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タイトルタイトル: 「死に向かう少年航空兵」 番組名番組名: [証言記録 ] 従軍看護婦が見た戦争
名前名前: 武山 敏枝さん(従軍看護婦 戦地戦地: フィリピン(ミンダナオ島)  収録年月日収録年月日: 2008年

チャプター

[1]1 チャプター1 女学校への要請  01:29
[2]2 チャプター2 戦場行きが決まって  04:35
[3]3 チャプター3 襲いかかる「猛暑」と「恐怖」  03:33
[4]4 チャプター4 死に向かう少年航空兵  02:45
[5]5 チャプター5 歩けなければ「処置」される  01:01
[6]6 チャプター6 ラバウルからフィリピン・ミンダナオへ  03:17
[7]7 チャプター7 放りだされた看護婦たち  05:14
[8]8 チャプター8 倒れていく看護婦たち  04:33
[9]9 チャプター9 狙われた「死体」  02:29

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番組名番組名: [証言記録 ] 従軍看護婦が見た戦争
収録年月日収録年月日: 2008年

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校長が後押し、したんですよ。何かあの当時、「女学校から1人ずつ、日赤に受験さしてくれ」言うてね。県から来とったらしいんです。それで、ポスターや何か、来てましたよね。病院船に乗っとる、看護婦さんの姿なんかもね、載せたりしたんが。それである日、校長室へ呼ばれて。「よう考えて、卒業前に、考えて、考えてしてるけど、誰に『行ってくれ』言うて頼もうか、思ったけど、結局、君、行ってくれんか」いうことになって。親に相談すりゃあいいのに、相談もせんで「はい」言うて。「ああ、行こう」と思ってね。

校長が、そう言うたんですもん。「県の参事か何かが、言うてきた」言うてね。「県立の女学校から、卒業生1人はどうしても、受験さしてくれ」言うて。



ラバウルですからな、最前線です。ソロモン諸島の。もう、それは本当に、あの時分、誰も、ラバウルいう名前、知らんかった人ないでしょう。

最初はまあ、昼間の空襲ばかりだったですけど、最後にはもう、夜間も、昼夜を問わず、ドカン、ドカンいうてね、もう地上には、おれんようになってね、地下に皆、壕(ごう)を掘ってね、隊長も、兵隊さんも、皆でもう、私らが病室でおって、皆で地下壕、掘って、地下へ病室、作って、地下で勤務、しよったですけどな。

毎日毎日、空襲、ひどいでしょ。傷病兵がたくさん出ますわね。靴の中に、足首から先残った人やら、手がここから飛んだ人やら、何やら、死体はもう累々として、ありますしね。もう、それこそ、目の回る忙しさでしたね。

(米軍の攻撃は)激しかったですな。軍艦が停まっとるでしょ、港に。港までが、そんなに距離ないんですよ。それでもう、全部、ドッドッ、ドッドッ燃えるんですよ、爆弾で、友軍の船が。

夜空に目標になりましょう、また。敵がこう、来たらね。それで友軍が、無傷の軍艦から、自分の船をこう、撃つんですよ、ボンボン、ボンボン撃って沈めよるんです。そんなのを聞いたら、情けなかったですがね、本当。
 

Q:友軍が、友軍の船を沈める?

 そう、沈めにゃ、火を噴いとるから、燃えよるから、夜間空襲の目標になるんですが。

けど、大変でしたね。それこそ、コンクリの上に毛布、1枚敷いて、だあっと並べてあるんですよね。患者さんが多いから。それにもう、毎日点滴があったり、リンゲルがあったりするのを、横木を打って、釘打っといて、そこへ垂らして、そこへ持って行って、刺しておいて、もうそのまま、放ったらかしですからな、皆。済んだ時分に来て、取って、あれして。ラバウルへ行った時なんか、もう「煙をあげたら、いけん」言うてね。炊けんですが。火を出されんもんやでね、朝のうちに熱湯、沸かしといて、その水で洗うただけで、院内感染もええとこ、ですわね。だけど、そういうあれもなしに。注射器、洗うただけで、ダーッとまた注射して、回ったりしてね。もう、仕方ないですよ、もう。本、通り、行かんのですけん、教科書通りには。

