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タイトル 「小隊長として脱出を指揮」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] 中国雲南 玉砕・来なかった援軍 ~福岡県・陸軍第56師団~
氏名 藤井 大典さん(第56師団 戦地 中華民国(雲南省拉孟)  収録年月日 2008年10月29日

チャプター

[1] チャプター1 かんこう令が敷かれた行き先  03:12
[2] チャプター2 目標はビルマルート遮断  06:41
[3] チャプター3 到達  01:29
[4] チャプター4 制空権は連合軍が握っていた  01:37
[5] チャプター5 陣地構築  02:36
[6] チャプター6 変貌(ぼう)した中国軍  03:19
[7] チャプター7 降り続く大雨・蔓(まん)延する伝染病  02:08
[8] チャプター8 拉孟守備隊の孤立  03:46
[9] チャプター9 拉孟の陥落  03:17
[10] チャプター10 終戦の知らせ  02:50
[11] チャプター11 終戦、復員  03:06

再生テキスト

そして、朝ですね、えー、昭和17年になりますかね、2月の15日、ちょうど旧正月ですね、雪がちらちら降ってましたが、そのときはラッパを先頭に威風堂々と福岡の営門から、一個連隊、それで大隊ごとに出て行きましたね。列車に乗るのがですね、そのころの113連隊が、連隊本部と連隊直轄部隊が、最初、出て、それから翌日が1大隊、それから2大隊、3大隊っていうふうに大隊単位で輸送が。大体、1列車にちょうど900人前後、乗るんですね。そういうことで、わたしの3大隊は大隊長以下909名でございました、編成当時、これはよお覚えております、で、909名が乗るのには1列車ですね、ええ、ちょうどいいということで。吉塚から乗って、で、門司で一緒になりましてね、で、門司から船団を組んでビルマに行ったわけです、はい。

Q:そのときはどれぐらいの船団を組まれて行ったんですか?

52杯、はい。やっぱ、わたしが乗った船は3000トンていう、妙高丸という小さい船でございましてね、3大隊本部と防疫給水部と、野砲が一部、乗ってましたかね。3000トンの妙高丸です。小さい船でした。しかし、あとはやっぱり何千トン級の、大きな、やっぱ、船があって、52杯、船団を組んでですね、えー、17年でしたかな、2月の15日に、六連にいっぺん集結しましたね。六連ってわかるでしょ? 六連、六連のあの沖でですね、52杯が集結しまして、一晩泊まって、そして翌日、船団を組んで、大体もうほとんど陸地沿いに行きました。潜水艦がたくさん来てました、はい。
 
で、シンガポールでいろんな、軍票、それから地図、なんか、いろんな、たくさん貰いましてね、「はー、ビルマに行くとばいね」っちゅうわけですよ。シンガポールでやっとわかりましてね。で、兵隊によく「なぁんぞ」とか言って、それをたくさん貰って、それで船に乗って、そしてラングーンに上がりました。で、ラングーンに上がってからは、専ら、もう、ずっと行軍ですね、ええ。

そうですねえ、あのー、最初、ラングーン、上がりましてね、トングーで初めて敵の陣地にぶつかりました。っていうのは、中国の兵隊が、中国から、こう、雲南省、ビルマに出てきて、ビルマルート、例の援蒋ルート、あれにずーっと陣地作ってました。それでわたしども、ラングーンから上がったら、トングーでですね、もう前の部隊がやり合いよるわけです。で、そのころ、ご存知だと思いますが、146か、あの大村(連隊)、これが1回、抜けてますもんね、坂口兵団に行って。それだから56師団は歩兵は久留米の48、148と113の2個連隊です。この2個連隊でですね、ラングーン上陸を交代でこうして攻めて行ったです、交代交代に。で、一戦争をする、陣地をやっつける、敵が逃げる、そして戦った部隊は一応そこでまた弾薬の補給をしたりなんかする、と、こっちがあとから上がって行ってまた追っかけるっていうようなことで、ラングーンからずーっと雲南省に入るまで、48と113が交互にずーっと攻めて行きました。
 
