ホーム » 証言 » 藤井 英志さん

チャプター

[1] チャプター1 防疫給水部  03:10
[2] チャプター2 日本をはるかにしのぐ物量と機動力  02:11
[3] チャプター3 敵中の撤退作戦  02:14
[4] チャプター4 待ち伏せ攻撃~シッタン河へ  06:00
[5] チャプター5 雨と渡河が奪った体力  04:19
[6] チャプター6 忘れられない戦場の光景  04:20
[7] チャプター7 紙くずになった日本軍の「お金」  05:37

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再生テキスト

「防疫給水部へ行きなさい」ということで、防疫給水部へ転属になった。

住民に病気がはやる、主にコレラ。コレラ、ペストなんですが、それを鎮圧して、日本の軍隊へ入らんようにする、その予防です。だから予防注射もする。そういうことをする仕事、主に。はい。それと、いろいろな毒物がある、それを検査する。例えば水、そういうふうなもんを検査するわけですね。

日本の軍隊を健康にするために、防疫給水部というものがあるんです、師団に。あちこちの土民に、コレラがはやったり赤痢がはやったりします。そしたら軍医がついて、兵隊を連れてそこへ防疫に行くわけです。ほんで予防注射をする。ほんでその鎮圧して、その病気が日本の軍隊へ入らんようにする、その予防です。だから予防注射をするわけですね。

第一線におります。給水せないかんのやから。はい。前の兵隊の水筒に水を、きれいな水を入れてやる。で、給水車ちゅうものがある。そこらへんの泥水を通したらきれいな水になる。それを何、兵隊の水筒に入れてやる。そういうふうな部隊。はい。で、防疫っていうたら、病気を軍隊に入れないようにするという部隊。戦争目的じゃありません。はい。鉄砲撃ったりするのは、まあ本職に任しといたらいいんだけどね。

牟田口(むたぐち)中将が「3日で落とすから、食糧3日しか持たんでもよろしい」と言われて行った。3日たっても13日たっても30日たっても落ちない。それで後ろへ下がったんですね。

それだけ食糧がなかった。何もなかったんです。3日しか持ってないんやから。ほんで30日たっても落ちない。ほんで日本軍同士の撃ち合いになった。貨物廠(しょう)と日本の兵隊との戦争になった。食糧の奪い合いです。そういうふうなことがあった。

朝9時前に突っかかってきます。向こうは8時に出発しますから。もうサラリーマンと一緒です。向こうは8時に出発しますから、ちょうど1時間ぐらいしたら来る。9時か9時半ぐらいに来る。戦車で。戦車とトラックで来るわけです。5里ぐらい向こうから来るんでしょう。それで撃ってくる。

ほで、歩兵は戦車の後ろへついてる。トラックで来て後ろへついとる。日本人なれば、おそらく戦車のあとから行軍してついてくるでしょう。その時にはもう日本兵では、へとへとになって、戦争する気力なんかない。しかし向こうは自動車でトラックでサーッと来る。ほんで降りて、それから戦争ですから。ほんで4時に戦争は終わります。向こう、たったのちょうど5時やから。

ほんで時計見よったらわかる。「ああ、もう4時、4時になった。もうしまうぞ」と思ったらパッとやめて、機関銃をやめてさっと帰る。で、あくる日また9時に来る。そういうふうな戦争のしかた。日本のサラリーマンと一緒です。

日本とこれは段が違うと思った。それでね、わしがおったときの、時々空襲、空襲が来る、銃撃が来る。そのときに機関銃何発かに機関砲を1発ボンと撃ってくるわけです、自動的に。ほしたらね、薬キョウの後ろに44と書いてある。1944年製です。
日本は、昭和のはじめからためとったやつを世界大戦のときに使った。

1日じゅう降っとんです。朝から晩まで、24時間。ザーザーザーザー毎日。毎日。3か月間降るんですね。5月から、5、6、7、そうそう、3か月間降るわけです。それでどうしてもたまらんようになって、7月の20日に敵中突破をするということです。

