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タイトル 「見捨てられた兵士」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争 ] 従軍看護婦が見た戦争
氏名 奥村 モト子さん(従軍看護婦 戦地 フィリピン(マニラ)  収録年月日 2008年6月24日

チャプター

[1] チャプター1 国のために尽くしたかった  04:18
[2] チャプター2 日赤看護婦養成所  00:39
[3] チャプター3 フィリピンへ派遣  05:10
[4] チャプター4 兵たん病院  02:00
[5] チャプター5 戦場にまん延していた赤痢  02:55
[6] チャプター6 米軍上陸  06:33
[7] チャプター7 迫りくる米軍  03:53
[8] チャプター8 密林の逃避行(一)  07:05
[9] チャプター9 密林の逃避行(二)  06:42
[10] チャプター10 これで楽になれるのなら…  03:25
[11] チャプター11 終戦  04:42
[12] チャプター12 引き揚げ船受け入れ  05:17
[13] チャプター13 戦場の看護  04:11

提供写真

再生テキスト

「わたしのところは女ばっかりで役に立たない家なんだな」というような気持ちでいたところに、女学校の卒業の年に日赤から、その病院船で赤十字の看護さんたちが傷病兵を一生懸命看病している。この波がきつい病院船でもみんな吐いたりしながらでもね、かいがいしく看病してるような写真(映画)を持ってきて、そして「こういうふうな仕事があるんです。すばらしいお仕事があるんですよ。女性でもこうやってお国のために尽くせるような仕事があるんですから、どうぞ皆さん、そういうふうなお仕事に就きませんか」というような勧誘にきたんですよ。で、学校の講堂でその写真(映画)を見て、みんながもう、本当にもう感激したわけ。

映画です、映画です、『病院船』っていうね、そのとき、オオタケヤスコ(大岳康子)さんという従軍看護婦の方が『病院船』という、病院船に乗っていてその手記を書いておられて、そして本を出しておられたんです。
で、そういうふうなものを本で読んでたけど、実際映画を見せられるとね、ものすごくみんな感激して。そうしてみんなもうポーッとなってしまって

感動しましたよー。「ああもう、あんなすばらしい仕事があるんだったら、ぜひ日赤の看護婦になりたい」ってね、燃えてました。

だからそれぐらい徹底してたんですね。それがいちばんその、自分たちがお国のために直接役立つ仕事っていうんだ、と思ったんです。

戦争は日本の国のためばっかりじゃなくて、アジアの国々のね、結局そのころはみんな白人支配だったでしょ。オランダやイギリスやらフランスやらに、みんな東南アジアなんかでもみんなそういうふうになってるから、まぁそういうところはやっぱりそのなんていうの、「東洋」の、「東洋」って言ってましたけど、「東洋平和のためには日本が立ち上がらなくちゃダメなんだ」とか、そういうことを教育されているものですから、その批判のことばもいっぺんも聞いたこともなくて、してると、子どもってね、純粋でしょ。わたし今、ほんと思うんですけども、白生地みたいなもんですよ、白い真っ白な。それをそのいろんな教育の力で、どんな色にでも染められる。赤にでも黒にでもね。

で、わたしらはもうその、白生地の純粋な、本当にもういちずなきれいな純粋むくな気持ち、子どもの気持ちを軍国主義というのにほんとに染められたんです。もう何もかにもがもうすべてです。もう驚きますよ、今考えると。

あの子どもの遊びでね、お手玉っていうのがあったんですよね。それだってね、その歌を1から10までのその数え歌ひとつで遊ぶんでもね、日本という国は、一でいちばん強い国。二で憎いはロシアの兵、日露戦争のときね。

三で、一で「日本という国は、一でいちばん強い国。二で憎いはロシアの兵。三で栄える、栄える」なんだったっけな、「わが兵は。三で栄えるわが兵は。四つ弱いは支那の国。五つ戦で負けどおし、六つ向こうへ逃げていく。七つ泣き泣き逃げていく」そんなこと言うてね、もうなんでもがそういう歌です。

死んだらもう名誉だと思いました、そのころは。それで、わたしが死んだらたいへん名誉な、それこそ『誉れの家』じゃないけど、そういうふうになるというふうに思ってました。そういうふうに教育されてました。だから、死ぬということはね、なんていうのかしら、誇らしいようなことに思ってましたよ。

ああ、それはうれしかった。飛び上がるようにうれしかったです。それでもね、その時分にはね、言論の自由というのがなかったから、ちょっとでもその戦争に批判的なこと言ったら全部投獄されてたんですって。で、そういうことは子どもだから何も知りませんので、わたしらは、知らせてないのでね。

それと、言論の自由かなかったのと、それから報道がね、制限されて、不利なことは全然報道しなかったから、わたしらはそれがわからないから、そのニュースでも映画なんでもニュース見てても、みんな勝ってるような戦の場面しか見せてもらえませんでしたから。

で、わたしらが行くときにはもうすでに、あっちこっちで玉砕もあったんですね。

捨て石みたいな時だったらしいんですけど、そういうことは全然知りませんでしたのでね、わたしら。で、わたしらが行ったときにはもう相当状況が悪かったんですけど、全然わからなかったんです。

で、マッキンレーという所にあって、それはマッカーサーがオーストラリアに逃げていった、日本の、初めは日本人が勝ってたんですから、その司令部のあった所にわたしが行ったんです、最初に。

