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タイトル 「指示された注射」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争 ] 従軍看護婦が見た戦争
氏名 三村 寿美江さん(従軍看護婦 戦地 フィリピン(マニラ)  収録年月日 2008年

チャプター

[1] チャプター1 召集された看護婦たち  03:18
[2] チャプター2 負傷した兵士  01:16
[3] チャプター3 山中での看護  03:49
[4] チャプター4 動けない患者は「処置」するしかなかった  07:25
[5] チャプター5 忘れられない戦場の実態  06:09

再生テキスト

Q:もともと、従軍看護婦になりたいとは、思われてたんですか?

 いや、別にそんな事、思ってないですけどな。とにかく、あんな時代ですからな。どういうのか、陸軍病院のようなとこで、仕事がしたい、思ったんでしょうな。一般のなんやったら、あまり目立つ事も、ないですわな。一般の看護婦でしたら。普通の看護婦さんと、救護看護婦さんとは、ちょっと違うでな。救護看護婦に、なりたかったんでしょう。

それでね、わたし始め、救護看護婦ような事も全然、知らんかったんですけどな。だけど、知らんかったんだけど、とにかく、器量のええ人でなかったら取らんいう事は、聞いとったんです。それでブサイクのほうだと、取られへんて。それやったらしょうもねえな、と思って。それで学校ば出て、出たのが18、満でいうたら17ですわな。学校出て、それで1年な、お裁縫なんか習うのに、家おって、それに1年。それからその次に、その臨時看護婦じゃった。1年習って、それからまた、出ていったんですわ。出ていって、どうにしたんかなあ。忘れてしもうたけど。


Q:寿美江さん、その後、赤紙が来て召集、受けますよね?

 ええ。それから、臨時看護婦の募集があって、それに応募して、通ってね、それで3か月、日赤の事について勉強して、それで、他の看護婦のほうの勉強も、済んどりますでな。それで、赤十字としての勉強だけして、そしたら3ヵ月で済んだら、すぐ4月に召集、来たでな。その時が25だから、満でいうたら、23か4か。

少年航空兵なんかはな、空中戦があるでしょ。ほんでもう、やっぱり、日本の飛行機も性能が低いでしょ。どうしてもやられるほうが、多いんですわな。ほんで、雲の中へ逃げたんじゃけど、「やっぱりあかんわ。やられた」いうて、ここ、結局ここらへんから、切断した患者さんも、あったですな。それは、フィリピンですけどな。

まあ、その当時やったら、切断しても、あんまりショックは、受けなんだんかもしれんけど、終戦になってからはな、足がない事は、つらかったでしょう。義足はあってもな、やっぱり義足も、ある程度、年数が経ったら、またやりかえんなんでな。

それも、いちばん困ったのは、フィリピンでずっと、山のほうへ、山のほうへ、移動しよった時分な。赤痢患者が多いですもんな。いちばん赤痢患者が、多かったでしょう。そしたらもう、おしめをしようにも、なんにもないですな。そんで、古雑誌なんか、探しだしてな。あっちから、こっちから集めて、それをちぎっては、小さいけどな、ずうっと並べてな、それをおしめ代わりに。そんでもう、紙でしょう。それで下に、ナイロンみたいなもんでもあればいいけど、それがないから、直接ベッドへ、しゅんで行きますわな。それから、ちょっと、ひどい人なんかは、流れてしまうんです。よう失敗して、洗濯せなんだしょうな。代わりがないから、洗うて使うよりほか、しょうがないでな。それで、紙切れは、なんとかあったんでしょうな。

わたしの隣村の人が、その赤痢のひどいので、吐いとってな。それで、その人のおしめをよう、替えました。それな、アメーバー赤痢いうたら、ほんまにもう、自分が便をしよう、排便の意識なしに、自然に流れてしまうんですもんな。便でなしに粘液のもん、粘液状のもんが流れるんでな。せやからほんまに、よっぽど気を付けて、おしめでもしっかりしとかなんだらな、すぐ出てしまう。あれが、いちばん困ったですな。

せやけど、その人らも、最後まで診ることなしに、移動でしょう。なんべんも、なんべんも、移動でね、1か月おるような事、なかったですもんな。せやから、どんなに思っても、最後まで、患者さんを診るいう事は、なかったですな。そんでもう、終戦になってから、ずっと山の中へ、20年6月ぐらいは、山の中、入ってましたでな。その時分に、やっぱり、わたしらと一緒に、歩ける患者さん、付いてきた人は、こういう小さい建物の中へでもな、みんなそこへ収容して、それで各自に食べ物、探してきて食べよる。おるいうだけ、入院してるだけでな。こっちも食べ物、探さんなんでしょう。だから人のもんまで、とてもじゃない、ないですわな。自分のに困ってる。

