ホーム » 証言 » 牧岡 善太さん

チャプター

[1] チャプター1 誤算だらけの物資輸送作戦  02:38
[2] チャプター2 アラカン山脈越え  02:52
[3] チャプター3 サンジャックからコヒマへ  05:19
[4] チャプター4 戦車砲で道路を修復する連合軍  01:46
[5] チャプター5 生き残りの兵士を数える  04:00
[6] チャプター6 途絶えていった食糧補給  05:05
[7] チャプター7 「米を調達せよ」  03:33
[8] チャプター8 自決のための手りゅう弾  03:30
[9] チャプター9 極限の飢えの撤退路  02:19

再生テキスト

Q:牛が渡るの後ろから見ていらっしゃって、どういう状況なんですか? やっぱり流されて行くもんなんですか?

まあ、やるのはみんな、同じだろうと思うんだけど、まず兵隊が船に乗って、それで、両脇に並ぶわけですね。それでみんな、牛の手綱、みんな持って、それで後ろから、ケツはたいて、河の中に入れるわけですよね。そうすると牛は、前行くよりしょうがないから、どんどん、どんどん引っ張られる。そのうちにむぐっちゃうのが、いるわけですよ。そうすると、押さえてる兵隊も一緒にこう、流されるような格好になるからね、放すわけですよ。そしたら、牛は流されていくわけ。だから、荷物積んだそのまんまで、流れていっちゃうわけ。あとは、どうしてみようもないわけですよ。

船なんたってよ、何匹も船に乗せられないわけでしょ。そうかって、いかだ作るっていっても、材料が無いわけよ。生木は生えてるけど、ジャングルで生木はあるけど、それ切って、いかだ作ってなんて、余裕は無いわけですよ。だからそこらあたりはね、上層部は何を考えてたんだかね。これだけの部隊でもって、駄牛隊を使ってやるってことになれば、そうとう大げさな、準備をしなきゃ、駄目なわけなんですけどね、そういうあれが、ぜんぜん無いんだよね。


Q:牛の数っていうのは河を渡るとだいぶ減ってたんですか?

 もう、半分以下になってたからね、渡ったら。
だからあと、どうすんだかって我々も、駄牛中隊の後ついていかなきゃ、だめですからね、あとのことなんて、頭にねえわけですよ。

Q:アラカン山脈っていうのは険しい山なんですか?

まず、富士山クラスですね。一日に、山一つ。もう、歩きっぱなしですよ。だからそのころはね、もう、敵を追っかけていますからね、歩きながら飯、食うんですよ。「ハヤノノツリカン」っていうのがあるんですよね、バンドにこう引っ掛けるやつ。そこへ、飯ごうを首から縄か、ロープでもって輪っかを作って、そこへ、飯ごうをぶらさげて、歩きながら、食いながら歩く。腰をついて、ゆっくりご飯食べて、それから歩くなんてね、ものすごく、おいてかれるわけですよ。だから極端な話が、小便、立小便してる間に歩くの、どんどん。そうするとね100メーター、200メーターあいちゃうわけですよ。その100メーター、200メーターを追いつくのに、大変なんですよね。だから、歩きながら小便しちゃう。立小便ってことはあるけど、歩きながら小便なんてのは、初めてだったよね。そしたら兵隊がね、「牧さん、小便するには、ついて行くのがやっとか?」とね。「何かあったら、断れ」って。断わったって、おまえらが止まれば、その分、遅れるわけだからね。あと、部隊追及するのが大変だ。そうかって、部隊が休んだからって、自分らも休むってわけには、いかないわけ。その間に部隊を追っかけないと、いけないと駄目だから。だから、いちばんひどかったのは下痢。下痢した連中、歩きながら道路の端へ入って、ジャングルの中で大便、出すわけですよ。そしたらもう、ものすごく、置いて行かれるわけ。そしてもう、部隊追及できないわけです。ああいうのはね、あれでもって駄目になった人間、多いんでねえかな。ああいうケースになって。

このサンジャックに、やつらは1個旅団がいたんですよ。それは、インパールの系統の、あれなんですよね。で、一個旅団がサンジャックにいて、本来ならば、このサンジャックというのは、日本軍の戦闘区域の分担の中でね、本当は祭の15師団の、受け持ちの区域なんですよね。それを、宮崎繁三郎中将がね、我々の旅団長(歩兵団長)やってたわけですけど、それが買って出たんですよ、そこまでいったもんだから。それでサンジャックでもって、コテンパンにやられちゃったわけですよ。ほとんど、玉砕みたいなもんだったですよ。

ものすごいんだ、もう隠れるところ、無いぐらい。それで「いやあ、これすごいなあ」って言うんで、「これ、軍旗を焼いて玉砕だわい」なんてね、我々もはや、あきらめていたんですよね。


Q:突撃とかも、したりはしたんですか?

