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タイトルタイトル: 「シンゼイワで英印軍を包囲」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ビルマ濁流に散った敵中突破作戦 ~徳島県・歩兵第143連隊~
名前名前: 岸田 弘さん(徳島・歩兵第143連隊 戦地戦地: ビルマ (シンゼイワ盆地、ラングーン、モールメン、シッタン河)  収録年月日収録年月日: 2008年9月26日

チャプター

[1]1 チャプター1 ビルマ戦線へ  03:25
[2]2 チャプター2 第二次アキャブ作戦  02:58
[3]3 チャプター3 包囲した側に補給がない  07:58
[4]4 チャプター4 思い知らされた装備の違い  03:25
[5]5 チャプター5 肉迫攻撃  04:05
[6]6 チャプター6 反旗をひるがえしたビルマ軍  03:55
[7]7 チャプター7 後退  03:15
[8]8 チャプター8 断たれた退路  01:47
[9]9 チャプター9 決死の退却戦  02:52
[10]10 チャプター10 さらに兵士を襲う熱病  01:18
[11]11 チャプター11 決死の渡河  08:55
[12]12 チャプター12 濁流に散った戦友  03:31
[13]13 チャプター13 予期していた敗戦  02:18
[14]14 チャプター14 ビルマでの作戦、そして戦争について  04:09

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] ビルマ濁流に散った敵中突破作戦 ~徳島県・歩兵第143連隊~
収録年月日収録年月日: 2008年9月26日

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そうですね。上陸したのはラングーンの港で、その足ですぐにペグーへ行ったんです。だからあの間、1日2日ぐらいあったのかどうか、それはちょっと記憶はっきりしませんね。

Q:そのときのビルマに入ったときの印象っていうのは、どんなでしたか。

最初は昼間入りましたんでね、ほんであれ、何河ちゅうの、イラワジ河かな、あの大きな河の非常にのどかな、風景で、向こうに見えたパゴダが、金色のパゴダがこう見えるんですよ。

パゴダちゅうのはもう行く前から、ビルマへ行く前から、ある程度予備知識として、本なんか読んでおったんで知ってましたからね、あれがパゴダかということで、「いかにものんびりした風景のきれいな所やな」という感じが第一印象です。

Q:そのときはもう、ビルマはほぼ日本軍が制圧していた?

いやいや、制圧はして、下(南)のほうは制圧していましたけど、制空権はもうすでになかったという状況だったです。それが夕方から夜になってましたけどね。

ペグーへ、143連隊、ここから行った部隊は143連隊と称しておったんですが、それがビルマの戡定作戦が終わって、そして北方からペグーへ帰ったとこだったんですね。2月やったんかな、1月やったんかな、そこへわれわれ18人と思うんですが、18人の見習い士官が補充要員として追及したわけです。

それでペグーで連隊長なり連隊副官に会うて、そして配属を決められたというのがそのときの状況ですわ。わたしはその時点で第8中隊へ配属になったということです。

それはもうビルマの戡定作戦ちゅうのは、一応勝ち戦ですから、それはもう面白かった、という話ばっかりでしたね。敵を追われて行って追及して追い込んで、ミイトキーナまで追われていって、そこで終わって、帰ってきて、途中で面白い話ばっかり聞かされました、毎日ね。

多少苦しい話も聞きましたけどね、向こうさんはあのトラックで逃げると。それを夜の間に歩いて追って行って、敵の背後へ回ると。そしたら向こうは慌てて、びっくりするもんで、背後に日本軍がおるもんですから、慌てて、今度またトラックで逃げる。これを歩いて追うと。こういう作戦をしたということは聞いていましたね。

状況はそらまあ何ていうんですか、非常に接近した作戦行動で、敵も近いし、砲弾も非常に数多いですね。それがまあ朝から晩まで砲弾の音に明け暮れとったというふうな地区がブチドン、モンドウですね。

こちらの砲弾の数は少なかったんだろうと思うんやけども、とにかく向こうの砲弾の数というのものすごいんで、ブチドン、モンドウ地区へこちら追及したときに、もう行った、近所に行った途端に、いわゆる戦場やなという感じはしましたわね。砲弾の音が多いというのが一番第一印象やったわね。だが小銃とかそういうもの、それぐらいの接近距離の作戦はまだなかったと思うんやけどね。

それでシンゼイワの作戦が始まるということを知ったのは、その行きなさいと言われてからで、どこ行くんやと、シンゼイワというとこへ行くんやと。盆地ですから、シンゼイワ盆地というのがあって、そこへもうとにかく行くんやということを、行く途中でまあ知らされた。

インパール作戦の陽動作戦であったらしいんですわ。インパール作戦の陽動作戦として、ここの当時は四国の師団は55師団って言うていましたから、55師団があの選ばれて、55師団、約1個師団で、シンゼイワで敵の主力を引き受けるという陽動作戦をやったんですね。

従って、まあ作戦そのものは成功したのかどうか知らんけども、並行してシンゼイワの盆地に戦車100台、戦車約100台を、敵の主力、部隊ですか、を包囲、完全包囲したという状態にいたんですがね。われわれはその中の一部として、ここの連隊と、それから高知の連隊と、それから愛媛の連隊と、3個連隊ですかね、それから師団がもう一つおったんか、香川もおったんかもしらないけどね、ようわからん。それがまあシンゼイワの盆地で敵の包囲作戦をして、約1週間か10日ぐらいで、インパールが落ちると。その間、とにかくシンゼイワで包囲をしとれというふうな作戦だったらしい。わたしらは下級将校ですから、上部のことはようわからんのやけども、そういうことだ。