その進撃速度、速かったですよ、はあ。全部、中国のトラック、使いました、はあ。中国のトラックがですね、中国の兵隊さんを乗せて移動しよったトラックを取り上げて。シボレーとかフォードとか、外車ですよ。日本からね、本当、悪いけど、トヨタと日産を持っていったんですよ、うちの、日本軍は。全然ダメ。天然コースを昇りきらんですよ。こうグイグイグイグイとかいって、エンジンが焼けてね。「ちゃんと放たっとけ!」とか言って。それから自転車も持っていきましたよ。自転車はもう途中で半分ぐらいすべてやられました、じゃあ。

やっぱり、あのー、捜索隊のね、軽装甲が役に立ちましたねえ、今思うと。わたしたち、歩兵部隊ですから、わたしたちの前に、昔の騎兵部隊ですよ、騎兵隊いっちょった、馬がいたでしょ、あの馬をやめして、やめちゃって、軽装甲車、戦車のちょっと小型のやつ、あれを使いまして。これがもうビルマ戦線をダーッとわたしたちの前に行って進撃しました。で、我々はあんまり骨を折らなかったです、歩兵部隊は。歩兵は、もう今いう久留米と福岡の113とやっぱし交互で。そこに大村がおりませんのでね、交互に、こう。で、一戦争してやると休憩して、で、これが上がって行ってまた追っかける、と。それで、やっぱ追われるほうの中国兵は大変だったでしょう、あれは、はあ。逃げるの、やっとこっとですよねえ。

で、いちばん強硬な陣地はトングーで、すごい陣地を。それをこちらから機関銃でババーッと撃ちますとね、パッパッパッパーッと白い粉が出るんですよ。ほれで眼鏡で見よると、「あれは何かいな? 土嚢(どのう)のようなやつを積んどるわ」って。で、その陣地を落として、行ってみたら、キザラです、お砂糖の。大きなキザラの、マータイっち言いますか、麻袋、あれを積んで、この、防塁にしとるわけですね。それをこっちから撃つと、弾が当たるとキザラの真っ白いやつが飛び散るわけ。で、白い粉は何だろうと思って行ってみたら、そんなわけで、砂糖のマータイですね、これを積んで防塁にしとった。

Q: はあー。

いろんな経験しました。そのとき、あんた、もう砂糖はいっぱいあったですね。しかし、もう、初め、兵隊らに「わー、砂糖がある!」って、みんな靴下やら入れて、背嚢(はいのう)、で、しまいにはみんな捨てよったですたい、重たいけん。戦争なんちゅう、面白いですねえ。もう砂糖っちゅったら、もう、甘いもんに飢えちょったもんでねえ。それがしまいにはみんなその砂糖を入れた靴下を全部捨ててもう行きよりよって。もうきつかもんやけんですな。そういう笑い話もありました、はあ。
 
たまたま、夜、行っておりましたら、休憩、小休止して、さあ出発するぞっちゅうことで、で、ハヤシちゅう軍曹が陣営出て「何べん数えても1人多いばい」っちゅうわけですね。「何でや? よおと数えてんやい」、ほしたら1人ね、中国の少年兵が乗っとるわけです。丸腰で。17~8ぐらいでしたねえ。かわいかったですよ。これ、よおけ笑ろうてね。で、それっちゅうが自分たちが今まで乗りよった車ですよ。それへちょこんと乗っとっとですよ。それからなあ、ハヤシが「1人多い」ちゅうけるから、「何がね? ああ、そうか」「どうしますか?」って、「よか、連れて行け」っちゅう、で、わたしがもうずっと連れて行きました。
 