ごろ寝で、朝、行ったら何名か死んでてね。

(患者)50人辺りに(看護婦)2人があたったら、良い方ですしねえ。ぐるぐる、ぐるぐる回って。

もう。病死ですわね、もう、結局もう、衰弱してブーゲンビリア、ガダルカナルの生き残りがね、ラバウルへ収容されるわけでしょ。それで、初めて行った兵隊さんなんか、マラリアのひどいのにかかったりしてね、そういうことで、あれですねえ、まあ、無惨なことでした。

この暑いところでは、絶対だめで、結核の人とかね。精神病にもなるんですよ。空襲や、何かひどいでしょ。だからもう、佐官級の人から、一等兵の人に至るまで、ちょっと頭が、おかしゅうなったりしてね。そういう人なんかも皆、内地へ送りますもんね。

一緒の人と、精神病者と、一緒におけませんわね。隔離せんとね、どうしても。それから、伝染病ともありますしね。チフスじゃ、赤痢じゃ、言うような人もね、ありますし。

担架に、くくりつけられてね。担架。それも、佐官級ですよ。変なことばっかし言うてね、そば通ると。気の毒に思いましたけど、精神錯乱しとんやね。しょうがないもんね。

やっぱり暴れて、逃げるけんね。中には明らかにこれはニセやなと、思うようなんもありましたけどな。内地へ帰りたい、ばっかしに。精神病のふりしとんやないかなと、思うようなんもありましたけど。

やっぱり、変な何とも言えん声、出してね。まあ、どう言ったらええんかな。男の人のそのままの本性、出すわけですよね。まあ、それ狂うとんじゃけ、しょうがないですわ。

それはもう、毎日毎日、空襲が恐ろしいでしょ。それともって40度でしょ、熱さはね。それでもカラッとはしてますけどね、赤道から南は。しけた、このムォーンとした、熱さではないですし、1日1回はスコールが来ますんで、わり方、スカッとはしとったんですけど。それはもう、あれです。もうそりゃあ、戦争に行ったもんでないと、分からんですよ。

夜はそれこそ、夜の空襲の時は、外へ出て見ると、サーチライトが何本もワーッと、こう山の上からあって、そこの中へ飛行機が、こうキャッチされてね、それに合わせて、飛ぶのに合わせてサーッと、こうしてそれに当てて、高射砲隊が撃ち落としたり、そのサーチライトのあれから逃げるのに、敵がザーッとこう、低空して頭の上、飛んで来たりね、するようなことも、ありましたけどね。ラバウルはとにかく、空襲がひどかったですからね。

少年航空兵ですけどね、「ひとり、乗って行くんじゃ」言うてね。入院して、帰ったと思ったら、すぐその子が来て、隣の病棟のババいうあれも、ババさんいう、その少年航空兵もおったけども、手を取り合うて泣いたりして、「僕は行くから」言うて、それで「ひとりで行くの淋しいから、人形作ってちょうだい」言うて、くるんです。それで私も、白と黒の布しか持ってないから、それでお坊さん作って、渡しましたがな。

どんな人形いうて、私は何もよう作らんですが、頭、作って、それからこう、襟と袖とつけて、こう耳出て、それではかまみたいにして、黒のでこう、そういうの作って。人形の形をしとるだけで、目、鼻描いて、お坊さん作って渡したみたいなもんですよ、なあ。あとから、考えたら。

片っ方の油しか入れん、言うてね。片道の油しか入れん。「もう帰りは、もう帰ってこれんのは、分かっとうから、もったいないから」言うてね。

「乗るのがひとりで、さびしい」言うて、誰にも言えんけどね、まあ、私らに「お姉さん、お姉さん」言うてましたからね。

だけど、やっぱし、当時は純粋でしたからな、皆。自分の気持ちが、尊いんじゃないですか。私はそう思います。皆、だまされたとか、何とか、言いますけどね。そんなもんじゃないと思いますがね、皆。ひとつの信念、持っとったですからな、誰もが。