目の下に見えるんです。それはもう、いや、高さはようわからないけど、5、60メーターぐらいの高さじゃなかったんでしょうかね。ここの城山ぐらいやったと思うんやけど。目の下に見えるんやから、戦車も何も、敵の兵隊さんが多くいるのも。そういう状況ですわ。撃てんのですよ。一発撃ったら、ないしは友軍のあの飛行機が来て、5、6発落としたら完全にやられると思うとんのに、できんのやね。大砲も撃たん。

ということは、山砲いって、ここの連隊知らんから、山砲いとったんやけどね、何か弾を1発撃つと100発ぐらい返るとかいうふうなことが、そのときの状況でね、山砲も3人いたら15発ぐらいしか弾がないと。それより、以上は制限されて撃てへんというようなことを聞きましたわね。これは勝てんなと。せっかく目の前に置いといて攻撃できんと。

攻撃命令は出るんですよ、師団からね。師団長か何か知らんけど、師団から出て、143連隊の何大隊とか、ないしは高知の部隊に突入をしなさいと、シンゼイワ盆地へね。突入しなさい。突入したってね、ほんだけ撃たれたらあかんということがわかっとるから、行かんのですよ、だれもね。さすがの大隊長でも連隊長でも行けんのだろうと思うんですが、行かなあかん。

それは1発撃ったら100発も返るのは、それは実際に体験してますからね、わかっとるよ。どんどん戻ってくんやから。

結局、インパール作戦が延びたと、延びたっていうか、失敗に終わったということが、最大の原因やわね。そこを撤退せないけんようになったのは。インパール作戦を1週間とか10日とかで終わらすと。その間に陽動作戦やということやったんやからね。

シンゼイワ行くまでは、わたしらは一番下級将校で、若い将校はほとんどまだ残ってなくて、もう2人かそこらかなかったんよ。うちの、第3大隊ですけどね、わしは。3大隊で斥候ちゅうのがあるでしょ、探りに行くやつが。昼はね、兵隊さんを10人ぐらい連れて、進む道をあの探りに行くんですよ。ほいで夜は戻ってきて、ここ行ったら向こうへ行けるということで、その大隊、1個大隊全部をね、引き連れて、先頭で行くんです。ほでまた昼になったら、また見に行くんです。ほいで寝る間がない。シンゼイワ行くまでは。シンゼイワ行くまではそういう状況でした。

どんな思いってほら、とにかく素人が見たら、こんだけ完全包囲しとんやから、撃つ、一斉射撃で撃つとか、飛行機が1台来るとか、爆弾を落とすとか、やれるのにと、わしら素人の将校ですからね、まあ言うたら二十歳やそこらの。思うのに、それがでけんという理由はわからん。

後で話を聞けば、その大砲が撃てんとか、飛行機はこれんとかいうことは聞きましたけどね、ほれやて話でわからん。大砲ってまあ山砲ですけどね、山砲が1日に何じゃ、14、5発か、撃つこと許されておらんとか何とか言うんよ。それも後から聞いた話ですわ。なるほどほれやったらと。

飛び込んでいってね、そしていわゆるそのやるということは考えたんですよ。飛び込んでいったら、やられるのはもう決まっとると。全滅。全滅するのはわかっとる。ほれはわかるんです。向こうは構えとんやから、こっちへ向け全部ね。それで弾は何ぼでも持っとるし、主力部隊で相当な人数もおったんだろうと思うんですよ。戦車がほんだけ100台もおるしするでしょ。だから来たらせん滅できるだけの能力はあるんですよ、向こうはね。だから行けんのですわ。自分らは行けないと。しかし大砲を撃つなり、飛行機なり爆撃なりでやれんのかとは思ったわね。だからやきもきしたけど。

全部ってまあ必要最小限のもんか、最大限のもんか知らんけども、補給はもうその包囲した、何時間包囲しとったのかちょっとわからないけど、10日、半月ぐらいかな、包囲しとる間は全部空中補給ですよ。だから食糧から、弾も入とったと思いますけどね、全部、悠々と来るわけよ。ほいでどんどんどんどんその盆地の中に落とす。それ拾いに行くんですね、食糧を。こっちは食べ物がないから。非常に危ないのに。たまたま向こう落とし損のうて、われわれと敵との間の所へね、落ちるんですよ、食糧が。拾いに行ったっていう覚えはありますわね。わたしは行きへんですよ、危ないから。よう行きよったです。

それはまあ当たり前やと思うてますわ。制空権があってやね、とにかくその物資ちゅうものは、弾薬を含めて、食糧も含めて、物資ていうものはわれわれの数倍とか何十倍も持っとるという予測はしとったけんね。あんた向こうはやね、音楽かけて、食べ物食べて悠々としとんですよ。だからそら当たり前やと思うてましたわ。

Q:一方のその時の日本軍というか、部隊はどうだったんですか、物資の面では。

物資の面では、食べ物もろくろく持ってないし、行くまでが1週間とか10日の作戦言うてたから、1週間分とか10日分の食糧を持って行ったわけですよ、われわれはね。だから食糧そのものも、恐らく、鉄砲の弾はね、あのそこそこ持っていますけども、砲弾とかいうようなものも、その作戦の程度の、作戦内の数量でなかったんですかね。重たいけんね、あの大砲の弾持っていくちゅうのは。軽うにだれでも持って行けへんから。普通だったら、馬とか車とかで運ぶんですけど、そういうとこやから運べんでしょ。手動やから。何億のものは持っていけんはずなんですわね。すべてが1週間なり10日の数量ということで、それ以上はもうシンゼイワにおれないと。包囲できんというのがそのときの状況やったと思うね。

