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タイトルタイトル: 「小さなスコップ陣地構築」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ペリリュー島 終わりなき持久戦 ~茨城県・水戸歩兵第2連隊~
名前名前: 萩谷 順太郎さん(水戸・歩兵第2連隊 戦地戦地: ペリリュー島  収録年月日収録年月日: 2007年12月1日

チャプター

[1]1 チャプター1 ペリリュー島へ  02:33
[2]2 チャプター2 陣地構築  07:58
[3]3 チャプター3 兵士になるということ  01:54

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ペリリュー島 終わりなき持久戦 ~茨城県・水戸歩兵第2連隊~
収録年月日収録年月日: 2007年12月1日

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小さい島で、一本、舗装道路が狭い、なんていうか、自動車1台、ようやく通れるくらいの舗装道路が、飛行場まであったんです。あとは、全然、頭も、何も、こう入れるような、ジャングルだないの。そんで島の、ここで言えばニワトリですか、それを野鶏なんだが、それがいっぱいいて、チョロ、チョロチョロ出たり、入ったりしてたの。じゃから、「いやこれは、えれえ島へ、来たな」と思って着いたの。そしては、その飛行場のそばへ着いたら、もう零戦が300機くらい、飛行場にあったの。そんで毎日、朝の2時半から、3時にエンジンをかけて、ニューギニアとか、向こう豪北方面へ、爆撃行くのに、随行していくんだね、1式陸上攻撃機って、大きいのに、その零戦がくっついて護衛して、そんで、爆撃しいしいやってるうちに、しまいに、飛行機がいなくなっちゃったの、行った飛行機が、帰ってこないんだ、落っことされちゃって。

ほんで、300くらいいた飛行機が、ほとんど敵さんが上がる前には、いなくなっちゃったの。じゃから、「いや、たいした島へ着いた」と思っていたんだけど。ただ、パラオ諸島で、そのペリリュー島っていうのは、海軍航空隊のニューギニアとか、ラバウルへ行く、中継基地だったんだ、ペリリュー島は。

印象っていうのは、とにかく「いい島だな」と、きれいだから島は、珊瑚礁で。そして、海も、とてもきれいなんだ。ほんと、なんて言うか、今で言えば、観光地だっぺが、とても、素晴らしい所だったの。うんじゃから、「これはええ所へ来たな」っちゅう印象でいたの。

そしたら、今度は、配備に着いたら、陣地も何もないんです。それで、次の日から、今度は陣地構築始まったの。僕らは2大隊で、アメリカさんが上がる、正面だったの。4中隊、5中隊、6中隊、そんで、陣地構築していて8月30日に大体、陣地は完成したの。

完成したと同時に、病気になっちゃったの。それで、野戦病院へ行ったら、200人くらい患者がいて、「この中で重いものだけ、10人選ぶ」っちゅうわけで、そんで、その10人の中へ入っちゃったの。そんで、その次の日、兵站病院から、患者を迎えに来たの。そのとき、空襲があったんで、その船が偽装して、待ってたんです、僕ら行くのを。それを待ってないで、空襲されたから、帰っちゃったら、僕らをそのまま、ペリリューで死ぬほかない、生きて帰れない、とても。


Q:病気になってしまったのは、どうしてだったんですか?

 激務だから、夜も寝ないで、陣地構築だから。そして、栄養不良だっぺよ、ろくなものも、食えねえから。野菜なんたら、全然ねえから、乾燥野菜だ。味噌だって、生味噌だねえから、乾燥味噌だから、醤油だってみんな、乾燥した醤油、現在のような醤油と違うよ。

そんで、早く言えば、栄養不良のために、腸膜炎になっちまったの。「ここでは治んねえから、もうあした、兵站病院から、船が来っから、そしたら、乗っていくように」って言われて、ほんで、その船に乗ってパラオ本島へ来たの。


Q:そんなに大変だったんですか? 陣地構築は?

 陣地構築は大変だよ。機材が、ろくなものねえもの。ちいちゃいシャベル、だっぺよ、あんなんだもん。今のようなブルドーザーのようなんて、あるわけじゃねえもの。じゃから、その陣地構築をすんのは、少しばかりだねえよ。そんで、その陣地構築が、8月30日で完成したの。


Q:小さいシャベルで?

