ホーム » 証言 » 山上 博さん

チャプター

[1] チャプター1 守り続けた軍旗  02:26
[2] チャプター2 食べられる草を探せ  08:51
[3] チャプター3 山道の行軍  02:51
[4] チャプター4 1週間にわたったサンジャックの戦闘  04:32
[5] チャプター5 コヒマ到着  07:48
[6] チャプター6 対戦車突撃  02:58
[7] チャプター7 狙撃された連隊長  03:07
[8] チャプター8 やってこないインパール勝利の知らせ  02:49
[9] チャプター9 補給を求める師団長の姿  05:44
[10] チャプター10 独断での退却を決断  03:22
[11] チャプター11 「白骨街道」  04:16
[12] チャプター12 終戦  02:30

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再生テキスト

そのときは連隊旗手をやってたわけですよ、連隊本部でね。だから、インパール作戦期間中は、わたしはずっと、連隊本部の旗手でおったわけです。実兵を指揮してやったのはインパール作戦が終わってから、中隊長になってから。歩兵戦と。足を負傷したのもそのときですよね。それはインパールから帰ってきて、ほとんど将校が全滅状態だったから、残ってる、体の自由のきく将校は全部、小中隊長に出ましてね、ビルマの撤退作戦を担当したわけです。


Q:連隊旗というのはどういうものなんですか?

 軍旗というのは、要するに、天皇陛下の代わりになるものですよ。歩兵と騎兵しか持ってない。要するに、突撃をする部隊。だから、天皇親率の軍隊でしょう。それで、第一線に出るのはね、突撃して白兵戦を担当するのは歩兵と騎兵なんですよ。騎兵は昭和の初めごろね。だから、軍旗を持っておったのは歩兵と騎兵だけ。あとの部隊には軍旗はないんですね。天皇陛下が自ら指揮して第一線の部隊が攻撃をすると。これが軍旗の価値ですよね。

実際には、草を食べる訓練という意識で、野草を摘んできて食べるということはしないけれども、結局そういうものを、食べれる草はこれだぞということでね。野菜がないから。そういう草を、訓練というよりも、実際に、生きるために食べてましたよ。

Q: 作戦前にですか。

作戦準備期間中。準備期間中にも、ないんですよ、糧秣(りょうまつ)が。ちょっと考えられないでしょう。ねぇ。だから、前線でも、乾燥野菜があれば乾燥野菜ね。で、乾燥の粉末みそで、乾燥野菜を水で煮て食べると。それも、配給される量というのは決まってますからね。やはり、足りない者は野草。野草で、これは食べれる野草だとか。毒を持ってる野草もあるんですよ、南方にはね。これは毒を持ってるから危ないぞとか、下痢したりするのがあるんですよ。そういう食べれる草、それから、有毒の草、それの見分けができるような、訓練と言えば訓練だわね。そういうことを教えてもらいながら生活しておった。生活しておったというのは、準備しとったわけですよ。準備期間中からそうですよ。豊富な食糧で、出発の準備する、出陣を準備するという状態ではなかったですね。そのとき、出発間際まで、出発するというのは山の中のジャングルに展開しますからね。来ないですよね、糧秣が。だから、配給になったものだけで。それでは足りない分は、野草とかそういうものを採ってきて、兵隊さんたちが煮たりいためたりして、ごはんに付けて持ってきてくれましたよね。

Q: 戦う前から草を食べるというのは。

そう。戦う前から草を、全部が草だけっていうことはないですけどね。やはり、草も補充しながらね。帰ってくるときは草だけですよね。退却して帰ってくるときは草だけだけど、行くときは草も食べていました。
そういう参謀、師団司令部か、軍参謀か、参謀で、食べれる草とか、食べられない草とか、そういう資料を作って配布してましたよ。我々のところにもきてましたよ。ジャングルの中でこういう草は食べれるとか、「こういう草はだめだ」とかね。そういう具合にね。よく、長芋なんかずいぶん生えてるんですよ。長芋が生えてても、日本ではとろろとかそういうもの。だけど、それを生で食べたらいっぺんに下痢ですね。アメーバ赤痢になっちゃう。そういうものは食べれますけれども、火を通さないとだめ。それから、コンニャク玉なんかもあるんですよ。コンニャク玉。しかし、毒を持ってるんだね。これはだめだよとかね。そういう具合に、資料で教育するわけですよ。

