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タイトル 「戦場に送るため救った命」 番組名 [証言記録 ] 従軍看護婦が見た戦争
氏名 石田 寿美恵さん(従軍看護婦 戦地 満州(錦州) 朝鮮 中華民国  収録年月日 2008年

チャプター

[1] チャプター1 なりたかった従軍看護婦  07:16
[2] チャプター2 ほふく前進の訓練も  03:25
[3] チャプター3 戦場に赴きたかった  05:47
[4] チャプター4 陸軍病院での仕事  07:40
[5] チャプター5 再び戦場に送り出すために救った命  00:54
[6] チャプター6 ソ連侵攻  06:41
[7] チャプター7 中国の内戦に巻き込まれて  08:30
[8] チャプター8 朝鮮戦争にも従軍  09:55
[9] チャプター9 戦死した弟への思い  01:43
[10] チャプター10 従軍看護婦の仕事と戦後の生き方  06:10

提供写真

再生テキスト

直接のきっかけは、女学校卒業する年か、その前の年の暮れぐらいですけどね。『野戦病院』っていう映画がね、上映されたんです、わたしたちの町で。普通むかしは、女学生とか中学生は映画館行っちゃいけないことになってたんです、あのころは。でも、学校の先生が「ぜひ、見に行ってきなさい」って言われて、友達と学校の帰りに行ってみたんです。その中身、それがわたしに非常に、直接のきっかけなんですけれど、中身はね、日赤の従軍看護婦が、野戦病院で、自分の血液を中国人の患者さんに輸血してるときに、自分の婚約者の少尉さんが前線から運ばれて来て、そして息を引き取るってことで、生きてる間に会えなかったんですね、輸血していたために。そんなのみんなね、今思えばね、非常に作為的なストーリーのように思えるんですけども、純真なあのころはまったく、そういう時代もあったんでしょうけれども、非常に感動したんですね。

学校の掲示板にね、「日赤の看護婦生徒 募集」っていうポスターがはってあったんです。こんなポスターの中に、大きなレッドクロス(赤十字)があって、そこに、このナースキャップ(看護帽)かぶった看護婦が、顔が写されてたんですけどね、眺めながらね、「やっぱりわたしは看護婦になろう」と。そのとき思って。

当時はね、特に農村なんかは、学校卒業して、あのころは職業婦人っていってましたけど、職業婦人になる人は少なかったんですね。学校の先生、看護婦、それから当時は紡績工場がね、いろいろ三原の人絹とか、岩国のなんとか、というようなことで。大半は農村に、家にとどまってるのが普通だったんです。でもわたしその前にね、「タイピストになろうかな」と心で思ってて、従軍看護婦の写真を見て、映画を見て、(看護婦に)なろうと最終的に決めたんですけど。

看護婦というよりはね、あの時は、「日赤の従軍がしたい」。兵隊さんの看護する人は戦地に行く。勇ましいでしょう。そういうこと。お国のため。それまでにね、わたしたちはもう小学校1年生ころからもう、学校教育から社会教育・家庭全体が、軍国主義の方向に行ってましたからね。満州事変が、わたしが卒業する6年前、1931年だと思うんですけどね。あのころから、昔はラジオっていうのもあんまりなくて、蓄音機っていうのがね、こうして鳴らすのがあって。大きなラッパが付いて。小さな商店街ですけどね、通学路がわたしの、どの店からも大きなラッパの口から、軍歌やらね、婦人従軍歌も流れてました。それから「海行かば、水漬く(みづく)屍(かばね)」。あれもね、あのころから流れてましたね。「大君の辺(べ)にこそ死なめ、かえりみはせじ」

その歌を聞いただけでなくて、学校の教育でもそうだったんでしょうね。あれがありましたからね。「四大節」っていって、新年と紀元節と天長節、天皇の生誕日、それから明治節、明治天皇の生誕を祝う「四大節」というんで、その日は学校は休みで、全校児童生徒が集まって、先生が指揮されて「教育勅語(ちょくご)」っていうのをまず読む。
その前に、「教え・礼拝」とかっていうんですかね、天皇、皇后のね。教育勅語を先生が読まれて、小学校1年生意味わかりませんけどね、気を付けの姿勢で、こうして聞いてたんです、頭を下げて。「いったん緩急(かんきゅう)あれば義勇公(ぎゆうこう)に奉じ、もって天壌無窮(てんじょうむきゅう)の皇運(こううん)を扶翼(ふよく)すべし」「いざ戦争っていうときには、命を投げ出してお国のために戦え」っていう意味ですよね。あんな教育の中で自然にもう、当然お国のためにっていう風になってたんでしょうね、育ってたんですね。

