ホーム » 証言 » 秦 信之さん

チャプター

[1] チャプター1 すべてが苦しかったインパール作戦  02:32
[2] チャプター2 牛で山と密林をを越える  04:57
[3] チャプター3 補給なき行軍  05:26
[4] チャプター4 サンジャックからコヒマへ  04:40
[5] チャプター5 自爆覚悟の肉弾戦~コヒマの激戦  03:52
[6] チャプター6 銃弾を受け重症を負う  06:11
[7] チャプター7 撤退の道は「白骨街道」  06:29
[8] チャプター8 苦しみの果てに今思うこと  02:06

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再生テキスト

つらかったのは全部つらい、何から何までね。インパール作戦というものは、そりゃわれわれは1兵であったり、下士官であったりして、本当の実体的な話は聞きませんよ。だけど、将校とかいろいろの話を聞くと、無理な作戦は承知の上でやったということは、われわれだって聞いております。

だから食糧問題というのは、あの山岳戦を突破していくんだから、いくら荷物を背のうに付けてあれしても、20キロから25キロぐらいのものを背負っていくんだから、それ以上は、人間とすれば重いから、無理だから、駄牛隊とかいろいろの輸送系統を仕組んで作戦に向かったわけだと思いますよ。

だからまぁ、どれがたいそうだ、どれが苦しかったということは、全部が苦しいですよ。1週間というものは、もう、寝たという覚えはほとんどない。大休止のときに仮眠するだけであって、もう次危険、あの山の中、2,000メートル級の山岳戦だからね。そこを突破して行ったんだから、まぁまぁ1週間あるいは10日は、寝ず、食べず、行ったわけだ。

ビルマの牛は、皆さんはテレビや何かでご存知だと思うけど、牛車でもって2頭で引っ張っていくのが普通の牛車。それを1頭に乗って、日本の牛のようにくらを背に付けて、食糧を、荷物を付けて。それまでが大変で、くらひとつ付けるのも。付けた以上、今度はくらが落ちるまで跳ねていくわけだ。投げつけられたから。何だかんだで10日ぐらいたつと、ある程度慣れてくる。だから結局ある程度は20日ぐらいたったらずいぶん慣れましたよね。

牛はね、馬よりもやっぱり、馬より牛のほうが山岳地帯は上手だよ。馬だと、ちょっとしたことですぐバタバタバタバタッと、いろいろのあれになるので。牛は、上がるときだってひざついて上がりますし、下りるときだってサーッと下りる。山道であって道じゃないところを、みんな歩いたんだからね。

最初は牛もあれだったけど、自然消滅、1頭亡くなり、次に亡くなりして、最後はほとんど自力搬送。兵隊がね。牛が積んでいた糧まつを分散して、できるだけ自分らが背のうに背負って歩く。最終的には牛がいなくなった。ある程度前線へ行けば、牛なんて構っていられないですよ。食うものも食わんで戦うんだから。途中までは駄牛隊搬送でもって、ある程度の補いをするために糧まつを付けて行ったんだけれども、山岳の険しい山道に牛は自然に倒れていって、また、生きていても歩けない牛は捨てていく。その糧まつはみんなで分ける。最終的にそれがどれだけの功を成したか、わたしたちはわかりませんよ。でも、ある程度良かった人もあったんですよ。

Q:牛が積んでいた食べ物とか弾薬を、全部人間が背負えるものなんですか。

そうそうそうそう。みんな今度、ある人間に、それだけの糧まつを背負えるだけのものは、みんな背負っていく。だめなものはだめで、できるだけ前線へ持っていくという。

Q:背負えないものはどうするんですか。

背負えないものはそのままですよ。誰だって構ってられない。そこにいられないし、前線へ行かなくちゃならん。任務があるんだもん。だから、牛がだめになれば牛を置いていくし、糧まつは持つだけ持って、残りは置いていくよりしようがない。今の世の中とその当時のあれでは、話をしたってちょっとわからん。われわれだって今考えると、自分のやったことだって、はっきり覚えていないような場合がありますもんね。

