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タイトルタイトル: 「血の海になった甲板」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・シブヤン海 “戦艦武蔵の最期”
名前名前: 菅野 等さん(戦艦・武蔵 戦地戦地: フィリピン(シブヤン海)  収録年月日収録年月日: 2008年11月30日

チャプター

[1]1 チャプター1 17歳で海軍に  01:42
[2]2 チャプター2 駆逐艦で始まった海軍生活  03:35
[3]3 チャプター3 操舵(だ)員になる  03:14
[4]4 チャプター4 「巨大不沈艦 武蔵」  03:31
[5]5 チャプター5 武蔵の操舵(だ)室  04:05
[6]6 チャプター6 世界最大の戦艦 武蔵  02:32
[7]7 チャプター7 魚雷攻撃  01:44
[8]8 チャプター8 改装された武蔵  01:56
[9]9 チャプター9 レイテ沖海戦  01:31
[10]10 チャプター10 波状攻撃始まる  03:00
[11]11 チャプター11 甲板が血の海に  08:44
[12]12 チャプター12 退去命令  05:03
[13]13 チャプター13 フィリピンへ  01:50
[14]14 チャプター14 送還船も撃沈される  05:13
[15]15 チャプター15 知られていた武蔵撃沈の報  03:39
[16]16 チャプター16 目撃した原爆  05:26
[17]17 チャプター17 戦争と平和について今思うこと  01:57

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・シブヤン海 “戦艦武蔵の最期”
収録年月日収録年月日: 2008年11月30日

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あぁ、環境がそもそももう、どんどんどんどん健康な年配の人は、もうほとんど兵隊に行っちゃうっていうような状態なもんですから、自然に、何をするって言えば、まぁ陸軍大将って言ったらねー、何になりたいって、陸軍大将、海軍大将という子ども時代のことですから、まぁ兵隊に行くのが当たり前ということで、あるとき、その、わたし牛に乗って、牛から落っこって、道路にほうり出されたわけですよ。そのときにちょっと痛い思いしたもんで、こりゃあ、馬とか牛に乗る仕事はだめだなと思って、陸軍には行かないと、海軍に志願して、海軍なら牛じゃなくて、馬に乗ることもないだろうなっていうことで、海軍、それと話したかもしれませんけど、後ろ前の家の人たちが、海軍に行って、まぁ夏休みなんつーと、かっこいい格好で帰ってくるもんですから、それを楽しみになって、海軍志願したような状態ですね。

そのときはね、うー、最初駆逐艦秋雲に乗せられて、それで、鉄砲分隊行ったんで、弾運びと、弾込め、それで1か月間して、水雷の方にまわされて、で、水雷で南太平洋海戦に参加したときに、発射筒つけっつって、発射したときに、魚雷が4本あるうちの何番、何番目打ったかっていうことを、打ったその、2番打った2番を、スイッチでもって付ければ、ブリッジ、艦長のいるところへ何番リンカンの何番目が魚雷打ったということを知らせる、その伝達機の役目をやっていたわけですね。ですから、大した難しいことではないんだけども、それだけやって、実際いたの4か月ぐらい、その駆逐艦に乗っただけですから。

わたしが乗った、その期間内ではですね。ただ、そのー、いわゆる航空母艦を沈めにいったのは、南太平洋海戦でもってやられて、航空母艦が被害をかぶったのを、巡洋艦が引っ張ってたんで、それを追いかけて、沈めろっていう命令でもって、行ったわけなんですね。ですから、向こうは逃げてる方ですから、向ってきませんで、航空母艦を途中でほうり投げて、もう帰ってちゃったもんですから。だから、戦争という戦争は、そのときにもまた全然やってなかったです。だから、怖いってことをまったく、まぁ死の恐ろしいってことは全然考えたこともなかったですね。

朝から晩まで船に居ても、食事の用意、飯食べさせ、全部洗い物して、暇があれば、偉い人の靴引っ張り出して、靴磨き、着物洗濯して、きちっと畳んで、とって、ロッカーに入れるという、もう追いまくられて、何も考えてる暇ないですよね。ただ考えてる時間あるのは、夕食済んで、それでそういう先輩が横になって、寝ちゃって、それでそのあと、新兵同士でもって、色んな楽しい話、それから苦しい話というのをして、ボリボリと菓子を、袋菓子を食べてるのが本当の楽しみだけであって、もうほかのこと全然考える余裕ないですね。それと、また情報も入りませんし。もう、新兵で追い回されてるもんですから。

班長に学校行かないかってことを言われて、学校は何行く?って言うから、その当時学校たって、どういう学校かもわからない状態で、で、鉄砲がいいのか、操だがいいのか、信号がいいのかっていうので、わたしいちばん最初は軍楽隊でいくって、海兵団に行ったときに言ったら、班長から、お前軍楽隊って、ちょっと才能見誤ってんじゃねーかって、言われて、それで、それきり軍楽隊にいくっていう希望しなかったんだけども、そんな話してるうちに、まぁいちばん楽な配置って何ですか?って言ったら、まぁ楽な配置って言えば、操だぐらいなもんだなって言うから、じゃあ、操だいきますって班長に言ったら、本当に操だやってもらった。で、結局操だ員っていうのは、重要な役割をする仕事なもんで、あまりたたかれたり色んなことするっていうようなことは、あまりどこも配置もないんですよね。だから、まぁそういう点では、楽かもしれませんね。班長に感謝してなきゃ。

