ホーム » 証言 » 大越 正意さん

チャプター

[1] チャプター1 困難をきわめた進軍  06:15
[2] チャプター2 連合軍の食料をあてにしていた  06:20
[3] チャプター3 圧倒的な戦力差  04:55
[4] チャプター4 インパール作戦失敗  04:07
[5] チャプター5 ついにコヒマから撤退  03:47
[6] チャプター6 豪雨のアラカン山脈を撤退する  03:21
[7] チャプター7 倒れ伏す兵士たち  06:18
[8] チャプター8 武器・弾薬・補給、何もない作戦だった  02:49

再生テキスト

河(チンドウィン河)渡ったのすっか? 夜中ね、12時ごろ渡ったの。っていうのは、飛行機が来て、暗くなんねえと渡れねえんですよ。月がいっときは絶対ダメだから。月が落ちんのを待って、渡ったわけだから。暗闇ん中を。


Q:例えば、お気持ちとかいかがですか? いよいよ始まるなっていう風な感じなんですか?

 そうですね、いよいよ、これはあれだなあと、それはもう覚悟しましたから。最初、なんていうんですか、アラカンの山っていうのは、とにかく、1日4キロぐれえしか、歩けねえってわけなんです。だけど最初、河を渡って、チンドウィンを渡って行ったのが、大した山、はじめの山は大したことねかったから、なんだ、このぐらいなら大丈夫だと思ったんですよ。その河を渡って、朝方、着いたわけだから。向こうの河岸に着いて、そんな河の中のあれの中州の間をダーっと通って山へ入ったわけだけど、わあ、これは大したことねえなと思ったけど、とんでもねえ話で、全然、馬なんて、役に立たなかったからね。ほとんど、もう途中でもって、みんな、まあ、戦争でもなけりゃあ、あんなとこは通んねえですわね、おそらく。ひどいとこは工兵が爆破して、道を作んのを待って、わたしら登ったんだから。もう、馬を使えねえから、全部、臂力(ひりき)搬送で登ったんだから。そうね、20代だから出来たんでしょうね。砲身だけで105キロあんだから。それを2人で担ぐわけだから。ところが、向こうの山っていうのはね、1回登っと、普通、日本の山なら、峰伝いにこう、歩けるでしょう、向こうの山は違うんだから。上あがったら、下までおりて、また次の山へ、かかんなきゃなんねえんだから。ほんとに山を1つ越えて、そして、また別の山を、今度、下から登んねと。峰続きには、絶対、行けねえんだから。それもね、こういうんだもんね。砲身を担ぐと上に背の大きい者がいたら、下の者に、全部、重量がかかんだから。2人でないと、とても登れなかったからね。それで1人が後ろから押す、そういうあれをやって、登っていったんですよ。


Q:それに皆さんの、背のうもあるわけですよね?

 そうです、そうです。それは、交代するやつが、担いでるやつの背のうを担いで、そして、上がるわけですよ。だから、どっちにしたってね、大体50~60キロの物を担いで上がるわけだ。1人でやっぱり、軍装すっとね、どんなにあれしたって、鉄かぶと入れて、30キロはあれになるもんね。背のうだけで30ぐらいあるもんね。あと、腰の周りに手りゅう弾とかそういうのを全部。それはまあ、背のうだけを、その交代するやつに担がして。砲を担ぐときは、背のう担いでは、とっても担げねえから。それを今度、交代のやつが担いで一緒に上がるわけですよ。


Q:もともとは、でも、馬にしょわせる予定だったんじゃないんですか?

 そうそう。あれの場合はね、馬にもって、駄載して、上がってったんだけど、とても急でもってね、登れねえんですよ、馬が。ほとんど、もうダメになっちゃったもんね。

結局、人がみんな持ったわけですよ。

けっこう分担して、担いだんですよ。だから、この前、言ったように、全部、背のうの上に砲の弾を載せて上がったんだから。弾薬分隊は、弾薬は牛を連れていったんですよ。食糧にもなるっていうわけで。それで、それに弾薬を積んで行ったわけだけど、とてもあの、弾薬を運ぶ連中もひどい目にあったんだから。牛が動かねえんだから。

いちばん困ったのは、塩がねえのに困ったんですよ。考えつかねえでしょうけどね、塩がなかったら、体がもたないんですよ。病人と同じですよ。塩は確かにコヒマにあったの。ところが、彼らは、全部、次の日にわたしらがコヒマへ入って占領したときに、彼らは次の日、全部、飛行機でもって、焼い弾で全部、燃しちゃったんだ、食糧を。だから、わたしらは、結局、食い物がなくなっちゃったわけですよ。

