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チャプター

[1] チャプター1 コヒマの苦闘  07:06
[2] チャプター2 まったく届かない補給  07:30
[3] チャプター3 迫る戦車  09:37
[4] チャプター4 退却が決まる  01:35
[5] チャプター5 退却も容易ではなかった  08:45
[6] チャプター6 戦友の遺骨を胸に歩き続けた  04:39

再生テキスト

あれは敵の大砲の数が多くてですね、それこそ、山砲を撃ち始めるとひっきりなしだ。だから、友軍が残っているうちは抵抗してるんですけど、あんまりにも相手の大砲が多すぎるっていうか、いくら頑張ったって頑張れないんですよね。

Q:相手の攻撃はそんなにすごいんですか。

すごいです。これはすごいもんですよ。ジャングルが1つあれば、そこへ集中的に撃ってくる。あれだけのジャングルのところでもって、2時間ぐらい撃ちまくるから。だから、我々はないんですよ。コヒマ、コヒマって言いますけど、コヒマの県だか何か知らんけど、そこには行けなかったんですよ。

音もそうだしさ、ジャングルは砲撃が終わってみると、あれだけのジャングルが、電柱1本か2本立っているぐらい。あとはみんな大砲にやられちゃう。

そりゃあすごいもんですよ。負傷者が多いのでね、負傷者っていうのは、輜重(しちょう)兵が下げる役目なんです。それが、最初から、下げるときは竹筒を3本。3本じゃない、2本なら2本つないで、梯子みたいにこうやって、それで患者を連れて。馬が今度は、それを引っ張って行くんですね。

(戦死)すると小指を1本だけ切って、持って来るんですよ。わたしは軍隊が長いもんだからさ、駄馬位置といって、前線よりちょっと下がったところで、そういうのの処理をやりました。ミルクの缶というかな、こんな缶ですかね。あれで焼くんですよ。そうするとね、小指だから、この3本だけが残るんですね。それを今度は、パラシュートの布でくるんで、名前を書いて、みんなここへ提げておったんですよ。

日本は歩兵中隊が、みんな1個中隊でもって2、3人しか残らんわけでね。そうすると結局、歩兵部隊がだめになると、今度は、あとでもって、通信中隊があとを引き継いで、そして、なんていうかな、1個中隊でもって5、6人ぐらいしか残らないんですよ。そうすると結局、その歩兵中隊も、跡継ぎっていうか、ほとんどいないような状態ですからさ、今度は通信兵をそこへ投入して、そして、攻撃というより、守ったわけですね。

食べる物はないです。第一、作戦計画だろうと思うんですけどさ、敵のあそこへ行けば、コヒマへ行けば敵の倉庫があるから、それを取って、それを食べれって。ところが敵さんだってそんなに、見てる前でなんて、例えば、負傷者が、なんていうか、残っていてもごはんなんかほとんどあたらないんですよ。ということは、攻めていくときは、あそこへ行けば、ウクルルという場所ですけどね。その倉庫は真っ先に、敵さんのだからね、そこへ行ったっても、敵さんだって、野戦倉庫を残してなんか渡さないからね。わたしが行ったときは全部焼かれてしまって、煙が立ってるところへ行ったわけですよ。


Q:食べ物がないときは、何を食べていたんですか?

 結局ね、草だとかさ、あるいは木の実だとかさ。木の実なんかでも、食べていい木と悪い木があるから、その区別がつかないから、それを食べて、頭がおかしくなっちゃう。それで、帰りは、あそこへ行けば野戦倉庫があるから、あそこへ行って、日本軍の野戦倉庫ですけれど、そこへ行って食糧があったらもらってきて食べるかって言って、そして、中隊から天幕を持って帰っていく。ところが、野戦倉庫だってそうそう、次から次下がってくる兵隊に補給できるほど食糧はないんですよ。だから結局、そこへ行ってもらってきたっていうより、取ってきたっていうほうが先ですけどさ。そんな状態でもって、自動車が行って帰ってくるまで、あの大きな天幕だけ、あの天幕にこれぐらいしか担いでこれない。結局、取ってきた食糧は、米は1合で1週間分。1合の米で、どうして食べられるのさ。

弾はあるんですけど、撃ったってね、反対に、返ってくるほうが多いからね、やたらに撃たないんですよ。さっきもちょっと話したけど、通信中隊が、歩兵中隊の代わりに、今度突撃に出されるんですよ。通信なんていうのは、これだけの訓練しかしてないからね、突撃なんていうのはやるべきものじゃないんですが、それを、歩兵の代わりに突撃に出されてね。あれでずいぶん死にました。


Q:突撃に行った兵士たちは、もう帰ってこないんですか?