熱い思いは女でも、兵隊と同じようにね。「お国のために尽くせる」っていうのは日赤の従軍看護婦しかないと思ったのは事実なんです。軍国主義になってたんですね。軍国主義の、非常に先ぽうであったかもわかりませんね、自分自身が。先ぽうだったんでしょうね、あのころ、まったく純粋に。

兵士を看護したい。そして第一線で、戦場に近い所へ行って(看護)したい、と思ったんです。若い人は「ちょっと勇ましいことがやりたい」っていうのも、一般的にあるんじゃないんですかね。当時のわたしなんかもそういう若者の、そういう気持ち、一般の気持ちでもあったんじゃないかな、と思いますけどね。

だいたいね、1日に6時間平均ぐらいな教科だったんですけどね。その中で、週1、1回、1時間ぐらい陸海軍の正規だって、陸軍から将校さんが教官で来て、教えてくださるっていうことなんですけど。そのころ、軍人にあこがれてましたから、この陸軍の教官の勉強は楽しみだったんですね。日赤の看護婦養成の目的が、「戦争の時、陸海軍の衛生勤務を助ける」っていうのが第一の目的で、日赤の場合は。だからそのためにはいちばん、看護対象である患者さんの所属しておる陸軍とか海軍が、どういう風なものであるか、どういう制度になってるか、ってことを勉強しないといけないというんだったんでしょうね。階級とか、次が平時の配備、病院とか野戦病院とか兵隊病院とか。後方病院の配備っていうことでしょうね。そんなの習って。

陸軍の衛生部の演習、野戦病院作って、そこで患者を収容する演習なんかを見学に行ったりですね。また陸軍だけでなく海軍もね、実習に。わたしたちは舞鶴が要港部でしたから、呉(くれ)の鎮守府なんか。鎮守府とまた、もう1つ下のかもわかりませんけど、要港部、あそこの病院も見学したり。見学や実習ですね。

担架訓練も、「ほふく前進」っていって伏せてね。地面をはってやるのとかね、あんなの。日赤に東福寺って大きなお寺がありますがね。あそこでやってました、練習を。

目的が戦時、「救護看護婦を派遣する」っていうのを目的で養成してるわけですからね。

「行きたい、行きたい」と思って、思いながら卒業したわけでしょう、戦地へ。(赤紙が)届いたんですが。卒業して10日ぐらいのうちだったと思うんですが、それが国内でしょ。がっかりしながら、「まあしかたがない」ってことで。同級生が5~6人でしたか、入って。20名の一戸班ですけどね、行ったんです。比叡山のふもとへ。

それで3年3か月たったときに、一応、『召集解除』っていうのがあるんです。「もうどうぞお帰りください」っていうんで、帰って。家に帰って1か月後にまた赤紙が来た。それが今度は、わかりませんけどね。赤紙では「どこへ行く」っていうことは。
「○月○日、京都府支部に集合せよ」っていうことで、とるものとりあえず行くわけですけれども。

大連(ダイレン)に上陸してはじめてわかったんですがね、『関東軍の衛生勤務ほう助』っていうことはわかったんですが。

勇ましく、待ってた召集令状が来たから。「今度は国内じゃなくて外国へ行ける」そういう気持ちですよ、当時のわたしは。「戦地へ行くことが出来る」戦地、第一線じゃ当然ないですけどね。日赤に入った目的も、だんだんかなえられてきたっていう。そういうことなんですよ。

それは弟なんかがフィリピンに行くことを心配したり。「死んでくれるな」そういうのが奥にあって。それとは別に軍国の姉であるから、お国のために。手紙に書いたあの時も、「死は鴻毛(こうもう)よりも軽く、義は山よりも重いんだから、あなたは命を大事な職のために尽くしなさい」って手紙を書いたんですが、それは建て前だったんですね。

それを本心と、当時は本心のように思ってた。みんな、そんなマインドコントロールされてるってのは、そういうことなんかわからん。そういうことだろうと思いますよ。子どものころからそういうふうにずっと、それは個人差はありますけれども、そういう環境の中で育ってきて。「お国にために働け」と言われて、「働こう」と思ってきたわけだから。それが念願だったわけなんで。というのが建て前だったんでしょうね、建て前を自分では本心と思ってた。

でも弟が死んだと知ったときに、これ敗戦後ですけどね、天津で、ほんとにほんとにひと晩じゅう涙が出てて。翌日もう、皆さんの前へ出るのが恥ずかしいぐらいね。それが本心だった、わたしの。「鴻毛よりも軽し」なんて手紙に書くのは建て前だったと思うんですね、今。
だからみんなあの当時の、軍国の母とか、みんな建て前で生きて、本心を中に包み込んで。その建て前も本心のように思ってたんじゃないですかね、あのころに生きた者は。個人差はあっても。

