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タイトル 「中隊長としてビルマへ」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] 中国雲南 玉砕・来なかった援軍 ~福岡県・陸軍第56師団~
氏名 関 昇二さん(第56師団 戦地 中華民国(雲南省拉孟)  収録年月日 2008年11月4日

チャプター

[1] チャプター1 渡された夏服  06:21
[2] チャプター2 拉孟到達  05:09
[3] チャプター3 拉孟陣地構築  07:38
[4] チャプター4 拉孟占領  04:24
[5] チャプター5 前線と後方の落差  01:27
[6] チャプター6 玉砕の知らせ  07:05

提供写真

再生テキスト

何にも我々はね、我々の下のほうではね、どこへ行くとかいうことはね、何にも示されてませんね。もう最初にマレーちゅうて言うてね、マレー語の勉強をしたぐらいのもんで、あとはね、ビルマへ行ってからね、どこどこに向かって前進ちゅうことはね、何にも言われてないですよ。あとはもう師団命令でもって、言われるままに、あのう、動くだけですね。だから、これからどこへ行くって全然わかってないんですよ。

そんなもんですよ、中隊というのは。あのう、大体ね、あのう、師団で知っとるのはね、もう師団の参謀ぐらいのもんでしょう。あとね、連隊長自体でもね、動かされる、命令のままに動くだけですから。ですからね、もうただ、もうほんとの、それが戦争でしょうけどね、ただついて行くだけ。我々はね、あっちへ行け、今度はこれからどこへ行くのかしらんと思ってね、エー、まあラシオまで行ったらね、もう大体、今度はもう、あのう、この命令だったら、あのう、どこのビルマルートへ行くぐらいのことは大体見当つきましたね。それまではね、もうビルマ作戦自身がね、我々自身には全然わかりませんでしたよ。ラシオへ行って初めて、まあのんびりとやってて、今度行くのは、あのう、どうせビルマルートの道に従って行くぐらいだと、そのくらいの見当はつきましたけどね、拉孟まで行くということは全然知りません。

まあ、ラシオに着くまではほとんどね、我々の戦争目的というのはまあビルマルート遮断ぐらいのことは見当がついていても、どこをどう通っていくかはね、もう、今度はこれに乗ってここへ行けという程度でしょう。ラシオへ行って初めて、どうやらね、自分らの任務がわかったというところが本音でしょうね。

夏服で、だんだん暑くなって、あのう、だんだんとずーっと台湾に近づいて、だんだん脱いでいくわけですよね。で、ラングーンへ着いたときはね、温度は40度ぐらいですから、真夏の真っ盛り。それが今度はね、あのう、トングーからずーっと今度、シャン高原へ入ると、今度は、あのう、高原地帯で涼しくなってくる。だんだん今度は……今度は上着着てるんですよ。それから、あのう、一応服は持っていきましたからね、もうラシオからはね、あのう、拉孟へ着いたら、もう冬服ですよね。

これはね、まあ笑い話ですけどね、あとからね、あのう、参謀がね、あのう、龍兵団(56師団)の師団参謀になってくる人がね、大本営へ行ってね、そしてね、あのう、どういう服装をしていったらいいかって聞いたらしい。そしたらね、ビルマって暑いとこだから夏服で結構だろうといって言われたそうですよ。それで、夏服でトコトコ出ていったらね、もう、あのう、自分の師団に着いたらね、冬の真っ盛りで寒くてしょうがなかったといってね、そういう笑い話をね、してましたね。

そのくらい、もう高原地帯、2,000メートルでしょう。それですからね、寒いんですよ。冬はね、もう拉孟に着きますとね、もう、あのう、温度差が、あのう、昼と夜の温度差が非常に強いでしょう。夜はもう毛布かぶって寝る。昼間は暑くてね、あのう、普通の夏服でもね、いいくらい。温度差が非常に強いんですよ、それはね。