航海学校っていうところは、まず、船のスピードが上がる機械とか、海の深さを測る機械とか、それから、操だ機械、そういうものを実際に、根本的に、研究、研究じゃなくて、習って、どうやっても使えるように、そのー勉強するところが航海学校なんですね。操だという。ですから、電気も…なんですか、オウムの法則、オウムの法則から始めて、勉強させるんですからねー、うー過去、小学校あたりでも、そういうこと勉強したことがないんで、ただ電気っていうのは、なかなか難しいんでね。目に見えないもんですからね。それでいつも、0点ではないですけど、点数が半分以下よりももっと悪い成績でいたんですけども、だから電気関係とか、学科関係があんまり頭が良くないもんで、ただ操だの、操だ法っていうカジをとる、船のカジをとる方だけは、なんか知らないけれども、とにかくいちばんだったね。そんな関係で、恐らく武蔵に乗せられたんじゃないかと思う。

武蔵がどのような船なのかもまったく記憶にない、なかったです。うー、ただ、あの、船に乗っけられて、たぶんね、武蔵に乗ったのはね。そうか、横須賀だったと思ったな、それで、いったいこの船、船なのか建物なのかと思うぐらい、全然わかんなかった。中へ入って、うー、歩くまでは。というのは、岸壁ついてても、大きすぎて、全形を見渡すとかじゃないですからねー。もう、本当に、舷てい、いわゆるラッタル上がって、船に入って初めて、わぁこれは船なのかっていうのは、通路がずーっと200メートルぐらい、あの、ライトが点いてるでしょ。だから、町の中に入ってるみたいでねー。まったく、もう動きもしなきゃあ、こういう船に乗せられて、初めて、いいのか悪いのかもわからないし、まぁこれはえらいものに乗せられたなぁと思った。ただ、田舎者ですから、そういう風になっちゃでね。

本当ね。秋雲じゃね、月とスッポンぐらいですからね。秋雲は、3800トンですね。それで、武蔵が7万2千トンですからね。だから、もうまったく、長門が、戦艦でいちばんだったですよね。陸奥、長門ってのが。それが、武蔵に横づけすると、甲板から下になっちゃですからね。ブリッジが。ですから、本当に、倍以上あるからだけどね。よく長門の乗組員が、いやぁ、まったく大きさでは話になんないよって、長門が、長門に乗ってた人がよく言ってましたけどね。それだけ、大きさってのは差があるんですよね。なんせ、沈むとこじゃなくて、駆逐艦というだけあって、沈む、沈まないとしか考えてなかったんでね。ああやって沈んだっていうのは、本当に不思議。まぁ、「大和」にしろ「浮いてるものは沈む」と言うのは、本当だなぁなんて、誰か言ってましたけどね。でも、本当怖くなかったですね。乗ってても。だいぶ、でもやっぱりわたしたち重要な配置にいたから、安全で生き延びたのかもしれませんけど、もう、ほかの人たち、血の海の中でね、死んでいかれたっていうのは、本当にかわいそうなもんだと思ってる。

防護甲板つってね、まぁ大事なところですから、あまり大きな窓を付けられないわけですよ。付けちゃうと、弱くなるって。爆弾とかそういうものが直接当たったときに、操だ室が一瞬で吹っ飛んじゃったんじゃ、だめなんで、ほんのわずかなのぞき窓しか、ないんですね。そういう装置になってるから、それと、下部司令塔つって、外を見ている司令塔がそうなんですけども、司令塔が故障した場合に、下部司令塔つって、その下にやっぱりカジを取るところがあるんですけど、そこが、まるっきり外が見えないところにあるわけですよね。そういうところでも実際カジが取れるようにできているわけなんです。二重にできているんですね、そういう司令塔が。まぁそれから、直接今度はいよいよ大きい操だつって、カジそのものを曲がったら、まっすぐに伸ばすっていうような訓練も実際に行われたねー。やったもんですから。

Q.あのー、何人ぐらいでそれは回していらっしゃったんですか?
 
26人です。というのは、全部カジ取り腕を持っていますけども、ジャイロコンパスがある、そのジャイロコンパスってのをしょっちゅう監視してなきゃなんないし。それから、ジャイロコンパスも前に、前の方と後ろの方と二か所にあるんでね。そこにも配置、人が居なきゃなんない。それから、主カジ、副カジと、カジ取り機関室にやっぱ配置、人がついてないといけない。だから、そういうふうにカジを取るだけでなくて、実際にカジ取り機関室とか、転輪室とかって、そういう配置が一緒にあるわけですから、まぁ順番でカジを取って、船を走らせるわけですけどね。

Q.普通の船でも26人ぐらい操だの人はいるんですか?
 
