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チャプター

[1] チャプター1 生き残るために荷物は次々に捨てた  07:04
[2] チャプター2 負けるとは考えられなかった  04:53
[3] チャプター3 増え続ける「戦死者」  05:41
[4] チャプター4 「死が」日常化する戦場  01:44
[5] チャプター5 突撃のたびに減っていく兵士  04:01
[6] チャプター6 白骨街道  05:17
[7] チャプター7 「雨季」も襲ってきた  02:19

再生テキスト

行軍したときも、もう、ああ、疲れたなと思ったら、ちり紙1枚、捨てても、ホッとこう、軽くなった感じがするんですよ。自分で。それはもう、皆さん、経験ないだろうと思うんですけど。わたしはそうでしたね。ちり紙。それで何かその、我々その、(兵士の人事功績を記録する)功績兵なんかやってたから、紙なんかも余分にあるやつは、なるべくもう、捨てちゃってね。それで、気分的には楽だなという気持ち。毛布など、半分にしてね。ひとつしょって行かれない、もうつらいといかんと思って、半分に切って、半分、捨てて、それで、行軍しましたよ、わたしなんかは。ほかの人もみんな、そんな感じでやったんじゃないでしょうか。


Q:それ、捨てて、道端に置いていくわけですか?

 それはもちろんそう。あんなもの、だって、毛布を捨てたって何だって、そんなことはもう、誰も。毛布を捨てたから、じゃあ、おれは持っとこうという人は、それは、もう全然いないですからね。


Q:山田さんは、弾を捨てられたことっていうのはあるんですか?

 あります。あります。もう時効でしょう、ずっと。重くて。あんなね「捨てない」と言う人がいたら、僕はそれは、うそだと思う。あんまり自分だけ、おりこうになろうと思ってるんじゃないですかな。


Q:いつごろのことですか?

 いや、コヒマに入る前ですよ、もちろん。コヒマ、行く前でしょう。だって、あの峨々(がが)としたアラカン山脈、とてもじゃないですけど40キロ近い、で、このチビが歩けないですもん。だからほかの人はね、どうかわかりませんよ。みんなそれやったかっていったら、僕はそんなことはちょっとわかりませんけども、わたしはそうでした。まず弾は捨てましたな、一部を。120、240発か、何かですからね、完全のアレ。240発の弾たるや、相当、重いですよ。前、後ろにつけて、それと同じ物を背のうで、中にまで入れるんですから。だから、何キロか、僕はちょっとわかりませんけど、相当なものです。だからそれは「おれは絶対にそんなことはやってません」と言う人がいたら、ちょっと、おみごとだと思う。


Q:上官は、「何をやってるんだ」というようなことは?

 関係ないですよ、そんなものは、全然。毛布を捨ててはいかんとか、そんなものを捨てちゃ、私物を捨てちゃいかんとかっていうことは、そんなものは、全然、言うわけがないですよ。そんなことはもう、その人のアレですね。だからその、行軍で、行軍か、何かのときに具合が悪くなっちゃって「駄目だ」という人たちは、これはもう、行くときじゃなくて、下がってくるときなんかがそうですけども。我々はずるくなったから、もう適当にそうやって、捨てて、身を軽くしてできましたけども、やっぱり、初年兵というか、もう経験のない人は、最後の倒れるまでしょってますから。だから「もう変な物は捨てろよ」と言っても、やっぱり、そういうものはしょってるから、最後もう駄目、これはいかんというときはもう、それはもう、完全にいけなくなってしまうんですよ。だからまあ、我々はその、我々というか、もう僕なんか、ずるい、ずるいせいか、もうそうならないうちに、ああ、これは大変だなと思ったらやっぱり、そういうものを先に捨てて、身を軽くしなくちゃいかんです。

夜も、もちろん、夜も歩いたような気もしますな。だけど、やっぱり飛行機が来ますからね。あのころ。だって、日本の飛行機なんて、見たことないんですから。来るのはもう、向こうの、あのイギリスの飛行機ですからね。だから、それに見つかって、銃撃でも食ったら、目も当てられないですもん。隠れるところがないですからね。アラカン山脈というのは、本当にそうでしたよ。もう、あんまりその、林というか、何かそういうジャングルはなかったですね。行く前は。コヒマ行く前はね。それでアレですよ、山はアレね、どのくらいありましたかな、アレで。1000メーターはないでしょうけども。その山をこの、山と頂上に行って、その向こうの山に大声を張り上げたら、聞こえるくらい近くにあるんですよ。それも、いちばん下まで下がって、また、登らなくちゃいけないんですから。しょって。それで、だからあのころはやはり、山、後でも考えたんですけども、山登りなんていうのはやっぱりね、登るよりも下るのがいちばんつらいですよ。走って下って、途中のこの、ちょっと木があるところに、ぶら下がって、くるっと1回転するくらいのアレで。そうじゃないともう、こう、下がってられないんですよ。走って行かなくちゃ駄目ですから。それじゃなかったら、つま先がもう、いちいち、チョロチョロっとやってたら、つま先がおかしくなりますね。わたしの経験はそうでしたよ。ただ、みんなそれでよく、途中で、しかし落伍(らくご)したというのは、我々の中隊にはなかったような気がしますね。あれはやっぱり、気力がいちばんできたんですかな。