だからもう反対包囲せられて、そして本作戦がインパールだということで、敵の主力はインパールへ動いたという時点で、もうすぐに撤退ということが決まったと思うんですよ。そしてその撤退がなかなかできへんね、反対包囲せられとるから。

Q:シンゼイワのときの、敵の戦車ですか、それは非常に強力なものだったんですか。

だろうね。強力なっていうことはもう、そんな盆地ですからね、出口いうのは、狭い出口は何ぼ、5、6メーターぐらいの出口が2か所、まああった、2か所か何か知らんけど、あるんですよ。そこから戦車がこうどんどんどんどん出ていくんです、向こうへね。それはまあ見て、目で見てわかるもんですから、夜間行って、これはいけると。たまたまわたしらがおったときに、その出口の所があるんですわね。おまえ行ってね、戦車をつかまえてこい、つかまえるっていったって戦車つかまえられるはずない。

それでたまたまそこの出口の5、6メートルの所の片側に、向こうの戦車が左折をしてね、おるんですわ。そこだけは、2メートルか3メートルのぎりぎりの所を戦車通らないかん、向こうのね、戦車が通らないかん。地雷持っとったんで、このくらいのね、われわれは。その地雷をね、夜間に埋めに行ったんですよ、その戦車の所へ。ほいで埋めて、これはもう完全に成功やということやわね、地雷を埋めたんやから。戦車地雷やからね。ほいで昼間になって、向こうは夜動かんからね、昼間どんどん動きますから、昼間ガラガラガラガラ戦車が出てきた。

まあ、われわれ眼鏡(がんきょう)持っていますからね、眼鏡で見よった。バーンと、当たるのは当たってね、戦車止めあげたと思いますわね、何ぼかね。ああやったと思うたんですよ。まあ大隊長も皆おった、おったと思います、そのころ見よったのは。これはうまいこといけたと。あと出てこれんからね。と思うたら、4、5分か5、6分かたったんでしょうかね、ガタガタガタと動くんですよ。それにはもう恐れ入ったね。

あの戦車がそばへ来たら恐ろしいですよ。ただ恐ろしいけど、わたしらはあんまり恐ろしゅうない。戦車ちゅうのは目がないでしょ。1つか2つ穴あいて、見えるとこで、死角はものすごいね。戦車の下っていうのは死角ですから、そこへ入りゃだれもわからん。戦車自体もよう見えん。戦車から頭を出して見るちゅうことは、これは危険ですわね。1発で撃たれるから。そういう点でよう知っとったら、必ずしも戦車はおじる、近づいた場合はおじることもない。あれ音でおじるのね、音で。戦車の音ていうのはものすごい音するから。だから近所に近づかれたら、そら何台か戦車近づいたら、それはもう怖い。

そらやっぱりあの装備の違いいうことでね、それを思い知りましたわね。まあいわゆる戦闘能力っていうのは装備だけじゃないから、地上戦になれば別なんやけども、しかし装備の違いではもう、まざまざとそこではね、味おうた。装備的に違えばもうこういう状態では勝てない、勝てんということやったわね。

それはまあその前の日からわかってはおったんです、そこ行かないかんちゅうことは。何しにそういう作戦をせないかんかちゅうことは、いまだにわからない。行っても全く、効果ないようにわれわれは思うたけどね。ここで敵が向こうへちょっとぐらい退いても別に効果、シンゼイワに何の効果もなかったと思うんやけどね、行かされた。行けっちゅうことで。

向こうも恐ろしいですわね、こっちが近いから。われわれ以上に恐ろしがっとんですよ。近づけへんのです、夜間なんかは絶対に。昼に来るぐらいのことで。たまたまそういう至近距離であの遭遇したちゅうのもね、たまたまだったんかもわからん。向こうも予測せなんだかも。で、こっちが少し上でね、斜面になって、向こうがちょっと下なんです。

その日のそういう至近距離になる戦いというのは、予測は初めは前の日からしておりましたからね、服装も兵隊さんにも皆あのきれいな服を持っとるから、一つは持っとるんですよ。きれいな服を着てその日は出たんですよ。わたしもさらの服だったんです、シャツがね。

いや、あの最後、これが最後になるぞと、あしたはとにかく最期の日になる可能性が多いから、死ぬんであったら、ぼろの服でもなしに、きれいな服で行こう、行こうよということだったんです。そのぐらい、あのひっ迫した作戦ではあったわね。

ああそら、自動小銃、持っていましたからね。わたしらはその三八式の鉄砲ですけども、向こうのは自動小銃で、何発出るんか知らんけど、5発か10発パンパンパンパンパンと出るんですよ。そら1発出たいですわ、3発でも5発でもね。こっちは1発ずつやから、1発撃ったらこうやって、また1発撃ったらこうやって、薬きょう抜いて撃たんならんですよ。そんなとてもじゃないけど、撃ってきとったらパンパンパンと三つ出たらね、便利ですわ。当たれへん。ただし鉄砲の弾は当たれへん。

こんな言うたら怒られるけどね、鉄砲の弾いうのは当たらへん。鉄砲の弾に当たって死んだいうのはめったにいない。と思います。わたしらの兵隊さん1個小隊の1個小隊、60人とか80人連れとって戦争してみてもね、鉄砲の弾に当たって死んだいう人はね、何人もおれへんですよ。