で、これもね、連隊本部に報告したりとかよその部隊に渡すと首切ります。で、わたしはやらなかった。わたしの子飼いにしたんです。そしてうちの大隊本部の炊事班に置いてね、主計さんに言うて「頼むぞ」っちゅうわけで、で、最後まで連れて回りました。で、終戦後は、四川省でした、帰しました。あれはまだ元気にしとると思います、はあ。

56師団の目的はですね、その当時は全然わかりません。「じゃあ何でこんなばからしいことしようかな」と思った。今度2回目飛行機でずっと行ったときに、結局援蒋ルート、ビルマルートですか、これを押さえるためですね。ラングーンに上がって、そしてずっと道々にですね、その援蒋物資がたくさん集積してありました。これはすごいですわ。アルミニウムから何から、チタンからね、そういう戦争用の肥料もあるし、ガソリンから食料から、要所要所に集積所があるわけですね。それでもうラングーンからずっとそういう援蒋ルート、いわゆるビルマルート、これをわたしたちはそのビルマルートを壊滅するというか、やっつけるというか、取り上げるために行ったわけですよね。

あなた、それ行けどんどんですよ。本当戦争なんてこんなやさしいっていうかね、楽なものはないなと思いましたね。まぁ、雲南省に着くまで敵が下がってしまいましたからね。

やっぱり拉孟ですね。やっぱり拉孟がいちばん拠点になるって。実は拉孟行って、いちばんあそこの怒江を越えて向こう側まで行きましたけどね、もうこれは向こう行ったって、「これは持てんぞ」っていうわけ。「それじゃあ、やっぱり上がって行こう」ということで、そして一ぺんまた怒江から上さ上がって、拉孟の線に陣地を決めたんですよ。それでうちの113連隊は拉孟に主陣地を置いたわけです、連隊本部が。

それで2大隊が、それからわたしたち3大隊は龍陵を本拠にしました。1歩下がりまして、第3戦というところですね。

Q:そうしますとその龍兵団全体、第56師団龍兵団の司令部はどこにあったんですか。

そのころはですね、芒市ですね。芒市に師団司令部置いておきました。それでうちの113連隊の主力は拉孟が連隊本部で、それからチガンガイが2大隊で、龍陵は3大隊っていうような格好になっていましたですね、入ったすぐは。
 それからもうしょっちゅう討伐が多かったですね。中国兵が出て、「あそこに現れた」っていうような情報があると、すぐ行って、それで追っかけますけど、捕まらんですね。

すごいですね。もう毎日のように飛行機が飛ぶんですよ。「これ、なんじゃい」って言うわけです。いやあ、もうこのごろ2回ほどビルマ、雲南省行きましたがね。やっぱりあれじゃあおうてあたらんですね。あの飛行機でこう輸送されるとですね、毎日のように通りますね。だから押さえたのが何もならんですよね。

 それでやっぱり向こうはもう飛行機で輸送して、そして中国っていってももうアメリカ装備でしょう。もう兵器弾薬から一切ね。それはもう動きがとれん。それでこっちは制空権が全然ないでしょう。もう追い詰められるばっかりですよ。

もう今言うように、あとはじゃんじゃん通るでしょう、上をね。「何もならないじゃないか」って言うわけですよ。「何かばかみたいだな」っていうわけでね、わたしたちはそう思いました。もうあれだけ飛行機がここを通られたら、あれは持っていきうるとこ何やかやだものね。もう明らかにわかりますよね。

平穏ですね。龍陵でおるころは、結構の陣地をずっと龍陵の後ろの山、1山から5山さへずっとやっぱり陣地作って、各隊が陣地作ってですね、交替で小々単位ぐらいで守備していましたよね。

それでわたしはもう大隊本部だったから、カンテイ山の下におって、警備隊本部におったので、そういう第一線のあの人たちとはわりと楽をしております。いわゆる3大隊本部の指揮班長していましたんでね。それで陣地に上がったりなんかしませんでしたけど。
 
やっぱり第一線の歩兵のやっぱり下士官連中はやっぱりずいぶんにぎり飯握って、持っていったりとか何かいろいろしおったようですね。わたしはその点、大隊本部にずっとおりましたんでね、そういう苦労はしていません。

