の炊事やって、食べ残しがあるでしょう。そういうの、残っている。ああいうの食べて、それで生き延びてきたんだ。で草の葉っぱも食べたな。で、あのおしっこも飲んだという人もいるんだけど、僕らは飲まなかった。おしっこ飲んだらますます渇く、ということ僕らは頭に残っていたからね。そういう話聞いていたからね、僕は飲まなかったんだけどね。そういう飲んだという人もいるという話を聞いたよ。

うちの父と母は南部で避難してさ、なくなったさ。伊敷(本島南部旧真壁村)というところでね。あの戦死場所も分かってね、骨戻ってきてちゃんと収めたんだけどね。父と母は。伊敷というところでなくなったよ。

兄貴は海軍の航空隊でね。航空兵だったんだよ。あれは、沖縄攻撃に参加したらしいんだよ。それで「このへんでやられた、潜水艦でやられた」っていう話だったんだけどね。見ていないからはっきりわからない。話だけを聞いた。戦争とはそんなもんさ。みんなあちこち死んで。

家族みんな戦争に巻き込まれた。

もうみんな、焼け野原になってるでしょう。だから「ひとりも生きていないんだな」と、ただそれだけしか思ってなかった。別に何も考えなかった。

そういう状況だなと思った。状況を見て。もう、キビ畑はみな真っ黒でしょう。畑と、おうちはないでしょう。みんな焼けた、焼け野原になって。だから人間も生きていないなということをね、すぐ頭にできたんだよ。


家も1軒も建っていないでしょう。みんな焼け野原になっているでしょう。だからもう、「ここらこの辺の家も死んだんだな」と、ただこれだけしか思わなかったよ。

いや、死んでいたと言うことは分からない、「死んだんだなあ」と思ったんだよ。焼け野原になってるから。もう、屋敷もないでしょう。おうちもないでしょう。みんなキビ(サトウキビ)なんかも焼け野原になってるでしょう。屋敷も全部焼け野原になってるでしょう。だから、「ああ、生きた人いないんだなあ」と。ただこれだけしか思わなかった。「もう、みんな死んだなあ」と思ったな。「生きた人、僕らばっかりだなあ」と思った。
戦争のこと本当のこと言えないよ。戦争のこと本当のこと言うとね、夜眠れないさ。夢心地でね、おこされてね、何かにおこされて、精神的に異常をおこしてるんだよ。それで憎しみが出てさ、死ぬ覚悟になってくるんだよね。こういう、夢心地になったら。だからこういうこと思い出したくないさ。「みんなにすまない」という気持ちになってきてね。

Q:みんなにすまない気持ちというのは?

自分は生きてるでしょう。自分は幸せだけど、死んだ人かわいそうだなあ、と思ってさ。特に親なんか、年寄りだったから、今生きていれば孝行して、ご奉公してくれたのになと思ってね。難儀もしないで食べられる時期があるのにね、と言ってね、思ってね、いつも悔し涙が出てね。たまらなかったよ。

住民を守っていたよ。自分の部隊の中隊もぜんぶ、命令によってさ、動くんだけどさ、これもひとつの守りだよね。それから住民もね、「こっちを動くな」とか、「こっちを動きなさい」とか、こういうことを言うのね、守りだからね。これはちゃんと兵隊がね、「こっちにいてくださいよ、こっちから逃げないで下さいよ、こっちからあっちに移動するのは危険だから、こんなことしてなきゃいけないよ」とか、こういうことをね、兵隊さんがみんな住民に言うんだよ。言ったら住民は「はいはい」と言ってね、逃げた人は、自分で行動した人は死んだんだけど、命令聞いた人は生きている。そんなもんさ。

それはね、壕の中からね、自分で逃げていくんだよ。住民が。なぜかというとね、飯はないでしょう。ひもじい思いしてるでしょう。だからうち帰ったら、自分の壕に行ったら飯ある、ということを住民は考えているからね、自分で逃げていくんだよ。それでやられるんだよ。