それでペグーからマンダレーまで、こう街道があるわけです。ペグーの、ペグー山脈の東側に街道があるわけ。そこを敵は戦車とジープとで往復して警護しとるんですね、守ってる。そこを、そこのすき間を、すき間をねらって、敵の陣地がある陣地から、その間をさっと抜けるわけです、夜中に。一団となって。で、「戦争はあくまで避けろ。するんでない。できるだけ早くその街道を渡って、とにかく東へ進め」と。

地図はない。負けるときの地図は日本兵は持っておりません。前の、前の地図だけ。後ろの地図は持ってない。ほんで「東へ東へ進んだら急流がある。その川はシッタン河である。それを何かの方法で渡れ」っていうんで、命令です。ほんで「途中、女こどもといえども全部皆殺しにせよ」という命令。

それから次、敵中を突破したんです。7月20日といいよったけど、4、5日遅れて突破しました。ほしたら、突破するとき非常に静かなんです。全然撃ってこない。ほら真っ暗闇ですから、撃っちゃったら敵同士が、味方同士の撃ち合いになりますから撃てない。両方とも、何、待っとって撃つんですから、自分、味方撃つやらわからん、暗いから。さーっと出してくれた。

で、ある所にちょっと丘みたいな所があった、水のない所が。で、そこで「おい、みんな集まれ。どこそこの部隊集まれ」ちゅうて、おおきに号令をかける将校もいた。そうすると向こうから、ま、日本兵がそこらへんに固まったっていうんで、大砲と機関銃との雨です。どんどんどんどん撃ってくる。ちゃんとねらい定めて待っとるわけです。そこに集合したわけ。もうほらどんどんどんどん撃ってこられて、ほいでもうバラバラになったわけ。クモの子散らすようになった。

それでそれから東へ東へと。ほんでペグー山脈、いや、ペグー山脈を出てから、5日か1週間か日はわかりません、シッタン河へ着いたのは。途中で飛行機に撃たれた。飛行機に偵察されて、砲弾をぼんぼんぼんぼん撃たれたときもあった。何回か。で、どうにかシッタン河へ着いた。ほで、そこら辺に家があったもんやから、家を壊していかだをつくったわけです。で、いかだ、そうね、30センチぐらいの高さにいかだをつくって、ほんで縄もこしらえて、かいもこしらえて、で、渡ったわけです。
オリンピックに出た北村選手。そのときは北村少尉です。その人がよう泳ぎきらなかった川です。そんだけ急な、そういうふうな川でした。

川の真ん中を、川の真ん中流れてます。泳ぎきれんで、あんな、あれ。うん。もう流れに沿うて、流されていかんとしょうがないんじゃないですかねえ。横へ寄れない。ま、オリンピック選手でもよう泳ぎ着かんかったんやから。はい。北村ちゅう少尉、オリンピック選手ですから、水泳の。ほれが、で、「将校斥候(せっこう)で行ってよう泳ぎ着かなかった。ほだから気をつけろ」と、「なかなか急流で向こうへ着けるもんではない」ということは聞かされとった。たら、北村少尉が帰ってきて、ものすごい急流だということを部隊長に報告したんでしょうね。

「助けてくれ、助けてくれ」言うけど、ど真ん中でどうもこうもしようがない。ロープをほうるにも、ほんなとこまで届けへん。どうもこうもしょうがない、自分で泳ぎ着かなしょうがないでしょうねえ。ええ。皆ただ、じーっと見とるだけ。どうもこうもならん。助ける方法もない。船もないしね。うん。浮きもないし。

ほんで6人でこぐわけです。これもこんな竹の割れたんでこうこぐんだから、普通のオールとは違います。6人でこぐ。できるだけこげよ、で、まっすぐこぐんやけども、こういうふうにして、で、わけやね、流されて。うん。モーターボートでもなかなか着かんのじゃないだろかなあ、あれは。うん。ほんだけの急流なんですよ。イラワジ河なんかとは違う。イラワジ河はゆるゆるしか流れてない。シッタンちゅうたら急流らしい。

