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タイトルタイトル: 「飢えから同僚を襲う兵士」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ニューギニア・ビアク島 幻の絶対国防圏 ~岩手県・歩兵第222連隊~
名前名前: 早坂 定吉さん(岩手県・歩兵第222連隊 戦地戦地: ニューギニア (ビアク島)  収録年月日収録年月日: 2008年4月8日

チャプター

[1]1 チャプター1 任務は飛行場建設と守備  05:41
[2]2 チャプター2 飛行場完成と同時にやってきた米軍  03:01
[3]3 チャプター3 米軍上陸  03:33
[4]4 チャプター4 負傷者があふれた「西洞窟(くつ)」  06:13
[5]5 チャプター5 日本軍兵士が「敵」になったジャングルでの彷徨(ほうこう)  02:53
[6]6 チャプター6 凍っていく心  02:09

チャプター

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自分たちの部隊は負けるということはないんだ、というように思いこんでいるもんですから。行った時もやはりそのような気分が出るから、勇敢に行動ができるんですね。「なめられてたまるか」というような気持ちはみんなの心に、やはり。大げさに言えば、おれらの前におめえたちきたってだめなんだよと、というような。そこを占領しようと思えば必ずやられてしまうから、まず自分たちが敵軍になめられているという意識がなくて。自画自賛になるかしれないけども、引け目を持った気持ちはありませんでした。

ソ満国境にソ連が参戦するんではないかということで、満州に派遣されるのかなと思ったりしてたんですが、ところが満州のほとんどの現役部隊は、南方大陸、あるいはまずわたしらが行ったように、こう太平洋の沿岸、そっちのほうにも派遣されて、ほとんど強い部隊というのは満州国には残っていなかったようですよね。わたしらはそういうこと知らなかったから。上海に集結したらもう、夏物ばかり、私服全部半ズボンとか半袖ばかり貸与になったから、「あっ、これは南方行きだな」と。

敵情をみながら、あっちの島かげに隠れる、こっちの島かげに隠れるというようなかっこうで、現地のビアク島に着いたのが12月25日だからね。1か月、45日ぐらいかかってるんですよね。そのぐらいかかりました。

船団が18隻だったと思うよ。完全無血で船団が被害にあわないで上陸したのも私らの部隊だったと聞きました、当時。たいてい3分の1ぐらいは被害にあっているようだけども、まだ海軍の駆逐艦等も健在なのもあったらしくて、船団の上空を、たまに友軍機も上空を飛ぶというような状態でしたから。

上陸した当時は本当に、あー、もう、やしの木があるしねー、海はきれいだし、ものすごいいいところだなというような。もちろん敵前上陸というようなことでもなくて、何も心配することなく弾も一発も受けるわけでもなかったしね。


飛行場を3つつくらなければならない、というようなことで、ほとんど飛行場設営部隊と別の部隊ももちろん派遣されておったようですが、その隊ばかりでは間に合わないので、1日でも早く飛行場をつくるというようなことで、われわれ歩兵部隊ももう留守番にいくらか残るだけでね。しかも、ツルハシとかスコップで、さんご礁はコンクリで固めたようなデコボコのあれなんだもんね。それをツルハシで砕いて平らにしてね。いやー、この重労働。もう、30℃以上もする暑さの中で。飛行場つくるのツルハシ振り上げてそれを平らにならす。

普通の軍隊の生活とは違うんだもんね、ツルハシ振り上げてするんだから。もう、疲れる、疲れる。

戦闘機も小さいのが何機かいましたけれども、やはり敵の爆撃機が飛んでくれば、日本の友軍機は戦闘機は飛び立つけれども、まず、撃墜されたり、あとはどこにいったか姿見えなくなって、敵機が飛行場に爆弾落として帰ったころに帰ってくるんですよ。もう、抵抗したって、それこそ撃墜するだけだったと思うんですよ。本当に貧弱な戦闘機でありました。だから飛行機壊されないために飛び立って逃げるようなかっこうで、彼らに刃向かうというようなかっこうには全然見えなかったもんね。離陸に遅い飛行機は撃墜されるということで。

非常に激しくこう飛行機が爆撃するようになって、ただ飛行場の補修作業だけでした。もう穴の開いたところに砂とかなんかを運んで穴埋めする、というような。

爆撃されてガソリンと滑走路から離れたところにみな、こうあちこちに分散して積んであるんだけどね。敵の飛行機からみれば見えるんだね、あれ。ガソリンの集積所を爆撃して、これがもう破裂したのがまた誘爆するようなかっこうで、もう何百と積んでいたドラム缶が燃えあがって。火がつくだけ燃えあがってね。これだけは本当にね、何ともいえない気持ちで見ていました。消すこともできないしね、それが全部燃えるまでものすごかったんですよ。何百というドラム缶が燃えて、天をこがすだけ燃えるからね。もったいないもんだなと思って、本当に。

