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タイトルタイトル: 「敗戦を説得されて壕を出る」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ペリリュー島 終わりなき持久戦 ~茨城県・水戸歩兵第2連隊~
名前名前: 永井 敬司さん(水戸・歩兵第2連隊 戦地戦地: ペリリュー島  収録年月日収録年月日: 2008年1月8日

チャプター

[1]1 チャプター1 満州から南の島ペリリューへ  04:04
[2]2 チャプター2 戦闘に備えて  03:06
[3]3 チャプター3 米軍上陸  08:33
[4]4 チャプター4 洞くつ戦  04:12
[5]5 チャプター5 持久戦  04:12
[6]6 チャプター6 米軍に見つかった壕は次々に破壊されていった  09:07
[7]7 チャプター7 永井さんは、破片を受け、負傷した。  06:45
[8]8 チャプター8 ペリリューの戦いを振り返って  02:40
[9]9 チャプター9 知らなかった終戦  06:21

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ペリリュー島 終わりなき持久戦 ~茨城県・水戸歩兵第2連隊~
収録年月日収録年月日: 2008年1月8日

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だけどあの緑のあの静かな島に着いたときには、これは、3か月後あたりに戦闘をやるとは思わなかったですね。あの平和な島で緑。私が一番あの島に着いた印象は、平和で緑の濃いのには驚きました。南方のあの緑の濃いのは、また独特ですよね。

北満にいたせいか。要するに乾燥した砂漠、向こうの満洲に、北満というのは、砂漠地帯なのですね。ラクダなんかがたくさんいて、草もこのぐらいしか伸びないのですよね。大きい木も、いくらかは白樺がありましたけれどもね。

 そういう土地から一挙にもう向こうへ行ったもんだから、緑のあの濃いのには一番印象でしたね。これが平和の島でね。まだ、海岸にたくさん椰子の木が並木になってありましたから。島民もそのころおりましたからね。まあ、小さい平和な島で、あの緑の濃いのに一番驚きました。それが第一印象ですね。

本当に小さい島ですからね。まあ、その上陸当時は、非常に戦況が切迫していたので、大きな輸送船から上陸するまでのその資材や弾薬、そういうものを、非常に大きな船から降ろすのには急を要したので。あのころ、輸送船が少なかったので、すく引き返すのに時間を切られてね、下船作業をやらされて。

それで本当に着いてすぐに私どもは、その当時はもう船の中で水戸の2連隊はぺリリューにもう船が着くということが決まったんじゃないですか。すぐに本当に港に着いてすぐにね、ぺリリューのほうへダイハツに乗って、そしてあれはそうですね、あれは2~3日かかったんじゃないですかね、輸送のために。

私どもは、富田少佐の第2大隊でね、アメリカ軍が一番の上陸地点に警備についたのですがね。私どもは本部付なものですから、ほかの中隊みたいに陣地に配備されたわけでないのですが、富山(第2連隊の守備する台地)という山にね大隊本部の壕が指揮所があったものですから、そこに私どもは、まあ第二線ぐらいになるのですかね、第一線はイシマツとかイワマツとそこへ上陸しましたから、第一線の方は、おそらく150メートルぐらいのところに丁度堤防がたくさんありまして、リリーフであれは、こうしゃがむと3尺から4尺ぐらいの堤防が陣地の近くにあったんです。そこに中隊の配備部隊はそこに配置されたのですね。私どもは富山に。富田少佐らと一緒にね、そこに配置したわけです。

敵が上陸した場合、島嶼(とうしょ)によって、島の戦闘というものは、小さい島ですからね、前線陣地というのを造れば、長いこと抵抗、その島を守ることができるという、前線陣地の態勢をとったようですがね。その当時、大本営のほうでは、もうパラオを、結局、グアム、それから硫黄島近くに戦線が拡大してきてからは、あの「太平洋の防波堤たれ」ということは言われましたね。それだから、我々にはあの線で、日本は防衛するということの立場で、あくまでも太平洋の防波堤たれということを言われたわけだから、死守しなさいということでしょうね。

だから、そうですね。直接、上陸を9月にしてから3か月ぐらいのうちは、全然もう無我夢中で陣地構築とか戦闘の準備でね、直接我々にはね、毎日の行動と同じで、こう言われたとおりやっているだけで、あの上層部の本当の秘密のあれはわからないのです、兵隊のほうは、確かなところはね。

まあ、あの島へ行ったら、いよいよサイパンがやられたということは、攻撃されたということは情報で聞きましたので、あと3か月経ったらぺリリューにもくるということは当然察知していたから、毎日、各その正面の地帯の方は、陣地構築とか防空壕の設備の整備とかね、そういうことで大変だったんじゃないか、昼夜兼行でね。