はあ、何かだいぶ作りましたね、兵舎を作ったり。そのときわたしはそういうのにはもうほとんどあの労力を提供するのには顔出してないですね。あくまで指揮班長というようなことで、113のその大隊本部のボスみたいなものですね。ずっとおって、もう威張っておりました。

やっぱ兵舎というのは建築隊が来てやっぱりちゃんとした兵舎を作ったりなんかしおりましたね。それから慰安所ができたりなんかしおりしましたし、まぁ、適当に何かそういう建築をする部隊が来ては何かを作ったりしておりましたね。
 
しかし大体龍陵あたりでは、わたしの記憶では龍陵の民家をそのまま利用いたしました。これはといういいやつをですね。やっぱり中国の人は迷惑やったですよ。大きな豪邸構えておって、日本軍が入って、そこに7中隊を1個中隊入れたりとかこうしておりますからね。

Q:売店みたいな当時の言葉で。

ああ、酒保ができましたね、龍陵では。それで酒保を開いてですね、龍陵のちょうど街角の交差点みたいなところに支那家屋を買ってやって、そこでぜんざい作ったりとか、うどん作ったりとかしてね、おまんじゅう作ったりとか、ちょっとお店しおりました。

18年の夏ぐらいからですね、結局アメリカ装備になりましてね、これからですよ。それでやっぱり兵器、弾薬一切をアメリカから補給受けるようになって、もうころっと変わりましたね。それで下手するとこっちのほうがやられることに。もう全然だめ、そういう感じでしたね。こりゃおうてはたまらんばいっちゅうような感じになったですね。

まぁ、いよいよになって、対じをしたときなんかは、このやっぱりわたしたちには、言うところの歩兵の本領にありますように、その最後の突撃がありますんでね、まぁ、2度ほど突撃したことありますが、これにはもうおうてあたらんですね、やっぱ。日本軍のこの歩兵の突撃には。やっぱり逃げるというか、手を上げます。

Q:それまで、じゃあ、日本の兵士たちが日本軍が中国軍に対して抱いていたイメージというのはどんなものだったんですか。

うん、やっぱそのころは最初のころは大したことないなというあれやったですね。しかしアメリカ装備になってからは、「おっとそうはいかんな」っていうことになったですね。「これはやっぱりやおいかんばい」っていう格好ですね。

それは話にならんです。もう日本軍のは全然内地から補給来んでしょ。で、銃は38歩兵銃あるでしょ。で、砲弾もいくらか野砲なんか持っておりましたけども、だんだん手持ち少なくなりますし。

負け戦になってからは、やはり、向こうがしぶとくなりました。糧秣(りょうまつ)・兵器・弾薬全てがどんどん来るでしょ。こっちは持ったきりのもんでしょ。話にならんです。

それから、向こうの方が、その土地の、雲南省の土地の事情・地形なんかに詳しいでしょ。捕まりっこないのです。いくら動いたって、徒労に終わるだけです。情報入る、追っかけたら、もういないっていうわけです。で、情報は、向こうはいろいろ土地の部落の住民がおって、いろいろ流してあれする。わたしどもが行ったって、本当の情報は教えてくれんし。そりゃもう、哀れなものです。

で、いたちごっこというか、何にもならんです。討伐隊を編成して、「さあ中国の正規軍が入ってきた、それ行けー」って言われたって、捕まりっこないです。絶対捕まらん。これは、何でこんなばかな戦争するかっていうようなわけです。これが長い間雲南省におったときのわたしの実感です。ひとつも成果あげたことないです。

アメーバ赤痢。下痢が止まらんで、びりびり、びりびりして血便が出る。ケチャップみたいな便が。アメーバ赤痢ってきちこいです。なかなか治らんです。あれでほとんど死にました。アメーバとマラリアで。ほとんど戦病死はアメーバ赤痢とマラリアで死んだのです。特に終戦後ひどかったです。タイ国を下がるときに、担がれて、しようとが垂れ流しのくそまみれで、そりゃあひどかったです。