立派な所でしたよ、うん。それ置いていって、なんでもかんでも置いていったから、米軍の病院のあとにわたしは行きましたから、まぁびっくりしました、そのときには。もう電気冷蔵庫なんかが寄宿舎にありましたから、今から六十何年も前のことですし。日本では冷蔵庫のある所なんてないし。あっても氷の塊をなんかこう冷蔵庫に入れて、そういうふうな時に電気冷蔵庫がちゃんと寄宿舎にありましたしね。

ほいで洋式便器なんかでもどんなにしてするのかわからないから、わたしが上にまたがって、そしてそういうふうなことで、今思うと笑い話ですけど、看護用具でもいろいろおもしろいことがあったんですよ。

何に使うのかわからないで、全然わたしらはそのころ、アメリカのその看護用具なんかでも「これは何に使うんだろう」というのがあってね。そして、ちょうど浮袋ね、浮袋のように膨らしてあるずーっと周り。だけどその、中が全部ゴムなんです、ゴムの周りが丸く膨らんで、それでそこからずーっとゴムが丸くなって、シューッと長くゴムのものが垂れてるんです。

で、それは何するんか言うたら、頭を洗うんですね。ほんで、そのこの中に水が外にもれんようにこうなって、ここに頭を置いて、そしてゴム浮がそのままこうなっていますから、洗うとずーっと水が下のバケツに流れるようになってるんで。

そういうことを知らないので、わたしらは伝染病棟ですから、もう赤痢やらなんかでものすごくたれ流しの患者さんたちがいるのに、それを『失禁浴』っていってね、お尻に当ててたれ流してくるのを下にバケツに受けてました。で、頭と下と全然違うそういうふうなひとつのね、例をとると。

そして、みんなもう伝染病で腸チフスの人なんかも40℃近い熱発して熱に浮かされて、もううわごとなんか言うような人には、とにかく氷で冷やさなくちゃならないですけど、それまでわたしらはその、日本では全部キリでもってこんな氷の塊をこうやって、チョンチョンチョンチョンしてはそれを水枕に入れてしてましたでしょ。だけど砕氷機っていうのがありました。そしてもう機械でダーッと小っさくなったのを。またそんなのをね、今の人に言ったら「なんだ」と思うか知りませんけど、そのころはほんと驚異でしたよ。

結局はみんな兵隊の、なんていうんですか、気持ちそのものが日本の兵隊のその気概と全然違って、弱虫の兵隊だと思ってたんです、白人はみんな。そんなふうに思ってたんですね、「こんないいものを持ってながらみんな置いて逃げるってなんて、なんたることか」と思ってましたもん、その時分はね。

患者さんにしたら、「日本の女性をこんな遠い外地で見るのは初めてだ」って言ってたですね。そしてもうとにかく、なんていうんですか、どんな激務でも、ひとっ言の愚痴も言わずにとにかくもう、コマネズミみたいに働くので、びっくりしてました。びっくりしてました。

それであの、わたしたちが、とにかくたれ流してもうする人のおいどを一生懸命きれいにしてると、後ろの人が済んだ人がちょっと見たら、こうして拝んでましたもん。わたしらを、うん。こうして拝んでまして。ほいで「いや、こんな汚いことを自分の親兄弟でもしてくれるやろうか」ということはよう聞きましたね。ものすごくだから「看護婦さん。看護婦さん」って。「ありがとう。ありがとう」言うてね。重症患者でももう虫の息みたい人でも、こんなんして拝んでくれてました。

それで、ちょっとこう、まぁ、ちょっと元気になったような人たちは、毎日そうやってとにかく一生懸命次から次から働いているのを見てるもんだから、ちょっとラブレターみたいなものを書いてね、ポケットの中に入れとおるんですよ。で、全然私知らないのね。ほしてから、あそこに行って手洗いをしてこう、予防着を脱いだときにポケットの中に何か紙切れがあるから、それ読んだらね、笑えてくるんですよ。うん。

もう、赤痢の人なんかひどいもんでしたよ。で、わたし、きのうもちょいと同僚の人たちといろいろ話したんですけど。赤痢の人っていうのはもう、ちょうどイチゴにミルクをかけたようなもん、イチゴにミルクをかけたような赤い血液が出てきますでしょ。そして粘液が出てきてますのでね。粘血便(ねんけつべん)っていうんですけど、そういうのがダーッと出てきて、その便を少しでも腸から取り除かなくちゃいけないでしょ。

それでわたしらが考えたのはね、今でも炭の粉っていうのはいろいろなものを吸着するじゃないですか、炭はね。それで、冷蔵庫に入れるキムコ(消臭剤)なんかでも、みんなあれ、炭の粉みたいですね。

で、わたしらは消炭作って、それを砕いて砕いて粉にして、生理食塩水に溶いて、エルイーエイトっていって大きなこんなのがあるんですけど、それに入れてそこからずーっとゴム管の先につけて、それをおいろんな肛門の中に入れて、その炭の粉で洗うんですよ、腸を。ほいで腸を洗って、ずーっと入ってくると、患者さんがもう我慢ができないようになったらそしたらそれを抜いて、そしたらダーッと出てきますやん。そんなのがもういっぱいかかるんですけど、「いやぁ、かなわんなぁ」と思いませんでしたね、不思議と。バーッとかかってきても、「それで当たり前やろ」思うてました。ゴムあれをしてますけど。