糧秣がこれ以上続かないんじゃないかと思いますよ、みんな。しかし、そこが作戦でね。日本軍の作戦というのはそうなの。敵地に行って、敵の糧秣を分捕れと。その分捕った糧秣で命をつなげと。それで戦闘しろと。最初から英印軍の糧秣を当てに戦争を開始した。これが本筋でしょうね。全部が全部じゃないけどね。

敵の糧秣を取れと。敵の糧秣を取って、それで戦闘を継続しろと。そういうことです。敵も、インド兵だから米があるんですよね。米はなくとも、日本の兵隊さんは、パンはなかなか元気が出ませんけど、米はかなり。彼らは糧秣がなければ戦闘しませんからね。そこで陣地を占領すると、必ず置いていってくれます。置いていってくれますと言ったらおかしいけど、米を持って行かなくたって、自分の体だけで逃げていきますから、そこの陣地の中には食糧が残っているわけですよ。乾パンもあれば、米もあると。だいぶ取りましたよ、分捕ったですよ。

作戦会議なんていうのは、みんな偉い人がやってるわけだから。参謀以上ですよね。我々は、結果によってそれに従うだけだからね。だから、それはよくわからないですよ。ただ、第一線がもてるかもてないか、それに対する、戦闘する上においては補充が必要でしょう。補充、糧秣あるいは弾薬、それも来ないんだけれども、兵員の補充なんて1人もないでしょうが。ねぇ。歩兵だからみんな戦死する。あれだけ戦死したら、兵力の補充っていうのはやっぱり必要ですよ。英軍はどんどんどんどんパラシュートで、あるいはグライダーで輸送してるわけでしょう。

それで、戦闘するためには、英軍の考え方っていうのはまともなんですよ。インパール作戦を開始するためには、兵糧、糧秣をどれだけ準備しなければいかん、弾薬・兵器をどれだけ準備しなければいかん。そういうこともきっちり計算をして、英軍はビルマ奪回を策しておったわけだけど、あの時点では時期尚早だったわけですよね。それは、日本軍が先に出てきてくれたから、英軍も助かったんじゃないですか。向こうの作戦計画は、日本軍の領土を延ばして、そして、兵糧尽きたところを袋だたきにすると。これが英軍の作戦計画だったわけだから。そのとおりに英軍は実行してますよね。我々が、勝った勝ったで進撃していったけども、英軍からすれば、これは予定の退却であると。そして、日本軍を、インパールならインパールの本地の中に吸い込んでしまう。そして、包囲して撃滅する、全滅させるというのが英軍の作戦計画。それにまんまとはまりこんだのが、日本軍だったかもしれないね。

道は1本道、猟師が通るようなところぐらいのね、土人が通るような道が、どこかに付いてるんですよね。そこを歩いていく。ビルマからインドに出る途中まで、道がないです。だから、向こうの、住んでいる人たちが水をくみに行った生活道路。ほんと、このぐらいの幅だね。それが1本ずっと。そこを伝わってね。ある程度行ったらジャングルが切れて、平原地帯になる。高原地帯。その高原地帯にはジープの道路ができてましたね。

Q:山は相当険しいというか、厳しい行程だったんじゃないですか。

3,000メーターですよ、我々が行ったところはね。いちばん北のほうはね。

Q:それを毎日上って下りるというのは、かなり厳しい。

大変ですよ、背嚢(はいのう)を担いでね。40キロの背嚢を担いで。

もう、途中で仮眠ですね。道路の中で休憩時間10分とか20分とか。それで仮眠を取って、すぐまた。背嚢も下ろさないでね、あおむけになって。だから、ほとんど寝てないという格好だわね。