 ほとんど帰ってこない。結局、1個中隊、一般歩兵でもって、1個中隊で何人おるかっていう、数ははっきりわからないですけどさ、ほとんど、残る人間は僅かしかいないんですよ。

平坦地へ出て、そして、なかなか小屋なんか見つからんから。それで、小屋を見つけて、夜になって火をたくと明かりが見えるもんだからさ、そこでもって何とか、小屋を見つけたもんだからさ、よし、ここでもってごはんを炊いて、きょうは食べれるって言ったら、戦車がぐるっと包囲してしまってね。そして、不寝番が付いてるんですけれど、不寝番が付いてて、なんにもできないんですね。そして、戦車が来たら起こせと言ってるのに、戦車が来たのに起こさない。「おい、戦車が来てるじゃないか」と言ったら、「ああ、来てるよ」「来てたのに何やっとった」って言ったら、「戦車がいっぱい来てるけど、どこへ行くか、それを見てるんだ」って。見たら、戦車が1台や2台や3台や5台じゃない。ほとんど包囲された。

見たら、もうとてもじゃない、だめだとなって、「おい、逃げるぞ」って、そして、みんなして逃げたんですよ。そしたら、その瞬間にダーッと戦車が打ち出した。それが、さっきも言ったように両方が当たってですね、片方は穴が開いて、開いてるだけですね。もう片方は擦過で、擦過といったら、こんなに大きくなるんですよ。結局、川のところまで吹き飛ばされたというか、そういう格好なんですよ。そして、逃げてる途中に、本当に運が良かったっていうか、こうやって伏せておって、それ、ひょっと体を上げた瞬間に両方やられてね。傷を見たときはびっくりしたよ。

Q:足をケガされて、どうやって歩いて戻って来られたんですか。

それが、なんていうかな、自分の、頑張らんならんという、その気持ち1つです。
1人でね、なんとか引きながらも下がったんですよ。約1か月歩いて、1か月目に傷がふさがりました。それで、野戦病院へ入ろうとして行ったら、野戦病院ったって本当の野戦であって、軍医1人に衛生兵が2、3人おったきりでね。治療ったって、ただそこでもって診てもらって、両足やられてるから赤チンで治療するといって、赤チンで治療して、約1か月目に傷がふさがりました。

あそこもまた雨の多いところでね。天幕を1枚引いて、あと、2枚で、屋根にして、そして寝てるわけだよ。そうすると、途中でもってえらい冷たいなと思って見たら、なぁに。天幕なんていうのは、張ったところで何の用をなさない。そのとき、これと、水筒と、足が負傷したとき全部捨ててきたからさ、その代わりにこれをもらってきて、そして、現在があるんです。

Q:どなたからもらってこられたんですか、この水筒と飯盒(はんごう)は。

結局ね、新しい飯盒といっても、もらったっていうよりも、かっぱらってくるわけだよ。あの雨の中を歩いてきたら、これはその当時、新品だったですからね。新しい飯盒、こういうのを持ってくる人はよっぽどひと握りだなと思って。それで、「きょう、悪いけど、この雨でもって天幕も何もないから、横へ寝してくれんか」って。そのときは確かにガタッと動いたんですよ。それが、朝起きてみたら死んでた。だから結局、新しいものを持っていれば、新しくなくても、そういう、いっぱい持ってるところから、もらってくるんですよ。もらってくるというよりも、かっぱらってくるというか。そこでもって見つけた水筒なんです。

牟田口軍司令官ですね。佐藤中将という人、コヒマから無断で下がったような格好になったわけだよね。それで問題が起きていたらしいですけどね。あのときの牟田口のやり方なんて、とても兵隊を指揮する人間じゃないですよ。佐藤中将は、とにかくわたしたちに「下がれ、下がれ」と。「これ以上残った場合はみんな死んでしまうから、下がれ、下がれ」と言った。その、「下がれ」と言われたときの言葉は、うれしかったね、本当に。

負傷者を置いてくるわけですね。置いてきて、本隊だけ下がってくるわけ。手りゅう弾1発と米1合預けて、「あとで迎えにくるから」って言うんですけどね。ところが、迎えに行かないんですよ。そのまま置き去り。待ってくれないし。その人たち、途中で残された人は、惨めだったんじゃない。

敵がすぐ後ろに付いてきますから。残されたら、自分の力では歩かれないから残されてくるんであってさ。あまりに負傷者が多すぎるというか、そのために、付いて来られないんですよ。

そして、これは内地に来てからの話ですけどさ、同じ輜重(しちょう)兵が、わたしと友達でいたもんだから、その人にその話をして、どうもコヒマを出るときはあれだけの負傷者がおったんだけれども、どうも1日ごとにガクン、ガクンと減っていくから、ガケへみんなまくってきたんじゃないか。そう言ったら、「そういうこともあったような気がする」って言うから、おそらく、とても連れてこられんで、ガケのところへ行くとみんな、そこへまくってしまうんですよ。馬もだめになる。人間もだめになる。だから、おれの友達は、ガケへみんなまくったんじゃないかって言ったら、そういうこともあったような気がする。はっきり言うわけではない。そういうことを言いましたので、おそらくそういう人の当事者がわたしにしゃべったぐらいだから、間違いありませんよ、これは。