なかなか着かんかったですよ。すぐ近くに見えとんのに着けへんのや。うん。「おかしいな、もう着いとるはずなのに、なかなかロープが張らないなあ」と思ったら、どうにかとまった、ちゅうことがわかったのよ。やれやれ助かったかと思った。で、岸へあがって一服したわけです。うん。ほんで水筒にお湯をわかして飲んで、ほれで元気を取り戻して、ほれから、びしょびしょですから、服も乾かして、大体。絞って乾かして。それからぼとぼと歩いた。1日に1キロか2キロしか歩けんかったと思う。それから。

食料がない、薬飲んでも効かない。体が衰えてくると、薬飲んでも効かないです。はい。健康であって、薬飲んだら効く。体が弱ってきたときに薬飲んだって効かない、そんなふうに。はい。薬の薬害だけが出るだけで、なかなか効くもんじゃない。体力が要る。ほれと毎日毎日雨にぬれる、食料はない。薬の効きようがないです。

薬はありますけれども、栄養が衰えたらどうもこうもなりません、食べるもんがなければ。食べて、初めて薬。はい。体力が衰えてきて何も食べないのに、薬だけ飲んだって、ぴんぴんするもんでない。何も食べないで、アリナミンみたいなビタミン剤飲んどっても、い、生きとれるものじゃない。食べて初めてビタミンが効き、マラリアの薬も効く。
ほで、マラリアの菌というものは、血液の中の赤血球を壊すんですよ。赤血球ちゅうものは、息をするための、息をして酸素を運ぶための赤血球。これを壊していくんですから、マラリアっていうやつは。菌が入ってその赤血球ちゅうのをポンポン壊していく。だから貧血になる。貧血の薬をなんぼ飲んだって、マラリアを、マラリア菌を殺さなかったら効かない。

ほんでわたしは、九州の師団の野戦病院へ入院したんです。もう体力が持たんと思って。
ただ患者を後ろへ乗せてトラックに乗せて後ろへ運ぶだけ。ほれが野戦病院です。薬なんか何もない。病床日誌もない。何もない。ただ後ろへ運ぶだけ。「病人はビルマへ残すな」っていう命令で、後ろへトラックでどんどんどんどん運ぶんです。

それでいちばん最後は僕は、バンコクの陸軍病院へ入院した。

食欲が進むにつれて脚気(かっけ)が出てきましてね、ベッドの上へ上がることができないの、足で。手の力で引っ張り上げる。これがいちばんえらい。ほんで洋館の2階ちゅうたら、こういうな階段が非常に長い。これは2回ぐらい休まんと上がれない。手で上がるんです。足が動かんから手で。脚気がある。ほで、ベッドの所へ帰ってきたら、手で引っ張って上がる。それがいちばんえらかったね。はい。食欲が進むにつれてビタミン欠乏が強くなる。そしたら足、脚気になる。それで貧血はある。なかなか回復しなかったね。

それで終戦1年たっても、ま、顔色は青かったようですね。貧血が残っとって。はい。ほで内地へ帰ってきてしばらくせんと、回復はしなかった。マラリアってほんなもんです。ほで、体力がつかないんだよね、食料不足で。はい。そういうふうなんです。それがビルマの戦争です。地獄の戦争です。

完全に死ぬ。手りゅう弾ではもう体半分飛びますからね、はい。半死にやいうことない。

体半分ない。半分。ここへ当てとったら、ここ半分ない。上半分ない。背中だけある。

そうやね、大抵。ほんで手りゅう弾自殺も手りゅう弾がないからできんような兵隊もおる。うん。手りゅう弾放ってもうてない。ほしたら「手りゅう弾ください、ください」言う。うん。だれもくれるもんはない。野垂れ死にせなしょうがないです。食料はない。マラリアになって薬はない。何の、どうもこうもしょうがないです。