とにかく休んだというのは、ここで休憩だといって、1晩、5時間なら5時間ここで寝るんだということは全然ないからね。休憩時間10分。10分間寝て。まぁ、寝てというよりも、眠くなるわけね。寝てないんだから。すぐたたき起こされて、また前進開始だからね。夜行軍、昼夜兼行というのはあれでしょうね。常識では考えられない作戦ですよ。
山道を駆け足で、走って突破したみたいな感じだね。しかも、横断でしょう。山のてっぺんまで行ったと思ったら、次、谷底まで下りるわけでしょう。それでまた、山のてっぺんまで上るわけでしょう。30ぐらいの山脈が南北に流れているわけですよ。それを東西に横切っていくわけだからね。

本格的に英印軍とぶつかってやったのは、サンジャックが初めてでしょう。あとは前線陣地やらありましたけど、サンジャックで5日間ぐらいの戦闘があったんですよ。そのときの戦闘ってのが、英軍が2個大隊かな。我がほうの連隊長の指揮する2個大隊。まぁ互角ですね。互角の兵力。ただし、連中は陣地を作っているわけでしょう。日本軍は陣地がないわけだ。その陣地を攻めるわけですよ。そういう戦がサンジャックっていうところであったわけですね。それがインパール作戦のいちばん最初の挑戦です。うちの、58連隊のね。

第2大隊がいちばん最初ね、その陣地につかって行って、1個中隊、2個中隊がほとんど全滅しましたね。連隊長がそこに兵力を集中して、第3大隊が攻撃に参加する。2大隊、3大隊と、それに歩兵砲中隊っていうのは、砲を持ってる中隊。それが参加しましてね。そこでサンジャックの戦闘っていうのが始まったわけです。それは、夜襲に夜襲ですね。それから、砲兵が、だいたい付いて来ないんですよ。山の中だから。砲身は分解搬送でね。よっこら、よっこら、大砲を担いで、分解して、大砲を担いで山を越えてくるわけでしょう。歩兵はとにかく、足で自分が行くんだから、歩兵はどんどん前へ出るけれども、火砲が付いてこない。だから、本格的に火砲を準備して、その陣地を攻撃したっていうのは、歩兵が攻撃開始してから4、5日たってからですね。

その戦闘で英軍は完全に退却したわけです。5日間の攻撃でね。予定の退却かと思ったらそうじゃなくて、あとで向こうの将校と懇親会を開いたんだけど、英軍とね。あのときは、我々は損害が非常に大きかったから、向こうは1個旅団がおったんだけど、2個大隊で1個旅団を編成しとったんだけども、少将の方が、准将か。向こうは准将ってなるんだよ。准将の方が独断で退却をしたんだと。要するに、負けて下がったんだと。そういう話だった。こちらのほうは、それは相当の激戦だけども、完全にその陣地から英軍を追っ払ったと。だから、勝負がついたわけですよね。それは勝ち戦ですよね。

勝ち戦で、うちの損害が約500人。500人というのは相当大きな損害ですよ。英軍はそれ以上の損害を被ったんじゃないでしょうかね。ほとんど1個大隊全滅ね。日本は、1個大隊は、全滅まではいかなかったけれども、過半数損害を被って、これではとてもじゃないけれども陣地が持たないということで、旅団長の指揮する2個大隊だった。旅団長が自分で撤退命令を下してインパールのほうに下がっていった。これがいちばん最初の戦闘です。

15日。4月15日だね。攻撃しとったのはね。
あとは防御に転移しましたね。攻撃して、敵の陣地を、陣地を全部行くでしょう。最後にやつさんたち、一角、残ってましたからね。その辺で持久戦ですね。コヒマの戦闘は。あと1か月ぐらいは持久戦。

攻められない。攻めても、向こうのほうは火力があるし、どんどん補充してきてるから。ですから、突撃、突撃、繰り返しておったけど、陣地が取れないようになったんじゃないかな、最後はね。最後の一角はどうしても奪取できなかったですね。ほんの一隅だけ英軍が残ってましたけどね。英軍も強いですよ。そんなに簡単に負けないですね。最後まで頑張ってね。グルカなんかも強いですよ。

Q: そのあと1か月は、完全に戦闘は停滞しているわけですか。

停滞はしてない。手りゅう弾戦をやったり、あるいは陣地攻撃をやったり、やってましたよ。陣地が残ってますからね。少しずつはやってるんだけど、また向こうが逆襲してくる。だから、そんなに派手に、どんどん突進していくというような状況ではなくなってきたね。