Q:大体大砲ですか。

砲撃のほうが多いかもわからんね。大砲もめったに当たらんけどね。弾に当たって死ぬ人は少ないんですよ、いるけんど。そら3年も5年もの間やから、その間にはね、そら大砲にも当たるし、鉄砲の弾にも当たるし、今言う迫撃砲のような一番、あれ殺傷能力一番多いんですよ。比較的近い距離で数を撃ってくるけんね。あの破裂する範囲も広いらしい。そやけん、割合よう死ぬ、負傷するんやけどね。

戦争はしとらへんのですよ、シンゼイワでは。わたしらはたまたま、ほんなしょうもないとこへ行って戦争したように言いますけどね、ほかの連中で面と向かって戦争したちゅうのは、包囲しとったいうだけでね、包囲を解いて逃げたていうだけで、戦争したってあまり聞かんのやけどね。ほな盆地の中で戦争したなんてもちろん聞いてない。向こうも逃げただけ、こっちも逃げただけというふうな感じでなかったかな。

20年のもう前半やね。20年の前半で、ラングーンの近辺に下がった時、そのときにわかったんですけども、そのときはもう警備の、自分が警備やから、中央の人間と一緒にね、わしがボガレへおったときなんかでも、警備が主力の任務でしたからね、一般の人たちと一緒の生活なんですよ。ものを買うにしても市場へもの買いに行ったり。そのときはまだよかったんですよ。

ところが20年の4月か5月ごろだったかな、もう最終段階、ペグー山系入る時点ぐらいですか、そのときにわたしらは知らなんだ、わたしらはほういうボガレの町とかピヤポンの町とかおって、割合気安うに地元の人と交流して話をして、ビルマ人って非常におとなしい人種ですからね、人はええんですよ。ほんであのもの買いに行っても、市場へ行っても、こちらも悪いことしませんけども、向こうも気安うにね、ものも売ってくれたし、もちろん軍票での商売はでけた。

ところがそれから後の20年の3、4月ごろから、部落へ入ったりしたときに、ものを買うのに軍票がね、嫌うんですよ、土民がね。向こうの。ほいでそのポンド紙幣のほうをやね、ありがたがるようになるのを初めてわかった。われわれは軍隊として市場へものを買いにやって、市場で食料品を買うて、買う係がおりますから、部隊の中には。ほのときにはどうもなかったから、わからんですよ。ところが移動してよその部落へ行ったときにものを買おうと思ったら、兵隊さんが言うのには、軍票が通らんいうことを初めて聞いたんですね。

Q:もう日本軍の形勢が悪いからっていう?

ええ、もうそれが浸透してきたんやね。向こうの、それまでは、わたしら若いのに、二十歳そこそこでしたけどね、そこらの町長とか市長とか、裁判官とか、ほんな偉そうなやつをよ、呼びつけて、指示命令しよったんですよ。そこまではよかったんですよ。

これはいかんなと。向こうのいわゆる中流階級以上にはもう浸透しとるなと。敗戦ということがね。ということは、何かパンフレットとか新聞とかいうのやっぱり一般に出回っとるようですから、ビルマの中流階級の以上の人間は、そういう情報をもうね、何や知っとんだろうと思うんですよね、十分。こっちももうわかっとったからね。こうなっとんやなと。

反乱軍に囲まれたこともありますけどね、それを恐ろしいとは別に思わなんだし、鉄砲を撃っても、その鉄砲の弾の音わかりますから、これは当たれへんということで。反乱軍についてはあんまりね、反乱軍に困らされたいうところもあるんやけどね、わたしらは戦争に最後に慣れとったからね、そう反乱軍については何もなかったですよ。

それはさっき言うたように、中産階級以上とか中流階級以上の地域階級では、それは日本人に対する反感とか憎しみというのはあった可能性は、それはあると思いますね。何せビルマでやりたいことやったんやからね、日本軍が。それはあると思うんです。

そら苦しかったよ。わしはそのときはね、あの負傷しとったからね、シンゼイワの最終の作戦のときに、この肩甲骨のカーブを貫通、ほぼ貫通銃創しとったんですよ、ここからここへね。手りゅう弾の破片で。そのときはその負傷しとる兵隊さんばっかしを60人ほど連れて撤退したんです。

わたしは主力の自分の部隊と一緒に撤退したかったんですよ。手だけやからね、手つっとったら行けるから、足は行けるから。だけど6、70人おったと思うんですけども、負傷しとる兵隊さんがおって、それで将校はおらんしするんで、おまえが連れて行けと言われて、その60、70人の兵隊さんを連れて、ほいで撤退したんですよ。

ただまあ、その兵隊さんだけなら行けるんですけどね、静かに行けるんだけど、もう周囲に全部敵がおりますから、静かに夜、夜間ね、こう逃げないかんのに、馬がおるんですよ、馬が。あれ輜重(しちょう)だと思うんだね。馬がおる。馬はわからんけね。やかましい、ガタガタガタガタいうでしょ。静かにせいったって、馬は静かにしませんけんね。それには困ったけどね。

馬が騒いで。それはもう両側から撃たれるしね、バーンと。夜間ですから、えい光弾で。そしたら当たりはせえへんのやけどね、弾は絶対に。絶対にちゅうことはないけど、弾は当たらんのよ、夜の弾は当たれへん。だけどあの光、えい光弾っていうのはね、光って飛ぶでしょう。ものすごい恐ろしいんですよ、見たらね。ビューン、ビューンと音で、音はするし、光は流れするけんね、恐ろしい。そら撃たれましたけど、両側から撃たれましたけどね、かまわんから前へ進みなさいと言うてね、やかまし言うて、一緒に逃げて。