結局ね、「注射で、結局、全然動けん人は、もう動けるもんは、はうてでも原隊に帰れ」と。で、「動けんもんは、もう、仕方ない、注射で殺せ」いうことだったらしいんです。だけど私ら、一切、そんなこと良うせん言うて、断ったんですよね。「そんなことは、出来ん」言うて。

それから、中には自決した人もおってでしょうね。だけどまあ、すぐ、米軍がついそこまで、来とったんですからな。だから、ザーッと来て、動けん患者がおったら、みな連れて帰って、自分のところの病院へ入れて、治療して。かえって残しといたほうが、良かったですよね、結局。

ミンダナオのまだ、ダバオにおる時も、患者をしっかり見ましたし、ダバオ空襲されて、もうおれんようになって、カガヤンいうところに行って、そこでも患者のあれをしよった。そこも爆撃をあれして、また元のマライワライいう所へね、帰ってきて。そこは野戦病院なんですけど、だいたい日赤は、野戦病院には行かんことになっとるんだったんですけどね、だけども最終的には、負け戦で仕方なし、もうそこへ入らなしょうがなくて、野戦病院へ入ったんですけど。

そこで3~4ヵ月かな、おったのは。5月のはじめに、ジャングル入ったですからな。そこへ入ったのが20年の1月ごろかな、そこのマライワライいう、野戦病院に行ったのはね。それからもう3~4ヵ月して、5月に入って、20年のね、5月に入って。10月まで、何も分からずに、それこそ、ジャングルの中をグルグル。現地の人が言いましたもん「フィリピンでも、この深いジャングルに、入るもんおらん」言うて。

それだけの治療道具、持っとりますしね、薬品も持っとるから、あれですけど、とにかく50人ほどを、2人で見るんですからな。まあそれこそ、どう言うたらええかな、きりきりまいですよね。ご飯なんかもあれです、患者の付き添いに、将校患者の付き添いに来とる人らに、手伝うてもろたりね、いろんなことをして、しのいできましたけど。3~4ヵ月の間でしたけど、兵隊さんはほとんどもう、空襲じゃなんじゃ言うたら、衛生兵は山のほうへ逃げてしまうし、私らだけ、看護婦だけが残ってね、一所懸命やりましたけど。


Q:衛生兵の人はなんで、逃げちゃうんですか?

 そりゃ、空襲が怖いけんでしょ。ラバウルから帰ってきた、看護婦さんのよういうこときけ、言うて。ラバウルの空襲が、酷かったでしょ。だけん、あれで、よういうこときけ、いうて言うといて、ダーっと山のほうへ逃げていって。まあなんか、野戦病院まで、無茶でしたね。

「部隊が解散する」言うたんです。「部隊そのものをもう、のうする」言うて。「部隊解散」言うて。だから「日赤救護班は自分らで、行動して、思うようにせえ」いうことですよね。だから、「山ん中で、放ってけぼりにおうた」いうぶんですわね。

面倒もなんにも。指示もせんし。だから、結局、私ら、兵隊さんの歩いた道を探してね。「川を下れば、必ず平野に出れる」と。川を目当てに、その川をずうっと毎日、ここまで浸かってね、川を下って行ったですよ。

そりゃ、みんなもう、奈落へ突き落とされた、いうかね、婦長さんなんかは、悔しがってましたけど。もうとにかく、固まっていこうね、固まっていこうね、言うてね、でしたね。だけど一番こう、最後行くでしょ。もう、自分らの歩ける範囲で。兵隊はダーッと行きますが、私らトボトボ、トボトボ、それこそ行きますでしょ。だけん、今までゲリラの芋畑があったって、あるのは、ようあって、葉っぱですよ。芋はみんな掘り返されとるしね。ほやからまあ、葉っぱ摘んで食べたり、一所懸命、芋探し、した時には、こんな芋が出てくる時もありますしね、上手な人は。みな、ひとところへ集めて、夜はそれを食べて。