 小さいの、シャベル小さいのね、背嚢へ背負って、あるくようなヤツだから。ほかに重機なんちゅうのはねえから、今のような、ブルドーザーなんてあってて、こうやって、掘るなんちゅうことはねえから。

つらいなんちゅうもんだ、ねえよ。寝る時間、ねえくらいやもん。ほんじゃから、その陣地構築はやったけども、演習はできない、そういう島だから。全部、兵隊を集めて、演習なんかできない、陣地構築はもう、完全にもう、艦砲受けても、大丈夫なような、あれにやってたの。

じゃから、17万発もペリリューへ撃ち込まれても、大した被害はなかったの。じゃから、アメリカさんは、もう全滅したとばっかり、思ったんだねえの。航空部隊では、爆撃する、艦砲は17万発も、撃ち込む、島は緑はなく全部、珊瑚礁のようにしたりで、緑なんてねえから。そんじゃ、上がってきたの。それを待ってて、今度は一斉に、攻撃したから、もう向こう(米軍)の海兵隊、1師団は大騒ぎになっちゃった。


Q:「演習することができなかった」っておっしゃいましたけども、それはどうしてですか?

 演習してたら、陣地ができんめえよ。演習はもう、満州でたくさんだ、満州でやってたから。

洞くつが珊瑚礁なもんで、幾つもあるですよ。そんだから、もうそれを壊しながら、やんだけど、その石がおっ欠けねえんだよ、なかなか、壊せねえんだ。そんでも、まがりながらも、陣地構築が出来たの。

硬くて。そして、シャベルくらいでは、壊せねえから。それで、ダイナマイトなんと使って、壊したりなにして、ようやく、陣地が完成したの。そいで、毎日、空襲が来んだから、陣地構築していても退避もしないで、なんめ、毎日空襲だから。まあ、日曜日は来ないんだわ、アメリカさんは、日曜は休みなんだわ。じゃから、その日の4時には、持ってきた爆弾でも、なんでも、みんな落っことしていっちまうの、4時辺りで、その日終わりだから。だから、そういう戦なんだ。こっちは、夜も何もねえよ、陣地構築してね。


Q:そのときは、どういうお気持で陣地構築をされていましたか?

 自分の身を守るための構築だから、一生懸命だよ。じゃが、いつかは(米軍が)上がって、きっとは、思ったけどもね、まあ、8月末、9月15日とは思わなかった。

Q:萩谷さんが入隊したときはどんなお気持だったんですか? その、兵隊さんになるときというのは、当時?

 いや、その気持は、うれしかったよ。兵隊に行くっていうのはね、今のような、敗戦したころと違うからね。ほんでもう、厳格だから。

なんていうかな、あの当時は、みんなが現役で、甲種合格で、入隊できるのは、最高だったっぺ。気持はいかったよ。今のような、あのころのようなあれが、今あったら、今のわたしらは、なんぼかいかっぺが、今はね、全然、そういう修養の場がねえから。

どういう感じって、今の時代が、違うから、まず、うれしかったことは、事実だわね。まず、天皇陛下のために、ご奉公できんだもん、こんないいこと、あんめ。現在の全然、思想と違ってたから、あのころ、ね。

今は、そういう考えは、あんめ、今の若い人には。もう、厳しいなんちゅうもんだねえから、軍隊生活っていうのは、ほんとに。

出来事の背景出来事の背景

【ペリリュー島 終わりなき持久戦 ~茨城県・水戸歩兵第2連隊~】

出来事の背景 写真 昭和19年(1944年)、米軍は、ペリリューを含むパラオ諸島をフィリピン奪還の拠点として利用するため、攻略を決定する。一方、日本軍は、パラオを死守するため、飛行場のあるペリリュー島に歩兵第2連隊を含むおよそ1万人の部隊を派遣した。
 9月13日、米軍は艦砲射撃を開始し2日後の15日、「2,3日で陥落させられる」との予想の下、3万人近い部隊を上陸させた。これに対して日本軍は島じゅうに張り巡らせた洞窟陣地を使って組織的な徹底抗戦に出た。日本軍は、米軍の圧倒的な兵力と物量に対し2か月以上にわたって抗戦し、1万人を超す戦死者を出して11月25日、組織的な戦闘は終結した。一方米軍も、日本軍の激しい抵抗によって、1万人近い戦死傷者を出した。
 ペリリュー島の戦いでは、洞窟に追い詰められた日本兵たちの多くが、死ぬなら敵に突撃し一矢報いて命を散らしたいと願ったが、大本営は「玉砕」を禁じ、「持久戦を完遂せよ」という命令を出していた。
 昭和20年8月の終戦後も、生き残った兵士たちは洞窟にたてこもり続け、戦闘終結から2年半後の昭和22年4月22日、元海軍少将の説得でようやく兵士たちは武装解除に応じた。そのとき生き残っていた日本兵はわずか34人だった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1922年
茨城県上陸太田市にて生まれる
1943年
歩兵第2連隊入隊。満州に駐留
1944年
ペリリュー島に転進。パラオ兵站病院に入院する。当時、22歳、兵長。その後、師団経理勤務部に勤務
1947年
復員。復員後は出身地にて酪農業を営む

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