いや、武蔵は多いほうです。というのも、どうしても、あのジャイロコンパスにしても、っと、3台、4台、5台ぐらいあったのかな。色んなのがありますから、そういうことで、配置がそういうところに加わりますから、普通の駆逐艦なんていうのは、せいぜい二人ぐらいしかいないんじゃない。いないですよ。操だ員は3人ぐらいはいるのかな。人数はちょっと詳しくは調べたことないからわかんないけど。まぁ、武蔵の場合は、配置っていうか、航海計器が多いもんですから。とういうのは、作戦室に、航跡ジアキつって、実際に作戦してる行動を全部あの、チャートに記録する機械があるんですけど、そう機械が操だ員の受け持ちなんですね。ですから、操だがそこにも二人配置がありまして、まぁ直撃くっちゃったもんですから、即死してしまったんですけども。だから、そういう配置が結構あるもんですから、まぁ26人っていうのは最高に多い配置ですよね。操だ員は。

パラオに横須賀から荷物運んで、パラオに行く途中に護衛艦として、駆逐艦が二隻ついてたんですけどね、そのときちょうど台風にあったみたいなんで、まぁその護衛艦がとても、、今のスピードじゃ走れないと言ってきたらしいんで、それでスピードをずっと落としたっていう話なんですけど、やっぱりそのときに武蔵が6度、6度傾斜したとかっていう。6度っていうと大したことないですけど、もう3千トンぐらいある駆逐艦がもう走れないっていう程の波ですからね、もう大変だったんだと思ですけど。恐らく30度ぐらい傾いたんじゃないかと。そういうことがあっても、武蔵っていうのは簡単に動揺しないんだなぁっていうふうな感じで、まぁ大きさをそこで実感したような感じだったんですけどね。まぁ、そのぐらいの程度で、まぁあと、前甲板で映画を見るとか、あるいは運動会をするとか、そういうことがその船の大きさに、得意なところが出てくるような状態がいちばん楽しかったんじゃないかなぁと思って、今考えられるんですよね。

前甲板でね。あの、主砲、副砲の、主砲、副砲でなくて、主砲だ。主砲の砲身の上からズーっと、こうテントを張ってね。それで、夜夕飯が過ぎたあと、映画がトラック島で、まぁあの時代は平和だったんだね、18年の後半かな、まだね18年、19年がそうだからね、逃げたんだから、そうですね、18年の後半あたりはまだ静かだったんだね。よく映画を観ましたよ。二回か三回ぐらい観た。慰問団も来たしね。

そのときはやってたです。それで、わたしはカジ取りが下手なわけではない、魚雷が飛んでくるのが見えたんですよ。
いちばん、水路を出るときですからね、あの、戦争をするわけではないんで、司令塔の窓をちょっと開けといて、旗ザオが見えるぐらいのところで、ズーっと見てたんですよ。そしたら、パーン、ピュッと飛んでいくんですよ。あぁ!魚雷だっつって。それで、ドッドッドって。当たったっつってもね、一本当たってもね、爆発したわけでもないから、だからそんなに震動はないですよね。あれだけの大きさですから。なんかそれで魚雷が命中したっていう情報が艦内に入ったので、それで、ただ不発だった、幸いに不発だったから良かったんですけど。でも、不発でも、魚雷抜いて向こうの反対側で止まって、それで浸水はしたんですね。そこで作業してた七人の人が亡くなった。そういうことだったんですけども、実際にあれですよね、その向こうの潜水艦、じゃなくて…あれは潜水艦だ。潜水艦の魚雷も、もう深くすると命中率が悪いもんだから、浅くすりゃあ、どっか当たるだろうってもんで、飛んできた。

わたしたちはただ日常歩いてて、前と、対空設備を増やしたっていうことらしかったんですけどね。まぁわたしたちは船の構造についての、増設関係なんて全然目に留まるわけじゃないんで、ただ、うー、毎日が歩いてて、えらい機関銃増やしたなっていう感じであったんですけども、実際にその機関銃が、効力を発揮していたのかどうかってことはわかりませんけども、その機銃を増やして、その機銃が撃たない場合とか、あるいは、撃てない場合に備えて、待機所ってのも作ったんですよね、たぶん。その待機所が爆弾によって、すっ飛ばされちゃって、相当な被害者がでたって感じもしたわけですよね。実際に、そういう、どの人がどこに入って、死んだっていうのはわかりませんけどね。

人間が中へ入ってって撃つんじゃなくて、むき出しになっちゃってね。そういうのが、それから、単砲つって、連砲じゃなくて、単砲ですね。一本の機関銃をあちこちにぽこぽこと付けたのもあったようだしね。だからずいぶん慌てて、色んなことを考えて付けたのかなぁっていうようなこと。

だから、ちょうどね、摩耶はね、うちの前にいたときに、目の前でやられてね、で、ものすごい火柱と同時に、なくなるほど誘爆したんじゃないかと思うぐらいね。誘爆。ていうのは、弾火薬庫なんかに魚雷が当たって、それが一緒に爆発したみたいに、大きな爆音とともに、もう影がなくなったっていうぐらい早かったの。それで…

Q:あっという間だったっていうことですか。

あっという間にね。それで「摩耶を人員を収容しろ」という命令で、うちで救い上げたわけですよ。その、遭難してる人間を。だから、言う人が、「死神がついてきた」って言って、言ってるっていですよ。というのは、そういうね、「沈んでる船の乗組員をまた乗っけると必ず沈む」って。いや、それ本当かうそかわかんないけど、そういう話はあとで聞いたんですけどね。まあ、そういうジンクスがあるのかどうかわかんないけども。