それに、ちょうどね、雨季に引っかかった。我々が行ったときは雨季に引っかかっとった。雨季といってもね、日本の、あのう、梅雨と違ってね、朝から晩まで雨が降るわけじゃないんですよ。土砂降りがバーッと降るんですね。そうかと思うとパッとやむでしょう。それで、高原地帯で、ちょうどね、水がないからね、雨が降るのを待ってるわけですよ。そして、かやぶきの屋根からね、雨の降るのをね、待っとってね、ドラム缶にね、雨をためる。それがね、唯一の水ですよ。それで飯炊くんですよ。高原地帯で、谷まで行かないと水がないでしょう? それはね、水くみだって大変なんですよ。きれいな水というと、あのう、川を、谷を下って、そしてかついで上がらにゃいかん。それだからね、雨水がいちばんね、助かりました。ドラム缶で雨。

いや、これはね、師団の編成上ね、あのう、そういう部隊になっちゃってるからね、師団の編成上で行くからね、これはね、あのう、大本営がいちばんね、悪いんですよ。大体ね、どこでもかしこでもね、師団であればいいというふうな感覚でしょう。それだからね、さっきのあれじゃないけど、ビルマだったら暑いところだぐらいの感覚で、山の中でもって、雲南の山の中で戦闘すると思ってなくて、暑いとこだから夏服で行けぐらいの感覚ですからね、勉強が足らないんですよ、そういう人たちがね。だからね、第一線の部隊がいちばん苦労してるんですよ。わたしはね、あのう、いちばん苦労しとるのはね、あのう、第一線のね、中隊以下でしょう。中隊長ちゅうのもね、大変でしたよ。だから、第一線のね、兵隊はあてがわれた大砲を扱って戦争するわけだから、文句を言わずにやってるわけですからね、10糎榴(せんちりゅう)弾砲がいいもクソもないですよ、それは。

それだから、わたし、よくね、自分では言うんですよ。拉孟守備隊の悲劇は10糎榴弾砲だちゅうて言うんですよ。それだから、あのう、10糎榴弾砲の大隊のね、大隊長が最後になると、あのう、守備隊長になっちゃうわけですよ。位が上だから守備隊長になっただけに過ぎなくて、拉孟守備隊って最後は、衛生隊であろうが何であろうが、みんな、あのう、普通の一般の兵隊と同じですからね、同じ戦争をやるんですから、大砲の役にもなってないんだから、だから。
 
ただね、あのう、よかったのはね、守備隊長だった方が兵隊からずっと上がった人だったから、いろんな大砲のね、性能も知っとるし、どのくらいだったら、あのう、どのくらいの大砲の砲撃に耐えるかということをわかっとったから、それで陣地を構築したから、15糎榴弾砲の射撃に耐えるだけの、あのう、エンタイをつくって、壕を、陣地をつくれと言ってつくらした。それがね、拉孟守備隊のね、長続きさす成功ですよ。わたしは、あのう、あれが普通の歩兵の守備隊長だったらそこまでやらんかったかもしれない。早くもっとつぶれたかもしれない。その点は、わたしは、守備隊長が野砲のね、たたき上げの大隊長だったおかげだと思って、わたしは思ってます。わたしもね、士官学校のね、あのう、わたしがもし大隊長だったらあそこまでやれたかどうかね、わたし自身もね、あのう、思わざるを得ないですね。果たしてそこまでやれたかどうかというとね、わたしは尊敬してますね。

とにかくね、とにかく自分の出番が回ってこないんですから、それはもう、まあ中隊長ちゅうのは戦闘して弾を撃って初めてね、自分の、あのう、あれですから。兵隊さんも同じですよ。せっかくね、あのう、中隊全員がね、皆そういう気持ちでしたよ。戦闘に参加できないという悔しさはね、もうみんな持っとったと思います。それですからね、まあ、わたしだけ、個人ばかりじゃないですよ。中隊全員の、もう全員が何のために来たかというぐらいでね。まあ、それだから、だれも1人も死んでませんからね、拉孟へ行くまで。

