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タイトルタイトル: 「病院船での火葬」 番組名番組名: [証言記録 ] 従軍看護婦が見た戦争
名前名前: 守屋 ミサさん(従軍看護婦 戦地戦地: ラバウル  収録年月日収録年月日: 2008年

チャプター

[1]1 チャプター1 「軍国少女」だった  05:59
[2]2 チャプター2 病院船  08:16
[3]3 チャプター3 船内での火葬  04:45
[4]4 チャプター4 複雑だった傷病兵の気持ち  05:13

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番組名番組名: [証言記録 ] 従軍看護婦が見た戦争
収録年月日収録年月日: 2008年

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ええ、もうあこがれで。戦地へ行くのが名誉だと思って、全然何か、あまり刺激的には考えなかったです。その当時の兵隊さんと同じで、当たり前っていう感じでしたね。

Q:じゃあ、傷病兵のお世話をするっていうことは、ミサさんにとって。

とても名誉なことだと思ってました。軍国少女に育ってましたから、本当に典型的な軍国少女でした。

子どものころといいますと、わたし、まず家庭教育があると思うんですけど、どこの家庭にも床の間に天皇陛下と皇后陛下の写真が飾ってありました。それからわたしの家では父が昔、軍隊に、昔の徴兵検査に合格して行ってましたから。そのときに帰ってきたときに、こういう、なんというのか、奉公袋(ほうこうぶくろ)っていうのがあるんですよ。軍隊に行くときにその奉公袋に必要なものを詰めて行って、帰ってくると、その奉公袋を居間の柱にぶら下げてあるんです。で、その奉公袋っていうのは何が入ってるのか、と思いましたら、日の丸と、それから軍人勅諭(ちょくゆ)を書いてある軍人手帳みたいなの、それと小包ひもと小包紙が入ってるんです。

で、軍人手帳と日の丸はわかりますけど、「小包紙と小包ひもは何にするのか」と思って聞きましたら、召集令状が来ますね。そしたらすぐ出かけられるように、行くときは私服で行くわけです。そうするとその奉公袋を持って行って、軍隊につくと上から下まで全部支給されますから、帽子から靴から。そうすると、それを包んで自宅へ送るわけです。

そのために、今みたいにスーパーなんか、すぐそばにあるというわけではありませんから。小包ひもと小包紙入れてあったんです。そういうふうにして家庭の男性も父親も、「いつ召集が来るかわからない」っていう準備をしてるわけですね。で、1年に1回、何かその奉公袋を持って、何か『在郷軍人の集まり』とかいって、何をするのかわかりませんけど、そこで訓練をしたり訓話をしたりしたんだと思うんですけど。その奉公袋を持って、1年に1回出かけました。
そういうことを、そういう家庭の中で、自然に愛国心が芽生えたと思います。

死ぬということはあまり考えなかった。というのは、日中戦争までは従軍看護婦は「鉄砲の弾に当たって」とか、「空襲で亡くなる」とか、そういうことはほとんどなかったんです。新潟支部から1,000人近く行ってますが、亡くなってる方、28人なんですね。その28人は全部病気です。ほとんど病気です。フィリピンの人たちは飢えて亡くなった人もいますけど、殉職(じゅんしょく)っていってもほとんど病気です。

そんなことで、死ぬっていうことはあんまり考えません。兵隊さんのように、行けばもう、4分の1ぐらいが死ぬんだ、なんていうこと、あるいは特攻隊みたいに100%死ぬ、とか、そういうことは考えなかったですね。だから、行って看病するということが名誉だというふうに思いました。

わたしは父が「教員になってほしい」ということで、「師範学校へ行くように」って言うんでね。担任の先生から校長先生から、小学校の担任の先生にまでいって、「なんとか説得してほしい」っていって、ずいぶん説得されました。
けれども、わたしは「どうしても日赤へ行きたい」っていって、その当時自分の意志で進路を決めるっていうのは、かなり気の強い女の子だったんじゃないかと思います。

そしたらその担任の先生が、「そうか。そんなに行きたいならじゃあ、先生がお父さんを説得しようか」って言って下さったんです。その時わたし、思わず畳に手をついて「お願い致します」って言って。そのときの気持ちは「ああ、自分の一生の方針が、行方がね、ここでひとつの大きな曲がり角を曲がったんだな」っていう。何かすごい感動的で、もう。畳の上にポタポタと、何か音がするぐらいな感じで、涙がポタポタと落ちて。そのとき何か、すごい、何ていうか、人生の決意みたいなものを感じました。