そらあの撃たれるのは、まあ相当、戦争に年季が入っていましたからね、わたしらでも。何ぼ下級将校やいうても、何年もおりますからね、鉄砲の弾の音もわかるし。恐ろしいのは恐ろしいけど、当たらんちゅう弾はわかっとった。兵隊さんやったら、わからん人はおるけんね、後から来た人なんかは特に。だから逃げるんですよ。

一番印象に残っとんのは、人間が逃げるっていうことは、こっちに敵がこっちにおるんですよ。こっちへ逃げよるんですよ。この両側から撃たれるんですよ。どっちに逃げるかったら、こっちへ逃げるんです。敵がおるんですよ、こっち。逃げるんだったらこっちに逃げないかん。味方のおる方へ。人間の本能ちゅうのは恐ろしいわね。後ろへ逃げるいうのが、まあの相当おりましたわね。後ろへ行ったらいかんと、とにかく前へ行けということは、声からして言うたおぼえはある。

取られとるちゅうこと聞いただけのことであってやね、まあ負けたちゅうことも、負けておるちゅうことはもちろんわかっとるでしょう。戦争にはもう負けとるし。それで退路は断たれとるし。というて、やっぱり国には帰りたいということで、まあ兵隊さんの間での話ですけど、どないして帰るぞと。戦争が済んでどう、どういうふうにして帰るということは話題には出ていましたわね。

陸路ですからね、中国までは。歩いて帰ると。しかないわね、帰る方法が。遠いわね。何ぼ歩くんなれど、1日に何十里ってまあ歩いていましたけども、何ぼ歩くの慣れとっても遠いわね。しかしまずタイ国へ入って、タイからそのころはインドシナは仏領インドシナって、今のベトナムとかカンボジアはね、仏領インドシナっていう名前でしたけども、インドシナ入って、それから中国へ入って朝鮮へ入って、そこまでは行けるんです。あと海ですからね、どないして帰るぜというふうな話を冗談めいてやっていましたけども、その程度だったわね。それ以上深く考えとる人間はおらなんだと思いますよ。負けたらどうなるかちゅうことはわからんのやから。

20年の4月から5月6月ごろにかけて、ペグー山系へね、全部入ったわけですよ。というのは、タイ国へ逃げる前に、一応まあ危ないからペグー山系へ入らんかということだったと思いますね。

雨季で、雨季で雨季の最中ですわね。4月5月6月ごろやから。そらもうどんなん言うても雨季です。全山まあ竹、竹やぶですからね、そのペグー山系のそこら、われわれのおったとこは全山、下から上まで全部竹なんですよ。そやから食べるものはタケノコだけというのが印象に残ってます。食べるものないけんね、もう持ってないから、そこら行くと。ほんでペグー山系で何日おって、どういうふうにするちゅうことは決まってなかったですから。だからペグー山系、まずとりあえずまあペグー山系へ入らなんだら、逃げ場所はないからということで入ったと思うんですよ。

連隊長命令でね、岸田見習い士官はね、食べ物を探してこいて言うんですよ。普通なら大隊長命令、中隊長命令と逐次あるでしょ。連隊長命令ってわし聞きました、わしそのときに。連隊長近所におったんだろうけどね、若い将校ちゅうのだれもおらんから、もうわしの名前もわかったんだろうけど。命令でね、食べ物を探してこい。食べ物探してこいっていわれた。竹ばっかししか生えとらんのにやね、探してこい。それでそこで食べ物を探しに行ったおぼえはあるんですよ。

部落へ入ったら、まああのしゅう長がおりまして、20人かそこらのね、大家族制度の、こう家に大家族制度のしゅう長みたいなのがおるんです。真ん中にほのしゅう長みたいのがおってね、そこへ頼んで、とにかく取るとは言わんけん、まあ何ぼかね、食べるもの半分でもね、3分の1でももらえんかという交渉をしてもろたことはあります。ほれをまあ後ろの部隊へ送ってやるということはしましたわな。

まあ腹の減った思いしたのは、そこが一番やね。今でおっても。ここもお米ができる国やからね、何とかかんとかいうて、米にはありつけるんですよ。あそこだけですわ、全く食べ物がなくなったちゅうのは、1週間ぐらい。ふらふらで歩けんもんね、1週間食べなんだら。

ほとんど全員マラリアにかかりましたね。マラリアにかかなんだらもっとね、ビルマで亡くなった人が多いんですけども、それはもっともっと亡くなる人は少なかったと思う。マラリアにかかった関係でね、高熱が出ますからね、あれ。だから体力が弱ってる上へ高熱が出るから。

熱が出るだけだったら知れとんですよ。マラリアの熱っていうのは1時間2時間ぐらいまででね、すっと引くんですよ。そのかわりまあ、2日置きとか3日置きとかに、必ず同じ時間に出るんですよ、マラリアちゅうのは。わたしら3人なら3人のマラリアにかかったって言うて、二日熱というのにかかったら、二日置きに3時に必ず40度ぐらい熱出るんですよ。それは1時間やそこらで収まる。もう震えるけどもね。だけど体力がもう弱っとるでしょ。ペグー山系入ったときに。そらまあやられるね。