だからあの、なんていうのかな、ほんまに純粋な気持ちでしたね、はい。「こんなえらいこと、ようせんわ」なんて、全然思いませんでしたね。時間外がなんともなんとも、そんなことも何も思いません。

それでそのことを思うとわたしは、わたしの青春というのは、とにかく欲得なしに「これはよいことだー」と自分で思ったことを、とにかく一生懸命にやったというのが青春だったんだなぁと。今、そんな気持ちに美しい気持ちになれるやろうか、って、今の若い人たちが、と思うんですよ。何事にもほんとになんにも欲得なしにね、自分がやりたいということを一生懸命やった。まぁそれが、あとは報いられずに戦争が終わったんですけど。だけど、そういう気持ちに一時的でも、若いからこそああやってなったのかな、あれが青春かな、とわたしは思ってる。

もうちょっとの間にもう、そんな病院の機能ってなくなってまって、一気に爆撃でね、やられてしまって。たった1日でやられたんですからね、びっくりしますわ。

わたしらはまだ、生きてるって言ったら悪いですけど、まだその息のあるような患者さんは、朝までに退避させることが仕事ですよ。担架に乗せて林の中に運んで、ほいでそこで結局、ウジ虫のわいたそれをね、一生懸命そのウジ取ったり、ほいでふいてあげたり。大便が出たら、便器がないからバナナの葉っぱでおしめカバーしたりして。そいで、その人の着てるようなシャツをおしめの代わりにしたりしてね。そんなことですよ。

ほいで、夜になって夕方になったら、その林の中から担架でまた元の病室っていうんですか、病室じゃなくてもうその辺の学校、小学校を接収したりしてそういうような所を病院にして、そこへ運んでくるだけのことなんです。
で、わたしらの体力が弱ってね、1人の患者運ぶのに4人看護婦がないと運べないんです、担架を。2人でこう抱えるだけの、4人です。4人で行ったり来たり行ったり来たり。朝なんかになってくるともうヘトヘトになって、「ああ、看護婦さん、早く連れていってくれー。もう敵機が襲ってくるー」っていって患者さんにせかされてね、もう大変でした、この時には。

それで、ある日なんかもう、バナナの林の中で退避さして、1日爆撃、銃撃をするのをもう、向こうのするがままに任せられて、何も反撃ができないで、そして病院が燃えてしもうた。

で、病院に向かってね、病院がそのときに、トタン屋根の小学校のあれ、講堂みたいな所だったかな、そこに十字の大きく赤十字のマークをして、「ここが病院ですよ」っていうふうにしてあったんですけど、そこをものすごく集中的に銃撃してきた。そいでわたしはその時に「あー、このアメリカっていうのは、国際法でそういうことはしたらいかんというのに、なんていう国だ」と思いました。ね。

病院船に、たくさんの関東軍の元気な兵隊さんたちを乗せて病院船で運んでいるのが、そのレーダーやらでずっとわかって、そしてその、また、司令部が病院のほうに入ってきて、「病院の中だったら大丈夫だ」というので司令部が入ったとか、そういうようなことで全部向こうにもれて、それでもってそういうことになったということを、あとで終戦になってからニュースで知ったんですよ。ほいで納得がいったんです。「あ、そういうことをしたから向こうも報復してきたんだな」と、「なんで病院ばっかりやられるんやろうな」と思ったんですよね。

でももうそれが最後で、あれ終戦、20年の6月、もう病院が焼けてからは竹ヤブの中に、『竹ヤブ病院』っていってほんとに、向こうの竹というのは、日本のように竹ヤブが1本1本立って生えてるんじゃなくて、こう集団で丸くなって、竹が。そしてワーと、こういうふうになって枝垂れてるんです。で、その竹を切らないように、自衛でね。いっぱいちっさなとげが下はあるんです、竹が切られんように。それで、その下にみんな枯れ草やらを敷いて患者さんたち寝かせてるような、そんな状態でしたよ、最後は。

そして、「もう日本軍ももう全然1機も飛行機も飛んでこないし、もう何も補給がないから、そんな頑張っててもしようがない。これはもうとにかく退却していくのが仕事で、早いうちからもう、反撃してもしようがない」というのでどんどん逃げていって、元気な兵隊さんはどんどん前線の兵隊さんが逃げていって、その間に患者さんたちを置いていくから、わたしらがいちばん残されたわけですよ。

そして、敵のほうから迫撃砲とかそういう長距離砲で、逃げていく兵隊さんのほうに向かってダーッと撃つ弾がもう、わたしらの頭上をはるか越えて、逃げていく所に。そうすると寝てる患者さんはね、やっぱり兵隊ですからわかりますしね。初めヒューンっていうて見たら、ずーっと北の三角地のほうもダーッと飛んでいくし、青い光で、「あれなんだろう」って言ったら、患者さんが「えらいことだなぁ、もう敵がそこまで来て、もうここはもう通り越していってるからそこまで来てるんだ、敵は」って初めて知りましたんやで、そんな状況を。

そして「そしたらどうなるんだろう」いうことになったら、「もう今晩のうちに北のほうに向かって逃げてくれ」って言うんですよ。そうして今晩のうちに、1本しか道がないからその道は戦車が通れるような幅の道で、あとの道はみんな獣道(けものみち)みたいで、もう細い細い道だし、その道を今晩のうちにある程度の所まで逃げんことには、あしたの朝になったらもう戦車がそこに来るから、ってそんなこと言われてあなたもうどうしようもなかったです、その時に。

