ホーム » 証言 » 村山 三千子さん

証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る

タイトル “死ぬことは当たり前” 番組名 [証言記録 ] 従軍看護婦が見た戦争
氏名 村山 三千子さん(従軍看護婦 戦地 満州(東寧) 中華民国  収録年月日 2008年7月14日

チャプター

[1] チャプター1 従軍看護婦として戦場へ  03:52
[2] チャプター2 「赤紙」が待ち遠しかった  00:59
[3] チャプター3 満州の病院へ  06:02
[4] チャプター4 劣悪な環境下での治療  01:23
[5] チャプター5 自決を考えた終戦  01:41
[6] チャプター6 ソ連の捕虜になる  04:21
[7] チャプター7 シベリアの収容所  01:48
[8] チャプター8 次々に倒れていく日本兵捕虜  04:05
[9] チャプター9 発疹チフスにかかる  03:11
[10] チャプター10 中国共産党軍へ合流  04:28
[11] チャプター11 長い間口にできなかったできごと  04:07
[12] チャプター12 故郷へ  00:50

提供写真

再生テキスト

もう死ぬ覚悟よ。死ぬということは名誉だったの。だからね、そんなに怖いこと思わないのよ。最初からね、最初からもう軍人になるということはね、死を覚悟。

だからこの赤紙の召集を受けてね、お宮さんで村長さんが挨拶したあとに私に挨拶しろ、と言う。そんな前で挨拶したことないんじゃない、何ていいかわからない、ブルブル震えながらね、「行ってきます」って言ったらダメなの。「皆さん、ありがとうございました」って。「いってきます(逝ってきます)」って。行って帰ってくるということじゃないのよ。「いきます(逝きます)」って。ということは「死んでこい」ということなのよ。「私は戦地に行ってね、死んで天皇陛下様のためにね、忠誠を尽くします」ということなのよ。だから「行ってきます」じゃないの、挨拶する時、「逝きます」なの。

もう「死ぬ」ということは何でもなかったの。当たり前だったの。日赤の看護婦に入った自体がもうね、死ぬということを全然怖くなかった。怖くないしね、もう当たり前に死んで、戦地へ行って死ぬ、ということは最高の栄誉だしね。お国のため。「お国のためは天皇陛下のためだ」っていう考えがあるからね。それ以外のことは考えないの。
だから全然ね。でも、死がどんなものか。自分はそういう人をいっぱい扱っているけども、そのころはまだそんなに激しくないじゃない。地方の病院じゃない。だから全然ね、考えてないけど、死ぬということは怖くなかったの。栄誉だったの。

だからほんとにね、今みたいに。今だったらやっぱり死ぬということ怖いよ。だけど、全然、その当時は死ぬということが当たり前でね。もう名誉で、戦争に行くんだから死ぬことは当たり前だって。

あの軍人勅諭(ちょくゆ)というのはね、「死は鴻毛(こうもう)より、羽よりも軽いんだ」と。「義」「義」というのは親孝行。天皇陛下に孝行、というのは国のためになるんだって。「忠孝一致」。「忠義」と親孝行の「孝」ね。「忠孝一致」というのをいつも書いて、どこに書いてもそういうのが貼ってあったの。「忠孝一致」。だから「死ぬ」ということは全然怖くなかった。これを書いた頃は。当たり前だし栄誉だったの。だから、徹底した軍国乙女ということよ。

日本は、日本の国はいろんな、それまでに戦争に負けたことないじゃない。あると思うよ。今にこうずっとね、歴史を見ると。戦いに負けたこともあるんだけど、そんなの一切教えないの。

全部、天孫降臨(てんそんこうりん)ね。天照大神(あまてらすおおみかみ)が日本の国に降りてきたんだと。それ以来ね、万世一系(ばんせいいっけい)の天皇をいただいて日本は「神の国」だって。だから絶対に負けないんだって。だから全然「負ける」という気持は持ってなかったのよ。持ってないからね。その「死」「戦死」ということは全然怖くなかった。当たり前だった。旅行に行くような気分だね。