野戦倉庫があったんだから、コヒマには。全部、焼い弾でもって焼いちゃったのだから、彼らは。だから日本軍は、その食糧をあれすることできなかったんですよ。

ところが、彼らはもう制空権を持ってっから、全部、次の日、食糧を全部、焼いちゃったわけだ。そんで彼らは、彼らの兵隊んとこへは、輸送機でもって輸送したわけですよ。水、食糧、弾薬、そういうその、一切、必要なものを全部ダグラス(航空機)が持って落としたわけですよ。

結構、そういうのもとって、食いましたよ。っていうのは飛行機で落としても、やっぱり途中で引っかかるやつがあるわけだ。それをいろいろ、こう見てるわけだ。あれだ、そして夜、それを取りにいくわけだ。命がけですよ。


Q:いちばんひどいときは、毎日、どういうものを食べてました?

 あのね、あったかいでしょう。ちょうどね、ご飯がね、納豆みたいになっちゃうんですよ。何時間か、しょうがないから、飯ごうの中へ炊いて、結局、それをちょっとずつ食ってるわけだから、そのうちにもう、あれになって、腐っちゃって。それだってそれを食う、そんなものを食うしかないんですよ。ほかになんにもねえんだから。でも、結構ね、なんだかんだって、あっちこっちから、やっぱり見つけてきては、食ってたんでしょうね、今、考えてみっと。

まあ、やっぱりね、しょうがないから、あれんときは、部落に行って、一応、お金を、軍票をあれしてね。そして、それで、手まね、足まねでもって、食糧を都合してもらうわけです。

やっぱりねえ、いい顔はしませんね。だって、彼らだってギリギリいっぱいでしか持ってねえんだから。


Q:それを、どうやってもらうんですか?

 半ば強引でしょうね。そんなこと言っては、あれだけど、まあ、金を出して、わけを、言葉はわかんねえけど、手振り、足ぶりで、けっこうわかんですよ、でも、協力してっていうよりやっぱり、向こうだって、危害を加えられたりしたんではと、思うんでしょうね。結構、出してくれましたけどね。

嫌がってやっぱり、女の人なんかもやっぱり、おっきい声、出しますもんね。言葉はわかんねえけども、拒否。嫌がって拒否してるってことは、わかるんですよ。でも、こっちも必死だかんね。まずね、そうすね、食えると思うものは、なんでも、食ったもんね。野草だろうと、なんだろうと、バナナの幹だろうとなんだろうと、あたりかまわず、あるものはみんな、食ったもんね。ほかはなんにもねえんだから、食う物が。

そのほかにあったのはね、野生の牛ね。牛を捕まえて。そのほら、牛を連れていったから、その牛がね、みんなそれ、野生に帰っちゃってんですよ。それを捕まえてきて、けっこう、それを食ったなあ。

とにかくもう、こりゃ食えると思うもんなら、なんでも食ったもんね。

弾が結局、ないから、最後にコヒマに(輸送担当の)イシズカ班が持ってきた弾が、60発しかなかったから。だから連隊では、その弾が最後のあれのために、あんまり撃つなって、言われちゃうんだから。それは最後に、こちらが撤退しっときに、全部、撃ち尽くしましたけどね。はじめはね、テニスコートの下にいたんだから、わたしらは。それでテニスコートのとっから、三差路をも、攻撃してたわけだから。ところが、向こうの弾はね、向こうでは日に1万5~6千発、撃つんだもの。たまったもんじゃないですよ。最初、わかんなかったもんね。それもね、この、なんていうんです、今でいうと、ヘリコプターみてえなものね。なんていう機種だかは、今、わかんない、今はちょっとわかんねえけど。それがね、わたしのほうの陣地の上をこう、飛ぶわけだよ。わたしらは最初、わかんない。いよいよこれは、やるら(やつら)も兵器がなくなって、あんな、旧式な飛行機を出したのかと思ったの。とんでもねえ話で、それが最新型の飛行機だったのね。それは、その、飛行機はね、こう見て、わたしらの陣地を、ここを撃てっていうのを、砲陣へ無線で、指示してるわけだから。それをわかんなかったのね。その飛行機が来っと、一斉に。そんで、初めてわかったんです、あれは大変な飛行機だっていうの。だから、その飛行機が来っともう、いっせいにもう、壕(ごう)ん中、飛びこまねえと間に合わなかった。


Q:1日にどれぐらい撃てるもんなんですか?

