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タイトル 「米軍装備の中国軍が包囲」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] 中国雲南 玉砕・来なかった援軍 ~福岡県・陸軍第56師団~
氏名 末吉 政徳さん(第56師団 戦地 中華民国(雲南省拉孟)  収録年月日 2008年11月11日

チャプター

[1] チャプター1 フィリピンで知った「ハワイ攻撃」  04:51
[2] チャプター2 敗走する中国軍  04:40
[3] チャプター3 中国軍の変貌  05:18
[4] チャプター4 完全包囲  05:50
[5] チャプター5 持久せよ  02:46
[6] チャプター6 尽きていく弾薬・食糧  03:43
[7] チャプター7 死を待つ持久作戦  03:00
[8] チャプター8 拉孟の「玉砕」  03:25
[9] チャプター9 戦争の傷跡  04:25

再生テキスト

コロル島ですね、コロルとガラスマゴ島、そこに、あの、もうわたしたちは渡っておりました。待機しておったわけでございます。ですから、その当時は、戦争がなければいいがなというので、あるか、ないか、とにかくですね、実際のところ、ようございますかね、あのう、わたしたちはですね、子どものころからですね、あの、アメリカと日本は、子どものころ、小学校のころから、人形を各学校にですね、アメリカの各学校、日本の全国の学校、小学校に、アメリカ人形と、それから日本人形を交換しましてですね、そして、親善のロンコウになるように、とにかく、あの、エー、歌を、人形の歌を歌ってですね、ずっと暮らして子どものときから育っておりますから、アメリカとは戦うのはいやでございました、実のところですね。本当にもう、何か兄弟みたいな気持ちでね、アメリカ人というのは兄弟みたいな気持ちでおりましたから、そのところは軍部というのは無視したんじゃないかと存じておりますね。

それまでですね、海岸に貝をとりに行くような、魚をとりに行くようにしてから、コロル島でから、あのう、待っとったわけですけど、そのときに、あのう、まだ、戦争はあるだろうか、ないんだか、どっちだろうかというふうの気持ちで海岸でから遊んでおりましたら、そしたら、早速、あのう、上のほうから兵隊が2~3人走ってきよりますもんで、海岸のほうに向かって。ですから、ありゃ、何事か起こったなと思ったところが、太平洋戦争のですね、そのぼっ発でございますよ。ハワイの攻撃。その結果をもう、すぐ無線でわかりましたから、それを、ああ、とうとうやったなというふうで、もうしかたがないなと、それから腹を据えたわけでございますね。アメリカ人と戦うのか、いやだなあ、それでもしかたがないと腹を決めたわけでございます。

それからですね、もう、それまで、やはり演習を、上陸、上陸演習なんかをやっておりましたけどですね、それからもう4日目か5日目だったと思いますが、あのう、早速、あのう、坂口閣下(支隊長・坂口静夫少将)の、こんな国際情勢になっておるということのお話がありましてですね、それから早速、海岸に、海岸のほうに向かったわけでございます。隊を組んでですね。そうしたところが、ズラーッと海軍の、その、護衛艦ですね。その当時が神通(軽巡洋艦)だったと、戦艦の神通(軽巡洋艦)だったと思いますが、それに、あのう、駆逐艦、護衛艦の、あのう、潜水、潜水艇、潜水艇じゃないか、あれは。エー、ちょっと小型のですね、あのう、ちょっと、そのう、海軍のほうはどうもわたしは詳しくないもんですからですね。もうズラリ、それから軍用船、合計ですね、その当時の記憶で数えて71隻でございました。ズラーッと並んでおりました。

Q:どこに並んでたんですか。

その、あのう、コロル島沖でございます。海岸の沖に。それに向かってから、その、住民に、ガラスマゴ島のですね、住民の方たちの、あのう、ボーキサイト工場がありましたからですね、日本人が、邦人がとっても多うございましたから、見送りをいただいて、そして乗船したわけでございます。

