ホーム » 証言 » 真貝 秀広さん

チャプター

[1] チャプター1 すぐに尽きる食糧  03:30
[2] チャプター2 食料は連合軍から奪うもの  06:35
[3] チャプター3 負けるとは思わなかった  02:30
[4] チャプター4 撤退開始  05:03
[5] チャプター5 スパイは“処置”するしかなかった  04:12

再生テキスト

そうね、コヒマへ入ってね、わたしたちが4月15日に第一回の戦闘をしたときまでに、そのときまでにあったですけどね。いつだったかな。ウエザト少尉が上のほうで戦死したそのときはもう、量がなかったな。

Q:食べ物がなくなったときは皆さんどうするんですか?

だからさっき言ったみたいに、それでも、自分でもカンパンをもっているしさ、とにかく、腹いっぱいなんか食べられないけど、なんとかしのぐ。それと水と塩があればかなり人間生きていけるもんですね。そう思ったですね。だから、塩だけは肌身離さずにしようと。それと水はなんとかしてあれするけどさ、泥水だけど。確保して。生水はだめですよね。やっぱり、水筒の中に入れて。雑木で炊いてね。生水は飲めないですよ。そこらの流れ水ですから。カンパンもあるし、自分は少し、背中しょってるからね。

Q:草を食べたりはあったんですか?

最初はあったんだけども、ひとり、ふたりじゃないでしょ。何百人といるわけだ。あとは、たちまちなくなっちゃうわけだ。そんなわけで、戦争が目的だからね。あんまり遠くまで出している暇はないし、また敵が入ってこないように陣地離れられないしさ、そんなだからね、食料って陣地離れるわけにはいかないし、まあ、なんですかね人間じゃないようになって、みんなね。

Q:どういうことですか?人間じゃないって?

もう、生きているかとか、今までそんな体験がないから、ごはんがないとか、水がないとか体験したことないからさ。

何もねえときはね、どのくらい食べたか。聞かれてもね、もう時間、いつなんだかわからんしね。明るくなる、夜が明けたとかって。どのくれえ、量食べた、そうねー。食べるほうも大事だけど、うーん。やっぱり、あれだろうね、本当に苦しくなっていたときは、もう敵のあれをね。だからね、わたしたちも、5月28日の負傷した日も、コウザンでやられたときもね、わたしはね、朝方、眠っていたんですよ。襲ってきたぞ、敵が来たぞ、戦車が来たぞと言ってね。そしたら、「よし」と「きょうはチャーチル給与」「チャーチル給与」だったですね。イギリスの首相がチャーチルだったですよね。「チャーチル給与」っていったです。今日は「チャーチル給与にあずかれるぞ」って。

敵襲が来るとほっとしていていたんですよ。助かったと。自分が弾にあたって、なんとか食べるものが食べられて。敵襲が来て、よーし、今晩、チャーチル給与にあずかれるなと。

Q:なんで敵襲が来ると喜んでいたんですか?

糧秣(りょうまつ)とか弾薬が補給できるから。

撃ちあいになるでしょう?向こうも、戦死者がたくさんでるわけだ。陣地奪還されるとやばいけど。日本は頑張っているから、敵が死体を置いて、下がっていくわけですよ。われわれの陣地に向かってくるわけですよ。下がっていく時は死体を置いていくわけです。そこで、死体から糧秣を求めてくる。敵の死体から。それが唯一のあれだったね。

必ず、犠牲はでますよね、こっちもでますけど、だから、本当の戦争、あのころの戦争はね、早く言えば、まあ、こっちのね、自分たちの隊で犠牲者が3人でれば、向こうは、3倍も、4倍出ていましたよ、ほんとに。向こうはたくさんおるからね。だから、もう、死がいが累々としているわけですよ。だからね、戦争して戦って、すぐ退却しちゃって。山の上にいるわけですね。そうすると向こうは暑いでしょう。温度は40度くらいあるから。すぐね、人間もあれしてくるわけですよ化のうして腐ってくるわけですよ。だから、1週間いたら、もう自分たちの壕(ごう)の中にいても鼻つまんでいるんですよ。山下だから、風来るでしょ。そうするとにおいがね。死体が累々としているわけだ。見えないけど、山下にいるから。においがね、下から上がってくると鼻をつまんで、苦しくなってくる。それで、また次の陣地移ると、新しい陣地に移るとなると、またそれはなくなってくるけども、勝手に行くわけにいかないし、すべて行動はすべて軍の命令で動いているから。

Q:ずっと、食べるものがないときというのはどうやって空腹をしのいでいるんですか?皆さん。

だからまあ、敵のものを求めるようほかはないよ。ほかにはないから。

Q:でも常に敵のものがとれるわけじゃないですよね?

