ホーム » 証言 » 村田 登さん

証言証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る証言一覧

タイトルタイトル: 「長距離行で壊滅した司令部」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 西部ニューギニア 見捨てられた戦場 ~千葉県・佐倉歩兵第221連隊~
名前名前: 村田 登さん(千葉県佐倉・歩兵第221連隊 戦地戦地: ニューギニア (ソロン、マノクワリ)  収録年月日収録年月日: 2007年7月2日

チャプター

[1]1 チャプター1 中国戦線から南方へ  02:32
[2]2 チャプター2 ニューギニア・マノクワリへ  01:54
[3]3 チャプター3 死地へ送り出す  03:28
[4]4 チャプター4 戦場で「自活」  01:06
[5]5 チャプター5 生き残るために  03:09
[6]6 チャプター6 マラリアで正気を失う  03:39
[7]7 チャプター7 弔う体力も失う  03:10
[8]8 チャプター8 死ぬために行ったのか  03:32
[9]9 チャプター9 襲撃  04:39
[10]10 チャプター10 捕りょ生活  01:58
[11]11 チャプター11 米軍から知らされた敗戦  01:35
[12]12 チャプター12 ニューギニア戦とは何だったのか  04:06

チャプター

1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12

再生テキスト再生テキスト

ちょうどわたしと兵団師団長は、父島から飛行機でパラオへ行ったんです。その時にパラオまで行こうと思って、部隊は全部パラオへ向かったんですが。やはりパラオはあの当時全部荷物をやられちゃっでですね、行っても何もないわけです。それで、そういう南方の大本営からの命令で、第12軍の管轄下で第35師団は入ってたです。

それで、師団長とわたしと参謀長と当番ぐらいは、「すぐ、ニューギニアへ行け」ということで。第12軍から命令で師団長と幕僚だけですね。参謀長とわたしと当番と師団長と、まあ4人か5人ですね。それだけおったんです。それでニューギニアに行ったんですから。その時にどこ行ったっていったら、マノクワリに行った。マノクワリに誰がいましたか、ちったら阿南惟幾(あなみこれちか・ポツダム宣言受諾時の陸軍大臣、終戦時に自決)さんがいたんで。大将。

その第12軍の指揮下に35師団は入りなさい、ということで。35師団に帰って、すぐに報告に師団長とわたしと阿南さんの所に軍司令部へ行って、「今、到着しました」。そしたら師団長は、「35師団はここにいてもあれだから。食糧はなし、もうだいぶないから、軍司令部はイドレ、南のほうに下がった、鯉部隊のいた第5師団の鯉部隊の所に行きなさい。行くから35師団はマノクワリからソロンに行け」という。12軍から、12軍の大本営からそういうあれをもらって、35師団に命令したわけよ。

そして5月の6日、1944年(注:昭和19年)の5月6日にマノクワリにおりたんですね。それですぐに軍司令部の阿南さんの所に申告に行きました。その時わたしもついていきましたけども、たばこをこんなパイプでのんでましたからね。そしたらそのあとに、阿南さんは内務大臣(陸軍大臣)になったんですか、すぐ帰ってあれしましたね。

Q:マノクワリに最初は、マノクワリに行きますよね。その時は35師団の役目というんですかね。35師団の役割というか目的というか、これは?

あぁ、35師団は最初はマノクワリ付近を警備する、サマテ、ああいうところをよる予定だったんですが、12軍の阿南さんの命令で、「35師団はここに長くいても食糧はないし、こっちのソロンのほうがいけなくて、ガダルカナルや何やら南方に行けなくて待っている人が駐留しているのがいるから、そこに行きなさい」というので、12軍から師団長は35師団長の池田浚吉(いけだしゅんきち)は命令を受けたわけですからそれで波乱になったんですね。それで最初申し上げたように、「軍司令部は南下して鯉部隊のイドレに行くぞ」というので、ものすごいことですね。

そしたら師団長ね、「着いてご苦労だけれども、すぐビアクがこういった状態だし、ヌンホル(島)も危ないから」ヌンホルっていったらビアクがこっちにあるのすぐそばに。ヌンホルに行ってビアクに行く。ですから、ビアクに行ったってもう、その激戦で行けないんですね。

それで、清水大佐(219連隊連隊長)は着いて船でようやく来たんですが。清水大佐はそれで来てですね、申告して「今到着しました」と。来るまでの間の状態聞いたら、大発に乗ったり、パプアの船に乗ったりして、もうここから半身はビショビショでしたね。それでね、食べてるもの食べてないんですよ。