そして、あのう、拉孟においてやっと、あのう、追いつきました。そして、追いついてから、そしたら、敵はですね、もう、もう、あなた、もうあとからどんどん、あのう、追撃するもんですから、もう、とうとう、800台の車両が渡り切らずに、どのくらい車両がまだ残っとったのか、わたしたちは、歩兵の本科の方たちがそこのとこ、よく存じておりますけど、わたしたちはもうわかりません。残っとった車両がですね、兵力がどのくらい残っとったこともちょっとわかりませんけれどもですね、そしてから、どんどん鉢巻山を、そのう、どんどん登っていきよるのがわかるわけですね。そして、こちらからですね、砲兵がですね、命令によってから、あれを、その、エー、怒江のですね、まだ手前からの高地からですね、あれを撃っとめろという命令が出ましてですね、砲兵の人が、あれは野砲だったと思いますが、野砲だったと思いますが、先頭車に向かってね、あのう、観測をしましてですね、エー、参謀長もそこにおられまして、わたしたち無線も、そこで電報をもらわないかんもんですから、参謀長のところにおりました。そしたら、あの、1発目からですね、観測して撃ちましたところが、1発目から、先頭車のですね、その800台の先頭車に見事に命中しまして、それから、あのう、2~3台を砲撃してからやりまして、もうその車両の兵隊たちも散らばってしまって、もう完全にとまってしまいました。

ですから、あの800台を、もうあとを撃たんから、2~3台、まあ先頭車を2~3台やっといて撃たんから、あれを日本軍でちょうだいするんだなということをわたしたちは考えておりましたけれども、怒江の橋を渡して、怒江の橋をですね、落としていっておりますら、ああ、ここのとこはどうなんだろうかというふうなことを考えておりまして、そしてから、エー、部隊がですね、そのう、橋は橋梁を落とされておりますけど、工兵の舟艇において、あれ、ゴムボートといいますかね、それで、あのう、どんどん、向こう、対岸に渡りまして、そして攻撃戦が始まったわけでございます。
 
それから、攻撃最中にですね、連合軍の戦爆連合がたしか40機ぐらい来たと思いますが、そしてから日本軍を爆撃、あのう、渡河しておる日本軍を爆撃いたしましたんですね。そこのところは、わたしもですね、わたしの分隊も、無線分隊も、その、一緒に渡江しましたけど、わたしはですね、マラリアを患ってから動けんもんで、40度の熱出して動けんもんですから、分隊長が「お前は荷物の監視をしてくれ」ちゅうてから命令が出まして、そして、荷物を、あの、監視して、あのう、トラックの、わたしだけが乗っておりましたトラックの荷物を監視しておりました。

そうしたところが、もう、もうですね、眼鏡がないからわたしたちはこっちはわかりませんけど、坂口閣下なんかはもう、もう双眼鏡でじーっと見ておられましたですね。

はい、変わっておりました。それはもうですね、あのう、連合軍として変わりましたから、敵はですね、連合軍としてから。アメリカの軍隊とか、もういろいろとですね、インドの兵隊さんやら、いろんなですね。もう、ですから、もう、今までの中国の兵隊さんとはカラッと違ってきました、強さが。そしてまた、中国の兵隊さんがですね、日本軍と対するときの兵隊さんは、中国の兵隊さんといえども連合軍から特別教育をされた兵隊さんたちが来とりますからですね、今までの、過去の、その、中国軍とは全然違います。兵器も全然違うしですね、装備そのものが全然違いますから、強さがですね、もう、日本軍からしてももう手に負えない状態となってきましたよ。

その当時の中国軍は、あのう、愛国心はもちろんあったでしょうが、兵器も悪いしですね、それから、昔の、何か日本の村田銃みたいな銃まで使っとったようなふうでございましたが、それまでの中国ちゅうのは、兵器も悪いしですね、兵力としてもうとにかく、まあ、首脳部は、結局は指揮者は日本の士官学校を出た士官ということを聞いておりますけど、ほとんどですね、日本で、の士官学校で教育を受けた、あのう、指揮者だということを聞いておりますけど、兵隊さんたちはですね、もうとにかく服装も悪いしですね、もうワラジを履いて戦っとりなさる人も多いし、ですからね、もう、ちょっと、その当時は装備も悪いし、ちょっと、国の、そのですね、兵隊さんとしてはちょっと、日本軍から考えたらちょっと、あまり劣り過ぎたと思いますよ、その当時はですね。

ところがです、はい。もう、装備が、中国の装備がですね、もう、拉孟を攻撃した以後、連合軍が、もう中国の兵隊さんももうわざわざ何か、アメリカ軍のほうに引き寄せられて教育を受けるやら、連合軍化してしまってから、もうとにかく、もう兵器もコロッと変わってしまってですね、日本軍も手に負えんような、その、強力なる連合軍に変わってしもうとりますからですね、もう今までの中国とは全然変わってしまっとります。