激戦でしたよ。コヒマの陣地はなかなか落ちなかったね。向こうは補給がありますからね。こちらは補給がないでしょう。英軍は、そのころは全部パラシュートで補給してましたからね。こちらにいくらか落ちてくる。だから、糧秣があれば、兵器もあるわけですよね。それの取り合いみたいなもので。5日間で攻撃を、日本軍を追い返すという向こうの計画だったのが、2か月かかっているでしょう。そこでも司令官が予備役になっている。英軍の人事というのははっきりしてますよ。成果報酬で、成果が上がらない人はみんな、予備役だとか、降格だとかね。成果が上がればすぐ二階級特進とか、そんなのがあるんじゃないかと思うんだけどね。はっきりしてますよ。厳しいですよ。

Q: コヒマでの戦いは、いつぐらいから弾とか食べ物がなくなったんですか。

行ってすぐですよ。行ってすぐ糧秣がこない。お米の配給がね。計理部が現地でお米を徴収してきて、そして、もみ殻で配給になったこともありますよ。ほとんど。それを鉄かぶとの中に入れて、円匙(えんぴ)というスコップがあるでしょう。スコップの柄(え)でたたいて白い米にして、それでおかゆを作って生活しとったということですね。だから、計理部というのがおりますが、計理部は、現地の人たちは米を食べてますからね。それを見つけてきて全部ジャングルの中に隠してありましたよ。ということだそうです。
大きな竹で作ったザルがあるんですよ。大きなね、それでもみを。彼らは自給自足だから、日本軍に取られれば自分たちの食糧がなくなるわけだから、必死になって取られないようにと。でも、それを見つけてきてね。そして、軍票ぐらいは払っとったんだろうけど、軍票を払っても通用しないからね。現地の人たちもだいぶ苦労したんじゃないですか。食糧を日本軍に取られたと。

コヒマは連隊本部以下、第2大隊と第3大隊、突撃隊がみんな一緒ですよ。第一線にピッタリ囲まれてね。敵の陣地に入るでしょう。敵の陣地に入ったきり、動けない。連隊長が隣の部屋におっても、隣の部屋に、隣の壕(ごう)になかなか行けないですよね。毎日1万発の砲弾が落ちるからね。すごい戦闘でしたよ。

しかし、戦場だから、残ってるったって砲撃がすごいから、1日1万発が、うちの1個連隊の守備しておった山に落ちてくるわけだからね。お祭りの太鼓をたたいてるみたいなもんです、発射音が。ドンドコドン、ドンドコドン、ドンドコドンって、発射音が。それがしばらくたつと、頭の上を通っていったり、前へ落ちたり。で、集中射撃にあう。

考えるったって、何を考えるんじゃない。戦闘でどうしてこの陣地を保持するか。ねぇ。あるいは、補充ったって、補充はないわけだからね。へばりついて、とにかく頑張るんだということしか考えてないね。この陣地は絶対敵に渡さないんだと。ここは前進できないかもしれないけれども、撤退もできないんだということでね。やはり、そのうちに向こうの戦車が来て銃丸砲撃をする。戦車に対しては、今度は肉弾攻撃だよね。日本軍のほうの、地雷を持って、地雷を仕掛けて戦車の機動を切るとか、あるいはエンジンに火炎瓶を投げて焼き払うとか。戦車と兵隊さんとの格闘ですよ。そういうような、連隊本部から通信隊、全部格闘する兵隊さんで出てしまうわけですよ。

るいは、補充ったって、補充はないわけだからね。へばりついて、とにかく頑張るんだということしか考えてないね。この陣地は絶対敵に渡さないんだと。ここは前進できないかもしれないけれども、撤退もできないんだということでね。やはり、そのうちに向こうの戦車が来て銃丸砲撃をする。戦車に対しては、今度は肉弾攻撃だよね。日本軍のほうの、地雷を持って、地雷を仕掛けて戦車の機動を切るとか、あるいはエンジンに火炎瓶を投げて焼き払うとか。戦車と兵隊さんとの格闘ですよ。そういうような、連隊本部から通信隊、全部格闘する兵隊さんで出てしまうわけですよ。