そうしたときに悲劇が起こって、「早く逃げてくれ」と言われても患者さんがいるのに逃げられませんやろ、わたしら。な。そしたらこの患者さんはどうするんだ、ということになったら、もうどうせだめなんだから動けないんだから、敵の戦車で殺されたりするよりは日本軍の手で始末したほうがいい、ということになったわけなんですね、そのときが悲劇でしたね。

もう本当にあのときだけは動転しましたわ。ああ。そしたら患者さんの中ではね、「看護婦さん、もう自分はダメです、もう動けないから、自分たちのために看護婦さんたちが犠牲になることないから、早く逃げてください」って言って一生懸命説得するんです。わたしらを。

そして、それでもうわたしはどうしていいかわからんで、ウロウロしてもう右往左往しとったら、「早く行けー」「早く逃げんかー」とか言うて、うなる患者さんもおるかと思ったら、「置き去りにせんといてくれー」「連れてってくれー」っていう叫びとがもう交錯するんですよ。

それで衛生兵の人たちに、「この人たちを始末するのに手伝ってくれ」ということでね、それどういうことをするかといったら、そのときにはクレゾールっていってね、消毒液があったんです。それをその消毒液を注射する。そうしたらものすごい暴れて苦しむし、何ももうなかったら、空気を入れれば亡くなりますわね、静脈に。空気栓塞(せんそく)っていって、血管の中に空気入れたら、血が行き来できなくなるので必ず死ぬんですけど、もう七転八倒の苦しみなんですよ、亡くなるまでに。

それで、ぶった切ったりそんなことしては殺せないし、鉄砲の弾もそんなないんだし、手りゅう弾ででもそんなもったいない。手りゅう弾をそんなの。そういうことでもってわたしらに「手伝ってくれ」って言ったときに、あの岡山班の婦長さんだったか看護婦さんだったかがね、「わたしたちは赤十字の看護婦です。あなたたちは軍人ですよ」って。「軍人同士のこれは戦争だし、わたしら看護婦がそういうことに加担はできない」って。「わたしらはとにかく人を助けるための使命で来てるんだから、その人をわたしたちの手で殺すなんてことはもってのほか、できません」っていうことで、初めてわたしらみんな結束して反抗したんですよ。

だから日本の軍隊というものはもう、上司に向かって命令に反抗したら大変でしょ。だけど「わたしらは看護婦で軍人じゃない」ということで、それを受け入れてくれたんですよね。それでわたしらは、「助けてくれー」「置き去りにせんといてくれー」という声をもう、ほんとに耳ふさぐようにして逃げたんですよ。で、そのときに、一緒に逃げられない、もう体力の弱って病気で寝てる看護婦さんたちは、もうだめでした。

で、その時がもうわたしらが、わたしらはその広い道から、広い1本の道、山岳地帯に行く道からこう入ったところで病院を開設してたから、そこに出ないことにはその道から下に逃げられないので、その晩に夜に9時ごろでしたね。その命令が夜に出たときに驚きました。その道に出たときに。

もう、道がいっぱいの兵隊さんなんです、この、逃げてくる兵隊さんでいっぱいなんですよ。それでもう、ずいぶんたくさんの人たちはもう行ってしまっているんですけど、そこから北へ向かって。で、もう最後に近い逃げてくる兵隊さんたちが、「こんな所に女がいるぞ」って言うんですよ。わたしたちを見て。「女がいるじゃないかー」ってこう言われたです。そいでわたしが「女女(おんなおんな)言わないでください。わたしら看護婦ですから」って、そのときに言うたんですよ。そしたらな、「あ、そう。そうですか。そりゃすまん。すまん。早よ逃げましょ」言うて、それからわたしらを押すようにしてね、もう「やれ行け。やれ行け」ですよ。

そんな状況になってても、わたしらはまだ「日本は勝つ」と思ってたんですよね。それがわたしはほんとに今考えるともう、不思議でならない。「日本は神の国で、神風が吹く」とか、そんなこと信じてたんですよ。どんな状況になっても「必ず日本は勝つ。最後は勝つんだ」なんて言われて、それを信じてたっていうのは。だから恐ろしいなぁ思いますね。

だけどもう、そこがもう最後の、早く敵の弾が飛んでこん所まで逃げていけ、というところからが、本当の地獄でしたね、それからがね。ほで、逃げていく間に、川があって増水してもう橋が流れる寸前にわたしら渡り終わって、そしてあとに残ったもう、橋が流れ河原に残った人たちは、みんな戦車にひかれて死んだっていうんですよ。で、それが在留邦人がほとんどだったっていうんですね。

そしてだんだん、兵隊さんたちの逃げ足のほうが早くなってね。そして邦人がだんだんだんだん置いていかれて。で、「兵隊さんについていかんならんから」と思って、ほんで昼間は絶対、ジャングルに潜んでいないと銃撃やら爆撃やらにやられるのに、昼間歩かんことにはついていかれない。

みんな、わたしらはみんな兵隊さんもみんな晩ばっかり歩くんですから、夜、夜行軍ですから。昼は危ないから。だけど邦人はもう、昼も歩かんならんで。あれがいちばん悲劇でしたね。見て、ほんとに。あれだけは忘れられんな。
あのときに初めてね、初めて思いました。「聖戦」「聖戦」って、「戦争っていうものは、日本の国のためにとっても--なんていうんですか--正当化されたように、これ本当に本当だろうか」と思ってそのとき初めて思いました。こんな悲劇見て、これでね、これで戦争というものを、まともに「これは聖戦だ」なんて言われるけども、と思って。初めてその時に「おかしいなぁ」と思って疑問を持ちましたね。