部隊がね、住民をね、「待ちなさい」とか、「どういう方向、どうしなさい」とか言えないんだよ。住民は自分勝手だから、出ていったらもうおしまいさ。自由行動だから、戦争の時に「あんた、待ちなさい」と言わないでしょう、住民に。軍隊だからと言って、住民に「あんた待ちなさい、行くな」といよいよ言えないでしょう。だからそんなこと関係ないよ。住民は出て行きたいなら自分で出て行く。戦死しても何もこれは関係ないよ。自分で出て行ったんだから。しかし軍隊は守っているから、住民を守っているから、「出ていくな」とは言ってるんだけど自分で出て行くからしようがないでしょう。戦争というのはそんなもんさ。

壕の中でわかったんだ。分隊長がさ、命令報告があったんだ。であの何月何日にね、天皇陛下の命令でね、天皇陛下の勅令で、戦争が終わったという放送があったということを放送していたんだ。それでわかったんだ。それでそのときね、みんな泣いてね、わあわあわあわあ泣いてねみんな、大人がみんなわあわあ泣いててさ、僕らは初年兵でしょ、僕ら若いからね、泣かなかったんだけどね、おやじ連中みんなわあわあ泣いてね、あの悲しみは何とも言えないね、今も思い出すよ。

Q:なぜ悲しかったんですか?

だから、家族がね、みんな死んだ、ということをみんな思っていた。終戦になってるでしょ、戦争負けて。家族もみんな死んだと、死んでしまったという悲しみさ。その悲しみがわき出てきて、みんなわあわあ泣いていたよ。特に内地の方はね、うちにも帰れないしね、こっちで戦争して、無残なことをしたと言ってね、そんなことを思ってね、悲しかったよと言って。今も会ったらそんな話をするんだよ。

Q:終戦になったとしばらく分からなかったとき、何をしていたんですか?

何もしない、壕の中では。ただ食って、起きて、これだけ。なにもしない。ただ「今日は生きてるねえ」とそれだけ。「明日生きるかねえ」と、それだけしか考えない、何も考えない。

僕の阿波根(沖縄本島南部糸満市)の壕は頑丈な壕でね、出ることは少なかったんだよ。壕の中にね、中隊長が命令して、「動くな」と言うことをいわれてね、動かなかったあんまり。それでみんな助かったんだ。中隊70名ぐらいだったんだけどね、みんなが助かった。動いた連中はみんな死んでしまった。勝手に行動した人は。中隊の、中隊長の命令を聞いた人は全部生きている。だいたいは。戦争の時は、いろいろ考えないから、考えられないよ。こっちが話したところで、あんた方想像もつかないはずだから。

歩ける人はね、元気な人は自決する人はいないはずよ。いないと思うよ。僕らの中隊では。そういう感じしたんだけどね。動けなくてもうどうしようもない、という人が自決するんだけどね。そうでないと歩ける人はもう全部外に出て歩いて、「おうちに帰りたい」という気持ちだからね。自決する人いなかったと思うよ。どうしても動けないという人はね、自決したかもしれないんだけどね。僕の中隊では動ける人はぜんぜん、自決ということ考えなかったはず。僕ら中隊は白い旗を揚げてね、こうみんな一緒に出てきたからね。降参旗さ、日本には降参旗というのがある、白い旗、大きな旗を持って、中隊長が持って、一般兵がこう並んでさ、出て行ったよ。それで捕虜になったの。