うん、でもね。とったからね、といって全部食べるわけじゃないからさ、慎重に慎重に、節約に節約してこれはなんとかもたせないといけないと。まああのね、そうしたらこういうのを持っていたからね、なんとか、それにおいて、あれを利用してね、炊くとかさ。

Q:例えば、その節約をするときって1日にどれだけ食べるんですか?

量なんて、決まっていない、本当に。それと結局は、自分の戦友もね、倒れれば、戦友もなんかを持っているわけだから、兵器も戦友のをあれするとかさ。戦友の犠牲者のを使うとかさ。犠牲者のそれ(糧秣と兵器)を利用させてもらうことだね。

負けて退却するなんて考えていなかったよね。こうやって、いずれ勝つんだと。負けるなんてことは、毛頭にも思ってなかったね。だし、戦友があれするとすごく簡単に、下がりたくない。戦友のかたきをとらなければいけないと。戦友のかたきだ。

まあ、いつ終わるなんてことは考えていなかったね。うん。いつ、退却するなんて、だれも思ってもいなかったでしょう。みんなね。こう、退却するなんてことは考えてなかったでしょうね。ずっと、とにかく、まあ、あれですよね。日本はただ歩くのだけだし、向こうは、乗り物で、すべて乗り物だからね。だからもう、まあ、われわれが一晩中歩いたところで、何、敵は2、3時間でもってすぐ来ているから。あのときは、武器が違うんですね。飛行機でくる。なんにもね。それこそ。思ったらね、鉄棒をもたして、子どもがね、4歳、5歳の子どもが、大人に鉄棒持って向かっていくような、そんなあれじゃないですかね、実際。でもいつか勝てるんだと。でもね、実際に戦っている側もそうですよ。それはずっと戦っていてもね、こっちが2人か3人犠牲がでればもう敵の死がいが累々としていましたよ。

Q:あのじゃ撤退するっていう話を聞かれる前に下がられたんですか?

いや、わたしもね負傷したから5月28日。それで野戦病院いったから、
10月のころは全然、わからなかったですね。そのころコヒマから軍が下がって、兵にわたしが10月に復帰したときには、軍はマンダレー郊外に本隊を置いて。そこへ行った。あのインドから下がって。マンダレーってあのビルマの北方に首都マンダレーがあるんですね、その郊外におったですよ。

そこへ、その下がってくるのは普通の兵隊じゃないですよね、いずれケガをするから、普通の健全な一斉にやっているけど、野戦病院にいる患者は歩かれんから。敵が来るから、下がってやって。それで、歩かないで、いくらでも置いてはなかったですね。日本の野戦病院は必ずなんとかしていましたけどね。まあ、降りてはこなかったでしょう。おれもね、まあ、足だから、全然、歩けなかったから、あんときもね、そろそろ日が暮れるころに、みんな、どなったりして、「誰々は担架だよ」「誰それは車だよ」「誰それは馬だよ」とみんな言ってくれたんですね。しかし、おれは名前言われなかったの。またおれ、休んでもなんかなと、日がどっぷり暮れてきてそのうち闇の中で「真貝いないか、真貝いないか」と「いや、ここにいますよ」と「どこだ」と飛んできて、「ここにいるなんて、バカ野郎、あした、敵がきてしまうぞ、すぐ下がらないと」と「おれは名前呼ばれなかったですよ」といったら、「そうか、この騒ぎの中だから1人や2人、どうにかなるだろうって捕虜なっちまうぞ、真貝をどうにかなるだろうよ」と。そのおかげで、「おーい担架隊、ここにひとり患者がいるのを車でジープにでも乗せて、止まっているから連れて行ってくれ」と担架に乗せて、ジープのところに連れて行ってくれた。だからそのひとりの兵隊さんがね、呼んでくれなかったら、そこで終わりだったんですよ。だからね、まあ、本当に神様。そうやって助かって、わたしがジープに乗ったんですよ、そうしたらね、ジープの中で横になるでしょ。でも4人か5人しか乗れないわけだ。おれがいちばん最後に行ったから、ジープの後ろで寝ていたわけ。そうしたらね、医者の将校さんが回ってきてね、おれにね、「君はどこをやられているんだ、今ね、1人の重体のどうしても担架ではなくて車でないといけないのがきたすけ、お前、馬で行ってくれないか。」といわれて、「おれは足が痛いですから、馬なんか乗られない」って言ったら、「おれは院長だ」と言って、ぶったまげて「荷物は責任を持ってジープに乗せていくから、お前の体だけ馬で行ってくれないか」と言われて、「このあたりはよく話しておくから、この兵隊は足をやられているから、送ってくれや」と。やだとは言えないし、「承知しました」と、「馬で行ってくれのう頼むわ」)と言われて、おれが降りるとひとりの重体の患者さんはジープに乗って、わたしは馬に乗っていったわけですよ。で、それで、昼間は全然、動かないですよ。飛行機が来るから、(移動したのは)夜ばっかり。明け方になって、そろそろ、と目的に着いて。一台、そうしたら車がとまっている。どうしたらいいか。この先、道が悪くて、この先、一台ジープを落ちてるという。で、「えーっ」と。なんでやと思って。そして行ってみたら、一台ジープががけ下に落ちている。落ちたまんまになっている。それも時間たったから、みんな落ちた人たち死んでる。もうあの、血でしょう、真っ黒にとろとろになっていましたね。そのときも、おれがジープに乗っていれば、そこで終わっていたかもしれない。