アメーバ赤痢とマラリアが併発して、垂れ流しにくそまみれ。そして、担がれて、「お母さーん」とか言うのです。そして、物言わなくなったら、もう息が絶えとるというような感じです。そりゃあ、終戦後に下がって行く傷病兵の姿っていうのは、悲惨そのものです。

天気は、やはり、雲南省っていう所は雨が多かったです。で、半年雨季です。雲南省、半年完全に降り続きます。それはでっかく降ります。で、半年、今度は乾期になると、全然降らない。これはもう明らかに乾期と雨季との差がヒャッとしておりました。

Q:雨の影響っていうのは大きかったですか?

大きかったです。やはり、雨にぬれしょぼたれて行軍するというのは、体力消耗します。よっぽどしっかりしていないと、クタッとなって参ってしまいます。やはり、雨はみんな苦手でした。

そのとき、騰越の入院患者だったのです。そしたら軍医の小学校のときの友達が「藤井お前ちょっと小隊長になってくれ」って言うの。小隊長おらんって言うわけですよ。で、護衛小隊を編成はしとると言うわけです。小隊長おらんばいって言うわけ。で、「しょうがない、じゃあ、外には騰越から、城出たら、もう1発でやられるばい。出らん。ここにおって、もう玉砕する」って言って。「いや、そう言わんで出てくれ」と。で、とうとうその友達に、小学校のときの同級生ですが、それから無理矢理に説得されまして、なら出ようかということで、出ました。

それは、功を奏して今日があります。そのとき出とらんで、そのまま騰越城に残っとったら、玉砕しています。やはり、小学校のときの同級生が、上からの命令があって、輸送隊を編成して出さないかん。護衛小隊がいる。小隊長がいるというようなときに、たまたま、その小学校のときの同級生がおって、それがわたしに小隊長すれって言うわけです。それが、やはり、縁がありました。

Q:そうしますと、その独歩患者、1人で歩けるくらいの病気の人たちは、やはり、十分な兵力になるという?

なるです。やはり、戦闘できます。ちゃんと敵撃てまして、パーっと号令どおり動いて。それはやはり、ああいうとき、指揮官の指揮能力によって、撃たんと分隊割れしますけど、分隊長つけるでしょ。やはり、ちゃんと動きますよ。日本の兵隊は精鋭です。

で、そういうふうで護衛小隊長命じられましたときなんか、全然、独歩患者の寄せ集め部隊でしょ。顔もみたことない。そりゃどげんするかと思って、わたしは無為に戦功したってつまらんばいって、友達に。「そう言わんと、お前、せっかく護衛小隊作ったから、お前小隊長やれ」って。で、しょうがない。当番兵が来て、靴下の中に米入れるなんかして、用意してくれるのです。

その友達に任されて、出ましたら、騰越城で、1個小隊約30名くらい独歩患者で。結局、そのときはいちばん大事なのは、ピシャッとした、二つ引き継いでいますけど、「気をつけー」って、「鉄かぶとかぶれー」って、「弾こめー」って、おれが「今日おる、この36人の命をおれに預けろ」ってなこと言うわけ。「113連隊の藤井曹長である」って言うわけです。この辺がコツです。で、お前たちの命預けろと。ここで1個小隊編成をおれが小隊長。今からこの騰越を抜けて、車両を護衛して出ると。必ずおれの命令に従えって。相当一生懸命に。日本の兵隊は優秀ですよ。そして、ちゃんとした指揮官がおって、きちんとすれば、ちゃんと動きます。

もう下がりよる途中で、ちょうど芒市までくらい下がったときかな。聞きました。龍陵も騰越も拉孟も。大体、わたしたちは騰越か拉孟か龍陵か、自分では、どこかで玉砕するつもりだったですもの。動かないで、みんなで一緒に死のうというつもりやった。それが何かの弾みで、騰越城は抜け出す。護衛小隊長になったり、何かいろんなことをして、展開が変わりまして、心ならずも生きております。

Q:玉砕を聞いたときに、正直どんなお気持ちでした?