機関銃からですね、違う。機関銃は、あのう、チェコ銃といって、とってもよく弾の出るやつですね。ガガガガガーッちゅうてから、音も違うしですね、チェコ銃の機関銃でしょう? それから、もうとにかく兵器そのものが、もう、小銃から、自動小銃から、もう兵器がコロッと変わってしまいました。日本の、あのう、兵器そのものは、ああ、おくれとるな、これはだめだちゅう、もうどうもこうもできない。日本はそうしてから、あとから補充してきた兵隊さんたちは、あなた、もう、あわれなもんですよ。服装だって悪いしですね。あとで聞いたらですね、日本は、その、もう負けいくさになったころは、帯剣のさやまで何か、帯剣のさやまで、兵隊さんの、竹でつくってあるような状態になっておるということを聞きましたよ。あと補充で来た人たちはですね。小銃だってから、どうも、その、うまくいっとらん、あのう、うまくこうわたらないような状態だと聞いておりました、日本の国情そのものがですね。

いえ、その当時はですね、あのう、死守でもありません。ただ、あのう、当たり前に敵と戦えです。当たり前。そしたらですね、拉孟、包囲されてしまったでしょう? 完全に包囲された。米軍、米式で軍隊でから包囲されてしまったでしょう? 騰越が包囲されてしまっとるでしょう? わたしたちは水上閣下と一緒にミイトキーナに行ったら、ミイトキーナも包囲されてしまっとるでしょう? どうにもこうにもですね、もう、救出、師団のほうで救出、軍のほうで救出するにも救出できないように包囲されてしまって、もうどうもこうもですね、できんような状態になってしまったんですよ。ですから、結局はもう救出し切らんから、死守、固守、死守というのは死んで守れ、固守というのはかたく守れ、その繰り返される状態で、拉孟、拉孟と、それから騰越なんかは、あなた、包囲されてしもうて、救出できないんですよ。
 
その当時、わたしたちはミイトキーナから隊長とたった2人で脱出して、やっと拉孟に、拉孟じゃない、芒市に届いとるに、隊長と2人でから龍陵に、話はちょっととびとびになりましたけど、龍陵にたった2人で追い出されてしまってですね、そして、そこに、あのう、1区画を守っとったわけでございますが、とにかくですね、もう全然、もう拉孟・騰越をそうして救出と、救出せよとかいう命令は来てて、救出、何を考えとるかと。もう、あなた、もう龍陵そのものが十重二十重と包囲されてしもうとるんですから、救出せよなんて、そんな命令出すのがおかしいですよ、当時に、ですね。ですから、救出しきらなかったから救出しきらないでいいんですよ。さがれとただ命令をやれば。
 
兵隊さんをばかにしてしもうとるからですね、兵隊たちを、第一線の将校たち、兵隊をばかにしてしもうとるから、救出せんと脱出しきらんぐらい思うとるとですよ、上の人たちは。救出しきらんなら救出しきらんでから、さがれとただ命令を下せば。何、そのくらいのことは救出してもらわんでもみんな知ってますよ、兵隊たちは。頭の鋭いんだから。後方のですね、そのう、師団司令部とか軍司令部の考え方と全然そこに隔たりがあるんですよ。小さいときから苦労して育っとるんですから、一を聞いたら十を悟るみんな兵隊さんたちですよ。救出しきらんと救出してもらわんでもいいわけ。
 
それに付属して、ちょっと付随してお話ししますけど、中国軍だってそうですよ。日本軍がですね、完全に包囲してしもうとったって、討伐に行きましてね、討伐して、小さな道までも立派に包囲してしまってからあしたは全滅だといったら、夜が明けてみたら1人もおりませんよ。ちゃんと、人間の通るようなですね、道は通りません。ヤブの中をさがってしまいます。そんなことをちゃんと日本軍は知っておりますから、中国に早く言うたら見習っておる状態がもう頭にしみ込んでおりますから、ただ、さがれと言えば、救出しきらんなら救出しきらんでいいんですよ。さがれの命令さえくれれば。
 