 そこまではない、我々はね。我々は大隊本部だから一歩やっぱ、下がってますからね。一線中隊がまずいて、それで予備軍っていうかね、まあ、予備軍って言っちゃ、あんまりあれだけど、二段構えになってて、そのあとに二段構えっていうか、中隊の指揮官とかね、そういうのがいて、そのあとに大隊本部がつくわけね。だけど、最後の突撃のときは一斉に行かなきゃ、駄目なわけですよね。だから、戦々恐々としてたわけよ。だから、そのときの気持ちはね、なんていうかね、あれが大和魂なんだけどね。「やけのやんぱち」になっちゃって、もう、矢でも鉄砲でも、何でも持ってこいってえの。破れかぶれだね。だから、あれが大和魂っていうんだね。どう言ったら、いいんだろうかね、破れかぶれの。男同士のけんかでも、最後になってくっと、矢でも鉄砲でも、持ってこいっていう気持ちになる、それが、あれくらいですよね。まあみんな、そういう気持ちだったと思うんだけどね、おればっかりじゃないと、思うんだけどね、なかなか本音、言わないからね。

コヒマの話するとね、テニスコートとか、グランドコートとか、よく本に出てるけどね、我々がコヒマに行ったばっかのときは、山に入ると木がふさふさしてたんですよ。それがね、やつらの砲撃が始まるとね、まず、バケツの底はたいたみたいにね、ダダダダーって。1個連隊、野砲は1個連隊、砲列敷いしているのが、見えるんですよ。それがね、我々の陣地目がけて、目標があの建物なんていうんじゃ、ないんだよね、あの山っていうような、格好なんだよね。もう、めちゃくちゃに撃ってくるんですよ。そしたらね、木が全部、丸裸になっちゃってね、丸坊主になっちゃってね。下の土地はね、畑耕したんですけどね、まるっきりもう、砲弾が飛んでくる前と後では、でっけえ違いなんですよね。


Q:コヒマでの戦いの中ですでに、日本が負けるかな、ということは思ってたりしてたんですか?

 思ってたですよ、そりゃ。勝つなんていうのは、思わないですよ、あんな状態になったら。もう悲惨なんだもん。中国で、敵と戦闘やってるときの思いなんて、全然もう比較にならない。兵器がぜんぜん違うからね。やつらの兵器っていうのは、要するにビルマから援蒋ルートでもって、輸送した兵器を確保してたわけですよね。そのほかに、飛行機でもって、輸送したのもあるし。だから、どう言ったらいいんかな、もう兵器が比べもんにならない。

まあ結局、戦車にやられたらね、逃げも隠れもならないわけですよ。極端な話がね、日本軍が道路を掘って、一晩がかりでもって、戦車壕作るわけですよ。戦車が渡れないように、道路に穴掘っちゃうわけ。そうするとね、やつらはね、持てる国だからね、砲弾でもって、戦車の砲弾でもってね、そのがけを崩して、平らにしちゃうわけ。まあ、平らまでいかんけど、穴、ある程度埋めて、戦車がいかれるぐらいに。そこまでは日本は、まねできねえわけですよ。そうかて、穴を掘るのも、腹に力が無いすけ、思うように出来ないわけですよ。一晩、かかってやっと、掘ったやつを、やつらは砲弾でもって、1時間くらいでもって、平らにしちゃうわけ。それでもう、グーっと来ちゃうわけ。そのあげく、火炎放射器ね。火炎放射器を持ってきて、壕の中をこれやるわけ。そしたらもうね、にっちもさっちも、いかないわけ。もう、持てねえ国の悲しさっていうかね。