そこでわたしね、ほんとにかわいそうだったのは、連隊長にごはんでも炊いて食べさせてあげたかった。師団長がね、お願いして裾分(すそわけ)してもらって。だけど師団長は、「すぐ行け」無情なもの、こんなものかなと軍隊、思いました。今着いて、ようやく生きるか死ぬかで着いたのに、「すぐ行け、ビアクはこんな状態だ」というので戦況を話したもんですから、清水大佐はすぐ行く気になっていたんですね。

その時当番が、自分のおにぎりを持ってきてですね、清水大佐にやったら、涙こぼしてね、「ありがとう」ってね。「村田副官、ありがとう」ってね。あの時の思いがまだ、思い出を。かわいそうだったなぁと思いますね。大佐(清水季貞219連隊連隊長)のね状態、まだぬれた格好で着いたばかりだのに。もうちょっと休ましてから行かしたらいいんでねぇか、どうせ死ぬんであれば、と思ってね。わたしがこっちで黙っていましたがね。それだけ思いがほんとします。かわいそうだったですねぇ、それだけは。

みんなね、満足な兵隊の編成じゃないです。もう支離滅裂ですから。だいたい潜水艦に乗って爆弾受けて大やけどしょ。船も鉄砲持ってたんですけど、鉄砲持って乗ったら海軍の巡洋艦の将校が、「そんなの持ってないで、投げなさい」と。「投げないと乗せない」と。「ひとりでも多く兵隊を救わなきゃならんから。鉄砲なんてリュックサック、背負ってるもの投げろ」と。それで、「ひとりでも多くを巡洋艦に乗せて救助をする」というような状態。壊滅の状態でした。だからもう「『鉄砲なんていうのは死ぬまで離さない』って訓練を受けたわれわれの兵隊の信念はどこに行ったか」というぐらいの観念ですけど。ひとりでも多く乗せなきゃならんという、そういう現状はそうですからね。本当にかわいそうだったと思います。

食糧が5年分ぐらいあるんですよ、糧秣廠(りょうまつしょう)って。あるけれどもね、さっき言ったように軍司令官から命令で、「とにかく蓄えておかんかったらいつどうなるかわからない」というようなことだったもんですから、手をつけられないんだ。そのかわりサツマイモがいっぱい、葉っぱがなればいつでもね、3か月でできるからね。サツマイモをね、食べてました。

ですからもう、兵隊もやっぱり苦労すればいろんなことやるんですね。石焼き芋にしてみたり、あるいはつぶしてようかんに作って食ってみたり、落花生にサゴ椰子澱粉(サゴヤシデンプン)を入れてそして食事にしてやってましたからね。飢饉(ききん)って、食わないで飢饉っていうことでない、それ食べてりゃ飢饉はなかったと思います。だけど米だけはだめです。

敵の飛行機から逃れるのと、食べものに集中するぐらいで、なんもないんじゃないんじゃないんですかねぇ。ないようですよ。とにかくひまあれば山の中へ入って、鳥とか野草ですよね。川に行けばワニやらなにやら、ヘビやらつかまえてっていう。海は海で。誰も、手りゅう弾持って小舟で行って、バンと手りゅう弾投げて、浮いてきた魚をとって持ってくる、と。そういう各。小海ったって広いですからね。それぞれの小部隊で生きながらえる方法を、それぞれ工夫してやってたと思います。

「米でもあればね」という。「食べたいな」ということ。なんだかんだ。笑えて死ぬ人は「晩飯の温かいの食べたいなぁ」死ぬ前にみんな声は聞きますねぇ。兵舎にいて異口同音に兵隊はみな、そう言ってますよ。やっぱり人間、食うものだけですね。それが毎日サツマイモばかりで栄養のとられない、サゴヤシ、サゴデンプン、そういったものだけしか食べられませんし、もっともないんですから、ね。

Q:補給ももう入ってこない状態だった?