それは本心じゃない。軍国の姉の建て前だったんでしょうね。それを本心のごとく書いてしもうた。あの弟にも会ってないんですけどね、19歳、駅でこうして別れてから。

そう、生まれてからね、ずっと小さいときから教え込まれた、「こうあるべきだ」という建て前が、そういう方向に考えることが、自分の本心っていうふうに思えていたんじゃないですかね。あとで思うんですよ。ほんとの本心が、かたいかたい地殻を破ってマグマが噴出するように。

わたしがね、それを思うのはね、フィリピンに行った弟のことを、そういうふうに思いながらも、お正月に零下何十度のとこを歩いて部隊へ行きながら、「フィリピンの弟は大丈夫だろうか、元気でおってくれればええが」と思ったんですよね。これが本心であったんであって。

みんな、建て前を本心と思い違えてるような。でない人もいたと思いますけどね。批判的に見る人もわずかに。
大多数がそういうふうに、建て前を本心と思い違えてた。これがよくいわれるマインドコントロールっていうもんかなあと思って、されてしまってた。だから満州行くのもそれほどびっくりすることじゃなかったし。そういうふうにして戦争へ突入したんですね。

外科と内科病棟と、伝染病棟っていうのが主体だったんですけどね。わたしたちが部隊の本体だったんですね。200人あまりの患者さんだったと思います。

当時のね、看護というても、非常に医療もね、低い低いレベルですからね。ない。ない。乏しいということと。内科病棟にいるときに、だいたい主としてマラリアとね。それから熱が出たりして、よく調べてみるとチフスであって。で、急性伝染病棟へ送る。

それから、高熱が肺炎の場合もある。チフスの場合、肺炎の場合。それからマラリアはね、よくわかりますけども。というようなんで、結核っていうのもあったわけですね。たんを調べると、菌が出とるというと結核病棟へ。それが慢性と急性が同じ隔離病棟だったんですけどね。

それはまともな看護じゃないんですけどね。まず内科から、菌が出たから慢性の結核病棟へ、というときにね、わたしは、当時はね、死の宣告なんですよ。結核菌が出たっていうたら。

内科病棟から患者さん連れて、結核病棟行くんです。入り口に網戸があって、そこを開けて中へ入ると、靴の消毒するビチャビチャのカルボル粉かなんかの、そこで消毒して入っていくんですよ。

そこを開けて入るときね、この患者さん、死の宣告を受けて門をくぐったような、患者さんも気持ちでしょうけど、わたしたちもそう思ってましたからね。あれが非常に気持ちが、結核菌が出た人を連れて行くのが、精神的に苦しかった。

それから伝染病棟行きますとね、急性伝染病棟っていうと、日本の国内では「法定伝染病」っていってね。法によって隔離する。しないといけないような腸チフスとか発しんチフス、パラチフス、赤痢、細菌性赤痢とアメーバー赤痢があります。そういうのが主だったんですけどね。

患者さん、チフスというのは、パーっと、40℃、39℃以上の熱が出て。稽留(けいりゅう)というんですけどね。下がらなくて、高温が続くんです。1週間も10日も。そうするともう、脳症状を。頭がおかしくなる。そしてチフスだったらね、下血。血液がバーッと出て。

今だったらありましょう、ブドウ糖とかビタミンとか無機質入れたの。あんなのないんですから、当時は。食塩水、生理食塩水とか。5パーセントのブドウ糖を、ここへ皮下に入れるんです。ここ。足のももに。

そうすると、血管じゃないからこう、ふくれてきますね。そうしてこうして、熱いタオルで軽くもんで、吸収するように。その程度の。だからあの時ね、栓ぐらいしてたんでしょうね、右と左のももに。それも中身も、いろんな今のようにね、いろんな無機質類とかビタミン類も、エネルギーの糖もすべてを含めたもんでないですからね。

水分補給、通すとかね、食塩を補給する程度だったですね。ですからね、口がからからになってね、脱水でしょうね。シーツをたらたらっと、下血するんですよ、血が。腸チフス。そういう状態で、熱もずっと高いですから、頭もおかしくなって、亡くなる人が。青年たちが多かったんです、亡くなる青年が。今の医療だったらね、完全に救えると思うんですけどね。伝染病棟の死亡率が高かったですね。

そこの病棟に40歳ぐらいのね、少佐でね、入院してた。彼はやっぱり年多いでしょ。40歳だったらね、もう若い20歳と違うんですね。あれは発しんチフスだったかな。とうとう亡くなったんですけどね。忘れてしまいましたけども。毒素との関係、心臓との関係があったかどうか、もうわからなくなりましたけどね、忘れて。亡くなったんですよね。