 1日ね、3~4発ぐらいしか撃てなかったもんね。結局、ほら、小銃隊が、この前、言ったように、わたしらは小銃隊が、その攻撃しっときの援護をするわけだから。ところが、せいぜい撃ったってね、15~6発しか、撃てねえんです。あとの補充がつかねえから。もう、しまいにはね、もう連砲(連隊砲)撃たねえでくれって。結局、わたしらが撃つでしょ、1発撃つと、向こう、今、言ったように450門もそろえてんだから、一斉に撃(ぶ)つわけだから、バーっと。「もう、撃たねえでくれ」って言われちゃうんだから、小銃隊から。


Q:もうじゃあ、こっちとしては、向こうから攻撃されるだけなんですか?

 そうそう、そう。向こうはね、まず、今、言ったように、観測機が出て、砲撃をして、全然、動けなくなって、今度そのあと、戦車が出てくるわけだから。


Q:その間、皆さん、何してらっしゃるんですか?

 結局、砲陣地には、もちろんついてますけどね。とにかく、弾薬分隊が持ってくんのを待ってるだけだから。

もう、(歩兵団長の)宮崎閣下には、なんぼ怒られたかわかんねえ。もう、わたしら弾撃っちゃって、撃ち尽くして、しょうがねえから砲のところに、あれして砲の側に、まあ、待機しているわけだ。「砲は弾がなければ、突撃せえっ」と、なんぼ、怒られたかわかんない。


Q:突撃したんですか?

 いや、突撃するだって、わたしらは、そういうのを持ってねえから。

持ってんのはピストルしか、拳銃しか持ってねえから。わたしらはほら、小銃を持ってねえから。全部、拳銃だから。

最初はこういうわけだったの。4月の29日、今はまあ、あれになって、昔は天長節っ言った、それまでに、インパールを落とすというわけ。弓(第33師団)と祭兵団(第15師団)が、インパールに行ったわけだから。ほんで、わたしらは、コヒマでもって、インパールの輸送を、そこで遮断してたわけだから。ところが、いつまでたったって、インパールは落ちねえわけだ。もっとも彼らはインパールの町にはいんね前に、みんなやられちゃったから。


Q:その状況ってのは、当時、わかってたもんなんですか?

 あとからね、祭が5月にその応援に来てくれっという、その、あれがあったんですよ。ところが、わたしらのほうは今、言ったようにね、各中隊10人か、15~6人しか、残ってねえんだから。あんたのほうは、どうなんだと。おれのほうでは、ひどいときでは、ひどい中隊は2人しかいねえんだと。とても、あんたのほうには兵を割けるあれはねえと、そんで、祭のありゃあ、驚いて、帰っちゃったんだから。

やっぱり、心細いすね。次々と倒れてくんだから。それだって、そうすねえ、ひとつのりょう線に2~3人しかいねえんだから、それは心細いすよ。だけど、そんなこと言ってられねんだ。とにかく、向こうの攻勢があれだから、向こうでもとにかく58(連隊)が撤退しね、あれ、抜くことができねえから、もう、あらゆるあれでもって、攻勢をかけるわけだから。


Q:ひとつのりょう線に2~3人しかいないってときはもう、どういう心境なんですか? 味方までの距離が、すごい遠いわけでしょ?

 そうですね、もうあれが、人がいねえんだから、やる、何をやろうにもやりようがねえんですよ。ほんとにどうしようもねえっていう感じだもん。

とにかく、インパール落ちるまでの間、そこを持ちこたえよっていうわけだったんだから。ところが、いつまでたったって、落ちないわけだ。それで(31師団長の)佐藤閣下は、このままでは輸送もねえし、とにかく武器はねえ、弾薬はねえ、食糧はねえでしょ? そんで、佐藤閣下は、このままでは、ただ、犬死にするだけだから、58連隊は下がれと。そういう軍命令を無視して13師団(31師団)下ろすのさ。独断で下がったわけだから。

恐らくね、58(連隊)は下がれって言われなかったら、恐らく、最後の1兵までいたでしょうね。

とにかくね、ああ、今、6月だね。コヒマ撤退したんだよ、6月に。6月の3日、豪雨のまっさなかに。師団長の佐藤閣下が、とこかく、このままでは犬死にするだけだから、58(連隊)は撤退しろと。コヒマから撤退しろっていう命令を受けて、6月の、今でも覚えてっけど、6月の3日の日に、コヒマを撤退したんだから。
 

Q:どう思われました? その撤退の命令をお聞きになられたときは?