後方に6月下旬に下がる時に(野戦病院の)患者は12、13人ぐらいしか残っていなかったけれどもね、それでも私の部下が2人いたったからね。彼らに私が乾麺麭(カンメンポウ)と手りゅう弾を渡して、「必ず迎えにくるから、それまでこれを食べて待っていろよ」と、「それでもし敵襲を受けたならば、1発は抵抗用として使うんだよ」と、「あとは1発は自分の身を始末、捕虜にならないために始末するんだよ」と。

自分の部下を含めて、野戦病院の患者さんに携帯食糧と手りゅう弾を渡して、迎えにいけなかったということは、「間違ってもいいから、捕虜になってもいいから帰ってきてくれればいいな」と思って。自分が復員してからもね、それをひそかに願っていましたが。帰っていなかったということで、自決したものか、敵襲を受けて射殺されたものか。「迎えにくるよ」と、子どもにいうように隊長の命令で置いてきたけれど、それはやはり戦争の激しかった、弾が来るところに遭遇した以上に、いつまでも心の中に、いまでも重荷に。「なんとかできなかったんだろうかな」と。直接自分がそういうことをして助けなかったということは、もう、これは私は死ぬまで忘れない。いちばんこう、申しわけなかったというかなんというかね、頭にこびりついて離れないですね。彼らのその時の顔、姿。これが今でも目をつぶっても開いても、はっきり見えるんですね。その中にはまあ、私の部下じゃない負傷された方も。もうウジが負傷したところに包帯するきれもなくて裸でいたところにはウジが湧くんですよ、ハエがついて。

後方の山へもう撤退する、ということになって。西洞窟(西洞くつ)というところの洞窟(洞くつ)の中に連隊本部があったのを、夜を徹してそこから脱出するということになったらしかったですね。それでまだ、そこにはもう何百人という負傷者がうごめいていて、とにかく歩ける者は脱出するんだと、歩けない者はまず自決しなければならない状態で。

手りゅう弾そのもので自決をできないような重症患者等は、ただ、それこそうごめいているようなやつらの叫び、みんながそこを撤収するという状態はわかるわけですよね。頭の中に意識はあるわけだから。もう阿鼻叫喚(あびきょうかん)だったらしいですよ。もう見かねてその場でもう、自決する人もあるしね。苦しくて叫んでいるのもある。

もう、隣に死体と一緒に寝ているようでも、3日もたたないうちに腐り始めるからね。ハエのいるところは、午前に亡くなればもう午後にはウジがつくんですよね。何百人という死体のそばにいてそこを脱出するのだから、残ったやつらはもう自分の運命というのははっきりわかるからね。非常にその、脱出するときは後ろ髪を引かれる思いだったと思います。元気のある皆さんはね。ま、それは出てきたとき、あそこを出た時の皆さんの話を聞いての話だけれども。自分が実際、体験したわけじゃないからね。ものすごい本当の地獄だったね。その、負傷者の叫び声と、なくなった人たちの死臭のにおい。もう、本当にもう生臭いといったらいいか、なんといったらいいか。

こう、私らがまあ、後方に下がった前でも、何人か、私らの中隊の5中隊でも、あの1日に6人ぐらいも自決したりなんかする人もあったんですよ。

夜襲等した場合、負傷したり何かしてその、さまざまな人間の死に方があるらしかったんですよね。もう、死ぬまでそれこそ死にたくないとかね、助けてくれとか、非常に戦友たちの苦しんでいる死に様を見て帰ってきた戦友たちは、いったん後方に下がってもその情景はいつでもまぶたというか、脳裏にあるんで、二度とそういう場所に行きたくないというのがあったらしかったんですね。

てき弾筒の榴弾砲(りゅだんほう)というのが、まず、マイクをちょっと大きくしたぐらいの、長さもこんな感じ、これは殺傷力が半径30メートルもある殺傷能力があるんですよね。これに先のほうにこう小さな瞬発信管がついて、これが落下した時に破裂するようになっているんですけどね。それで自決したんですよ。私の部下が。いかに苦しい皆さんの状態を思い出して、二度とそこにはたぶん自決したときにわたしが考えるのは、黙って頭を下げてこう何か悩んでいるようなかっこうでしたから。「なんだ、元気出せよ」「はい」と言っているけども、そのときはこう顔をおこしているけれども、何か悩んでいるようだなと思ったらね、別にどこもけがしていなくって、で、ちょっと見えなくなったなと思ったらてき弾筒の榴弾(りゅうだん)で自決する。瞬発信管だからね、かたいところでガンとやればもう、自分がはね返ってそれを抱いて自決したからね、こっぱみじんになっているんですよ。いかに「そういう苦しい思いをするより死んだほうがいい」というように、死んだんでないかなー、と思って。自決した時に私は思いました。