今思うとね、病気になったのを治療して、再びまた人を殺して、自分も死ぬる可能性がある前線に送り出して。そういう仕事だったなあと思いますよ、わたしたちの仕事が。

Q:看護をすることが。

うん、看護をすることが。われわれの看護が、また死の前線へ送るわけでしょ。人を殺す前線。自分も殺される。そういう仕事だったですね。思います、今。

うれしかったですよね。元気になって。本当によぼよぼだった若い少年兵が、あのときも、下痢でもう本当に、40~50歳のおじいさんのようになってた人が、青年、本当に美少年になっていったんですけどね。写真も家にありましたね、どこかに。見れば。

はたして生きて日本に帰れたか、死んでしまったか。南方ですからね。何人もそういう人たちが。

やっぱり戦争っていうものが、どんなに無意味なもので。無意味なものでね、罪深いもので、と思います。

アメーバー赤痢でね、アメーバー、細菌性赤痢かな。1日にね、トイレは100回っていうようなのがあるんですよ、皆。50回、60回、100回。

排便が。あの当時の赤痢では。それで、元気な人はトイレへ行ってね、今日70回とか。もう非常に衰えててね。肛門がね、締る(しまる)力がもうないんです。だから、筒のようになってね、ここからタラタラタラタラ、出っぱなしなんですけどね。

ちょっとやっぱりおかしいですねえ。いや、看護のやりがいとか、看護を深く考えるっていうようなものでなかったように思いますよ。ただ入って来る傷病兵を一生懸命で、当時のレベルでですね、看護して、そして戦地へ送り出す、それをやりがいとしてたように思いますよ。

ほとんど感じてないんですよ、おかしいけど。ソ連が参戦したっていうでしょ。北の方ですから、師団は大体南ですけど、だんだんこちらへ侵攻して来てるらしいって。自分たちはまあ、言われるままにこう、行く存在だからかもわかりませんけどね。あんまり感じてないんですよ。

9日ですもんね。そして15日があれなんだけど、拉拉屯っていうところにいたんですがね。分院の1,000ベッドのバラック建ての。コウリャン畑が周りにいっぱいあって。そして「『終戦の詔勅(しょうちょく)』を聞きなさい」っていうのがあって、聞きに行ったんですけど。まあよくわからなかったけれども、どうもおかしいっていうことにはなってたんですがね。

8月9日以後は断片的にソ連が侵攻して。だんだん侵攻して来てる、というのは入って来てたんですけどね。われわれのところまでも。でもねえ、わたし個人はそれほど「どうしようか、どうしようか」とも思ってないんですよ。これもお任せっていうあれなんでしょうねえ。気持ちがもう、言われるままにっていう。そういうあれだったんでしょうね。
そして8月15日になって。

Q:9日から15日まではいつもと変わらない業務だったんですか?

そうです、そうです。ただね、患者さんの移動があったですね。「○○へ患者を移せ」っていうんですか。あんなのにね、北の方へ患者さんを転院させる、っていうようなのもあったりしたんですよ。「どういうことかなあ」と思って。北からソ連が来るのに。

命令で「○○へ転院、転院」ですからね。あれもおかしい。何でソ連が来たというのにあっちの方へ移したんかなあ。上の方ももう、わからなくなってたんじゃないんですかねえ。わかりませんね、わたし。そして8月15日にいよいよ具体的に管理し始めたのは、壕(ごう)があったんですけどね。こう、ずーっと深い谷が。掘ったのが。病院の周りに、拉拉屯に。1,000ベッドの、バラック建ての病院に。
そこへね、書類を皆入れて焼くことになって。一晩中。こう、大文字の火のようにね。
壕の中で火が燃えて。

Q:書類を投げ込んで。病院関係のですか?

そうそうそう。書類を投げ込んで。わたしたちの私物も皆ね。持って逃げられないように。「私物も皆捨てなさい」っていうことで。今でもアコーディオンをふぁーっとほうり込んで。カメラなんかあのころ持ってる人、めったになかったのに。カメラをほうり込んだりね。「もったいないなあ」と思ったんですけどね。
それでわたしたちも、背負うだけの荷物にしたんです。日赤の医嚢(医のう)っていって、荷物を入れるこのぐらいのズックがありますけどね。それひとつにして。

Q:じゃあもう、そのかばん・バッグひとつで逃げるっていう態勢になったんですね。

バッグ、このぐらいのね。下着類やら全部入れるのがあるんですけどね。

Q:そういうときは病院とかに衝撃が走ったりしなかったんですか?ざわざわしたり。

うーん、それは走りましたね。走りましたけれども、わたしたちは他力本願っていうか、言われる通りに行動するっていうんで。「どうしようか、どうしようか」とも思ってなかったですよ。もう、記憶が薄れてるのかもわかりませんけどね。

Q:すみえさんはそういう状態だったっていうことですが。ざわついてたっていうのは、ほかがざわついてたっていうのは、どんな状況だったんですか。

それはまず、それを焼くことと、どんどんどんどん焼くことと。それからその晩にわたしの同級生が、「動けない重症患者さんに青酸カリをしたのよ」って言ったんですよね。それがいちばん大きなあれですよね。あとは物を焼いて。そして翌日、雨の中を荷物を背負って錦州(キンシュウ)の駅まで歩いて行ったんですけどね。拉拉屯っていうところから。何里ぐらいですか。何キロですかねえ。よくわかりませんけど。3キロか4キロぐらいですかね。4~5キロあったかな。

Q:すみえさん、同級生の看護婦さんがそういうことをしたのは、なんのためだったんですか?