行ってるとそこに邦人が死んでる。で、お母さんは、邦人のお母さんが乳飲み子を抱えてね。そしてやられて、機銃掃射で自分に。そしてそこで倒れて死んでるんですけど、赤ちゃんだけは生きてたわけよ、おんぶして。その赤ちゃんが、その死んでお母さんがもうかたくなってね、お乳でも、もう出なくなってるでしょ、もちろん。そのお乳をね、一生懸命吸うて泣いてるんですよ、わーわー。

で、それかと思うと今度はあの、死なないで足やられて全然もう動けないお母さんが、子どもに「お母さんはもうダメだから、兵隊さんについていきなさい」言うて、一生懸命に子ども説得してるんです。だけど、子どもがお母さんの手を、2人ぐらいの幼い子がこっちとこっち手を持って、お母さんを一生懸命起こそうとしてね、泣いてるんですよ。
そうすると、わたしらが通ると、「お願いしますー。この子をお願いします」言うてもう、拝むんですよ。で、兵隊さんもたくさんいるんですけど、誰ひとりその子を連れていこうという人がいないわけね。

だからもうあの時になったら神経がおかしゅうなってしまって、もう人のことなんて全然もう、わが身ひとつどうしていいかわからないような状態でね。ほんとにあれは、今は悲劇だなぁ、思って、自分が。

そしてもう、子どもが死んでるのに、もう死臭がしてそれこそもうその、なんていうんでか。病人がもう、人の死臭っていうのはまた格別な臭いがしますのでね。それをほかの人が「捨ててくれー」って言うてるんですけど、それが赤ちゃんが捨てられない、負うた子を。そんなお母さんもいました。だから、邦人のそういうのを見て、ほんとにわたし、その時のもう、衝撃でしたね

あのね、それはあの、歩けなくなったら置き去りですよね。それで、ある地点までたどり着いて、そこでまぁ、その辺の川に行って何か取ったり、草を食べられそうな草を取ったりして、そして命をつなぐ何日間の間に亡くなる。そういう亡くなり方です。それで、結局は栄養失調とマラリアとか赤痢とか、そういうことで亡くなるんですけど。それはもう、本当に悲惨なもんです。

夕方、飯ごうで草のおかゆを作って、それにお米粒をチョボチョボのっているようなのを飯ごうのふたに載せて、それで持っていくんですけど。もう草がバーッと、ススキみたいな草が立ってるんですけど、そこの近くに行ったら、ボーッといっぱいハエが舞い上がるの、パーッと。それで草分けて見たら、いっぱいもう真っ黒にハエのウンコがついてんねん。

それでね、わたしを見たらボローッと涙を流して。ほいで、終戦になって収容所に担ぎ込まれた時でも言うんですけど、「ハエがいっぱいたかってても、こうやって退ける元気がなかった」って言うんです。それぐらい弱ってたんです。それでも助かったんですよ。

もう、その時分にどう。まぁあの、それまでは、「捨て石になるからこんなになって死んでいくんだ。これもしかたがない。お国のためだ」とずっと思ってましたけど、米軍に捕虜になってからほんとに目が覚めした。初めて。ああ。
「こんな戦争なんて、どうしてしたんだろう」という、なんかそういうことを思うようになりましたね。で、「こんだけ考え方も違うし、物量も全然違う、こんな国とよく戦争する気になったなぁ」と思って、つくづくそう思いましたね。

あのね、だんだんね、感情というものなくなりますね。「ふるさとが恋しい」だとか。それで自分で思ったんですよ。「これでも人間かな」と思いましたね。何もそういう感情がわかないんです。不思議でしたよ。
ただね、「食べるものがないか」ばっかり思いましたね。ほいで、「餓鬼ってこんなものかな」と思いましたよ。「飢餓ってこういうものなのかな」と。ほいで、「人間って、食べるために生きてんのやろうか」なんて思いましたね、疑問を。

「生きるために食べるのか。どうして。どうなんだろうか」もうそれが疑問でしたね。とにかくもう、何かとにかく食べるものないか、そればっかりでしたよ。

感じなくなるんです。もう。それはもうほんとに情けないですね、あとになって考えると。あの時それで、そしたら死んだらいいんじゃないかっていって。ほいでその、死ぬことも生きてることがね、意味がないな、とは思いました。「なんでこんなふうにして生きて、何の意味があるんやろな。そんなら死ねばいいじゃないか」と思って自問自答してましたよ、みんな。

ほな、「死ぬ」って、「死ぬ」ってはじめのうちは潔いように思ったけど、意味がないのに死が死ねない、自分で死ねない、というのがもう歯がゆかったですね。それだけは強烈にもう、今でも。「なんで死ねないんやろう、情けないなぁ」と思って、そう思いましたよ。

だから、死んだ人を見たらうらやましいとは思いましたね、それは。特に谷川なんかで、末期の水を思い切り飲んだりしてそこで死んだような姿を見ると、「ああ、きれいだな」と思いました。ほんとにまぁ。