将校会議したんですよ。ほいでいわゆる玉砕をするか、ないしは突破作戦をするかという、まあ二つに絞って最終的に諮ったんやね。ほしたら、まあ玉砕をするという案はなかった。全員であったかどうかは知らんけども、とにかく突破をしないかということで、シッタン河の渡河作戦をして、渡河をして、ほいでまあタイ国へ突破をしようということに決まったということですわ。

末席におったからね、将校会議でもわしらは。よう聞こえんし、はっきりわからんのやけども、結果として決定は突破作戦ということが決定だった。それはそこらにおった将校全員が参加したと思いますよ。

そこで山のふもとまで、山からペグー山系から山下りた所で、そこでその取り残されとる人がおってね、ほんで大隊本部の連中とか機関銃の兵隊さんとか、輜重(しちょう)はおったかどうかは知らないけど、輜重の兵隊さんとか、大隊砲の兵隊さんとか、こういう人たちがそこへ残っとんですよ。残っとるいうことは、ほういう人はね、歩けんのですわね。砲、あの重たいあの砲を持って歩けんいうこと。ないしは輜重の車を押したりして歩けんと。そういう部隊が残ってたんやね。

ほんでそこでカツラ中尉ですか、そのとき中尉やったと思うんです。カツラなんかがおって、そしてよう来てくれたと。わしらは鉄砲持っとらんって言うんですよね。そういう部隊は全部鉄砲ないんですよ。おまえのところは小隊やから鉄砲持っとるから、警備してくれって言うんですよ。警備してくれって、わしはその30キロやからね、初めから下りたら、ま、単純な計算やけど、30キロ余りぐらいやったらね、走ったら一晩で行けると思うとったんですよ。行こうと思うとったんで、シッタン河何とか渡って。警備してくれときたんですよ。

断るわけにいかんし、こらましゃあない、こんな十何人か知らん兵隊さんでね、守るいうことできんにしても、「とにかくまあ一緒に行こう」ということで、1時間に何百メートルか歩かんのですよ、もの持っとるから。ほうれって言われたんですよ。ほんなもんね、重たいものは。ほうってね、行かなんだら、行くのが目的なんか、持つのが目的かわからんようになってしまうと。「持っとったらな、あの行けんから、ほうったらどうで」って言うてね、言うたことあるんですよ。

輜重の兵隊さん、まあ重い、重たいものはそこでもうなくしたと思うんやけどもね、最後の大砲の砲身だけ、カツラなんかは、砲身だけはせめて川を渡ると言うてね、頑張るんですよ、カツラは。そらまあカツラはわしの上官やしするからね、しゃあないわと思うて。それから5、6人1週間ぐらいかけて、そのくらいかかってシッタン河の川岸へ到達したんです。

川岸でやっぱり敵がおりますから、両岸におるから、向こうは川岸へ出れんねん、夜間だけしか出れんので、川岸へ行って。ほいでお互いにまあ背のうにいかだを組んで持っとんですよ。竹でいかだを組んで、7、8人用のいかだ組んで持って、それには相互乗して泳いで渡るというので、初めからいかだを組んで持ってきましたから、渡ろうということで、渡河作戦にかかったんかな。

一晩でまあ泳いで、一晩で渡らんと困るから、一晩でまあ泳いで渡る。川岸まで行って敵に遭遇して、またいっぺん戻って、また川岸へあくる日は場所変えて行って、渡河したというふうな記憶はありますわね。

そういう状況で行きよったんやけど、時々見つけられて、銃撃戦をしたことはありますわね、何回か。それはカツラに聞いてくれてもわかるけど、ほんまにものすごい銃撃戦と砲撃を受けた、こっちもあの撃ったけどもね。撃ったって弾の数が違いますからね。そういうことを繰り返してシッタン河へ到達して、渡河をしたということですわ。

そしてあの川岸まで到達して、そこで川岸へ到達したら、今度はもう余裕がないからね、渡らなんだら危ないですから、川岸は必ず巡回に来るんやから。ほんで一晩で渡らないかんということで、ほんでまあ、カツラさんとか、オオツカ中尉いうの、死んだんやけどね、そういう人がおって、こっちの指揮を取り持って、わたしが一番先渡ったんですよ。

わたしは船で渡ったんですよ。お寺へ行ったらね、丸木舟があるんです。それは知っとったんです。ビルマに長いことおるからね、お寺を探して丸木舟を探してきて。底が割れとったんやけね、このぐらい。天幕張って。その丸木舟に乗って、ほいでわたしは後から行くけん、だれか先行けって言うたんやけども、カツラさんやオオツカさんがね、おまえが先行かなんだら向こうのようすがわからんと。向こうの岸に必ず敵がおるから、危ないけんね、先行かなわからんで、先行きなさいと。

負傷しとる兵隊さんが1人か2人かおったんですよ、肩かどっか。これを乗してね、向こうへ行ってくれということで、3人か、2人か3人で先渡ったんですよ、向こうへ。

わたしが出たのは、わたしはもうそやけん、20分かそこらで向こう側へ着いたと思うんですけどね、この船が今度もんで(戻って)こんのですよ。渡河もこんのですよ。時間的にはもうぼつぼつね、いかだを押して皆、大勢やから、みんなこないかんのに、なかなかこんのですよ。待っとるんやけどね、何ぼでもこん。それから1時間ももっとたったんでしょうね。ようようワーワーワーワー言うて音が、声がして、みんながね、泳いで渡ってきましたわ。だけど全員でなかったわね、そのときは。やっぱり川の途中で流された人もおったと思うんやけどね。そういう人もおって含めて。ほぼ全員あのこちら側に着いたんが、まああくる日のもう朝近く。