Q:しかしあのう、実際にその間近で、何ていうですか、味方の船がこうやられる姿っていうのは、「嫌なもん見たな」っていう感じはなかったですか。

カジをとってたときじゃないのかな。いわゆる空襲警報だっていう、敵飛行機来襲だっていで、そういう号令がたしかね、あのう、当然機銃で応戦したんだろうと思ですけども、撃ち始めのあれが、音が、ブリッジのほうから直接伝声管を通じて、うー、バカバカバカバカって何か撃ち始めたなっていうのだけ聞こえたぐらいで、あとは何もわからないんですよ。全部閉めちゃってますから。たぶんね、早朝訓練からね、引き続きになったと思だ。朝飯食べてなかったから。だから、戦争始まったのか、訓練だったのかは、そこんとこははっきり境がわかんないんだね。

いつ空襲が始まったかって、時間を見て、見てなかったですね。ただ艦橋が爆、爆弾で直撃を受けたとき、伝声管でばあっと煙が、逆、逆噴きましたからね。あのう、司令塔まで。かじをとってるとこへぶわっと煙が。それで慌てて伝声管閉めちゃったの。だから、これはもう何かあったなと思って、それでわたし、「ちょっと様子を見てこい」って言われて、後ろへ出て、それで、あのう、ブリッジの後ろ側を見たら、ラッタルがばらばらになっちゃって、それで途中から切れちゃってて、ブリッジまで登れなくなっちゃったの。で、中へ行こうと思ったら、真っ暗でこれもめちゃくちゃなもんで行けなくて、で、しょうがないから、ブリッジがもう相、相当の被害あって、上に登れないよっていうことで、帰ってきて、操だ長に言ったんだけども、じゃ、連絡がつかないって言う。それで結局ブリッジとうちとの連絡がつかなくなった。というのがもう、ほとんどは走、走りませんから、もう。そんときはもうね、だいぶ前のほう、傾いて入っちゃって、船首が。艦首が入っちゃってるから、、走れるったってもうほとんど走れなく、ただ、バランスをとるだけのね、ことをやってるだけで、もう全然航行不能になっちゃったですね。大体。

それ、それは航海課倉庫っていうのがあるんです。そこへ食、応急食料を入れといてあるんです。それでそれをとりにわたしが行ったわけですね。というのは、わたしと操だ員長と操だ長と、もう1人操だ員と、その配置に4人か5人いたんですよ。それでその食料とりに行ったんだけど、もう、人間がその倉庫のドアにたたきつけられて、それで下は血の海になっちゃってんだ。とってもじゃないけど、物をとれるどこじゃないの。人間が立って、おれが立ってんのが精一杯だよ。もう何が何だか全然わかんないの。腹減ったなんてのどこへすっ飛んでっちゃったかわかんないんだよ。でもう、よく見ると、靴と足が、関節から外れて靴と足が入ったまま散らばってるの見て、「うわあ」と思っていた、後ろ振り向いたら、「助けて」って、もうまっ裸の人間が後ろ立ってるし、もう地獄みたいですね。

お化けいるわけじゃないんだけども、もう懐中電灯の明かりを見ちゃ、「ああ、生きてた」っていう、死、死んでんだろうね、あれ。「助けて」って大きな声で言われて、それを助けるどこじゃない、逃げちゃったですよ。びっくりしちゃって。わしらのほうが。いま考えてみりゃ、まったく変な考えだったんだなと思ったんだけどね。まあそのときはもう、右も左もわかんないような、真っ青けです。それで、帰って自分の司令塔んとこで一休みして、一呼吸置いて、気持ちを整理して、それで上がってって、実情を「こういうわけだ」って話したら、「いやあ、それは大変だなあ」って。というのは、航海科倉庫の周りに、あの、探照灯の待機所っていうのをつくったんですよね。昼間は用がないっていで、そこでみんなは休んでいたわけ。そこへ250キロの爆弾か、まあ、まあ500キロはないだろうけども、爆弾がボンボンボンボン落ちたもんで、もうめっちゃくちゃにやられちゃったですね。その人たちの血と海が、航海科倉庫の前へずうっとなっちゃったもんですからね、もう本当悲惨たるもんだよね。

でも、こういうふうに簡単に人間が殺されちゃうのかなと思うぐらいね。自分はどうして生きてたんだろうって、そのときに初めて、ああ、相当の防護??ずに中に入ってたんだなっていうの、そのとき初めてそのとき知ったんですよ。

Q:それでそのう、もうあれですか、そのう、操だで、操だしていても、操縦していても、もう全然こうスピードが出なくなってきてるっていうのは感じでわかるんですか。

わかります。というのは、あのう、コンパスが動きませんから。ただまっすぐ、自然に任せたきりで、それと機械もだめになっちゃったし。たしかね、機械もだめになって、カジ取り機械は最後まで動いてたのは確かなんです。そういうことで、まあ一応カジは中央に戻したから、操だ員の使命をまっとうしたということで、まあ、あのう、操だ長が、「まあそれなら大丈夫だ」っていうことで、まあほめてもらったようなもんですけどね。