そうですね。やはり当時はもうどんどん攻められていて、アメリカが優勢だったからね。だからまあこれはいよいよ戦闘をしなくちゃならんという気だけでしたね。だけどそういう教育を受けていたから、まあ、仕方ないということで、まあ、何も考えないぐらいでしたね。陣地を構築か、大隊長と随行で回っているころは。でも、急を告げたということはわかりましたね。戦闘の急を告げたと。もう早いということは、敵が上陸するのは早いということがわかりましたね。

ちょっとの間でしたね。上陸してから3か月ですから。ほんのちょっとしか感じなかったですね。

部隊が富山というところに3大隊ともにいたのですが、それで、15日の朝早く6時か7時ごろだと思うのですが、敵が上陸を始まったのは。

その当日は本部にいたんです、15日は。それでもう15日には上陸して相当な戦闘をやってしまったんですね。上陸する前に、非常に艦砲と爆撃をやって敵は。平坦地に上陸した場所は割合平坦地ですから、飛行場の。そこを爆撃と艦砲で相当やってから上がってきたわけですから、その地雷とかいろいろな敷設をしておいたのが全部、艦砲にやられてね、相当飛んでしまったのではないですか。猛烈な艦砲と射撃をしてね、15日は第一線の部隊は相当夜襲をかけたりしてやったんですね。

それで私どもは、当日は富山におりましたから、翌日、そうですね、何時ごろだったかね。3時ごろか2時ごろかね、午後の第一線は相当叩かれたので、戦闘したので、大隊長が第一線まで出ることになってね、その堤防のあるところが第一線のイシマツとイワマツ陣地に上陸したんだ。そこへたどり着いたのが3時ごろだと思いましたね。

その当時はもう砲爆撃で、大隊長の随行して歩いている間は、その大隊本部からそうですねイシマツ、ヤマトは500メートルだか600ぐらいありますかね。1000メートルもないぐらいなのです。そこを目をつぶっても歩けるぐらいだったんですよ。しょっちゅう大隊長に随行して陣地を見ていた。艦砲と爆撃が激しいので、わずか500メートルぐらいなのに、まるきり目を潰されたように、方向感覚が違っちゃっていて、ほとんどがこの艦砲と爆撃で穴から何から大きい木などがたくさん繁っているのがみんな吹っ飛ばされましたからね。もうそれが引っ繰り返っている。椰子の木などもこうなっちゃってね。500メートルぐらいまあ、陣地まで本部からの600ぐらいあるところを、全く前進するのが大変でしたね。

大隊長と共に、関口という副官とが、大隊本部付の下士官や将校がおりますから、私らの先輩の下士官の方もおりましたので、全部して第一線に行ったんです。第一線というのはイシマツとヤマトの陣地のところに。

その際には、その日はもう死体累々だったのです。もう、すごかったですね。その堤防にはっついたんですが、我々が。その堤防の陣地に、穴掘った洞窟に大隊長と共に入ったのですけれども、その堤防の付近はもう凄かったですね。もう日本の兵隊の死体累々が。

だからわずかな兵隊がボンボン撃っていたくらいで、そのころは丁度、アメリカもリーフのように堤防の線に近くに寄っていたのですね。手榴弾でやれば届くぐらいに、戦車壕をはっついてこっちへ、手榴弾を投げている。手榴弾が届くぐらいですから、まあ100メートル以内ぐらいに敵が接近していたのですね。

まあ、そこに張っついていて夕方、そうですね、あれは何時ごろだったかな。3時ごろ着いたと思うのだが。3時間ぐらい経ってからかな。4時……1時ごろかな行ったのは。 
はっきりしないのですけれども、夕方ですね、富田少佐が、もう部下も少なくなったし、戦闘の状況を見るとわかったので、自決するという富田少佐は、壕の中で。それを私どもがたしなめて一緒にやりましょうと言って、富田少佐はなかなか勇敢で、刀の鞘を抜いて壕から飛び出して、私どもと堤防を越えたんです。その堤防を越えてというのは、ものすごいんですよ、もう壕が。日本の小銃あたり単発、軽機だとか重機などはほとんどやられているから、もう向こうの攻撃の弾がね、リーフの硬い岩にもうそれこそすごい、花火を鳴らすぐらいのその弾が。それでその火薬の音とそのなんですか、リーフの埃ですね。それが凄かったですね。もう凄いんですその攻撃が。向こうは全然違うんですよ、装備が。それでほとんどがもう自動小銃ですから。日本は三発式歩兵銃なんていうのですからね、単発ですから。こうやって開いてこんなことをしているのだから、全く問題じゃないんですね。

だけども向こうはいま言ったように、ほとんど腰アミでやる場合、大体アメリカのあれは制圧的な戦闘でくるんですね。だから日本みたいな真面目な一発必中なんて、よく歩兵訓練で出てくる。一発撃ったら一人を必ず殺す、一発必中という主義なんです日本は。