最後に大隊本部の人が、こっちへ戻ってこんもんやから、そのオオツカ中尉という人だけど、その人が戻らんのやから、カツラさんが、「一緒にとにかく待たんか」と。「あの人が指揮をとってね、大隊本部の全部の指揮とってここまで来てくれたんやけん、とにかく待たんか」と。ちょっと危ないんですよ、ほらあの川岸で待つんやからね、危ないけど、しょうがない、とにかくまた待ちまへんかということで、そこで一晩か二晩待ったんですよ、危ないとこで。こんのですよ。で、二晩目ぐらいに、これはもう幾ら待ってもこんと。このままおったんでは、ここにおる兵隊さんも危ないと。とにかくまあタイ国の側へ行かんかということで、タイ国のほうへ今度は、出発した。

それからまあ10キロか思ったけど、それから10日余りもかかって、川が無数にこう小川があるもんやから、渡れんのですよ。こんだけの川でも雨季で水がいっぱいこうたまっとるもんやから、こんだけの溝でも、上1メーターありますからね、首が出るぐらいポコッと入るんですわ。雨なのでどこが川やらどこが道やらわからんもんだから、その間に、1週間以上もっとかかってタイ国のほうへ出たと。

ほこの状況はね、もうあんまり話はしとうない。わし目の前で見とるから、泳いでいきよる人、流れていきよる人も。待っとったでしょ。オオツカ中尉が来るのを待っとったから。夜中に腰までつかって、前見よったんですよ。そしたら目の前を流れていくわけですよ、どんどんね。やっぱり上流にも連隊本部とか一大隊か何か知らんけど、ようけおったけん。浮草がね、大きな浮草があるんですよ、川やから。それにつかまっとる人もようけおったしね。そこはもうあんまり話しとうない。

まあ渡河作戦はそういう、渡河作戦っていうか、渡河の状況はそういう状況ですわ。ほらやっぱり敵もあの川岸におるインドの兵隊なんかも、見つけたら撃つんですよ。バンバンバンバン、もう終始、年じゅう弾の音がするんですよ。そやけど夜中の鉄砲やけんね、当たりはせえへんのやけどね、ほんなもんは。ボンボンボンボンしょっちゅう撃ってくるんですよ。だからもう、おる場所を見つけられたらいかん、危ないよね。

多いのは確かや。目の前でな。けど現実に流されていきよるっていうの見た数いうのは知れてますよ、それはね。そらいかだにつかまっとる人がおるし、浮草につかまっとる人おるし、いろいろやけどね。だけど何、後で聞くと非常に多い数だったらしいけども、わたしが見た目ではそんな感じじゃなく、まあ夜中の数時間の間やから、そうだったんだろうと思うけど、ここまでつかって、目の前いたらやね、ほらその感じはあんたわかると思う。

体力使い果たしとるのに、道がわからんですよ。まともな道はもちろん歩けませんから、ほんでジャングルみたいなとこばっかしを歩くわけですよ。ジャングルったってね、あそこはあんまり木もあんま生えてなかったように思うんやけど、そういう所ばっか隠れて歩かないかんのですから。昼はもちろんもうじっとしておらないかんでしょ、動けんから。昼はじっとしておって、夜が来たら動くんやから、なお道がわからんのですよ。夜間やからね、真夜中や。

ほいで行けるなって、行けるなと思うたら川があるんですよ。どのくらいの大きさの川かわからんのですよ、これがね。今の深さからいうたら。わたしがどんどんどんどん泳げるんだったら、ひょっとしたらもう、これもう泳いでいかんかと言うたかもわからんのですよ。カツラに相談して、カツラさんに相談して、どないするぜったら、まあほな回り道をして、道を探さんかというふうなことで、二人であっち回りこっち回りして道を探し回っていったのに時間がかかったんですね。

それは落ち着いていました。もうタイ国へ入ったらね、ほとんど鉄砲の弾の音もせんし、たまにはあの爆撃、爆弾みたいな音もしよったけどね、まずあんまりせなんだし。で、ある日突然その弾の音が全く聞こえんようになったっていうのは、兵隊さんも皆言うてましたわ。えらいその砲弾とかね、爆音とか弾の音とか全然せんようになったなあと言うて、しばらくして、その南方軍総司令官の命令によるということで、無条件降伏をしたというのが言うてきたんです。

ただしその前にね、2度ほど軍使は来たんですよ。白旗を掲げて馬に乗ってね、白旗を掲げて軍使が来たんですよ。連隊本部か大隊本部か知らんけど。一ぺん目かしらは何か追い返したらしいですわ。「負けたやてな、あほなこと言うな」ちゅうことで追い返したらしいわ。二へん目に来たときにやね、どうもほんまやということで、軍使の日本軍は負けたんですよという書類か何か知らんけど、それは受け取ったと言いよりました。

Q: 終戦の知らせを聞いたときに、日本が負けたと。そのときはどういうふうな思いを?