弾薬は補給っていうか、われわれはある程度のものを持って、自分の小銃というか、いろいろの持ち物の弾薬はみんな確保して持っていく。それで、食糧はね、前線へ行くまでの食糧は一応、軍でもって、いろいろの駄牛隊とか、それで補って、前線へ行った場合は敵の食糧を当てにしていたわけ。だからもう最前線へ行ったら、コメとかそういうものは考えていられない。それで今度は、宣ぶ班というのがいるんだね、師団とか。その宣ぶ班がその地域の、山間地だったら山間地の農民のところへ行ってコメを集めるとかいろいろして、食糧を供給するわけ。だからわれわれの駄牛隊は、食糧は前線へ行くまでの食糧。前線へ行った場合は敵のものをぶん取って、それをあれすると。こういう一応、作戦、本部の計画らしかったね。

その当時は、もう命令なんだから誰彼なく、たいそうだとか、難儀だとか、ばかくさいとか、そういうことは一切口に言いません。ただもう、一応、どこどこへ行かなくちゃならんという目標に対して必死なんだから、これはだめだとか、あれはこうだとか、そういう弱気なんか全然吐きませんよ。

われわれとすれば難儀ということではなくして、これはあれかなぁ、牛は泳げたかなという心配もあったんです。だけどある人は、「牛だって大丈夫だよ、泳ぐよ」と言う。結局、夜だからね。渡河戦だから、敵が向こうにどれだけいるかわかりません。こっちからは約800メーター、長いところは1,000メーターぐらいの川幅の、流れの強いあれですからね。歩兵隊も必死になって、どうするんだといったら、牛のくらや何から全部外して、別になっているから。牛そのもののあれを2頭ぐらいたがえて、そうすると3人ぐらいで、1頭2頭、そういうのをたがえて。兵隊が乗って、10人ばかり1個分隊のって。それを引っ張って行くんだから。やっぱし走り始めたら耳だけ、鼻と耳だけ、こうやってね。水面から顔を出すまねをしつつ、「おお、偉いもんだな」ってね。だけど、中には3分の1ぐらい流されたって。もうね、だめになれば置いてくるよりしようがないね。だけど、自分の牛は、みんなあれだったね。だから、偉いもんだなと思ってね。

えらい険しいですよ。アッサム州という山岳地があるんだがね。標高、高いところで2,000何百メートルという。それがズーッとつながっているところを行ったわけだからね。インパールを、われわれにすれば左のほうに見て、われわれは結局、西南に向かって行ったわけだけど、険しい山ですよ。

サンジャックに行って着いてから3日目の夜。総攻撃をやると。それでだめだったら他の部隊でやる。祭部隊がこっちにいるから祭部隊に任すと。ちょうど夜中に、朝方だな、3時ごろ、「敵が逃げた」っていうあれでもって、みんな「ワーッ」と敵陣地へ行ったんだよな。敵陣地へ行ってみたら負傷者がそこにいて、「水くれ、水くれ」って。やっぱしね、水見て、「水筒があるんだから水くれ」と言って、敵の水筒を喜んで飲んでいたね。その時分になりゃ、殺すということはないし、負傷でもってもう、「水くれ、水くれ」と言っているんだから。それでその敵が結局、敵が逃げていったのがインパール。武器そのものはみんな捨てて、インパールへ行く。そこは祭兵団に任せて、われわれはそこに2日ばかりいて、すぐ今度は本当の目的はコヒマなんだから、今度はずっとハンワ、軍隊でいうと、バッグのことをハンワ、ハンワ。ハンワして、ウクルルから、う回してコヒマへ向かった。