(赤紙が届いたときは)うれしかった。もう日赤を卒業すれば当然ね、赤紙待ってるわけ。そうすると同期生がね、あのころそんなに家に電話ないから手紙で、「赤紙が来てどこそこにきょう行くんだ」って、「戦地に行くんだろうけども、南に行くか東に行くかどこ行くかはわかんないけども、もう行くから」って。
そうすると、「ああ、私も早く来ないかな」って。もうそれ、それを、赤紙が来るのを待ってた。赤紙が来たらうれしくてね、もうどこへも、村中にも全部知らせるし、村長さんにも。

晴れがましい、最高の名誉だったの。

どういう仕事をするかっていったら、カルテ、カルテの整理ね。カルテの整理とその受け持っている軍医さんが診断、回診にまわるでしょ。回診にまわると、軍医さん自身はこの記録するのに忙しいわけ。何十人も持っているから。だから全部、その軍医さんが持っている患者さんのカルテを私が持って、軍医さんと一緒に回診して。で、軍医さんは患者を診ながら、ここ、胸は例えば聴診してね、聴診して打聴診して。「乾性が多い」とか「湿性がプラス」とか「ここ、疼痛(とうつう)あり」とかなんとかしゃべるのを、全部書かなきゃいけないの。私が書くわけなの。そういう仕事なの。

伝染病棟に行ってから、また私、また普通の看護婦と違うような検査係だったわけ。で、そういう死人とかいろんな細菌がいっぱいだったから、そういうのを集めたりそういう仕事だったの、検査係って。検査係はもう、大きな病院だから毎日2人3人は死亡者かあるのね。多いときは5人ぐらいある。それを解剖しなきゃいけなかったの。解剖して、解剖所見を死亡診断書と一緒に、解剖所見もつけて留守家族に送ったわけよ。留守家族の留守部隊に。

留守部隊に送ると、部隊から家族に行くわけね。家族の所轄する村や町に役場に行くわね、市役所に。そして家族に知らされて死亡ということ、戦死ということになる。戦病死ということになるわけなのよ。

だから必ず、1日にもう多い時は今言ったように、何人かを解剖しなきゃいけないのね。そうすると軍医さんも、最初はいろんなものが珍しいものがあると自分で進んでやるんだけども、みんな同じような病気だとね、面倒くさいわけ。そうすると、衛生兵とこの係のわたしなんかにね、「おい、お前たちやっとけ」って。やっててね。「これだけ書類だけ、こうやって書いといてくれ」ということになると、兵隊さんとわたしも一緒にやるわけなの。毎日それ。

いちばん今でも記憶にあるのは「粟粒(ぞくりゅう)結核」って、今はないね、今はない。そのころ「粟粒」というのはね、粟(あわ)、粟粒(あわつぶ)の結核ということなの。「粟粒結核」というのは、頭を開いたら脳みそから全部、体の中全部そのね、粟。名のとおりに、粟の粟粒が全部くっついてるの。頭開いてもおなか開いても全部「粟粒」。だから「粟粒結核」なのよ、それだけは忘れない。今はないよ、そういうのは。

粟粒結核の患者をやったときね、顔なんか覚えてないよ。でもそういうのがあってね。あ、粟粒結核っていうの、こういうのがあったな。こういうのがあった。今はもうドクターなんかも、本ではそういうのがあったということ分かっていても、見た人はいないと思うよ。粟粒結核。今でも忘れない。

それやら腸結核。腸結核というのはね、腸がこの中おなかいっぱいあるわけでしょ。腸の中を結核菌が入っちゃうわけね。その結核菌が食い荒らして、それで大出血するわけ。で、下からドーッと出ちゃうわけね。そういう人が死んだ時、連れてくるともう、おなかの中、腸に大きな穴が開いてその出血したの。そういうのをね、全部ね、腸を出して開いて。で、軍医さんなんかが全部診るわけ。診て、生きてる人の参考に。そういうのはなんていうのかな、学習になるわけね。ずーっと。普通じゃそういうこと出来ないじゃない。