 うん、それは師団長の命令でも、結局、師団長は軍の命令を無視して撤退したんだから。

恐らく、その命令がなかったら、恐らく最後までやったでしょうね、全部、全滅するまで。たぶん。

結局ね、毎日、バタバタ、バタバタ戦友が死んでくのを見てっとね、そういうあれには、なれねえもんね。このままではすまねえというあれが、やっぱりあるもんね。恐らく、みんなそうだと思うよ。後になってからはね、そして、こう思ったもんね、ああ、またあの山を越えなきゃなんねえのかと、思ったもんね。やっぱ、ほっとしたことは、ほっとしたんでしょうね、たぶん。あんまり、人間、ああいうひどいあれになっと、あんまり考えなんてのは、あんまり浮かばないもんですね。

やっぱりね、このかたきはビルマの平原で、撃たれてなんねえと思ったもんね。とにかく、1番ひどいなんてのはね、4中隊なんて、たった2名しか、残んなかったんだから。わたしらは、ピンポンサカンの弓(33師団)の撤退援護に出たときは、わたしらは10何名出たのかな? 全部で、連隊全部でね、福永連隊長以下450名しかいなかったんだから。弓(33師団)の撤退援護に出てくれって言われて、出たときは。

形容でいったら、バケツひっくり返したみたいなもんですよね。豪雨っていったらいいか。よく、あんなところでもって身動きしてたなと思うくらいです。見てるうちにもう、水かさが増してくるもんね。


Q:雨の中、ジャングルって歩けるんですか? どういう風にして歩いていくんですか?

 どういう風にっていうことなく、やっぱり結構、今、考えるとね。負傷した戦友を担いで下がってきたんだから、雨ん中を。ろくな雨具もねえのに。

最初ぬれねえうちはね、たいした、もうあれじゃねえけど、中までぬれて、ふんどしまでぬれっと、なんてことねえのね。人間ってものは、おかしなもんで、もう、どうってことはねえや、と思って。もうヤケ半分でしょうね。どうにでも勝手になったらいいやっていう考えでしょうね。

ただね、ここで倒れればダメだっていうことだけは考えてたのね。もう、途中で倒れれば、それでもう、命はねえっていう考えはあったのね。とにかく、歩いてさえいれば、とにかく、この山を越して、ビルマの平原までいけばなんとかなると、それだけしか考えてなかったもんね。


Q:何人かと一緒に歩いてたんですか?

 そうですね、やっぱり、担架、担いでたから。

ええとね、野戦病院のあっとこは、あそこはどこだったかな、そこまでは担いでいったわけだから。あとはそこで患者を渡して、さあ今度は、自由に歩けっぞと思ったもんね。担架、担ぐっだってね、担架担いでるやつの背のうは今度、代わりのやつが、しょうわけだから。そのやつのと自分と、一緒にしょってるわけだから。とにかく楽ではねえんですよ。さあ、これで、それを渡したときはやっぱり、これで大丈夫、下がれると思ったもんね。それまでは、まあ、とにかくもう、倒れねえでいくようにするしかねえ、という考えだけだったもんね。

白骨街道ですか? これが、日本軍かと、思ったもんね。本当に、あまりのひどさに。

もう、言いようがないですよ。それもねえ、ひとりでいるってことは、人間って不思議なもんで、ひとりでいるっていうのは、まずないね。必ず、2人か、3人ずつ、かたまってんだね。不思議だなと思った。それがねえ、何メーターおきって言ったらいいか。ピンポンサカンからねえ、シッタンまで、なんぼあっかな。わたしらシッタンから、あの、丸木舟でビルマへ渡ったんだけれども、その間の道路にね、全部、死がいだもんね。とにかく、休まんないんですよ。暗闇の中、ほら、下がってくっから、やれやれ休むかって、1回、こう休む。あれ、ぐにゃっていうなと思う、そこに(死がいが)いるもんね。そのくらいいたんだから、ずらあっと。帰る道路沿いに、みんな。言うなれば、行き倒れになって、結局、食糧がねえから。飯ごうだけは持ってるんだね、不思議に。こんな話して、まあ構わねえか、60年もたったから。本当に、あれ見たときは、本当、いかに戦争というものが悲惨であったということがわかったもんね。


Q:何が一番、悲惨だったんですか?