それはまあ、「命ぜられるまま」っていうことですけども。重症患者さんでチフスの患者さん・赤痢の伝染病患者さんを連れて、移動する自信がない、っていうことなんだと思いますよ、部隊として。確かにそれはそうだけども。

伝染するということと、食べさせたり排せつやら。そりゃあ考えてみるとなかなかできないですね。そういうところを考えたんじゃないかと思いますけどね。再起不能の患者さん。うーん。しかしなんともいえない悲劇ですね。

八路軍の管轄下に入ったときに、「日本人の医療従事者、30人ほど出してください」。すると、安東(アンドン)在住の、難民がいっぱいあふれてましたけど。「『生命・財産は守るから』と八路軍が言うから、あなたたち行ってくれないか」っていって、日本人会 会長さんから言われて。そしてくじ引きして、30人が行った、っていうことがあるんですがね。それから、八路軍での生活が始まる。

八路軍には非常に、そういう技術者がない状態だったですからね。

Q:医療の。

うん。いてもね、院長とかっていうのは、衛生部長っていうのが、軍区 衛生部長っていう、衛生部っていうのがあって。わたしたちが連れて行かれる所は、岫岩(しゅがん)っていう所なんですけど。一応岫岩はね、元満州、満軍、満州国軍の兵舎だった所を病院にしてたんですがね。今から病院が始まるっていうところだったんです。

まあ30人。みんなで行くんだから。八路軍っていうのは、『共産匪賊(ひ賊)』っていうふうに思ってましたから。恐ろしいと思ってた。けれどまあ、30人一緒だからと思って、行った。

Q:でも、いやだなあと。

いやだと思いました。「ここにいたら帰れる。早く帰れるかもわからんが、八路軍に行ったら、どうなるかわからない」と思ってましたから。

Q:恐ろしいことが待ってるような気が。

しました。だからあの、婦長さんが青酸カリを、「早まらないでください、早まらないでください」って、涙ながらに渡されて。それを持って。「いざというときにはこれでどうぞ、死になさい」っていうことなんですけども。

「どうなるかな」と思って。共産匪賊のもとへ行くのに。それで、途中で、中継一泊したんですけどね。でも、接触した。するに(すると)、全然そういう、匪賊的じゃないし。やっぱり、紳士だったですよ。ボロはまとえど。女・子どもの捕虜とかね、婦女を辱めないっていうのが、『三大紀律』になる。『八項注意』っていうのにあったんですね。あとで聞けば。


すすけたような真っ黒い、汚れた患者が、痛がった、痛いときね、ものすごく、ほんま、目を三角にして、「日本鬼子(リーベンクイズ)」って、「日本の鬼」っていって、わたしたちを怒るんですよね。まあ、動けないから。口だけでののしって。そういう、一晩中やって。

痛いし、今まで日本にいじめられてきたから。「日本鬼子」「日本鬼子」っていうのは、向こうの、日本人見れば「日本の鬼」っていって。あのころ言うてましたんで。それで、怒ったんですよね、痛いことをしたっていうことで。そうしてひと晩じゅうして。夜が明けるころに。

それから、八路軍との行動が始まったんですけどね。その、日本鬼子(と言った患者)もね、やがて八路軍の幹部。っていっても25~26才ですけどね。「われわれを苦しめたのはこの人がたじゃないんじゃ。日本の軍閥、日本の大資本と独占資本じゃから。この人がたはわたしたちと同じように被害者なのだ」と言うて。印刷物とか新聞とかがあるわけじゃないですから。口ですからね。口で伝えて。そしたらみんな、『日本の朋友(ほう友)』『日本の同士』っていうようになって。部落の人たちはですね。

そこはね、やっぱり前線ですからね、今思うと。まあ、わたしたち、ひとつも恐ろしくなかったんですよ。「国民党でも八路軍、どっちがどうなってもええ」と思ってるから。時々、部屋からね、パーッと出て行くんですよ。こう、こんなにして。わたしたちのいる部屋の隣が、委員長と指導員と。通信員っていうんですが。その人ら、窓の外へパーッと飛び出ていく。やっぱりあの、戦線と近いから、国民党とのいろいろ、あったんでしょうね。それからあの、外のホウハンズっていうんですが、食堂、厨(くりや)、炊事場、大きな炊事場があって、どんどん炊くんですけどね。豚の頭が5つも6つも並べられてて。そこの外に患者を運びにいくために、ロウバイシンっていう住民たち何百人か、担架を持って。