名誉だっていうことで、感激でした。あの500人は。で、何か悲壮感っていうのはまったくなかったです。で、その当時、まだ、太平洋戦争が始まってないんですね。で、始まってない、わたしたちはその準備のために召集になったわけです。だから陸軍も、軍人もそうですけど、全部9月、10月で準備が終えたわけですね。 で、日赤の従軍看護婦も、これは日中戦争、太平洋戦争を通じて最高なんですが、500人がいっぺんに召集になってる。で、広島へ行って護国神社で編成するわけです。

戦争が起きるなんて思ってもいなかった。アメリカと戦争するなんて、全然予想もしませんでしたから。だから、あそこに500人集まっても、そういう悲壮感っていうよりも、「ああ、やっと召集になって、お国のために働くんだ」っていう感激でしたね。

で、その時もうすでに「病院船に乗る」ってこと、わかってました。で、その当時の病院船は潜水艦は出ないし、飛行機が来るわけじゃないし、つらいのはただ船酔いだけ、という感じでしたからね。たまに上海から南京へ行く、揚子江(ヨウスコウ)を上る時に、向こうから、川岸の方から鉄砲の弾がたまに飛んでくるっていうぐらいで。病院船がそういう、危険だっていう感じはなかったです。

そこで、その直後に遺髪とか遺書を書かせられたんですけど、それも全然、悲壮感なかったですね。ただ、船は万が一沈むこともある、嵐でね。だからその時のために遺書と遺髪を残そう、と。で、船の人も言ってましたけど、「『5,000トン以上の船が嵐で沈むなんてことは、絶対あり得ない』と皆思いこんでる」って言われまして。わたしたちもそう思ってましたから。遺髪とか遺書っていわれても、あまり悲壮感はなかったですね。

最初、第1航海は台湾でした。で、そのときは、マレー半島へ上陸の患者なんかがいました。そして2回目も台湾でした。で、やっぱりマレー半島とかシンガポールの患者がいまして、それは足切断とか、肩が、腕の切断とか、外傷が多かったんですけど。そのうちにだんだん、外傷よりも病気が多くなりました。

で、その次の航海が大連とか朝鮮のセイシンだったんですけど、そのへんは全然戦争してるわけではないですよね、その当時。だから、乗って来る患者さんはほとんど病人でした。で、その病気も結核性の患者がもう多かったですね。それと必ず、はじめから終わりまで1割前後は精神疾患でした。

負傷していないんです。軍隊生活とか、それから戦争の恐怖とか、それからマラリアとか高熱から来る脳症とか、それから戦争で人を殺したことに対する罪悪感とか。そういうのもいろいろ入り交じってると思うんですけど。精神疾患が非常に多かったです。

いろいろ病名ついてきて、その精神系の患者さんは全部一室に集められて、凶暴性の人は個室がありまして、個室へ入れました。

非常に凶暴性で暴れるんですね。それで、個室に入れても鍵かけて入れるんですけど、もう全身でぶつかって鍵を壊すんです。それで、こんな太いかんぬきをして、それでも開けようとして、もう青くなるくらい全身でぶつかって、「外へ出せ。出せ」ってどなったりしてましたね。

もう、何か、戦場にいるときは何が起きても驚かない、という感じですね。何か鈍感になるっていうか、「ああ、戦場へ来ると、こうして気の狂う人がいるのか」っていう感じで。特別にそれに対して、こう、強い感情っていうのはなかったと思います。

むしろ、精神病の患者は非常に自殺の恐れがあるんです。だから船底へ入れるんですけども。「甲板(かんぱん)へ出て海へ飛び込まないか」って、そういうことの予防の緊張感の方が強かったですね。

いちばんひどいのはそんな凶暴性で個室へ入る。それからヒステリー症状でね、非常にしっと心が強くて、周りの人の、食事を配るとまわりの人のサケの切り身と自分の切り身を比べて、「自分の切り身の方が小さい」っていうんで。もうヒステリーみたいになって、うーってどなって失神するとか。もうヒステリーの、それはいちばん重症なんだなんていわれました。それからまったくもう、無感情でもう無表情で黙っている人とか、それぞれ違いますよね。 

「おれは殺した。おれは殺した」ってしょっちゅう言ってたりとかね。

Q:患者さんが。

患者さんが。「おれは殺した。殺した。人を殺した」とか言って叫んで。

もう、そんなのいやってことは全然感じませんでした。そのころってやっぱりまじめっていうのか、「いちばんつらい所へ行くのが働くのが、いちばん名誉なことだ」っていうふうに思ってました。だから、「病院船っていうのがいちばんつらい」っていうことには、そのころなってたんです。だから、そのいちばんつらい病院船に派遣されたってことが、とても名誉っていう感じでした。