普通の病院じゃ、今だって簡単に解剖できないよ。解剖するということは大変なことなのよ。家族のいろんな書類で、承諾を得て。その時はもう軍隊でしょ。軍隊というのは特権階級なのよ、すべてが。だから軍隊の軍の病院の院長が「やれ」と言えば、全部やらなきゃいけない。何があろうと。だから上官の命令はね、上の人の命令は何があっても即従え、ということなの、それが軍人勅諭なの。

で、日赤の看護婦は、そういう体の看護婦の仕事だけじゃなくて、軍人として、その軍人勅諭というのも、軍人としての教育もやるわけなの。

軍と兵隊と同じに。軍隊の規律から全部、軍人勅諭からね、いろんな軍隊の中での、そういうそこが一般の看護婦とは違うわけなの。だから絶対に、上官のその人のいうことは何があれ、聞き返すこともできないのよ。その人が「やれ」と言えばね、そのことのいかがを問わず直ちに服従せよ、ということなの。それが軍国乙女なのよ。それをまっとうしなきゃいけないの。

「いや」と言えない。「いや」といったらもうそれね。とにかく「いや」と言えないわけよ。反軍人、軍隊に反することになるのよ。命令に反することになるのよ。そうするとそれは罰になるの。軍法会議になる。

あの満州、零下40℃も下がるのにね、上の天窓開けてあるの。だから、寒いのよ。結核病棟に行ったら、ブルブル震えて。患者さんもマスクしてるけど、マスクの上が凍ってるの。で、目もまつげのところに氷がついているのよ。で、布団かぶってこうやって寝てるのね。患者さん。だから、こっちも体温を測りに行ったって寒くてね。スチーム入ってたって、そんなに効くわけないのよ。上の、40℃もあるのに天窓が開いてるの。「どうしてか」っていったら、「空気療法だ」っていうわけ。だから、40℃もあるのにね、零下40℃、どんどんどんどん寒いから、凍っているわけ。そういうことだったの。戦前は。

治療法、薬もない。治療法っていうのは今いうようにね、空気だって。だからって、零下40℃もあるのに天窓開いてるの。だから病室寒くて。患者さん寝ててね、ここが、マスクしてたってここ凍っているし、まつげも凍ってるの。見にいってね、こっちの看護する方も寒くて。寒くてブルブル震えながら行くよ。それでもうね、死ぬよりしょうがなかった。

「無条件降伏した」っていうの。「無条件降伏」なんて聞いたことないでしょ。どんな字を書くのか、「無条件降伏」って、どんな字を書くって、どういう意味があるのかわかんなかった。だって日本はずっと勝っているじゃない。それがね、婦長さんが命令受領に行ってきてね、「日本は無条件降伏した」って。ということは、負けたこと。「へえー、無条件降伏」って、みんなボヤーンとしてんの。分かんないの。意味が。見たことも聞いたこともないから。無条件降伏って、どういう字書くか。それで、しばらくたって、そのね、無条件降伏を見せてもらった。要するに字を見れば分かるじゃない。はあー、もう負けたっちゅうたら、もう生きてはおれないじゃない。ああもうこれ、もう生きちゃおれない、死ぬこと、それからもう死ぬことしか考えなかった。

どうやって死のうかと思った。それでね、そしたら、部隊全部で青酸カリをもらったわけ。

青酸カリをもらって。婦長さんが。全部に青酸カリを、このカプセルに詰めた青酸カリをくれたわけ。で、「これはね、ひとりで飲んではだめだ」って。「飲む時にはね、全部いっしょに飲むんだから、部隊長の命令があって『飲め』って言われたら、いっしょに飲むんだ」って。「勝手にひとりで飲んじゃいけない」ってわけだ。