夜ね、その患者さんがズラッと並んでるところをひとり、夜勤して。「あら、これはわたし、現実だろうか?」ふっとおかしくなってね。「夢じゃなくて現実なのか」と。あのとき、本
当に思いましたね。見ればやっぱり、中国人の患者がズラッと寝てるでしょ。「ああ、やっぱり現実か」あのときのことはよく頭に浮かんできますね。まだ、八路軍へ行って1か月半ごろですからね。敗戦後、半年ですよね。そして、彼らはね、医療を受けたことがないから。裸で寝るんですよ、真っ裸で、ズラッと、全員。

不思議な感じになったんです。「あら、やっぱりこれは本当。ここ、ずらっと並んどるのは中国の患者さん。ああ、こういうことになってるなあ」と思うて。その患者さん、注射というのはめったとないんですよ。皮下注射というのは指示が出とったん。誰が出した、日本人の医者かどうか知らん。皮下注射をしようと思って行くとね、「医療を受けたことがない」って言う。びっくりして恐ろしいから、真っ裸のままタッターと逃げてね、青年が。できなかったことがありますけどね。針を刺されるっていうのが恐ろしかったんでしょう。

Q:日本兵を看病するときの気持ちと、八路軍兵士を看病するときの気持ちは、違いました?

特段どうこう、というようなものは、なかったように思いますね。ただそのときは、まだ日本は「中国は劣等国民で、われわれは偉い」と思ってるときですからね。でもこういう現実。でも、与えられたものを。それに、前の続きでしょうね。流れに沿うて、命ぜられるままにやる、っていうことがあったんでしょうがね。

それで帰れることになって。遼東半島だったから、スターリン管轄だった。ソ連のね。スターリン管轄下の、「日本に帰る意思のある人は申し出なさい」で、申し出て。「じゃあ、大連の収容所に集まれ」っていうことで、何百人か、千人ぐらいかもわかりませんが、大きな収容所に入って、乗船番号をつけて、船に乗るのを待ってたんですよ。そしたら八路軍が、「日本人 看護婦医師、返してください」って言うてきて。わたしたち、隠れてた、みんなの前に。そして2日、3日、毎日言うてきてですね。収容所長、ソ連大尉だったんですが、収容所長、最初「ここはソ連の収容所ですから、八路の人がなんぼ言うても心配いりません」とか言うてたんですがね。だんだん日がたつに従って、その収容所長も名前を呼び上げて「返事しなさい」。そして3日目ぐらいにね、ナカイ先生、われわれのいちばん頼りになる中心の。「はい」って言うてしまったんですね。言わざるをえないようになって。

Q:もうあきらめて。

あきらめて。それで、ナカイ先生が「はい」って言ったから、わたしたちも「はい、はい」って言うて。トラックに乗せられて、「じゃあ帰ってくれ」っていうことだったんですよ。大連の町をトラックに乗せられて、どっかで泊まることになっとったんですが。わたしたちが、トラックの上でみんなが大きな声で泣いてたんですよね。そしたら、それを見つけたソ連の、やっぱり少佐ですけど、あそこの市役所にいたんでしょうけども。夕暮れ迫る大連の町でしたから、その人がつけてきて、あとを。わたしたちが、八路軍・八路の人たちがわたしたちを入れた、ここへ泊まるっていう予定にした、旅館みたいなんだったんですよね。

また帰れなくなって、天津まで行ったわけですよね。命ぜられるままに、あっちへ行き。それから朝鮮戦争のときも、この先生とわたしたちが、日本人は5~6人、中国人は何人いたか。鴨緑江の川の、どのへんですかね。桓仁、かんじんっていうような所だろうと思うんです。また電灯のひとつもない寒村に行って。朝鮮戦争の患者さんを、そこでまた収容して。八路軍の前線の看護と同じようなのをして。ここもね、10日から2週間で、今度天津に行ったんですけどね。そこから。

転々とね。人によればね。わたしたちと別な行動をとった人は、とうとう河北省、黄河の向こうの、揚子江のまだ向こうのほうまで、ほとんど歩いてね。時々乗るんだそうです。行って。あっちの南のほう、よくもよくも中国大陸を歩いた、っていうて聞く人もありますけどね。そういう歩いた人も。わたしたちはまあ、天津止まりで。

Q:すみえさん、朝鮮戦争で戦った兵士の看護までされてたんですね?

そうなんです。それは。

Q:ほとんど、やっぱり、運ばれてくるからですか?