玉砕のことですか? いや、もう当然と思います。
みんなと一緒に死ねって言う。大丈夫だっていうわけです。お前たちと一緒なら死ねるぞっていうわけです。そういういい部下が身近におりましたので。もうそれも、死んでしまいましたけど。もう誰も残ってないのです。

Q:それでは、藤井さんの中では、もう拉孟・騰越は玉砕の道をたどるというのは?

もう覚悟していました。腹決めてましたもの。けど、それが不思議と、わたしの場合はこういうふうで命を生き長らえまして。本当にいろんなお方のおかげだなと思います。
 
小学校のときに、田川のカワダ小学校。あそこで同級生だったのが野戦病院の軍医してたのがおりました。これが、やはり、わたしにいろいろと助けるあれをしてくれたです。最後、騰越に残ろうというて玉砕覚悟したときに「お前は出れ」って言うわけです。「実はこうして病院長は命令受けとるけども、この騰越城にある車両を、護衛小隊を作って出せって言われてきとるけん。お前小隊長すれ」って言われて、断ったのですよ。「出たら、すぐやられるばい。そりゃ、行かん」って。「いや、そう言わんと、行ってくれ」って言う。「うちの病院長は今困っとる」って言うわけです。で、「お前しかおらん」って言うわけですよ。

それで、クワノという、小学校のときの同級生の軍医から勧められて、騰越城を抜け出したのが、今日があるわけです。よう抜け出しましたよっていう心情です。自分でもよう抜け出せたなと思いました。


ちょうど、ビルマのハロワキョーの橋の近くくらいまで下がっているときですね。もう雲南省の陣地はもう出ないということで、撤退命令が出て、それでビルマ領に下がって、ハロワキョーぐらいやったかなぁ、そこで下がったときに、もうビルマも交戦国じゃなかったし、夜ですね。壕(ごう)を掘って、大隊長が奥のほうにおって、わたしは手前の穴におってそうしたら夜中に伝令が来ました。それで「ウナ電です」ちゅうてね。ちょうどいま思うと終戦の15日の夜明け方です。
 
で、見たら連隊本部の伝令が、「電報です」って言って持ってきたんですよ。ふっと見たら、「恐れ多くも終戦のご聖断を賜えり(たまえり)」と、これももう忘れませいね。文字でカタカナで電報紙に書いて、それで伝令が持ってきたです。「恐れ多くも終戦のご聖断をたれ賜えり。軽挙妄動すべからず、公命を待て」。いま覚えております。あぁー、ガクーときましたね。それで。それからすぐ奥のほうの壕に大隊長がおられて、「大隊長、電報です」って言う。ホォーって大隊長はやっぱりポローッと涙をこぼしましたね。2人でやっぱりしばらく無言で涙が止まらんやったです。ほっとしたというのがひと言ですね、やっぱ。うそ偽らざるところ、ほっとしました。あぁーよかったなぁと思いましたよ。まだ続くだろうとは思っていましたけどね。続けないかんじゃろうと思ったけど、やっぱりほっとしたっていうのは偽らざるところです。大隊長もやっぱり恐らくそうだったろうと思いますけどね。

まぁそれからがまっとうにすっと帰れるかどうか、まだ見当もつきませんけれどもね。まぁ戦争がすんだなぁっていうことで、ほっとしたということはもうひと言うですね。


復員は、いま言うように、終戦のあれがあって、連隊がまとまって、ちょうどあれはタイ国におって、あとは連隊でビルマ領からタイ国に渡って、川を越えて、そしてずーっと行軍で1個連隊まとまってタイ国を下がりました。夜歩いたような気がしますね。昼、木陰で寝て、夜歩いたような気がします。昼は暑いからでしょうということで。そしてタイ国をずっと歩いて、途中で何か所か、距離にして何キロぐらいやったかは忘れましたけれども、タイ国のボロ列車に乗せてもらいました。ガタガタ列車に。そうすると列車のプレート見ると日立製作所とかって、ほぉー、これ、日本でつくった車両ばいとか言ってね。そういう記憶はあります。