 とにかくそれがね、ほとんど日本軍の兵隊だもんね。その、息をしてるんですよ。息をしてるんだけども動けない。このへんからね、いいか、しゃべっても、穴のあるところから、みんな、ウジが出てんだよ。ただ目、開いて、呼吸はしてるんですよ。だけど、動けねえんですよ。そうかと言ってね、それ、始末してっことできないんですよ。収容すること、できないんだから。あんな悲惨なものはないですね。とても想像つかないでしょうね。おれも、ほかに言いようがないもんね。

そのまま、白骨でしょうねえ、そのまま、構わないでおいたら。

わたしらは、そういうの収容するあれは、なんにもねえから、そのまま、ひどいなあと思って、下がってきましたけどね。気の毒だとは思っても、どうしようもないんですよ。助けられれば、助けることもできたろうし。そういうことは一切、できなかったもんね。

シッタン(ビルマ)に出るまでに、あそこ何キロくらいあるだろう。たいした距離でねえだな、12~3キロ、もっとあっかなあ、どれくらいあったろうなあ。その間に。

そうだねえ、20メートル間隔くらいに、倒れてたもんね。とにかく、休憩できなかったんだよな。休憩しようと思うところ、あれって思うと、ぐにゃっといるんだもん。


Q:広いところに、やっぱりかたまっているわけですか?

 やっぱりね、水がちょろちょろ流れてるようなところにいんのね。不思議なことに、飯ごうを持ってね。ほとんど、飯ごうは持ってるね、空飯ごう。そして、水もちょろちょろ流れてるようなところに多かったね。やっぱり、そうだねえ、だいたい、水がどっか、ちょろちょろ流れてるような、山へ通ってくる水、そういうところに、やっぱり多かったね。多いところには、やっぱり、5人くらいかたまってるようなものもいるし、あとは少ないところで、2人くらいかな。そういう間隔くらいで、ずっと、ひどいなあと思ったもん。収容できねえのかなと思ったもん。

Q:コヒマでずっとやられてる間なんか、これ、日本負けるとか思ったりしなかったですか?

 あんまり考えなかったもんねえ。だけど、これで、勝てっかなと思ったもんねえ。だいたい、敵のねえ、物量を見ただけだって、こんで勝てっかと、思ったもんね。こんなこと言ってはあれだけどね、飛行機はねえ、戦車はねえ、砲はねえでしょ。歩兵だけで、戦ってるんだもん。向こうはとにかくもう、あらゆるものを動員して、機械化集団でもってくるんだから。


Q:インパール作戦に、参加されて、まあ、これは結果的に負けに終わったわけですけど、何がいちばん駄目だったんですかね?

 輸送力でしょうねえ。結局、輸送があって、どんどん、それに対抗できるだけのものを送ってくれれば、あれになったでしょうけど、何にも、そういったあれが、なかったわけだから。それを食糧で、結局、牟田口(第15軍牟田口廉也司令官)は、食糧そういうものは全部、あれをして送っからっていうわけだったから。ところが何にもないから、それを全部、やってくれなかったわけだから、何にも。ほんだから、結局、わたしらは敵のものを取って食い、敵の武器を取って使うっていうことをしたわけだから。作戦、軍作戦からいったら、全然、もう、あれ、ねえことをやったわけだから。

結局、輸送の問題ね。そういったあれをちゃんとできれば、勝てねくたって、まあ、負けねえだけのあれはできたんでしょうけどね。まあ、勝つってことはおそらく、出来なかったろうと思う。

出来事の背景

【インパール作戦 補給なきコヒマの苦闘 ~新潟県・高田歩兵第58連隊~】

出来事の背景 写真昭和19年(1944年)、戦局が悪化の一途をたどっていた日本軍は、連合軍の反撃を防ぐため、連合軍の東インドの拠点都市、インパールを攻略する大規模な作戦を決行する。「インパール作戦」である。

インパール作戦に参加した58連隊は、インパール北方、130キロに位置する「コヒマ」にむかった。インパールへ援軍や物資を送る唯一の街道の中継地で、このコヒマの占領を命じられていた。しかし、牛に荷物を運ばせながら、2000メートル級の山を越える行軍は、苦難を極めた。4月のコヒマ到着後は、守備の手薄だった連合軍の陣地を次々に奪い取ったがすぐに連合軍の反攻を受けるようになった。補給の途絶えた58連隊は、弾薬が不足し、からだごと敵戦車に飛び込む肉弾攻撃を行うようになり、兵士たちは命を落として行った。雨季に入った5月、58連隊の所属する31師団の佐藤幸徳師団長は、まったく補給がないことから独断で退却を決断した。

しかし、食べ物もないまま、険しい山道と密林を撤退する兵士たちは次々に飢えと病に倒れ、撤退の道は「白骨街道」とまで呼ばれるようになった。

証言者プロフィール

1919年
福島県会津若松市にて生まれる
1933年
会津若松市立第一尋常高等小学校卒業
1940年
現役兵として若松歩兵第29連隊に入隊。歩兵第58連隊に転じる。
1944年
コヒマ作戦当時、24歳、兵長。
1946年
復員。復員後は電気工を営む

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インド(コヒマ)

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