これは安東にいたときね、安東、丹東(タントウ)、鴨緑江の朝鮮国境。今、新義州(シンギシュウ)と丹東をよく、自動車が行ったり来たりして、朝中の貿易かなんかが盛んに行われているというのを、テレビでよく出ますけど。また、まわりまわって安東に帰ったんです。

安東がね、一夜にして兵の海になったんです。兵隊が何千か何万か、知りませんがね。林彪(リンピョウ)率いる第4野戦軍っていうんが、海南島のほうから、志願軍っていう形ですかね、朝鮮戦争。安東市に入って。翌日病院へ行ってみたら、安東省立病院っていうのにいたんですけどね。内科外来にわたしはいた。待合室が全部、兵士になっとったんです。一夜、一晩にして。翌日。それが4~5日。4~5日か1週間続いて。そのころ、朝鮮戦争はだんだんひどくなって、安東にも爆弾が落とされたりしてた。

そしたら朝鮮戦争、だんだんひどくなっていったでしょう。中国ではね、「抗米援朝」-アメリカに抗し朝鮮を援助する、っちゅうスローガンが、よくあったんですけど。あそこにいろいろね、朝鮮戦争も。北が出たっていう話ですけど、押していって、今度はアメリカ軍が国連軍という名で押してきて。そのころに安東のほうにも、中国のほうにも爆弾が落ちてたんですね。誤爆かなんか知りませんけどね。それで、わたしたちまで防空壕(ぼうくうごう)掘ったんですよね。その時、しばらくしてから、火の海になって、志願軍っていう形で何万か来たんでしょうね。そしたら、何日かたったら、病院行ってみたら、スーッとひとりも患者さんいない。兵隊さんいなくなって。わたしはね、鴨緑江が爆破された直前じゃないかと思うんですがね。ザーッと朝鮮へ渡ったんですが。安東集結しとった軍隊が志願軍として。それから間もなく「朝鮮戦争の患者収容のために、鴨緑江のここらへ行きなさい」っていうので、行ったんです。

Q:患者を収容して。

うん。今度はね、朝鮮戦争でアメリカ軍に追われて、どんどん逃げてきた朝鮮軍が中心に。人民自衛軍じゃない。中国の志願兵もいたかもわかりません。朝鮮の人がほとんどでした。金剛山ですかね。オウホン山じゃない、金剛山ですね。朝鮮の北のほうの。あそこらを逃げてきて、中国国境のほうに逃げてきて。運転の技術がないんだそうですよ。それであの。

Q:それで転落して。

転落したケガがいっぱいで。金剛山からの道の下を見ると、トラックがいっぱい落ちてて。そのケガ人なんかもすくいあげたんでしょうね。それとか、弾に当たって。それで凍傷。ここに弾が当たって。寒いときですから。こっから下が真っ黒、紫黒くなってもう、再生不能になっとるんですね。そんな患者さんがたくさん来て。これはまた今度は昼間に治療、その治療して、要手術を記しといて、今度は夜中に手術をするんですがね。電灯のない村ですし、手術室があるわけじゃない。なんかの集会所かなにか土間に、手術台っていう、本当の手術台じゃないベッドの、処置手術台的なベッドを置いて、真夜中に切断術するんです。日本人のナカイ先生とわたしとオガワさんっていう人。4人でね、一晩に4本ぐらい、手やら足を切断するんですがね。腐る。腐ってるから。電灯がないから、こんな大きなろうそくを4~5本立てて。点滴注射っていうのがないんですよ、そのころまだ。点滴注射ひとつもない。電灯もないところで、今では麻酔とかなんとかいって、ドクターが2~3人で麻酔しますでしょ。だからね、主としてわたしが麻酔してたんですね。

そうしてひと晩じゅう、手とか足とか、4~5本切断して。それを木の箱、そうめん箱、じゃ、なんかありました。それに入れておいて、翌朝また、わたしたちがその箱を引っ張っていって、穴を掘って、手や足を埋めとくんです。あんなことをしました。

上の弟はわたしと会えなかったんで、あれが17歳ぐらいか18歳ぐらいで別れたのが最後ですけどね。わたしを自転車に乗してね、もらって。ほいで、わたしの同級生で亡くなった人があったんでそこへお参りに行こうと思って、あの田舎を自転車の後ろに乗してもろうて、あの弟がこいで行ったんですけどね。あれが最後になりました。あれなんか18歳ぐらいだった。

癒やされないということでしょうね。あのときの歌はね、これはちょっと、はじめがないとわからない。えーとね、えー。「弟を 思えば涙出るなり 2008年 車窓は盛夏」っちゅうんですがね。この間、電車の中でこう、ちょっとあんなことすると、ちょっと心慰められる感じがする。あれからもう60、70年、60年余り、70年、60年余りたってる。それで、永遠に少年ですからね。