コヒマに向かうまでに4日ばかりかかるね。そしてコヒマへ行って、サンジャックが3月の末ごろですから、コヒマへ行って始まったのは、作戦が、ドンパチやったのは4月3日ごろからだね。3日、4日。1日あたりから。それでコヒマにひと月半ぐらいいたのかな、みんなが。58連隊のうち300、3000いくら、負傷したり、戦死したり。2000いくら、戦死したんじゃないかな。うちの部隊でも、ひと月の間に80名近くの兵隊が死んでるんだから。将兵が。その中に、傷を負って下がった者もあるし。なんだかんだで、58連隊の中の全部でもって結局、無傷の人間は1人もいなかったんじゃないかっていうぐらい、全部戦死、負傷、あるいは傷を受けて戦っていた。みんなもそうでしたよね。わたしだって突撃して、敵の逃げていくのを撃って、後方から中隊の応援団が「早く来い」と言って、手りゅう弾でもって腕をやられて、4月の半ばごろ、一度大隊本部の医務室へ下がって、それから6月ごろまでビルマで、患者として、独歩患者、歩く患者で下がってきたわけ。

われわれ部隊とすれば、最後の戦いだったね。肉迫(にくはく)、肉迫でもって行くでしょう。手りゅう弾や何かは、肉迫するときは3発なり4発、5発持ったって、栓を抜いちゃうのね。安全栓を抜いちゃう。安全栓を抜いて、ポケットからそこら辺に。飛んで行って、今度は突撃するときは銃を持って、片方に手りゅう弾がある。飛んでいって、安全栓は口でもって抜くんだけど、そんな暇なんかないんです。もう抜いてあるから、パーンと靴の裏にして投げて、またこうやって。だから、ともすれば、自爆するのも覚悟でみんな行く。

だから、怖いって言えば怖い。だけど、怖くて何もできないかっていえば、怖いばっかりで引っ込んでいたら何もできない。だから突撃するときは半狂乱になる、人間は。きちがい。終わればまともな人間になる。突撃するときは、もう人間そのものが狂乱になっちゃうんだね。前に敵がいれば殺すよりしようがない。死ぬか生きるか、殺されるか生きるかの戦い。だから、やっぱし何回やってもね。

突撃する前、われわれは何回もやりましたけど、友達5、6人で「よし、やるか」。タバコを吸って、「もう一服するか」。怖いんじゃないんだけれども、生きたいわけだ。命を長らえて、少しでも自分らがあれしようと。それをやめて、「やるか」と言って飛び出れば、無我夢中です。おっかないもへったくれもない。ひとつの人間は、まともになったり、きちがいになったり、戦争はいろいろだね。まともな考えでは、戦争なんてばかくさくて。おっかないものだとそう思いますよ。

コヒマで負傷したのはちょうど、ここだけどね、ピシッといって。小銃をたがえていたんだが、小銃のあれに当たって。もう腕も。この傷は小さいんですよ。米粒が入ったぐらいで、「こんなもん」と思っていたら、血がスーッとここらへんまで。衛生隊がすぐ応援者が来て、「秦さんどこですか?」「これだ」。「ああ、そうですか。」て。このくらいの瓶のをつけてこうやって。これなら大丈夫。そのうちに、手がいくらか上がるようになって、1日たったら手が腫れてきてね。もうあれだから、これはあれだから、敵の拳銃があった。拳銃たがえて今度おれ、拳銃でやるわ、って。そしたら兵隊が「秦さん下がってください」って言って。「下がれって誰が言った」て。「小隊長が下がれと言った」と。それでもって誘導してもらって、連隊本部の医務室まで下がった。夜中にね。そしたら次の日になったら、この手が真っ青になってた。パンパンにして。軍医が診て、「あー、これは汚い傷だな」なんて言って。「切るか、切らんであれか、もう少し見てみるか」。そのままヨーチンか何か塗って、次の日になったら、卵を2つくっつけたぐらいぶくーんって腫れてさ。軍医のところへ行ったらうみが出てるって。それで切って。それで「腕切らんでいいな」ま、あれだね、それからずっと下がって、こういうふうになって、こうしろ、こうしろって言われたけどなかなか。だから、負傷したから助かったかもわからないし、どうなったかはわからんけど、今考えると、あるいは負傷したから今生きてるんだなと思っている。