私なんか、それこそ、川をダーッと下ったら、岩にこう付いてますでしょ。ニナいうて、ホタルの貝が。(ホタルの)餌にする貝があるでしょ、べったり引っ付いた。あれ、今から考えたら、吸血条虫がおったんじゃないか、思うんですけどね、習うたのに。それを私は、ダーッとこうあれして、ポケットへ入れてね、歩く歩く、生で食べたですよ、ガリガリ、ガリガリ。

何にもない所ですからなあ。バッタを捕まえたら、宿営地まで持っていこうと思て、ポケットへ入れるでしょ。そしたら、宿営地へ行ってみたら、おらんのですよ。そやからもう、捕まえたらすぐ、即、口へ入れて、生のまま食べたりして。タンパク源、あれしたりして。サワガニとったり。

蛇の皮もね、兵隊さんが捨てとんの、よう捨てずに、宿営地へ行って、真っ黒けに焼いて、食べたりしたですね。

カビだらけの(魚)もね。白い大泡がいっぱい、ひっついとんですよ。浮いとるのんね、におうのを拾うてきて、それを大事に宿営地まで持っていって、真っ黒焦げに焼いて。これは下痢止めになる、だけえ、食べよう食べよう、タンパク源じゃこれも、言うたりして、食べたりしてね。

「病気」いうよりも、「栄養失調」ですわね。要はな、餓死ですから全部。とにかく、死ぬその日まで、歩いて、一歩でも歩いて、そこで座ったらもう、息が絶えとる。そういう状態ですよ。

それで、一歩、一歩、歩くんですよ。一歩でも、死ぬまで、足を運ぶんですよ。だからね、途中でこう、兵隊さんがこう、座ってしもて、もうよう動かんようになって。ハッと見て、「ああ、看護婦さんでも歩きよんのに、なんでわしが歩けんじゃろうか」言うのを聞いたら、耳、ふさぎよったですもん。もう、諦めたら、終わりやからね。だから、看護士さんはほんに、死ぬまで歩いてました、みな。止まったら、その日が命の日です、言うてね。


コバヤシさんは、お医者さんの娘さんだったんですけどね、短刀、持たして、その人も親が来さしてましたがね。やっぱりそれ、友達が今度はその友達に渡して、その友達が流されてしまったから、結局は内地へ、その短刀も帰ってこなんだ訳ですけど。コバヤシさんいう人は慎ましい、きれいな、竹久夢二の絵を見るような人だったですけどね。それがあの、きれいに。

いやそれ、全部、私もね、リュックが重たいから、この人。私は最初から捨てたんです、全部、リュックの中身。マニラで買うとった靴やとかね、友達にあれするパンプスとか、なんとか買うたりして、持っとったんですけどね。これはもうこんなことしとったら、いけん思うて全部、捨ててしまって、それこそ、飯ごうと水筒と、もらった食料だけを。

黒いマントがあるんです、日赤にね、出征の時にくれる。その黒いマントをリュックに縫い直してね、山へ入る前に、リュックにして、そん中へ、その飯ごうとお米と、もらったね、お米と。必需品だけ入れて、下着の替えと。それで歩いたんですけど、その人らは、いっぱい持っとんですよ、いろんなもんを。リュウコさんなんか注射器まで持っとんです。もう、これはいけん、思て、「こんなもん持っとうから、これだけ弱るんや」言うて、「捨てますよ」言うて。ぽっぽっ、ぽっぽ捨てていって。

コバヤシさんの荷物に手をかけて、こんなしてやったら、カタカタって、これぐらいの大きさのね、もうちょっと大きかったかな、きれいなハンカチで包んだんが、カタカタカタいう音がするんです。それを見てコバヤシさんが「置いといて」言うたんです。「これ、置いといて」言うて。だけん、ハッと思って、こんなん。はいはい、ほんな、置いときましょうねって、置いといたん。それで、化粧品が入っとった訳ですよ。

この箱に入れて。それで、2度目に迎えに来た時に、きれいに化粧、自分でし直してね。ほんで、それから5メートルほど下に、チョロチョロ、チョロチョロと、せせらぎみたいなんが、流れがある。そこで、お水を飲まれたんでしょうなあ。そこでうつぶせになって、死んでおられたですわ。


Q:コバヤシさんは、化粧してっていうのはもう、死ぬ覚悟ですか?