だがアメリカは、制圧的な攻撃なのですね。だからどんどん撃って抑えていく。どんどん撃って抑えてしまえという方法なのです。やはり物量の戦争なんでね、アメリカは。量的なものであくまでも抑えると。

いや、私はね、本部付で下士官というのは帯刀者なのです。刀を差していたのです。刀なんて問題でないんですよ。やっぱし刀は、どうも昔の日本刀なんて、刀と飛び道具だと飛び道具にはかなわないのです。それで刀を捨てて、累々としたところの兵隊から銃か弾か重なっていましたから、その小銃で撃ったんですよ。小銃をぐるりの兵隊のを。

死んでいるからもうぶん投げてあるでしょう。それを取って、どんどん弾を小銃を撃ったのです。刀などではどうしようもない。刀をぶん投げてしまって。

それから飛び出す人が、いよいよだんだん少なくなるしね。後ろから戦車が来たから仕方ないということで、方法をとったわけですね。

海岸のほうへ向けて必ずボンボン撃とうが、ちょっと上げてこうやると、自分で撃たれてしまうから、ちょっと上げてこう撃つだけですから、結局、都合よく、アメリカ兵に向かって撃ったということでしょうね、海岸の戦車壕に。

それで小銃ですから1発ずつ装填しなければ駄目なんで、日本は野暮なんです、兵器がね。問題でないんですね。以前に申したように、全然装備が違うのですよ。

なんかもう意識もなんかもう夢中で、もうこれは撃たなくてはならんということですよね。だから無我夢中ですね。まあ冷静さを欠いていたんじゃないですかね、あの当時はもう。死体累々ですから。

それで中間に撃ってるころも、戦友が、途中でやられた方が死ねなくて、ウーンとうなっているのです。そいつを早く殺してくれと戦友に頼んでいる方があって、刀で、日本刀があたりにあったので、それで突っ付いている方もおりましたよ。生の体で、戦友に突いてもらうことを。

いや、前線へ戻って戦闘しようということは自然的な行動で、後退して富山に、後退してここに入ったんですけども。富山にも負傷者がたくさんいたからね。戻った方が足が動ける方が。だから無意識のうちにそういう戦闘態勢になっちゃったんじゃないですかね。集まった者だけが、どこの兵隊かわからない、みんな集まった兵隊がおりましたから。その困難な状態でここにバックしたようですから。本当にそういう、まぁなんですかね、追い詰められた境地ですから、無意識のうちに個人個人の戦闘体制で、その場がその場で、壕に入ったら敵が来たらこんなに撃つということで、命令があるわけでないし自然に個人的に戦闘したということでないですかね。もう指揮者ももういないしそれぞれと自分でもってね。そういう富山に帰ったらあれになりましたね。

洞窟というのはあくまでも受け身の体制で防御体制ですからね。もちろんこっちから相手見て撃ちますけども、攻撃されるのがもう80%ぐらいなんですよね。身を隠して戦死しないで抵抗するという形ですね。だから、まぁ防御体制のあれですから、この戦闘はあくまで向こうは100%有利なんですよね。

壕の中でやるわけですから、攻撃されるのをやはり、壕の中というのはこう、死角と言いますか目の届かないところが、死角がありますね、横、真横。大体壕の正面は、この死角に、アメリカはそういう戦闘して、壕の死角から来て壕の中に攻め行くとか、あるいは後方の部隊は兵器で撃つということで。壕はなんていいますかふさいでありますから通路は。岩とか何かで。材木とかで。だからその間からこっちを点検する、出てきたものを撃つということですから、まぁほんとに防御体制なんですよね、壕の中の戦闘って。

向こうが8割ぐらいでどんどんいろんな方法で来ますから。火炎放射器、それから今の火薬を死角から投げ込むんですよ壕の中へ。そういうほうから、手榴弾で脇から来てね。

当時アメリカではなんですか、手榴弾の中になんか、なんて言うんですかね、あれは。咳が出る、火薬の中に入っているんでないですか。手榴弾が壕の中に入ると、黙っていることできないんで咳が出ちゃって。

それからあと別なのは、こういうところにさく裂すると火の粉が飛びますね。そうすると火の粉がこうやるとその分こっちへ飛ぶんですよ、その火の粉が。その火の粉がこうやっても消えないんです。やればやるほどこう。それとか咳のでないとか、火玉が飛ぶような、いかにこうやってもこの中で見えちゃうんですわ。そういうのを手榴弾で投げ込んだりね。