たいてい医務室あたりで足とか、大たい部とか、腕とか、あれした場合は切るんですよ。それ、麻酔とかそういうものを打たんで、じかに切っちゃうでしょう。そのショックで死ぬのが多い。その時分は物資が不足でね。柔らかい包帯なんかないんですよ。敵の落下傘の落とした、それをこのぐらいに裂いたやつでもってこうやるでしょう。固い、落下傘のあれで。そんなもんですよ。そのうちにうじがたかってくる。衛生隊の言うことには、「うじがたかれば治るんだ。」「なんで?」「うじは悪いところをみんな食ってくれるんだ」「うじがたかったほうがいいんだ」。事実、考えればそうなんだ。その代わり、チクチクするわね。悪いところ、悪いところへこう。そのうちにシラミはたかるしさ。シラミなんて、つぶしてる暇ないんだ。シャツの縫い目から中に。だから、火を燃やしてバチバチ、ごまをいるように。

やっぱし負け戦になると、遺体処理というのはできないんだ。それまでの場合は敵の壕(ごう)の中に入れて土をかぶせる場合もあるし、そうじゃない場合は、やっぱし、本当そんなようなもんなんだけど構わないでそこに。そこが終わると、住民がその地域の住人が一つにまとめて土葬しちゃうわけ。だから、遺骨の採取や何かで行く場合は向こうの土民に聞いて、あそこでもってどのくらい埋めてあるとか、ここに埋めてあるとか。そういう具合でもって遺骨採取。コヒマばっかりじゃない。どこもみんなそうしてやってきている。かまっちゃいられないんだ。

われわれのときは白骨街道という、それまでわれわれは見ませんでしたけど、たまたま、倒れてそして歩けない。そのまんま、ポカーッとして、息はしてるけど虫のあれで、目玉から柔らかいところからみんなうじがたかってね。ケローっとして。気の毒だな、かわいそうだなと思ったって、自分らもともすれば、下がってきた時分は1キロも歩けないんだもん。200~300メートル歩くと難儀くなっちゃうわけ。そうするとここへねまる(座る)わけ。草のちょっとしたところへ。そしてそのまま1人か2人だと、そのまま寝入っちゃうわけ。そのまま餓死状態になる。餓死しちゃう。疲れて、衰弱しきって、寝入っちゃうんだから、そのまま死んじゃう。だから休んでも寝入っちゃだめ。寝かしちゃだめ。「頑張れ、行くぞ」と言って、また。フラフラフラフラ。フラフラ病みたいな。

Q:その頃になると雨も降っていて大変厳しかったと伺ったんですが。

 雨、だからね、患者収容所で雨降ったって、何にもテントなんかないんですよ。衛生隊が入っているテントが1枠あるだけ。あとは収容所、森の中、ジャングルの中で「わしらどうする?」って地べたへ、草刈ってきて敷いて。テントっていうのがある、雨よけのね。自分で背負ってる、6尺ぐらいの。真四角のそれを張って、そこで寝てるわけ。だから、雨が降ればみんな入るわけ。衛生隊に「マラリアの薬ないか」って言えば、「ありません」って言う。だからもうただ、そこで収容するんじゃなくて、そこへ来たら、その患者を一応診るんじゃなくて、集めて、死んでいく者は死んでいくと。達者な者はまた翌日出ていくと。だからもう、あれだね。生きていたってほとんど、薬そのものはあまりなかったね。