船の向くまま、そのまま、じっともう耐えてるとしかないわけでしょう。エンジンが回って走ってるわけじゃないし。で、カジを、カジ取り機械は動いてたから、カジは動きますけども、いわゆる船走んないから、特に、えー、進路を維持することも必要ないわし、ないわけですから、そのまま自然に任せててですね。船の安全というか、まあバランスをとってる間は、まあ総員退去になるまでは職場を離れるわけにいかないから、まああとその間にいよいよ走れない状態になってからですね。離れたの大体お昼過ぎ、2時かその、3時ごろにはもう走れないですからね、まったくもう。

Q:まったく。もう自力では全く動かせない状態っていうことですか。

そうですね。たぶんそうだと思いますよ。それでそのときに、いわゆる主カジ、あのう、大きいカジの部屋に入ってた人が、室内温度が50度C以上になってるもんで、あのう、電気がとまっちゃってですね、ファンモーターも動かなくなっちゃったし、そんな関係で、今度、あのう、モーターの温度がどんどん蒸発するんで、部屋の中が50度C以上になっちゃって。それで人間がもたないっていで、そこへ氷を持ってって、それで救出作戦で行って、それで下から一人一人、あの、3人ぐらい入ったと思ったね。4、ああ、3、5人ぐらいか。5、6人おる。そこに、あのう、上甲板まで引っ張り出して、裸にして、それで、さ、冷やしておいて、何とか元気つけさせんですけどね。
 
もう力がなくなっちゃって。やっと電話してきました。まあ大体ね、あの、行ってみなくちゃいけないっていうことで、行こうっていう話にはなってたの。とにかく常日ごろだって、室内温度が4、40度Cぐらいすぐなっちゃだから。

そこんとこで、あのう、応急操だ訓練っていうのは常に、あのう、わたしたち、朝、あんで、1日1回ぐらいずつはやっていたんですけどね。そんときだって、もう、汗びっしょりぬれちゃですよ。というのは、もう50トンジャッキ、50トンジャッキって言ったって、まあ検討つかないかもしれないけど、でっかいジャッキをこう持ち上げて、クサビを打って、それでジャッキをこう動かして、あのう、船のその大きなカジを曲がってるやつをずうっと戻すという作業ですね。

そういうことをしょっちゅう訓練やってたわけですよ。ですから、そのときにもう既に、40度Cを超している状態だったですからね。もう運転してて、とめて作業するっていったら、もう50度Cぐらいすぐなっちゃうの。もう本当50度の暑さってのは大変ですよ。

Q:どんな感じなんですか。ど、どんな感じなんですか。50度Cの暑さっていうのは。

まるで熱風かぶってるみたいね。

Q:開けたらどうなったんですか。その50度Cの部屋は。

ああ、そこはもう、あの、戦争中は、開けないのが普通だけど、いよいよもうだめだっていうことになれば、開けてもう出てきますよ。それね。ただ、船の運命に左右される場合は、上から閉めたらもう開けてくんないんです。人間を犠牲にするのが当たり前だったんだよ。船を運命と、ともに、というような状態で、船、船が沈むときは艦長沈むと同じことでね。でも、普通の場合はもう、訓練の場合はすぐに、あんまり暑くなんないうち開けちゃって、やってますけどね。実際はもう戦争始めると、上から火、あのう、爆弾が落っこって、何が飛んでくるかわかんないから、そうするとカジ取りの、操作、保全にまちがいがあると困るんで、閉めたままになってね、何か上の状態を見て、開けるということは可能かもしれませんけども、普通は閉めてんです。

高甲板に、まあ続々と、あ、集まってきて、それで、恐らく夕方何時ごろかねえ。時間がわかんないんだけども。一応、総員集合して、軍医、軍医長だったか、看護、ああ、看護長つったかな。の人が、、「長く泳ぐことになるかもしれないから、着てるものは、そのまま着たまま泳ぎなさい」というような指示を出されて、えー、それで総員退去の命令がそのあと、もうまもなくだったと思うね。もうどんどん傾斜が激しくなって、ごろごろごろごろ、甲板にある物が転がり出しちゃってるもんですから、時間ははっきりわかんないけども。で、総員退去の命令が出ちゃって、えー、わたしは一応、その前に操だ長が、みんな持ってきた貴重品を全部各自に渡して、で、その貴重品を全部各自が持って、普通はそれは、あのう、航海間は操だ員だけの貴重品ですよね。うちの場合は。

で、もらって、それでわたしはいちばん後ろの、旗ザオの綱で海の上へ下りて、下りたですよ。海にね、飛びこ、飛び込んだわけじゃないけど、それは旗ザオ伝わって下りたんだよ。そんときにその旗ザオって、あの、ひも、ひ、ひもを長いのそのままさあっと下りたもんで、指をすりむいちゃったの。だけどそのすりむいたのも全然感じがなくて、しばらくたって、おご、あ、助けられてから、ばかに痛いもんで、見たら、もう真っ赤にもう腫れ上がっちゃって、そういう状態だったんだけど、まず、そこを旗ザオから下りて、どんどんどんどん離れて、それで、後ろを振り向きながら、スクリューが出て、それからかじが出て、それでまたスクリューが出て、スクリュー、スクリュー4つ出たところでドカーンという爆発して。それを…爆発したのは。すごい火柱がぼーんと立って、でもすぐ沈んじゃって、沈んじゃってって、火つかなくて、消えちゃったからよかったんですけどね。