これはねえ、日本、大きく言えば、日本軍なんてのは、負けたことがないんですから。日清、日露から第一の世界大戦でも。だからね、我々も、支那にいるときは、もちろん、やられましたけども、最後は、日本はやっぱり、勝ちましたから。だから、コヒマ行くときになってもですね、占領、まず占領したんですけども、戦死ってのは、コヒマで戦死したのは、だんだん日がたっての戦死者ですから。ほとんど、抵抗なしに占領したんですよ、コヒマを。これは、やっぱり日本人、我々は日本、強いんだっていう気持ちが、まずありますよね。

それから、日がたつにしたがって、5日、1週間、10日くらいたちますかなあ、そのくらいになると、後方からは、全然、ひとっつも弾薬も何もこないんですから。これは、インパールが、すぐ、間もなく落ちると。インパールの、我々の、コヒマの占領っていうのは、敵が北の方からコヒマを通ってインパールへ物資を輸送するということで、それを止めるためにコヒマを、まず、占領したんですから。問題は、主とした問題はインパールを落とすという目的だったようですから。それで、インパールが落ちれば、弾薬、食糧は、全部、舗装道路を通って来るという、考えですから。最初、いくらやられても負けるっていう気持ちは、10日や15日くらいは、わたしの気持ちじゃなかったような気がしますね。我々が考えてみると。それが、敵は、やはり、日本軍は大したことはないという気持ちになったかも、どうかわからんですけども、どんどん、北から輸送する、物資を輸送するために弾薬やいろいろな兵器あたりを輸送してきたでしょうから。それが、コヒマがストップされてるから、そこに集中。だから毎日、あれがもう、どんどん、どんどん増えるばっかりですよ、敵の方が。日本軍は何にもないんですから。銃、銃と、機関銃と、手りゅう弾くらいのもんですからね。補給はありませんでしょう。だから、それは「これは、もう駄目だな。絶対に駄目だなあ」というふうに思いましたな、僕は。

今も言いました通りね、絶対に日本軍は、大丈夫だっていう、勝つんだっていう、負ける経験がないんだから、僕なんかも、全然、こんなもん、あとで、インパールが、すぐ、何日かたったら落ちるだろうと。インパールが落ちれば、占領したら物資がどんどん、後方から来るからと。まず、敵はどんどん、砲などは、もちろん、どんどん、増えてきてるのに、日本は全然、増えてこないんですから。やられっぱなしですからね、砲撃も。その砲撃たるや、ポンポンという音じゃないんですよ。もうただね、グワーンといってくるだけで。だから、何十砲か何百か、100か、そのぐらいの砲撃がいっぺんにやってくるんですからね。それは、絶え間なく撃ってくるくらいですよ。だから我々も、それくらいの兵器、兵力、兵器があれば、まず、わたしはやられなかったろうと思うんですけども、全然、こないっていうことになって、それ、まだ、インパール、落ちないんだおちないんだということになったら、やはり、こらあ、もう、駄目だと。こらあ、完全に負けだというふうに思いましたね。

Q:今もお話しいただいてましたけれども、人事功績をやってらっしゃったと? そうすると、毎日、記録を付けられるわけですよね?

 毎日のね。だれが、きょう、誰と誰が戦死したと。どういう、砲弾の破片創だとか、いろいろ、そういう名前は、もちろんあるんですよね。そういうアレを控えて。誰々が負傷して入院したというアレを、毎日、チェックしてたんですよ。死んだのは、死亡者も、もちろん、一緒にやりましたけども、入院したとか。最後のころは入院なんてのはなかったですね。みんな戦死ですね。戦車に攻撃するんですから。だから、戦車の攻撃で負傷したなんてのは、まず、なかったですね。わたしの隊では。


Q:ひどい時は、毎日、どれぐらいの方が亡くなられていた?