マラリア、栄養失調、それともう精神的に参って自殺。そうですね。それは地獄でした。あれを地獄という。はい。

ほで、あるとき飯ごう炊さんする。と、当番がおかゆを炊いてきた。ほいで僕の当番が言う。「軍医殿、死体があっちこっちに浮いとったから、それをのけて、そこの水をくんできました」って言って、「ほんで炊きました」と言う。ほんでも「ああ、そうか」と言うて、ほんで食べた、ひとさじふたさじ食べた。別にくさいとも汚いとも思へん。もうほんまの地獄なんですね。そう思う、僕は。はい。あれを地獄という。

ぼんぼんぼんぼん手りゅう弾自殺する。それで谷川でまあ転げ込む、死体が転げ込む。と、それを谷の水に浮いてる死体をよけて、そこのたまっとる水をくんできて飯ごう炊さんをする。ほんなことです。まあいいだしが出たかもしれんけど。はい。そういうふうな生活ですね。

何ともなくなる。何ともなくなる。ぼんぼんぼんぼん死ぬ。かわいそうにとも思えへん。「ああ、死んだか」そんなことです。ほんでどんどんどんどん進んでいきよると、「手りゅう弾ください、手りゅう弾ください」と言う兵隊がたくさんおる。ほんでみんな、「おい、やるなよ。いつ、いつ手りゅう弾やったら、いつたたくやわからん」。と、やったもんが一緒に死ぬ。そういうふうなことになる。

ほんで塩が切れますわね。ほしたら兵隊、シャツが破れる。捨てる。そしたら、牛肉を持ったら荷になるので牛を引っ張ってる。日本の部隊。まさかのときに牛の肉を食べるために牛を引っ張ってるんですが。何ね、あのー、牛が塩がないもんやから、人間がほうったシャツを、その汗を吸うために、牛はにおうんですね。で、そのシャツを吸うてる。雨でぬれた汗の人間の、兵隊の汗を吸うてる、牛が。と、うちの兵隊が言うた。「おい、われわれもすぐにあんな風になるぞ」っていうて、言う兵隊もおった。

ほんでとたんに、日本の軍票、軍票っちゅうのがあるのよ、紙幣が。それがとたんに通らなくなる。今まで10円で通りよったもんが全然通らない。で、イギリスの銀貨とか、ほんなもんは通る。

イギリスの銀貨が通る。われわれ持っとる軍票は全然価値がない。紙切れだけ。

兵隊がつかいに行ったら、「こんなもん通らない、いらん」って。で、買えなかったということを聞きましたね。ほんでイギリスの銀貨持っとる兵隊もおりましたよ。はじめの、戦争のはじめに、向こうの捕虜から取った銀貨なんか持ってますよ。捕虜持っとった兵隊がそれを使うとると、皆ちゃんと。うん。日本の軍票は通らない。

「ああ、負けたな」と思ったな。「負けた。戦争にこれは負けた」と思った。はい。そりゃあ、物量が違う。日本の飛行機はひとつも飛んでこない、イギリスの飛行機だけ。
B17ってやつ、B17ってやつはぼんぼんぼんぼん飛んできた。50機ぐらいで編隊で飛んでくるんやね、どんどんどんどんと。そうしたら地響きがしますよ

で、それから騎兵が鎮圧にかかったけども、兵隊やら土民やら、だれが敵やら、いっこもわからん。今のイラクと一緒です。今のイラクと一緒。だれが敵やらわからん。軍隊と軍隊の戦争と違う。わからない。とうとう鎮圧できんじまい。しかし兵隊だいぶたたき殺されました、棒で。ほれから竹やりで突き殺される。あっちこっちで殺された。1人2人おる兵隊は。なんぼにも鎮圧できんかった。

全然話にならんです。戦争になっとらん。はい。銃と竹やりとが戦争するようなもんです。はい。話にならん。作戦も話にならん。日露戦争みたいなんと違うんだから。はい。物量と物量との戦争なんだから。ま、銃と竹やりとが戦争するようなもん。戦国時代の刀と刀とが切り合いするとは違う。あるもんとないもんとが戦争する、そういうふうな戦争ですね。