いっきょに海岸線で戦闘してわずかに残った兵隊が山に後退して壕に入って持久戦というか、甚だ残酷な戦闘ではなかったですか。

それでほんとどはそら、われわれも早く自決して死んだほうがいいという人が、恐らくみんな脳裏に来たんでないですかね、あの戦闘、激しかったからバンバンとやったから、これは生き長らえてもとてもだめだ、抵抗したって無駄だということで、相当負傷者のほとんどが自決でなかったんでねえですかね。

だから、その負傷したからって支那事変のように衛生兵に頼まれて、後方に担架で移動して治療設備の中に入るとか衛生班に看護されるなんていうことはほとんど、ペリリューでもう全然ほとんどなかったんでねえですか。その場で負傷した人は自決とかあるいは弾にあたって即死したとかね。

だからペリリューはすごい、あの(9月)15日の上陸当時と16日のあれで、本当に激しい戦闘は大体8割から7割の戦闘をやっちゃったんでねえですか、2日ぐらいで。だからあとは残った連隊本部だとか、優秀な壕に入っていた方が直接戦闘しない方が残ってましたからそういう人が包囲されて毎日撃たれたんじゃないですかね。別に壕の中から撃てるようにもなってますから、その間抵抗したんでしょうけどね。

だからまぁ、連隊本部のほうはどんな戦闘をしたか、わたしどもは全然、わからないんですよね。ただ、あとになってのね。そのなんか、戦訓とか書物でね、こういう戦闘になったと。当時は全然目の前だったからわからなかったですけどね。

包囲されたことなどはね、合流しようと思って富山から本部のほうに合流しようと思ったら、その当時は包囲されているというのはわかりましたけどね。

だから、そうですね、壕に入るしか方法なかったんですね。それで敵が非常に情報収集がアメリカはすごいんですよね。プロペラ機をなんですか、パアパって速度の遅い飛行機で絶えず戦闘してて上を回っているんです。そして火砲だとか兵隊がたくさんいるとか陣地とかを見て、そこの情報を艦砲宛に送るんでねえですか。それでそれは艦砲とかあるいは飛行機で、今度は爆撃されますからね。

だからまぁペリリューの戦闘が激しかったのは3日か4日ぐらいで、ほんとにあとは本部のほうがね。だからああいう小さい島ですから、アメリカ兵は確かにアメリカの指揮官たちは2日か3日でこれは出てくると思ったんでねえですか。

洞窟の入口が開いていると、それで攻撃されますから、なるべくふさぐようにしてね。それからふさいどった材木あたりが落ちたのがそのさえぎっていたのがありますから。その間その壕の中にいるほかないんですね、やっぱり飛行機の索敵では早いし、もうほかはみんなやられた。もう散々たる状態ですから、隠れ場所もないぐらいですからね。だから壕に入ってからはほとんど向こうの攻撃を受けたということですよね。

毎日、今言ったように8時から4時5時ごろまでサラリーマン的な攻撃をしてきて、あとは後退してね、またあした攻撃してくるんですよね。富山の戦闘はそういう状態でしたね。毎日朝8時ごろ戦闘に、戦車と砲撃でもってね。

向こうの岩の向こうの指揮官がアメリカ兵、アメリカ兵は勇敢なんですよ、なかなか。こちらで見ていると遠かないですから指揮官が命令するのがわかるんですよ。そうするとそら、今言ったように壕に向かって自動小銃を撃ったりね戦闘始まるわけですね。

だからその日その日で、ああきょうは過ぎたが、あしたはこれはまたやられて、もう終わりかなと思う日が毎日続くんですね。だから夜、かろうじて最後のころは、最後というか1か月ぐらい経ってからは、だんだん本部のほうを攻撃されたから下火になって、わたしのほうも一部は戦闘しておりましたけれども。そうですね、夜など壕と壕との連絡を生存者でするんですけど、わたしの隣にあった壕のヤマウチなんていう人は、ヤマノイエさんと違うんですが、同姓ですけどね。夕べの晩、お話して会って。そしたらあしたはもう朝の攻撃で爆薬で、爆撃でその後真っ黒に一緒にみんな吹っ飛ばされちゃった。前の晩に話しした将校さんも、そのあしたはもう影も形もなく吹っ飛ばされちゃうような、そういう状態でしたからね。だから、いつ攻撃されてこういうふうにね。わしらの壕も投げ込まれたんですよ。

火薬を梱包したものを。信管をつけて壕の中に投げ込むんです。そうするとそれが爆発するんですよ。それがすごい勢いですから、入った者一斉にね、壕だってそんなに深くありませんから、5メートルか8メートル以内の壕ですから、ほんとに深い壕でないから、一斉に黒焦げになっちゃうんですよ。