 それは、2人か3人のときもありましたし、5人ぐらいのときもありました。とにかく、中隊は人数がほとんどいないんですから、もうどんどん。後ろから、牛馬隊とか、荷を積んで、弾薬だとか、食糧だとか積んで、後方から来てる連中が、逐次、追及してくるわけですよ。それを、前線っていうか、隊に付いていったり「こうやって、こうこうこうやって、行くんだぞ」とかって、言ったりして、連れてくわけですから。だから、1日に何名って言っても、その日によっては違いますわね。だから、きのう一緒に連れて行ったり、何か人が、翌日、行ってみたら「おい、どうした?」って言ったら「いや、きのうの夜の追撃で、攻撃で死んで、戦死したんだ」。そんなのはもう、しょちゅうだ。しょっちゅうっていうか、何人もありますわな。だから、コヒマでのアレは、やっぱり、50~60名くらいは戦死じゃなかったですかなあ、戦死でしょうな。戦傷死もありましたけども、戦死はそれぐらいですから。


Q:そうすると、あの、記録を付けられてると、やっぱり、みるみる人が減ってくわけですよね? どういうお気持ちで、もう? 不安になったりしないんですか? おんなじ、大事な中隊の?

 それはね、わたしも非情かもしれないですけどもね、さっきも言った、サンジャックでは50~60名ぐらい死んでるでしょう。そのまま、見てるんですからね、一緒に。見てるっていうか、死んだアレを、チェックするわけじゃないですけど、わかるもんですから、やっぱり、かわいそうだとか、そんなものは、もう、だんだんなくなって、慢性になってくるんでしょうな、人間は。ほかの人はどうか知りませんよ。だから、我々の戦友で、一緒に暮らしてたのが死んじゃうってのはね、死んじゃうんですからね、最初は気の毒だと思いますけどもね、だんだん、ちょっと、こう、慢性みたいになっちゃってるような気がしましたね、あたしは。だから、もういちいち「気の毒だ、気の毒だ」と思ってたら、自分じゃ、やっぱり、ちょっと普通じゃないような気はするんですね。おかしくなるんじゃないかと思いますよ。わたしは、あんまり、深く、感じなくなりましたね。慢性になったんですかね、あんときは。みなさんはどういうふうに思われるかも知りませんよ。「かわいそうだ。大変だろう」そら、そりゃもちろん、そうですよね、そう思いますよね。今までやったのが。それで、年輩の、一人年輩の、今でも、名前も顔も、ちょっと、うっすらと思い出すんですけども。我々の所、中隊の所へ、我々の所へ来て「おい、ここが前線で、あそこ、待ってるから、追及が。」「後ろに若い連中がずいぶんいるのに、何でこの年寄りを前線に出すんですかね。」といった言葉が、今でも忘れませんね。顔も覚えてますけども。それが、翌日、行ったら、やっぱり攻撃させられて、戦死ですよ。手りゅう弾で、攻撃じゃないんですかな。だから、それが、そういうアレがね、もう、ほとんどでした、何日も。1週間じゃない、そら、もっとでしょうな。撤退するまででしたからね。

Q:朝、起きたとき、まず、なにをするとか? 何をパッて思うとか?

 何をしようとか、どうなろうとか、どういうっていうようなことは考えてなかったみたいですなあ。「ケセラセラ」じゃなかったですかなあ。僕なんかは、だから、そういうところが、わたしなんか、順応性があるっていうか、こう言われたっていったら、そっちの方に行っちゃう方だから、「のんきに」の性格なんでしょうかなあ。

それは、戦死したからどうでもいいや、じゃないですよ、気の毒だとは、思いますよ、一緒にずうっとやっていた連中が。考えたって、しょうがないですもんね。そんなこと心配して、こらあもう、大変だった、思ってたら、やっぱり、生きていられないくらいじゃないですかな。ああいう、戦争なんていうのは。

だから、僕は、あんまり、そういう、アレ。そらあ、「おお、死んだかあ」というような、そんなあれはなかったんですけどもね。死んだものはしょうがないですもん。でも、下がってくるときは、やっぱり、自分をどうしようかということを、やっぱり、まず、考えなきゃいかんですもん。

占領してから、4日か5日くらいたったときはもう、ものすごく敵も攻撃、敵もまだね、黒人が、インド。インド人が多いですから。それのとき、あたしのアレは、6名しかいなくなったんですよ。6名しかいないんですよ、中隊が。さっきも言いましたように、大体、最初の220人~230人くらいだと思いましたけども。6名くらいなんですよね。それはあの、もちろん、みんな戦死したり、なんかしたことじゃないですよ。あとから追及してくる人たちのですからね。負傷したりした人たちも、治って、追及したりとかした人で、そうなるんですけども。その6名で、ひとつのその壕を、あの、占領しろと。夜、占領しろという命令がありましてね。

