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タイトルタイトル: 「集団自決した看護婦」 番組名番組名: [証言記録 ] 従軍看護婦が見た戦争
名前名前: 道北 澄子さん(従軍看護婦 戦地戦地: ビルマ(ラングーン)  収録年月日収録年月日: 2008年

チャプター

[1]1 チャプター1 ビルマへ  01:38
[2]2 チャプター2 孤立した病院  06:08
[3]3 チャプター3 敗走  06:16
[4]4 チャプター4 追いつめられて  03:34
[5]5 チャプター5 銃撃  01:24
[6]6 チャプター6 とらわれの身  02:53
[7]7 チャプター7 帰国  01:25

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 ] 従軍看護婦が見た戦争
収録年月日収録年月日: 2008年

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十隻梯団、組んで、出発したけどね。ううんとあれは、宇品、出るときは一隻だったんよ。あくる朝、瀬戸内海を通って、九州の博多の沖、集結したん10個船団。その時は朝起きたら、もうバッと、10個船団組んでたわ。そいであらびや丸な、私ら。

馬小屋みたいな中で、私の友達の足がここにあんの。と、私の足のとこに友達の頭があんの。すし詰め。この船を二つに仕切ってね、輸送船でも。ほんでその二階と、下とに、すし詰めで10個班、乗ったんよ。救護班。

で、もう朝5時頃、点呼してる時な、裏の後ろの船やられたな、船団の。グアーンてな。こんなの。

ブザーが鳴ったん。ほんで、甲板へ集合したらね、もう船が無かった。ごう沈。3分やな。ごう沈ていうさ、3分。

106兵たん病院では、ちゃんと電気消毒器やったね、積んでる物資が。ほいで、消毒できたわな、詰め所で。そやけど、ローガ分院へ行って、ラングーン大学、今の。あそこにね、106兵たん病院ていう病院、兵たん病院ていうと、戦場と別で、後方にある病院。そこで勤務するという、予定やったんですわ。日赤の看護婦は。召集は義務付けられてたけれども、兵たん管区内において、勤務するっちゅうのが、既定だったんですわ。正規っていうものあるんですよ。既定っていうもんも、教育されるんよ。その中で、わたしはきっちり、習いましたけどね。兵たん管区内において、勤務するっていうその、あれ何条だったか、そんなん忘れたけど、ちゃんと正規というものの中に、うたわれてたわけ。

そやけど、戦争が負けてきてね、輸送船が自由に動けやんようになる、戦場がし烈になってくる。今までは、後退してた従軍日赤の看護婦が、私らの場合は、前進したの。ほいで、敵中突破をやったわけよ、包囲されたんで。ビルマ戦はね。インパール作戦をウ号作戦と、言うたんですわ。軍の秘密の中では私ら、ほいで、ウ号作戦に参加となってます。従軍手帳では。


Q:では後退して、後方で患者さんを引き受けるっていうよりも、自分たちが前線にってこと?

 もう、敵中突破せんならんようになったもん。もう後方へ、英軍とか、英印軍がなにしたり、戦車部隊が来たり。落下傘で下りるでしょ。皆もう、私ら囲まれてもたわけよ。ほんでその晩に、夜にパウンデーの兵たん病院ていう、もう戦場やけどね、そこを夜、抜け出して、ペグー山脈へ、逃げたわけよ。山へ逃げやなしょうがない。あの頃の撤兵作戦の患者さん、みんな山へ逃げてるんやね。

最後は治療どころで、ないですね。

3日、一週間おったんか。ほいで後方へ、患者さん残して、私ら前進したんな。もうそん時は、制服も何にも、着てないですよ。国防色に病院船で勤務するようにね、もんぺあったんですわ。もんぺと上着の開襟シャツ。そいでここへ、ブローチ付けて。それがね、もう私ら、友軍の飛行機が無いでしょ。敵の飛行機がウンウン、ウンウン猛りほうだいやして。もうわたしら、わたし命中、狙われたこともあったもん。こんなんウオオ―って乗ってる人、見えるくらいに下りてくる。友軍の飛行機が無いもん。交戦していくもんが。


Q:上空の近い所からも、自分たちが狙われてる?

 乗ってる人が見えてんの。ほいでその、そんな状態の中でもう、孤立したんよなあ、うちの病院な。

竹やり訓練したな、あの前に。竹やり訓練してなあ、仕事の合間に。お前ら、そんなんでは、人は殺せるかっていうてね。総長さんかい。ノナカ総長やない、ウスヒサ総長か。総長が来てな。やぶの中で、ねじらなあかんつうたな。殺せやんつうたな。


Q:ねじる?