戦車っていうのは、戦車に馬乗りになって手りゅう弾を投げつけたり、あるいは装甲地雷ってあるでしょう。装甲地雷っていうのがあるんですよ。キャタピラを踏ませ、キャタピラにはめ込んで、キャタピラを切ると。そうすると戦車は動けなくなるからね。戦車が動けなくなったら惨めなものですよ。彼らは操縦する、中に3人入っていると言ったかな。3人かな。でも、歩兵がいないと、やはり怖いんですよ。どこに日本軍がおるかわからない。

匍匐(ほふく)前進したり、あるいは各兵隊が行ってね。馬乗りになって手りゅう弾を投げるとかね。戦車と、それが日本軍の得意とするところ。戦車と兵隊さんと格闘するわけですよ。で、戦車に勝つわけだからね。

1回、山道だから、比較的向こうの戦車の活動が制限されますからね。肉迫(にくはく)攻撃ということばを聞いたことありますか? 戦車に向かって、兵隊が直接地雷を持って、キャタピラに仕掛けるとかね。あるいは、自分もろとも爆発するとかね。特攻隊と一緒ですよ。特攻隊だけが、逃げ際で飛行機もろとも向こうの艦船に体当たりするという記事がたくさん出ていましたけれども、実際の戦場でも、兵隊さんが爆弾を担いで、爆弾を持って、戦車に潜り込んで爆発すると。それで、動けないようにすると。そこに今度は別の兵隊さんが馬乗りになって、手りゅう弾を戦車の中に投げる。それで戦車が何台か捕獲できる。戦車を捕獲して、日本軍だって操縦できる人がいますからね。逆に、その戦車を操縦して攻撃するというようなことも、たまにはありましたね。

戦闘するときの、戦闘の第一線の、出ている人たちの状況報告、連隊本部と第一線とは、しょっちゅう連絡を取ってますからね。負傷した、血だらけになった連絡員が帰ってきて、命からがら状況報告するとか、いろんな場面がありますよね。今まで一緒におった連隊の書記が連絡に行ったまま、トーチカに見つかって戦死したとかね。わたしの同期生も2人戦死してますよね。

Q: 例えば、連絡要員というのは帰ってきてどういうことを報告するんですか。

向こうの陣地の中に突撃するわけだから、みんな行くわけだから、どこにトーチカがあり、どこに重砲が備え、速射陣地があるか、よくわからないでしょう。そこへ行くたんびに狙撃されるんですね。狙撃はうまいですよ、向こうはね。オリンピックの選手みたいなのばっかしおるんじゃないかと思いますけどね。日本軍よりは、銃も眼鏡付きの精度のいい銃を使っていますからね。そういう狙撃兵っていうのは、訓練してるような気がしましたね。ちょっと立ち上がると、すぐ狙撃されますよ。うちの連隊長が、旅団長が現地視察に来られたことがある。非常に危ないところなんですよね。壕(ごう)から飛び出して、「閣下危ないですよ」といって組み伏せて、背を低くしたんだけど、自分が狙撃されて、ほっぺた貫通銃創ですよ。100メーターぐらいしか離れてないんだからね、英軍の陣地が。だから、ちょっと背が高くなるとすぐ狙撃する。

あれだけ負け戦でね、突撃する人がみんな戦死してるでしょう。特に初年兵なんか、泣きだしたっていう人がおるように報告を聞いてますよ。わたしは初年兵教育をしてましたからね。全部第一線に出ましたでしょう。初めての戦闘ですよね、初年兵は。だから、なかなか前へ、足がびびって進めないんですね。結局、ほとんど戦死ですよね。あんまり座ってると足にけいれんが起こる。

4月に、コヒマを占領して間もなく。コヒマを攻撃開始したのは4月5日ごろだからね。15日ぐらいじゃなかったかな? 10日過ぎぐらいじゃないかと思いますね。あと10日も経ったら、インパールが陥落するんだと。陥落させるんだという希望が持てたわけですね。ところがその後、何の連絡、何の情報もなくてね、インパールどころじゃなくて、我がほうの陣地もずいぶん苦労したということですね。