ま、だから死んだ人間は戦死した人間は気の毒だ。だけど、腸とかそこらをやられて苦しむのはいちばんかわいそうだけど、まぁ、局部的に、心臓とかそういうところをやられるのは、本当はきれいなもんですよ。うちの軍隊で、すぐそばで、2、3メーターでもね、バチッていって、ウオッというくらい。頭こんなしてブグブグブグブクっていって。それでダメ。思い出すとかわいそうなような、また、悔いなく死んでいってくれたんじゃないかと思ったりさ、いろいろの妄想が頭の中を走るわけだ。

だからね、あの、えんま様のようなもので、ほんとうの生き地獄っていうか。だからね、戦争も、勝っているときの戦争は本当に華やかだ。中支辺りのね。勝って、日の丸の旗振って、万歳、万歳でやっているときと、コヒマの戦いとは雲泥の差。戦争ってものはなんでもそうだが、勝たなかったらだめ。負けたら、いくら強い部隊でも、これほど惨めなものはない。

口では表せないね。こんな弱いもんかなという。勝ってるときは強い。負け始めれば、こんなもんかなと思うよ。自分ながらあきれるぐらい。戦争の話は、われわれの同士だったらある程度みんな話は合うけど、一般の人に話をしても、話が下手だから余計そうなのかもわかりませんけど、聞く人だって、そんなことあるんかな、そんなばかみたいなことはないだろうということが疑う点が、ほとんど80%ぐらいあるんじゃないかと思うよ。

戦争した者はその当時、国を守るために、みんな青春、われわれは20から足かけ8年ばかり、ぶっ続けに内地の土地を踏まんでやってきたんだけれども、あれだね、軍隊っていうところは、一般の社会と別な社会なんだから、結局、教育であろうが何であろうが、しゃばと違った教育、精神的な訓練、そういうものが自然に身について、お国のためにみんなそれぞれの生命を失ったり何かしたわけだから。好きでやったんじゃない、国のためにやったんだし。

だけど、今の若いもんに言わせると、戦争した者がばかなんだと。そう言われれば、負けたからばかだったかもわからんけど、今の若い人たちが何を言おうが、われわれ同士は「ご苦労だった」と。みんな本当に一生懸命やって、青春をなくした。亡き戦友を思うのは、ただそれだけだね。

出来事の背景

【インパール作戦 補給なきコヒマの苦闘 ~新潟県・高田歩兵第58連隊~】

出来事の背景 写真昭和19年(1944年)、戦局が悪化の一途をたどっていた日本軍は、連合軍の反撃を防ぐため、連合軍の東インドの拠点都市、インパールを攻略する大規模な作戦を決行する。「インパール作戦」である。

インパール作戦に参加した58連隊は、インパール北方、130キロに位置する「コヒマ」にむかった。インパールへ援軍や物資を送る唯一の街道の中継地で、このコヒマの占領を命じられていた。しかし、牛に荷物を運ばせながら、2000メートル級の山を越える行軍は、苦難を極めた。4月のコヒマ到着後は、守備の手薄だった連合軍の陣地を次々に奪い取ったがすぐに連合軍の反攻を受けるようになった。補給の途絶えた58連隊は、弾薬が不足し、からだごと敵戦車に飛び込む肉弾攻撃を行うようになり、兵士たちは命を落として行った。雨季に入った5月、58連隊の所属する31師団の佐藤幸徳師団長は、まったく補給がないことから独断で退却を決断した。

しかし、食べ物もないまま、険しい山道と密林を撤退する兵士たちは次々に飢えと病に倒れ、撤退の道は「白骨街道」とまで呼ばれるようになった。

証言者プロフィール

1919年
新潟県東頸城郡安塚村にて生まれる。
1930年
安塚尋常高等小学校卒業。
1939年
現役兵として歩兵第30連隊に入隊。
1940年
歩兵第58連隊に転じる。
1944年
コヒマ作戦当時、24歳、兵長(歩兵)。
1946年
復員。復員後は飲食業を営む。

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