部隊として、まだ部隊をなしとるんですから、何、そんな、包囲するって、包囲するとすればですね、あなた、いくら包囲しとってもですね、1か所を切り開いていくんですから、さがるときは。ですから、同じ兵力ですよ、日本軍と、結局は。それはものすごい兵力でから包囲されておりますけど、日本がある弱いところをさがってくるときはですね、包囲を切り開いてくるときは1対1で10対10なんですよ。そのぐらいのことは兵隊たちは知っておりますよ。何やっとるかと、何を考えとるかと。救出、救出言うてから、救出する、しなければいけない。あのう、龍陵だって包囲されてしもうて動けん状態でしょう? ね。それがじーっといよいよ最後まで救出しきらんから、みんな、騰越も拉孟も1兵残らず死んでいったじゃないですか。何を考えとるんじゃろうと思う、ですね。当時、そんなことを考えておりますよ。

成功するはずがございません。もうそのときは包囲されてしもうとるんですから。龍陵そのものも包囲されてしもうとるんですから。そうして、あなた、もう、夜が明けたなら、まあ日が暮れるまで、ずーっと砲撃、機関銃でからですね、もうとにかく、もう、攻撃したって、みんなもうとにかく1つも効果は出らないような状態でございますから、拉孟とか騰越をですね、救出するなんて、そんな、断作戦なんて、そんなことはちょっとおかしいんですよ、考え方がですね。当時から、当時そのものが何を考えとるんじゃろうかということをずっと考えておりました。それは成功するはずがありませんよ。救出、さきにも申し上げましたように、救出せんと救出できないぐらい、大きな間違いです。ただ脱出しろのひと言でからちゃんと脱出するとですから。それがわからんのですよ。救出しなければ助けることはできないぐらい考えとるんですよ。

そうですよ、脱出せよとひと言でよかったんですよ。そんなことでですね、だから、もう、その機会、やっぱ機会がありますからね。ね。最後で、あなた、弾薬まで、食糧も何日も食べてない、弾薬なんかもへとへとで歩くことも歩かれん状態でからですね、そのときに脱出せよちゅうたってそれはできませんよね。ですから、ちょっと早めに、もうさがれとたったひと言でよかったんですよ。

後方はなら何をやっとるか。そんな期間があっとるのに、何をこう着状態でからその拉孟・騰越をいつまでほったらかす。後方は何を考えてやっとったんじゃちゅうことです。

補給がない、食糧が、わたしはミイトキーナが主として考えますけども、ミイトキーナ、補給も何にもない、食糧の補給もないし、弾薬は切れてしまってから、もうですね。拉孟でも弾薬は切れてしまって何も補給がないし、騰越もそうだし、もうですね。龍陵は、昔、あのう、そこに野戦倉庫がありましたから、龍陵は野戦倉庫に師団がですね、お金を、いや、あのう、物質を残して、食糧なんかを、食糧だけ残して、どのくらい戦うという、その、やはり、それ、戦う期間のですね、置いていっとったせいか、龍陵だけは食糧は困らなかったですよ。しかし、拉孟・騰越あたりは食糧がなくてから、もうどうもこうも、弾薬も切れ果ててしまってですね、そして、敵さんはですね、その前に弾薬消耗戦をやっとりますから、それに引っかかっております。毎日毎日、飛行機で来て、弾薬の、あの、消耗戦をその前にやっとおります。わたしが、ミイトキーナに、あのう、行くということを聞いて、その前の晩に、「ああ、そうだったか、弾薬の消耗戦だったか、これは」と思ってから、思ったけれども、もうですね、わたしたちが、一等兵が将校の方に言うたってどなられるのが関の山、「そのぐらいのことはわかっとる」と怒られるのが当たり前だし、分隊長に言うてくださいと、言うてくれちゅうて頼んだけれども、分隊長も迷うてからですね、ミイトキーナみたいになるということを見通しがつかなかったんでしょうね。言い切らんな、そのままわたしたち、ミイトキーナに行ってしまいましたよ。あと、当然、あなた、弾薬補給、全然つかんごとなってしもうとるでしょうが。

だから、薬品だって何もありはしません。ね、負傷したって、あなた、注射1本打たせんな、そのままで切るんですよ。腕でもそのまま切り落とすんですよ。麻薬がひとつあるわけじゃなしね。わたしも3か所やられましたけどですね、3か所やられましたけど、あなた、馬につけるヨーチンを流し込むんですよ、こう深さを見といて、3か所。横っ腹、これ、命取りやったんですけどね。何も、痛みどめひとつあるか痛みどめひとつ打つわけじゃなし、龍陵で、わたし、やられたんですけど、1拍ごとに体全体がズキーンズキーンズキーンと、1拍ごとに体全体が痛むんですよ。そこに痛みどめの薬が1発、わたしだけじゃない、みんなその状態で死んでいくんですからですね。