そういうので、わたしの壕もやられてドサンと前が落っこったんですがね。

調整しとくんじゃないですか、ぶっこんで何分ぐらいで爆発するということ、すぐに爆発したら自分でやられますから調整しとくんじゃないですかね。そして壕に入って作動するのには、本当は早く見つけて早くかっ放り出せばね助かるんですよね。それを1回やったこと記憶ありますね。その投げ込んだのをかっ放り出してしまえば、そこで爆発しないから。

富山にいた場合は毎日攻撃に来ましたよ。毎日戦車と随伴歩兵とそれから今、火炎放射器とか歩兵部隊も来て、向こうの舎兵地からこう狙って撃って、それは毎日来ましたね、この富山は。

Q:毎日攻撃、一応来ると。来るけど中から見えるんですか、それは。

ああ、中から見えますよ。それで戦車で最初、アメリカは利口ですから、ただ歩兵だけみんな先へ進め進めやりませんから。最初は艦砲でなく戦車の砲、戦車の砲はかなりでかいんです、10センチ以上じゃないですかM3、M4と戦車のほうは。

わたし、顔出しに夜行って砲口に手を入れたら、これ触らないんだから、相当13サンチ以上14サンチぐらいあるんじゃないですか。その砲を撃ちながら、あの戦車には機関銃もついていますから、機関銃を撃ちながら戦車の砲を撃ちながらバラバラボーン、バラバラボーンとやりやり、その壕を目掛けて富山の山に撃つからこの飛行場の平のほうからね。
それから向かいに小高い攻撃するような富山に向かい山があったり、そこに歩兵たちが張りついてね、それで眼鏡で見ながらね。

大体、戦車の攻撃が多かったのですね富山は。戦車と戦車の機銃ですね。あれは戦車の機銃もすごいんですよ、バラバラドーン、バラバラドーンと撃ちながらね、来ますから。あれはすごい威力ですね。壕の入り口が見つかれば、ひとたまりもないんですよ、あの砲で撃たれるからね。

Q:見つからないまではその様子を見てるといいますか、そういうことなんですか。

大体朝それは時間的に来るので撃ち始まりますから、これは来たなと思ってね。結局それからまぁ対戦するったって壕の中にいる態勢ですからね、普通の戦地の戦闘なら、それは進めとか後退するとかいうわけでありませんから、このくらいの壕とかこの倍ぐらいの深さでだからね。だから、どんと撃たれ始まった。ああ、きょうも来たなんていうことでね。それで、やつらが顔出したら撃ってやろうぐらいのとこで、こっちは待ち伏せ的な戦闘ですね。だからやっぱり動くのが大変なんですよね、あくまでも。 だからペリリューそのものが今やったように、あれだけのアメリカの大量の部隊と日本の1万2千ぐらいいたんですが、あれだけの戦闘に飛行機1機も行けないんですから、まるっきり哀れで哀れで、考えっと負けるのも当然2~3日でやられるのが当然の話なんですよ、アメリカの考えるのはね、正しいんですよね。よくも頑張ったということで、それはやっぱし壕があったためですね、壕がなかったらもう2~3日ですよ。

あの艦砲と爆弾というのは、強力なものすごい凄まじいですから。500メートルぐらい行くのがわからなくなっちゃう、方向がわからなくなっちゃう、爆弾と艦砲やられたらね。連続艦砲とかあの艦砲ったら爆弾よりすごいんですよ。爆弾みたいですが、艦砲は横殴りだからね。あの戦場でいちばん恐ろしいのは艦砲ですよ、横殴りでね。結局、縦断に弾が来ますから、爆弾は上からですからね、直接ね。いかに大きいたって直径50メートルの範囲ですから、それにあたらなければ大丈夫なんですが、艦砲は横のほうでジュウシン的に来ますから、弾がね。艦砲はいちばん恐ろしい。ペリリューでいちばん恐ろしいのは艦砲でしたね。

壕で見てればね、あの爆薬が潜ったところに戦車が来たというのを見て、信管押すわけです。そうすると線を引いてありますから、スイッチ押せば爆薬が爆発することになってますから、だから燃えたところに戦車がのぼった際にスイッチを入れるわけですね。それは工兵隊の人が残ったから、それは工兵隊の人がやったんですが、完全にわたしもそれを見たんですが戦車が飛び上がったんです。飛び上がったらアメリカは天がい開けて飛び出してね、火ダルマになって飛び出して、それで撃った人がいるんですが。戦車の底が、底のほうが浅いんでしょう、やっぱり戦車は。それが爆薬のために跳び上がって火のだるまになって戦車兵が飛び出して、悲鳴あげて飛び出した。それは完全にその戦車兵は日本兵にやられたんですね。その戦車が今、あの富山のいちばん先端の平らのところにありますよ。今でもあると思うんですね、移動してなければ。