観測所というのはね、すぐそばで言えれば、号令がね、あのう、射撃の号令が中隊長が声でもって通達するとこがあったら観測所も何も要らないでしょう。直接後ろから号令かけて命令すればいいんですよ。ね。ところがね、観測の、大砲の位置と、それから、あれと、中隊長の観測というのは離れとるわけですよ、拉孟の場合はね。離れたとこで、あのう、やると、敵が見えるとこでは中隊長観測所をつくって、で、大砲はずっと後ろにさがってますから、その当時はまだ、ほら、あのう、まだ戦争するまで、向こうから敵が来るのを、あのう、撃つつもりですからね、だから、いちばん敵の見える位置におらないといかんでしょう。それで、いちばん最初に設定するのが観測所なんです。それで、中隊長のいちばんの仕事は、どこに観測所をつくるかということでね、その次に、大砲の陣地をどこに置くかということになる。兵舎と位置と、全部違うわけですよね。

観測所で何をするかというと、敵の陣地、今だと、怒江をはさんで向こうが敵の陣地になるわけですけれども、その当時はもう敵兵らしいものは見えないんですけど、いつ来るかわかんないですから、そこを毎日見てらにゃいかんわけですよ。それで、そこに観測所をつくって何を置くかというと、観測所ではね、双眼鏡じゃ見ないです。中隊にはね、観測器具があるんですよ。砲対鏡という、こういう。これ、倍率が高くて、こう見えるやつが、砲対鏡ちゅうのが。それから、距離をはかる測距器というのは、測距器というのはこうやって、軍艦にあるでしょう。軍艦には、あのう、こういうたくさんあるでしょう。軍艦に、あのう、やっぱり測距器がついてるでしょう。軍艦を見るとわかるんですよね。中隊でもそういう測距器というのがあるんですよ。これはね、あのう、長さはこのくらいもので、それで、これで距離をはかるわけです。人間の目と同じですね。人間の目は距離をはかるわけでしょう? それの大きなものと考えりゃ間違いないです。そういう距離をはかる道具とか、それからあとは、今度は、離れとるから通信をしなきゃいかんから、有線通信で、あのう、砲列といって大砲の陣地と、それから自分の兵舎と、全部有線でつないだり、大隊本部と有線でつないで、全部つなぐんです。有線通信をやる。そういう設備をみんな持っとるわけです。それがね、あのう、中隊の編成の中でいちばん大事なとこですよ。

ジャガイモ畑みたいな、足でならして、そして、あのう、そこにこう陣地を、大砲を持ち上げるわけでしょう。持ち上げるのはね、中隊全員で50~60名しかいないんですからね、それで1門ずつ綱でかついで引っ張り上げるんですよ。主力搬送といって……人力で、あのう、運び上げるんですよ、そこの陣地まで。1門1門運ぶんです。それで、ただ、やったとこで、でも、今度は、大砲を今度は据えつけにゃいかんでしょう。持って上がるだけじゃなくて、ちゃんと大砲を撃てるようにしなきゃいかんですからね、大砲を撃てるようにするために大変なんですよね。ところが、ほら、あのね、いちばん苦労するのは、山でしょう。観測所がいちばん高いところに持っていって、あとで、後に、あのう、そこは関山という名前をつけられるんですけれども、こうやってて、観測所ですから、わたしが選んだ周りがよく見えるところ、前方ね。視界の広いこと、それが観測所の要点ですから、そこへ行くと。そして、観測所って、観測所のとこはすぐね、谷になっちゃうんです。それですから、そこまでは普通のこういうあれでね、等高線でかくと、等高線の幅で行くと、そこから急斜面になる。それで、急斜面だから、敵が、今度はそこが陣地になって、歩兵が、あのう、やって守りやすかったんですよ。それで関山というのが最後まで残るわけですね。敵が攻めにくいから。