 竹やりをね、鉄砲ないよって、私ら襲われてきた時のこと。敵の中に孤立してるから。女は、日本の女は貞操観念が一番教育されて。それを守るためには、笑いもせんと、金玉を蹴りあげよって言うたな。私、それ覚えてる。笑いもせなんだな。私もそん時、恐ろしかった、あんな変な話聞いて。

竹やりをね、パッと刺いただけでは、戻ってくんのやと。肉を巻くんやと。そやからウワッとねじよって、ほいてニュッと反せって。その訓練、わら人形へ突き刺す訓練、したなあ。

晩になったナタリンていう所で、火が燃えるのよ。何やしらんて言うたら、それは暴動。内乱。あの、警備隊を襲ってね。警備隊をほうぼうへ置いてるでしょ、日本軍が。警備隊も、もう5人とかね、もう十分置けやんのやして。ほいで5人程しかおらんというのが、分かってるからね。ビルマの防衛軍つうて、あのオンサン(アウンサン)、スーチーのお父さん、オンサン将軍が一番上やったんな、あれ。内地で教育されたな、日本に連れてきて。その人が反乱、起こしたんよ。ほいで、その反乱軍がね、皆ビルマの人が、日本の兵隊を襲ったんよ。

6人かな。私らは、わたしはかやの中を、かや林がね、ここまで水浸かってる、かや林の中へ逃げ込んだんよ。ウェドン村で敵襲、受けてね。あの裏のピュー川を、ここまで、水あった中を裏へ逃げたら、砂原に出たんよ。ほいたらそっから、かや林の中へ私ら、逃げ込んだん。この人たちは、こっちの細い道を行った、まっすぐ、シッタンの方へいったわけ。3つに分かれたな、あん時な。知らんとそんなん分かれてしもうてん。ほいてもう私ら、かや林の中へ入って、ここら、傷だらけ。ほいたら雨季やから、水がね、ここまで流れてるんよ、かや林の中。ささけてるでしょ、腐って。もう足の裏から、どこだい血みどろ。ほやけど出やな、しゃない。ほやから結局、シッタンの方向いて行けて、言われたんやな。あっち向いて、行けて。シッタンへ渡るよって言いやったもん。

あの朝ね、あれは5月18日かな、昭和20年。5月18日やったかな。あそこのマンダレー鉄道ね、夜中、越えたんよ。あのパウンデーを出てから、3月の28日に出たんね。それから、幾日間、野に寝たり、山に寝たり。ヒルのいる山やら、いろいろな山の中を抜けて、ほいで前の晩にね、シッタンから、ううん、ウェドン村からずっと、私がこれ後で慰霊巡拝に行って、分かったん。

ペグー山脈を降りた、その谷、こっちとこっちの山には、もうビルマの敵兵がおる。ほやから、その谷を渡らなしゃあない。ほいでカヅラ、分かります。山にあるカヅラ、あれを使って、3人ずつぶら下がって、ブァーって山から、雨季やから水落ちてるのよ、その所をね、怖なかったなあ、なんでやろ。パアーっと、こっちの方へバアーっと越すわけ。
ほいたらまた、手動って、言ってね、手で動かす、手動で次降りなさいって、こういうことや。ほいたら、次の人が3人また、ぶら下がってカヅラに、バアーって、飛び降りんの。ほいで谷が、ものすごい、デーデー流れてる。こんなんしながら谷、降りて来たんよ。ほいで、あのふもとで、幾晩も寝たなあ。寝たなあ、確かに。ほいで山を降りる、渡るんや、平野を出るんや、ていうことでな。ほいて、夜中に降りたいな、平野へな。で、後から、私ら行ったら、たいがい距離があったなあ。

そのだいぶ、距離あったなあ、あれ。ほいでペグーでない、ピュー、ピューの町で集結したんやしな。ほいて、こっちへシッタンの方へ、泥足でナガイさんが鍋かついで、ガラガラ、ガラガラって音したら皆、兵隊さん怒ってな。あの、そんな鍋ね、捨ててまえって。見つかるて、敵中突破やのに。ほいたらナガイさんが、殺されてもかめへんとやろな、私の前におったナガイさんて、小使いさんよ、使丁さん。怒るものは、怒れと。わしゃあ、これ飯ね、この若い看護婦らにね、落ち着いたら、鍋でいっぱい飯、食うていくでなって。食わしてやるまで、わしはこの鍋ほかさんって、言うたんよ、兵隊さんに大きな声で。闇の中で喧嘩したんよ、兵隊さんと。そんなこともあった。使丁さんも、良い人やったな。死んでもたけどな。