わたしどもそれは完全に慰霊祭に遺骨収集に行った際に、その戦車は富山、自分の山を見てきたから、戦車も触ってきたからね、全体が吹っ飛んで。

特に持久戦になれば忍耐でもってペリリューで頑張って、あくまでも最後まで死守という気持ちにならないと、突っ込んで死んでしまえば簡単ですよ。それこそ簡単、死ぬのは。だけど生きているのがそれは大変です、毎日攻撃されるから。

いかにわたしは師団司令部とか大本営のあれは、これはひどい命令だと思うんですね。

太平洋の防波堤だから、まぁしかたがないかもしらないが、最後の一兵まで持久戦に持ち込めと言ったのが、ああいうこのくらいの島で、よくも72日も戦闘したというのは、これは最高の苦しみでなかったんでねえっけかな。

それは第一戦で海岸に突っ込んじゃった兵隊はね、極めて幸せだと思いますね、同じ亡くなったうちでもね。あとの方は連隊長以下、壕に入って毎日攻撃受けたでしょうから、最後に連隊長あたりが自決したなんていうころは、いやぁもう最悪の状態でなかったですかねぇ。

毎日、これはあしたやられるかなという気持ちだけで、別に何も考えない状態でしたね。あしたはこれはやられる、やられるかなと思って。それの毎日で、戦場ではいろいろの心理状態になる方があるので、頭がおかしくなる方もおるようですよ。気がおかしくなっちゃうんですね、毎日そういう神経。

夜も休めないぐらいでね、食料も今言ったようにアメリカのをかっぱらって食べてましたから。夜、照明弾の間あたりをもぐって潜って、アメリカ兵の食料をかっぱらいに行くんです。日本の食料なんてもう問題にならないんです。コンペイトウと乾パンのこんなのを1袋ぐらいでは、とてもじゃないが1日も保たないのを保たせるんですからね。だからアメリカのをかっぱらって、夜かっぱらいに出かけたんですね。そして、それを食べて過ごして毎日いたんですけどね。

だから、まぁなんて言いますか、その平常でない状態のその極限の状態で毎日を過ごしたのが、よくあの当時。まぁ25歳ぐらいの、みんな21歳から25歳ぐらいですから、ほとんどね。水戸の2連隊は現役の方がほとんど 100%ですから25歳ぐらいまで、将校からで30ぐらいまでですからね。だからよく耐えたとあとで思ったんですが、その当時は毎日がどうもなんかこう考えられない心境でしたね。あしたやられるか、今やられるかと思いながら毎日過ごした。

それで毎日毎日戦友がやられているわけですからね、死んでいくわけですから。だから、何回もここでもうみんな終わりかなと思いまして、地上を見ましたね。戦場でね、ああわたしはここが最後の死に場所かなと思いましたね。

敵は今言ったように情報とかそういうのが通信とかが優れていますからね、中間戦闘地帯に通信機を置いて帰るんですよね。そうするとその通信機に入ったら大概、弾がちゃんと何キロって来るんですよ。もうそれは戦闘して前進しても、そこさ通信機を置いて帰るなんてことはやりませんから、まるっきりむちゃくちゃ戦闘。アメリカは前進したとこへ通信機を置いていくんです。

そうすると、日本兵が夜襲しようと思っても、そこへ到達するとぴったり弾が来るんです。それで合流しようと思ったときに全部やられましたね、富山の壕の間で。わたしの友達ももう吹っ飛ばされてね。わたしもついに迫撃砲でここ抜かれてね、大腿部のとこ、腹のほうに破片が入ったんですけど、臍のそば。そこへ友達がおおーっとやってるうちにどんと弾を浴びましたから。友達やられて唸って吹っ飛んでいる人もいるので、わたしも「どうした」と言って友達が飯田という上等兵が、わたしの従属だった人が吹っ飛ばされちゃってね。どうしたどうしたと言うのに、弾があたったのは、私はその時初めて、訓練では厳しい訓練を受けましたが、本当の弾にあたった訓練はできませんから。初めて弾にあたるというのは、これは簡単だとは思いましたが、その迫撃砲というのはこう、湾曲弾道を描いて山間地で戦闘する兵器なんですよね。 アメリカはそういう山の中に入ると、湾曲弾道を描いて向こうの山の向こうに落ちる、あの迫撃砲というのはアメリカは非常に使ったんですね、ペリリューでは最後のほうに入ってきては。

それでわたしもやられて、弾があたって、友達がやっているうちにここが冷たくなったのでね。見たらば、ここがズボンのところに血が出てね、それでひゃっこくなってわかったんです。だから、あの死ぬのは簡単だと思いました。弾にあたってこれは一挙に死んだほうがいいなと、そのとき思いましたね。弾のあたるって瞬時ですから、わからないんですね。だから、ここらと完全な中心部を撃たれた場合にはね、もう全然わからないんじゃないんですか、死ぬのは。わたし、ここで初めて、ここを抜かれちゃったんですね、大腿部をこちらへ。