それで、駆逐艦のボートに乗してもらって、助けられて、上がったところが、そのおれの同輩、同じ班の、先輩がいて、着物を新しいのと取りかえさせてもらって救助に当たったっていう。そういう運のいい男だったですね。まあ、本当にだけど、そんときの、いわゆる船から離れるまでの間、1つスクリュー、2つ、3つ、4つという、カジを、引っくり返ったの。その間のその、いわゆる甲板に置いてあった、薬きょうから、移動するものから、人間が、負傷者、全部デッキに寝かしておいたのがみんな、洗いざらい引っくり返っちゃったんですからね。だから、負傷兵が果たして何という気持ちで亡くなっていったのかと思うと、本当助かってきていても、そのときはもう、何とも言えない気持ちだったですね。

もうたぶんそういう人の悲鳴じゃないかと思ですけども、もう、うなり声もそうだし、何ていうの、必死の悲鳴を上げてるっていうか、そういうのもこう聞こえてくるし、それから、薬きょうのガタガタ流れるの、転ぶ音とか、全部一緒くたに混じってしゃがれる音が何となく、まだいまでもこう耳に残るっていうようなことがね、ありますよね。幾つになってもこれはもう消えるもんじゃないですよね。

救助されて、そこから、シブヤン海からマニラまでどのぐらいかかったのかね。何しろ夕方にして、マニラに着いたの夜中ごろだから、半日ぐらいかかったのかね。で、マニラの港に、港って、町に上がんのかと思ったら、武蔵の乗組員だけは、あのう、コレヒドールに、し、島流しってわけじゃないんだろうけど、移るんだっていうことになって、それから反転して、あの、マニラの明かりを後ろにしてずうっとコレヒドール行って、上がって、そこで約1か月間生活してたわけですよね。

その1か月間のうちに、この前もお話したように、(用途)作業、いわゆる内地から来る船舶の荷物の揚げ降ろし手伝いやった、やったり、それから、自分の食料を1日ヤシの食器1杯ぐらいしかなかったから、腹減ってどうしようもないんで、食料とりしたり、色んなことして生活してたわけなんだけどね。で、まあ、何もやることないから、昼間はひなたぼっこしながら、でもあれですね、演芸会は何かやったような気がしたね。

あしたは高雄に着くっていうことだけども、その晩に護衛してる船からバカバカやられて、最後にサントス丸やられて、それで、それから約1日半、お、泳いでたわけですけどね。その間が長かったんだね。

で、あの船には2,500人ぐらい乗ってたっていですけども、まあ助かったのが500~600名ぐらいだっていうね。だからまあ、4分の1ぐらいしか、あー、助かってないぐらいですけど、その中で助かったっていうことは、まあ、何とか若かったからね。何といっても若さですよね。二十歳、18、19だもん。体力的にいちばんあるときだ。

Q:1日半、浮い、浮いてたんですか。

36時…、いやあ、浮いてたっていうよりか、け、最初は板に縛りつけてたですよ。2人でね。仲よく。

ええ。同僚ったって、知らない人ですけどね。ええ。ただ一緒に板につかまってたから、2人で一緒に仲よくしてたわけで。あのう、やっぱり体力がなくなってね、寝ちゃうとだめなんですよね。だから、その間こう、たたいてやったんだけど、最初は「何する」なんて、ちょっと反抗しておったけども、だめだったね。それで、その半日ぐらいですよね。そんなことやってたの。もう日中のあったかくなったらね、よけい眠気する。疲れが出ちゃって。それで夕方になって、わし、そうやって、ボートを探、見つけたもんで、何とか助けられないかと思って、それで最悪に、にだんだん少しは近づいたかなと思って、今度その板を離して、それで泳いで、それで何とか近づいてって、一緒に。ところが、そのボートが満員で、交代交代に、あのう、上がってたんですよ。半分水の中へ入って、半分はボートの中へ入って。で、適当な時期になると「交代」って言って。またこれ。そうやって、せ、一晩じゅう。だって、何とか、そのボートに乗ってる人たちはわりかたね、で、どうしても体力のない者、どうしようもないやつは、「そのまま、じゃ、ボートに入れとこう」っていで、みんなで元気つけてやってね、で、ボートに乗ってたために、わたしも30何時間泳いでても平気だった。もう平気ったってね、水の中に一日つかってるとね、もう皮膚呼吸ができないから、くたびれちゃですよね。ものすごくそれで疲れちゃうですよ。だからもう、あのう、助けられたとき、立ってられないって。

ぐでーんとなっちゃう。そうしたら、その船の先任将校っていうのが、「この敗残兵野郎ども、だらしのない」って言って、むち持ってひっぱたいて歩いてるの。それはそうなんだね。むち持ってひっぱたいて歩くってのはね、気合いを入れないと、死んじゃうから。