Q: 天長節がきても、インパールが落ちたという連絡もこないわけですよね。

こない、こない。

Q: いつ終わるんだろうとか、そういうことは考えたりしましたか。

いつ終わるのかっていうのは、考えてもみないね。ただ、4月、5月になってから佐藤さん(師団長)が、1回撤退命令が出ましたでしょう。後ろの、コヒマの陣地を撤収して、アラズラ、アラズラかな? 連隊本部が一緒に、後ろの旅団司令軍のおった陣地まで後退したんですよ。そのころから、これは撤退だなという感じがしましたからね。

29日に近い日になれば、20日ごろなら20日ごろに、まだインパール、本当だったら、陥落間近だったら情報がくるはずだけど、全然こないでしょう。これはだめだなというような感じがしましたね。

牟田口さん(第15軍司令官)がそういう具合に言われたかもしれないがね。29日までにインパールは片付けるからと。コヒマなら、コヒマを離れてるからね。コヒマの58連隊に頑張ってもらわにゃいかんと。29日にはインパールを陥落させるから、29日まではひとつコヒマで頑張ってくれと。敵を通さないようにしろと。そういう命令がきたんじゃないですか。それはそのとおり実行したわけですよ。5月いっぱいまで持ちこたえたわけだからね。

要するに、コヒマの陣地を継続守備しろと。その条件としてね、兵器、弾薬、それから、食糧。これをすぐ補給しろと。そういう要求をどんどん、向こうの参謀長が来るんですよ。軍司令部のね。それに対して、補給がなければ戦はできないと。だから、補給をしなさいと。そういう交渉だけだったですね。他にいろいろあるんでしょうけどね。兵力の増強だって必要でしょうけど。兵力を増強して補給がなかったら、なお、餓死、飢え死にするじゃない。兵力も持ってこようがないわね、ほかのところからね。

Q: 佐藤師団長がそういう要求を出されていたってことを、お知りになっていた。

知ってますよ。しょっちゅう大きな声で、向こうの参謀が来るとやり合いますからね。佐藤さんのほうは中将だから偉い、参謀長よりね。参謀長は小さくなって、少将だけどね。その少将に補給のことをやかましく言ってる。だから兵隊さんたち、みんなおりますから、みんなわかりますからね。「佐藤さん、またやってるよ」って。

Q: 佐藤さんは相当怒っている感じなんですか。

怒ってますよ。自分の一身を懸けてね、決心するつもりでやってるから、こないということはある程度予測をつけて、そして、撤退をすると。その場合、どこまで撤退して、そこで補給しろという要求まで、最後まで出してますからね。ウクルルで補給しなさいと。ウクルルがだめだったら、なんていうところからな。フミネかな、フミネというところまで下がるぞと。追い打ちを掛けて、向こうに。佐藤さんは全部、自分の意思表示をしてるわけですよ。そのときに軍司令官が、牟田口さんが何も指示してないから、的確な指示をしてないから。指示できなかったんだろうと思うんだけどね。それが非常にあいまいだから、指揮系統が乱れてきたんじゃないかと思いますね。

兵器、弾薬も入れて、補給全般ね。それは当たり前のことなんですよね。何もないんだから。第一線の部隊ほど、切実に感じてる人たちはいないわけだから。司令部だったらまだ、お米のごはんもあったんじゃないですか。司令部はね。第一線というのは、もみ殻を鉄棒で突いて、わずかな米を米にして、野草を採ってきて、野草をゆでて、そして、米を入れて、それがおじやだと。「新潟ではこんなの食べてるんですよ」ってなことで、それを当番が作ってくれてね、いただいたんですよ。感謝して、ありがとうと言ってね。だから、第一線の我々自身がいちばん切実に感じてるわけですよ。補給がないということの影響をね。英軍の落下傘、落下傘まで行くには射撃されますからね。それを避けながら落下傘を取ってくると。そこに敵の糧秣(りょうまつ)がある。立派な糧秣ですよ。