補給はあったけどみんなで食べられるだけは、ソロンとかなんとかにみんな行ってしまうのね。あっても積んだやつ全部やられちゃう。とにかく2千人も3千人も乗っていた船が例えばアルゼンチン丸とか、サンヨウ丸とか、ああいう船に乗ってきた人がバカーンて何年分の食糧を全部です。沈んじゃうでしょう。大砲もないし。そういった状況ですから、あれでないんでしょうかね。死ぬのは目に見えてわかっていますよね。

だから、わたしはヘビやらネズミやらトリやらなんやら、皆食べていました。幸いわたしは副官。そばに師団長のそばにいたから、余った分食べさせていただいていたから、割合にそういう苦労はしませんでしたけども。ほかの部隊は皆、飢餓でしょうね。サツマばかりでは。石いもにしたりようかんにしたり。サツマイモでね、いろんな工夫して食べていましたからね。

マラリアはひどいですよ。悪性熱帯マラリアの産地ですから、ニューギニアは。他のほうで、マラリアもありますよ。だけど普通の軽いマラリアであって、ニューギニアにやられたところなんか悪性マラリアですから42度ぐらいもあるのね。だから頭が変になっちゃっている、ばかみたいになってるのもおりました。脳がおかしくなって。

だから今になって考えたら「どうして日本はこんなところまでに。食べ物はないし、不便なところにやったのかな」と。寝るところにしても、そういう湿地帯ばかりでしょう。山の、海の方に常駐したらみんな細い道で、階段あった道で。それしかつくろうったってつくれられないの。陣地はつくるけど道路もつくる余裕はないですね。体が弱って。

軍医さん「軍人、お前、薬ある」キニーネっていう。それもらって飲んだら、3日飲んだら治りましたね。それで毎日死ぬんですね、兵舎内。兵舎はね、1~2メートル高い上なんです。ベッドなんだ。ベッドはヤシの木で全部並べて、そして間には葉っぱを置いて、平らにして寝てましたけどね。いやぁ、兵隊はみんなかわいそうでしたね。ヤシの葉っぱの中でね、そういう痛いでしょ。熱は40度、3日も続く。それでね、毎日ほんと。うそでない。なんか本に書いてあるように、うそじゃありません。毎日何人ずつどやどやと死んでいくんですね。ただ、これも言っておきたいのは、死んだ人は兵隊はね、「天皇陛下万歳」というのは、悪いけどもいなかったです。みんな「お母さん」「おっかあ」ってね。声だけ出して死んでいくのを見たですね。かわいそうだったです。兵舎まわってみてもね。

いちばん悔しいのはとにかく、食べ物がなくてマラリアになって死んでいく兵隊さんが、いちばんかわいそうだったという。いわゆる故郷の遠い故郷のね、国に、両親親族の名前を言って必ず死んでいくという。「天皇陛下万歳」ってあまりいないんだよ。情けないかな。本当になかったですね。みんな家族の名前呼んだり、母親の名前を呼んだりして死んでいくのはいちばん切なかったですね。

それももう、各部隊まわって歩くのもつらかったです。もう患者ばっかりで熱が出るから寒いでしょう?震えがもう、ヤシの葉っぱを掛けたりなんかしてね、保温代わりにしてましたがね。そんなになると本当にかわいそうだったですね。


それももう、各部隊まわって歩くのもつらかったです。もう患者ばっかりで熱が出るから寒いでしょう?震えがもう、ヤシの葉っぱを掛けたりなんかしてね、保温代わりにしてましたがね。そんなになると本当にかわいそうだったですね。

それで、われわれももう、死んだ人でも今度は、そこに置かれないから、ヤシの中に埋めなきゃなんない。運べないんですよ、毎日多いから。1中隊に5人か10人しかいないのに、それ3人も死んでいくから。引っ張っていくっても、引っ張っていかれないですね。

それでね、どんどんその辺埋めちゃう。埋めざるをえないんですよ。もう関係ないんだ、自分もマラリアだから。それでお互いに、かわいそうだけど『見て見ぬふり』の状態でした。それは現実としてかわいそうだなと思った。それで、食べ物も食べさせてないでやる、ということですね。毎日死ぬから、ロープで引っ張ってそれで埋めたりで、それで50センチぐらいの深さにして。深く掘る力もないからしかたない。それで埋めていくんですね。