それでこれは迫撃砲の破片なんです。こちらへこう抜けたんですが、破片が臍のほうさ入ってね臍の脇あたりへね、今もちょうどここありますけど。

Q:ここですか。

ええ、ここを抜かれたとこも、こっちあれなんですけど、南方の傷というのは化のうしやすいんですね、満州は非常に寒いからね細菌が働かないんで化のうしないんですよ。

傷口が寒いところの負傷したのは、もう早く傷口がわからなくなるんですが。化のうしてしまいますから、傷痕が南方の傷は。それでそこにまぁすごいんですよ、今言った衛生兵とかそういうものは後方に下がって、負傷したからなんてやってもらえませんから。自分でアメリカ兵の三角巾というのをね。アメリカ兵は各自ほとんどが応急処置のしようと三角巾それからゼイオウミって黄色い粉薬を持っているんですよ。それは化のう止めなんですね。

そいつを夜かっぱらってきてね、アメリカ兵から取ってそれをつけたんですけど。

縛っとる間に隙間があって、そこさウジが湧いちゃうんですよ。それでウジを落とすのがおにぎりをつけたみたいになっちゃうんですね。それで化膿しちゃって、そのアメリカの薬飲みながらね、これは休んでいることもいかないし後退するのできませんからね。戦場ですから、そこを縛りながら駆けて歩ったんですけどね。弾にあたるということは、わたしはもう死ぬということは簡単だと思いましたね。

日本のそういう上層部は、いよいよ日本が本土まで決戦されるというのをわかりながら、太平洋の防波堤になれよなんてことを指示した。

わたしら考えたら極めて冷たい指示だったんですね。方法がなかったんでしょうね、しかしね。

もう、わたしどもは兵隊ですけど、最後のころ考えて直接戦闘して、兵器や装備はすべて向こうの体制、そういうのも全然優劣の差があったんですよ。だからもう少し上層部はたくさん勉強してね、真珠湾攻撃など12月8日ですか、ああいう大胆大それたことは米英に対して戦闘したということなどね、ああいうことにならない前に外交であくまでも平和のうちに、まぁ少し引っ込んでも頭たたかれても我慢して、日本のそういうことを考えるべきだったんじゃねえかとつくづく思いますね。少し見方が、上層部、勉強足りなかったんじゃないですかね。われわれ兵隊ですから、そういうことは当時は考えないけど、今つくづく思いますね。

われわれは終戦後2年半も置き去りにされたんで。まぁこれは通信だとかそういうやつで、硫黄島から本土攻撃、東京あたり空襲される、どんどん日本の方が傾いたから置き去りにされたかしらないけどね。まぁ戦闘迷子みたいになっちゃってね、ペリュリューに2年半ぐらいあと残ったわけですが。

だから必ず反攻してくると思っていたんですね、それは。3か月間戦っているうちに、やっているうちに必ず、やっぱしわれわれの教育がそういう固い教育だったから、必ず日本は負けることないと思ったからね、降伏なんてすることはないと思って。必ず反攻してくると思ったからね、反撃してくるんじゃないかと思って。

だから最後のころまでそういう気持ちでいましたね、必ず来てくれるんじゃないかと思ってね。そのうちに2年半ぐらい経っちゃったんですね。

終戦は全然通達みたいなのでこう、話を聞いたことはないんですよ。ただ3か月ほどおるうちに、だんだんアメリカ兵も、残党がいるということはわかったでしょうが日本の兵隊が残っていることは、われわれが食料とか被服をかっぱらいましたから。

だけど静かになってきた際に2年も経ったころはね、やっぱしいくらか夜は歩っても大丈夫になりましたから。ごみ捨て場がアメリカ兵はやっぱし生活がいいから、ほとんどそういうゴミはたくさん出るんですね。それで海岸の土あたりへ埋めるんですね。そこへ雑誌なり何かに一緒にゴミを入れるんですね。そのゴミの中の週刊誌みたいな本でしょうけど、今、日立のほうのモリシマというのが明大出たのがいたんです。

その方らが見るのには、これはなんか日本はもう降伏したって。ミズーリ艦上で重光大使ですか、外相ですか、あれ重光外相(重光葵外務大臣)。あれが降伏調印式をやっているところを、その雑誌を見つけてきたんですね。

そのころ、これはもうほんとに日本は負けたのかなということで思いましたね。そういうことで降伏時にも、澄川という海軍の少将が迎えに来たんですが。その次の雑誌などがたくさん。今はもう終戦後2年半も経って、平和のうちにみんなどんどん活躍していることの本を三差路のそーっと、書いてあった看板のところに掛けておくからなんてマイクで放送した場合、わたしらを救出に来てくれた方らが、本などのことも話しましたよね。