包囲されてしもうてからですね、最後、食糧も弾薬も切れ果ててしもうてから、もう体は動けんようになってしもうたら脱出どころじゃございませんよね。もう死を待っとるだけのことですよ。死んでいくんだ。戦友はバタバタ死んでしまってから、死体は、あなた、ね、腐乱してしまってから、中国の兵、中国の死がい累々としとるし、ですね。ただ、ほんと戦うだけですよ。鬼のよう。

そして、だいいちですね、顔がですね、鬼の顔になってしもうとります、みんな。もうこけててしまって、ほおはこけててしまって、ここら辺がもう落ちてしまってですね、ただ角のない顔だけ。そして、目はですね、つり上がってしもうて、この両側の両方から血管が走ってですね、ああ、もうとにかく、おれもあんな、ミイトキーナの例ですけど、あんな顔をしとるんだと、恐ろしい顔になりますよ。鬼の顔になってしまいますよ。やせてしもうてですね、龍陵になってから、あの、騰越だってですね、拉孟だって、同じですよ。もう鬼の顔です。おれもあんな顔に。それで、わたしはね、ミイトキーナで、話はとびとびになりますけど、ミイトキーナで、「お前は人相悪いね。鬼だよ」ちゅうて言ったら、「お前も鬼じゃないか」ちゅうことで、あ、そうか、自分もこんな顔になっとるのかと思いましたぐらいですから。

死んでいくんですから。だから、シラミでも、あなた、戦争中、風呂なんか入らんでしょう。シラミが体にダーッとはい回っとったですよ。雨降りなんかのちょっとでも戦いのないときはですね、裸になってここでブツブツブツブツブツブツーッて卵を親指で殺してしまうんですよ。しかし、いよいよ死なにゃいかんときは、あ、おれと、これはおれと一緒に死んでくれるんだと、おれが死んだら、これと、このシラミと一緒に死んでくれるんだと思って、もうシラミにもですね、愛情がわいてから、もうシラミなんか殺さんごとになってしまいますよ。そんなものですよ、人間というのは。皆さん、こんなこと話しなされん、忘れてしまいなさっとるでしょうね。シラミにまで愛情がかかってくるとですから。

そのとき、もうですね、どうして早く脱出せん、脱出命令をやらんか、救出しきらんなら救出しきらんでいいから、脱出、ただ脱出せろのひと言でいいじゃないかと、ずーっとそれでからむかっ腹を立てておりましたよ、ですね。わたしは、戦友たち、それから、戦友たちが、あのう、騰越にはまだ何十人とおるとですよ、残留した、そこに、あのう、守っとった人たちがですね、無線分隊でもですね、ちゃんと1個分隊ピシャッとですね。ですから、もう、とにかく、もう腹が立つ、今考えたって、もう本当に申し訳ないですよ、戦死した人たちにですね、何やっとったんじゃろかちゅうてから。救出しきらんなら救出しきらんでいいの。芒市方面のお偉方は、あのばかたれがと思うだけですね。何をやっとったんじゃろうかと思ってから、腹が立つばっかりですよ、ほんとに。いろんなことがあるんですよ、まだまだ話せないことがですね。

これは実際、日本国を守るためですから、名誉、名誉のためにという気持ちだけは、これは去りませんね。もう、あの、実際のところですね。あのう、話がとびとびになって申しわけないですけど、戦地でもですね、「お母さん」と言うて死んでいったちゅうて、みんなうそですよ、あれは。お母さんなんて言って死んでいくのは1人も聞いたことはない。死んでいく、黙って死んでいきますよ。死はですね、長年、死を覚悟しとったですから、解脱もちゃんといただいとるしですね、解脱も神様からいただいておるし、死は何とも思っておりません。ただ、いけてもらうところをきれいなところにいけてもらいたいちゅう、それだけです。死は何とも思っておりません。最初からもう、国を守ると、国のためだという気持ちがあってですね、親のことも何にも考えない。母のことも何にも考えません。そんなことは、とうの昔にそんな気持ちはもう去ってしもうとりますよ。勝ちいくさのときだけですよ、そんなことを考えとるのは。負けいくさにかかってからはですね、親のことなんか全然考えやしませんよ。ただ国家のために死んでいくんだという気持ちだけですよ。わたしだけじゃない、みんなそうだというふうにね、わたしは思っとる。