もう「死ぬ」と思ってた。仕方がないんじゃない。だって軍国乙女だから。負けたら死ぬに決まってんじゃない。死ぬこと怖くなかった。いつでも飲みたいと思った。そしたらね、それから、もう患者どころじゃないよ。下には患者さんいっぱいいるのよ。重症。診ることできないもの。患者は患者でどうしたか知らないよ。私たちは自分の身を守るんでね。そしたら、どんどんどんどんね、患者を送っているのよね。なんかトラックで、どっかへ。「おかしいね、どうするんだろうな」と思ってた。そしたら婦長さんがね、「とにかく持てるだけのね、もう全部荷物捨てなさい」と。「持てるだけリュックに詰めて、それだけでいい」って。

それで、「これからね、どっかへ行くんだから」って。どこ行くとも言わないよ。「行く」っていうからね。で、みんなもまとめて、それで行って、そしたらトラックに乗って、どこ行く、とも言われないのよ。トラックに乗って。トラックもね、座っとったんじゃ(乗れる)人数が少ないでしょ。立ったままなの。トラックのあの荷台に全部20人いっしょに立ったままね。それで、自分で友達と手をつないで、揺れたら落ちるから、手をつないでね。詰まって、「ああもう、これで終わりだな」って。

その青酸カリのあるかないかをちゃんと確かめてね、なかったらみんな死んだのに、自分だけ生きたんじゃどうすんだろう。殺されるのいやじゃない。だから、こう確かめたら「確かにある」って。友達も手をつないでね。「見て。あなたもある」って。「ある」って。いよいよみんなで「『飲め』って言われたら飲むしかないね」って。もう、死出の旅だと思ったの。死に行く、と思ったの。だって、どこ行くかわかんないじゃない。

そしてその山をね、ずっとそこへ書いてあると思うんだけど、2つも3つも砂利道をね、ソ連軍が連れていくわけ。で、途中で降ろしてね。なんかソ連の、ソ連語でガアガアガアガア話しているの。「ああこれもう、これで終わりだね。もうみんな降ろされて終わりだね」っちゅうたら、なんか言葉通じないから、なんかガアガアガアガア、しばらくガアガアガアガアやってたんだけど、そのうちやんで、また動き出したの。車が。だから、あらまた動き出したよ。死ねって言わないから。まだそのままね。立ってたら。そしたら、今度延吉(エンキツ)の捕虜収容所に着いたわけ。

で、ここでね、生活して、患者が出たら東寧陸軍第1病院の私たちが治療するんだっていうことを命令されたわけ。そして、もうね、お前達は死ななくてもいいって。だから、青酸カリは全部没収しろっていうことで、みんなその時、全部没収されたの。それで、「はあー、じゃあ死ななくてよかったんだな」そう思ったら今度ね、生への執着心が出てくるの。ああ、死ななくてよかったんだな。

その部隊長はね、「もう日本は負けたんだ」と。「負けたんだけども、もうこれからはね、死ななくてもいいんだ」って。「これからは生きて、またね、日本はね、また大日本帝国になるように頑張らなくちゃいけない」って。「復興するためにはね、頑張るためには、今死んだんじゃだめだから」っちゅうことで、青酸カリを全部没収された。

ほっとしたね、そのときは。もう、死ななくていいと思った。そうすると、ああ、もう死ななくていいんだな。やっぱり死ぬというのはいやだし。もうそれからは、死ぬ気持ちはなくなったね。生への執着心。これ生きてどうやって帰るんだって。今度帰ること。

でも、そんな暇ないのよ。どんどんどんどんね、元気なのはソ連に連れて行かれて。病気なのがまたどんどんどんどん、がいこつみたいなのがどんどん入ってくる。

もう1日70~80人死んでいるから。どんどんどんどん、ソ連からは病人がどんどんどんどん送られてくる。送られてきたって、みんな死人ばっかりでしょ。戦車濠(せんしゃごう)は死人でいっぱいになっちゃった。今度4月になったら、雪が解け始めたら、あっちもこっちも、部隊のまわりはがいこつがこんなにして出てきた。