それはあの、スパイも、お互い戦争ですから、向こうも、こっちもスパイを飛ばしますよね。住民を使って。敵もスパイを使って、現地捜索しますよね。まあ、誰も言わないってのは、こういうのがありますけど。スパイであれば、返すことはできないよね。いまみたいに裁判とかね。もうその場でもって処置しておかないと。そうね、兵隊が現地人になりすまして入ってきてあれしたこともあるし。こっちも日本の兵隊を入れたりね。まあ、金を出して。スパイ出して。お互いがお互いですね。

だから、敵のスパイだったらこれはもう返すわけにはいかないよね。われわれの陣地を見られているからね。結局、わたしたちの陣地を見て、敵に報告して、敵がいっせいに砲撃をしやすくするでしょう。だから、スパイとわかればね、これは。スパイも何人かいましたけどね。これはあの、グルカ、インド兵だったけどね、これは若い男だったけどね、これは、はっきり言いましたね「おれはイングリのスパイだ」って。どうにでもしてくれと開き直っちゃって。そういうのが中にはいるけどね。そういうことはあまり話したことはないけどね。

これも、スパイをあれしたときは、軍のシステムで返すわけにはいかないから、戦争の残酷さはね、本当に殺し合いだからね、だから、相手を殺さなければ、自分が殺されるんですからね。だから、戦争は残虐なんですね。相手を殺さなければ、自分が殺されちゃう。

しょうがないと言ってもね、いまとなれば、ほんとうにその戦争に巻き込まれた。それは、かわいそうだと思うね。自分たちもおれも進んで軍隊、軍人になったわけではないですからね。一般(人)の義務ですからね。憲法でよって兵隊にされた。将校さんなんてのはみんな志願でしたよね。われわれ、ひいてはさ、おれみたいのは21歳の義務でもって軍人になったんですから。

出来事の背景

【インパール作戦 補給なきコヒマの苦闘 ~新潟県・高田歩兵第58連隊~】

出来事の背景 写真昭和19年(1944年)、戦局が悪化の一途をたどっていた日本軍は、連合軍の反撃を防ぐため、連合軍の東インドの拠点都市、インパールを攻略する大規模な作戦を決行する。「インパール作戦」である。

インパール作戦に参加した58連隊は、インパール北方、130キロに位置する「コヒマ」にむかった。インパールへ援軍や物資を送る唯一の街道の中継地で、このコヒマの占領を命じられていた。しかし、牛に荷物を運ばせながら、2000メートル級の山を越える行軍は、苦難を極めた。4月のコヒマ到着後は、守備の手薄だった連合軍の陣地を次々に奪い取ったがすぐに連合軍の反攻を受けるようになった。補給の途絶えた58連隊は、弾薬が不足し、からだごと敵戦車に飛び込む肉弾攻撃を行うようになり、兵士たちは命を落として行った。雨季に入った5月、58連隊の所属する31師団の佐藤幸徳師団長は、まったく補給がないことから独断で退却を決断した。

しかし、食べ物もないまま、険しい山道と密林を撤退する兵士たちは次々に飢えと病に倒れ、撤退の道は「白骨街道」とまで呼ばれるようになった。

証言者プロフィール

1919年
新潟県柏崎市東長鳥にて生まれる。
1939年
現役兵として歩兵第30連隊に入隊。
1940年
歩兵第58連隊に転じる。
1944年
コヒマ作戦当時、25歳、伍長(歩兵)。
1946年
復員。復員後は農業を営む。

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インド(コヒマ)

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