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タイトルタイトル: 「死に追いやる長距離行軍」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 西部ニューギニア 見捨てられた戦場 ~千葉県・佐倉歩兵第221連隊~
名前名前: 彦久保 基正さん(千葉県佐倉・歩兵第221連隊 戦地戦地: ニューギニア (ソロン、マノクワリ)  収録年月日収録年月日: 2007年7月18日

チャプター

[1]1 チャプター1 さまよう兵士たち  05:18
[2]2 チャプター2 白骨死体が点在するジャングル  08:19
[3]3 チャプター3 戦闘はほとんどなかった  01:08
[4]4 チャプター4 複雑な思いを抱いた帰郷  00:56

チャプター

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Q:マノクワリに向かって出発したということですか。

ええ、そういうことですね。7月の半ばごろだったですね。で、昼間は航行できないんでね、危なくて。夜の航行で。あのコール(koor)(ソロンとマノクワリの中間地点)に着いたのは2~3日かかってますね。で、それ以上の運行は不能というのでね、コールに上陸して。ま、しばらく滞在してたんだけどね。

で、途中あのマノクワリから35師団司令部の兵隊たちがね、ソロンに向かってくる連中に行きあって、いろいろ様子を聞いたら、「とてもこれ以上、前進できないから引きあげたほうがいい」と言うんでね。わたしたち5人は引きあげて、コールへまで戻ったんです。で、そこにしばらく滞在してたんだけどね、あの6月に出発した連中の幕舎があったんですよ。その幕舎を利用して、まぁそこに滞在していたわけですけどね。

Q:それからは、またあれですね、コールから移動するわけですか?

うん。で、コールはわたしたちがもうほとんど最後で、40~50人きりだったんですね。で、歩哨を海岸に2人出しといたんですよ。そしたら「敵が上陸しそうな気配がある」というんでね。そういうニュースが入ったんで。まぁ装備を整えて。あの、コール川という川があるんですよ。で、その沿線を上流へのぼっていったわけですよ。引きあげるためにね。
そうしたら、ちょうど前の人たちが使ったんじゃないかと思ったんだけど、カヌーって木をほった、切り抜いたふねがあってね。それに交代で乗ってコール川を渡って前進を始めたわけです。


ソロンを出発したんが7月で、コールへ着いたんが8月の11日ごろだったですね。そこに幾日か滞在して。そして「そこにいてもしょうがない」つうんでね。その団体の長老の人は、「各中隊ごとに行動したほうがいい」と言うんで、わたしたちは5人、コールを出発してソロンに向かったんです。
で、その途中、マノクワリから引きあげてきた35師団の人たちに、8月のはじめに行きあった。で、その様子を聞いたところ、「もうマノクワリも容易じゃないし、とても行けないから引き返したほうがいい」つうんでね、で、ソロンに引き返したわけなんですね。

Q:向こうから逆にやってきたわけですね、35師団の司令部が。そのときはあれですか、びっくりされたんでしょうね。

まぁ、たまげちゃってね。司令部の人も幾人もいなかったね、そのときは。

Q:その、まぁ「戻れ」と言われたときにはですね、「せっかく来たのに」というような気持ちはあったんですかね。

まぁ、どうしようもなくてあれだね、もう敵がコールへ上陸すればどうせやられちゃったけどね。でまぁ、なにがなんでもソロンに帰ろうつんで、散り散りバラバラでね。

もう食料もなく、もうほとんど弱っていたような人ですね。途中に川がいくつもあってね。1本急流の川があったんですよ。それを渡るときにもう、5~6人流されたのをこの目で見てね。「ああ、困った」と思ったけど助けようもないしね。どうしようもなくてまぁ、見逃してそのまま前進したわけだけど。

Q:ソロンに戻っていくときは、食べものなんかもほとんど持たずに。

もうほとんどなかったですね。まぁ野草とか食べられるものは食べたですね。

もう携帯食糧はもう全然なかったからね、うん。最初6月に出発した人たちは2週間ぐらいの食糧を持っていったそうですけど。わたしたちはまぁ2~3日分しか持っていかなくてね。本当にまぁ食糧はなくて、野草とか食べられるものは何でも食べていた。よくあれで生きていられた。

Q:ジャングルというのは、ちょっと話が変わるんですけども、その僕らイメージですると、ジャングルというのはいろいろ生き物とか果物とかがあって食べるものがいっぱいあるような気がするんですけど、そうじゃないんですかね。

いや、まぁ、ほとんどなかったですね。ヤシがあったかね。まぁ、ヤシの実を食べたりヤシの水を飲んだりね。本部からデンプンが配給になってね、デンプンでまんじゅうを作ったり。サツマイモを作ってサツマイモを食べたり。まぁ、なんとかね、生きられとったけども。

Q:ソロンでですね、まぁ、食べものは皆さんなかったと思うんですけども、そういうふうに、ほかの部隊よりもやっぱり221(連隊)はひどい状態だったんですかね。

ああ、221はいちばん悪かったですね。食糧はほとんどなく。ほかの部隊はだいぶあったらしいですね。あの、たまにデンプンなんども配給になって、食糧もたまに配給があったわけですね。
ほとんど野草とか、まぁ、農作業でサツマイモを食べたりね。サツマイモの葉をゆでて食べたり。まぁ、食べられるものは食べてみたですね。よその部隊から転属になってきた連中に漁師の人がいてね、その人が手りゅう弾を持っていって、海へ行ってね、手りゅう弾で魚をとってきてくれたこともあったですね。