やけくそになっているさ。それからあの、家内がいるでしょう、家族がいるでしょう、「ああ、こいつと食わさんといけない」といってね。それから気持ちを切り替えて働いたんだよ。いつもやけっぱちになってさ、どうせ、やけくそになってるからもう、「どっかに逃げようかなあ」とも思っていたんだよね。しかし、家族がいるからそうもできないでしょう。そんなことを考えて今まで生きてきたんだよ。みんな今、僕ら初年兵連中が集まるとね、「君、戦争のときどう思ったか」って言って、「『ああ、僕は生きて良くなかったよ』って思ったよ」ってみんな言うんだよ。生きて良かったという人はいないよ。「生きて悪かった」と言うんだよ、みんな。なぜかというと、戦争のことを考えるとばからしくなって、何かばか見たようなことを考えてね。悔しいことがいつも思い浮かんでね。「生きたくない」というようにみんな言うんだよ。そしたら、「もう生きているのに、そんなこと言わん方がいいよ」と僕は言うんだけどね。みんな、言ったらまた、「そうだね」と言ってね、「家族もいるからもうそんなこと言わん方がいい」と言ってね、言うんだけどね、そんなもんだったんだよ。

食べ物がなかった。いちばんつらかったな。若いからね、もう、家内、子どもがおるしね、食べ物がないでしょう。いちばんつらいのはこれだったね。だからあの、もう今から子どもも作らない、また畑もしないと言うことになるとね、またますます貧乏になるからそれじゃいけないって、働かなきゃいけないからっていってね、働こうと思って、食べ物がないでしょう、働けないんだよね、で、やせっぽっちになって、そういう苦しい思いはね、今もいつも忘れていない。沖縄では何もないでしょう。だからあの、サトウキビしぼってさ、子ども達にあげよったよ。

ばからしくて話ができないよ。まったく、野蛮人だな。僕らがやった思い出は野蛮人だね。戦争というのは。人を殺すのを何とも思わない、人を取り扱いするのも何とも思わない、そういうもんじゃないかな、戦争というのは。野蛮人じゃないかな。人間は人間と思っていない、戦争というのは。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄戦 住民を巻き込んだ悲劇の戦場 ~山形県・歩兵第32連隊~】

出来事の背景 写真昭和20年(1945年)3月、米軍は沖縄に迫り、4月1日沖縄本島中部に上陸を開始した。米軍の総兵力は54万。迎え撃つ日本軍は防衛召集した県民や鉄血勤皇隊などを含む10万人だった。

戦闘開始から1カ月半、圧倒的な兵力の差で戦い続ける事を強いられた日本軍は6万人あまりが戦死。米軍は沖縄本島の中部から北部を制圧し、5月下旬には那覇市北方、首里の日本軍司令部に迫った。司令部は、玉砕覚悟で首里にとどまるか、それとも南部にさがって持久戦をつづけるかの決断を迫られた。

5月22日、沖縄守備軍司令官、牛島中将は戦闘の継続を決断。歩兵第32連隊も南部、喜屋武半島への移動を開始した。しかし、この冷静を欠いた命令により、沖縄の住民をさらに戦闘に巻き込み、大きな被害をもたらす結果となった。後退する日本軍と避難する住民であふれる南部への道に向けて、米軍は容赦なく砲爆撃を繰り返した。道沿いには夥しい死体の山が築かれた。

沖縄本島南部で、日本軍は洞くつを利用した地下ごうにこもって戦いを続けようとした。また、住民も攻撃を逃れて洞くつに避難していた。6月中旬、米軍の掃討作戦は激しさを増し、「馬乗り攻撃」と呼ばれる洞くつへの掃討戦が始まった。壕に爆弾を投げ入れ、火炎放射を浴びせたのだ。投降の呼びかけに応じない場合、住民と軍が一緒にいた地下ごうにも容赦ない攻撃が加えられた。

6月23日、米軍は喜屋武半島を制圧。軍の幹部たちは次々に自決し、沖縄守備軍は壊滅、組織的な戦闘は終った。

本土防衛の最後の拠点となった沖縄。太平洋戦争中、類を見ない地上戦で、日本軍将兵9万4千人が命を落とし、ほぼ同じ数の一般住民が戦闘に巻き込まれて死亡した。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1926年
沖縄県糸満市にて生まれる。
1939年
兼城尋常高等小学校卒業。
1945年
現役兵として歩兵第32連隊に入隊。沖縄戦当時、19歳、二等兵。復員後は沖縄にて農業などに従事。

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