終戦が8月でしょ。8月になってすぐ元気なうちに、ソ連に連れて行かれたの。ずっとシベリアに。で、シベリアに行って食べるものもないし、寒くなってきた。どんどんどんどん発しんチフスが出て、帰ってきて、もうフラフラになってね。帰って、またもとに帰って来たの。延吉(注:現在の中国吉林省)に。で、帰ってきた時は、こんななの、もう。そういうのをね、ソ連のあの衛生部というのはね、シラミが原因なのよね。だから、着ているもの全部脱がして、お風呂沸かして。軍隊のお風呂っていうのは、大きいね、大きなセメントのお風呂なの。そこをね、その風呂に入れるのよ。40℃も熱のある患者を。こんなにして。死んだような患者を。

それで、着物全部脱がしてね、その着物を熱で煮沸してシラミを殺すわけなのよ。「殺せ」っていう。それはソ連のね、ソ連の衛生部の指示だったわけ。それを、日本軍は負けたんだから、日本の捕虜がみんなね、軍医さんなんかがそれを。帰って来た人を、衛生兵何人かがそういう担当でね。脱がして、煮沸消毒して、着せて、病室に送るわけ。送るったってボロボロの着物よ。そういうのをまとったって、もう患者はこんなになって。お風呂に入れたって、もう死んだのと同じ。クタってこんなんなって。ご飯も食べれない。そういう人はもう、翌日行くと、もう死んでるの。

もうだって、捕虜収容所でね、1日70人も80人も死ぬ時には、もう隣の、雑魚寝だから。捕虜だからね。板張り(いたばり)よ。ベッドなんかないの。板張り、零下40℃に下がるのにね、こんなところに板張りにずらっとね。わら布団、わら布団と板にずっと敷いて、その上に軍隊毛布っていったら薄いんだよ。今みたいにふかふかじゃないの。そういう毛布をずらっと敷いてて。で、1人に1つじゃないのよ。みんなね、並べて。ベタにだから、こんな寝返りもできないほど寝かすのよ。で、寝かせてて、食べるものもないんじゃない。もうずーっと話しててね、こうやっててもう、隣に寝た人が朝ね、看護っていったって、何にもできないの。熱があっても。発しんチフスで熱があったって何だって。病院だっていったって、捕虜収容所だから何にもできないの。ただね、見てるだけ。ご飯だってないのよ。トウモロコシの煮たのがちょっとあったり、コウリャンだったり。だから、栄養失調でこんなんなってるの。で、やっと息する、心臓が動いているようなね。だから、看護っていうよりか、もうね。その日に『病室』っていったってそんなとこだから、病室に行って見てまわるのも、死んでいる人を、「ああ、この人も死んでいる」。死んだ人をね、外に出して運ぶだけ。

で、亡くなったら、みんなもう、終戦が夏でしょう。夏だから、着ているものみんなボロボロなのよ。ボロボロでもね、寝ている人も生きている人もボロボロの着てるわけ。で、あの当時はパンツないの。フンドシだったの。それで、生きている人、生きている人にあげるためにね、死んでいる人のボロボロでもなんでいい、それみんな脱がして、生きている人に着せるわけよ。だからね、1日70~80人もの遺体がね、本当にがいこつに、なんて言うのかな、もう人間じゃないね。ああなると。がいこつがもう、しゃっちょこぶって寒いから凍っているわけでしょう。こんなんなっているのよ。で、そういうのをね、もうなっているから、そういうのを1日リヤカーを引っ張ってきてね。穴掘りするたって掘れないの。もう凍ちゃっているから。