これは、あのですね、あのう、わたしたちはタイ国のケマピユというところで終戦になりましたですね。ほっとしました。助かった。助かるなんて全然考えとらなかったのに助かった。負けたなあ、残念で残念でしようがなく、日本国はどうなるんだ、どうなるんだと考えながらもですね、助かったなあ。その反面に、残念で残念でたまらないけれども、ほっとしました。戦友もそう言うとりました。助かった、助かるなんて全然、助かって帰るなんて考えておらなかったんですから、助かったと思って、その先のことなんかもう全然考えんようになってしまいましたね。それから自然にですね、いろんなことが考えていく余裕が出てくるちゅうことなんです。

もう当時はわたしたちも救出作戦で龍陵に行っておりましたが、自分らがもう命の飛ぶ、わたしもやられて、3か所やられて、埋められるばっかりになっとったし、もう死というのは、何か頭がもう、ただ死あるのみでですね。

実際のところは、もうわたしはずーっとこのことを考えてきましたけれども、前世においてですね、相当わたしたちは前世でも戦うてきた人間であるということを確信しております。そして、これが業となって、やはり大東亜戦争に引っかかってしまった。そんなことなんかも痛切に考えますね。ですから、忘れようたって忘れられるもんじゃないし、人に聞いてくれという気持ち、いくら聞いてくれなんて言うたってわかるもんじゃないし、ただ、夜、今でもやっぱり考えます。寝といてじーっといろんなことの考えが頭に浮かんできますよね。とにかく、もう、とにかく、もう、ただ、無だと。無であったということを。もう考えたくありません。それは、帰ってきた当時はですね、マラリアが出るやらなんかしてから考えよりましたけど、もう現在はそんなことは考えたくありません。考えれば考えるほど、上層部の人たちを批判するのがもう関の山ですからですね。ですから、もう、いろいろなとき、ああ、戦友たちがこうして死んでくれた、おれは戦友たちのおかげで助かって帰ってきたんだ、だから、朝夕にお祈りしとる。今日ですよ。もうずーっとですけどね。

出来事の背景

【中国雲南 玉砕・来なかった援軍 ~福岡県・陸軍第56師団~】

出来事の背景 写真昭和17年(1942年)3月、日本軍は英領ビルマ占領の勢いに乗じ、ラングーンから中国雲南省・昆明に至る全長2300キロ、連合軍による蒋介石への重要な補給路、ビルマルートの遮断に動き出す。

5月、日本軍は中国雲南省に到達。ここでの戦闘で日本軍は優勢に立ち、敗走する中国軍は自ら橋を爆破。ビルマルートは遮断され、日本軍の使命は達成されたかにみえた。

それから2年間、中国軍との大きな戦闘もなく平穏な日々が続いた。しかし、その間も連合軍は中国軍に空からの支援を継続。反攻の機会をうかがっていた。昭和19年5月、米軍によって最新兵器を与えられたうえに徹底的に鍛え上げられた中国軍がついに反攻に転じた。

6月7日、日本軍の拠点の一つ、龍陵(りゅうりょう)と拉孟(らもう)の間に中国軍が侵入。補給路を断たれた日本軍は孤立。日本の兵力はわずか1300名。対する中国軍の兵力は4万。戦況が深刻化するなか、7月中旬、守備隊に「断作戦」が伝えられた。断作戦とは、連合軍の補給ルートを遮断し、同時に援軍を投入するというもの。しかし、インパール作戦に失敗した直後の日本軍は、
拉孟に援軍を送れる体制になかった。

中国軍に包囲され、食糧も弾薬も尽きた状態で兵士たちはざんごうに身を潜め、援軍を待ち続けた。7月下旬、中国軍による総攻撃が始まり、昭和19年9月7日、持久戦を強いられてきた拉孟の守備隊はついに力尽き、全滅した。

証言者プロフィール

1917年
福岡県糟屋郡須惠町に生まれる。
1937年
現役兵として久留米無線電信教習所に入所。
1941年
召集により第56師団混成第56歩兵団に入隊。フィリピン、ミンダナオ島上陸。
1942年
第56師団に復帰。中国雲南省の拉孟、騰越、龍陵を転戦。
1945年
終戦当時、28歳、伍長。
1946年
復員。

関連する地図

中華民国(雲南省拉孟)

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