そう、助けるときに、ご、助けに来た大きな船が、そのボートをね、風上につけたんですよ。ああ、風下。風下につけたために、あのう、本船のほうがな、風に流されるのが速いでしょ。ボートが遅いから、どうしても船にぴったりくっついちゃうようになっちゃうだね。それで、くっつきっぱなしじゃなくて、多少離れてこうくっついちゃう。それで、いち早く助かろうという気持ちはわからないじゃないけど、そのボートを乗り越えて、やたらに、は、か、何ていうの、階段に、手すりにつかまるって、あ、自分で上がろうとするわけですよ。

ところが、気持ちは上がっても、体がもうくたびれちゃってるから、完全に乗り切れないわけ。そうすると、ボートと船とで挟まっちゃう。それでぐしゃってなって。重いですからね、あのカッターっていうのが。200人も乗れるんですから。だから、そう、そ、そこ行って助かる者、助からない者、死んじゃう人いるんですよ。だからね、人の運命なんてのは本当どこでどういうふうな、せっかくそこまで行き着いてきたのが、行動そのものがね、まちがえたために死んじゃうっていうのがいる。

横須賀へ来たのが20、12月のもう暮れちょっと前、正月前です。それで、横須賀へ着いたら、これも軍機のために、ということで、久里浜の(A班)というところへ一応、隔離されて、それで、1週間かな。1週間ぐらい、1か月ぐらいいたのかな。それで、海兵団に戻されたのが、1か月たってからだと思う。あ、帰ってきて、やれやれ一般人、普通の国民になったのかと思ったら、下宿行ったら、「何、武蔵沈んだって」って、もうがっかりしましたね。なん、なんで、そんなに早くわかるんだと思ったら、それはそうですよね。将校連中が全部、飛行機で飛んできて、家族と一緒に生活してるんですから、家族だから全部流れちゃうですよね。全部そういうのはもう隔離しておればそういうことはないだろうけども、か、裏は全部外でやって、表だけがね、分かれてるだけだから、何のことはないですよね。だから本当、ばかな日本だなというふうに、そんときもう痛切に感じたですよ。

それで3月の10、9日、10日の大空襲終わったときに、その、今度は、鉄、鉄材が不足してるもんで、月島、本庄、深川、亀戸のあの辺の鉄工場が燃えちゃったから、あのう、「鉄くずを拾って、拾う作業しろ」ってわけで、トラックに乗って兵隊、陸戦隊の人間を全部かき集めてね、で、あそこの本庄、深川、月島の焼け跡へ鉄くず拾いに行ったんです。

Q:大空襲終わって、大空襲があった、何日後にぐらいに。

あれ1週間ぐらい、まだ、あのう、焼け、1週間もたたない、3日ぐらいかな。まだあの、焼けてくすぶってたから。たぶんそうですね。それで、消防団員が一生懸命に遺体を回収してたの。それで、わしのとこし、遺体が鉄くずに乗っかってると、「よいしょ」ってこう、ほうり、ほうり投げて、それで鉄だけ拾ってったの。

Q:東京はどういう状況だったんですか。

もう、どういう状況ってね、人間がもうそういう状態になると、ちっとも感、感じないのね。あのう、勝鬨橋(かちどきばし)知ってます? 勝鬨橋(かちどきばし)のね、市場寄りのほうのね、橋のたもとに立つとね、そう立つと、錦糸町、亀戸のね、陸橋が丸見えちゃったの。何もない。ざあっと。それだけね、焼けちゃったんですよ。それで、まあ防空ごうへ入れば、、子どもおんぶしたお母さん方、そのまま死んでるしね。そういうことが全然、あの、何ていうの、精神状態には影響なくなっちゃだね。見ても全然感じなくなっちゃうの。

校庭にみんな並んで、それで校長の、は、訓示を受けてた。そこへバーッと来たの。光が。で、ガジャガジャって。窓ガラスがこうガジャガジャっていうほど、あったの。爆風が。それで、何か「新兵器を発明した」とか、何とかって、話をね、うわさで、みんながそれぞれの考え方を言ってたわけですよ。

Q:きのこ雲とかは見えたんですか。

いや、もちろんそうですよ。火の、火の元がね、ばあっと光ったのが、直接見たんじゃなくて、ぱっと後ろからですから、後ろから来たやつをこうやって見たら、こういうふうにかすかに盛り上がってるのが見えたんです。もう現にそれはもう目認してんです。みんな。その、か、学校で校庭に並んでた人は。それでその「新兵器を発明した」とかどうのこうのっていう、話を、まあ、何と、何となく話してんのが聞こえたぐらいでね。それで、夕方、夕方、そうですね。命令が来たのが 2時ごろかな。2時ごろ、各分隊ごとに毛布1枚ずつ持って、玖波の駅に整列っていうことになって。それでわたしが分隊長やってたもんだから、じゃ、全部整列して、200人ぐらい毛布持たして、それで玖波の駅行って、それで負傷してる、来る、列車に乗ってくる人たち全部、あのう、学校と、それからお寺とかっていうとこへ全部運んで、で、それから看病始めたわけ。で、看病、看病っていうか、いわば介護だな。いまの介護。それを20日間やってた。