まあ、何人かいるだろうと、思うんですよ、壕。その壕を6名、占領しろということですから。あのときはね、ああ、これで、この攻撃で僕はもう、逝っちゃうなと思ったんですよ。それで、まあ夜、その行きましてね。壕の近くまで、完全な匍匐(ほふく)ですよね。匍匐で行って、まず、その壕(ごう)に石を、僕が石を何発か投げるから。その壕の所からね。投げるから、敵がいたら、完全にそれに反応して、撃ってくるか、何かするわけですよ。それが、ビクッとも、音も全然、しないから、あっ、これはいない、今までいたのに。ということはもう、日本人は夜、攻撃してくるという先入観があるんでしょうから。だから、撤退したんでしょうね。逃げたんでしょうね。

そしたらね、その、夜までね、(友軍の)重機関銃がそれを狙ってるんですよね、その穴を。で、標識を、夜になってもここを狙って撃てば、ちょうど、そこへ入るっていう。近くですから。それを狙って、ううん、あの、何とかっていったんですからね。機関銃がバババーンと、撃ってきたわけですよ。我々のその壕を。もしも、アレだったら機関銃でやれという、命令だったんだろうと思うんですよ。そうしましたらね、それはね、壕の中のここに、敵の手りゅう弾がブワーッと、並んでるんですよ。あれに1発、当たったらもう、駄目ですからね。あのときは驚いたですね。すぐ大声で、「やめろ!」と、言ったんだろうと思いますなあ。僕も。そしたら、後で機関銃の兵隊に何日か、翌日かな、何かで聞いたら「いやあ、もう駄目だと思って、もう狙ってるところ撃ったんだよ」という話でしたけども。それはそうですわな。あれ、1発でも当たったらもう、壕、吹っ飛びましたからね。いや、そんな怖いことはもう、何回かありましたよ。あれがいちばん怖かったですかな。そうでしょうな。まだ、あったんだろうけども、それはちょっともう、あまり記憶にはもうなくなったんですけどもね。

これは、もうね、悲惨なんてもんじゃないですね。まるっきり、もう。我々は、わたしの考え、わたしだけでしょうけども、気の毒だっていう気持ちが、ないんですよね。まず、自分ってものを、まず、考えなくちゃいかんですから。だから、途中は飯ごうと水筒を持ってれば、まず、いい方でしょうね、良かったでしょうね、そういう病人は。それで、「兵隊さん、米、少し恵んでくれませんか?」って言うんですから。兵隊ですよ、それが、みんな。だから、自分が兵隊っていうことは、もう、頭にないんですね。とにかく、なんとか生きようとしてると、思うんですよ。だから、そりゃ惨め。それから、まあ「手りゅう弾をください」「手りゅう弾を1発、ください」っていう人は、まだ、元気な方でしたよ。手りゅう弾で自爆すると思うけど、思ってるんだろうけども手りゅう弾はないし。だから、ただ、山道の泥道を歩くんですから、それは大変でした。

わたし、運が良かったんでしょうなあ。靴なんかも、はがれなかったから。あれ、靴がはがれましたらね、こら、もう絶対に、100パーセント駄目でしたね。はだしであるってことは、泥道をはだしで歩けばいいじゃないかと、思うけど、はだしじゃ絶対、歩けないですよ、滑っちゃってですね。だから、まず、靴が駄目な人は、もう駄目。だから、わたしは大丈夫でしたけども、死んだ人の靴を脱がして、自分で履くくらいのことはよくあったでしょうね。ちょっと1回くらい、見ましたかなあ。だけど、そらもう、しょうがないですよ。相手が、もう、死んじゃってるんだから。だから、泥道たるや、ほんとに大変ですよ、これは。

ほんとに、これから作戦があるっていうときだったら、銃や弾は、そんなに捨てらんないですけども、だけどそうじゃないとき、そのときだったら、やっぱり今も言ったように、チリガミ1枚捨てて、もう気分、もう気分的に、気分がずいぶんあるもんですから、気分的に、だから非常に楽になったような感じになるんです。だから僕はもう、倒れて死、もう、どうにもならないっていう経験は、僕はしてないですから。


Q:自分の物は捨てて、落ちてる物を拾うってことなんですか? どういうことなんですか?