毎日夕方、日暮れ時になるとね、各中隊、一斉に回るんですよ。そして、何人残ってるかっていうのを確保して、その晩に炊き出し、やるやつの握り飯の数を決めなきゃ、駄目なんですよ。それをね、兵隊に「行け」ってことはね、「行って、各中隊を回ってこい」ってことは、ちょっと言わんねですよ、命の保障は、無いんですからね。だからしょうがないから、毎日わたし、各中隊、回ったわけですよ。そしておまえんとこは、20人なら20人、30人40人っていう員数を調べて、今日の炊き出しは、これだけっていう数字を、班長やってるのに渡すわけですよ。それであとは、連中はそれに合わせて、米をといで、飯ごう炊飯っていうか、ご飯炊いて握り飯つくって、それこそ、南京袋に握り飯あれして、かついで持って。それを、握り飯かついで死んでるのもいるわけですよ。

だけども中隊に何人、残ってるかっていうのを調べに行くときの、あんときの気持ちはね、なんとも、いわんねえですね。で、知ってるのはいっぱい、いるわけですよ、同年兵。「お、牧、おまえ生きてたか。おれはこれから(突撃に)行ってくるすけな」って。もうね、靴脱いで、靴は音が出るんだから、靴を脱いで、靴下だけになって、それから帯剣は布を巻いて、光らないように、反射しないように、そいでもう、夜襲に出てく準備なんですよ。そこへ行がんけりゃっていうのはね、ほんとに涙が出たね。これが、最後の別れになるんだろうかなって。それの気持ちはなんとも、言われないですね。


Q:どういう言葉を最後、交わすんですか?

 だからね、「頑張ってこいよ」って言うより(以外は)言われないの。あとの言葉がでてこない。だから逆に、言うとね、「生きて帰れよ」ってことを言わんねんだよね。わからねんだから。だから向こうも困るし、こっちも困るんですよね。だから「頑張ってこいよ」っていう、知ってるのにはね。そう言われて、生きて帰ってきたのもいるけどね、全部が全部、死んだわけじゃないんだから。


Q:ひどいときはコヒマで、一つの中隊で何人くらいになってるんですか?

 まあ、10何人だったろうね。最後になったら。だからその他に、野戦病院とかそういうところに、いっぱい入ってるんだけど、もう使い物にならない。

Q:食糧は輜重(しちょう)兵が、運んできたっていうふうなことも伺ってるんですが、実際のところは、届いてなかったですか?

 いや、だからね、輸送部隊の輜重兵はね、独立輜重連隊っていうのがある、軍直轄のね。それはもう、ほかの部隊からなんだかんだ言われてるけど、軍の命令でもって、それが担いで、もう、自動車が駄目になったからね、雨季で。結局担いで、部隊一斉に、運び出したんだそうですよ、やつらに言わせっと。ところが、担いでる兵隊が、食べなきゃ駄目ですよね。ってことは、担いだのは絶対、手をつけないで運ぶっていうなら、まだあれだけど、結局、担いでるのに手をつけちゃうわけですよね。だから、連中はまるまる太ってるわけです。こっちは、がつがつ、ガラガラしてるっていうね。だから、そんな関係で、ほとんど届いてないんですよ。だから、米の補給を受けたなんて話、聞いたこと無いもん。

食べ物の応援なんていうのは、だって米ひとつ、補給にならないんですから。だから、自分で探さんといかん。そうかって、1000の兵隊に糧まつ探しに行って、手抜くわけにはいかんですから、結局、残っている者だけで毎日、もう米探し。だから、下手すると米が一粒も集まらんことに、なるわけですよ。だからそれを、何とか続けなきゃだめだって言うから、こっちも、必死になったわけですよ。


Q:地元の人から取ってくるんですか?