生きるためには今の日本の社会から見ても、生きるためにどんなことでもしている人間がいるのと同じで、軍隊の中でも兵器を持ったものが、私らのように物を運んでくるのを襲撃して殺して自分たちがそれを『食べる』『とる』、という連中も事実あったんですよね。必ずしも敵にばかり攻撃されるのではなくて、そういう不良の兵隊に気をつけるということもひとつの仕事だったんですよ。げんにやっぱりやられている人もあってね。それはやはり1人か2人を行動するというのがいちばん危険だから、5人か6人もあれば、彼らは1人か2人だからね。1人を殺したってどうにもならないから。だから、こう5~6人の組は離れないように一定の距離をもって、前の人にも前に誰かいたように、「早坂ー」と「おー」という風に、後ろも誰もいなくても声をかけて、「早く追いついて来いよ」とかいうようににせの叫び方をしながら、わたしはまず連れて歩いてきました。あと休憩の時はもちろん道路端に休むんじゃなくて、身を隠すところ、道路のわき、山に4~5メートルぐらい入ったところに身を隠して休ませてね、絶対に油断しなかったですよ。

体の弱い人はそういうところにこう、ちょっとした仮小屋、屋根をかけたような休むのをつくって、そこに住み着いて暮しているやつもいるんですよ。そういうのを襲撃する日本兵もいるんです。仲間が。本当にもう山賊だね。まず、ちょっと考えられないことがたくさんありました。

深刻に考えなくなったもんね。もう。どんな場面があっても。一過性のできごとといえばあまり乱暴な言葉だと思うんだけれども。誰も「そうなって死んでいくんだ」というような気持ちでいるから。人が弾に当たって死んでいく状態も当たり前に感じて、「いつかは自分もこうなるな」というぐらいにしかもう、感じなくなりましたよね。あまりにそういう場面を見てるから。やっぱりこう、歩きながら、食料を探しながら道路のわきに倒れている人もあるわけさ。食べものを食べさせてあげるわけにもいかない。歩けないのを連れていくわけにもいかない。この人はこのまま死んでいくんだな、ということをわかっていて捨てていくほかしょうがないというけれど。こういう場面はなんぼでもあるからね。今の平和のところに過ごした心理とその時の心理状態はね。ただ「自分もいつかはこうなるんだ」というぐらいの考えになってしまってね。帰ってくるとかなんとかということはもう、考えることもなかったね。「どうせ死んでいくんだ」という気持ちでいるから。人の死に対しても、だんだんに冷酷といえば言葉が悪いけれども、ただ自分もそうなるんだ、というぐらいに、人の死に対して感じるようになるね、人間て。

出来事の背景出来事の背景

【ニューギニア・ビアク島 幻の絶対国防圏 ~岩手県・歩兵第222連隊~】

出来事の背景 写真赤道直下、ニューギニア島の北西に位置するビアク島は、日本軍が南太平洋の制空権を握るための要の地だった。昭和18年(1943年)秋、日本軍は当時攻勢を強めていた米軍の進撃を阻止するため防衛ライン、いわゆる絶対国防圏の第一線をここに定め、飛行場建設を計画。昭和18年12月、飛行場建設とその守備を任務に、222連隊の兵士3900人がビアク島に上陸した。

昭和19年4月、3つの飛行場がビアク島に完成。ところが飛行部隊はいっこうに飛来しなかった。日本軍にはそこを利用する航空兵力がすでに失われていたのだ。
4月28日、マッカーサー率いる米軍は爆撃機を中心とする大編隊でビアク島への攻撃を開始。飛行場のある南の海岸線が集中的に狙われ、大型爆弾が降り注いだ。

5月9日、日本の大本営陸軍部は、防衛ラインをビアク島から西部ニューギニアのソロンに引き下げることを発表決定。ビアク島は絶対国防圏から外され、後続の部隊も送られないことが決定された。

ビアク島に残された歩兵第222連隊の兵士たちは、米軍の掃討から逃れるようにジャングルをさまよい、極限まで追い詰められていった。また、ゲリラと化した現地住民の攻撃にも苦しめられた。

8月20日、米軍はビアク島での戦闘終了を宣言。ビアク島の飛行場はすべてフィリピン進攻への拠点として奪われた。そして昭和20年に入ると、主戦場はフィリピンに移り、ニューギニアは戦略的に忘れられた戦場となっていった。密林に残された日本兵たちは、昭和20年8月の終戦まで、厳しい自活を強いられ、捕虜になった兵士も含めて生還できたのはわずか、総員の3.9%だった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1920年
岩手県岩手郡御堂村にて生まれる。
1940年
現役兵として弘前北部第16部隊に入隊。
1941年
歩兵第222連隊に配属。
1943年
南方戦線へ移動、ビアク島に上陸。
1944年
ビアク島での戦闘に参加。
1945年
9月、終戦を知る。
1946年
復員。

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ニューギニア (ビアク島)

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