毎日雪・雪・雪でしょう。その濠の中も雪がずーっともう、土地がどこか、どこがその濠だかわかんないように雪が降っているわけなのよ。で、70~80人の遺体をどこへどうすんのよ。しょうがないからね。その生きている人も、こんなフラフラよ。そういう人がね、スコップ持ったってね、スコップもそんなにたくさんあるわけじゃないのよ。捕虜だから。だから、手かなんかでね。そのへんにある板きれ、板きれっちゅうたってもうストーブに燃やしちゃうからないから、足でけっとばっしたりしてね。雪をちょっと少しね、手でかき分けて。それで「よいやこらしょい」って投げ込むの。その戦車壕の雪をかき分けて。それでなるべく1人でも多く埋葬するようにね。まっすぐ寝かしたんじゃ足りないから、ちょうどイワシの缶詰みたいに、缶詰開けたらあっちゃこっちゃに入れてあるじゃない。ああいうふうに、頭とあっちゃこっちゃに入れて、踏んづけて、雪をかけて、その上にまた踏んづけて。それで、リヤカーまた持ってくる。と、翌日になったら、また70~80人いる。それをするのは患者さんなのよ。生きている患者さん。生きている患者さんが、自分もフラフラ、明日は自分なのよ。


「お湯にゴミがいっぱい入っているじゃない。こんなゴミがはいっているの飲めないよ」って言ったの。そしたら、ニコッと笑ってね、「あんたね、それはね、自分の目がそうなんだよ。その窓のね、空を見てごらん、空にいっぱい黒いの浮いているから」って言うわけ。で、そうっとね、ガラス越しに真っ青で、空は青い空だったの。お天気良くて。で、見たら、いっぱい黒いのがあってね、空が真っ黒になっているの。ということは、自分の出血斑(しゅっけつはん)だったわけ。目が。目の底が。

あの発しんチフスっていうのはね、全体が出血するの。全部が、目の奥から全部、体全部が出血するわけ。この手のひらから足の裏まで。それがね、眼底に出血斑があって、それでこう見てね、その黒いのが、点々が出血斑だったわけ。だから今でもそれは残っているのね。だから、目が見えないのもあるのよ。目がその時の目で、目がだめになる。耳がだめになる。みんな目も、ここも、ここも、全部だめになったのね。耳も。ほとんど耳は聞こえないのね。その時の。だって42℃の熱が3週間だよ。今、よく生きてたと思う。

だってシラミだもの。シラミだから、患者さんとはずっとそばにいるじゃない。足からのぼってきて、みんなね。だから、宿舎に帰ってくると、みんな着物脱いでシラミ取り。そうするとね、雑魚寝だから、今日こうしてシラミ取ったつもりで「ぶちゅっ」とやると、血液が「ぶちゅ」と手に乗る。血だらけになる。爪が。そうやって取ったんだけど。で、隣の友達がね、熱が出て病室に移されるのよ。じゅんじゅん(順々)に隣が空いたら、今日は私、今度その明日はこっち、って順番にずっと10人ぐらい雑魚寝だったの。兵舎が宿舎だったから。だから、こっち10人、こっち10人、それが2段ベッドになっているのね。それがずっと移って。で、熱出すと、病室に移されるのよ。で、移されてね、死んだのはいっぱいいるわけ。で、私は助かったんだよね。

もうあしたは私かなあ、と思った。みんなね、彼女はこっちが、もう脳症起こしていたからかえって良かったんじゃないかな。私はならなかったからね。それで、「なんでこんな黒いものが入って、こんなゴミが入っているのに飲めないよ」って言ったら、自分の目のね、出血斑だったわけ。で、その黒いのが今でも残っているのね。

もう一応、その死体の処理が終わって、それで患者もいなくなった。そしたら、ホッとしてたら、今度は八路軍。そのころ八路軍っていったのよね。八路軍の幹部が来て、一応は、私たちはペーペーだから。その病院長と交渉してね。それで、延吉の日本軍の陸軍病院が他にあったの。陸軍病院が。収容所は、部隊を収容所にしたのね。で、もともとの延吉の陸軍病院は、そのままソ連軍が接収して、ソ連軍が引き揚げる時に、八路軍に引き渡していったわけ。だから患者はもう全部、八路軍の軍人だったわけ。で、そこに私たちも行ったわけ。東寧の陸軍病院へ。で、あとの陸軍病院じゃない人は、元気なのはまたシベリアに連れて行かれて、病気で働けない人は、また捕虜収容所みたいな収容所が別にあったわけ。そっちに入れられたわけ。