河、シッタン河。わたしは泳いで、渡りました。600メートル。ゴウゴウいうてた。わたしはね、紀の川っ子で自信があったんよ。

泳いで行ったんやけど。流されて、流されてね。ほいで、向こうへ着いて、ようよう、上へ上がって、そこで皆、婦長さんらと別々だったんやけど、婦長さんが、バアーっと後方から、船で渡してもろて来たのと、出くわしたんや。対岸で。それから皆、そんなぼさぼさしてたら、あかんて。友達がそこで、2人死んだんでね。私らもう、立つ元気もなくてね。おいおい、泣いてたわけよ。そいたら、元気出さなあかんて、婦長さん言うてね。婦長さんと一緒になってね、そっから行動したんよ、裸足で。もう、着の身着のまま。ほっから山へ、あの山へ行けて、言われてたから、あの山、行きましょうと。その山だけを目当てに。ところが、方向違いへ行ってたんかなあ。晩になったら、分からんようになるもん、真っ黒けで。で、山の中で、皆、いろいろと裸足で歩いてたんよ。

そこでね、私ら休憩してたん。その日は雨上がってね。ものすごい青葉が萌えて、もう食べてないし、雨ばかりの中でしょ。ほいで、ダンダン、ダンダン地雷が晩に鳴るしね。寂しかったん。ところがもう、緑の青葉が萌えてたんよ、天気が良くて。ほんでその下へ、皆、ああって寝転がったん、久しぶりに。ほしてねえ、その木の葉をちぎって食べて、ちぎって食べて、あのひもじいていうことも、無いな。お腹すいてしもたら。

そうしたら、で、皆あてにしてた。ほしたら、ビルマ防衛軍の本拠地やったんよ。それを知らんと、私ら平気で、そこで、一服してたん、見つけられたんよ。ほいで、バンバン、バンバン撃ってきたんよ。ほいでまた、林の中へ逃げ込んだんよ。

ほいで逃げこんで、その時に自決しようて。もう、あかんから、自決しようて。ほいたらその時に、ウエハラさんていう上等兵、一人、入ってはったんよ。その人が、もう死ぬのは最後や、ついてこいって言うたんよ。ほいで皆もう、首グワーっと自決、バンド取って、自決するって婦長さんのね、言うことに従って、ワーッとやりだしたら、ついて来おいって、言うたんよ。ほいたら婦長さんが、バーっと走ったら、私らも後ついて走ったん。ほしたら、ウェドン村やったんやそこが。ほいで、きれいな川をピュピュピュと、晩に渡ったの記憶してたん。ほいたら今度、行ったらやっぱりその川、流れてた。川っていうより、水たまりかな。その所で皆、亡くなったんよ。

ベルト外して、やられて。婦長さんね、敵にやられる前に、ヤマモトさんに、後からになって分かってんけど、捕虜になるんだったら自決しなさい、って言うたんやと。

その時分はね、あの日本軍に言われてた言葉はね、貞操を奪われる。日本の女の貞操って、その時代すごかったんですよ。ほいで、貞操を奪われるっていう婦長さんは、心配やったんやと思う。そやから、もう辱めを受けるんやったら、そんなに言うたもん。

まあ、敵弾を受けるっちゅうことは、それよりも自分で先、死ぬんが人間の誇りだったんと、違います。

ほやけど、なかなか首吊るっていうことは、たやすいですよ。もう意識が、ムーんって耳、鳴ってきたらね、ほいたらもう、手緩んでくるんや。なかなか、死ねませんね。ほいで食べてないし、力、無かったんかなあ。

一斉に、撃ったでしょ。ほいだもう婦長さん、ゼーッゼーッていうてたわなあ。呼吸困難。で、私自分もやられてるから、ぼうっとしてきてるし、ぎょうさん出血したもん、私。ほんで、その婦長さんのとこへも行けやん。自分も。手の先こう、妙に痺れたりね。そやから婦長さん、苦しかったんちがう。胸弾、当たっちゃったていうもん。

集中的に撃ったんよ。ところが、私がこんな大きな木の下へ、すくんじゃったわけよ。そいで弾が、はじいてくれたんよ。ほいで足だけぎょうさん、当たっちゃった。こっちに5発と、こっち粉砕骨折。


Q:でも、その時に亡くなられた方も、何人もいらっしゃったんですね? その時に?