やっぱり女房ですね。いちばん最初は。やっぱり帰って来たときですね。電話をしました。わたしは電話するところはどこにしていいかわからんので、家内の里に八幡の勝山町(現北九州市)に家内の里がありましす。そこに電話していましたから、かけましたら、ばあちゃんが出ましてね。そして「大典ばい」って言ったら「おぉー」って言ってびっくりしとる。いま帰ってきたばいって。で、いつ帰るんや言うけん、まぁ2、3日かかるやろうけど、いま門司に上がっとるばいって言って。

もうやっぱり、いい、大事な男たちを何人も無駄に失ないましたね。これがいちばんやっぱり心に残ります。いい友達が、いい兵隊の後輩が、やっぱり無駄な命を落としましたからね。これがもういちばんわたしはつらいです。もうほとんど生き残ったのも死んでしまいしまして、おりませんけどね。つくづく思います。まぁその分、身をもって世のため、人のために尽くさないかん。そう思いよります。

しかし無駄な戦争でしたねぇ。これくらい無駄なものはなかったですね。なんにもならんのにね。なんでああいうことを、なんか上の人がなんかわからんやったろうかなぁ。ああいうことした人たちはつまらんばいと思ってね。思わんやったやろか。

出来事の背景

【中国雲南 玉砕・来なかった援軍 ~福岡県・陸軍第56師団~】

出来事の背景 写真昭和17年(1942年)3月、日本軍は英領ビルマ占領の勢いに乗じ、ラングーンから中国雲南省・昆明に至る全長2300キロ、連合軍による蒋介石への重要な補給路、ビルマルートの遮断に動き出す。

5月、日本軍は中国雲南省に到達。ここでの戦闘で日本軍は優勢に立ち、敗走する中国軍は自ら橋を爆破。ビルマルートは遮断され、日本軍の使命は達成されたかにみえた。

それから2年間、中国軍との大きな戦闘もなく平穏な日々が続いた。しかし、その間も連合軍は中国軍に空からの支援を継続。反攻の機会をうかがっていた。昭和19年5月、米軍によって最新兵器を与えられたうえに徹底的に鍛え上げられた中国軍がついに反攻に転じた。

6月7日、日本軍の拠点の一つ、龍陵(りゅうりょう)と拉孟(らもう)の間に中国軍が侵入。補給路を断たれた日本軍は孤立。日本の兵力はわずか1300名。対する中国軍の兵力は4万。戦況が深刻化するなか、7月中旬、守備隊に「断作戦」が伝えられた。断作戦とは、連合軍の補給ルートを遮断し、同時に援軍を投入するというもの。しかし、インパール作戦に失敗した直後の日本軍は、拉孟に援軍を送れる体制になかった。

中国軍に包囲され、食糧も弾薬も尽きた状態で兵士たちはざんごうに身を潜め、援軍を待ち続けた。7月下旬、中国軍による総攻撃が始まり、昭和19年9月7日、持久戦を強いられてきた拉孟の守備隊はついに力尽き、全滅した。

証言者プロフィール

1915年
佐賀県佐賀市柳町出身に生まれる。
1938年
第一補充兵役で陸軍第12師団に入隊。
1941年
編成改正で第56師団に配属。軍曹。
1942年
ビルマ、ラングーンに上陸。トングー、マンダレー、ラシオを北上、中国雲南省拉孟に進攻後第三大隊は龍陵を警備する。
1945年
終戦当時、30歳、准尉。復員(神奈川・浦賀)。

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中華民国(雲南省拉孟)

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