Q:彦久保さんもお体をこわしたりしたんですか。

ああ、それは5人で歩いてるときに、休憩時に休んでると、わたしも体が弱ってて。あのカトウさんの話によると、わたしに金バエがついて、もう死にかかったにおいがして金バエがついたんだらしいんですね。わたしは気がつかなかったんだけども、カトウさんは「よく生きてソロンまで行った」とたまげてました。

白骨死体はずいぶんあったですね。だから途中、まぁ、あれだよね。栄養失調とか空腹、疲労、疲れとマラリアでね、動けない人はもう置き去りにしてね。まぁ、どうしようもないけども。もう連絡はとれねぇからね。まず、ひどいもんだったです。

Q:白骨のご遺体って、なんかこう、ジャングルの中とかに点々とあるのですか。

岩陰とか木の根っことかね。ほとんどもう海岸は、山だからね。カスピエ岬の所はまぁ少し砂浜でね、海岸だった。で、そこへ出たところをやられたもんだから。

Q:その最初、ソロンからマノクワリに向かって出たときは、通信隊とかお仲間は40~50人とおっしゃってましたっけ、最後に大発に乗ったのは。

うん、通信隊はわたし以下5名でね。で、ソロンに帰ったのは3人きりな。で、ほかの2人もソロンで亡くなってね。

Q:じゃあ、1人しか5人のうち生き残って戻らなかったんですか。

うん。

Q:それからはソロンで?

うん、わたしもソロンに帰ってから2週間ばかり入院、野戦病院に入院して。いくぶん回復したんで、通信隊の宿舎へ帰ってね、まぁ、農耕をしたりいろいろやったわけです。で、20~30人いた連中が半分ぐらいになっちゃって、みんなマラリアとかっけで亡くなって。で、最後は十幾人になっちゃった。

ほんとうに着の身着のままでね。

Q:ご遺骨なんていうのも、持って帰れなかったんですか。

まぁ、戦没者のお骨はほとんど親指か小指ぐらい、夜になって焼いて。木の小さい箱へ入れてね。それまとめて持ってきちゃったのもある。まず、話にならない状態だったですね。だから、戦没者で満足に遺骨の帰ってきた人はおそらくいないと思います。

Q:彦久保さんは、通信隊にずっとソロンでもいたわけですか。

ええ、そうです。

Q:通信隊の仕事というのは何かありましたですか。

何ですか?

Q:通信隊としてその通信をするような。

いや、もう通信機材は何もなくてね、連絡の方法はなかったですね。

もう機械も何もなくてね。ただ書類を持っていっただけで、残留部隊としてただ残っただけでね、何もなかったですね。

Q:彦久保さんは、ニューギニアでこう、敵と戦ったということはあったんですか。敵と戦ったということは、鉄砲を撃って。

あ、そういうことは全然ないです。

Q:鉄砲の弾は一発も撃たなかった。

あ、全然。

Q:日本に帰ってからというのは、いかがでしたかね。その戦争の体験が影響したことなんかはありますか。

この吉田町でも、221部隊には十何人いたんだけどもね。まぁ、引きあげて残った人はわたしとカトウさんだけ2人だけで、あとはみんな亡くなっちゃって。なんとしても気の毒で。亡くなったうちの人たちに顔向けできないような次第で、変な気持ちだったですね。

出来事の背景出来事の背景

【西部ニューギニア 見捨てられた戦場 ~千葉県・佐倉歩兵第221連隊~】

出来事の背景 写真昭和18年(1943年)、9月、日本は戦況の悪化にともない、絶対国防圏を設定し、西部ニューギニアがその要衝の一角に組み込まれた。重要な飛行場を有するビアク島防衛のため、第35師団歩兵第221連隊が派遣された。しかし、米軍に阻まれ、昭和19年5月、主力は西部ニューギニアのマノクワリに、その他の部隊はソロンに上陸した。その後、ビアク島に上陸した一部の部隊は米軍の攻撃で全滅した。マノクワリとソロンに上陸した部隊は、その後、上級司令部の指揮命令系統の崩壊によって、高温多湿と泥濘のジャングルを長距離にわたって行軍させられ、補給もないまま、飢えと病で多くの兵士が倒れていった。

また、ゲリラとなった現地住民の襲撃にも苦しめられた。

昭和20年1月になると、主戦場はフィリピンに移り、見捨てられた221連隊は、ジャングルに孤立させられた。ときには日本軍同士で食料を奪い合う事態も発生。加えて、マラリアが兵士たちの命を奪った。
終戦後、現地で10か月にわたり自給自足の生活を余儀なくされ、連合軍の監視下、日本に生還できた兵士は3300人、わずか1割にすぎなかった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1922年
埼玉県秩父郡に生まれる
1942年
現役兵として東部第8部隊に入隊、歩兵第221連隊に配属
1944年
西部ニューギニアの作戦に参加
1945年
西部ニューギニアのソロンで終戦を迎える
1946年
復員後は、吉田町役場勤務を経て、町議会議員などを務める

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ニューギニア (ソロン、マノクワリ)

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