 だからね、いやそこはね、土民もね、現地人も日本軍が米が無くて、欲しがってるっていうのか、みんな隠しちゃってるわけですよ。だから、まあ協力なんて絶対、しっこねえわけだから。だから、とんでもないとこに、ジャングル行ったら米隠してあったとかね、そういうのがたまに、見つかることあるわけ。

一応、金は払うんですよ、軍票持ってますからね。でも、その軍票の価値が無いわけよ、日本軍が負けてるんだから。だから、あんまり喜ばんけど、もらわんよりもいいってんでね。

もう、小銃持ったのが構えてるしね。んで「それ、いくせ(渡せ)」と。それで「金はこれだけある」と、「だからどっち取る」っていうね。

結局、力ずくですよ、こっちは食うもんが無いんだから。だから、ぐずぐず言ったらぶっ殺すぞっていうね、そういう気持ちはあるわけですよ。それを出しちゃうと、終わりになっちゃうわけだから、なるべく、ここへおさめてそれで、まあ、イケライイレラシテ出させるようにするわけよ。

要するに、命が欲しいか金が欲しいかってね。おまえの好きなように、せえっていう。まあこっちは、ケツまくってるわけですよ。常とう手段だけどね。だから、向こうは命が惜しいんだから、やっぱり。だけど、ええこともあったけどね。村長の面倒みてたらね、それが後から効いてきたっけ。要するにやつらに言わせると、あのマスターの言うこと聞いてれば、大丈夫だっていう、信用とっちゃうとね、どこ行ってもね「ご主人、ご主人」って、こうやられるわけ。そしたら、無理が通るんですよね。ところがそこで、逆にこれやっちゃうと、あのマスター駄目やから、こうだっていうね、そういう逆効果もあるわけですよね。

20年が終戦だよね。19年のね、6月、5月の下旬だね、「牧、お前ちょっとこい」ってことでね、行ったらね、ヤシロ衛生兵って、カシラキ在の男、タカヤナギって、人もう死んじゃったけどね、その衛生兵と同年兵なんですよ、それが。と、2人でね、呼ばれてね、「おまえら、2人してこれから、すぐ下がれ」って、「は?」ってね、下がれなんて言われる思いはぜんぜん、無かったわけです。そしてあの「どこまで、下がるんですか?」って言ったらね「いや、話が前後したけどね、米と薬をね、集積せえ」と。で、そういう話だったからね、いや、そんなん、どこ行ったらあるだか、わけわからんし、そんな駄目だわ」って言ったらね、「あるところまで、下がれ」って、こういう命令なんですよ。で、「これからすぐ、下がれ」ってこういうわけ。で、それ、主計将校もへったくれもない、軍医もねえんさね。大隊長から、じかにきたもんだからね。だからこれなんですよ、誰にも言うわけにいかねえわ。それで、結局早い(話が)、あとは独断ですよね。自分の持ってる2、3日食べる分ぐらいの米だけもって、あとは、もう部隊に残して、それで、下がったわけなんですけどね。


Q:そのときなんで、大隊長はそういう命令を出すんだろうかと思われてましたか?

 いや、その前にね、うわさでもってね、佐藤幸徳師団長がね、そういう頭をもってるっていうのが、ニュース入ったんだよね。


Q:どういう?

 いや、「このままでいけば、師団が全滅しちゃう」と、補給が米一粒、無いもんだからね。だから、師団長はあるときの時点になると、師団が撤退するっていう。


Q:どれくらい下がったらお米はようやく見つかったんですか?

 いや、だからあの、フミネ。フミネまで下がってきて米の倉庫、貨物廠(しょう)行って。


Q:何日くらいかかって見つけたんですか? ようやく、お米は?

 はっきりわからんけど、1週間くらいなもんだよね。1週間かかってねえかも、わからんけどね。いや、だからその間にこれ、やってるんですよ、みんな、手りゅう弾自爆。動かないのはね。だからそういう中、こう歩いてくからね、目つけられたことは、つけられてたよね。

手りゅう弾一発、あの時分で10円かな、までいったんですよ。「売ってくれ」って。だからわたし、2発ぶら下げてたんですよ。なんだかんだで、2発くらいになっちゃったんだけどね。みんな大体、2発くらいは持ってたんですけどね。結局、動きがともなわなくなってくると、死んでく人間が道連れに、自分ひとりで死ぬのは嫌だからって。まあ、わたしがあれだったら、あんたの側行って、これやって二人で死んじゃうっていう、そういう、気持ちなんですね。死体が友を呼ぶっていうのはね、ほんとにあるんだね。「白骨街道」行ったり来たり、わたしは何回もしたんだけど、行くときは確か、ここ一つしか、なかったはずなんだが、それが帰りに見たら、2つになってたり、3つになってたり、よくあったですよね。だから、死ぬときになってくっと、死んだのでも近間にいれば、気が休まるっていうかね、まあ本人に、聞いたわけじゃないからあれだけど、そういう気持ちになるんじゃないかなって、思うんですけどね。


Q:なんで道連れにするんですか?