髪なんかでもサラサラーっと、谷川の水でこうしてね、きれいな感じですけど。そうじゃなくて、そこの辺で死んでる人っていうのは、もうそらひどいもんです。もう、ウジ虫がわいて、それはすごいですもんね。もう山中もう、「死体芬々(ふんぷん)、さんきすゆ」って言うて軍医さんが詠んでるけど。どこででも死体はあるんですから。

ウジが食べて。で、白骨になってね、してるともうきれいだなぁ、と思います。ウジに食べられてるとき見ると、「いやぁ、死んだらこんなになるんだなぁ。死ねないなぁ」と思ったり、白骨になっているのを見ると、「いやぁ、きれいね。こんなに死体になったら、死んだらこんなになるんだなぁ」なんて思ってましたけどね。見てたけど。

「ウォーンウォン」っていうような音よ、響きがちょっとあるようなね。今思うとね、「あのウジ虫、食べられんかったんかな」と思います、今思うと。「人の肉を食べたんだから、あのウジ虫食べられるのかな」と思ったりして。

確かにもう死体は、死んだらすぐに食べられた、ということを聞いてますね。食べられた人もいるということは。それは人間の肉を食べて、それはいちばんよろしいやねん。ほんまに、生きるためには。

「婦長さん、フィリピンから生きて帰ったそうですね」って言うから、「はいそうなんですよ」って言っていったら、そしたら「僕も生きて帰ったんです」っていって患者さんが言われて。「あ、そう」って言って。「どこでどうしたの」とかいうて話聞いてるうちに、「僕はフィリピンから生きて帰ってきたということは、一切言わないようにしてるんです」って、その人がおっしゃったんです。

で、「どうして」って言ったら、「自分は、戦友がフィリピンで亡くなったから、帰った時にまず、そこのお母さんの所に行って、その戦友の亡くなったことを伝えなならん、思ってつらかったけども行ってお母さんに話したら、お母さんがもう烈火のごとく怒って『お前がわしの息子のなんたらいう名前の肉を食うて、生きて帰ったんだろうー』っていって、ものすごく怒った」っていうんですよ。「もうそれを聞いてから、自分はもう絶対『フィリピンから帰った』ということは、もう誰にも言わないんです」って、患者さんがおっしゃったことあるんです。

自分のこんな状況ではあかんな、思うていても、どこかでは勝っている、ぐらいに思ってましたもんね。それで「捨て石になるんだ」なんて聞いたから、「あ、そのうちわたしらも死ぬときが来るんだな」というふうに思ってました。で、手りゅう弾も持たされたし、その死に方も使い方も教えてもらってね。そしたらもうしまいには、これぐらいの鉄の塊(かたまり)が重たくてかないませんでしたわ、こんなの。

それで、その手りゅう弾で、「命令があってから使うように」って言われてるから、それがえらいから自決している人もいるんですよ、命令までに。そして「バーン、バーン」って、ジャングルの中で爆発音聞くたびに、「あ、また誰かが手りゅう弾で死んでる。あの人、楽になっていいなぁ」なんて思いましたね。

だけどその、死んだ自殺した人のそばに行ったときに、「あ、手りゅう弾で自殺したら、こんなぶざまな格好になるんだな」と思ったら、それもちょっといやだなと思いましたね。

手りゅう弾で絶対に死のうと思ったら、その手りゅう弾をね、信管というのがあるんです。それ抜いて、で、ボンと衝撃を与えて、そのおなかと胸の所にしっかり抱かないとダメなんです。怖いからとか言うて、それをしっかりとフワっと抱いてたら爆発するから、内臓がバーッと飛ぶんですよ。で、腸なんかもう7~8メートルの長さあるから、それがウワーッと飛んで、その辺の木にウワーっと巻きついたりして、そんなの見るとね、「ああ。わたしらも『死んだらうらやましいな』思ったけど、こんな格好になるんなな」と思ったんです。

婦長がおりますんや、わたしらのね。「手りゅう弾を出せ」って「見せれ」っていうことで検査があるから、そんな時に「ない」なんて言ったら大変な怒られ方ですしね。それで「手りゅう弾がなかったら自決できなかったら、どうするねん」って言ったら、うちの婦長はすごい人でね、「首切ってやる」言わはったんですよ。恐ろしい思いました。そんだけ気合いが入ってたんですよね。

自分の部下がその、みんなが手りゅう弾で自決するのに手りゅう弾も持ってなくて、そしたら、「自分の責任だから自分か殺してやる」なんて言われて、びっくりしましたわ、その時。

それはそんなぶざまになっているとは思わんから、「あ、もう、ああやって死ねたらあしたから食べるものを探さないでもいいし、いいな」思いました。で、「人間ってなんのために生きてるんだろう」と思いましたよ、最後のころは。人間ってね、食べるものがなかったら死ななきゃしようがないんだし。食べるために生きてんのかなと思ったり、そんなこと思ってね。

それまでは毎日飛んできた爆撃機やら銃撃が全然、ピターッとやんで。おかしいなぁ、と思ってたらいろいろデマが飛んでね。みんなはこう包囲されてしまって、みんな日本軍は何もせんでももう、自滅してしまうと。みんな。食べものがなくて。だから、むだな兵器を使ってそんな殺さんでもいいんだ、っていうことをいう。袋のねずみになったんだ、ということを聞いたんです。