わたしは連隊本部におるから、当然師団司令部からそういう指示があったですよね。独断というよりも、31師団は撤退を開始する。独断と、自分では言わないわね。結果的に独断だけどもね。撤退を開始する。まず、ウクルルまでと。ウクルルへ行ったら全然なし。何もない。

補給してもらえる弾薬も糧秣も何もない。みんな先の部隊が持って行ってしまったからね。次のフミネまで、チンドウィン河の川っ縁にフミネというところがある。糧秣基地。そこにもない。それで、東側に移動すると。そこで師団長が交代させられた。

最も我々にとってはありがたい命令だと思いましたよ。みんな喜んでましたよ、兵隊さんたちは。要するに兵隊さんたちだって、見込みがない作戦であるということは、自分たちがやっているわけだからね、わかってるわけですよ。わかっていることを実行してくれた師団長だからね、助かりました、ありがとうございましたという感謝の気持ちがあったですね。

Q:見込みがないということ自体は、いつごろわかり始めたんですか。

いつごろって、コヒマにおるときに、あれだけの負け戦なんだからね。1日に1万発も毎日毎日砲撃されるっていうことは、こっちには対抗手段がないわけでしょう。それでもう負けでしょう。戦車が来て銃弾砲撃する。そのうち、英軍の護兵が陣地の中に入ってくる。そういう状態になったら、もうもたないなということは、大体わかるわけだね。こちらは戦闘しているわけだからね。

上に反している、反しなかったら撤退できないわけでしょう。だから我々は、見込みのない戦場にいくらいたって損害を受けるだけだから、撤退に賛同する。気持ちとしては、師団長がいいときに撤退の命令を出してくれたなという感謝の気持ちがあったですね。みんな。だから、佐藤師団長様々という感じでしたね。佐藤さんは、自分は銃殺になるつもりで撤退命令を出したわけだからね。自分個人がね。あとで軍法会議になって、戦場離脱だから軍法会議ですよね。場合によっては銃殺ですよね、処刑は。それは覚悟して出してるわけだから、単なる撤退じゃないですね。自分が責任を持つからと。それで、隣の師団にも連絡を取ってなかったわけです。それは、師団長から直接聞いたんだけどね、隣の15師団長に通達すれば、隣の15師団長は共謀したんじゃないかという疑いをかけられると。それでは申し訳ないから、ひと言も連絡しないで、自分で判断されて、やってくださいという気持ちじゃなかったんですかね。

佐藤さんがそう言ってた。佐藤さんに会いに行ったことがありますよ。戦地に帰ってきてから。あ、内地へ帰ってきてから。そのときの気持ちをね。

日本の兵隊さんたちが餓死するでしょう、糧秣(りょうまつ)もなく。病院から、ほとんど患者ですね。部隊行動をしてる人は、何とかお互いに励まし合って前進しますけどね、前進じゃない、後退しますけれどもね、餓死される方は列を作って倒れてるんですよ。それは、軍服を着たがいこつであったり、あるいは、ジャングルの中のハエ。ハエは、体が、死んで間もなくは水ぶくれになるんですね。それに真っ黒にハエが集ってる。そういう患者が、早く亡くなった方はがいこつになって、すぐ倒れた人はハエだらけになってる。それから、本当に直前に座り込んだ人は、お互いに話はするけども、立ち上がる気力がない。そういう死がいの行列が、あのジャングルの中にできてるわけですよ。それは、こういうことが日本軍にあっていいかなというぐらいに、我々は感じましたね。日本軍がね。

外国の軍隊であれば、ナポレオンもソ連との戦で、あれは雪、冬だからね。吹雪にあって倒れたと。こちらはジャングルの中で、熱帯の中でハエに集られ、あるいはアメーバ(赤痢)にかかって、そして、次から次と倒れていくと。それが行列を作ってるんだからね、ずっと、ジャングルの中にね。4、5人倒れたのが、ある日は、ちょっとした坂道の上がり口、あるいは上がったところ。そういうところに倒れてるわけです。それは、日本の、これが軍隊なのかなと思いましたね。日本の軍隊っていうのはこういうことを、負け戦っていうのはこういう状態になるのかなと思いました。整然と退却しないんだから。あるいは退却の時期をもう1か月早くしたら、こんなことはなかったと思うんですよ。病院を先に撤退させて、あと、憲兵がいちばん最後に下がってくると。そういう状態で整然と、少なくとも整然と、患者ぐらいはビルマ領に案内できたんじゃないかと思うんだけどね、全然そうじゃないんだからね。日本の軍隊もこんなものかなと思いましたね。