わたしが観測所を選んだんですから。自分で歩って選んだんですから。そして、そこに壕(ごう)を掘って、全部、観測所の、あのう、いろんな、砲対鏡とか、いろんな観測設備とか、通信もつくったんですから、これは間違いないです。それだから、いい場所を選んだことは間違いない。それで、確かにあとになって考えるとね、もうね、スッとね、観測所のところでやると絶壁なんですよ。それだから、確かにね、あのう、最後までね、攻めるのにね、このう、なだらかじゃない、傾斜の急なとこを歩兵がのぼってくるわけですからね、防ぐには確かに、歩兵を防ぐにはいい場所だったと思いますよ。それだから、最後になって、攻めあぐんで、あのう、(坑道)陣地をつくって爆破するとしなければ、あのう、攻撃できなかった。歩兵が普通に上がっていったんじゃ攻撃できないから、爆破すると、そういうことになっちゃった。

関山ちゅう名前が出るたびにね、よく戦友会で出るとね、かえって汗顔の至りちゅうとこですな。ただ、観測所としてね、選んだことは間違いなかったということはまあ言えると思いますけどね。いちばんいい場所を選んだなと思ってるです。

戦地へ行くときはね、やる気満々でみんなね、それで、「勝ってくるぞと勇ましく」で行ったわけでしょう? それが、あのう、拉孟到着までは何のこともなく、無事に行っちゃったわけですから。それですからね、拉孟へ到着したときは、確かにまあ空軍があるとか、その程度のことでしたからね、逆に言えば、この前、話したようにね、拉孟のしばらくの間というのは平穏無事だったから、本当のね、平安な生活を楽しんだ。

それだから、そのときにね、わたしがやった、途中でもってね、もう退屈でしょうがなくなっちゃって、それでね、兵隊さんの中には器用な人間がおってね、マージャンパイをつくってね、で、夜遅くまでね、あのう、マージャンをやる。あのう、ちゃんと消灯は9時だとか決まってますからね、それで、こう隠れてね、やっとるわけですよ。わたしどももね、中隊長幹部もね、わたしはトランプを持って行ってたから、だから、トランプで……やっとった。ところがね、ずっと見たらね、片っぽうはマージャンパイでマージャンでもって夜更かしをやってるでしょう? それで、わたしがやったことはね、「マージャンをやめてくれ」と。「もうね、ここは戦地だから、のんびりとね、緊張感を失っちゃいけない」というのでやめさせた。と同時に、おれも、そういうね、あのう、遊びはやめて、やめるってやめましたよ。一切ね、あのう、そういう、あのう、トランプ遊びなんていうのはね、中隊全員でもって全部やめちゃった。そして、マージャンもやめさせた。で、しばらくの間、その後、どういうふうになったかは知りませんけどね。そして、途中で、演習はね、日中はやっぱり、あのう、訓練をやらにゃいけませんから。わたしは毎日ちゃんと観測所まで、砲列は毎日ね、巡視し、夜もね、あのう、いくら敵が……いつ間者が来とるかわかんないからね、わたしは回る、夜中に巡視して回るんですけどね、最初ね、若いもんだからね、ひとりで陣地を、狭いもんですから、拉孟の陣地なんて狭いですからね、あのう、ひと回りするんですよ。ひと回りしてね、そしたらね、中隊の曹長がね、「いやあ、中隊長ね、ひとりで歩くと危ないからね、やめてくれ」と言うわけで、それで、従卒、兵を1人連れてね、あのう、陣地の中をね、夜でもね、歩けるようにね、歩きましたね。まあそれが当時のわたしのやった仕事の心境でしょうね。