それでもな、患者さんがな、「看護婦さん、蛇を取ってな、焼いたんじゃけど、食べるか?」いうて、患者さんがそない、言うんですよ。わたしの食物がないこと、よう知ってるからな。全然、そういうふうな、動物性のもんなんか、あらへんな。菜っ葉だけですもんな。そない言うてくれた、患者さんもあった。ありがたいなあ。

もう、担送患者で動けなんだら、行軍にも付いてこんでしょう。歩ける患者だけしか、わたしらと一緒に歩かれへん。せやから、寝たきりになったら、そういう処置、しとかなんだらな、結局、敵に捕らえられて、それで、どういう目にあわされるか、わからへんでな。

連れて行かれへんでな。置いといて、いかんなんから、それこそ置いといたら、どうせ死ぬ事は、分かってるもんな。敵の手で殺されるか、自分ひとりで、敵の手にかからんにしても、どうせ、食べ物はないしな、手当ての方法がない。誰もしてくれるもん。死ぬのを、待つだけですもんな。せやから、それがよう分かってるから、結局、自然に眠らしてほうがええことで、注射してな。

やっぱり、軍医がな、名前ちゃんと言って、これと、これと、これと注射しいって言われるからな。勝手には、わかっとってもしませんけんな。注射は。全部、命令です。

軍医さんがな全部、命令で、婦長さんがそれを受けて、わたしらに、こうあれとこうせい、ああせいいうことになるんです。その命令がなかったら、絶対にできんですもんな。軍隊いうところは、ほんまに、命令ひとつで、動くんですからな。

しょうがないです。ぐずぐずしよったら、敵がはやい、もう即、後ろに来とんですもんな。だからもう、はように前、前進じゃないけど、そこを立ち退かないと、しょうがないでな。せやからもう、とにかく、そういう命令があったら、すぐそれを実行して、ほんで元気な、元気ないうても、どうにか歩ける患者さんだけは、連れてな、それでずっとどこどこまで行け、いう命令があるんでな。そこまで、歩いていかんなんですもんな。

なんぼ、手当てしても、これじゃっから、あかん思ったらな。少しの望みのあるような人、やったらな、またひょろひょろでも、歩きますよ。せやけど、もう全然、そういう事はようせん。動くんか、1人で動けんような、状態ですもんな。ほんまに、死ぬのを待つだけのような状態。

それでも、やっぱりなあ、あれですよ。敵の捕らえたら、それこそ、かわいそうでしょ。どういうふうに無残な死に方されるか、分からんしな。それよりも、どうせあかんのやったら、日本人の手で、穏やかに死なしたほうがいい、いうことですわな。

いや、別に何も、説明はなんも、しませんわな。夜これしたら、注射したら、夜よう寝られるから、注射してあげるわな言うて、そんで、注射するんですわな。そしたら、始めした時に、量が少なかって、朝になったら目覚めて、患者さんがな、目を開けて、気持がよくって、ようぐっすり寝られて、良かったいうてな、喜んで、ええ顔してましたよ。寝られたらな。ほんで、「看護婦さん、また今晩も、あの注射して」いうて、患者から頼むんな。だからまた、してあげるでな言うて、それで注射、またにえんで。そしたら、それは注射だけしてたら、わたしらもう、おられんから、ずっと出ていかん、なんでしょう。注射して寝たまま、そのまま患者さん、そこが、結局、後ろから敵が来たら、ああこれ死んでるからいうて、ぼんと、どっかへ放られとるかな。なんとか、されとんでしょう。

ええ、いやあ、もうつらかったですな。なるべくなら、しとうない思っても、せなんだら、しょうがないしな。あんなむごい事を、ほんまによう、できたなあ。後から考えたらな。それでも、まあそうしたほうが、患者さんにとっては、良かったのかもなあ、思ったりな。敵の手にかかるよりな。やっぱり病院でそういう処置、取ってもらったほうがな、本人は、それで死んでいくいう事は、全然、知らんでな。ただ気持よう、寝られるようになったいう、その喜びだけですわな。ようけ、あちこちで、そういう事もあったんでしょう。

やっぱりな、忘れよう思っても、やっぱり、場面を忘れられんですわな。ほんでもう、人に話しとうもないしな。今までなんにも、家族のもんにも、話した事ないですわな。

主人が海軍じゃった、ですけどな。主人にもわたし、話した事ない。

姫路の陸軍病院へ、勤めた人がおるんです。その人とは、ちょいと話して、少しはなんやけど、内地の病院でな、勤務しておった人やからな、戦地の、野戦の勤務とは、全然、違うでな。じゃから、話しても分からん。

もう、命令があったら、絶対ですわな。軍隊と一緒ですけどな。軍隊ほど、厳しい事はないけどな。それでも、やっぱり、命令ひとつでいろんな作業、するんですもんな。

もう、忘れられんですな。いろいろあったけど、その事がいちばん気にかかってますわ。ほんとにもう、衰弱した患者さんなんか、かわいそうですよ。どうにか、かわいそうに思って、してあげようにも、しようがないですもんな。もうそれは、栄養失調で、足やって、膨らんでしもうてな。顔も、腫れてしもうてな。歩こうにも、足が歩けんようになってしまうもんな。