どうも思わなんだね。ああ、そうかちゅうことですわ。初めからもう覚悟しとったからね。負けたっちゅう、ああ、そうか。ただ無条件降伏ちゅうことには抵抗はあったけどもね。それもやむをえんのかいなということではあったですよね。

それが19年の、違うわ、20年のあれはもう1月ごろだったんかな。でも19年に入って、戦争は負けたって、それはわかっとったからね。シンゼイワでやられたとき、撤退したときに、もう負けたなということはわかっとった。インパールの情報も入っていましたからね、その時には。

無駄な戦いやとは思いますね、今から振り返ったらですよ、無駄な戦いは無駄な戦い、無駄な、全く無駄な作戦やったと。タイ国でとまって、ほんで終わっとればよかったのにと。よかったかどうかはわかりませんけど、ほんでよかったのにと思いますね。全く無駄な作戦やと思います。今から思うたら。何の得もないもんね、今言っても。

だれがどこまでお国のためにと思うとったのかと。今やったらそういう議論は十分わきますけどね、その時のいわゆる軍事教育とか、ああいう精神状態のもとでは、ほんまにお国のためやと思うとった人やてたくさんおったと思うんですよ。そういうふうなまあ教育を受けとったし、しましたからね。そやから、そんなあほなことはと、今だから言えることであって、その時にはそういうふうな状態やったんから、それはおかしいということも、必ずしも一概に言えんと思う。ほんまにお国のためにと思うて亡くなったり死んだり、一生懸命した人が多かったと思います。

これも人生、あれも人生ということで、まあいわゆるそういう成り行きで、そういうたまたまそういう時代に遭遇して、そういう状況になったんやと。自分の力ではもうどないもならんというふうな感じやから、あきらめが半分でないですかね、わたしらのこの軍隊時代というのは。二十歳から30のいわゆる青春というのはなかったからね、われわれの時代には。青春とは何かちゅうようなこと言われたらわからんですよ。青春時代というのはないんやからね。それがそんなつらいとか苦しいとかは思いませんけどね。

ただ、軍隊とか戦争とかいうことで、教えられた面は多いです。それから後の社会生活で、いわゆる悪いことばっかりじゃなくて、そういう戦争で苦労したとか、軍隊で教えられて苦労したということが非常に役立ったということは多いです。必ずしも非常に悪いことだけをやね、つらい時代にしたとは、それは思いません。今でもそういう精神は残っています。

あの土地をああいうふうにね、そらもう荒らしてしもうたと。ラングーンにしたって何にしたって、ほらもうほんまに東京の空襲と一緒ですからね、わたしが行った時は。残っとるもんはパゴダだけちゅうような感じだったね、今思ったら。そら悪いことしたというけども、まあそういう面では、ビルマに大きい迷惑をかけたなという感じはしますね。

そらもう、非常に不幸な戦争やったわね。あんな戦争はすべきでないいうことは、今にして思えばね。しかしその時でも、戦争はせないかんとは思わなんだけどね、わし自身は。もちろんビルマだけでなしにね、いわゆる満州、中国でいわゆる戦闘状態に入って、その戦線をどんどんどんどん広げたから、その時点でもそうは思わなんだし。第一、12月8日のね、宣戦布告にしたって、えらいことをしたなという感じは子供なりにしたもんね。あの時はまだ学生やからね、えらいことしたなと。勇ましいことをしたなとは思わなんだもの。わたしはね。

出来事の背景出来事の背景

【ビルマ濁流に散った敵中突破作戦 ~徳島県・歩兵第143連隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争の開戦から間もない昭和17年1月、日本軍は英領ビルマに侵攻し、わずか半年余りでビルマ全土を制圧した。

しかし、昭和18年になると、連合軍が反撃に転じる。対する日本軍は連合軍の拠点インド東部のインパールへ進攻し、連合軍の反撃を防ごうというインパール作戦を計画する。
作戦を成功に導くため、第143連隊は、ビルマ西南部で攻撃をしかけ、連合軍の主力を引き付ける陽動作戦が命じられた。

航空機を使った空からの補給によって、連合軍は最新兵器で途絶えることなく攻撃を仕掛けてくる。一方、十分な補給がない日本軍は追い込まれていく。

昭和20年4月、連合軍は日本軍のビルマ方面軍司令部が置かれていた首都ラングーンに迫る。危機を感じた司令部はラングーンを放棄し、前線で戦う部隊に対して何の命令も与えぬまま、タイ国境近いモールメンまで退却。前線の部隊は敵中に置き去りにされてしまった。

歩兵第143連隊が属する第28師団の師団長司令官は、決死の退却戦を決意。バラバラに戦っていた部隊を集結させ、シッタン河を渡って別の味方部隊と合流するという計画だった。

深い密林に阻まれ、飢えと病に苦しみながらも、7月20日、ペグー山系で部隊の集結は完了。敵の目をかいくぐりながら、シッタン河をめざした。しかし、シッタン河突破作戦を事前に察知していた連合軍は、いたるところで待ち構え、攻撃してきた。

敵の包囲網をくぐり抜け、ようやくシッタン河にたどり着いた兵士たちは、雨季で増水した濁流に飛び込み懸命に渡るが、連合軍やゲリラに狙撃され、また、シッタン河の濁流に飲み込まれ、作戦に参加した3万4千人の兵士のうち、味方に合流できたのは1万5千人であった。そして8月、生き残った兵士たちは、シッタン河のほとりで終戦を知った。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1921年
徳島県徳島市に生まれる。
1942年
現役兵として西部第33部隊に入隊。歩兵第143連隊に転属
1943年
小隊長としてビルマ戦線へ赴く
1944年
シンゼイワ盆地攻防戦において被弾負傷。
1945年
シッタン河渡河作戦後、タイへ転進中に終戦を迎える。連合軍の指揮下、ビルマで労役に従事。
1947年
復員(広島・宇品)。

関連する地図関連する地図

ビルマ (シンゼイワ盆地、ラングーン、モールメン、シッタン河)

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