ほんでわたしらは、「あ、もうこれで一巻の終わりやなぁ」と思いました、その時に。そしたら、飛行機が飛んできたらビラがいっぱい落ちてきてね。で、結局その、「戦争が終わった」というビラですよ。だけど、それ見たって誰も信じませんでしたね、まだ。「そんななぜ日本が負けるか」なんと思ってましたけど。

あのときはだから、米軍のほうからその、落ちてくるその紙切れを見て、わたしらは紙なんか久しく見たことがない生活でしょ。それで、汚い話だけども、もう食べるものが木の葉っぱとかそんなものばっかり、木の葉やら草を食べてるからね、ちょうど汚い話ですけど、大便ってほとんど出ないんですよ、出ても「どんなことか」と思ってその草の葉っぱでふいてみるとね、ちょうどあの青虫をプチッとつぶしたときの青い、あんなのなんですよ。で、いやぁ、これ人間のほんとに排せつ物かと思いましたね、その時には。ショックでしたわ。ああ。

緑色の、ちょうど青虫つぶしたような。ほいで自分でかいでみましたけど、便臭はあんまりしなかったですよ。ほんで、人間ってこんなでも生きてるんだなぁ、とは思いましたね。

そしたら、その紙が落ちてきたからその紙を見てね、初めてね、なんかホッとこうわれに返ったような気がしたですね。ほんで、その紙を見たらあの、早くに捕虜になった日本人がおったというので、びっくりしました。その写真が目隠しをして、そしてその、「もう戦争が終わったから、早く出てきて。米軍の供与を受けて元気になった自分たちは、こんなに元気になってます」なんていって書いて、その捕虜になった人たちの写真が出てた。

「へえー」思って、わたしらね、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱め(はずかしめ)を受けず」いって戦陣訓というのに、「絶対日本人は、捕虜になったら生きたらいけない」という規則になってましたよ。捕虜になったら死ななくちゃいけない、まぁとにかく舌かんで、どんなにでもして、首つってでも死ななくちゃいけないって、生きてたらいかんっていうふうなのに、こんなにして捕虜になる人がいたんだなぁと思って。そのときびっくりしましたよ。

そしたら次から次からと、山へ残っている人たちに投降していく場所を指示されて、そして「山道をとにかく、マニラから90キロ離れた所に、米軍のその収容所を開設しているからそこへ。どんなことがあってもとにかく、頑張って出てきたものに対しては、必ず日本に責任持って返してあげるから」っていうていうことを聞きましたので、それからわたしたちは、その生き残ったものたちがつえをついて、一歩一歩まぁ歩いていったんですけど。

その間に何日かかって、どんなふうにしてそこへたどり着いたのか、それが記憶にないんですよ、わたし。自分でこう手記を書いてるんですけど。その間のことが。とにかく一歩でもつえついて歩く度に、「あ、日本に近づいた。また日本に近づいた」と。その記憶はあるんですよね。だから「あ、元気出して歩かんならんな」と思ってそうやって歩いたので、何日かかってどうしたのかなぁと。うん。

それで婦女子はまた問診をして、で、暴行を受けたかどうか、そういうことを聞いて、そして「受けた」ということになったら、妊娠をしてるかどうか、ということをちゃんとして。そいで、妊娠をしていることがわかったら、そこで堕胎をしてたんです。

引き揚げてくる人たちの中から病人を探して、その病気の治療をすること。その病気によって、伝染病は伝染病のほうにみんなこう振り分けてたんです。で、その仕事をある程度したら、今度は引揚船に乗ってその外地の港に行って引揚者を収容してくる、その2つの使命があったんです。

面接。聞かないけないですからね。ほいで、桟橋(さんばし)からおりてくる人でね、だいたい女の人で、まぁ普通の、この人ぐらいだったら強姦(ごうかん)されてないかな、というような人たち・女の人をとにかく「ちょっとこっちへ来てください」言うて。あの桟橋の所に立ってて、ずーっと誘導してくるんです。

で、別の部屋に連れていって、その人たちにそのことを聞くわけです。だけど、「はい」なんていう人いませんよね、すぐに。ほいで、情けなさそうな顔してね、ものすごく泣きだしたりするからわかるんです。ほんでわたしらは、今から聞くことはもう、決してあなたが悪いことしたということじゃないんです、ということでね。その今の日本の事情から、そういう時分で理不尽なね、そういう強姦(ごうかん)をされて、もし妊娠してたような場合に、あなたがどんだけ苦労するかわからないんだ、って。だから今、ほんとに真実のこと、ありのままを話してくれたらあなたのためなんだ、ということを一生懸命、懇々(こんこん)と話すんですよ。

そしたら初めて、「そういうことがありました」って言うてくれる。そういう人があった人を、またトラックに乗せて連れていってたんです。

ほんとに過酷な勤務でしたけど。それはもう死体の処理からなにからね、もう。こっちでもう「看護婦さーん、隣の人が冷たくなりました」ちうのは、イワシの缶詰みたいに船倉にみんな並べられて寝てるから、死んだら冷たくなる、いうのがわかってくるんですよね。伝わってくるんです。

「冷たくなりましたよー」言うたら、看護婦たった2人しかいないんですよ。で、その人たちを亡くなったことを、その一緒に行ったお医者さん、ドクターっていうのもそのころドクターが少ないから医学生です。九州大学の医学生でね。もう卒業間際の医学生2人と、それでその人たちに死んだことを確認したら、その人を船倉から上に連れていって。