人間は羽虫、死にかかってもハエが集るんですね。大きなハエが。それで、ウジが、ほとんど生きた体が見えないほど、ウジが集ってきてね。そして、ウジってやつはしつこいんで、どこからでも入ってくるんですね。わたしも負傷したときは、ウジが入ってきましてね。それでもまだ、負傷者は生きているんですね。そして、いよいよ間際になってくることになると、ウジを払うんですけどね、払ったって本人は半分死んでしますからさ。ウジってやつはしつこいですね、ほんとに。体が埋まるほど真っ白くなって、そして、本人は半分以上死んでるんだけれども、ウジを払いながら生きてる格好なんか、かわいそうなもんですよ。

結局ね、負傷者が、さっきも言ったように、ウジが集って死んでいくんですよ。そういう状態になった人はほとんど助からないんです。それで、白骨街道とか言ってて。そう言ったほうが適当なことばになるんですよ。ああいう道路の横で寝たり、あおむけになって倒れたりなんかすると、ほとんど助からないですね。だから、そういうことばになったんだろうと思うんですね。

まだ人間、兵隊が生きてるのにさ、ウジがどこからでも入ってくる。死ぬ寸前の人間なんていうのはね、ウジが集ってくると、こうやって払う。こうやって払ってる。あの光景なんていうのは本当に、人間が見る光景じゃないです。結局、そうならなければ死んでいかれないんですよ。

Q:帰ってくる間、フラフラになって歩く間も、ずっと持っていらっしゃったんですか?

そうです。わたしが自分で焼いて、自分で持ってきたのは、おそらく10人や15、16人ぐらいあったでしょう、おそらく。

Q:回収っていうのは、どこで回収されたんですか。

回収っていうのは、途中で、コヒマのジャングルの中の途中で回収されたの。回収されるときは、わたしは、持ってるやつは、寂しい気持ちだったよね。

なんて言うか、かわいそうだとかなんとかっていう気持ちなんかは飛んでしまって、結局は、わたしが持ってる遺骨も、かわいそうだっていうよりも、気の毒だなと思う気持ち。中には同じ中隊でも、分隊長において、兵隊がここから先を持ってきたことがあるんですよ。ところが、人間の体って案外重いんでね。持ったって、落とすところだったよ。普通は小指3本なのに、片手の手首持って来られれば、そうなるわけだよね。

Q:小指を焼くときなんかは、どういう気持ちで焼かれていたんですか。

その気持ちなんていうのは、ただ焼いてお骨にするっていったら、それだけの気持ちですよ。かわいそうだとか、気の毒だなんて気持ちは、ほとんどないんですよ。

骨が来たから焼かんならんって、ただ単純にそういう気持ちだけ。ああいうすごい戦場ですから、あしたという日にちはないんですよ。今生きてるのが精一杯というか、そういう気持ちだね。あまり、かわいそうだとかなんていう気持ちはないですね。まして、あしたっていう日にちはなかったですからね。たった今がおれの人生だと思って。

出来事の背景

【インパール作戦 補給なきコヒマの苦闘 ~新潟県・高田歩兵第58連隊~】

出来事の背景 写真昭和19年(1944年)、戦局が悪化の一途をたどっていた日本軍は、連合軍の反撃を防ぐため、連合軍の東インドの拠点都市、インパールを攻略する大規模な作戦を決行する。「インパール作戦」である。

インパール作戦に参加した58連隊は、インパール北方、130キロに位置する「コヒマ」にむかった。インパールへ援軍や物資を送る唯一の街道の中継地で、このコヒマの占領を命じられていた。しかし、牛に荷物を運ばせながら、2000メートル級の山を越える行軍は、苦難を極めた。4月のコヒマ到着後は、守備の手薄だった連合軍の陣地を次々に奪い取ったがすぐに連合軍の反攻を受けるようになった。補給の途絶えた58連隊は、弾薬が不足し、からだごと敵戦車に飛び込む肉弾攻撃を行うようになり、兵士たちは命を落として行った。雨季に入った5月、58連隊の所属する31師団の佐藤幸徳師団長は、まったく補給がないことから独断で退却を決断した。

しかし、食べ物もないまま、険しい山道と密林を撤退する兵士たちは次々に飢えと病に倒れ、撤退の道は「白骨街道」とまで呼ばれるようになった。

証言者プロフィール

1919年
新潟県刈羽郡鯖石村にて生まれる。
1933年
南鯖石尋常高等小学校卒業。
1939年
現役兵として歩兵第30連隊に入隊。
1940年
歩兵第58連隊に転じる。
1944年
コヒマ作戦当時、25歳、伍長(歩兵)。
1946年
復員。復員後は会社員として暮らす。

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インド(コヒマ)

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