まあ日本は勝てると思とったんでしょうね、お偉いさんは。はい。しかし兵器がお粗末、飛行機はない、戦車はない。ただ日露戦争の使い古しの銃だけ。それだけですね。勝てる理由がない。で、わたしは軍隊入って日本の戦車と日本の飛行機は見たことない。1台も。そういうふうな状況ですね。ただ日露戦争の使い古しの銃と剣と手りゅう弾と、だけですね。

それでわたしは戦車は戦争中1台も見なかった、全然。日本に戦車があるやいうことも知らんかったです。

日露戦争のときの武器を、世界大戦の、何十年もたって世界大戦に使う。日露戦争の古いのを使う。戦車を一生懸命磨いてから使う。そんなふうな性能の悪いやつで戦争するもんではない。同じような武器を持って戦争するんだったらよろしけど、ほんだけあのー、差がついとるときの戦争はするもんではないと思った。何もない国の兵隊にはなるもんじゃないと思う。

同じような兵器持っとんだったらよろしいよ。両方とも自動小銃持って撃つんだったらよろしいが、それ以外で、向こうは自動小銃、こっちは空気銃みたいな鉄砲。これでは話にならん。はじめからせんほうがいい。はい。わたしはそう思う。なぜ僕はあんな戦争、ばかな戦争をとめられなかったか、ということを今思う。

出来事の背景

【ビルマ濁流に散った敵中突破作戦 ~徳島県・歩兵第143連隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争の開戦から間もない昭和17年1月、日本軍は英領ビルマに侵攻し、わずか半年余りでビルマ全土を制圧した。

しかし、昭和18年になると、連合軍が反撃に転じる。対する日本軍は連合軍の拠点インド東部のインパールへ進攻し、連合軍の反撃を防ごうというインパール作戦を計画する。
作戦を成功に導くため、第143連隊は、ビルマ西南部で攻撃をしかけ、連合軍の主力を引き付ける陽動作戦が命じられた。

航空機を使った空からの補給によって、連合軍は最新兵器で途絶えることなく攻撃を仕掛けてくる。一方、十分な補給がない日本軍は追い込まれていく。

昭和20年4月、連合軍は日本軍のビルマ方面軍司令部が置かれていた首都ラングーンに迫る。危機を感じた司令部はラングーンを放棄し、前線で戦う部隊に対して何の命令も与えぬまま、タイ国境近いモールメンまで退却。前線の部隊は敵中に置き去りにされてしまった。

歩兵第143連隊が属する第28師団の師団長司令官は、決死の退却戦を決意。バラバラに戦っていた部隊を集結させ、シッタン河を渡って別の味方部隊と合流するという計画だった。

深い密林に阻まれ、飢えと病に苦しみながらも、7月20日、ペグー山系で部隊の集結は完了。敵の目をかいくぐりながら、シッタン河をめざした。しかし、シッタン河突破作戦を事前に察知していた連合軍は、いたるところで待ち構え、攻撃してきた。

敵の包囲網をくぐり抜け、ようやくシッタン河にたどり着いた兵士たちは、雨季で増水した濁流に飛び込み懸命に渡るが、連合軍やゲリラに狙撃され、また、シッタン河の濁流に飲み込まれ、作戦に参加した3万4千人の兵士のうち、味方に合流できたのは1万5千人であった。そして8月、生き残った兵士たちは、シッタン河のほとりで終戦を知った。

証言者プロフィール

1921年
徳島県麻植郡牛島村に生まれる。
1944年
召集、歩兵第43 連隊に入隊。その後、召集解除。再び召集、歩兵第43 連隊に入隊後、衛生部見習士官として歩兵第143 連隊に転属。ビルマで第五五師団防疫給水部に転属。
1945年
ビルマで終戦を迎える。その後、捕虜収容所生活を送る。
1946年
復員(神奈川・浦賀)。

関連する地図

ビルマ (シンゼイワ盆地、ラングーン、モールメン、シッタン河)

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