 心境は惨めですよ。こういう兵隊さんたちを何とか助けてあげて、連れて行ってあげたいと思うけど、どうしようもないということですね。実際に声を掛けてくるわけだからね。何とか歩ければ、「部隊に付いて来たらいいよ」って言うんだけど、歩けないでしょうが。座り込んでいるとね。しようがないなと、こう思いますね。思いましたね。

終戦は、9月になってからじゃないとわからなかった。9月の10日ごろかな。戦争が終わったらしい。その程度ですよ、あのジャングルの中でね。全然情報がなかったですね。

「勝ったのか、負けたのか、どちらだ」って聞いたもん。こちらは戦地におるわけでしょう。戦地におって終戦だからね。終戦といったら、日本国内に帰って、国内で全部まとまって、戦はやめましたというのが当たり前なんだけども、外地にたくさんまだ兵隊さんが残ってるでしょう。それがどうして負けたんだっていう感じですよ。まだ戦闘をやってるじゃないかと。我々はね。実際に、南部ビルマで戦闘をやってたんですよ。英印軍を、逆に追撃しとったんですよ。

終戦のときは。それぐらいの状況だったから、簡単に負けるとは思ってなかったですよね。それがだんだん怪しくなってきて、どうも負けたらしいと。そんな程度ですよ。はっきり敗戦というのは、10月ごろになってからですね。日本の正式の野戦病院に入ってから。英軍の管理下に入りますからね。入りましたからね。

戦争が終わったということは、幸いじゃないかなと思いましたね。負けたって痛切に、処刑されりなんかして、されるわけじゃないんだからね。病院でそのまま、勝った、負けたという言葉だけしか聞いてないわけだから、従来どおりの給与も、細々ながら、食事も出ましたしね。それから、包帯交換ぐらいは衛生兵がやってくれた。だからそんなに深刻に、急に、負けたからっていうんで待遇がうんと悪くなったり、というようなことはなかったですね。

出来事の背景

【インパール作戦 補給なきコヒマの苦闘 ~新潟県・高田歩兵第58連隊~】

出来事の背景 写真昭和19年(1944年)、戦局が悪化の一途をたどっていた日本軍は、連合軍の反撃を防ぐため、連合軍の東インドの拠点都市、インパールを攻略する大規模な作戦を決行する。「インパール作戦」である。

インパール作戦に参加した58連隊は、インパール北方、130キロに位置する「コヒマ」にむかった。インパールへ援軍や物資を送る唯一の街道の中継地で、このコヒマの占領を命じられていた。しかし、牛に荷物を運ばせながら、2000メートル級の山を越える行軍は、苦難を極めた。4月のコヒマ到着後は、守備の手薄だった連合軍の陣地を次々に奪い取ったがすぐに連合軍の反攻を受けるようになった。補給の途絶えた58連隊は、弾薬が不足し、からだごと敵戦車に飛び込む肉弾攻撃を行うようになり、兵士たちは命を落として行った。雨季に入った5月、58連隊の所属する31師団の佐藤幸徳師団長は、まったく補給がないことから独断で退却を決断した。

しかし、食べ物もないまま、険しい山道と密林を撤退する兵士たちは次々に飢えと病に倒れ、撤退の道は「白骨街道」とまで呼ばれるようになった。

証言者プロフィール

1923年
石川県金沢市寺町にて生まれる。
1942年
少尉に任じられ、歩兵第58連隊旗手を命ぜられる。
1944年
コヒマ作戦期間中の6月、中尉に進級。当時、21歳。
1945年
師団撤退作戦中に、右くるぶしの貫通銃創で歩行不能となる。担架に担がれながら敵中突破し野戦病院に収容される。
1946年
浦賀に上陸。復員。

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インド(コヒマ)

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