そうそう。もうやっぱし、自分、ここで命は駄目じゃ、ということを自分で分かったから、要は、死に化粧をされたんや、思うんですよ。


Q:どうして? 水辺で?

水を飲みたかったから。「水、飲んだらもう、アメーバ赤痢になるから、いけん、いけん」言うて、水、飲まさんかったでしょ。宿営地まで行って、飯ごうで水、沸かして、それを分けて、飲んどったでしょ。そやから、「お水は絶対、飲んだらいけん」言うとったから。それを思いっきり、飲んだんじゃないですか、水のそばでね。リュウコさんはその場所で亡くなってました。

短刀持って、あれです、自分を刺そうとして。びっくりしました、本当にね。もう、これ以上は歩けん、と思たんでしょうね。で、早う命、絶ったほうがと思うたんじゃと思いますけどね。もう必死で、私らも力出して、とり上げて。

もう、足がポンポンに腫れてね、こんなになって足、腫れるんですよ。栄養失調になったら、みなそうなりますがね。顔も腫れて。うん。顔も腫れて。

本当にみな、足だけは、ほんにすごく、死んだ人、みな腫れていきますねえ。

「私、死んだら、兵隊の目の触れんところへあれして(捨てて)ちょうだい」いうて、言われたですけどな。

「捨ててちょうだい」いうこと。遺骸(いがい)をね。そりゃもう、見てますから、死体を。たくさんとられてね、こっちやあっちや、筋肉を。もう、どう言うたらいいんですか、まあ、ああいう心境になっていくんですかね。こういうところを、えぐられたり、こういうとこを、えぐられたりね、して、兵隊さん同士で。元気な兵隊さんが、自分で死んだ戦友のあれを、食べたりしてね、しとるだろうと思いますがな、えぐられとんやから。新しい死体が。

筋肉のとこな。みな、なあ。

新しい仏さんで、見ましたね。最後のほうには、撃ち合いしよったですよ。ポンポーン、ポンポン。日本人同士が。

私らでも、こう、兵隊さんとすれ違う時が、あるでしょ。それから、後ろから、最後のほうから、追い抜かす兵隊さんが、どっか行っとって、追い抜かす兵隊さんがあったりしたら、私ら、よう太っとったほうですからな、「あいつ、丸いのう」って言われたこと、2~3回ありますもん。もうあわてて、兵隊さんの音、聞いたら、倒木に隠れよったっていう。まあ、そこまでいくんですよ。いよいよ、どう言うんか、最終的にはね。だから恐ろしいです。人間が人間でなくなるから。戦争はね。

出来事の背景出来事の背景

【従軍看護婦が見た戦争】

出来事の背景 写真太平洋戦争中、召集を受けたのは兵士たちだけではなかった。日本赤十字社の従軍看護婦として三万を超える女性たちが戦場に送り込まれていた。

中国大陸、東南アジアの戦場に送り込まれた看護婦たちは、医薬品の補給もままならない中、傷病兵治療の任務にあたった。戦争末期になると、追い詰められた戦場で、過酷な運命に巻き込まれた看護婦も数多くいた。連れて逃げることのできない重症の兵士に劇薬を注射するよう命じられた人、中国人捕虜に対する生体解剖に立ち会わされた人、ジャングルの中をさまよった人、集団自決に追い込まれた人。中には、終戦後、その技術を求められて中国八路軍に従軍させられた上に、朝鮮戦争に巻き込まれた人もいる。

太平洋戦争中、赤紙で召集された日本赤十字社の看護婦は3万5785人、殉職者は1120人に及ぶ。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1923年
兵庫県有馬郡に生まれる。
1943年
日赤看護婦養成所姫路支部卒業。召集、376救護班として、ニューブリテン島ラバウルの第103兵站病院に配属。
1944年
フィリピンへ。ミナンダナオ氏まで、第63兵站病院、カガヤン分院、第4野戦病院などに勤務
1945年
米軍に投降。捕虜収容所へ。米軍輸送船で帰国。戦後は、岡山県で看護婦として勤務。

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