まあ、そのうちにだんだんとやっぱり、士気もね、だんだん長くなると緩みますからね。そのうち、今度は連隊長もかわる、大隊長もかわる。

拉孟より先へ、我々は昆明まで行くぐらいのね、勢いだった。そのくらいのね、あのう、気分でね、そんな防御するなんちゅうことは全然考えてませんでした。感覚はね、感覚はまだ前進するつもりで。ところが、軍の方針としては、あそこでもって全部ストップして、そして、あとを固めようと。警備をするんだと。あれに警備方針が書いてありましたよね。その方針だちゅうことでね。我々は若いもんだから、これからがもっと出番だというぐらいのつもりでね、そのつもりでね、まだ訓練しなきゃいかんぐらいのつもりだったですけどね。

途中で帰って、ラングーンに行って、それで萃香園(すいこうえん)におってね、そしてね、ドンチャカドンチャカ、勝ち戦だもんだから、もうみんなね、あのう、萃香園でもって一杯飲んでドンチャンドンチャン騒いで、芸者あげて騒いでるでしょう? それだからね、頭に来たですよ。第一線で我々、食うものもね、ろくに食わずに、酒なんか、酒が来てもね、酒はね、遅く来るもんだからね、それでもうね、酢になっちゃう、酒はね。酒の味がしないんだ、酢になっちゃって。それでもね、酒だと思ってみんなね、分けて飲んでましたがね、わたしは全然飲めなかったし。

それでね、こっちはね、苦労してこっちへ帰ってきたのに、何でこんなに浮かれとるんだろうといってね、頭に来ちゃった。これは、もうね、いまだに記憶に残ってますよ。

それはもう想像全然できません、また。まだ、あのう、守備隊としては掃討作戦だけですから。それでもね、わたしが帰ってくるときはね、マンダレーにわたし、おったときにね、もう爆撃が来てますからね、1機。空襲警報が発令されてますからね、もうそのころにはもうすでにぼつぼつ始まってるんでしょうな、早く。それよりずっとあとですよね。それから、わたしが学校に、千葉におるときですから1年後にはね、わたしの陣地がね、爆撃されてるんです。それで、大砲は、あのう、砂かぶりかぶっちゃったなんて、そういうのがね、手紙で来てますからね、そのころはぼつぼつと反攻の気運が見えた。ですから、わりとね、反攻の準備が早いんですよね。1年後。あとは2年後ですよね、ほんとに玉砕するのは。

いやあ、もう、拉孟におったわたしの中隊は全滅しとって、だれも生きて、もう全部死んだのかなといってね、うーん、まあ、形容しようがないですな。知らない土地じゃないだけにね、自分が本当に最初に踏んだ土地だけにね、まだ、いくら学校の教官でもね。

まあ拉孟はね、なぜ拉孟はあれだけビルマルートの要衝になったかちゅうことになるんでしょうね。それでなくても、龍陵でも同じような立場にあるはずなんですけどね、それが、どうして拉孟まで前へ出て、それで、最後まであそこで拉孟を固守しなきゃならなかったというのは、これは、わたしはね、何とも言えないと思うんですよ。わたし自身はね、龍陵におったって、ビルマルートの要衝としてはね、拉孟・騰越まで行かなくてもよさそうな気もするけども、ただね、守るには、怒江という川があったから拉孟・騰越というのは持ちこたえたんじゃないかという気がするんですよ。そうすると、やっぱり拉孟の意義があるんじゃないかと。そう考えれば、拉孟というのはね、あのう、非常に有意義ですよ、守りに守りやすかったから。拉孟なんて、あんな狭いでしょう、あれ。硫黄島なんて大きいでしょう。硫黄島のあれに比べればね、拉孟は、あんなとこでもってね、何十日といってね、あのう、守れたということ自体が不思議ですよ。ところが、あそこを落とさないことには、あそこからどんどんと部隊は、あのう、あそこを外して龍陵まで行ってるんですけどね、拉孟はこぶになって邪魔になっとったわけですな。そういう意味ではね、拉孟のあれを最後までね、守備をしとったということはね、龍陵をこたえるのに、相当ね、役に立ったんじゃないかと思う。そういう点では意義があると思いますね。