わたしは中国にいるときに、中国人べっ視とか朝鮮人べっ視とかそういうものが、やっぱり小さいときからいつの間にか、おのずからあったのが。天津にいるときに中国人の医学生のフーワンフーという人と話したときに、彼の言った発言の中からわたしは「目からウロコが落ちるというのはこんなのかな」と思って、ハッと思うて。自分たちのそういう、日本人は一等国民とか東洋の盟主とかね、それがどんなにばかげたうそであるかということを自分で思うて。

Q:それは、フーワンフーさんがなんて言ったからですか。

彼が言うたのは、「自分はいま、非常に悩みがある」と。「その悩んでいるのは、単純技術観点だ」って言ったんですね。「単純技術観点」といえば、いわば「技術主義」というか。「わたし、自分が今一生懸命で勉強したりしているのは、患者のためにということじゃなくて。まぁそれもあるけれども100%そうじゃなくて、自分自身のために知識欲とか技術を高めようとかそのためであって。本来、患者のためであるべきなのに、自分は自分自身のために勉強しとる部分が非常にある。ここを克服できない。それがわたしのいちばんの悩みだ」って言ったんですね。その時に、ああ、この人がたは、わたしたちが中国人、いちばん友達であったんですけど、「やはり中国人」と思っていたし。「『中国人』と日本人がいっているこの人がたは、われわれよりもまだまだ高い次元で悩んでいる。悩みを持っている」と思うたときに、「自分たちがいかに、バカげてるか」と思ったんですがね。

無医地区だった。福島。被差別部落で無医地区だった。医師が成り立っていかなかったらしい。何回か開業する方があったらしいですよ、何度か。それで医者にかかれずに亡くなっていく人も多いし、子どもなんかは、病気が進み早いですから非常に困っている。「自分たちで診療所を作りたい」という取り組みを何回やっても失敗したんだそうで。それで今、「去年作ったばっかりで、事務長1人、医師が1人と看護婦1人、そういう所じゃけれども、あなたそこへ行かないか」って言われたんですね。それ「日赤行くのもいいけれども、そこでそういう無医地区で働くことが、より意義があるんじゃないか」って言われてわたしも考えて。「それはそうだ」と思うて。「じゃあそこへ行こう」と決心したんですけども。親や家の者は皆、反対しましたけども、反対されればされるほどね。あそこへ行くことを家の者が反対しなければならない、そういう所だからこそ「わたしは行く」っていうて、行ったんですね。

やっぱり、そういう医師がなくて医療を受けられずに死んでいく。そういう差別されているゆえに。だから「ここで働いて、ここでの人たちが医療をまともに受けられるように、少しでもすること自体が、医療の面でも差別をなくすることにつながるんじゃないか」そうも自分で考えたんですね。それで、「差別ということがどんなにバカバカしいことだ」っていうことは、フーワンフーの話を聞いたときに自分で思うて、以来、そういうわたしだったんだろうと思いますね。

ああ、やっぱりなんていうんですか。戦後の自分のほうが本当の自分であって、戦中、特に戦中は非常に浮ついていたというか、なんていうんですかね。元気よく走り回ってやってたけれども、どう言うたらいいか。中身がない。やっぱり言われるままに、自分で主体的にやったことでないからですかね。福島は、反対を押し切ったり、初めて自分自身で行動したわけですから。それまでは命ぜられるまま。そこらの違いがあるんじゃないかな、と思うんですね。

出来事の背景

【従軍看護婦が見た戦争】

出来事の背景 写真太平洋戦争中、召集を受けたのは兵士たちだけではなかった。日本赤十字社の従軍看護婦として三万を超える女性たちが戦場に送り込まれていた。

中国大陸、東南アジアの戦場に送り込まれた看護婦たちは、医薬品の補給もままならない中、傷病兵治療の任務にあたった。
戦争末期になると、追い詰められた戦場で、過酷な運命に巻き込まれた看護婦も数多くいた。連れて逃げることのできない重症の兵士に劇薬を注射するよう命じられた人、中国人捕虜に対する生体解剖に立ち会わされた人、ジャングルの中をさまよった人、集団自決に追い込まれた人。中には、終戦後、その技術を求められて中国八路軍に従軍させられた上に、朝鮮戦争に巻き込まれた人もいる。

太平洋戦争中、赤紙で召集された日本赤十字社の看護婦は3万5785人、殉職者は1120人に及ぶ。

証言者プロフィール

1920年
広島県佐伯郡に生まれる。
1940年
召集、京都陸軍病院高野川分院配属。
1943年
召集解除。二度目の召集。旧満州錦州陸軍病院に配属。
1945年
拉拉屯分院で敗戦を迎える。11月、中国共産党八路軍に従軍。
1950年
朝鮮戦争で中国の義勇兵の治療に当たる。
1953年
帰国

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