 私の足元にイケダ・ヤエさん、カノさん、横にタナカ・キミヨさん、婦長さん、4人か。

あっ、ハラ・スミエさんもおった。あそこに。

いやあ、それからはね、隙があったら死んどう思ってたよ。ひもが無い、死に様が無い、手に力が無い。そやけどね、そんなに絶えず思うてた。

ウジ虫入って、シラミわいてもう。頭はシラミで、傷はウジ虫だらけ。敵の、ビルマのなんかなあ、イギリス軍の一番いいとこ。そこの一番、偉い大尉さんのいてたニッパハウス(ニッパやしの葉で屋根をふいた小屋)のとこへ私、連れてかれたんよ。毛布に包んで。その毛布包んだ、その血の付いた毛布のまま、そこに寝さしたんやな。ほいたらおしっこしたら、そのこんなんでしょう、あの床が。竹で組んで。ほやから、べジャべジャべジャって下へ落ちるわしてな。食べてないさかい、うんちはせんかったけど。ほいてもう、こんな床ずれで。うん。ほいで死ねやらんだ。

そこでね、この従軍記章と同じように書いた、寄せ書きを見たんよ。あの、足が立てんさかい、ぐるりにそのなにし、死に様が無い私。ひもも、何にも無いし。ほいたら、その目があるわいして、ほいで、イギリスの将校の。あの寄せ書きしてあったで。

従軍記章の輪に、名前ぐるり書いてね。クワタさんがね、これは、あなたの友達ですよって、見せてくれたんよ。私あの時、ナガイさんといやったんかいな。ラングーンの前線分室だった。その記憶がはっきり残ってる。ほいたら、その愛国で死のうという意味の、短歌を書いてあったな。なんやあ、今、忘れたけど、「外つ国、生き延びや」と書いてあったな。コダマさんの字や。ほいで日本赤十字社、第499救護班って書いて、この真中にこんなん楕円形で書いて。

Q:道北さん、その当時の、その時のことを今、思い返すとどうなんでしょう? どんな、思いが出てきますか?

 どんな、思いっていうても、もう追善供養するより、しょうがないわな。追善供養。ほいで、水飲みたい、きれいな水、腹いっぱい飲みたいて、言うてたんやら、そんないろいろ、時々話してたことを思い出して。まあそやけど、月の内には、一晩くらいは、いろいろ思うし、戦争の本ばっかり読むもん。

まあ、敵の中、ワッと生きてきて、友軍も敵軍も、皆それぞれ苦労さして、戦争したろ。殺し合いやもん。無意味なことやして。もう私、戦争反対するよ。

出来事の背景出来事の背景

【従軍看護婦が見た戦争】

出来事の背景 写真太平洋戦争中、召集を受けたのは兵士たちだけではなかった。日本赤十字社の従軍看護婦として三万を超える女性たちが戦場に送り込まれていた。

中国大陸、東南アジアの戦場に送り込まれた看護婦たちは、医薬品の補給もままならない中、傷病兵治療の任務にあたった。
戦争末期になると、追い詰められた戦場で、過酷な運命に巻き込まれた看護婦も数多くいた。連れて逃げることのできない重症の兵士に劇薬を注射するよう命じられた人、中国人捕虜に対する生体解剖に立ち会わされた人、ジャングルの中をさまよった人、集団自決に追い込まれた人。中には、終戦後、その技術を求められて中国八路軍に従軍させられた上に、朝鮮戦争に巻き込まれた人もいる。

太平洋戦争中、赤紙で召集された日本赤十字社の看護婦は3万5785人、殉職者は1120人に及ぶ。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1926年
和歌山県那賀郡に生まれる。
1943年
日赤看護婦養成所和歌山支部卒業。召集、490救護班としてビルマの首都ラングーン、第106兵站病院に配属。
1945年
パウンデーの第118兵站病院へ。ビルマ民兵の襲撃を受ける。インドで療養。
1946年
イギリス軍の病院船で帰国。帰国後は、和歌山県で看護婦として勤務。

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