だからこの3か月間戦闘を激しくやっていたあとも、だんだんこう、なんて言うか、長いこうペリリューに戻るようになってからは、そういうことで情報を知るほか何もなかったんですね。それにそれをなんていいますか、1個分、残っているということを誰かそれ、本局あたりでわかったんじゃないですかね。それで連隊の兵隊がまだ残っているというので、今言ったように22年の5月ね、最初のころ連絡に来たものですから。それはアメリカとちゃんとね。その当時、アメリカ軍はぺリリューにまだ支部隊がいたんですがね。ちゃんと連絡のうえで来たわけですから。わたしどもの教育から言うと、なんて言うか、今の軍人の本分である捕虜になるということは非常に恥ずかしい。そういうことはアメリカがずいぶん勉強したようですね。捕虜でないということと、捕虜というのは戦闘中、戦争中に捕まった者が捕虜であって、終戦後に捕まった者は捕虜でないと国際法にあったようですね。

だから、わたしども一同に言われたのは、「あなたたちは捕虜でねえんだから」ということを言われましたよ。3つばかし条件を言われたと思いましたね。「あんたたちは捕虜でない」ということと、2つ目はね、「あんたたちの滞在中、アメリカ兵と同じ待遇にしてください」ということを言ったね。

それから面白い話で、アメリカはいくらか「あなたたちの寝台は、わたしの責任の員数ですから、帰るときには寝台を持って行かないでください。あとは支給になったものはみんな持って帰って。それでアメリカの靴とかせっけんなどももらって帰ったんですが。そういうことを3つ言いましたね。

だから、それは山口少尉と一緒です。山口少尉らは1日早く出たんですけど、わたしはそのあと。わたしはほんとは最後の最後なんです。1日遅れて出たと思うんですがね。

だから救出に来た澄川少将たちも突然ですからね、何も連絡ありませんから。マイクで選挙の演説みたいに壕に向かってこう、「20年の8月15日、ちょうど終戦になったから、もう戦争は終わっているんだから出てきなさい」という放送ですから。いやぁ、当時は驚きましたね。

それから司令部の前へ行って、向こうのアメリカの偉い方にね、降伏式みたいな調印式みたいな変なことをやらされ並ばれされてね。それで今言った3つぐらいのことを言われてね、司令官とか向こうの。

そしてアメリカの幕舎、かまぼこ兵舎でしたね、そこに1週間ぐらいいたわけですね。
だからアメリカ兵と同じ食堂へ行ってアメリカの食事を、パンを食べてシャワーを浴びたりして。日本に行く船をその1週間ぐらいでしたかね、アメリカ兵と一緒にね。

ただし、わたしらのかまぼご兵舎にはアメリカ兵はついてました。

出来事の背景出来事の背景

【ペリリュー島 終わりなき持久戦 ~茨城県・水戸歩兵第2連隊~】

出来事の背景 写真 昭和19年(1944年)、米軍は、ペリリューを含むパラオ諸島をフィリピン奪還の拠点として利用するため、攻略を決定する。一方、日本軍は、パラオを死守するため、飛行場のあるペリリュー島に歩兵第2連隊を含むおよそ1万人の部隊を派遣した。
 9月13日、米軍は艦砲射撃を開始し2日後の15日、「2,3日で陥落させられる」との予想の下、3万人近い部隊を上陸させた。これに対して日本軍は島じゅうに張り巡らせた洞窟陣地を使って組織的な徹底抗戦に出た。日本軍は、米軍の圧倒的な兵力と物量に対し2か月以上にわたって抗戦し、1万人を超す戦死者を出して11月25日、組織的な戦闘は終結した。一方米軍も、日本軍の激しい抵抗によって、1万人近い戦死傷者を出した。
 ペリリュー島の戦いでは、洞窟に追い詰められた日本兵たちの多くが、死ぬなら敵に突撃し一矢報いて命を散らしたいと願ったが、大本営は「玉砕」を禁じ、「持久戦を完遂せよ」という命令を出していた。
 昭和20年8月の終戦後も、生き残った兵士たちは洞窟にたてこもり続け、戦闘終結から2年半後の昭和22年4月22日、元海軍少将の説得でようやく兵士たちは武装解除に応じた。そのとき生き残っていた日本兵はわずか34人だった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1921年
茨城県西茨城郡大池田村にて生まれる
1940年
歩兵第2連隊入隊。満州に駐留
1944年
南洋諸島への転進命令下り、ペリリュー島へ到着。アメリカ軍との戦闘で負傷。当時23歳、軍曹
1945年
終戦を迎えるも、47年4月22日まで戦闘続行される
1947年
復員。復員後は大池田村役場職員、旧制水戸高等学校、茨城大学事務官を勤めた後、菓子店を営む

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ペリリュー島

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