 そうそうそう。「もう、体がね、きょうは、もう、きついわ。どうも、ちょっと、これでも背負って、持ってたってしょうがない」っていう時は、捨てちゃって、手ぶらで歩くんですよ。そこで止まってるんじゃないですから。毎日、歩くんですから。その、さっきの泥道をね、山の泥道を歩くんですから。だから、重い物、そんなの背負ってたら、どうにもなりませんわ。自分が、ほんとに、いっちゃいますって。

だから、ああ、もうこれでね、1日か2日歩いて、「ちょっとおれ、大丈夫かなあ」と思うときは銃をまず。歩いてくと、銃があるんです。連中がみんな捨てた。捨てたっていうか、もう困って、重いからって。その銃、だから自分で、合っているときは、それを持ってた。銃は全部、同じですからね。

弾もね、銃だって、わたしは今まで、アレですもん。5年何か月もいましたけども、50発と、打ったことないですもん。実際。だからっていうんで、捨てたわけじゃないですけどもね。ほんとは、240発くらい撃つくらいの激戦やらなくちゃいかんということで、軍隊もそういうふうにやっていったんでしょうけど。機関銃を持っていたら、機関銃隊だったら、それは相当、そのくらいの弾は持ってなくちゃいかん、いけなかったかもしれませんけど、普通の歩兵はそんな、あんた、弾を撃つようなことはないですもん。経験としてないですね。そういうアレを見たこともないくらい。240発も撃つようなアレをやったことはないですね。

ちょうどね、今ごろですよ。雨季ですよ。もう、もう雨季。とっくに、もう5月の半ばごろから、雨季だから。そのとき、下がってくるんですから。舗装道路ならいいですよ。舗装道路、歩けないんですから。もう、敵がちゃんとそこ、車で、自動車で来て、待ってるくらいですから。その間、ジャングルの、まともなジャングルじゃない、変な、どろんこの所を。もう前の人が、みんな踏んでいくでしょうが、そのあとをほとんど、さっきも、何回も言うけども、しんがりみたいのが、我々でしょう。だから、あそこがドッタンバッタン、ドッタンバッタンと、本当に田んぼの中、歩いたようなもんですよ。田んぼの方がまだ、柔らかいんじゃないか、いいかなと、思うくらいですよ。だから、下がってくるときの僕の、やっぱり、運が良かったってことは、靴がまともだったっていうこと。あれ靴が、パカンパカンになったら、はだしで歩くなんてことは、これはもう、ほんとに100パーセント、駄目ですよ。滑ってつるんつるんして、100メートルも歩けないんじゃないですか。だから、靴が良かったってこと、編上靴が良かったってことが、僕の運のアレじゃなかったですかな。

それとやっぱり、その逆境っていうか、中に入ると、そのものに僕は慣れるんでしょうかな。雨が降ると「ああ、こういうもんか。雨が降って。ああ」という気持ちになっちゃうんですけどね、それがそうじゃないと、やっぱり、まじめな、精神上まじめな人だと「ああ、大変だ。ああ、内地にいたら、うちにいたら」なんていうような考えでも起こしたら、やっぱりもう、駄目ですな。駄目です、じゃないけども、もう具合、悪くなりますよ。

出来事の背景

【インパール作戦 補給なきコヒマの苦闘 ~新潟県・高田歩兵第58連隊~】

出来事の背景 写真昭和19年(1944年)、戦局が悪化の一途をたどっていた日本軍は、連合軍の反撃を防ぐため、連合軍の東インドの拠点都市、インパールを攻略する大規模な作戦を決行する。「インパール作戦」である。

インパール作戦に参加した58連隊は、インパール北方、130キロに位置する「コヒマ」にむかった。インパールへ援軍や物資を送る唯一の街道の中継地で、このコヒマの占領を命じられていた。しかし、牛に荷物を運ばせながら、2000メートル級の山を越える行軍は、苦難を極めた。4月のコヒマ到着後は、守備の手薄だった連合軍の陣地を次々に奪い取ったがすぐに連合軍の反攻を受けるようになった。補給の途絶えた58連隊は、弾薬が不足し、からだごと敵戦車に飛び込む肉弾攻撃を行うようになり、兵士たちは命を落として行った。雨季に入った5月、58連隊の所属する31師団の佐藤幸徳師団長は、まったく補給がないことから独断で退却を決断した。

しかし、食べ物もないまま、険しい山道と密林を撤退する兵士たちは次々に飢えと病に倒れ、撤退の道は「白骨街道」とまで呼ばれるようになった。

証言者プロフィール

1920年
新潟県刈羽郡二田村にて生まれる
1937年
県立柏崎商業学校卒業
1940年
現役兵として歩兵第58連隊に入隊
1944年
コヒマ作戦当時、24歳、軍曹。
1946年
復員。復員後は東京にて会社員として暮らす

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