で、私たちはどこに寝るかっていったら、昔のね、陸軍病院だから、将校のね、将校の食堂だったり、昔の処置室だったり、外科だったり。そういういろんなところが、こういう板の間にベタなのよ。毛布1枚敷いて雑魚寝。で、私たちは1つの、ちょうどこのぐらい、もうこの半分ぐらいの部屋じゃないかな。そこに20人よ。20人、雑魚寝で。雑魚寝で寝かされて、それで、昼間はね、病室に勤務に行かなきゃいけないの。勤務に行ったって、中国語分からないじゃない。ワイワイワイワイ言うてもうね、ワイワイワイワイ言うて、けんか、けんかみたいなのよ。言葉通じないから。

いやだけど命令じゃない。病院長の命令なんだから、行っただけなの。行ったらそういう患者がいっぱいいる。言葉は通じない。泣きの涙よ。帰ってきて、みんなこんなに泣いて。「こんなんだったら死ねばよかったね」とか。いろいろ言う。もうがっかりしてね。そういうのが、いく日か続いた。

帰りたいじゃない。帰りたくても帰れない。負け戦でしょ。日本人は負けてばかにされているじゃない。それで、患者は中国人で、ワイワイワイワイワイ騒ぐじゃない。それでもうね、だから、捕虜だから、捕虜収容所は出たってね、もうそのころは生きる気もしなかった。それで、顔のけがしてね、顔はこんなお岩さんになったでしょ。いやだったよ。その時だって。もうほんとね、もう死んでもいいと思った。がっかりよ。

人民解放軍に入ってから軍医をやらされたのね。軍医をやらされたときに、その検査係やって解剖やってる、というのは、まぁ悪いけども、そのことでうんとわたしの技術がドクターになってやられたわけ。ドクターと同じことをやらなきゃいけないわけ。普通の看護婦じゃないわけなのよ。ドクターになってた。ずーっと5年間。

いちばん大変な時にはね、わたしひとりで150人も持たなきゃいけなかったの、患者。150人よ、ひとりのドクターが。150人、聴診器持ってね、胸をあてないと患者は怒るわけ。50人だから、150人をね、私は診た。150人、1日に診るなんてできないよ。だから、50人ずつ分けてね。で、カルテも50人ずつ分けて。1日に50人でも、聴診器、50人あててごらん。なんかかんか、わかんないよ。あてるだけよ。診たってわかんない。それ言ったって、言葉通じないから。わざとね、聴診器はあててるけど、こうやっているだけ。何もわからない。ただね、患者のほうは、あててもらっただけで納得するの。それをしないと、怒ってくるの。そういう時もあった。150人だよ。

その手術室の前に、非常口から連れてきたわけ。非常口からといったら部隊の、今だって、外科でけが人を病院の非常口から入れるじゃない。非常口というのかな、今何っていうのかな。そういう、救急室、救急室に入れるのね。

で、その日は手術日でも何でもないのに、鎖につながれた、こう見れば20歳前後のいがぐり頭の黒い服、もうそれは忘れないよ、黒い服きたのが同じように見えたのよね。同じような格好してるから。「なんでこういう人が手術の前にいるかな」と思ったんだけど、聞いたってだめなの。聞くこともできない。で、もう毅然(きぜん)としてるの、ふたりとも。鎖でつながれてるのよ、手術場の前に。

憲兵がふたりを連れてきたわけよ。それで鎖につながれてね、「なんでこの憲兵さん、その偉い憲兵とこの腕章つけたのが、2人で非常口に連れてきた」と。「何をするんだろう」と見たんだけど、そんなきくことできない、とにかく。
そしたらすぐね、「とにかく機械あるだけ出せ」と。「消毒いらないんだから、すぐ手術場の準備しろ」ということなのね。