それで焼いたものは、最初は焼いていたんですよ。焼いたって煙出ちゃってね。飛行機でジャンジャンジャンジャン。その木に当たり、何キロと焼け野原です。それで焼け野原になったらそりゃ、わたしとしては師団副官として、「何か設備を、師団長」言われたんで、これを陸軍墓地をつくろうとわたしは思って。これから焼く死体を全部、もろ焼きしないで、ここから切らしたんです。わたし師団命令で親指だけ。これだけを缶詰の缶の中に入れて焼いて骨にして、これ1寸四方の木箱つくらしておいて。ヤシのこんなのを切ってね。その中に入れて遺骨箱にしまして、このようにしなさいと。暁団地の墓地はこれだと。ニイミ団地はこっちだと、いう墓地をつくって埋めさせました。なるべく遠く、引っ張る力ないから、そばにやれるようにして。

焼く時には親指だけをとって缶詰の缶に入れて、煙が出るから飛行機にやられるから、この沿道をつくると。いや、溝、溝に葉っぱを置いて、こっちから50メーターぐらい出れば煙なくなっちゃって何も見えないのよ。だからやられなかったから、わたしの命令としては師団長にお伺いたててそれだけのものつくって、墓地をつくっておいてきました。今でも行けばありますでしょう。暁墓地とかマノクワリ墓地とかね。いろんなしました。いろんなことでね。

わたしだけ助かったの、参謀長、わたし。師団長とわたし。4人か5人です。あとはみんな歩いたから、師団司令部350名が全部歩いたから悪い。途中全部飢えで、食べないで。あるいは疲労と、あれでね、マラリアで途中で倒れてしまうと。割合楽な海岸ぷちを歩いていたら、海のほうから銃撃を食っていると。すーっとふねで来て、ババババと撃ってくるとクルッと帰っちゃうよ。どうなるって、こっちはふねはないし、テコギ(手漕ぎ)じゃないし、大発みたいなやつをピュッと引っ張ったら、油はないし、補給はつかないから、あてにはできなかったでしょう。それだけ苦労する。苦労しに、死にに行くという状態の戦争ですよね。

ですからもう、切歯扼腕(せっしやくわん)っていう言葉があるとおり、ほんとに情けない死に方だったと思いますね。来る時には武装してちゃんと来たけれども、三池とか、アルゼンチン丸とか、ヨウコウ丸とかあった船に何千名とおったでしょう。それみんなフィリピンの沖とか台湾沖とか、爆弾、潜水艦にやられた。そのうちみんな100名か200名しか残っていないんです。

Q:ソロンにたどり着いた人は何人ぐらいいたんですか?

だいたいね、三百六十何名の師団司令部の徒歩で歩いたのは、最初はね、行ったのはだいたい工兵やらいろんな混ざっていったんですから。軍医部、獣医部、輜重部(しちょうぶ)、騎兵、兵器勤務隊、野戦病院など入れてあれですからね。だいたいあれですね、330名から350名の1割か2割じゃないでしょうか。それ2か月か3か月後ですよ、ようやく着いたの。

地下足袋はもうボロボロになっていましたし、巻脚絆(まききゃはん)なんかは、片っぽは巻脚絆してるけど片っぽは巻脚絆してないよ。かわく暇ないんじゃないですか。そういった状況から見て、よくわかりました。どんなに苦労したのかな、と思って。海岸歩けば艦砲射撃で来る。山に登って敷地で歩けば毒矢で、パプア人に毒矢でやられてしまう。ほんとにかわいそうだね。死にに行ってみたんじゃないですか。

今は、少しでも日本を、郷土を守るためにもわれわれは先に来たんだ、というような信念がありますけども。そういったことでね。日本は、その時、日本はどうなっているかこっちはわからないです。爆弾落とされてるんだか何をされているかさっぱりわかりません。

みんなもう、こんなにひどいとは思わなかったらしいんでしょう。ヤシのあれやらですね、蔦(つた)があって進まないんです。海岸ぶちばっかりしか歩かないの。海岸ぶちを歩くもんですから、海上にいるアメリカから見ればわかるわけですね。それで、土人は山からジャングルの中通って、わたしたちも攻められる。夜だけしか行軍できなくて、あれしたんです。

師団、高級副官はそういうことで歩いたもんですから。途中で泥沼へ入っちゃった。そこを毒矢でパプア人にやられましてね。それを見た兵隊がわたしの当番兵で、アオウメケンジ。まだ覚えてますけど、厚木にいた。アオウメケンジが話してくれたんで。「助けにいくったって行けないし、おれも行けないから」って。高級副官やら部長級みたいのが5~6名そこでやられたんだ。