 要するに、ひとりでいくのは嫌だ。仲間がいれば、いいんだっていう。それは、その本人にならんと、わからんけどね。そこまで、はっきり言って、死んでいくのもいねえから。


Q:手榴弾が一発10円になるっていうのは、なんで10円っていう高い値段になるんですか?

 まあ、10円が最高だったからね。


Q:なんのために、みんな10円出してでも(手りゅう弾を)欲しがるんですか?

 自分が死なんがために。自殺するために手りゅう弾が欲しい。そういうのは兵器が、何も持ってないわけですかよ。みんな、ほうり投げちゃって。だから小銃で自分を撃つって、その小銃も無いわけですよ。だから結局、手りゅう弾でもってやる。その手りゅう弾も無えから、金出して買って、それで一緒にやる。これはね、口で言うと簡単だけど、気持ちは複雑ですよ。

小銃でやるのはね、米を持ってる格好してると、やられるんですよね。だから、米、持ってるようなそぶりは出来ねえわけ。それで、やられたのいっぱい、いるんだもん。だけど、部隊やるかわからないんだからね、いろいろ混じってるから。


Q:小銃でやるっていうのはどういうことなんですか?

 要するに相手を殺すわけですよ。小銃で。

要するに自分が生きんがために、米を欲しいと、それであの男は米、持ってるなってことわかれば、そこで、殺してその米をもらって、自分が食べて生きるっていう、そういう考えです。だから、そういう苦しみをしないと、わからんわけですよ。あんたがたね、そこまでいったこと、無いだろうけど。


Q:それは日本兵でいうと、多くの人がやってたんですか?

 そうそう。だからみんな、警戒したもんですよ。歩いているうちに、前の方とか後ろの方でドカーンなんていうと、「おっ、またやったかあ」って。誰がやった、かわからねえです。部隊が入り混じってるから、どこの兵隊がやったんだかってのは、わからんわけですよね。

わたしも、今だから言えてるんであって、今まで言うこと無いですよ。我々、仲間でもって集まれば、言うけどね、そうじゃなきゃね。第3者に、絶対そんなこと、言うたことねえです。

出来事の背景

【インパール作戦 補給なきコヒマの苦闘 ~新潟県・高田歩兵第58連隊~】

出来事の背景 写真昭和19年(1944年)、戦局が悪化の一途をたどっていた日本軍は、連合軍の反撃を防ぐため、連合軍の東インドの拠点都市、インパールを攻略する大規模な作戦を決行する。「インパール作戦」である。

インパール作戦に参加した58連隊は、インパール北方、130キロに位置する「コヒマ」にむかった。インパールへ援軍や物資を送る唯一の街道の中継地で、このコヒマの占領を命じられていた。しかし、牛に荷物を運ばせながら、2000メートル級の山を越える行軍は、苦難を極めた。4月のコヒマ到着後は、守備の手薄だった連合軍の陣地を次々に奪い取ったがすぐに連合軍の反攻を受けるようになった。補給の途絶えた58連隊は、弾薬が不足し、からだごと敵戦車に飛び込む肉弾攻撃を行うようになり、兵士たちは命を落として行った。雨季に入った5月、58連隊の所属する31師団の佐藤幸徳師団長は、まったく補給がないことから独断で退却を決断した。

しかし、食べ物もないまま、険しい山道と密林を撤退する兵士たちは次々に飢えと病に倒れ、撤退の道は「白骨街道」とまで呼ばれるようになった。

証言者プロフィール

1919年
新潟県柏崎市にて生まれる
1939年
現役兵として歩兵30連隊に入隊。
1940年
歩兵第58連隊に転じる。
1943年
部隊の先発となり一人鉄道にてビルマに入る
1944年
コヒマ作戦当時、25歳、曹長。
1947年
復員。復員後は入隊前に勤めていた石油会社に戻り定年まで勤める

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インド(コヒマ)

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