まあ、伝えたいといえばね、わたしは、拉孟守備隊の玉砕ということを知らない人が多いんじゃないですか、まずね。ほとんどの人が知らないと思いますよ。ただ、しかし、拉孟守備隊の玉砕を無にしないためには、拉孟守備隊がどうして日本国のために思って玉砕して死んでいったかということを、やはり皆に知ってもらいたいと思います。それが戦争を平和に、日本を平和に導く道だと思いますよ。

極端に言えば、そうですね、個人的の拉孟について言えば、拉孟で戦死、玉砕した人の志を無にするなということでしょうね、1つはね。そして、それを通じて、今度は大きく広げると、大東亜戦争または太平洋戦争そのものが、はたして、あのう、よく反省してみる必要があるということでしょう。反省なくしてね、進歩はないと思うんです。ということでしょう。

死者は語らずと言うんです。死者は語らずだけども、生存者はね、もっとそれを深く、死者の言葉を、あのう、思い出して考えてもらいたいと思うんです。死者の、死んだ者は、死者は語らず、その死者の言わないことばをよく理解して、頭で反省してみる必要がある。それがいちばん大事だと思うんです。それ以外に何もないですよ。もう、歴史というものはね、死んだ人の言葉を伝えていないんですから、だから、生きてる人だけでも、証言だけで……じゃなくて、死者の霊にかわって反省してみたいと思います。ということですね。これはね、非常に大事なことだと思うんですよ。

出来事の背景

【中国雲南 玉砕・来なかった援軍 ~福岡県・陸軍第56師団~】

出来事の背景 写真昭和17年(1942年)3月、日本軍は英領ビルマ占領の勢いに乗じ、ラングーンから中国雲南省・昆明に至る全長2300キロ、連合軍による蒋介石への重要な補給路、ビルマルートの遮断に動き出す。

5月、日本軍は中国雲南省に到達。ここでの戦闘で日本軍は優勢に立ち、敗走する中国軍は自ら橋を爆破。ビルマルートは遮断され、日本軍の使命は達成されたかにみえた。

それから2年間、中国軍との大きな戦闘もなく平穏な日々が続いた。しかし、その間も連合軍は中国軍に空からの支援を継続。反攻の機会をうかがっていた。昭和19年5月、米軍によって最新兵器を与えられたうえに徹底的に鍛え上げられた中国軍がついに反攻に転じた。

6月7日、日本軍の拠点の一つ、龍陵(りゅうりょう)と拉孟(らもう)の間に中国軍が侵入。補給路を断たれた日本軍は孤立。日本の兵力はわずか1300名。対する中国軍の兵力は4万。戦況が深刻化するなか、7月中旬、守備隊に「断作戦」が伝えられた。断作戦とは、連合軍の補給ルートを遮断し、同時に援軍を投入するというもの。しかし、インパール作戦に失敗した直後の日本軍は、
拉孟に援軍を送れる体制になかった。

中国軍に包囲され、食糧も弾薬も尽きた状態で兵士たちはざんごうに身を潜め、援軍を待ち続けた。7月下旬、中国軍による総攻撃が始まり、昭和19年9月7日、持久戦を強いられてきた拉孟の守備隊はついに力尽き、全滅した。

証言者プロフィール

1918年
山梨県甲府市出身に生まれる。
1941年
7月、陸軍砲工学校普通科卒業。11月、久留米第56師団野砲兵第56連隊第9中隊長としてビルマ進攻作戦に従軍。
1942年
陸軍科学学校高等科入校のために帰還。
1943年
陸軍科学学校高等科卒業後、陸軍防空学校教官、幹部候補生隊中隊長。
1945年
終戦当時、27歳、少佐。

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