それでああいう状態になって、憐れ(あわれ)な、ほんとに戦闘であるしき戦闘でなくて、やられてしまっていったんですね。だから、夜だけしかこの海岸ぷちを、道がいいのは海岸ぷちだけですから、夜だけしか行軍できなかったんです。

食糧は3日分しかなかったからいつの間にかなくなっちゃって。食糧どころの騒ぎでない。みんな。そんなもんで重たいから投げて、「なんとかなるだろう」というようなことだったんですね。そういう状態で飢饉(ききん)。飢饉になって食べないで歩いていったと。

結局ですね、アメリカあたりからが。そういったんで。「ヤンキーをやっつけろ」ということになってますからね。だから、そのようにしたんでないんでしょうか。しかし戦争意識はなかったと思うんですよ。日本も軍も最初から土人を見つけて殺すというようなことじゃない作戦になったり、居住して防御したらいいと思ってるだけですからね。ただこっちから行った場合に、危害を加えられることもあったかとも思うんですよ。危害を加えられることを。それで土人はそういったことになって、蕃刀やら弓矢、毒矢やら用意したんじゃないんでしょうか。

だから、海岸ふちへ行けば必ず日本軍がいるということに先入観になっちゃっているのね。

それはヤシとかなんかで、タロイモとかそういうのを日本の畑でトウキビとかそういったものがあると同じように。サゴヤシとか、タロイモとか、ヤシの実とか、あるいは果物でいえばマンゴーとか、そういったバナナとかいうので、自分のやっぱり作物ですよね。それをとられてしまうって。やっぱり荒らされるから、そういうことになるんでないでしょうか。

迷惑もこうむるもなんも、自分たちの食料持っていかれちゃって。それはそうでしょう、何千名という人の兵隊ですからね。なかったってなくなっちゃうよ、すぐ。日本軍がもう山の中へ入って、そういったものを見つけてくるから。先から食べ物のいいのがあったら全部自分たちのものにするために、山菜班だね、そういう部隊が集めてくる。そして収集班のところに置いておく、というようなことですから、そうなるんじゃないでしょうか。自然に敵対心も持ってきますよ。別にね、土人の女も男もなんのために何人いるかわかりません。しかし何かひと声かかって何かあると、すぐ何百人と集まりますね。それが負けた時によくわかりました。

いわゆる兵舎を建てろという。「お前らは日本は負けたんだから、土人の兵舎をつくれ」と。「こういう兵舎だ」と。それで毎日何百名ずつ出さされた。ソビエトと同じさ。そしてね、いろんなものをつくらせたりしてたんです。まず道路をつくらされたんですね。道なき道を土人たちはやってたんですけど、それが痛いからっていうの、日本軍に全部使役出して。使役ったら作業員です。出して働かせる。それは豪州軍の命令で。パプアの宰領から豪州軍に言って、豪州軍からそういう命令をもらいに行くのに「今日・明日・明日は日本軍はこの道路をつくるために何十名、このぐらい出しなさい」というようなことです。

憲兵隊は別だと思う。憲兵隊は毎日10名以上出すと。そして家屋をつくると。そのかわり罰として、毎日スコップで尻っぺたを何回かたたいて、帰る時もまたたたいて。それを憲兵隊、当たり前。日本の憲兵は非常に憎まれていましたね。それだけは言えます。かわいそうだったと思いますね。憲兵が悪いんでなくて、そういう職務でやってたんだからね。それは大本営あたりのこうだっていったらわかってないかね。

だいたいね、終戦の時にね、アメリカの飛行機が知らせてくれたんです。これはね、無線がね湿気で、師団無線きかないんです。だから2日後に終戦わかったんですよ。そして何のために飛行機低空でね、アメリカの飛行機がP15(P51)がクルクルクルクルまわってるの、何のためにこれはわれわれ見てるかと思ったら、そうじゃない。もうビラまいて、「日本は降伏したから早く出てこい」「何もしないから出てこい」「来なさい」というようなことでいろんなあれですよ、旗やなんかをこうしてね、持ってましたね。

「もうお前ら負けたんだから」と。そこで閉戦。機具の処理です。いわゆる鉄砲、地雷、あるいは手りゅう弾あたりはどこへ埋めろ、という指示をされたわけです。甲板上へあがって。30メートルぐらいあるのかね、ここへのぼっていってね。その時はまだ、軍刀してましたから。それであとは、軍刀とか鉄砲、拳銃とか、いろんなものをどうにかせい、という指示を受けたわけです。