先輩と2人、看護婦は。あとは全部衛生兵とそれからドクターね。ドクターが病院中のドクターが、何人来たかな、そんな何十人も入れないから。

鉄の鎖、こんな鉄の鎖にふたり、つながれてんのよ。でも毅然(きぜん)としてるの。泣きわめくも何もしてない、毅然(きぜん)としてるの。

こういう人がいるからね、平和が壊されるんだ、と。だから全然かわいそうだとも何とも思わない。とにかくこういう人がいるから戦争になるから、こういう人は何されても構わないんだ、という頭だよ。いわゆる徹底して『軍国乙女』というのは、そういうことなのよ。

そいで間もなくそのね、手術室に入れて。で、ふたりとも、手術台2つだから2人寝かされて。その当時は今みたいに全麻、ね、全身麻酔というのは今みたいに立派じゃないの。

エーテルをかがして、マスクをかがしてエーテルで。かがせなきゃそれはもう騒いでできないから麻酔はするよ。もう全然もう、もう死んでもいいわけだから、適当にもうガボガボやらせるわけ。そうするともう間もなく意識なくなっちゃうわけね。そうするともう生きてるまま、死んだ人の解剖と同じようにやるわけなの。同じようにね。

ただ見てるわけないでしょ。全部、その助手するわけよ。軍医さんがやることを手伝うわけ、ね。今でもまぁ、知らない人に言ってもわからないと思うけども、頭をこう割ったら脳が出てくるじゃない。脳が出てきたらどうするかこうするか、ということはわかってるから、それをやるようにそれを手伝うわけ。やりいいように手伝うわけ。

「頭は頭、耳のほうはどうなっているか。お腹はこう、胸開けたら心臓はどこに、どうやってどうやってるか。心臓から出た血管はどうなってるか。肺臓の肺から出た血管は体中をどうまわってるか」そういうのを若いドクターはね、軍医さんなんかしたばっかりは、あのころ、そんなに地方では解剖はめったにできなかったの。だから、そういうのはいい勉強になっているわけ。

一生涯、私のこの、悔いとして残るって。私も今は結婚してね、一男一女の子どもの母親になっているって。その事を思えばね、慚愧(ざんき)の思いでもう。

でもね、眠れない時は必ず思う。ふたりが出てくる。それはもう、忘れない。いがぐり頭で、兄弟だからね。兄弟だから、ちょうど同じような顔だったの。いがぐり頭で、同じ服装しているから。そしたら、兄弟だったわけよ。

出来事の背景

【従軍看護婦が見た戦争】

出来事の背景 写真太平洋戦争中、召集を受けたのは兵士たちだけではなかった。日本赤十字社の従軍看護婦として三万を超える女性たちが戦場に送り込まれていた。

中国大陸、東南アジアの戦場に送り込まれた看護婦たちは、医薬品の補給もままならない中、傷病兵治療の任務にあたった。戦争末期になると、追い詰められた戦場で、過酷な運命に巻き込まれた看護婦も数多くいた。連れて逃げることのできない重症の兵士に劇薬を注射するよう命じられた人、中国人捕虜に対する生体解剖に立ち会わされた人、ジャングルの中をさまよった人、集団自決に追い込まれた人。中には、終戦後、その技術を求められて中国八路軍に従軍させられた上に、朝鮮戦争に巻き込まれた人もいる。

太平洋戦争中、赤紙で召集された日本赤十字社の看護婦は3万5785人、殉職者は1120人に及ぶ。

証言者プロフィール

1924年
福岡県山門郡に生まれる。
1943年
臨時看護婦として召集。471救護班として旧満州東寧陸軍病院に配属。
1945年
8月、吉林省龍生で終戦を迎える。9月、延吉捕虜収容所へ。
1946年
5月、中国共産党八路軍に従軍。中国大陸を数千キロにわたって南へ行軍。内戦終了後は洛陽の病院に勤務。
1953年
帰国(京都・舞鶴)。

関連する地図

満州(東寧)

地図から検索

関連する証言

ページトップ