ほんま言うたら、病院には、患者食いうてな、特別にそういう食料が、配給されとんですけどな。その患者食も、どうなっとるかなあ。持って歩くのが、歩けなんだら、捨ててるか分からんしな。そんでまあ、元気なもんが、それを食べてるか、分からんしな。それで、普通の部隊やったら、そんな患者食は、来ないからな。自分らの食料だけで、済まされるんですけど、病院はそれだけ、食事量が多かったんですけどな。だけど、ひどうなったらもう、そういうふうな事を言うとる暇、なかったわ。あっちに走る。こっちに走る。とにかく一息を、落ち着くいう事、ないんですもんな。

まあ大体な、まだな、戦争、勝ってる間はな、負傷者や病気の人が来ても、わりに元気ですけどな。もう、敗戦となったら、それこそ兵隊さん、ほとんどが、病人みたいになってしまいますわな。ほんまに戦争って、むごいもんです。

そんでも、今度のあれは、飛行機がひどいでしょう。空爆がな。あかるうなったら、どっから飛んでくるか、分からんですもんな。なんかキーンキーンいうような金属音で、最初の観察機か来るんですな。ああ観察機、来たいうてほんまやったら、ほんなら、じきに後からB29が来てな、わたしらまだ、病院へおった時な、患者の洗濯しよったんか、なんかの時、ひゃっと向こうから飛行機、ああ飛行機、来たあ思ったけど、来た思うた時分には、はやもう頭の上近くまで来るでしょう。ほんで、もう少年もでか、こんな大きな木の下で、じいっとこうして。飛行機が通ったら、こっちに回り、あっちに回りして、そんなして、隠れたようなのもありますわ。

それから、なんの休みに、非番の時なんか、寝とる時なんか、もう、低空飛行で来るでな。だからこうして、窓からじいっと見てたら、搭乗しとるアメリカの兵隊の顔が、見えますよ。もう恐ろしいけど、その時分は空襲、空襲でなれしもうてな。あんまり、恐ろしい思えへん。

ほんで最後まで、負けるいう事は、全然、思わなんですもんな。あれだけ負けて、逃げ回りよっても。誰も負けるいう事は、口にもせえへん。誰も思うとらんなんだ、思うんです。いつか、日本は神の国で、神風が吹くや。アホな事をなあ、信じてからな。ほんまに信じとれへんけどな。でも、そういうふうに思わせて、全然あれですな。恐ろしいとも思わへんしな。

ほんとに、自分は軍国主義で、それ1本でしょう。それ信じて、しもうて。やっぱり教育いうたら、ほんまにえらいもんじゃなあ、思いますわな、今にして。あれだけ徹底した、軍国主義の教育したら、みなが、信じてしまうんやろなあ思って、わたしらも信じとったのな。

「兵隊でなかったら、人間でねえ」いうふうにいう、時分ですもんな。

終戦後も、まだ、いろんな事で、昔を思い出す機会があんまりなかった。せやけどやっぱり、ひょっと、こう思い出す事がありますわな。これ、死ぬまで、忘れられへん。

出来事の背景

【従軍看護婦が見た戦争】

出来事の背景 写真太平洋戦争中、召集を受けたのは兵士たちだけではなかった。日本赤十字社の従軍看護婦として三万を超える女性たちが戦場に送り込まれていた。

中国大陸、東南アジアの戦場に送り込まれた看護婦たちは、医薬品の補給もままならない中、傷病兵治療の任務にあたった。戦争末期になると、追い詰められた戦場で、過酷な運命に巻き込まれた看護婦も数多くいた。連れて逃げることのできない重症の兵士に劇薬を注射するよう命じられた人、中国人捕虜に対する生体解剖に立ち会わされた人、ジャングルの中をさまよった人、集団自決に追い込まれた人。中には、終戦後、その技術を求められて中国八路軍に従軍させられた上に、朝鮮戦争に巻き込まれた人もいる。

太平洋戦争中、赤紙で召集された日本赤十字社の看護婦は3万5785人、殉職者は1120人に及ぶ。

証言者プロフィール

1916年
岡山県和気郡に生まれる。
1933年
日赤看護婦養成所岡山支部で教育を受ける。臨時看護婦として召集。その後、東京陸軍病院郡医学校に配属。
1941年
265救護班として、中国大陸の漢江第15兵站病院、漢江第2陸軍病院配属。
1944年
312救護班として、フィリピン・マニラ第63兵站病院に配属。その後、比島139兵站病院、比島134兵站病院などに配属
1944年
9月、米国に投降。捕虜収容所へ。
1945年
日本の掃海艇で帰国。戦後は、兵庫県で農業を営む。

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