そういったことでね、無残な戦争、何のためにしてるかわかんなかったです。これが戦争かと思いました。いわゆる死ぬのわかってて、何も食べないでいく。

少しでも、あとからわかったのは、「少しでも本土へ行くのを遅くして、日本の部隊、日本人をあれしなきゃならんのだな」と、こんなことを思い出しましたね、それが戦争かなぁと。

将校にしたって計り知れないところですけれども、「大本営は何を考えているの。井戸で机の中の鉛筆だけでまわしているのかな」というように思いました。こんなところへ来て見てないから。とにかく将棋盤、碁盤の上の駒をポンと置く、投げるぐらいなような格好で作戦やったんでないですかね。それは概念はわかっていると思います。作戦の概要は。だけど真に実際現地に来てみたらなんもない、というような状態が、これは誰でも。いちいち参謀が見たわけでないからわかんないんでないでしょうか。われわれも行って初めてわかったようなもんでね。

どうしてあんなところへ参謀部はやっとるか。結局、日本を侵攻してるという、少しでも前のほうで、アメリカ側のほうで止めたいな、という一念だけだと思います。防波堤みたいにね、こられないように。

大本営ももう少し慎重にあれだったと思いますね、情報のね獲得がまずかったんじゃないかと思います。

とにかくむちゃくちゃですね。わたし今から考えるともう、大本営に申し訳ないけれども、何を考えてやってたんだろうかなぁと思った。むちゃですよ。


だけどももうひとつは、今、考えてりゃ、靖国神社にまつられることを本当に光栄と思って死んでいった兵隊がかわいそうでならないです。

靖国神社へ行ける。桜の下で死ねる。これはいいなって。熱の40度のところからうなって死んでいく兵隊を見ればね、今なお、脳裏に浮かんできます。あの時のやつはかわいそうだったな、と思いますね。それだけです、寝ても覚めても。何か心の鼓動が生きている人に言っておきたいなと思いますな。小さい子どもにも、「戦争ってこういうもんだ」というのは、「こんな無残なことするんだ」と。「人間を人間として扱っていないんだから」と。扱ったらこんなことないでしょう。ね?地雷の、戦車の下にきても、今だったら交通事故でトラックの後輪にひかれて死んだっていうことはあるけども、戦争はそうじゃない。むちゃくちゃですよね。みんな戦車に下にぺったり。本当よ。ぺちゃんこになっちゃうのね。あれは見てても悪かったらプツンとする。そういうふうにやられてしまう。戦争ならばこそじゃないでしょうかね。

出来事の背景出来事の背景

【西部ニューギニア 見捨てられた戦場 ~千葉県・佐倉歩兵第221連隊~】

出来事の背景 写真昭和18年(1943年)、9月、日本は戦況の悪化にともない、絶対国防圏を設定し、西部ニューギニアがその要衝の一角に組み込まれた。重要な飛行場を有するビアク島防衛のため、第35師団歩兵第221連隊が派遣された。しかし、米軍に阻まれ、昭和19年5月、主力は西部ニューギニアのマノクワリに、その他の部隊はソロンに上陸した。その後、ビアク島に上陸した一部の部隊は米軍の攻撃で全滅した。マノクワリとソロンに上陸した部隊は、その後、上級司令部の指揮命令系統の崩壊によって、高温多湿と泥濘のジャングルを長距離にわたって行軍させられ、補給もないまま、飢えと病で多くの兵士が倒れていった。

また、ゲリラとなった現地住民の襲撃にも苦しめられた。

昭和20年1月になると、主戦場はフィリピンに移り、見捨てられた221連隊は、ジャングルに孤立させられた。ときには日本軍同士で食料を奪い合う事態も発生。加えて、マラリアが兵士たちの命を奪った。
終戦後、現地で10か月にわたり自給自足の生活を余儀なくされ、連合軍の監視下、日本に生還できた兵士は3300人、わずか1割にすぎなかった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1917年
北海道旭川市に生まれる
1937年
旭川歩兵第28連隊に入隊、歩兵第221連隊が所属した第35師団にて師団副官を務める
1944年
西部ニューギニアの作戦に参加
1945年
西部ニューギニアのソロンで終戦を迎える、復員後は会社設立

関連する地図関連する地図

ニューギニア (ソロン、マノクワリ)

地図から検索

NHKサイトを離れます