そして上でムシロがあって、そのムシロ広げて、その死体を全部巻いて、そして縄で縛って、そんな仕事までしてました。ほいで船にずーっと並べて亡くなった人を。そしてある所まで行ったら、航海士というのが航海日誌に、「北緯何十何度、東経何十何度で、死体か何体あった」って、そこで葬り、水葬にするわけですからね。

それでその水葬にするのは、わたしたちがちゃんと縛って並べた人が、もう寒い時はカチカチになってみんな凍ってますから。ね。ほいで、船員さんたちが一斉に、海にバーッとほうるわけですよ、死体を。で、死体をほうったら、その浮いてきてますのよね、みんな。だから浮いているから、そのまわりをグルッと船が回ったら、大きな渦潮(うずしお)が巻いて、ザーッと沈んでいくのが見えるんです。甲板(かんぱん)から見てると。それでその沈んでいくのを認めて立ち去るわけです。船が。「早よ行け」って。

そしたらあの渦ってね、こうしてその海の底にポンとついたら、反対にあがってくるんですってね、渦が。それで上にまたあがってくる。それをフカやらあんなのが、食べにくるためにそれを食べるために、船にいっぱいついてきてるんですよ、大きなフカやイルカやらが。ほんで「あれ、なんでやろ」と思って、「残飯食べるのかな」と思ってたら、船員さんが「あれは、死体を食べるためについてきてるんです」って言ってましたけど。

そしてあの外海で航行中に亡くなった人は、みんなそうやって死体をね、水葬するんですけど。




一生懸命やったけど、何にもかいがなかった、っていうことですね。やったけれども、みんなもう亡くなっていったでしょう。それが一生懸命やって元気になって、元気な姿を見せてくれて、だったらやり甲斐(やりがい)があったんですけれど。一生懸命やったわりにはみんな亡くなっていったんですしね。

だから、それはほんとに残念なことだと思っています。自分らのしたことが報いられなかったということね。一生懸命やったのにそれこそ、報いられなかったけれど。こういう。それでみんなが「戦争」っていうものの、なんていうのか、「戦争っていうものがこんなにもたくさん命をむだにして、そして人類のためにもほんとに罪悪だ」っていうことがわかったから。

まぁ、わたしたちはとにかくもう「傷病兵の看護が国のためになるんだ」っていう、そういういちずな気持ちでそれを必死になってそういうふうにやったわけですけど。それが結局は今の話、あんまりかいがなくてね。そういう、一生懸命したわりには報いがなかったから悲しいなぁ、っていう気持ちはずいぶんあります。

でもそれが戦争に勝ったとしても、はたしてそれがうれしかったかどうかはわかりませんね。勝ったとしてもたくさんの犠牲が出てるんだしね。

戦争そのものが殺し合いでしょ。そのものが。だけどそのときにはそういう戦争が正当化されてたんだしね。「戦争はいけない」っていうことの教育じゃなかったからね。だからもう再び行って、戦争で死ぬかもしらんけれども、それはしかたがない。とにかく自分たちは、自分たちの任務を一生懸命遂行するだけだ、というふうに思っていましたからね。

戦争になるとどうしても病気する人、傷つく人がいるから、看護はどうしても必要ですよ。どうしてもそれは必要です。

わたしたちは、今思うと、自分たちがあれほど一生懸命したけども、患者の命を助けてたとは思いませんね。

ちゃらんぽらんな、こんなこと、なんて思いながらしたんじゃなくて、もう一生懸命自分の情熱を傾けてやったことがそんな無になってしまったけれども。これはやっぱり国の、わたしは国を恨んでます。そういうふうなことにした、ほんとに。

だからそれの、なんていうんですか、まぁそういうことに対するひとつの、どう言うたらいいのかな、まぁ言うたら、悪いことに、今でこそ悪いことになりますけど、その時にはそれが悪いことをしてるようには思いませんでしたものね。国の方針がそうだったんだから。国のそのあり方に、国の始めた戦争に一生懸命協力したわけですけど。

出来事の背景

【従軍看護婦が見た戦争】

出来事の背景 写真太平洋戦争中、召集を受けたのは兵士たちだけではなかった。日本赤十字社の従軍看護婦として三万を超える女性たちが戦場に送り込まれていた。

中国大陸、東南アジアの戦場に送り込まれた看護婦たちは、医薬品の補給もままならない中、傷病兵治療の任務にあたった。
戦争末期になると、追い詰められた戦場で、過酷な運命に巻き込まれた看護婦も数多くいた。連れて逃げることのできない重症の兵士に劇薬を注射するよう命じられた人、中国人捕虜に対する生体解剖に立ち会わされた人、ジャングルの中をさまよった人、集団自決に追い込まれた人。中には、終戦後、その技術を求められて中国八路軍に従軍させられた上に、朝鮮戦争に巻き込まれた人もいる。

太平洋戦争中、赤紙で召集された日本赤十字社の看護婦は3万5785人、殉職者は1120人に及ぶ。

証言者プロフィール

1925年
朝鮮全羅北道の全州に生まれる。
1944年
日赤看護婦養成所朝鮮本部卒業後、京城支部に召集。マニラの第63兵站病院に配属。マニラ空襲後、中部ルソンのカバナツアンへ患者とともに移動。
1945年
バヨンボンの134兵站病院へ転属。6月、キヤンガンに向けて敗走。9月、投降。カンルバン捕虜収容所、モンテンルパ刑務所に勤務。
1946年
8月、引き揚げ船で帰国。

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