わたしどもははじめのころは船の中で死ぬと、水葬にするから、かわいそうだからっていうんで、わたしの部隊の方針かもしれませんけど、そういう重症を乗せないという方針だったんです。
船に乗るときに、港で皆集まりますね、そうすると、お医者さんが一応検査をして、で「これはちょっと内地までもたないなって、危ないな」って思うようなのは乗せなかったんです。

だからその患者さんにすればね、もうそこまで来て船に乗せてもらえないのは悲しい、という思いかもしれないけども、船っていうのはやっぱり揺れたりして。陸軍の患者さんは特に海に弱いですから。症状は悪化しますから。そういう意味もあって「乗せない」っていうのがわたしの部隊の方針だったんです。

戦争がだんだんひどくなって、最後のラバウルとかマニラ、それからフィリピンに行った時は、フィリピン、パラオですね。行った時は。そういうわけにはいかなくて、とにかくそのラバウルなんか、「来た患者は全部乗せていく」って。それでラバウルの患者さんはほとんど100パーセントが飢餓状態ですから。もうやせ衰えて、で、おなかがふくれて。

だから、とっても、最後はもうけがというよりも、飢えて来る患者さんの方が多かったです。で、飢えと一緒に、マラリアもあれば結核もあれば、デング熱なんていうのもありましたしね。まあそういういろんな病気があって、それだけ気をつけてても船の中で亡くなる人があって。

で、わたしの船だけは火葬場がついてたんです。火葬の窯(かま)が。というのは、水葬にするのはかわいそうだというので、船員さんが火葬のこういう窯を作ってくれたんです。で、そのために、亡くなる人は火葬の窯でこう、石炭くべて、石炭をこう、くべるのも看護婦の仕事でした。

こう、窯・ドストルっていうんですか、2段になってて。そして下から石炭を入れてくべるって。なかなか焼けないもんですね。今は何か、電気ですごい高温でバーッていっぺんに焼いちゃう。きれいに白骨になりますでしょ。あんなじゃなくて、なかなか焼けないんです。何時間も焼けないんですね。

で、男の、その使丁(してい)さんがかき回して、「まだ焼けないよ」とか言って。「まだおなかの、腹の脂肪が残ってるよ」とか言ってね。ほとんど脂肪もないんですけど。やっぱりおなかの辺りが焼けにくくてね。「まだジクジクいってるよ」とか言って。やっぱりもう、それがいちばん哀れで、もう、気味が悪いというかね。いろいろ複雑でした。

ただ、病院船に武器や軍人を乗せてはいけないんですよね。それをほとんどの時に、軍人も、それから慰安婦を乗せたこともあるし。武器・弾薬ね。それから軍用犬とか、そういうのを乗せたことありました。それはまったく赤十字違反なんですけど、わたしたち、それに対して何も言えなかった。

わたしたちは下っ端の看護婦ですからね。言えないことはしかたがないとしても、それでもわたしは割合部隊長と、うちの部隊長はとても親しい、みんなに親しい方で、なんでも言えたんですね。それで兵隊さんが乗ったときに、「部隊長殿、ああいう軍人を乗せるのは、国際赤十字違反なんじゃないんでしょうか」って聞きましたら、「うん、わしもああいうのは好かん。じゃが、上からの命令でしようがなか」っていうふうに言っていました。

しかしそれは、婦長さんとかお医者さんの班長の人が、責任者がいるわけですから。その人たちから本当は正式に、部隊長を通して軍隊に申し入れをすべきだったと思うんです。そのすべき赤十字がまったくそれを黙認しちゃったわけですね。だからアメリカにすれば、「日本の赤十字は何をやっているんだ」と。「武器・弾薬、病院船で武器・弾薬を運んでいるんじゃないか」っていうようなことを。「そんな船は沈んでしまえ、沈ませてしまえ」と言われてもしようがないと思うんです。

傷病兵の方は非常に複雑な気持ちだったと思うんです。帰ったら経済的にはもう、日中戦争が始まった時は、手当など十分に用意されてました。帰ったらすぐ職業に就けるようにとか。

しかしどんなに待遇を良くして頂いても、片手がなくなるとか足がなくなるっていうのは不自由ですしね。それからまったく両足のない人は、何か非常に不安定でした。もう、帰りたくないって。ちょっとわたし、本にも書いてありますけど、両足のない人はね、夜ね、壁に寄りかかって涙出しながらうつむいてるんですね。「どうしたんですか」って言ったら、「もう内地帰りたくない」って、「こんな体で」。で、「本当は海へ飛び込みたいけど、両足がないから甲板も行けないから、それもできない」ってね。もう涙ポロポロこぼしてました。