あのう、お、おしめも取りかえたり、それから傷に、こうかさぶたになっちゃってんですよ。そういうところをかさぶたはがしたり、それからきれいに洗ったり、そういうことを。それから、着物を脱がして、それで洗濯したり。そういうことも。洗濯はもう隣組のおばさん連中やってくれるけど、そういうこと。それから、あのう、亡くなった人は、坊さんだけじゃ間に合わないんで、こっちが手伝って、焼き、焼き場へ持ってって、焼き場ったって田んぼに穴掘って、それで遺骨にして、えー、お寺に納めておくって、そういう仕事です。もうほとんど。

学校と、お寺。お寺のこういう広いとこね。広いとこへみんな寝かせといて、それで、介抱してたわけですよ。それで自分たちは交代で兵舎に帰って寝て、今度は起きてきたら、また交代してやるというふうな。もう少ない人間がフルに、何たって大勢だったんだから、そこは。1戸当たり1人の、強制的に、収容のために、収容じゃない、疎開のために徴集されてるでしょう。だから、各家から1人ずつ、だれかが行ってるわけですよ。それがみんな大なり小なりの傷を受けて帰ってきてるもんですから、だから大勢いるもんですからね、だからもう介護する人たちだって、もう各家庭で自分の家でも精一杯なんで手伝うわけにいかない。もうそんな関係でね、大変だったんですよね。だからいま考えてみりゃ、一度行ってみたいと思ってんだけども、とうとういまだにまだ行ってない、行ってないで、その無縁仏どうしてんのかね。まあ、原…、ほんで原爆っていうのは、どうしてあんなになったの。

いや、玖波そのものは直接、あのう、原爆になんないから、全然影響ないんですけど、ただそこから帰りに、20日過ぎ、26日に、あの、あれ、広島の玖波を立って、それで、貨物列車に乗って、えー、広島の町の真ん中を通ったんですけど、東京の焼け跡よりは、そうね、ちょっと違だよね。東京の焼け跡は真っ黒だけど、あそこの焼け跡っていうのは茶色なんですよ。黒くないんですよ。それで、やっぱり木の葉も何もないんだよね。

「戦争というものはどう、どういうふうに考えるか」って言われても、まあ、極端に言えば、戦争が平和の隣なのかどうかというほど、いまそのものが戦争やってる国がいっぱいある。だから、一概に、言ったように、平和というのは戦争なのか、戦争が平和になるのか、まあこれはいたちごっこじゃないけど、そういうような考え方もあるんじゃないかなと思う状態ですよね。だけども、戦争は決していいもんじゃないということは、誰しも考えていると思ですよ。

人を殺すこと自体が平和という意味じゃなくて、争うこと自体が平和の礎になるのかなと思って。まったくそういう点はだれしも考えられない。だけど、戦争していいっていうことは誰しも考えていないと思ですよね。だけども、どうしてもこの世に戦争というものがなくなんないということ、どこの国でも、誰しもが「なぜだろう」とふうで疑問を持ってんのが多いと思ですよね。その疑問が解けないんだね。ということはまだ戦争が続くっていうことなんだ。

出来事の背景出来事の背景

【フィリピン・シブヤン海 “戦艦武蔵の最期”】

出来事の背景 写真太平洋戦争終盤の昭和19年(1944年)10月、米軍はフィリピン・レイテ島に上陸。敗色が濃厚となっていた日本の連合艦隊は、レイテ沖で、起死回生の戦いに挑んだ。この戦いで、世界最大の46センチ砲を搭載し、不沈艦と呼ばれた巨大戦艦「武蔵」が出撃した。

太平洋戦争においては、海戦の主役は戦艦から航空母艦・航空機へと移っていた。レイテ沖海戦の前に、武蔵には、航空機による攻撃に対抗するため、改修工事が行われた。甲板上には対空戦闘用の機銃が数多く取り付けられていた。
日本軍は、わずかに残った航空兵力がおとりとなり、そのすきに戦艦武蔵を含む第一遊撃部隊がレイテ湾に突入、米軍を叩くという奇策に出る。それは、米軍に完全に制空権を掌握されている中で、目的地まで見つからずに到達しなければ成功しない作戦だった。

米軍のレイテ上陸から2日後の10月22日、武蔵はブルネイを出港、レイテ沖を目指した。しかし、出港から2日後の10月24日、米軍の偵察機に発見され、朝から数次にわたる米軍艦載機による猛攻を受けた。増設された機銃は隠れる覆いがなく兵士を守ることができず、機銃掃射や爆弾の攻撃で大きな被害を受けた。
さらに、「不沈艦」と呼ばれた武蔵は魚雷20発、爆弾・至近弾合わせて35発を浴びせられ、午後7時半沈没。退去命令が出たのは沈没の直前だった。

乗組員2400人の半数近くが犠牲になり、辛うじて生き延びた乗組員たちの多くも、帰還の輸送船が撃沈されたり、マニラ防衛戦などの地上戦に投入されたりして、命を落とした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1925年
宮城県白石市に生まれる。
1943年
横須賀航海学校に入学。航海科操舵員として「武蔵」に乗艦。
1944年
「さんとす丸」で帰国途中、敵の魚雷を受ける。台湾・高雄を経て、帰国。
1945年
人間魚雷の訓練を受けるため、広島県・呉の学校に入学したが、広島が原爆を受け、救護班として派遣されそのまま終戦を迎える。

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フィリピン(シブヤン海)

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