でわたしは、奥さんもいらっしゃる方で「いや、そんなことありませんよ」って、「もう奥さんは生きて帰っただけでも喜ぶんですからね。広島へ上陸したらすぐ奥さんに連絡しなさい」って慰めたことありましたけどね。

その方は、元気で内地へ帰る予定だったんだそうです、ビルマから。そして部隊からね、「あしたは帰る」っていうんで、あのころ革靴とか物資が日本よりも良かったんです。それで革靴をおみやげに買って。で、内地へ帰るって、その晩に空襲を受けて両足切断したんです。だからその涙を出してるとき、新しい革靴を前に置いてね、もう、ポロポロ涙流してました。

それでその方に、1年後にわたしは臨時東京第3陸軍病院でお会いしたんです。臨時東京第3陸軍病院っていうのは、そういうけがが治っても機能障害で残ってる人、まあ、「両足」はひどいですけども、「片手」とか「見えない」とか「聞こえない」とか、そういう人たちを訓練して、職業に就ける、生活できるようにする病院なんですけど、そこへ行きましたとき、その患者さんにぱったり会いました。

で、きれいな奥様が車イスを押して来たんですね。で、わたしは忘れてたんですけど、向こうから、「看護婦さん、病院船の看護婦さん」って言われてね。「あら、どなただったかしら」って言ったらね、足にかけた毛布をさっと上げて、「これです」って言われて気がついたんです。両足のない方だってね。

それで、後ろはね、奥さんでね。だから「いつも話をしてる親切な看護婦さんだよ」って言ってね。で、奥さんもお礼言いましたけどね。「看護婦さんに言われた通りね、広島の陸軍病院あがったらすぐね、家へ連絡したらね、奥さんが飛んできて、『命だけでも助かってくれて良かった』って言ってくれた」って、「看護婦さんと同じこと言ってくれましたよ」って、とても喜んでましたけど。

ほかの人だって戦争に行って病気にならないのに、自分だけがなったっていうことはね、戦争のためだっていうのは一種っていうことでね。公務のために病気になった、ってことはちゃんと書いてあっても、それでもやっぱりとってもそれは不名誉。

何か歌にあったんですけど、“手柄立てずに死なりょうか”って。「死ぬのも手柄を立てないで死ぬのは不名誉だ」っていうぐらいですからね。手柄も立てないで病気で帰ることは、とても不名誉なことだと思ったんでしょうね。

常に病院船で気をつけるのは自殺予防でした。で、必ず甲板に出るところに立ってね、看護婦が付き添って甲板へ出る、とかね。もう、自由に甲板に出せなかったです。

今思えば大変なんですけど、やっぱりわたしども集まってよく話するのは、「若かったのねえ」っていうことなんですね。どんなことがあっても皆がんばったっていうのは、もうつらいと思わないでがんばったっていうのは、やっぱり「若かったのねえ」っていうことで

出来事の背景出来事の背景

【従軍看護婦が見た戦争】

出来事の背景 写真太平洋戦争中、召集を受けたのは兵士たちだけではなかった。日本赤十字社の従軍看護婦として三万を超える女性たちが戦場に送り込まれていた。

中国大陸、東南アジアの戦場に送り込まれた看護婦たちは、医薬品の補給もままならない中、傷病兵治療の任務にあたった。戦争末期になると、追い詰められた戦場で、過酷な運命に巻き込まれた看護婦も数多くいた。連れて逃げることのできない重症の兵士に劇薬を注射するよう命じられた人、中国人捕虜に対する生体解剖に立ち会わされた人、ジャングルの中をさまよった人、集団自決に追い込まれた人。中には、終戦後、その技術を求められて中国八路軍に従軍させられた上に、朝鮮戦争に巻き込まれた人もいる。

太平洋戦争中、赤紙で召集された日本赤十字社の看護婦は3万5785人、殉職者は1120人に及ぶ。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1921年
新潟県佐渡郡に生まれる。
1941年
日赤看護婦養成所新潟支部卒業。召集、病院船に勤務。2年間、朝鮮半島北部から南はラバウルまで、太平洋を22往復して患者輸送にあたる。
1945年
8月、広島の大野陸軍病院で原爆患者の救護に当たる。戦後は、新潟県や東京都で小学校の養護教諭を務める。

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